マイダネクの死者:150万人
[『ニューヨークタイムズ』の記事から]
収容所に裸で横たわっているナチの大量殺戮の犠牲者
ガス室と焼却棟からなる巨大な死の工場での犠牲者150万人
(ウィリアム・H・ローレンス、『ニューヨーク・タイムズ』、1944年8月30日)
ルブリン、ポーランド、8月27日、私は地球上でもっとも恐ろしい場所、マイダネクにあるドイツの強制収容所を見た。ここは死を生産するための本物の赤い河であり、ソ連とポーランド当局によると、過去3年間で150万人ほどのヨーロッパ各国からの人々がここで殺された[共産主義者による情報]。
収容所全体を見て回り、犠牲者が窒息死させられた気密のガス室、死体が焼却された5つの焼却炉を検証した。収容所のドイツ人将校とも話をしたが、彼は、ここがきわめて組織的な絶滅施設であることを率直に認めた。しかし、この殺戮に自分が関与したことは否定した。
ドイツ人は、赤軍が7月23日にルブリンに突入するまでに死体すべて焼却する時間を持っていなかった。私はこの骸骨の山を目にした。炉の中にはまだ骨の灰が残っていた。炉の傍らに積まれた灰は、近くの畑に運ばれて、キャベツの肥料として畑にまかれることになっていた[ホロコースト・ホラー物語]。
あばかれた10の大量埋葬地
東に10マイルのところにあるクレムピツキに出かけ、そこで、あばかれた10の大量埋葬地のうち3つを目撃し、さまざまな残酷で恐ろしい方法で処刑された男性、女性、子供の368の死体(一部は腐敗していた)を見た。当局によると、この森だけで、30万体以上があるという。
ドイツ人がここで殺戮した数を正確に述べることはできない。多くの死体が焼却されてしまったに違いないし、私が現場を訪れたとき、この周辺の埋葬地すべてがあばかれていたわけでもないからである。
しかし、長さ150フィートほどの収容所の木造倉庫入ってみると、満杯のエレベーターからぶちまかれたの半分の量の穀物のように、床全体に、文字通り数万個の靴が散乱していた。1歳ほどの幼児の靴もあった。老若男女の靴もあった。変形しているものもあった。ドイツ人は犠牲者を絶滅するためにだけではなく、自国民のために服を手に入れる場所としてもこの収容所を利用していたからである。明らかに高価なものもあった。少なくとも一足は「Goodyear welt」というスタンプをつけていたのでアメリカ製であった[靴:大量絶滅の必須アイテム]。
ルブリンの下町の倉庫を見て回ったが、収容所で死亡した人々の数百のスーツケース、文字通り数万個の衣服や所持品があった。ミルハイム出身のドイツ人将校へルマン・フォーゲル(42歳)に尋ねてみると、彼は、自分が監督していた衣服バラックの長として、2ヶ月間に、衣服を積んだ18の貨物列車がドイツに向かったこと、それはマイダネクで殺された人々のものだと知っていたことを認めた。
発見された犯罪の証拠
この現場を一目見れば、そこで犯罪が行なわれたことを信じることができる。私は、ソ連国内での数多くの虐殺現場の調査の場にいたが、これほど完全な証拠にはお目にかからなかった。ここではあらゆる証拠が、ドイツの犯罪を調査している人々の告発を立証している。
私は、マイダネクを調査してからは、どんなに野蛮・残酷・下劣であろうとも、ドイツが虐殺行為を行なったという話すべてを信じるようになった[共産主義者による「ガス室神話」の注入]。
約30名の外国人記者がポーランド国民解放委員会の招きでポーランドにやってきた。私もその一員として、ポーランド委員会副議長アンドレイ・ヴィトスを長とするソ連・ポーランド虐殺調査特別合同委員会とともに、6人の証人に質問する機会を与えられた。その中には、死の収容所の管理を担当した咎で裁判にかけられる予定の3人のドイツ人将校――フォーゲル、シェーレン、タントン・イアルネス――もいた。
リストアップされたドイツ側責任者
外国人記者団のために、委員会の検事(ポーランド人)が、手に入れることのできた証拠をまとめて説明してくれた。彼によると、以下のドイツ人が、マイダネクとクレムピツキ森での犯罪のおもな責任者であった。グロベニク将軍(ゲシュタポ、ルブリン地区SS長官)、ルブリン地区総督ヴェンドラー(ヒムラーの縁戚とされる)、ルブリン地区前総督ツェルナー(ルブリン地区のすべての強制収容所の責任者)、ヴァイス将軍(マイダネク収容所の責任者)、中隊長アントン・トゥマン(一時期マイダネクの責任者)、ムスフェルト(焼却棟の責任者)、クロプマン(ルブリン地区政治部長)
紙面の関係上、われわれがここで見聞きした犯罪の証拠すべてを詳述できないが、自分の目で見ることのできない読者のために、一人のドイツ人が話してくれたことを紹介しておく。彼ハンス・シュタウプは31歳で、髪の毛を短く刈り込んだ背の高いがっしりした人物であった。彼は、ドイツの闇市場での食肉販売に関与した咎で、マイダネクに収容され、撤退するドイツ軍からも置き去りにされた。
「ある日、この男は、収容所当局が焼却棟地区に近寄ってはならないという命令を出していたにもかかわらず、煉瓦のフェンスの中に忍び込み、10名ほどを搭載したトラックがやってくるときまで身をひそめていました。その中には、28歳か29歳ほどのポーランド人女性がいました。
トミー・ガンを持った看守が囚人たちを引き連れていましたが、彼らはトラックを降りて服を脱ぐように囚人たちに命令しました。この女性がそれを拒むと、ムスフェルトは怒って、彼女を殴り飛ばしました。彼女は叫び声を上げ、ムスフェルトは逆上して、『生きたまま焼き殺してやる』と叫びました。」
シュタウプの話では、それから、ムスフェルトは二人の随行員に、彼女の腕と足を捕まえるよう命じました。そして、まだ服を着たままの彼女を鉄のストレッチャーに載せ、彼女の身体を炉に押し込んだ。
シュタウプは、「大きな叫び声を一度耳にし、髪の毛が燃え上がるのを目撃しました。そして、彼女は焼却炉の中に消えて行きました」と述べた。[ホロコースト・ホラー物語]
何人かの証人によると、マイダネクで死の生産が最高潮に達したのは1943年11月3日だった。この日、どのような理由からかはっきりしないが、ドイツ人たちは、銃殺、絞首刑、ガス処刑といったさまざまな手段で、合計18000名から20000名を処刑したのである。
収容所の広さ670エーカー
私の見たマイダネクはこうである。ヘウム・クラクフ幹線上のルブリン中央駅から1.5マイルにある。その場に近づくと、アメリカ映画に登場するとの同じような強制収容所の光景が見えてくる。一番外側は、高さ12フィートの二重の電気鉄条網フェンスである。
中に入ると、こぎれいな緑色の建物が続き、それは、合衆国の基地の兵舎とさして変りはない。200ほどの建物がある。フェンスの外側には、14の機関銃搭があり、隅には、囚人追跡用に訓練された200頭以上の獰猛な犬のための犬舎がある。収容所全体では670エーカーである。
収容所に入ると、最初に立ち止まるところが受け入れセンターであり、この近くに浴室がある。ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人合計24カ国の国民がこの部屋に入って服を脱ぎ、72本のシャワーで水を浴びて、害虫駆除を受ける。
彼らは、直接次の部屋に入っていくこともあった。そこは、気密室で、屋根には、ドイツ人が、明るい青のチョークのような物質である青酸の結晶からなる毒ガス、「チクロンB」の缶を開けて投げ入れる穴が開けられている。この毒ガスは急速に死をもたらした。その他の囚人は長期にわたって収容されていた。聞くところによると、平均6週間であった。
シャワー室[殺人ガス室必須アイテム]の近くに、チクロンBや一酸化炭素を使った別の2つの死の部屋があった。一つは17uで、ドイツ人は一時に100−110名を処刑したという。部屋の床の周囲には、25cmごとに一酸化炭素を放出する穴の開いた金属管が走っていた。
観察された犠牲者の死
犠牲者はいつも処刑に先立って、入浴させられたという。温水は、毒ガス効果のスピードを促進するためであった。これらの死の部屋にはガラスのカバーのついたのぞき穴[殺人ガス室必須アイテム]が付けられており、そこからドイツ人は犠牲者の状態を観察して、死体を除去する時間を推し量ることができた。ドイツ語の商標のついたチクロンBの缶(開封、未開封)[殺人ガス室必須アイテム]も目にした。
ガス室から1マイルほどのところに巨大な焼却棟[殺人ガス室必須アイテム]がある。煉瓦製の建物は、小さな溶鉱炉のように稼働し、電気式の送風器で空気を送り込まれ、石炭を燃やす。両側に5つの穴がある。一方の側の穴から死体が積み込まれ、もう一方の側から灰が取り除かれた。各炉は一時に5体を収容した。
各炉に死体を押し込むのに15分、死体を焼却するのに10−12分かかるとの話だった[驚異的な焼却能力]。焼却炉全体の処理能力は、一日1900体と見積もられている。
炉の近くには、骸骨の一部、骸骨の全体が多数放置されていた。近くにある煉瓦の塀の後ろには20体以上の死体があった。赤軍がルブリンを占領した日に殺害されたが、逃亡する前に死体を焼却する時間がもはやなかったために、放置されたのだという。
炉からそんなに離れていないところに、多数の陶器の骨壷があった。調査当局によると、証人の話では、ドイツ人は一部の犠牲者のために骨壷を使い、家族にそれを2500マルクで売ったという。
炉の近くにコンクリートのテーブルがあったので、その使用目的を尋ねた。ドイツ人は焼却する前に犠牲者の死体をその上に横たえ、金歯を抜いて、廃物利用したという。死体は、金歯の有無の検査済みのスタンプが胸に押されてから、はじめて焼却にまわされたという。
マイダネクの主要施設を、ドイツの野蛮と残酷をのちの世代にまで展示できるように、現存のまま維持することがポーランド国民解放委員会の目的である。
ヴィトス氏は、アメリカ、イギリスの世論の一部には、ドイツ人との寛大な講和を支持する意見があるが、彼らは、ドイツ人たちが如何に残酷な行為を犠牲者に対して行なったのかを如実に示している証拠を、講和会議に先立って見ることができないことを残念に思うと述べた。彼の意見は、収容所を目の当たりにした人物ならば誰も抱く感情であろう[共産主義者による西側連合国民の世論操作]。
ここで話をすることのできたポーランド人はそんなに多くはなかったが、彼らは、ドイツ人に対しては、峻厳な手段で復讐することを支持しており、マイダネクの責任者を、彼らが建設した恐ろしい死の収容所で処刑すべきであるとの意見を抱いていた。