歴史的修正主義研究会
最終修正日:2004年3月09日
<質問13>
わが国の正史派の研究者○○氏は、最近刊行されたホロコースト研究書の中で、トレブリンカ、ベウゼッツ(ベウジェッツ、ベルゼク)、ソビボル(ソビボール、ソビブル)の収容所を、殺戮だけを目的とした絶滅収容所であったかのように記述していますが、歴史的修正主義者はこの点についてどのように考えていますか?
<回答>
○○氏は、トレブリンカ、ベウゼッツ、ソビボルの各収容所について次のように記しています。
(a)
「このころ『安楽死』作戦の幹部たちがグロボチュニクのところに派遣されてきた。彼らは41年、この地区の周辺部に位置するベウゼッツとソビボールに小さな絶滅収容所を建設し始めた。[脚注104]」[1]
(b)
「そして42年7月22日、ワルシャワ・ゲットーの絶滅が始まり、ワルシャワ近郊に絶滅収容所トレブリンカが建設された。これはベウゼッツやソビボールよりもはるかに大きく、またベウゼッツやソビボールでも古いガス室が取り壊され、より大きな新しいガス室が設置された。[脚注108]」[2]
(c)
「それではポーランド・ユダヤ人殺戮作戦としてのラインハルト作戦の主たる舞台となったベウゼッツ、ソビボール、トレブリンカはいつ計画され、いつ建設が開始されたか、これらこそは今日絶滅収容所として確定されているものであり、41年8月中旬に『計画』が始まり『建設』が開始されたのかどうかを、確証しなければならない。ベウゼッツにはすでに40年に強制労働収容所があった。」[3]
(d)
「トレブリンカに懲罰収容所(トレブリンカ第一収容所)が建設されたのは41年である。だが、これもいわゆる絶滅収容所ではなく、ポーランド人とユダヤ人に採石場の強制労働をさせるための収容所だった。ここにワルシャワ親衛隊中央建設部がラインハルト作戦のための絶滅収容所を建設したのは42年5月末から7月22日の間だった。[脚注54:Enzyklopädie des Holocaust, S, 1427f. ]」[4]
(e)
「主としてポーランド・ユダヤ人200万人を『安楽死』抹殺した『ラインハルト』作戦は、ベウゼッツ、ソビボール、トレブリンカの絶滅収容所で実施されたが、オルトによれば、これら三つの建築の歴史は『今日まで』十分には解明されておらず、いつ計画され、いつ具体的な立地が確定され、いつ建設が始まったか、その正確な日付を確実にいうことはできない。」[5]
(f)
「ベウゼッツは、独ソ境界線に沿って要塞施設と戦車壕を作るために独ソ不可侵条約が有効だった時期の40年5月に、ユダヤ人強制労働者のための収容所として設立されたが、40年の年末には閉鎖されている。」[6]
(g)
「ベウゼッツにはソ連戦車のモーターがガス殺用に備え付けられた。ベウゼッツは固定型ガス室を備えた最初の収容所だった。ここではまず総督府のユダヤ人殺害が行なわれ、後に他地域のユダヤ人もここで殺され、少なくとも60万人が殺された。新しい研究では犠牲者は100万人にもなるのではないかといわれている。死体は戦車壕に投げ込まれたが、42年末に掘り出されて焼却された。総督府にはさらに二つの絶滅収容所、すなわちソビボールとトレブリンカが42年3月から7月の間に作られた…。これら三つでポーランドその他のヨーロッパのユダヤ人175万人が殺された。こうしてシステマティックな大量殺害はこの総督府で42年3月から始まった。」[7]
論点
@
前提として確認しておかなくてはならないのは、歴史研究者が、ホロコースト正史の中で「純粋な絶滅収容所」であったとされているトレブリンカ、ベウゼッツ、ソビボル、そしてチェルムノの各収容所の全体像を解明する可能性はほとんど閉ざされてしまっているということです。
A
アウシュヴィッツ・ビルケナウ、マイダネクについては、大量に残っている収容所当局の文書資料を研究することができますし、その焼却棟やいわゆる「殺人ガス室」もほとんど損傷を受けていない建物や、廃墟となっている建築物を検証して、これらの建物が「大量ガス処刑」装置として機能しうるかどうかを研究できます。
B
しかし、トレブリンカ、ベウゼッツ、ソビボル、チェルムノについては、ドイツ側の文書資料(建物の設計図など)、収容所の建物の痕跡は一切残っていません。
C
○○氏も、記述(e)にありますように、オルト(Karin Orth)の研究を紹介するというかたちですが、「これら三つの建築の歴史は『今日まで』十分には解明されておらず、いつ計画され、いつ具体的な立地が確定され、いつ建設が始まったか、その正確な日付を確実にいうことはできない」と記しています。
D
ですから、現在、その建物の痕跡も残っておらず、計画がいつなされたのか、具体的立地がどこであったのか、いつ建設が始まったのかも確定できない施設、すなわち、建設命令、計画書、設計図、青写真、作業日誌などがまったく存在していない施設――ちなみに、アウシュヴィッツ・ビルケナウには、そのすべてが残っています――などは、常識で考えれば「幽霊船」にすぎないのです。
E
歴史叙述の問題としては、せいぜい、これらの収容所が労働収容所として建設されたことはわかっているが、その後、それらがどのような施設になっていったのかは文書資料的には不明であると記すことしかできないように思われます。
F
にもかかわらず、○○氏が、当初は「強制労働収容所」であったと認めている収容所のことを、記述(c)にありますように、「これらこそは今日絶滅収容所として確定されているものであり」と断言しているのは、きわめて奇妙な印象を与えます。
G
例えばベウゼッツについて、○○氏の記述では、1940年5月に「ユダヤ人強制労働者のための収容所」として設立され、同年末には閉鎖され(記述(f))、その後、小さなガス室を備えた絶滅収容所となり、さらに「より大きな新しいガス室」を備えた絶滅収容所に改造されていった(記述(b))ということになっていますが、「建築の歴史」が「十分に解明されていない」施設について、一体どのような自信を持てば、そのように断言できるのでしょうか。
H
おそらく、この記述の根拠は、「目撃証言」なのでしょう。○○氏もたびたび依拠しているコーゴン、ラングバインの『民族社会主義者の大量殺戮』から、当該箇所を引用しておきましょう。
「ベウゼッツはガス室を備えた最初の収容所であった。3つのガス室がある古い木造建築は破棄され、同じ場所に、もっと大きな石造建築が立てられ、長さ24m、幅10mであった。そこには6つのガス室があった。この件についての証言はその大きさについて異なっている。4m×4mであったという話もあれば、4m×8mであったという話もある。新しいガス室は7月中旬に完成した。
ルドルフ・レーダーはベウゼッツ絶滅センターで生き残ったただ一人の囚人である。彼は、1946年にクラクフで出版された本の中で、この新しいガス室について次のように記している。…」[8]
I
トレブリンカ、ベウゼッツ、ソビボル、チェルムノの4収容所を「純粋な絶滅収容所」であったとするホロコースト正史は、非常に数少ない「目撃証言」にもとづいているにすぎないのです。こうした「目撃証言」の信憑性についての詳細な検討は、ノイマイアー論文「トレブリンカ・ホロコースト」[9]および、マットーニョとグラーフの共著『トレブリンカ:絶滅収容所か通過収容所か』[10]を参照してください。
J
また、○○氏は、「ベウゼッツにはソ連戦車のモーターがガス殺用に備え付けられた」と記していますが(記述(g))、これもあいまいです。この「ソ連戦車のモーター」とは、ディーゼル・エンジンであったのでしょうか、それともガソリン・エンジンであったのでしょうか。その排気ガスが「ガス殺」用に使用されたとすると、犠牲者は一酸化炭素中毒死であったのでしょうか、それとも、二酸化炭素中毒死であったのでしょうか、それとも、たんに狭い密室に押し込まれたための酸素不足による窒息死であったのでしょうか。この点を明確にしておく必要があると思います。
K
ちなみに、○○氏のトレブリンカ収容所についての記述(記述(d))が依拠している『ホロコースト百科事典』は、「ベウゼッツ、ソビボル、トレブリンカは、とくに総督府からのユダヤ人に対するラインハルト作戦(1942年6月からそのように呼ばれた)という殺戮作戦の枠内で建設された。これらの絶滅収容所は、ディーゼル・エンジンの作り出す一酸化炭素ガスを使用した」と記していますが、この記述についての氏の見解も明らかにしておかなくてはならないと思います。
L
もっとも奇妙なのは、ベウゼッツ収容所の犠牲者数について「少なくとも60万人」とか「新しい研究では…100万人もなる」と記し、それらの死体は「焼却された」と断言していることです。
M
ホロコースト正史によると、ベウゼッツの稼動期間は1942年3月−12月までの10ヶ月間、アウシュヴィッツ・ビルケナウのそれは1942年2月−1944年11月までの2年半以上です。そして、2年半以上も稼動したアウシュヴィッツ・ビルケナウの犠牲者数は、100万前後になっています(プレサックは60万―70万、フリツォフ・メイアーにいたっては50万人です)。
N
○○氏がこうした数字に疑問を抱かないのは、非常に奇妙に思われます。
O
ビルケナウは、○○氏の表現では「本格的なガス室装備の火葬場の建物」をそなえた「史上最大の『絶滅施設』」となっています。
P
だとすると、わずか10ヶ月間で60万人から100万人を殺戮し、その死体を焼却したベルゼック収容所には、もっと「本格的な」ガス室があり、焼却施設があったはずです。
Q
少なくとも、ベウゼッツ収容所では、60万人の死体がどのような手段で焼却されたのか――通常、「純粋な絶滅収容所」に関する「目撃証言」では巨大な壕の上にかけられた奇怪な焼却格子で焼却されたことになっています――を明らかにする必要があります。
R
しかし、実は、そのようなことを明らかにすることはできないでしょう。論点@−Dで指摘しましたように、ベウゼッツを含む「純粋な絶滅収容所」は、その施設の痕跡も、当時の設計図も青写真も、作業日誌もまったく残っていない「幽霊船」だからです。
結論
@
トレブリンカ、ソビボル、ベウゼッツ収容所についての○○氏の記述は、従来のホロコースト正史の記述とまったく同一です。
A
そして、トレブリンカ、ソビボル、ベウゼッツ収容所についてのホロコースト正史は、「まぼろし」のようなものです。逆に言えば、これらの収容所については、その施設や犠牲者についてどのようにでも記述することが可能です。「目撃証言」のように見える話を引用しておけば、「何でもあり」なのです。
B
質問7でも指摘しましたように、「戦艦アウシュヴィッツ」が修正主義者の攻撃によって沈没してしまった現在、ホロコースト正史は、トレブリンカ、ソビボル、ベウゼッツという「幽霊船」に頼らざるをえなくなっていますが、○○氏の研究は、こうしたホロコースト正史の窮状を反映しています。
[1] 『ホロコーストの力学』、青木書店、2003年、34頁。
[2] 同上書、35頁。
[3] 同上書、59頁。
[4] 同上書、59頁。
[5] 同上書、83−84頁。
[6] 同上書、89頁。
[7] 同上書、181頁。
[8] E. Kogon, H. Langbein, A. Rückerl, Nazi Mass Murder, A Documentary History of the Use of Poison Gas, New Haven and London, 1994, p. 128.
[9] Arnulf Neumaier, The Treblinka Holocaust, Ernst Gaus, Dissecting the Holocaust. The
Growing Critique of 'Truth' and 'memory', (Ed.), Theses & Dissertations
Press,
[10] Carlo Mattogno, Jürgen Graf , Treblinka Extermination Camp or Transit Camp? Theses & Dissertations Press,PO Box 257768, Chicago, IL 60625, USA, June 2003, online: http://vho.org/GB/Books/t、(その試訳)。