2. 一撃

2.1. アウシュヴィッツとマイダネクについてのフレッド・ロイヒター

198823日、マサチューセッツ州ボストンのフレッド・ロイヒター宅に、予期せぬ人物が訪ねてきた。リヨン第二大学教授のロベール・フォーリソン博士であった。彼は、フランス語、ギリシア語、ラテン語を専門としており、証言、テキスト、資料の批判的分析にたずさわっており、並々ならぬ決意を心中に秘めていた。すなわち、彼は、ロイヒターを説得して、その処刑技術の専門家としての能力を生かして、カナダのトロントで当時開かれていた刑事裁判のために、専門家の見解を作成させようとしていた。[25] もっと正確に言えば、フォーリソン博士は、第三帝国の強制収容所での、いわれているところのシアン化水素を使った大量絶滅が技術的に可能かどうか、ロイヒターに裁定させようとしていた。そのときまで、ロイヒターはドイツの殺人ガス室の存在を疑ったことはなかった。しかし、フォーリソン教授が高度に技術的な資料を見せると、ロイヒターは、殺人ガス処刑説の技術的可能性について疑問を抱き始め、追加資料を検討するためにトロントに来ることに同意した。

ロイヒターは、この話し合いののち、弁護側の依頼を受けて、上記の裁判のためにアウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの強制収容所を技術的に調査するために、妻――秘書、製図係、ビデオ撮影者、通訳も兼ねていた――とともにポーランドに出かけた。合衆国に帰国して、192頁(補足も含む)の報告書を書いた。彼はまた、ガス処刑が行なわれたとされるアウシュヴィッツとビルケナウの現場、および害虫駆除ガス室から32のサンプルを採取していた。これらのサンプルの背景は次のとおりである。

第三帝国のほぼすべての強制収容所には、囚人の衣服に付着したシラミを駆除する殺菌駆除施設があった。駆除にはさまざまな方法が使われた。温風、いくつかの毒ガス、そして戦争末期には高周波。害虫駆除は、東ヨーロッパや中央ヨーロッパで繰り返し流行してきたチフスという疫病をシラミが媒介しているために、ぜひとも必要であった。第二次大戦でも、チフスが流行し、強制収容所や捕虜収容所だけではなく、前線の兵士のあいだでも、数十万の犠牲者が出ていた。第一次大戦以降、シラミその他の害虫の駆除のためにもっとも有効であり、広く使われたのは、チクロンBという商標で知られるシアン化水素であった。

 

 

5:一人の人間をガス処刑するための処刑ガス室の一重ドア(合衆国ボルチモア、1954年、1930年代の技術 )。一人の人間をシアン化水素で処刑するのは、衣服の燻蒸(デゲシュ社の空気循環室においてさえも)よりも、はるかに複雑であり、環境に危害を与える。

6: チクロンB(シアン化水素化合物)を使って一度に数百名を処刑するために作られたとされる民族社会主義者のガス室の3つのドアのうちの1つ(ポーランドアウシュヴィッツ、焼却棟T、1940年代)。このドアは頑丈でもなく、気密でもない(鍵穴に注意)。部分的にガラス窓がついており、内開き、すなわち、死体が積み上げられていたとされる部屋のほうに開いている。

 

ここ数十年間でよく知られていることであるが、囚人の衣服を害虫駆除するためにチクロンBが使われてきた建物の壁には、大量のしみのような、青みがかった痕跡が残っている。この青い痕跡は、鉄青という化学物質のためである。それは、適正な条件のもとでは、シアン化水素化合物と壁の特定の構成要素との化学反応のために生じる。この物質は、今日でも現存の害虫駆除施設に見ることができる。これは非常に安定した組成物である。フォーリソン教授は、この青い痕跡がアウシュヴィッツの「殺人ガス室」にはないことを指摘した最初の人物である。フォーリソンの考えは、「殺人ガス室」の壁から採取したサンプルを分析して、毒ガスあるいはその構成物(シアン化合物)の痕跡を探求し、それを、害虫駆除室から採取したサンプルと比較してみることだった。ロイヒターは、1988年にアウシュヴィッツの現場調査を行なったとき、フォーリソンの提案にしたがった。

 

7:フレデリック・A・ロイヒター、世界で最初の、そしておそらく唯一のシアン化水素ガス室の専門家、1992年の歴史評論研究所の大会にて。

1988420日と21日、ロイヒターは、トロントの法廷の証言台に、専門家証人として立った。彼は、自分の研究を報告し、結論を展開した。法廷の雰囲気は緊張したものであった。ロイヒターの証言は率直で、同時にセンセーショナルであった。ロイヒターによると、アウシュヴィッツでも、ビルケナウでも、マイダネクでもガス処刑による大量殺戮の可能性はまったくありえないというのである。[26]

「検証した場所のいわゆるガス室は、処刑ガス室ではありえなかったし、使われもしなかった、処刑ガス室として機能したともみなすことができないというのが、本報告の作成者の最良の技術的見解である。」

ロイヒターの直前、別の証人が尋問されていた。ミズーリ州ジェファーソン・シティの最大安全刑務所の看守ビル・アルモントロウトである。このアルモントロウトは、弁護人バーバラ・クラシュカの質問に答えて、アメリカ合衆国ではロイヒター以上にガス室の作動について理解している人物はいないと証言した。彼自身も、その前にロベール・フォーリソンが行なったように、毒ガスによる処刑に伴う大きな問題点を確証した。

ロイヒターに続いて、マサチューセッツの化学実験所長ジェームズ・ロス教授が、証言台に立って、32のサンプルの分析結果を証言した。彼は、そのサンプルの由来については知らなかったが、大量殺戮のために使われたとされているガス室から採取されたすべてのサンプルには、シアン化合物の痕跡がまったく残っていないか、ごく微量しか残っていなかった。その一方、基準サンプルとして採取された害虫駆除室からのサンプルには、高い濃度のシアン化合物が残っていた。[27]

ロイヒター報告とその後の証言は、「ナチスのガス室」物語というホロコースト史の土台を揺るがせた。この『ロイヒター報告』のコピーは何ヶ国語にも翻訳されて、数万部が世界中に配布され、彼自身も多くの講演を行なった。このことを考えると、この一人の人物の仕事の衝撃は巨大なものであった。

2.2. ダメージ・コントロール

このような流れを心配した「決して忘れない、決して許さない」軍団は、すぐに対抗措置をとった。自称「ナチ・ハンター」のBeate Klarsfeld は、ロイヒターは「ホロコーストを否定すれば、処罰無しではすまされないことを理解すべきである」と宣告した。[28]

ユダヤ人団体は、彼の名声を破壊するだけではなく、生活手段も破壊する中傷キャンペーンを活発に繰り広げた。それを先導したのはシェリー・シャピロと彼女のグループ「ホロコースト生存者と正義を追求する友人の会」であった。このグループは、ロイヒターのことをペテン師とか詐欺師と呼び、そうではないことをよく知っていたにもかかわらず、彼は処刑装置専門家としての資格に欠けているとか、持っていない職業資格を持っていると主張したと非難した。[29]

これらの非難にはまったく根拠がなく、法的な検証にも堪えることができなかったが、「反ロイヒター」キャンペーンは、主流のジャーナリストや編集者の協力を得て、成功を収めた。ロイヒターは、処刑装置の製造、設置、維持について州当局と契約していたが、それはキャンセルされた。金銭的にも、彼はマサチューセッツの自宅を退去せざるをえず、個人的な仕事をどこかで見つけなくてはならなかった。彼ほどホロコースト・ロビーからの圧力に苦しめられたアメリカ人はいないであろう。

[25]

公判の背景と進行については、R. Lenski, The Holocaust on Trial, Reporter Press, Decatur, Alabama 1990, abridged transcript of the trial against Ernst Zündel in Toronto 1988; Ger.: Der Holocaust vor Gericht, Samisdat Publishers Ltd., Toronto 1996 (online: www.zundelsite.org/german/lenski/lenskitoc.html)を参照。裁判全体の記録は、Barbara Kulaszka (ed.), Did Six Million Really Die? Report on the Evidence in the Canadian "False News" Trial of Ernst Zündel-1988, Samisdat Publishers Ltd., Toronto 1992 (online: www.zundelsite.org/english/dsmrd/dsmrdtoc.html)を参照。

[26]

F. A. Leuchter, An Engineering Report on the alleged Execution Gas Chambers at Auschwitz, Birkenau and Majdanek, Poland, Samisdat Publishers Ltd., Toronto 1988, 195 pp.; Ger.: Der erste Leuchter Report, ibid., 1988 (online: ihr.org/books/leuchter/leuchter.toc.html).

[27]

部分的に、"Zum Zündel-Prozeß in Toronto, Teil 2. Vorgeschichte-Ablauf-Folgen", Deutschland in Geschichte und Gegenwart 36(4) (1988), pp. 4-10 (online: http://www.vho.org/D/DGG/Faurisson36_4.html) (hereafter abbreviated as DGG)にあるフォーリソンの記述によっている。

[28]

このパラグラフはMark Weberにも引用されているが、彼は、自分の論文のなかでは、Beate Klarsfeldの引用文の典拠を示していない。op. cit. (note 10),.

[29]

Cf. JHR, 12(4) (1992), pp. 421-492 (online: www.vho.org/GB/Journals/JHR/12/index.html#4).

 

次章へ

前章へ

目次へ