4.5.3 ヨハン・パウル・クレマー
R:戦時中、ヨハン・パウル・クレマーはミュンスター大学医学部教授でした。そして、1942年8月30日から11月18日まで、アウシュヴィッツ収容所医師代理をつとめ、その間、日記をつけていました。この日記の項目のうち、いくつかがアウシュヴィッツで大量絶滅が行なわれた証拠としてたびたび利用されてきましたし、クレマー自身が1947年のクラクフでのアウシュヴィッツ裁判[1]、1964年のフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判[2]で、そのように証言してきました。以下がクレマーの日記からの抜粋です[3]。
「伝染病(チフス、マラリア、下痢[ママ])のための、収容所の検疫。」(8月30日)
「午後、シラミの駆除のためのチクロンBを使ったブロックのガス処理。」(9月1日)
「1942年9月2日:今朝の3時、私ははじめて、外で、特別行動に立ち会った。これに比較すると、ダンテの地獄など喜劇のようである。アウシュヴィッツが絶滅の収容所と呼ばれているのはいわれのないことではない。」(9月2日)
「午後、女性収容所(「モスレム」)での特別行動に立ち会った。恐怖の中でもっとも恐ろしいものであった。軍医[4]のチローSS曹長は、われわれは『世界の肛門』にいると話していたが、それももっともである。夕方8時ごろオランダからの特別行動があった。」(9月5日)
「午後8時、ふたたび、外での特別行動。」(9月6日)
「二回目のチフスに対する予防注射、そのあと、夕方、強い副作用(熱)。にもかかわらず、夜、オランダからの特別行動(1600人)。最後のブンカーの前での恐ろしい光景!これは10回目の特別行動であった。(ヘスラー)。」(10月12日)
「この日曜日の朝、湿った冷たい天候の中で、11回目の(オランダからの)特別行動に立ち会った。3名の女性が命を助けてくれと懇願する恐ろしい光景。」(10月18日)
L:やっぱり絶滅収容所が存在していたのではありませんか!
R:そんなに急がないでください、お願いします。
クレマーの日記だけではなく、さまざまな資料によると、この当時、チフス、マラリア、赤痢が破局的に蔓延していました。ひどい衰弱(このために、「Muselmen」という表現)と止めることのできない下痢(このために「世界の肛門」という表現)は、チフスと赤痢の症状であり、これだけで、アウシュヴィッツに「世界の肛門」というあだ名を与えるには十分でした。
この疫病によって数千の犠牲者が出たことを考えると、クレマーがアウシュヴィッツを指して「絶滅の収容所」という単語を選んだ点も明らかです。ただし、クレマーが「ガス処理」という表現を使っているのは一回だけで、それも、囚人バラックの燻蒸との関連で使っているだけです。
「特別行動(Sonderaktionen)」という単語は殺人ガス処刑のことを指しているということがよく云われてきましたが、9月5日と12日の項目は、この主張とは矛盾しています。
彼は「オランダからの特別行動に(bei einer Sonderaktion aus Holland)」という表現を使っていますが、これは、オランダ系ユダヤ人の移送を指している用語に違いありません。そうでなければ、「オランダからのユダヤ人に対する特別行動に(Sonderaktion an Juden aus Holland)」と書いたはずだからです。
同じように、移送集団が恐ろしい光景を引き起こしたという事実は、クレマーが大量処刑を目撃したことを立証しているわけではありません。
まったく無実なのに移送されてきた人々のなかには、あらゆる噂に惑わされてパニック状態におちいっており、また、つらい長旅のためにまったく消耗してしまって到着したときにパニック状態におちいった人がいたに違いありません。これからどうなるのか不安にとらわれて、命乞いをした人々がいても不思議なことではないのです。
クレマーが大量処刑を目撃してはいないことを示唆するその他の強力な証拠もあります。批判的な分析精神を持つクレマー教授は、日記の中で、ドイツ政府に対する批判を数多く行なっています。たとえば、1943年1月13日、フィリップ・ランナルドの「ドイツ的物理学」説について、アーリア的科学対ユダヤ的科学という設定はナンセンスであり、真実の科学対虚偽の科学という設定があるだけであると記しています。その同日、クレマーはまた、第三帝国時代の学問の検閲をガリレオ・ガリレイ時代の状況になぞらえています。こうした、彼の人間主義的精神と自由で批判的な姿勢を念頭におくと、数千人の命の絶滅について、とくに彼もそのような虐殺行為に関与させられた場合、その事件についてまったく触れないというようなことは考えにくいのです。
L:そのようなことを日記に記載すれば、それが当局の目に触れた場合、厄介なことになることを懸念していたのではありませんか。
R:その他の問題では、彼は民族社会主義政府について批判的なコメントを日記に記載しておりますので、そのようなことはまったく考えにくいのです。さらに、クレマー教授は、ユダヤ人絶滅を専門家として手助けするために、10週間の特別任務を割り当てられ、そのあと突然、大学に戻ることを許されて、自分が手助けしたことについて学生や同僚に講義することを許されたことになっていますが、もしも、秘密の虐殺作戦が進行中であるとすれば、そのようなこともまったく考えにくいのです。独立精神に富んだ教授が、ドイツ西部の大学から、数週間だけ、アウシュヴィッツ勤務を割り当てられたという事実こそが、そこには何も隠匿すべきことがないとドイツ当局が考えていたことを示しているのです。
1942年10月21日にクレマー教授がしたためた手紙は、彼がまず何に心を向けていたのかを明らかにしています[5]。
「まだはっきりとした情報はないのですが、12月1日までに、ミュンスターに戻って、このアウシュヴィッツの地獄から離れることができるだろうと思っています。ここでは、発疹チフスなどに加えて、腸チフスもひどく蔓延するようになっています。」
多くの外国人研究者たちは「オランダからの特別行動(Sonderaktion aus Holland)」という文章の中の重要な単語「から(aus)」を意図的に削除するか誤訳することで、クレマーの日記を歪曲してきました。たとえば、ダヌータ・チェクは、「Special action with a draft from Holland(オランダからの選抜移送者に対する特別行動)」と英訳しています[6]。
L:でも、クレマーは、法廷証言では絶滅説を確証しています。これについてはどう説明されますか?
R:その他のいわゆる「民族社会主義の殺人犯被告」の証言が、見世物裁判によって、公式の法廷証言となっていったのと同じやり方でです。これらの裁判は、どのような意味にでも取れるような証言・供述について、一つだけの説明・解釈を提示しました、被告にはこの解釈を受け入れて寛大な処分を期待するか、受け入れないで、厳罰を科せられるかの選択肢しかありませんでした。多くの被告は前者をとったのです[7]。
[1] Proces zalogi, vol. 59, pp. 20f.;
cf. the footnotes comments to the Kremer diary in J. Bezwinska,
D. Czech (eds.), op. cit. (note 941), pp. 214-226.
[2] Cf. H. Langbein, op. cit. (note 1034), p. 72.
[3] J. Bezwinska, D. Czech
(eds.),
[4] Hauptscharfuhrer.
[5] R. Faurisson, Memoire en defense, op. cit. (note 149), pp. 55f.
[6] J. Bezwinska, D.
Czech (eds.), op. cit. (note 941), pp. 215f., 223; 動揺に、ヴィダル=ナケも、 Assassins
of Memory, Columbia
University Press, New York 1992, p. 114,「1942年10月12日、私はオランダからの人々に対するもう一つの特別行動に立ち会った」と訳している。
[7] 1960年11月29日、クレマーはミュンスター地方裁判所で、2件の殺人事件の咎で懲役10年の刑に処せられた。彼はすでに1947年から1958年までポーランドの刑務所で11年間服役していた(クラクフ裁判では死刑判決であったが、その後減刑されていた)ので、ドイツの刑務所には一日たりとも服役する必要がなかった。I.
Sagel-Grande et. al. (eds.), op. cit. (note ), vol.
XVII, pp. 3-85; see also E. Kogon et al., op. cit.
(note 96), pp. 141f.; G. Reitlinger, op. cit. (note
252), p. 124.