歴史的修正主義研究会

最終修正日:2004318

 

<質問15

わが国の正史派の研究者○○氏は、「補論 アウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所の史料から」[1]という論稿の中で、数点の史料をアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に「殺人ガス室」が実在した証拠であるかのようにみなしていますが、歴史的修正主義者はこの点についてどのように考えていますか?

 

<回答>

 戦時中および戦争直後からほぼ30年間にわたって、アウシュヴィッツ・ビルケナウの「殺人ガス室」と「大量ガス処刑」についての「絶滅物語」は、たがいに矛盾をはらんだ、信憑性に疑問の余地のある「目撃証言」や「自白」によって組み立てられていました。

ところが、1980年代から、歴史的修正主義者たちが、「目撃証言」や「自白」の矛盾、「殺人ガス室」や「大量ガス処刑」についての文書資料的証拠の欠如および化学的・技術的不可能性を指摘して、ホロコースト正史の「絶滅物語」を鋭く批判し始めました。

 こうした批判に困惑した正史派の研究者たちが、まずとった対応は、「あったからあったんだ」という非学問的な姿勢でした。1979221日の『ル・モンド』紙に掲載された34名のフランス人歴史家の声明は、次のように述べています。

 

われわれは、このような大量殺人が技術的にどのように可能であったのか問うてはならない。それは起こったから、技術的に可能であったのである。このことが、このテーマに関するあらゆる歴史的研究の出発点となるべきである。

 

 「殺人ガス室」と「大量ガス処刑」の実在性を「問うてはならない」というこの声明は、ホロコースト正史が、「神や悪魔の実在を問うてはならない」という神学の領域に属することを象徴しています。

こうした「信仰告白」のような非学問的姿勢は、修正主義者はもちろんのこと、正史派の研究者も納得させることはできませんでした。

フランス人研究者プレサックは、歴史的修正主義者と同じ土俵の上で、文書資料的証拠、物的証拠にもとづいて「殺人ガス室」と「大量ガス処刑」の実在を証明しようとした唯一の正史派の研究者でした。

ですから、彼の著作が発表されたとき、正史派の研究者たちは、彼を「救世主」のように扱い、彼の研究を「修正主義を決定的に反駁するもの」として高く評価したのです。

この時点では、正史派の研究者たちは、プレサックの研究に仕掛けられていた「罠」に気づいていませんでした(この点については、ゲルマール・ルドルフのプレサック追悼文「二重スパイ」[2]を参照してください)。というよりも、ほとんどプレサックの著作、とくに1989年に刊行された主著『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』を読んでいなかったのです。

1990年代後半からつい最近までの正史派の研究者の論稿には、プレサックの1989年の主著を精読していない、ひいては読んでいないという特徴、プレサックの研究に仕掛けられていた「罠」にまったく気づかずに、彼の研究を高く評価してしまうという特徴がよくあらわれています。

そして、プレサックの研究を「その一人、フランスの研究者ジャン=クロード・プレサックは、初めて日の目を見た膨大な資料との格闘の末『アウシュヴィッツの焼却棟・大量殺戮の技術』(Die Crematorien von Auschwitz/Die Technik des Massenmordes 初版パリ1993年、ドイツ語版ミュンヘン1995年)を発表し、展示されている焼却棟(このなかに問題のガス室と焼却炉がある)を含むすべての処刑施設の建設工程、ガス殺に関する『技術革新』の詳細を明らかにした」[3]と高く評価している○○氏の論稿にも、この二つの特徴がよくあらわれています。

 

 

以下、○○氏の論稿を、とくに氏の高く評価するプレサックの研究と比較しながら、検証してみましょう。

 

論点

 

歴史学は、過去の痕跡を現在に伝える史料を重視する学問である。史料には大別して遺跡や発掘物、儀式や風習、法制度などの物的史料と、人が意識的に書き留めた記録・文書つまり陳述史料がある。アウシュヴィッツ基幹収容所跡に展示されている焼却棟(この中にガス室がある)は、この分類にしたがえば物的史料である。だがこの焼却棟は、我々の想像力を無限に掻き立てるモアイの石像物とはちがって、どのように利用されていたかを明瞭に伝えるさまざまな陳述史料が存在する[4]

 

@  この史料分類は、古代から現代までの過去の痕跡を扱う歴史学の一般論を述べているにすぎません。

A  アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の「殺人ガス室」と「大量ガス処刑」というわずか半世紀前の「連続大量殺人事件」を扱うにあたっては、もっと詳しい分類が必要であると同時に、史料=証拠の重要性の順番が必要です。

B  歴史的修正主義者は、(1)物的史料=証拠(「殺人ガス室」や焼却棟)、(2)法医学的史料=証拠(死体検死報告、凶器の化学的分析など)、(3)文書資料的史料=証拠(中央建設局や施工会社の図面、設計図、書簡、作業日誌など)、(4)陳述史料=証拠(自白や目撃証言)というように分類しています。

C  そして、歴史的修正主義者は、この4つの史料=証拠の価値は、(1)から(4)にいくにしたがって、低くなっていくと考えています。

D  あるドイツの歴史的修正主義者の言葉を借りれば、歴史的修正主義者の「方法は、他の歴史的事件の調査と同様に、犯罪捜査で使われている方法をつかって第二次大戦中のユダヤ人の運命を調査することである。このことは、証拠の重要性には順番があることを意味している。法医学的証拠が第一であり、文書資料的証拠がそれに続き、目撃者の話は最後である」ということになります。

E  ○○氏は、ご自分の研究の中で、ある「事実」に関して、氏のいう「物的史料」と「陳述史料」のあいだに矛盾が生じた場合、どちらを採用するのでしょうか。史料の重要性の「順番」を明らかにする必要があります。「絶滅物語」は、一番重要性の低い「目撃証言」で構成されているのですから。

F  ○○氏も高く評価しているプレサックは、信憑性のない「目撃証言」を適当につなぎ合わせて作られてきた「絶滅物語」について、「いまでは、歴史的に醜悪なものとみなすことができる。各収容所それぞれに適切な証言を提示し、それを年代的に整理するのではなく、異なった典拠を持つ証言が分割され、『絶滅』、『収容所での選別』、『到着時の選別』、『ガス処刑と焼却』などといったテーマごとに再分類されたのである。それは、首尾一貫しておらず、自己矛盾を生み出してしまった方法であった[5]と手厳しく批判しています。

 

 

ホロコースト否定論者は、そうした陳述史料に検討を加えることもなく、展示されている焼却棟を「当時のまま」と勝手に仮定し、それではガス室は機能しなかったはずだ、だからガス殺はでたらめだと結論づけたのである[6]

 

@  別の正史派の研究者への批判(質問9)でも申し上げたのですが、「△△、たけだけしい」とはこのことです。

A  学問的には偽造に近い焼却棟Tの死体安置室を「本物のガス室」として見学者に展示してきたのは(そして今もそのように展示されています)、一体誰なのでしょうか。

 

 

アウシュヴィッツ基幹収容所跡の焼却棟の歴史を正しく評価するには、この収容所全体の建設工程に関する陳述史料の検討が必須である。具体的には、収容所を管理運営していた親衛隊、帝国保安本部、さらには収容所の建設と運営に関与した23社にものぼる企業文書の検討が必要である。これらの文書は、…保管され閲覧可能である。

 これらの諸史料をもとに、問題の焼却棟の歴史を手短に振り返ってみよう[7]

 

@  ○○氏は、アウシュヴィッツの焼却棟Tについての、「諸史料」を本当に検討されたのでしょうか。

A  ○○氏も高く評価しているプレサックは、「焼却棟U、V、W、Xとは異なって、焼却棟Tに関するドイツ側資料はきわめて少ない。このために、その死体安置室で殺人ガス処刑が行われた証拠を正式に確定することはできない。文書資料が欠如していることと、その施設の現存状態は、ガス室は実際には存在しなかったことを示そうとする修正主義者に好都合になっている[8]と述べています。

 

 

そもそもアウシュヴィッツ基幹収容所の焼却棟は1941年、戦争捕虜の死体焼却棟として建造され、内部は排気装置つきの死体置場と焼却炉で構成されていた。この死体置場はやがてガス室に改造され、421月にガス殺がはじまった。だがその翌年の春にはアウシュヴィッツから3キロほど離れたビルケナウに、大規模な絶滅収容所が建設され、ユダヤ人殺害はそこに新設されたガス室で行なわれるようになった。アウシュヴィッツ基幹収容所のガス室は、427月の煙突の故障が原因で稼動を停止し、それ以来ガス室としては使われることはなかった。しばらく物置として使われた後、44年にアウシュヴィッツ周辺が連合国の爆撃にさらされるようになると、親衛隊の防空壕に改造された。この時の改造工事の図面(44921日付作成)は、旧ガス室を3枚の壁で仕切って小部屋を設け、出入り口に間口を作ったことを示している。この時、煙突と焼却炉は解体され、チクロンBの投入口も換気口もコンクリートで厳重に塞がれたのである[9]

 

@  ○○氏は、「諸史料」を検討されていますので、焼却棟Tの「殺人ガス室」および「ガス処刑」についての記述(マーカー部分)に関する、「目撃証言」以外の、文書資料をたった一つでも提示する必要があります。

A  なぜなら、○○氏も高く評価しているプレサックは、文書資料が欠如しているために、「その死体安置室で殺人ガス処刑が行われた証拠を正式に確定することはできない」と明言しているからです。

B  ○○氏と、氏も高く評価しているプレサックと、どちらを信用したらよいのでしょうか。

C  とくに、「チクロンBの投入口も換気口もコンクリートで厳重に塞がれたのである」という記述には、文書資料どころか、「目撃証言」もないと思われます。とすれば、この記述はたんなる○○氏の「憶測」になってしまいます。

D  チクロンBの投入口がなければ、焼却棟Tの死体安置室での「ガス処刑」は不可能ですので、チクロンBの投入口があったという文書資料(「目撃証言」は存在します)、およびチクロンBの投入口が塞がれたという文書資料と「目撃証言」をたった一つでも、提示する必要があります。ちなみに、防空壕に改造する時に、「換気口を開けた」という作業記録は残っています(詳しくは、「ホロコースト再審法廷:焼却棟Tでのガス処刑」を参照してください)。

 

 

戦後、アウシュヴィッツ収容所はポーランド国立博物館となったが、ナチ犯罪の実態を後世に残すために、ガス室として使われていた往事に近い姿で復元がはかられた。復元にさいし、ナチによって解体され、倉庫にしまい込まれた焼却炉の部品のうち使用可能な金属部品は再利用されたが、それ以外は戦後の資材が使われた。煙突は再建されたが、焼却炉と接続する工事は行なわれなかった。その意味で現在展示されているガス室は不完全な復元物にすぎないしたがって、ガス室がコンクリートで塗り固められていたり、必要な気密性が確保されていなくても、また、換気口の形跡や壁面に青酸反応がなくとも、捏造の証拠にはならない。[10]

 

@  ○○氏は、氏も高く評価しているプレサックの主著にある3つの図面、すなわち、1941925日の焼却棟Tの平面図、防空シェルターに改築された焼却棟Tの1944921日の平面図、現在の状態の焼却棟Tの平面図ならびに現在展示されている焼却棟Tに対するプレサックの批判を参照されたのでしょうか。

A  非常に滑稽なのは、この記述と同じ頁に掲載されている「旧ガス室の内部」と題する写真についているキャプションです。そこには、防空壕当時の「図面によると、正面の壁の向こうに作戦室があった」とあります。

B  たしかに、この写真に写っている正面の壁の向こうには作戦室があったのですが、本来の死体安置室(○○氏のいう「旧ガス室」)は、この正面の壁のもう一つ前にある壁まででした。

C  戦後の「復元」作業のときに、どういうわけか、死体安置室の一番後ろの壁まで取り去ってしまい、それが今日の「旧ガス室」として展示されているのです。

D  ですから、本来の死体安置室は78.2uであったはずなのに、今日展示されている「旧ガス室」の床面積は94uとなってしまっているのです。

E  また、チクロンBの投入口も死体安置室の天井に「復元」されたかたちで開けられていますが、その配置は、一番奥の壁を取り去った「展示ガス室」の天井にマッチするかたちで配置されています(そして、あったはずの、本来の投入口のふさがれた跡はまったく残っていません)。

F  また、今日、「犠牲者の入り口」として、あたかも、ここを通って囚人たちが「ガス室」に送り込まれたかのように展示されている入り口は、焼却棟Tが防空壕に改築されたとき、SS隊員が防空壕に入る入り口でした。ちなみに、○○氏も高く評価しているプレサックは、この入り口について、歴史の真実を尊重するためにもふさぐべきであると述べています[11]

G  つまり、展示されている「ガス室」も、チクロンBの投入口も捏造にすぎません。

H  ○○氏は、このような代物を「往事に近い姿で復元がはかられた」ものと呼ぶことができるのでしょうか。

I  さらに、末尾(マーカー部分)はまったく意味不明です。焼却棟Tの「殺人ガス室」をめぐる論点に通暁されていないと思われます。

 

 

ガス室の存在を示す陳述史料の中からとくに重要な文書を示そう。…当時、収容所のガス室はカモフラージュのためLeichenkeller(死体置場)と呼ぶよう義務づけられていたが、…これは、第二焼却棟に死体置場とよばれたガス室が二つあった事実を知らないがゆえの誤解である。つまりこの書簡のLeichenkellerVergasungskellerはともにガス室を意味するが、別のものである。[12]

 

@        いわゆるVergasungskeller問題ですが、これについては、本サイトの重要な論点についてのQ&A質問003を参照してください。

A        ○○氏は、「第二焼却棟に死体置場とよばれたガス室が二つあった事実」と述べていますが、このような事実を知っているのは、○○氏以外には、誰もいないのではないでしょうか。

B        ホロコースト正史によると、焼却棟Uには、死体安置室1Leichenkeller1)と死体安置室2Leichenkeller2)があり(小さな死体安置室3も存在していたという説もあります)、前者が「殺人ガス室」として、後者が「脱衣室」として使われていたことになっているはずです。

C        ちなみに、○○氏も高く評価しているプレサックは、Vergasungskeller史料について、主著の末尾にこっそりと「ビルケナウの焼却棟Uの地下に殺人ガス室が実在した絶対的証拠ではない」[13]と記しています。

 

 

ホロコースト否定論者は、ガス室は今日のドイツ語でGaskammerとよばれることから、Vergasungkellerはガス室ではないと主張している。だが、ガス室は当時VergasungkellerあるいはGas(s)kammerと呼ばれていた。例えば、アウシュヴィッツ収容所の建設に携わった民間企業の文書を検討すると、Gas(s)kammerということばが建築現場で口にされていたことがわかる。次ページの文書は、アウシュヴィッツ第四焼却棟その中に三つのガス室があった)の建設を請け負ったリーデル・ウント・ゾーン社の作業日誌で、収容所本部に提出されたものである。・・・

 中央の第5項には「ガス室において土台の盛り上げ、打ち固めを行い、さらには床をコンクリートで固めた」とまったく無造作に書き込まれている。

 こうした文書だけではない。アウシュヴィッツ収容所建設工事の数々の文書・図面、建設・施工会社の見積書や請求書などを見ると、「ガス漏れ防止型ドア」(gasdichte Türen)「覗き窓」(Guckloch)を備えた処刑用ガス室の詳細がわかる。また19433月のトプフ・ウント・ゼーネ社の週間作業記録からは、ガス室に強力な換気装置が設置されていたこともわかる[14]

 

@        ○○氏は、「当時、収容所のガス室はカモフラージュのため、Leichenkeller(死体置場)と呼ぶよう義務づけられていた」と直前に書いていますが、極秘事項の「殺人ガス室」が「民間企業の文書」に登場したり、「建築現場で口にされていた」という事態を奇妙に感じないのでしょうか。

A        誠実なプレサックは、奇妙に感じていたからこそ――そして、本音では、GaskammerとかVergasugskellerという単語が「殺人ガス室」ではなく「害虫駆除室」もしくは害虫駆除作業に関連する部屋を指していることを熟知していたからこそ――、このような用語を「筆のすべり」と呼んだのです。

B        実際には、収容所では、害虫駆除室を指す用語として、GaskammerGasraumVergasungsraumといった単語が使われていました。

C        ですから、害虫駆除室もしくはそれに伴うガス処理(Vergasung)と関連する部屋という意味でGaskammerという用語が、「民間企業の文書」に登場したり、「建築現場で口にされていた」という事態は、ごく自然のことなのです。

D        プレサックは、「ガス漏れ防止型ドア」(gasdichte Türen)「覗き窓」(Guckloch)を「犯罪の痕跡」としていますが、彼自身は、こうした設備が害虫駆除室の設備でもあったことを熟知していたと思います。

E        そのことは、プレサックの有名な「39の犯罪の痕跡」の記述にある、屈折した表現、難渋な解釈を読めばすぐにわかることです。

F        末尾の「ガス室に強力な換気装置が設置されていたこともわかる」という記述も不可解です。

G        ○○氏がここで提示している史料は、換気装置が設置されていない焼却棟Wのことであり、「ガス室に強力な換気装置が設置されていたこともわかる」という記述は焼却棟UもしくはVのことだからです。

H        もしも、「強力な換気装置」が「殺人ガス室」には必須であるとすると――歴史的修正主義者はそのように考えていますが――、○○氏が、換気装置のない焼却棟Wには「三つのガス室があった」と断言し、「殺人ガス室」の実在を証明するために、「ガス室」との記載のあるリーデル・ウント・ゾーン社の作業日誌という史料を重要証拠として掲載しているのは、奇妙どころか、滑稽ですらあります。

I        ひょっとしたら――ポーランド、ドイツ、モスクワに保管されている「諸史料」を検討されている○○氏にはそんなことはないとは思いますが――、○○氏は、収容所全体の「建設工程」について通暁していないのかもしれないとの印象すら受けます。

 

 

結論

@  ○○氏は、プレサックの研究を精読・検証しないまま、プレサックの研究の中に仕掛けられた罠にも気づかず、プレサックの研究に依拠して、歴史的修正主義者を論駁したつもりになっている1990年代後半の正史派の研究者の典型です。

A  今では、さすがに、正史派の研究者もプレサックの仕掛けた罠に気づき始め、「目撃証言」だけに依拠する「アウシュヴィッツ絶滅収容所物語」に先祖がえりするか、トレブリンカ「絶滅収容所」や「殺人ガス車」といった「幽霊船」に頼るか、もしくは、「ホロコースト」を東部占領地域における「虐殺行為」一般に解消しようとしています。

 

 

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[1] 『ジャーナリズムと歴史認識』、凱風社、1999年、310318頁。

[3] ティル・バスティアン著、『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』、白水社、1995年、146147頁。

[4] 『ジャーナリズムと歴史認識』、凱風社、1999年、311頁。

[5] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, New York, Beate Klarsfeld Foundation, 1989, p. 15.

[6] 『ジャーナリズムと歴史認識』、凱風社、1999年、311312頁。

[7] 同上書、312頁。

[8] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 123.

[9] 『ジャーナリズムと歴史認識』、凱風社、1999年、312313頁。

[10] 同上書、313頁。

[11] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 147.

[12] 『ジャーナリズムと歴史認識』、凱風社、1999年、316317頁。

[13] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, p. 505.

[14] 『ジャーナリズムと歴史認識』、凱風社、1999年、317318頁。