歴史的修正主義研究会

最終修正日:2004307

 

<質問7

わが国の正史派の研究者○○氏は、近年、二冊の大部なホロコースト研究書を上梓しています。しかし、その著作の中では、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所および「殺人ガス室」についての具体的記述は、きわめて少ないように見えるのですが、歴史的修正主義者はこの点、およびその記述内容についてどのように考えていますか?

 

<回答>

 ○○氏は、ホロコーストを「たんなる迫害ではなく抹殺政策・絶滅政策」[1]ととらえており、その「抹殺政策・絶滅政策」の具体的な実行局面として、以下の5点を念頭においているようです。

 

1. ドイツ占領地域での特別行動部隊などによる大量射殺

2. ガス車=ガストラックの排気ガスを使った処刑

3. トレブリンカ、ソビボルなど「純粋な絶滅収容所」での「大量ガス処刑」

4. アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所での「大量ガス処刑」

5. マイダネク収容所での「大量ガス処刑」

 

 これら5点については、このQ&Aでこれから逐次検証を進めていこうと思いますが、非常に奇妙なことに、ホロコースト正史の中ではホロコーストの象徴として扱われているアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所および「殺人ガス室」――○○氏自身も「史上最大の『絶滅施設』」とよんでいるのですが[2]――に言及している記述は、きわめて少ないのです。

 もちろん、二つの研究書の目的は「抹殺政策・絶滅政策」の形成過程を明らかにすることであり、その具体的な実行局面を明らかにすることではないのかもしれませんが、実行局面を記述した、上記の5点の中でも、アウシュヴィッツ・ビルケナウは、扱いが少ないように思われます。正確な頁数や字数を計算したわけではないのですが、13245か、12345という順番になっています。

 では、この二つの研究書から、当該箇所を引用しておきましょう。

 

(a)        「…アウシュヴィッツ基幹収容所は、青酸ガス・チクロンBを実験した。それは4193日のことだった。ソ連人戦時捕虜にたいし収容所地下室の一つで実施された。」[3]

(b)       アウシュヴィッツ・ビルケナウの建設拡大は迫りつつある独ソ戦のため、大量の戦時捕虜の収容のためだったのであり、ユダヤ人絶滅政策のためではなかった。また東西二正面への戦争拡大に伴う労働力不足のなかで、イ・ゲ・ファルベン社を中心とする地域経済開発のための囚人労働確保のためだった。ユダヤ人の大量連行、その一部を労働力に、その他の圧倒的な非労働部門をガス室へと、二つの政策が合体するのは42年春以降、とくに夏以降のことだった。」[4]

(c)        「連行されたハンガリー・ユダヤ人のほとんどはただちにガス室に送られた。残りは収容所の労働を命じられた。しかしその多くはまもなく殺された。全作戦はその犠牲者数からすればごくわずかのドイツ部隊、幹部、対独協力者によって実行された。迅速さと秘密保持が全作戦の急速な進行の条件だった。」[5]

(d)       「総督府では41年秋、何十万人ものソ連戦時捕虜が極悪の環境におかれていた。アウシュヴィッツ市内の基幹収容所で4195日から6日にかけてツィクロンB(青酸ガス)によるはじめての大量殺害が行なわれたが、その犠牲者はソ連戦時捕虜600人、その他300人だった。」[6]

(e)        「アウシュヴィッツのような本格的なガス室装備の火葬場の建物…」[7]

(f)         「…ビルケナウ収容所には本格的な『安楽死』設備は42年になっても農家を改造した建物しかなかった。アウシュヴィッツ第二収容所は絶滅目的で創設されたものではない。しかし、労働収容所として建設されたものが、歴史の結果として別の諸要因の集合によって、後になって史上最大の『絶滅施設』となったのである。」[8]

(g)        プレサックの研究によれば、ビルケナウの『小さな農民屋敷』の改造(後に『第一ブンカー』と呼ばれる)は425月に行なわれた。彼によれば、ヒムラーがヘースをベルリンに呼んだのは426月であり、ヘースはビルケナウ収容所をユダヤ人絶滅のために選んだことを述べ、間もなく極めて大きな火葬場が建設されることになるとした。この426月中に、ビルケナウで第二の農家がガス室に改造された。後に『第二ブンカー』と呼ばれるものである。」[9]

(h)       419月はじめ、アウシュヴィッツ基幹収容所ブロック11の地下室でツィクロンBによって600人のソ連人捕虜と250人の病人が殺された。」[10]

 

 遺漏があるかもしれませんが、二冊の大部な研究書(合計900頁近く)の中で、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所とそこでの「ガス処刑」に関係する記述は、これだけなのです。

 このうち、(a)(d)(h)の記述は、いわゆる「アウシュヴィッツでの最初のガス処刑」についての記述であり(質問6を参照してください)、○○氏のいうところの「アウシュヴィッツのような本格的なガス室装備の建物」とは直接関係がありませんので、ここでは、(b)(c)(e)(f)(g)の記述を検証してみましょう。

 

論点

@        (b)の記述の中で、「アウシュヴィッツ・ビルケナウの建設拡大は、…大量の戦時捕虜の収容、…囚人労働確保のためであった」という点については、全面的に賛同します。

A        ただし、これまで、正史派は、収容所建設拡大に伴って計画された新焼却棟の焼却能力が、自然死+病死すると予想される囚人の死体を焼却する能力をはるかに上回っていた、すなわち、ガス処刑された大量の死体の処理を前提としていたとの憶測にもとづいて、この建設拡大と新焼却棟の設置が「絶滅政策」を前提としていたとの主張を展開してきました。

B        ですから、○○氏は、建設予定の焼却棟、具体的には焼却棟U、V、W、Xの焼却能力が自然死+病死すると予想される囚人の死体を焼却する能力に合致していたと考えているのか、それとも、ガス処刑された大量の死体の処理する能力を持っていたと考えているのか明らかにする必要があります。

C        もし前者であるとすると、(b)の記述の後半にあるガス室に送られた「その他の圧倒的な非労働部門」の死体がどのようにして処理されたのかを明らかにする必要があります。

D        もし後者であるとすると、これらの焼却棟の焼却能力については、正史派のあいだでもプレサック、ツィンマーマン、ピペル、フリツォフ・メイアーといった研究者の研究蓄積および論争がありますので、それらを参照した上で、そして、気が進まないでしょうが、この問題についての修正主義者の研究蓄積[11]を十分批判的に検討したうえで、焼却棟の焼却能力について、○○氏なりの結論を明らかにする必要があります。

E        (c)の記述は1944年春から夏にかけてのハンガリー系ユダヤ人の移送についてですが、「迅速さと秘密保持が全作戦の急速な進行の条件だった」という文章は不可解です。何が「秘密保持」されたのでしょうか。

F        「全作戦」がアウシュヴィッツ収容所での移送者の「ガス処刑」のことだけを指すのでしたら、その作戦が「ごくわずかのドイツ部隊、幹部、対独協力者によって実行された」という記述はいっそう不可解となります。「ドイツ部隊、幹部」とは誰のことなのでしょうか。アウシュヴィッツ収容所当局のドイツ人のことなのでしょうか。「対独協力者」とは「ガス室」での死体処理作業に従事したユダヤ人特別労務班のことなのでしょうか。

G        もちろん、そうではないでしょう。○○氏が念頭においているのは、ハンガリー系ユダヤ人の移送を担当したドイツ人とそれに協力したハンガリー人のことでしょう。だとすると、「全作戦」には「移送作戦」も入ると思いますが、これほど全世界に公開されていた移送もないのです。正史派のヒルバーグ自身が、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の中で、「ハンガリーの集団移送は、外部から隠蔽することができなかったという理由でも目立っている。すなわち、彼らは全世界から完全に見えるところで、公然と連れ去られたのである」と述べていますし[12]、今日公開されている移送中のユダヤ人を写した写真の大半は、このハンガリー系ユダヤ人の移送を撮影したものです。

H        結局、○○氏が、「迅速さと秘密保持」が必要であったとみなしているのは、移送された後に待っているガス処刑のことなのでしょうが、この当時、移送されたユダヤ人がガス処刑されているという噂は、ハンガリー系ユダヤ人のあいだでかなり広まっていたのです。ヒルバーグ自身が、「ブダペストでわれわれは、ヨーロッパのユダヤ人の運命を追う唯一の機会を得た。彼らがいかにして次から次へとヨーロッパの地図から姿を消して行ったかをわれわれは見ていた。ハンガリーの占領のときには、死んだユダヤ人の数は500万をこえていた。われわれは行動部隊の活動については非常によく知っていた。アウシュヴィッツについては必要以上によく知っていた。…われわれは、早くも1942年には、東方でアウシュヴィッツその他の絶滅収容所に移送されたユダヤ人の身に何が起こったか、その全体像をつかんでいた」というハンガリー・シオニスト前副議長ルドルフ・カストナー博士の発言を引用しています[13]。にもかかわらず、数十万人ものハンガリー系ユダヤ人たちは、ユダヤ人共同体の指導者たちのすすめもあって、さしたる抵抗もせずに、全世界注視の中で、移送されていったのです。

I        ○○氏は、こうした「ハンガリー・ユダヤ人のほとんどはただちにガス室に送られた」と断定していますが、その断定の根拠を明らかにしていません。

J        (e)の記述の中で、○○氏は、「本格的なガス室装備の火葬場の建物」という表現を使っていますが、非常に不明確な表現です。個別的、単発的なガス処刑ならば、どの建物、どの部屋でも可能です。大量の人間を連続的に、ベルト・コンベアー式にガス処刑し、その死体を迅速に処理することができることを「本格的」というのでしたら、「本格的なガス室装備の火葬場」の具体的構造や「ガス処刑」の手順、例えば、収容人員、チクロンBの投入手段、換気方法、死体処理方法を明らかにする必要がありますが、○○氏は、このようなことに、まったく触れていません。

K        (f)の記述の中で、「アウシュヴィッツ第二収容所は絶滅目的で創設されたものではない」という点には、全面的に賛同します。

L        ただし、○○氏が、アウシュヴィッツ第二収容所(ビルケナウ)は「殺人ガス室」と焼却棟をもつ「絶滅施設」として建設されたというもっとも伝統的な正史派の説と訣別していることは理解できますが、焼却棟UとVは通常の施設として建設され(その後「殺人ガス室」をもつ「絶滅施設」に改造され)、焼却棟WとXは最初から「殺人ガス室」をもつ「絶滅施設」として建設されたとする改訂正史派(プレサック、ペルト)の説との異同を明らかにする必要があります。

M        また、「労働収容所として建設されたものが、歴史の結果として別の諸要因の集合によって、後になって史上最大の『絶滅施設』となったのである」という記述は、きわめて抽象的で、何も説明していないように思われます。例えば、ある善良な人物が、あとになって、稀代の殺人犯となったとします。そのことを、「ある善良な人物が、歴史の結果として別の諸要因の集合によって、後になって史上最大の殺人犯となったのである」と記述するようなものです。もちろん、○○氏は、二つの研究書全体のなかで、この「歴史の結果として別の諸要因の集合」が明らかにされているとのお考えでしょうが。

N         (g)の記述は、「プレサックの研究によれば」とあり、また、この記述に付けられている脚注も、プレサックのドイツ語版の著作『アウシュヴィッツの焼却棟:大量殺戮の技術』巻末の年表を指し示しています。たしかに、プレサックのこの記述だけを見れば、ブンカー1とブンカー2がガス処刑を行なった「絶滅施設」として実在したかのように見えます。

O        しかし、プレサックは、1989年の主著『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』のなかで、「ブンカー1の跡はまったく残っていない。それは、1942年末か1943年初頭に解体された。この臨時の施設に関して現存している情報は乏しく、数名の生存者の証言だけにもとづいている」[14]、しかも、その数名の「目撃者」の証言はきわめて不正確であると述べているのです。

P        ○○氏は、質問6でも指摘しておきましたように、アウシュヴィッツ・ビルケナウの収容所の建設史について、しばしばプレサックの研究に依拠していますが、プレサックの一連の著作が、どのような意図のもとで書かれていたのかについて、ぜひ、ドイツの修正主義者ルドルフのプレサック追悼文「二重スパイ」[15]を参照されることをおすすめします。

 

結論

@        ○○氏は、少なくとも二つの研究書の中では、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が、具体的にどのような点で数量的、技術的、建築構造的に、氏のいうところの「史上最大の『絶滅施設』」であったのか、まったく明らかにしていません。

A        もちろん、この二つの研究書は、「抹殺政策・絶滅政策」の形成過程の解明に主目的を置いていますので、「抹殺政策・絶滅政策」の実行局面にあまり紙面が割かれていないことは理解できます。

B        ただし、○○氏は、アウシュヴィッツの「殺人ガス室」の実在性に疑問を投げかけた西岡昌紀氏のマルコポーロ誌掲載論文が研究動機の一つであるとも述べています。だとすると、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所のことを「史上最大の『絶滅施設』」とか「本格的なガス室装備の火葬場」という具体性の乏しい表現で片付けるだけではすまないはずです。

C        ひょっとしたら、○○氏の研究書の中で、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所での「大量ガス処刑」についての具体的記述がきわめて乏しいか、まったく存在しないのは、ホロコースト正史の中の『戦艦アウシュヴィッツ』(アーヴィング)が、まさに、歴史的修正主義者の攻撃を受けて沈没しつつあることの反映かもしれません。一時期、プレサックという援軍の力で、この攻撃をしりぞけようとしましたが――そして、○○氏もプレサックの研究を典拠文献としていますが――、プレサックの研究はトロイの木馬であったのかもしれません。

D        そして、沈没しつつある『戦艦アウシュヴィッツ』の代わりに登場してきているのが、ガス車=ガストラックとか、トレブリンカ、ソビボル、ベウジェクなどの「純粋な絶滅収容所」という「幽霊船」なのです。

 

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[1] 『独ソ戦とホロコースト』、日本経済評論社、2001年、4頁。

[2] 『ホロコーストの力学』、青木書店、2003年、60頁。

[3] 『独ソ戦とホロコースト』、115頁。

[4] 同上書、117頁。

[5] 同上書、356頁。

[6] 『ホロコーストの力学』、青木書店、2003年、33頁。

[7] 同上書、59頁。

[8] 同上書、60頁。

[9] 同上書、81頁。

[10] 同上書、83頁。

[11] さしあたりマットーニョの諸論考、アウシュヴィッツ:伝説終焉」http://vho.org/GB/Books/anf/Mattogno.html、(その試訳)、「ジョン・ツィンマーマンとアウシュヴィッツの死体処理』」http://www.russgranata.com/jcz.html、(その試訳)、「アウシュヴィッツフリツォフ・メイアーによるしい修正」http://vho.org/tr/2003/1/Mattogno30-37.html(その試訳)

[12] ラウル・ヒルバーグ、望月その他訳『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』、柏書房、1998年。下巻、9697頁。

[13] 同上書、117118頁。

[14] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, New York, Beate Klarsfeld Foundation, 1989, p. 162.