4. アウシュヴィッツの法医学的検証の歴史

4.1. 序文

1993年の晩春、シュトゥットガルトのマックス・プーランク研究所は、内部文書をその被雇用者に発して、アウシュヴィッツについての個人的研究を行なったがゆえに、博士候補すなわち本書の筆者は解雇されると伝えた。研究所は、ユダヤ人に対する民族社会主義者の犯罪の恐ろしさを考えると、犠牲者が殺された特殊な方法を議論したり、死者の正確な数を決定しようとすることは道徳的に不快なことであると説明した。世界でも有名な研究機関の一つが、正確な量を決定しようとすることが倫理に反するだけではなく、非難されることであり、解職理由となるとその従業員に述べたことは、まったくの皮肉な事態としかいいようがない。しかし、多くの人々は、この途方もない犯罪が法医学的分析という方法を介して丹念に検証されるべきかどうかという問題に深く関心を抱いている。以下は、この問題に回答し、アウシュヴィッツでの犯罪現場についての法医学的検証について概観しようとするものである。

4.2. 法医学的調査の道徳的義務

第二次世界大戦中に、ドイツの支配下にあった地域で、何名のユダヤ人が死亡したのであろうか。何年たっても、彼らがどのようにして死亡したのか苦痛に満ちて調査することは重要なのではないだろうか。たとえ犠牲者が一人であっても、それだけで十分であり、多くのユダヤ人が死亡したことを否定している人々はいない。

 しかし、こうしたことを肯定することは、人類史のなかで前代未聞の犯罪を科学的に調査することに対する、異論――道徳的もしくはそうではない――を唱えることではない。きわめて非難されるべき犯罪ですら、ほかの犯罪に標準的に適用できるような方法で調査しなくてはならない。すなわち、詳細な物的調査の対象とすることができるし、またそうしなくてはならない。さらに、犯罪とみなされている事件や実際の犯罪がユニークであると考えている人であれば、そのユニークさを事実と認める前に、犯罪を徹底的に調査しなくてはならないであろう。

 もしも、道徳的憤慨というタブーを作り出すことで、前代未聞とされる犯罪を、調査から守ろうとするならば、このタブーを作り出した人物は、少なくとも道徳的には、一つの罪を犯していることになる。すなわち、いかなる批判も弁護も超越した前代未聞の罪状を一つの民族全体、ドイツ民族に押しつけているのである。

「ホロコースト」(第三帝国による数百万のユダヤ人の意図的絶滅と定義されている)に対しては、どのような二重基準が適用されているのか明らかにするために、「人道に対する罪の」最近の事例に対する国際社会の反応をあげておこう。

1949年、南西フランスで裁判が始まった。それはニュルンベルク裁判と同じように、多くのフランス人の関心をひきつけた。Marie Besnard夫人が砒素を使って12名を殺害した罪で告発されていた。法廷では激しい論争が繰り広げられ、医学、化学、地理学、法医学の15名の専門家が、埋葬された犠牲者から発見された砒素の痕跡が毒に由来するものか、それとも、死体のなかで何らかの反応が起こったためであるのかを明らかにするために、幅広い分析と、長期にわたる実験を行なった。結局、15名(そのうちの8名は教授であり、何と一人のノーベル賞受賞者もいた)が12年にわたって研究・議論した結果、Besnard夫人は証拠不十分で無罪となった。 [72]

1991年のソ連が崩壊すると、数十万のソ連人犠牲者の大量埋葬地が数多く発見され、調査された。犠牲者の数だけではなく、多くの場合、死因も決定された。これらの大量埋葬地の多くが発見されたのと同じ地域で、百万以上のユダヤ人が特別行動部隊によって射殺されたといわれている。しかし、ソ連やその後継国家がこれらの地域を支配していた半世紀以上のあいだに、このような埋葬地が発見されたことも、まして、発掘・調査されたこともないのである。

1999年のコソヴォ紛争では、セルビア人による大量殺戮の噂が世界中に広まった。戦闘が終わると、国際的な法医学調査団がコソヴォにやってきて、大量埋葬地を探索・発掘し、法医学的な調査を行なった。これらの埋葬地は、アルバニア人が主張したよりも数少なかっただけではなく、いわれてきた犠牲者数の何分の1かであった。

 連合国は、戦時中か戦争直後に、ドイツの犠牲者となったといわれていた人々の大量埋葬地を発見・調査しようとしたのであろうか。知られている限りでは、カチンの一例だけである。しかし、ソ連の法医学調査団は、そこに埋葬されていた数千のポーランド軍将校の大量殺戮の責任をドイツに押しつけたが、今日では、その報告書は虚偽とみなされている。1943年にドイツが招請した国際法医学調査団は、ソ連が大量殺戮を行なったとの結論を下したが、今日では、ロシア政府でさえも、その報告書が正確であったと認めている。[73]

4.3. 法医学の定義

一般的に、法医学は犯罪学の補助学問とみなされている。その目的は、犯罪の物理的痕跡を集め、分類し、痕跡から、犠牲者、犯人、凶器、犯罪時刻、犯罪現場、犯罪がどのように行なわれたのかについて結論を下すことである。この学問は比較的新しく、イギリスの法廷ではじめて指紋が証拠として受け入れられた1902年に法廷に登場した。1998年のCD-ROM版のブリタニカ百科事典は、法医学について次のように記している。

「法執行機関は容疑者を識別したり、当該の容疑者と犯罪との関連性を疑問の余地なく確定しようとしているが、幅広い科学技術がこの機関に利用されている。血液や体液(精液や唾液)の分析によって、犯人の何らかの特徴が明らかとなる。繊維を顕微鏡で観察したり、化学的に分析することで、たとえば、犠牲者の身体や犯罪現場で発見された繊維が容疑者の衣服の繊維と同一のものかどうかを明らかにできる。毛髪のサンプルや、とくに毛根についた皮膚細胞は、科学的、遺伝学的に、それが容疑者のものかどうか検証できる。ガラス、紙、塗料などの多くの無生物物質も顕微鏡で観察したり、化学的な分析を加えれば、多くの情報を提供してくれる。当該の文書を分析して、それが使っている紙が、それが書かれたとされている時期には存在していなかった技術を使って製造されたことが明らかとなれば、この文書は偽造されたものと判断できる。ガラスの小片でさえも、屈折率を光学的に分析すれば、問題の品やガラスの断片が、特定の時期と場所で製造された一そろいのガラス製品の一部であることが明らかとなる。」

 したがって、法医学とはまさしく、フォーリソンにはじまる修正主義者が物的証拠の研究と呼んだものである。修正主義者はこのような物的証拠を求めているが、その考え方は、近代の法執行機関の正常なやり方とまったく一致しているのである。そして、広く認められているように、法医学的な証拠は、目撃証言や文書的証拠よりも信頼しうる。

アウシュヴィッツについては法医学的方法がほとんど適用されてこなかった。しかし、数少ない事例について、次の節で検討しておこう。

4.4. 法医学とアウシュヴィッツ

4.4.1.法廷での法医学

4.4.1.1. 1946年のクラクフでのアウシュヴィッツ裁判

1946年のクラクフでのアウシュヴィッツ裁判。1945年、ヤン・ゼーン法医学研究所(Instytut Ekspertyz Sadowych)は、アウシュヴィッツの法医学的調査報告を用意し、それは、1946年、ポーランドのクラクフでのアウシュヴィッツ裁判に証拠として提出された。[74] この専門家報告は用心して扱わなくてはならない。共産主義体制のもとでの法医学調査と裁判は信用できず、ポーランドは1945年には、スターリン主義的な衛星国家であったからである。カチン事件を指摘しておけば十分であろう。ポーランドの共産党政府はソ連報告を完全に認めていたのである。[73]

クラクフの法医学調査団は、おそらく囚人のもと思われる髪の毛と、アウシュヴィッツでソ連が発見したバッグからの髪の毛の留め金を採取した。シアン残余物の検査をした結果、髪の毛も留め金もポジティブであった。さらに、亜鉛メッキの金属カバーもシアンの検査を受けたが、やはりポジティブであった。クラクフ研究所は、この金属カバーがビルケナウの殺人「ガス室」の排気口を覆っていたと主張している。

研究所の行なった検査は量的分析ではなく、質的分析であった。言い換えれば、この検査が判定したのは、シアンが存在していたかどうかであって、シアンの量がどれほどであったかではない。

 アウシュヴィッツではシアン化水素を使った殺人ガス処刑が行なわれたかどうかを判断するにあたって、この分析には価値がない。それは以下の3つの理由による。

1. 髪の毛とアウシュヴィッツのバッグからの髪の毛の留め金の起源と歴史について、判断することができない。分析結果が正しいとしても、化学的観点からすると、次のことが指摘できる。毛髪のシアン化合物検査がポジティブな結果を出したことは、髪の毛がHCN(シアン化水素)にさらされたことがあることを立証しているにすぎない。この髪の毛を持つ人間がシアン化合物によって殺されたことを確証するには不十分である。また、髪の毛はガスにさらされる前に、切られていたはずである。連合国の収容所でも、ドイツの収容所でも、衛生上の理由から髪の毛を切ることが普通であった。一定の長さの髪の毛がのちに再利用されるときには[75]、前もって殺菌消毒されねばならなかった(シアン化水素を含んだチクロンBを使うことが多かった)。したがって、髪の毛からシアン化合物のポジティブな結果が出たとしても、人間がガス処刑されたことを立証しているわけではない。

2. いわゆる「ガス室」の排気ダクトを覆っていたとされる亜鉛メッキの金属カバーについても同様の問題点がある。その正確な起源と歴史が知られていない。クラクフ研究所は、金属片からサンプルを採取する代わりに、いわゆる「ガス室」の壁から採取されたサンプルを分析すべきであった。

a. これらの金属カバーの起源と歴史は不明であるが、「ガス室」として使われたとされる死体安置室の起源と歴史(部分的ではあるが)は知られている。

b. セメントやコンクリートと比べて、亜鉛メッキの金属カバーは、安定した鉄シアン化合物の生成を阻害する。[76] 亜鉛シアン化合物は比較的不安定であり、短期間で消滅してしまうにちがいない。[77

c. 湿った地下室のなかの多穴性の壁資材が、物理的・化学的にシアン化水素化合物を蓄積・固定する傾向は、金属よりも数百倍も高い。[78

d. 事実、クラクフ研究所に送られたサンプルにつけられていた書簡には、いわゆる「ガス室」から採取されたというモルタルのサンプルも同封されており、シアン化合物検査をするべきであるとかれていた。しかし、どういうわけか、クラクフ研究所は報告書のなかでこのモルタルのサンプルについてはふれていない。おそらく、ポジティブな結果が出ていなかったのであろう。

3. この亜鉛メッキのカバーが今日どこに保管されているのかわからない。クラクフ報告はその詳細や写真を残していないので、カバーを見分けることもできない。それゆえ、同じ分析を繰り返すことができない。

 

4.4.1.2. 19641966年のフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判

フランクフルトで開かれたアウシュヴィッツ裁判では、いくつかの専門家報告が提出されたが、ミュンヘンの現代史研究所の専門家報告が一番知られている。[79] しかし、この報告書はどれも法医学的なものではなかった。法律的、歴史的、心理的な話題を扱っていた。このマンモス裁判を通じて、法廷も、検事側も[80]、弁護側も[81]、犯罪の物的証拠を確保・調査すべきであるとはまったく主張しなかった。検事側は目撃者の陳述と犯人の自白を数多く持っており、それだけで、第三帝国のアウシュヴィッツその他でユダヤ人絶滅計画が存在したことを確証するのに十分であるとみなしていた。[82] こうした証拠が豊富にあることが、文書資料的証拠と物的証拠が存在しないにもかかわらず、犯罪の現実性を保証しているというのである。[83] 法廷も、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判では物的証拠がまったく提出されていないことを正当なことであると認めていた。[84

「通常の殺人裁判でならば、本物の殺人事件の構図を描くために必要な証拠を手に入れる方法が、この裁判ではまったく欠如していた。犠牲者の死体、検死報告、死因や死亡時刻についての専門家報告が欠けていた。殺人犯人、凶器の痕跡も欠けていた。目撃証言が検証されたことはごくまれであった。本来ならば、証言にわずかでも疑問があり、混乱している可能性があれば、法廷はその証言を評価しないはずなのに…」

4.4.1.3. 1972年のウィーンでのアウシュヴィッツ裁判

1972118日から310日まで、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の設計・建設に責任を負っていた二人の建築技師ヴァルター・デヤコとフリッツ・エルトルがオーストリアのウィーンで裁判にかけられた。[84] 公判では、アウシュヴィッツとビルケナウのいわゆるガス室の青写真の解釈についての専門家報告が提出された。この報告は、問題の部屋がガス室ではありえない、ガス室に改造することもできないと結論していた。[85] アウシュヴィッツについてのはじめて方法論的に健全な専門家報告のおかげで、被告は無罪となった。

4.4.2. 法廷の外での法医学

4.4.2.1. 大量埋葬地の調査

1966年、アウシュヴィッツ国立博物館はポーランドの会社Hydrokopに、アウシュヴィッツ・ビルケナウの土壌を掘り起こして、サンプルを分析するように委託した。この調査がフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判との関係で行なわれたかどうかは分かっていない。しかし、調査結果は博物館の文書館のなかに消えてしまった。それは公表されなかった。そのことだけでも十分なことを物語っている。しかし、数年後、この報告書からの数頁が、写真コピーされて、ドイツの修正主義的出版者ウド・ヴァレンディの手に渡った。彼は自分の雑誌にコメントを付してこれを公表した。[86] いくつかの場所から骨や毛髪の痕跡が発見されたことは、大量埋葬地の存在を示唆しているかもしれない。しかし、ヴァレンディの公表した数頁からだけでは、この調査によって、さらに発掘調査が行なわれたのか、法医学的調査が行われたのかについては明らかではない。採取された骨や毛髪が人間のものであるのか動物のものであるのかも明らかではない。

4.4.2.2. フォーリソンとその結果

3節で描いたようなフォーリソン教授の活動の結果、1988年以降、アウシュヴィッツの法医学的研究はブームとなった。研究者が定説と矛盾するような結論に達するごとに、この研究者は、フォーリソン教授、ロイヒター、ルドルフと同じように、陶片追放され、訴追された。しかし、結論が定説と合致していれば、その研究者は、プレサック、クラクフのヤン・ゼーン研究所の研究員、最近では、ペルト教授のように、メディアや政治家にもてはやされた。[69

したがって、アウシュヴィッツに関する法医学的研究は、シュトゥットガルトのマックス・プーランク研究所が述べているように、非難の対象ではまったくありえないといっておかなくてはならない。法医学的研究は、多かれ少なかれ、いつも熱心に行なわれている。非難の対象となっているのは、世論の望んでいない分析結果である。このようなことは不幸な偏見である。科学が繁栄できるのは、いかなる結果であろうとも、その研究者が懲罰措置を恐れることなく、おおやけに、自由に発表し、討論できる場所だからである。

アウシュヴィッツ・ビルケナウには二つの大きな収容所がある、アウシュヴィッツの町に近いアウシュヴィッツ中央収容所の収容所と、町から3キロほど北西にあるビルケナウ収容所である。本書は、この二つの収容所に関してすすめられている法医学的研究の結果を読者に提供しようとするものである。私は陶片追放と訴追を経験したことがあるが、今回はそのような事態にはならないことを希望している。[87

 

[72]

Michael D. Kelleher, C. L. Kelleher, Murder Most Rare: The Female Serial Killer, Praeger, Westport, Conn., 1998.

[73]

Cf. F. Kadell, Die Katyn Lüge, Herbig, Munich 1991.

[74]

ドイツ語ではop. cit. (note 52), pp. 36-40; オリジナルはアウシュヴィッツ国立博物館にある。

[75]

194286日のSS Wirtschafts- und Verwaltungs- hauptamt, Oranienburgから 強制収容所長への書簡。IMT Document 511-USSR、それはDer Prozess gegen die Hauptkriegsverbrecher vor dem Internationalen Militargerichtshof (Nuremberg, 1949), pp. 553fに引用されている。この書簡は、長さ20p以上の髪の毛の再利用を命じている。

[76]

亜鉛は、長期にわたって安定した鉄シアン化合物の生成に必要な錆の生成を阻害する。

[77]

地上のアルカリ性シアン化合物と同様に、亜鉛シアン化合物は、湿気によってゆっくりと分解してしまう。

[78]

これについては、6章参照。

[79]

H. Buchheim et al., Anatomie des SS-Staates, Walter, Freiburg 1964.

[80]

「ホロコースト事件」での著名なドイツ人検事の一人アダルベルト・リュッケルルは、その著作のなかで、物的証拠にはまったく触れていない。その代わりに、文書資料自体の信憑性と正確さを保証する物的証拠がなくても、文書資料的証拠が最良で最重要な証拠であると述べている (in J. Weber, P. Steinbach, eds., Vergangenheitsbewaltigung durch Strafverfahren? [Munich: Olzog,1984] p. 77)。また、文書資料的証拠だけで容疑者を有罪とするのは不可能なので、事件と裁判とのあいだに長い期間があることをとくに考慮すると、とくに、「民族社会主義者犯罪裁判」のような特殊な裁判では、その信頼性が疑わしいものであったとしても、目撃証言に頼らざるをえなかったと述べている(A. Ruckerl, NS-Verbrechen vor Gericht [Heidelberg: C. F. Muller, 1984], p. 249; Ruckerl, Nationalsozialistische Vernichtungslager im Spiegel deutscher Strafprozesse [Munich: dtv, 1978], p. 34; Ruckerl, NS-Prozesse [Karlsruhe: C. F. Muller, 1972], pp. 27, 29, 31.)

[81]

弁護側が、法律的な無能力であり、そのためにまったくナイーヴであった典型は、ハンス・ラテルンザーである。Die andere Seite im Auschwitzprozeß 1963/65, Seewald, Stuttgart 1966.

[82]

ドイツ人の中で、この考え方の代表はノルテ教授である。Streitpunkte, Propyläen, Berlin 1993, pp. 290, 293, 297.

[83]

Ref. 50/4 Ks 2/63; cf. I. Sagel-Grande, H. H. Fuchs, C. F. Rüter (eds.), Justiz und NS-Verbrechen, vol. 21, University Press, Amsterdam 1979, p. 434.

[84]

Ref. 20 Vr 6575/72 (Hv56/72), Jan. 18-March 10, 1972; この参照番号はペルトが自分の報告The Pelt Report, op. cit. (note 66), p. 135 n. 59: 20 Vr 3806/64 and 27 C Vr 3806/64)で引用しているものとは異なっている。

[85]

訴追と迫害を恐れて、当面のあいだ匿名でなくてはならないこの専門家との個人的連絡。Michael Gärtner, "Vor 25 Jahren: Ein anderer Auschwitzprozess," VffG, 1(1) (1997), pp. 24f. (online: www.vho.org/VffG/1997/1/Gaertner1.html)を参照。

[86]

Udo Walendy, Historische Tatsachen, no. 60, Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1993, pp. 7-10.

[87]

これについては、本書末の補足を参照。

 

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