1.3 私たちはいつからホロコーストについて知るようになったのか?[犠牲者600万人という数字の起源]
R(ルドルフ):もちろん、ホロコーストに関する私の定義は、数多くの定義の中の一つにすぎませんし、実際、ホロコーストにまつわる諸事件は各人各様さまざまな角度から眺められていますので、共通の舞台に立つことが難しくなっています。このことは、次のテーマ、すなわち、「世界がはじめてホロコーストのことを耳にしたのはいつであったのか?」にも、とくにあてはまります。これに対する回答は、ホロコーストという用語の定義にかかっています。ですから、ここでは、問題を多角的に考察するために、ホロコーストに関する定義を拡張することにします。
そこで、次のように問題提起することにします。中央ヨーロッパと東ヨーロッパの600万人ほどのユダヤ人が死の恐怖に脅かされている、もしくはすでに殺されているという事実を世界がはじめって知ったのはいつであったのか? この質問に誰か回答できますでしょうか
L(聴衆):世界はドイツ占領下の地域で進行していたことを、終戦以前に、ある程度は知っていたと思いますが、犯罪の詳細や規模については知らなかったと思います。
R:では、私たちは、600万人という犠牲者の数字については、いつから話題にしていたのでしょうか?
L:この問題に光をあてたのは1946年のニュルンベルク裁判のときがはじめてだと思います。
R:それが普通の見解です。ドイツ占領下の地域で進行していることを調査できるようになったのは戦後になってからであるとお考えであれば、この見解は合理的に思われます。しかし、もっと深く考察してみましょう。
ニュルンベルク裁判記録を分析すれば、ユダヤ人犠牲者600万人という数字[1]は、人口調査による統計学的証拠にも、犯罪にまつわる物的証拠の調査結果にももとづいておらず、たんに、二人のドイツSS官僚の伝聞証言にもとづいていることがわかります。そのうちの一つ、ヴィルヘルム・ヘットルによる証言[2]は、文書証言としてだけ提出されています。もう一つの、ディター・ヴィスリセニイの証言[3]は、法廷での証人証言というかたちでした。しかし、ヴィスリセニイは反対尋問を受けていません。二人の証人とも、アイヒマンから600万人という数字を聞いたと証言していますが、アイヒマン自身は1961年のイェルサレムでの裁判でこの件を否定しています[4]。
ヘットルもヴィスリセニイも、ユダヤ人をアウシュヴィッツに大量移送した咎で、もともとはニュルンベルク監獄の被告人監房に収容されていました。しかし、その証言のおかげで、証人監房に移ったのです。それは、多くの場合、自分の命を救うことになる引越しでした。その後、ヴィスリセニイとアイヒマンは裁判にかけられて絞首刑となりましたが、ヘットルは、ユダヤ人の移送に積極的に関与していたにもかかわらず、訴追されませんでした。彼は、犯罪を立証する証言を行なったことと引き換えに、赦免を約束され、その約束は、ヴィスリセニイの場合とは異なって、実際に守られたのです。ヘットルは自伝[5]の中で、自分の証言を正当化しようとしていますが、その内容は彼自身の初期の証言とは矛盾していますので、彼は疑わしい証人であったといえます[6]。
L:言い換えれば、ヘットルとヴィスリセニイは検事を喜ばせることで、自分の命を救おうとしたということですか?
R:そう簡単にはいえません。はっきりしていることは、ニュルンベルク監獄の被告監房と証人監房にいた多くの囚人の頭の中には、たえず、縛り首の綱がうかんでいたことです。ですから、誰かが自分の命を救うために密約を結んだとしても驚くことではないのです。
L:ニュルンベルク裁判に出頭した証人も監獄に収容されたのですか?
R:はい、連合国が彼らに疑念を抱いており、彼らが、ドイツ政府、ドイツ軍部隊、SA、SSといった犯罪組織とみなされた組織のメンバーである場合には。このような証人は、「強要された証人」でした。彼らは、自分で、ニュルンベルクに残って証言するべきか否かを決定できなかったのです。
L:それは好ましいことではありませんね。
R:まったくそのとおりです。あれこれの裁判に適用された全体的な審理手順についてはあとであつかうことにします。600万人という数字に戻りましょう。アーヴィング氏はその異端的な見解ゆえに中傷されていますが[7]、1996年に刊行されたニュルンベルク裁判に関する研究書の中で、シオニストの指導者たちが、ヨーロッパで戦争が終わったすぐあとの1945年6月にワシントンにやってきて、ヨーロッパの混乱した状態のもとでは人口調査などはまったく不可能であるにもかかわらず、ユダヤ人犠牲者の詳しい数字をはじき出すことがどうしてできたのであろうか、という疑問を呈しています[8]。
L:ユダヤ人団体は地元のユダヤ人集団と接触していて、これらの集団が存在していないことを知ったのではないでしょうか?
R:そうかもしれませんが、もう少し話をさせてください。アーヴィング氏の1年前、数十年間もドイツ連邦軍事史調査局に勤めていたドイツ人歴史家ヨアヒム・ホフマン氏は、ソ連の虐殺宣伝家イリア・エレンブルクが、終戦の4ヶ月前の1944年12月に、ソ連の外国語新聞紙上で600万人という数字をあげていることを指摘しています[9]。また、1944年5月には、シオニストの活動家でラビのドフ・ヴァイスマンデルは、その月までに、ヨーロッパとロシアの600万人が絶滅されたと述べています[10]。
一方、ヴィルヘルム・ヘットルは、ヒトラーの脅威にさらされている600万人のユダヤ人のうち半分がすでに殺されていると述べている『リーダース・ダイジェスト』1943年2月号の記事を発見しています[11]。『ニューヨーク・タイムズ』紙を検討してみると、このような数字は頻繁に登場しています。数例をあげておきます[12]。
1942年12月13日の記事21頁:「…信頼すべき情報によると、すでに200万のユダヤ人が悪魔的な野蛮な方法で虐殺されており、ナチ支配下のユダヤ人すべてを絶滅する計画が発動されている。ヒトラー支配下のユダヤ人住民の3分の1がすでに殺戮されており[3×200万=600万]、全員を殺戮することは比類のないホロコーストである。」
1942年12月20日の記事23頁:「ドイツ支配下のヨーロッパにいる500万人のユダヤ人に何が起っているのか、全員が絶滅に直面している。…1942年12月初頭、ワシントンの国務省は、枢軸国が支配するヨーロッパで、1939年以来、移送されて殺されたユダヤ人犠牲者の数が200万に達しており、500万人が絶滅の危機にさらされているとの数字をあげている。」
1943年3月2日の記事1、4頁:「ナチの拷問と虐殺から逃れることをできる人々を救うことで、同胞ユダヤ人600万人の生きる自由を保障するように[とラビのヘルツは述べた]。」
1943年3月10日の記事12頁:「…200万人のユダヤ人がヨーロッパで殺された。…計画によると、残りの400万人が殺されようとしている。」(2+4=6百万人)
1943年4月20日の記事11頁:「200万人のユダヤ人が掃討された。…500万人が処刑の危機にさらされている…。」(2+5=7百万人)
L:昔から、約600万人が絶滅の脅威にさらされていることがわかっていたわけですね。それは不思議なことではありません。のちにドイツ軍が占領することになる地域にはどのくらいユダヤ人が生活していたのかわかっていたはずですから。
R:これは、貴重な考察です。600万人という数字の起源は、実際の犠牲者数を確定したのではなく、ドイツ帝国の支配下にあるユダヤ人すべてが絶滅の脅威に直面しているという推定にもとづいているというのですね。
しかし、間接的にではありますが、このような考え方を否定する出来事があります。それは、ヒトラーがドイツで生活するユダヤ人だけを支配しており、戦争の勃発と緒戦でのドイツの勝利を誰も予想していなかった1936年の出来事です。この年、パレスチナの分割を想定するピール委員会の公聴会がありました。シオニスト世界組織代表チャイム・ヴァイツマンが公聴会に出席して、ヨーロッパでは600万人のユダヤ人が望ましからざる分子とみなされ、獄中にいるかのように暮らしていると述べています[13]。ここでも、ソ連で暮らしているユダヤ人も含んだヨーロッパ・ユダヤ人全体の合計の数字が登場しています。1936年の時点では、本質的に反ユダヤ主義政策を採用していた国はドイツとポーランドだけでして、この二つの国に生活していたユダヤ人は300万人ほどでした。ヴァイツマンが触れている残りの200万人は、とくにユダヤ人のために建てられた監獄の中で生活していると感じてはいませんでした。ソ連のユダヤ人は自由ではなかったかもしれませんが、彼らに対する抑圧は、全体主義体制の一般的政策の一部であり、直接ユダヤ人に向けられた動きではありませんでした。
L:ソ連は多くの異なった民族が閉じ込められていた監獄でした。
R:そのとおりですが、この当時、ユダヤ人にパレスチナを与えることに賛同する意見はまったくありませんでした。このことが、ピール委員会でのヴァイツマンの発言の背景にあるのです。ソ連におけるユダヤ人の抑圧が、ユダヤ人にパレスチナ地方を与える、すなわち、そこで暮らしているアラブ人からパレスチナをとりあげる十分な理由であるとしたら、ソ連国内で生活するその他の民族、キリスト教徒、イスラム教徒、ウクライナ人、ドイツ人、グルジア人、アルメニア人、ウズベク人、タジク人、モンゴル人その他大勢も自分たちの領土を求めることができるようになります。その領土とは別のパレスチナ地方なのでしょうか。アラブ世界の別の地域なのでしょうか。
ヴァイツマンが、抑圧に苦しむユダヤ人=600万人という印象的な数字を使ったのは、政治的目的、すなわちシオニストの目的を達成するためです。
L:もともとの設問からずれてきているようです。ヴァイツマンはホロコーストもしくは差し迫った絶滅、進行中の絶滅については語っていないからです。それが語られはじめるのは、戦時中の新聞報道からではないでしょうか。
R:いつの戦争のことですか?
L:もちろん、第二次世界大戦です。
R:それは間違っています。同じような話は第一次世界大戦中に、とくに、戦争直後に出回っていました。
驚かれたかもしれません。私のことを不信の目で見ておられるかもしれません。ですから、この当時何が起っていたのかをもう少し詳しくお話しておきます。このテーマについて執筆したアメリカ人著述家Don
Heddesheimerの分析結果を紹介しておきます[14]。1915年以降、さまざまなアメリカの新聞、とくに『ニューヨーク・タイムズ』紙は、おもに中央ヨーロッパと東ヨーロッパのユダヤ人が戦争による環境の中で苦難を経験していると報じています。
1919−1927年、合衆国では、ユダヤ人団体が、中央ヨーロッパと東ヨーロッパの500−600万人のユダヤ人が死に直面しているとして、基金を集めるキャンペーンを広く展開しました。これらの新聞報道とキャンペーンの広告をいくつか紹介しておきます。
『ニューヨーク・タイムズ』1926年12月4日:「500万人の飢えた人々…世界のユダヤ人の半分が、疫病と飢餓で死に瀕している…」
『ニューヨーク・タイムズ』1926年4月21日:「すべての人々が死にかけている、…数百万人のユダヤ人がヨーロッパで罠におちこんでいる、これがヨーロッパのユダヤ人からの叫び声だ…」
『ニューヨーク・タイムズ』1922年1月9日19頁:「筆舌に尽くしがたい恐怖と際限のない犯罪がユダヤ人に襲いかかっている。ヘルツ博士は、100万人が殺戮されている、ウクライナでは3年間で300万人が『地獄の恐怖を経験』させられたと述べている…」
L:ここに登場しているヘルツ氏は、1943年3月に、『ニューヨーク・タイムズ』紙上で、600万人のユダヤ人がナチスによって虐殺されようとしているので、救いの手を差し伸べなくてはならないと述べたヘルツ氏と同じ人物ですか?
R:はい、同じ人物です。
L:二つの話は驚くほど似ていますね。
R:ほかの実例を紹介しましょう。最初に、1920年代の記事、第一次大戦直後の数ヶ月の記事を紹介させてください。
『ニューヨーク・タイムズ』1920年5月7日:「…中央ヨーロッパと東ヨーロッパのユダヤ人戦争難民、ここでは600万人が、飢餓、疫病、死という恐ろしい状況に直面している…」
『ニューヨーク・タイムズ』1920年5月5日9頁:「東ヨーロッパの600万人の男女を飢餓と疫病による絶滅から救うために…」
『ニューヨーク・タイムズ』1920年5月5日19頁:「戦争に引き裂かれたヨーロッパの、飢えと熱病に苦しむ600万人が、われわれに訴えている…」
『ニューヨーク・タイムズ』1920年5月3日11頁:「東ヨーロッパと中央ヨーロッパの600万人の命を救うためにあなた方の援助が必要です」
『ニューヨーク・タイムズ』1920年5月3日12頁:「ロシアとその近隣諸国では、ユダヤ人はとくに悪質な迫害にさらされてきた…。500万人以上が実際に飢えているか、飢餓の淵にあると見積もられている。彼らのあいだでは、チフスの疫病が蔓延し、近隣の住民にも広がっている」
『ニューヨーク・タイムズ』1920年5月2日1頁:「600万の人間が、食料、宿舎、衣服、衣料のないまま放置されている」
『ニューヨーク・タイムズ』1920年5月2日8頁:「しかし600万人の命が答えを待っている」
『ニューヨーク・タイムズ』1920年4月21日8頁:「今日、ヨーロッパでは、500万以上のユダヤ人が飢えているか飢餓の淵にあり、多くがチフス疫病にかかっている」
『ニューヨーク・タイムズ』1919年12月3日19頁:「奇跡だけが、この冬、ヨーロッパと中東の500万から1000万の人々が凍死する、飢え死にすることから、…すなわちユダヤ人大虐殺から救うことができる」
『ニューヨーク・タイムズ』1919年12月3日24頁:「500万人がポーランドで飢餓に直面。…戦争は東ヨーロッパに500万人の窮乏し打ちのめされたユダヤ人を残した」
『ニューヨーク・タイムズ』1919年11月12日7頁:「600万人、世界のユダヤ人口の半分、100万の子供と…500万の両親と老人が、悲劇的なほど窮乏化し、飢え、疫病にかかっている」
『アメリカン・ヘブライ』1919年10月31日頁582ff:「600万人の男女が海の向こうから救いを求めている。…600万人。…600万人が死にかけている…人間生活に対する脅迫的なホロコーストの中で…600万人の飢えた男女。600万人の男女が死にかけている…」(付録に掲載されている)
L:最後のテキストにはすべてが表現されていますね。600万人とホロコーストという概念が登場してきています。
R:そうです、この資料の中身は、のちの話と驚くほど一致しているものなのですが、もっと時間をさかのぼってみましょう。
『ニューヨーク・タイムズ』1919年10月26日1頁:「東ヨーロッパの400万人の飢えたユダヤ人」
『ニューヨーク・タイムズ』1917年8月10日:「ドイツ人はユダヤ人を死なせている。ワルシャワの女子供が飢え死にしようとしている。…」
L:何と、ドイツ人が悪者になっていますね。
R:はい。しかし、ドイツ人は悪者であったわけではありません。事実、戦時中と戦後、さまざまなドイツ人の部局が、ユダヤ人団体が集めた基金を東ヨーロッパに持ってくるのを助けたのです。ドイツ人に悪者の烙印を押すことは戦争宣伝にすぎず、終戦後は終わりました。それ以降は、東ヨーロッパ諸国での実際の虐殺事件、捏造された虐殺事件に関心が集まりました。この点に関連して、『ニューヨーク・タイムズ』1919年5月23日9頁に掲載された、ポーランドでの反ユダヤ・ポグロムについての記事を紹介しておきます。歴史が皮肉なかたちでねじれてしまっているのですが、『ニューヨーク・タイムズ』紙の編集者たちは、記事の信憑性に疑問を呈しています[15]。「ドイツの宣伝家は、連合国に組するポーランドを中傷することで、得点を挙げようとしている。それゆえ、彼らがこれらの記事を直接執筆したか、もしくはその内容を誇張したと指摘されてきた。ドイツは、目的を達成するために、そのような話を広めることがひどい詐術であるにもかかわらず、話を広めるのを助けたか、話を捏造したに違いない…」、と。この意見にしたがえば、ユダヤ人の苦難に関する虚偽の記事はひどい詐術であったことになります。この点を忘れるべきではありません。
L:『ニューヨーク・タイムズ』が報じている、東ヨーロッパのユダヤ住民に襲いかかった苦難と死が現実を反映しているかどうかという問題が、まだ解決されていませんが。
R:Don
Heddesheimerが彼の本の中でこの問題を分析しています。東ヨーロッパの住民の中で、ほとんど無傷で第一次世界大戦をくぐり抜けたのはユダヤ人だけであったというのが彼の結論です。これが、この問題に対する答えとなっています。
しかし、歴史をさかのぼる旅にもう少々お付き合いください。
『ニューヨーク・タイムズ』1916年5月22日11頁:「ポーランド、リトアニア、クールランドの約245万のユダヤ人のうち、177万人が残っており、そのうち、70万人が緊急かつ恒常的な窮乏状態にある」
すでに1916年、ヨーロッパ・ユダヤ人の「苦境」を描いた『東ヨーロッパ戦争地域のユダヤ人』と題する本が、アメリカ合衆国の25万人の重要人物に配布されています[16]。この本は、ロシアが特定の地域を懲罰コロニーのような地域に変え、そこでは600万人のユダヤ人が、権利も社会的地位も奪われて、虐殺されるのではないかという恐怖に脅えながら、悲惨な生活を余儀なくされていると論じていました[17]。「腐敗した残酷な看守がガードする、600万の囚人を収容した監獄」というのです。
この本『東ヨーロッパ戦争地域のユダヤ人』は、この当時、メディア、例えば『ニューヨーク・タイムズ』紙にたびたび引用されています。
もっとも早い記事は、戦争初年のものです。
『ニューヨーク・タイムズ』1915年1月14日3頁:「今日の世界には、1300万人のユダヤ人がいるが、そのうち600万人以上が戦争の中心地区で生活している。ここで暮らしているユダヤ人の命は風前の灯であり、彼らは苦難と悲しみの暮らしを強いられている…」
もっとさかのぼってみましょう。1900年、ラビのステファン・ヴァイズは、合衆国のユダヤ人福祉団体を前にして、「600万人の苦難に満ちた声がシオニズムを支援しています」と発言しています[18]。
L:ユダヤ人の苦難が語られる場合には、いつも600万人という数字が登場しているようですね。
R:これには特別な理由があるのです。Benjamin
Blechは、600万人の同胞を失ったのちに、約束の土地に帰ることをユダヤ人に約束する古代ユダヤの予言について言及しています[19]。
L:ルドルフさんが紹介してくれた文章は、さまざまなユダヤ人指導者にとって、ユダヤ人の苦難が約束の土地に戻るという目的のために役に立ったということを意味しているのですね。
R:まったくそのとおりです。パレスチナがシオニストに約束されたのは、第一次世界大戦中のイギリスのバルフォア宣言によってであることを忘れてはなりません。これこそが、第一次世界大戦中とその戦後のホロコースト宣伝の主要目的であったに違いありません。
L:『ニューヨーク・タイムズ』だけがこのような記事を何回も掲載したのですか? ほかの新聞はどうでしたか?
R:ここで『ニューヨーク・タイムズ』を引用したのは、この新聞が最も広く読まれており、もっとも権威を持っており、もっとも影響力を持っている新聞だからです。ほかの新聞がこのような記事を掲載しなかったというわけではありません。ほかの新聞の文書資料が、今のところ検証されていないだけです。一方、『ニューヨーク・タイムズ』紙がこの当時すでに、ユダヤ人の手の中にあったことも忘れてはなりません。この点については、前編集長Max
Frankelの文章を引用しておきます[20]。
「私の世代のアメリカ系ユダヤ人は、[反ファシズム]という雰囲気を利用して、積極的に、自分たちを文化的に際立たせ、自分たちの倫理性をひけらかし、自分たちのルーツの中に文学的インスピレーションを探し出し、イスラエル復活の光を浴びようとした。…私は、偶像や使命のかわりに、言葉と議論を崇拝し、アメリカ文化の中への、文字通り恥知らずなユダヤ人の侵攻の一部となった。世界の反ユダヤ主義者のもっとも野蛮な妄想を実現することには、とくに満足感を覚えた。書物の管理者、法律の作成者、至上のストーリーテラーとしてのわれわれの遺産に鼓舞されて、アメリカのユダヤ人は、大学やすべてのマスメディアの中で、不釣合いなほどの影響力を持つにいたったのである。
…パンチ[『ニューヨーク・タイムズ』の所有者『パンチ』・スルツバーガー]が主導権をもっている数年のあいだに、経営編集者――A.
M. Rosenthal――と私だけではなく、紙面に登場するトップ編集者全員がユダヤ人となった。…」
L:『ニューヨーク・タイムズ』紙がなぜ一面的であるか、十分に説明していますね。
R:そのとおりです。高名な歴史家たちは、第二次世界大戦中のホロコーストに関してさえも、600万人という数字に「象徴的」な意味合いを与えてきましたが[21]、この数字はユダヤ住民の損失を実際に算出した結果出されたものではありません。ですから、世界中の著名な統計学者たちが、犠牲者数は、これまでまったく明らかになっていないと述べているのも驚くべきことではないのです[22]。しかし、こうした事態は、このテーマに関する二つの研究のおかげで変わりました。それについてはあとで触れることにします。
[1] International
Military Tribunal, Trial of the Major War Criminals (IMT), Nuremberg
1947, Vol. XII, p. 377, Vol. XIII, p. 393, Vol. XIX, p. 405, 418, 434, 467,
611, Vol. XXI, p. 530, Vol. XXII, p. 254, 538 (cf. the complete IMT online:
www.yale.edu/lawweb/avalon/imt/imt.htm).
[2] Ibid.,
Vol. III, p. 569, Vol. XI, p. 228-230, 255-260, 611, Vol. XXII, p. 346, Vol.
XXXI, p. 85f.
[3] IMT,
vol. IV, pp. 371.
[4] R. Aschenauer, Ich,
Adolf Eichmann, Druffel, Leoni 1980, pp. 460f., 473ff., 494; for the historical
value of this Eichmann biography cf. D. Kluge, Deutschland in Geschichte und
Gegenwart (referred to below as DGG), 29(2) (1981) pp. 31-36 (www.vho.org/D/DGG/Kluge29_2.html);
cf. also R. Servatius, Verteidigung Adolf Eichmann, Harrach, Bad
Kreuznach 1961, p. 62ff.; U. Walendy, Historische Tatsachen no. 18
(referred to below as HT), Verlag fur Volkstum und
Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1983; H. Arendt, Eichmann in Jerusalem,
Reclam, Leipzig 1990, pp. 331ff.
[5] Wilhelm
Hottl, Einsatz fur das Reich, Verlag p. Bublies,
[6] Cf.
G. Rudolf, “Wilhelm Hottl – ein
zeitgeschichtlich dilettantischer Zeitzeuge,” Vierteljahreshefte
fur
freie Geschichtsforschung (referred
to below as VffG), 1(2) (1997), pp. 116f.
22 Cf. section 2.18., p. 151.
[7] Cf.
section 2.18., p. 151.
[8] D.
[9] J. Hoffmann, Stalin’s War of
Extermination 1941-1945, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL,
2001, pp. 189, 402f.
[10] Lucy
Dawidowicz, A Holocaust Reader, Behrman House,
[11] W.
Hottl, op. cit. (note 20), pp. 412, 515-519.
[12] First quoted by
Arthur R. Butz, The Hoax of the Twentieth Century, Historical Review
Press,
[13] Thomas Mann, Sieben Manifeste zur judischen Frage, Jos. Melzer
Verlag,
[14] Don Heddesheimer,
The First Holocaust. Jewish Fund Raising Campaigns with Holocaust Claims During
and After World War One, 2nd ed., Theses & Dissertations Press, Chicago
2005 (www.vho.org/D/deh/index.html).
[15] “Pogroms in
[16] Nathan Schachner, The
Price of
[17] The American Jewish
Committee, The Jews in the Eastern War Zones, The American Jewish
Committee, New York 1916, pp. 19f.
[18] New
York Times, June 11, 1900, p. 7.
[19] Benjamin
Blech, The Secret of Hebrew Words, Jason Aronson,
[20] Max Frankel, The
Times of My Life. And my Life with The Times, Random House,
[21] Statement by German
historian Martin Broszat, expert called by penal court at
[22] Cf. the
explanations given by Prof. F.H. Hankins, past president of the American
Demographic Association, as given in The Journal of Historical Review (referred
to below as JHR) 4(1) (1983) p. 61-81.