3.
起源
『ロイヒター報告』の発表以前には、民族社会主義者の大量殺戮に関する目撃証言の信憑性について議論していたのは、「修正主義者」と称するグループに限られていた。メディアは彼らのことを「ネオ・ナチ」とか「右翼過激派」と呼んでいた。しかし実際には、次の4名の著名な修正主義者の例が示しているように、メディアのレッテル貼りは的外れである。ポール・ラッシニエは、フランスの社会主義者で、レジスタンスのメンバーであり、ブッヘンヴァルトとドラの強制収容所に収容されていた経験を持っている。[30] ドイツ系ユダヤ人のヨーゼフ・ギンスブルクは、第二次大戦中に、ドイツやその他の国々から、反ユダヤ人的措置を受け、これに苦しんだ。[31] 二人の著名な修正主義者、合衆国のアーサー・バッツ教授[32]とフランスのロベール・フォーリソン元教授を政治的過激派として非難することはできないし、あえてそうする人もいないであろう。[33]
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図8:ロベール・フォーリソン教授博士 |
民族社会主義者によるユダヤ人大量殺戮についての技術的問題に関する議論を始めたのは、1970年代末、当時、リヨン第二大学のフランス語、ギリシア語、ラテン語の教授であり、資料、テキスト、目撃証言の分析家であったロベール・フォーリソンであった。彼は、大量殺戮を立証しているといわれる目撃証言や文書資料を数多く検証したのちに、ホロコースト正史に疑問を呈し始めた。1978年、はじめて、彼は、「アドルフ・ヒトラーのもとでは一つのガス室も存在しなかった」という説を提唱した。[34] その後、彼は、多くの物理的、化学的、地形学的、建築学的、文献学的、歴史学的議論を使って自説を補強していった。彼は殺人ガス室の存在を「基本的に不可能なこと」とした。[35] 1978年末、フランス最大の日刊紙『ル・モンド』はフォーリソンの刺激的な説を掲載する決定を下し、それを記事にまとめる機会を彼に与えた。[36] 定説派の歴史家たちの反応は特徴的であり[37] 、その特徴は、ピエール・ヴィダル・ナケその他33名の研究者の署名した声明の一節に現れている。[38]
「このような大量殺戮が、どのようにして技術的に可能であったのか問うべきではない。それは、起こったがゆえに技術的に可能であったのである。これが、このテーマに関するあらゆる歴史研究にとっての欠くべからざる出発点である。この真理を簡明かつ単純に述べることがわれわれの義務である。ガス室の実在に関する論争は存在しないし、存在し得ない。」
このようなドグマ的な説明は降服に等しいし、彼らはそのことをよく知っていた。だから、彼らは自分たちの立脚点を考え直して、製図板に戻っていった。
その後何年にもわたって、定説派の歴史家たちは、少なくともある程度までは、フォーリソンその他が提起した問題点を取り上げた。もっとも、彼らは、フォーリソンや、たとえ側面的ではあっても、同じような考え方に呼応する人々が学会に参加することを許さなかった。1980年代初期、二つの大きなホロコースト会議がパリ[39]とシュトゥットガルトで開かれた。[40] これらの会議が開かれた要因の一つは、フォーリソン、バッツその他の研究活動であった。[41]
1983年、修正主義者の成功に対する対抗措置として、おもにフランスとドイツの定説派の歴史家の研究を集めた論文集が刊行された。[42] この本は修正主義者を中傷・嘲笑し、政治的な非難を投げつけ、同時に修正主義者の主張に反駁しようとしていた。しかし、特定の修正主義者の見解や、修正主義者の著作、著者の名前もあげられていないために、読者は修正主義者に対する反論を検証しようがなかった。また、この本は、すでに修正主義者が指摘してきたあやまちを繰り返していた。すなわち、「目撃証言」や文書から、文脈を離れた引用が行なわれており、その引用はあらかじめ定められた歴史観に無批判的にあてはめられているのである。
1980年代末の『ロイヒター報告』の発表は、修正主義者に大きな刺激を与えた。それ以降、大量の出版物が登場した。[43] 「修正主義」にかかわる人々の数は、確実に増えていった。もっとも、フランスやドイツ語圏では、重罰を持って威嚇する法律がこの動きを押しとどめているが。[44]
『ロイヒター報告』は、技術的な論点についての事実にもとづく議論を明るみに出したが、フランスでは、それに対する反論はJour Juif誌上で薬剤師プレサックによって試みられた。[45] 彼の研究は、典拠や正確な科学的議論にまったく触れておらず、それを専門家の議論とみなすことはできない。たしかに、彼は『ロイヒター報告』のいくつかの欠点を指摘してはいるが、専門家としての資質を欠いているために、彼自身も、化学的問題、技術的問題でいくつかの誤りをおかしていた。[46]
ドイツでの最初の反応は、Institut für Zeitgeschichte (IfZ、現代史研究所)からであった。[47] それはプレサックの研究に依拠しており、同じく技術的な専門性を欠いているので、有益ではない。[48]
少し後に、『ロイヒター報告』についての論文が、第三帝国に関する論文集に登場した。その作者は、引退した社会労働者ヴェルナー・ヴェグナーであるが、彼も化学や民生技術についての資格をまったく欠いていた。[49] 彼は、この問題についての見識のある人々の助言を求める代わりに、自分独自の結論を引き出してしまい、いっそう大きな混乱を招くことになった。[50] ライナー・ツィテルマン博士はこれ以外の論文集では研究水準の高いものを研究してきているが、この論文集には、どうしてこのようなばかげた論文を収録してしまったのであろうか。[51]
1991年末、化学者のJ.バイラー博士が、オーストリアで出版された小冊子のなかで『ロイヒター報告』を批判した。[52] この著作は、アウシュヴィッツでのガス処刑に使われたとされる手順についての目撃証言をかなり無視しており、また、著者自身がシアン化水素と石材との反応過程について理解していない。バイラーは自分の研究に対する批判があるにもかかわらず[53]、そのあとの研究でも、それに答えようともしないで根拠のない批判を繰り返している。[54]
バイラーの最初の研究が登場したのとほぼ同じ頃、G.ウェラーズも『ロイヒター報告』についての研究を発表した。ウェラーズの見解は表面的であり、技術的・科学的知識を欠いている。[55]
最後に、アウシュヴィッツ国立博物館自身が、専門家報告の作成を指示した。ポーランドのクラクフにある、ヤン・ゼーン教授博士名称法医学研究所毒物学部が、1990年9月20日に、マルキエヴィチ教授博士の指導のもとでこの報告書を作成した。この報告書も石材のサンプルの分析を行なっていた。[56] この報告は、殺人ガス室から採取したロイヒターのサンプルが、シアン化合物の痕跡についてネガティブな結果を示したのは、シアン化合物が40年以上も風雨にさらされており、その化合物はそのような風雨に耐えることができなかったためであるという結論を下した。この報告書を作成したヤン・ゼーン研究所研究員のうちの3名は、のちに、追加の分析結果を発表したが[57]、それも、最初の分析と同じく、誤った分析方法にもとづいており、その結果も欠点を抱えていた。[58] 私はその作者たちと手紙を交換したが、誤った方法を意図的に使った理由を明らかにできなかった。[59]
1997年、フランスで、本報告のフランス語版が二つの大きな反応を呼び起こした。そのひとつは事実にもとづく議論を進めようとしていたが[60]、科学的な方法で技術的問題を検討していなかった。[61] フランス科学アカデミーの化学部は事実のもとづく議論についてのコメントを差し控え、論争的な文体と個人攻撃にうったえるというやり方を選択した。[62]
1998年、合衆国で、本報告に答えるかたちで、インターネット上に論文が掲載された。それは、一部は技術的問題に関する議論、一部は政治的中傷で構成されていた。[63] しかし、これと関連した往復書簡では[64] 、この論文の作者は中心的な問題についての議論をまったく避けようとした。[65]
1999年、文化史家ペルト教授は、イギリスの歴史家アーヴィングのアメリカの作家リップシュタットに対する名誉毀損裁判の弁護のために、アウシュヴィッツについての専門家報告を提出した。[66] この報告の議論の進め方は、1989年に刊行されたプレサックの最初の著作以前の段階にまで後退した。[67] そして、1989年以降に修正主義者が提起したすべての議論を無視していた。[68] しかし、2002年、ペルト教授は裁判に提出された証拠の要約とそれに対する彼の解釈を発表した。[69] 彼はおもにプレサックの研究に依拠していたので、英語で、修正主義者の議論を丹念に検証した初めての本であった。[70] 文化史家のペルト教授は化学的、毒物学的、技術的、建築学的な多くの問題に言及しようとはしているが、残念なことに、彼にはたんに専門性も経験もない。
上記の研究の大半は、『ロイヒター報告』を反駁しようとするものであったが、他の修正主義者との論争は、修正主義的な議論を展開する人物の動機に対する人格的な中傷と、行き過ぎるほどの反論によって汚されてしまった。どちらも学術討論には貢献しない。
組織的なユダヤ人の大量殺戮が、この絶滅を行なう目的で特別に建設された殺人ガス室のなかで、民族社会主義者体制のもとで行なわれたかどうかという問題は、明らかに政治的問題とみなされている。民族社会主義者体制の道徳的評価の如何が、ガス室の実在・非実在にかかっているかどうかには、論争がある。第三帝国の政治的評価は、この道徳的評価にかかっているわけではない。すでに昔に死に絶えた体制の道徳的評価も、政治的評価もこの論争には関係がないので、私も道徳的発言、政治的発言をするつもりはない。個人的には、私は政治家や政治制度を、それがおのおのの住民の背後に何を残すことができたかで判断している。つまり、結果責任である。それだけで十分である。
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図9:議論に我慢できない人々は暴力にうったえる。ユダヤ人暴力団に襲われたフォーリソン教授、1989年、9月16日。[71] |
修正主義者は民族社会主義を取り繕おうとしているのではないか、右翼的な政治制度が受けいれられる素地を復活させようとしているのではないか、民族主義の躍進を助けようとしているのではないかと疑っている人々に対して、私は次のように言いたい。
19世紀のドイツの歴史家ランケが述べているように、歴史研究を進めるにあたって、われわれの目標はいつでも、どのようにして歴史的出来事が生起したのか見出すことである。歴史家は、たとえば、ジンギスカンやモンゴル軍の犯罪を告発するために、研究すべきではないし、その悪行を取り繕うために研究すべきではない。ある歴史研究を、それはジンギスカンの犯罪を免罪しようとしていると批判する人物がいれば、その人自身の政治的動機が疑われるであろう。もし、疑われないとすれば、ジンギスカンについての歴史観を定めることができるのは、ジンギスカンの犠牲者と彼の敵だけになってしまうであろう。
同じ理屈がヒトラーと第三帝国にもあてはまる。修正主義者もその論敵にも、自分たちに政治思想を持つ権利がある。修正主義者が関心を抱いているのは民族社会主義の免罪である、それは非難されるべきであり、犯罪ですらあるとの告発は、自分たちにはねかえってくる。この告発は、民族社会主義を歴史的に免罪する、ひいては道徳的の免罪するのはまったく受け入れがたいということを意味している。しかし、事実のもとづいた免罪を受け入れがたいと宣言することで、この人物は、審理の探求ではなく、民族社会主義を歴史的道徳的にどうしても断罪することだけに関心を持っていることを、おおやけに認めていることになる。そして、この動機はすぐれて政治的なものである。それゆえ、修正主義者は自分たちの研究を政治目的のために利用していると非難する人々は、彼ら自身がまさにこの罪で有罪なのである。もちろん、ごく少数ではあるが、政治的目的を抱いている修正主義者も存在する。しかし、問題であるのは、こうした修正主義者ではなく、すでに昔に死に絶えた政治体制を何らかのかたちで免罪しようとしているとして他の人々を告発している人物なのである。
したがって、われわれの研究は、われわれの研究成果が過去の政治家や体制の道徳的「選別」にどのような効果を持つかにではなく、ただ事実のみに関心を持たなくてはならない。
注
4つのもっとも重要な研究、Die
Lüge des Odysseus, K.-H. Priester, |
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彼のもっとも重要な研究Schuld und Schicksal, Damm-Verlag, Munich
1962 (online: www.vho.org/D/sus); Sündenböcke, Verlag G.
Fischer, |
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The
Hoax of the Twentieth Century, Institute for Historical Review, Newport Beach,
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(online: www.vho.org/GB/Books/thottc); "Context
and perspective in the 'Holocaust' controversy", JHR, 3(4)
(1982), pp. 371-405. (online:
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|
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historique ou vérité politique?; La Vielle Taupe, Paris 1980 (online:
abbc.com/aaargh/fran/histo/SF1.html); R. Faurisson,
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4 vols., published by author, |
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注33にある研究の議論に付け加えて、R.
Faurisson, "Es gab keine
Gaskammern", Deutscher
Arbeitskreis Witten, Witten 1978を参照. |
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R.
Faurisson, "Le camere
a gas non sono mai esistite", Storia
illustrata, 261 (1979), pp. 15-35 (online:
abbc.com/aaargh/fran/archFaur/RF7908xx2.html); Engl.: "The Gas
Chambers: Truth or Lie?" The Journal of Historical Review,
2(4) (1981), pp. 319-373 (online:
www.vho.org/GB/Journals/JHR/2/4/Faurisson319-373.html); cf. Faurisson, "The Mechanics of Gassing", JHR,
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Faurisson, "The Gas Chambers of Auschwitz
Appear to be Physically Inconceivable", ibid., 2(4) (1981),
pp. 311ff. (online: www.vho.org/GB/Journals/JHR/2/4/Faurisson312-317.html) |
|
"'Le
problème des chambres à gaz' ou
'la rumeur d'Auschwitz'",
Le Monde, Dec. 29, 1978, p. 8; see also "The 'problem of the
gas chambers'", JHR, 1(2) (1980), pp. 103-114 (online:
ihr.org/jhr/v01/v01p103_Faurisson.html). |
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R.
Faurisson, Mémoire...,
op. cit. (note 33), pp. 71-101にある数多くの論文や書簡の資料を参照。 |
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Le
Monde, |
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「民族社会主義とユダヤ人」という題で1982年6月29日から7月2日までソルボンヌで開かれた。Ecole des hautes études en sciences
socials (ed.), L'Allemagne nazie et le génocide juif, Gallimard/Le Seuil, Paris 1985を参照。1987年12月11−13日、ソルボンヌで第二の会議が開かれた。R. Faurisson, Écrits révisionnistes, op. cit. (note 33), vol. 2,
pp. 733-750 (online: abbc.com/aaargh/fran/archFaur/RF871210.html)を参照。 |
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会議の記録は、Jäckel, E., J. Rohwer, Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg,
Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1985を参照。 |
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もっとも重要なものは、Wilhelm
Stäglich's Der
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Auschwitz Myth, Institute for Historical Review, Torrance, CA, 1986) およびユダヤ人人口統計についてのWalter
N. Sanningの論文と著作"Die europäischen
Juden. Eine technische Studie zur zahlenmäßigen Entwicklung im Zweiten Weltkrieg, Teil 1-4", DGG 28(1-4) (1980), pp. 12-15;
17-21; 17-21; 25-31; Sanning, Die Auflösung des osteuropäischen Judentums, Grabert, Tübingen 1983 (online: www.vho.org/D/DGG/Sanning28_1.html
and www.vho.org/D/da); 英語版:
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もっとも重要なものは、J.
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Resource Service Ltd., Delta, B.C., Canada 1992 (permanently updated and
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Burg, |
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Fabius-Gayssot法は、1990年にフランスで通過したが、それは、1946年に連合国が召集したニュルンベルク裁判で「確定」された民族社会主義者の戦争犯罪の「事実を否定」する者を処罰すると定めている。1993年には、オーストリアが(刑法3条)、1994年にはドイツ(刑法130条、新しい版)、1995年にはスイスが(刑法216条)、1996年には、スペインが同じような法律を公布した。1997年には、同じような法律がベルギーでも通過したが、まだ効力を持っていない。ポーランドも同じような法律を2000年に採用し、ハンガリーも導入を準備している。カナダとオーストリアは「人権委員会」を設立し、それは、法的な枠組みがないにもかかわらず、修正主義者を訴追している。 |
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J.-C.
Pressac, Jour J, |
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これについては、
W. Schuster, "Technische Unmöglichkeiten bei Pressac", DGG, 39(2) (1991), pp. 9-13
(online: vho.org./D/DGG/Schuster39_2); also Paul Grubach,
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to Jean-Claude Pressac's Critique", JHR,
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H.
Auerbach, Institut für Zeitgeschichte, letter to Bundesprüfstelle, |
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この点については、Henri
Roques, Günter Annthon, Der Fall Günter Deckert,
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W.
Wegner, "Keine Massenvergasungen
in |
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これについては、
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pp. 13-17 (online: www.vho.org/D/DGG/Haeberle39_2.html)を参照。 |
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私との個人的な会話の中で、彼は、その他の論文が「修正主義的」論調であるために、出版への反対を避けるために、この論文を入れざるをえなかったと告白した。 |
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Bailer, "Der Leuchter-Bericht
aus der Sicht eines Chemikers",
in: Amoklauf gegen
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des österreichischen Widerstandes,
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Vienna 1991, pp. 47-52. 人の毛髪のシアン化合物が残っていたかについては毛髪、ヘアピン、換気口の覆いのシアン化合物に関するExpert
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この論文の欠陥の詳細は"Das Rudolf Gutachten
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(codoh.com/thoughtcrimes/8909FAUR.HTML)を参照。 |