人間石鹸製造法
[妄想]
Gdansk: National Identity in the
Polish-German Borderlands, by Carl Tighe (Concord, MA: Pluto Press, 1990), pp.
173-177:
ダンツィヒ医学アカデミー解剖学研究所のシュパンナー教授の仕事は、それこそナチ世界の製品に他ならなかった。彼の仕事は戦時中は不快な噂にすぎなかったが、1945年になって、ドイツの軍事力による保護幕が消滅し、治安部隊が消え去ってしまうと、その真実が明るみに出るようになった。
解剖学研究所はバロック様式の医学アカデミーの建物の庭に隣接したところにある。建築学的にはとくに目立ったところのない、人目を引くことのない、漆喰の塗られていない煉瓦の建物である。この控えめな見せかけの後ろで、シュパンナー教授は、人体を石鹸に変えるための特別研究チームを統括していた。
シュパンナーは、一人の間抜けなダンツィヒ出身のポーランド人を伴って、ケーニヒスベルク、エルビング、ポメラニア地方のすべての監獄、シュトゥットホフとその付属収容所、ダンツィヒの精神病院をまわり、死体を購入して、それを自分の仕事場に搬送させた。ダンツィヒ刑務所がギロチンを設置したとき、シュパンナーは、刃が落ちる前に、最初の死体を購入した。間抜けなポーランド人がのちに明らかにしたところでは、刑務所から100体が搬送されたこともあり、ギロチンの導入によってはじめて、シュパンナーは自分の研究のための死体を安定して確保することができたという。
シュパンナーはとても気難しく、頭部のある死体であれ、頭部のない死体であれ、「腐敗」し始める以前に搬送されるようにひどく気遣っていた。彼はゲシュタポやSSによって銃殺された死体、銃殺隊によって処刑された死体の引取りを拒んでいたが、それは、彼によると、そのような死体の腐敗の進行は速いためであった。研究所の地下にあったシュパンナーの大桶には、一時に多くの人体を収容ができなかった。死体は毛をそられ、手足を切断され、皮をはがされ、半分にされていなくてはならなかった。シュパンナーは、身体から肉と腱を切り離す特別装置を設置した。処理の終わった残りの部分は、シュパンナーの助手が「田舎から」彼に送ってきた特別な製法にしたがって煮沸された。この製法――1944年2月15日付で、木の縁取りのある――は、ロシア軍とポーランド軍が1945年に町を占領したときには、まだ壁にかかっていた。すなわち、5kgの人肉、1ポンドにつき226gの苛性ソーダ、11リットルの水、2-3時間煮沸してから冷却。シュパンナーは、自分の製造した石鹸の泡立ちの改善にかなり苦労し、また、予算の多くが、この石鹸を人に使ってもらうために、良い香りを発するようにすることに使われた。
シュパンナーの仕事はナチスの高官のあいだで広い関心を呼び、人員の配置もそれを反映していた。一人のポーランド人助手のほかに、一人の年配の女性、二人の作業員、SS代理ヴォールマン教授、ベルゲンと呼ばれた年配の助手がいた。また、大量の脂肪や肉組織を骨から切り離したり、残余物を焼却しなくてはならないときには、多数の解剖学専攻の学生が動員された。
1945年5月5日、ベルリン陥落がせまっているとき、ナチ戦争犯罪国際調査委員会は研究所の地下にさまざまな準備段階にある350体以上の遺骸を発見した。委員会メンバーであったポーランド人小説家ゾフィア・ナルコフスカ(1884-1954)は、委員会が目の当たりにした光景を次のように描写している。
「遠く離れた窓からの薄明かりの中で、死者は昨日と同じように横たわっている。クリームのような白色をした若者の死体は彫像のようであり、必要とされなくなるまで何ヶ月も放置されていたにもかかわらず、完全な状態にあった。
死体は、ふたのついた長いコンクリートの桶の中に、大理石の彫像のように、縦長に一つ一つ積み重ねられていた。手は埋葬様式のように胸の上に重ねられるのではなく、身体の横に伸ばされたていた。頭部は、まるで石でできているかのように、トルソからスパッと切り離されていた。
そのような大理石の彫像の中の死者の一番上に、私たちの知っている首無しの『水兵』がいた。剣闘士のように大きな輝かしい青年であった。彼の広い胸には大きな船の刺青があった。二つの煙突の絵の上には、『神よ、われらとともにあれ』という文章が刻まれていたが、それも今となってはむなしい信仰告白であった。
死体の詰まった桶が次々と現れた。解剖学研究所が必要としていたのは、14体だけであったろうが、ここには350体あった。
二つの桶には、髪の毛のない頭部だけが入っていた。それらは、積み重ねられており、その顔は、偶然にも穴の中に積み重ねられたジャガイモのようであった。枕に押し付けられたように横を向いているものもあれば、上を向いているもの、下を向いているものもあった。滑らかで黄色味がかっており、石造彫刻のように首筋でスパッと切断されていた。
二人の教授とともに、赤い小屋に向かうと、今では冷たくなっている暖炉の上に、黒い液体のつまった大きな桶があった。…」
委員会は医学アカデミーの二人の上級教授にインタビューしたが、彼らは、シュパンナーの仕事については何も知らない、二人とも研究所の中にはいなかった、シュパンナーのスタッフだけが彼のしていることを知っていたと主張した。彼らの知る限りでは、シュパンナーは仕事熱心で、善良なドイツ人で、忠実な党員であったという。委員会は納得しなかった。外の庭には、少なくとも三つのシュパンナーの炉の残骸が残っていた。過剰に使われたので発火してしまったのである。発火のたびごとに、消防団が呼ばれた。アカデミーの二人の教授が発火原因を調査しなかったはずがない。同じように、乏しい資金を使ってこの炉を購入することを認めた教授たちがまったく質問しなかったはずがない。また、シュパンナーがこれらの炉を使うたび、発せられたはずの悪臭に気がつかなかったはずがない。アカデミー所長は、近所からの悪臭の苦情を耳にしており、深夜に肉を焼くようにとシュパンナーに要請しているからである。委員会は、厚生大臣、文部大臣、管区指導者、医学部長、教授たちが全国から引きも切らずにシュパンナーのもとを訪れていたと、シュパンナーの間抜けなポーランド人から知った。だから、委員会は、研究を運営していた教授たちがこれらの訪問の目的を知らされていなかったとか、賓客たちのレセプションに参加していなかったとかいうことを信じることはできなかった。
一人の教授は、シュパンナーが地下で何をしているかどうか推測しなかったかどうか尋ねられると、「たしかに、そのように憶測したに違いありません。当時、ドイツは脂肪の不足に苦しんでいましたから。シュパンナーは、帝国の経済状態を考えて、国のために良かれと思って、そのようなことをしたにちがいありません」と答えた。また別の教授は、「彼が忠実な党員であることは知られていましたので、そのような命令を受け取っていたのを知っていれば、そのようなことをしたと思います」と答えている。
教授たちの答えの中には、自分たちの研究所の名において行なわれていたことに対する憤りがまったく見られない。道徳的非難の表現すらもない。経済的な理由と党への忠誠が奇妙なかたちで交じり合っている。ドイツのためであればそれは許されるという考え方が証言の底流にあり、そのことは、ドイツのためであれば、このようなことも承認・正当化されるというほど、ナチ体制が普通のドイツ人の心の中にまで浸透していることを示している。ドイツ人の道徳的基準は、たとえ、このような教育を受け、特権を与えられているダンツィヒ医学アカデミー教授のような人々のあいだにおいてさえも、外部世界の価値から隔絶されてしまうと、根本的に変ってしまうのである。その結果、これらの人々が、自分たちの行為を説明するときに使う言葉にも変化が生じ、自分たち自身のことを考えるやり方も変ってしまった。ナチスは、人間存在の残酷な側面を普通の官僚用語で表現していた。それによって、個人からの責任の重みを取り除いたのである、
ダンツィヒで起ったことはドイツで起ったことの小宇宙であった。そして、シュパンナーの仕事場で起ったことは、ドイツ化と収容所の冷淡さ、ひいては死にたいする冷淡さの小宇宙であった。シュパンナーの研究所はナチが描く世界像であった。すなわち、国家からの補助金で運営され、SSスタッフ、従順なアカデミー会員を使い、普通の学生の協力を当てにできたのである。経済的効率性の観点からすると、下等人種およびドイツ帝国の敵が、ドイツ国民に役に立つ商品となったのである。
1945年1月、シュパンナー教授はダンツィヒを離れて、ザール地方のハレで教鞭をとった。彼の最後のメッセージは、自分の調法をしっかりと守ること、炉をオーバーヒートさせないことであった。その後、彼を見た者はいない。