アウシュヴィッツのガス室生存者の「目撃証言」

[ベルゼン裁判の妄想]

 

Raymond Phillips, ed. Trial of Josef Kramer and Forty-Four Others (The Belsen Trial)  London: William Hodge, 1949 p. 657.

 

18) レギナ・ビアレク(ポーランド人、28歳)の供述書

 

3. 1943年12月25日、私はチフスにかかり、350人ほどの女性とともに、メンゲレ医師とタウバー医師による選別で選び出されました。服を脱がされ、貨物トラックでガス室に連れて行かれました。アウシュヴィッツにはガス室が7つありました。私が連れて行かれたガス室は地下にありましたが、トラックはスロープを下ってそのまま部屋の中に入っていくことができました。ここで私たちは床の上に無作法にひっくり返りました。部屋は約12ヤード平方で、壁にある小さな電灯が部屋を薄暗く照らしていました。部屋が満杯となると、シューという音が床の中央部から出てきました。ガスが入ってきたのです。10分ほどたつと、何人かの犠牲者が自分の手をかみ始め、口から泡を吹き、耳、目、口から血を流し始めました。顔は青ざめていました。私にもこのような症状が出はじめ、のどが詰まったような感じがしました。メンゲレ博士が私の番号を呼んだとき半分意識を失っていました。そして、部屋から連れ出されました。アーリア人でアウシュヴィッツの医師であった私の友人の娘が、私が連れて行かれるところを目撃して、母親のその件を話し、母親がすぐにメンゲレ博士に頼んだので、ガス処刑を逃れることができたのです。メンゲレ博士は、政治囚としての私を生かしておく方が価値があると考えたにちがいありません。そして、私は釈放されたのです。

 

4. このガス室で一人の人間を殺すには15分から20分かかったと思います。

 

5. ガス室やその隣の焼却棟で働く囚人たちは、3ヶ月ごとに交代したそうです。古いスタッフは、修理作業を担当するとの理由で収容所の中にある屋敷に連れて行かれ、部屋に閉じ込められました。すると、ガス弾が窓から投げ込まれたのです。私の見積もりでは、1943年12月、7000名がガス室と焼却棟経由でアウシュヴィッツから消えていきました

[このような噴飯ものの供述書が、所長クラマーや女性監視員イルマ・グレーゼたちに死刑判決を下したベルゼン裁判では証拠として採用された。]

 

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