歴史的修正主義研究会

最終修正日:2004301

 

<質問6

わが国の正史派の研究者○○氏は、その研究書の中で、アウシュヴィッツでの最初のガス処刑について、いささか異同のある記述をしているようですが、歴史的修正主義者はこの点をどのように考えていますか?

 

<回答>

 ○○氏の研究書の中から、アウシュヴィッツでの最初のガス処刑について言及している箇所を引用しておきましょう。

 

(a) 「…アウシュヴィッツ基幹収容所は、青酸ガス・チクロンBを実験した。それは4193のことだった。ソ連人戦時捕虜にたいし収容所地下室の一つで実施された。このように強制収容所における射殺による大量殺害もチクロンBによるそれも最初の対象となったのは普通のユダヤ人ではなく、ソ連戦時捕虜だったことを確認しておかなくてはならない。」[1]

 

(b) 「総督府では41年秋、何十万人ものソ連戦時捕虜が極悪の環境におかれていた。アウシュヴィッツ市内の基幹収容所で4195日から6にかけてツィクロンB(青酸ガス)によるはじめての大量殺害が行なわれたが、その犠牲者はソ連戦時捕虜600人、その他300だった。」[2]

 

(c) 「419月はじめ、アウシュヴィッツ基幹収容所ブロック11の地下室でツィクロンBによって600人のソ連人捕虜と250人の病人が殺された。」[3]

 

(d) 「93:アウシュヴィッツ基幹収容所の11号棟地下室でツィクロンBによる最初の囚人殺害」[4]

 

 

 

 たしかに、処刑の日付、処刑の場所、犠牲者の内訳、犠牲者の数について、微妙に表現が異なっていることがわかります。各記述には、典拠資料・文献を明らかにする脚注が付けられていますので、その典拠資料・文献自体が食い違っているのかもしれません。また、(d)の年表では、この事件は、93日の項目となっているので、○○氏は、「93日」説を採用しているのでしょう。ただし、2001年刊行の(a)では「93日」としていた○○氏が、その2年後に刊行した(b)では「95日から6日」に変更した理由は説明されていません。

 では、他の正史派の研究者はどのように記述しているでしょうか。

アウシュヴィッツ事件誌に関する正史派のバイブルともなっている、チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』にはこうあります。

 

93:数日前、カール・フリッチェの命じた、ガスを使った小集団のロシア軍捕虜の殺害実験が成功していた。そのあと、収容所当局は、ブロック11の地下室で実験を繰り返すことを決定した。…収容所医師SS大尉ジークフリート・シュヴェラ博士が、囚人病棟での選別を命じ、250名ほどの囚人が選別された。関係者は選別された囚人をブロック11のブンカーに連れて行くように、何名かを担架に載せていくように命じられた。ブンカーでは、彼らはいくつかの地下室に押し込められた。地下室の窓は土で覆われていた。そのあと、600名のロシア軍捕虜、将校、人民委員が地下室に連れてこられた。彼らは、特別ゲシュタポ部隊によって、捕虜収容所の中で選別されていた。彼らが地下室に押し込まれ、SS隊員がチクロンBガスを投入すると、ドアが閉じられ、気密状態とされた。」[5]

 

 チェクは、日付:93日、場所:ブロック11の地下室、犠牲者:ロシア軍捕虜と病気の囚人という説をとっており、基本的には、○○氏の記述と一致しています。というよりも、バイブルである『アウシュヴィッツ・カレンダー』がそのように記述しているので、その後の正史派の研究者たちは、それをオウムがえしにしているだけなのです。

 また、プレサックはどうでしょうか。彼は、1989年の主著『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』では次のように述べています[6]

 

「最初の実験的なガス処刑は、土で粗雑に穴がふさがれたブロック11の地下室で、194193日に、チクロンBを使って行なわれた。」

 

 これも、基本的には、チェクや○○氏の記述と一致しています。

 ところが、プレサックは、二番目の著作『アウシュヴィッツの焼却棟:大量殺戮装置』、その独訳版『アウシュヴィッツの焼却棟:大量殺戮の技術』、その英語短縮版(ペルトとの共著)「アウシュヴィッツの大量殺戮装置」では、「93日」説を放棄しているのです。

 

194112、チクロンBは初めて殺虫ではなく強制収容所の治療不能の250名の囚人と600名のソ連軍捕虜を殺すために使われた。」[7]

 

 プレサックは、はっきりと「93日」説を放棄しています。この文章に付けられている脚注では、その理由が次のように説明されています。

 

私は、最初のガス処刑が19419月に行われたというダヌータ・チェクの説を否定する。ヤン・ゼーンは、ソ連軍捕虜の最初のガス処刑は、194111月にゲシュタポのチームが1ヶ月間訪問したのちに起こったと述べているからである。ゼーンの説の方が信頼できそうである。とくに、ブロック11の地下室に入る前には、2日間の換気が必要であったと述べているからである。Danuta Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945 (Reinbek bei Hamburg, 1989), 117 and 119; Jan Sehn, Concentration Camp Oswiecim-Brzezinka (Warsaw, 1957), p. 105.[8]

 

 プレサックが、「2日間の換気が必要であった」という技術的な理由で、チェクの説をしりぞけていることに注意してください。

 また、フランス語版の『アウシュヴィッツの焼却棟:大量殺戮装置』とドイツ語版の『アウシュヴィッツの焼却棟:大量殺戮の技術』の巻末年表にも、93日の項目はなく、そのかわりに、125/末の項目に次のような記述があります。

 

125/:アウシュヴィッツ強制収容所のブロック11の地下室での最初のガス処刑。治癒不能の病人と『狂信的な』ソ連の共産主義者が犠牲者となった。チクロンBによる処刑には、2日間かかった。」[9]

 

 

論点

@        最初に確認しておかなくてはならないことは、アウシュヴィッツでのチクロンBを使った最初のガス処刑という「出来事」には、文書資料的証拠、物的・法医学的証拠がまったく存在せず、この「出来事」について語ったと思われる「目撃証言」だけが存在していることです。

A        しかし、これらの「目撃証言」は、処刑の日付、処刑の場所、犠牲者の内訳、犠牲者の数、処刑方法、処刑期間、死体の搬出方法などについて、まったくばらばらで、しかも内部矛盾を抱えているのです。詳しくは、この問題を研究したマットーニョ論文「アウシュヴィッツでの最初のガス処刑:神話の誕生」[10]を参照していただきたいのですが、日付だけに限定すれば、19417月から12月までの6ヶ月にまたがっているのです。一例をあげると、この事件の重要証人といわれているクラは「私の情報によれば、最初のガス処刑が行なわれたのは、ブロック11のブンカーで、1941814日から15日にかけての夜と15日の昼であった。私がこの日付を正確に記憶しているのは、これが、私が収容所にやって来た記念日と一致しており、そのとき、最初のロシア人捕虜がガス処刑されたからである」と述べており、「814日−15日」説を唱えています。このクラの説は、○○氏の記述(a)の典拠文献となっているコーゴン、ラングバインの『ナチスの大量殺戮』でも紹介されていますが、「明らかに誤りである」としりぞけられています[11]。クラが、「正確に記憶している」と断言していることを、「明らかに誤りである」としりぞける根拠は説明されていません。

B        また、プレサックが、「93日」説を否定しているのも注目に値します。プレサックは、アウシュヴィッツ中央建設局の文書資料を検討し(「中央建設局の文書館の資料の膨大な証拠は、収容所を虐殺目的で使い始めたのは、やっと19426月からのことであったことを示している[12])、ヘスの「自白」にもとづいたホロコースト正史の「アウシュヴィッツ絶滅収容所物語」の時系列を見直した結果、チクロンBを使った最初のガス処刑を19419月においてしまうと、この時系列に矛盾が生じてしまうために(ヘスによると、194111月にアイヒマンと会ったときには、まだ「適切なガス」が見つかってはいなかった)、最初のガス処刑の時期を194112月に移すと同時に、ヘスがヒムラーからアウシュヴィッツを「絶滅センター」とする命令を受けた時期を、「1941年夏」ではなく「1942年夏」のこととしたのです。このような「修正」によっても、「アウシュヴィッツ絶滅収容所物語」の矛盾が解決されているとは思いませんが、プレサックがこの矛盾をはっきりと自覚していることは高く評価できます。

 

結論

@        アウシュヴィッツでの最初のガス処刑に関する○○氏の記述は、チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』にはじまるホロコースト正史の「定説」にもとづいています。

A        もちろん、どのような研究書であれ、本論の研究目的に直接関係のない分野について、概説書や「定説」などに依拠せざるをえないことは仕方のないことですが、とくに、アウシュヴィッツでの最初のガス処刑がいつ起こったのかという問題は、「絶滅政策」がどのように形成・実行されてきたのか(「絶滅政策」の時系列)を明らかにしようとする○○氏の研究目的と直接関係していると思われます。だとすると、この事件に関する「目撃証言」の信憑性を検証すると同時に、気の進まないことかもしれませんが、「目撃証言」と資料を詳細に検討して、この事件は歴史上の事実ではなく神話にすぎないとの結論に達したマットーニョの研究(この事件についての唯一の研究)も参照する必要があると思われます。

B        また、○○氏は、ヘスが「絶滅センター」建設命令を受け取った時期を1942年夏に「修正」したプレサックの研究を、「最新の研究」として紹介していますが[13]、同じプレサックが、最初のガス処刑の日付を194112月に「修正」していることを等閑視しているのは不可解です。ただし、こうした時系列の矛盾に気づいて、何とかこの矛盾を取り繕うとすればするほど、ホロコースト正史による「アウシュヴィッツ絶滅収容所物語」の崩壊が進んでしまうかもしれません。

 

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[1] 『独ソ戦とホロコースト』、日本経済評論社、2001年、115頁。

[2] 『ホロコーストの力学』、青木書店、2003年、33頁。

[3] 同上書、83頁。

[4] 同上書、巻末関連年表、2頁。

[5] Danuta Czech, Auschwitz Chronicle 1939-1945, Owl Book Edition, 1997, p. 85-86.

[6] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, New York, Beate Klarsfeld Foundation, 1989, p. 132.

[7] Jean-Claude Pressac with Robert-Jan Van Pelt, "The Machinery of Mass Murder at Auschwitz", Yisrael Gutman and Michael Berenbaum, Anatomy of the Auschwitz Death Camp, Indianapolis, Indiana University Press, 1994, p. 209.

[8] Ibid., pp. 242-243.

[9] Jean-Claude Pressac, Les Crématoires d'Auschwitz. La Machinerie du meurtre de masse, CNRS éditions, 1993, p. 114. Jean-Claude Pressac, Die Crematorien von Auschwitz/Die Technik des Massenmordes, Munich/Zurich, Piper Verlag, 1994, S. 153.

[11] E. Kogon, H. Langbein, A. Rückerl, Nazi Mass Murder, A Documentary History of the Use of Poison Gas, New Haven and London, 1994 , p. 146.

[12] Jean-Claude Pressac with Robert-Jan Van Pelt, "The Machinery of Mass Murder at Auschwitz", p. 213.

[13] 『ホロコーストの力学』、27頁。