第7章 ホロコースト物語の進化
a) 殺戮方法
連合国と中立国にあったユダヤ人団体は、1941年末から、ドイツの支配するヨーロッパ各地でユダヤ人が絶滅されているという忌まわしい物語を洪水のように全世界に流し始めた。これらの話を呼んでみると、現在のホロコースト正史の話と一致していないことに気づく。現在のホロコースト正史では、ユダヤ人は、ベルゼク、トレブリンカ、ソビボル、チェルムノといった「純粋の絶滅収容所」ではディーゼル排気ガスによって殺され、アウシュヴィッツとマイダネクでは害虫駆除剤チクロンBで殺されたことになっている(マイダネクでは、一酸化炭素も凶器として使用したといわれている)。しかし、戦時中のユダヤ人団体が広めた話はまったく異なっている。前述したように、エリー・ヴィーゼルは、1958年に出版された自著『夜』の中では、ドイツ人が犠牲者を生きたまま燃やしたと述べているが、それは、戦時中のユダヤ人の虐殺宣伝からのホラー・ストーリーをあとになって採用したものにすぎない。ユダヤ人による戦時中の宣伝にしばしば登場するもう一つの殺戮方法は電気による殺戮である。例えば、ハンガリー起源のスウェーデン系ユダヤ人Stefan Szende博士は、ベルゼクでの「大量絶滅」を次のように描いている。
「死の工場は直径7kmほどであった。…ユダヤ人を満載した列車が処刑諸工場の地下室に入ってきた。…裸のユダヤ人たちは巨大なホールに連れてこられた。数千の人々が一時にこのホールに押し込められた。床は金属製で、水の下にもぐるようになっていた。数千のユダヤ人が押し込められていたホールの床は、下にある水槽に沈むようになっていたが、金属板の上の人々が完全に水の中に沈むほどではなかった。金属板のユダヤ人すべてがお尻のところまで水につかると、電気が水中に流された。すぐに、すべてのユダヤ人が、一時に数千が死亡した。その後、金属板が水の上に引き上げられた。その上には、殺された犠牲者の死体が横たわっていた。もう一度、電気が流されると、金属板は灼熱の焼却炉となり、すべての死体が灰になっていった。…一つ一つの列車には、3000名から5000名、ときにはそれ以上のユダヤ人が搭載されていた。ベルゼクに向かう線には、20日以上の列車が通過する日もあった。現代技術がナチス体制で勝利を収めていた。どのようにして数百万の人々を絶滅するかという問題が解決されたのである。」(Stefan Szende, Der letzte Jude aus Polen, Europa Verlag, Zurich-New York
1945, p. 290 ff.)
ニュルンベルク裁判では、自ら自身が人道に対する罪を犯している戦勝国が、偽善的に敗戦国を裁いた。その裁判の中で、1945年12月14日、ポーランド当局はトレブリンカについての報告を提出しているが、そこではトレブリンカ収容所での大量殺戮が次のように描かれている。
「すべての犠牲者が衣服と靴を脱がなくてはならなかった。それはあとで集められた。そして、女子供を先頭に犠牲者全員が死の部屋に押し込められた。…部屋が満杯となると、気密のために閉じられ、スチームが注入された。数分間ですべてが終わった。…受け取った報告書から判断すると、数十万のユダヤ人がトレブリンカで絶滅されたと思われる。」(Nuremberg document PS-3311, translation of
the German version)
「目撃者」は、生きたままの焼き殺し、電気、スチーム以外にも、多くの殺戮方法に言及している。室内から空気をポンプで吸い出す方法、生石灰、溺死、血に毒を流し込む、生き埋め、工場生産過程のような射殺である。(私の本『ホロコーストか、詐欺か?論点』の第5章を参照。)これらの話はすべて忘却のかなたに行ってしまっている。ガスだけが残ったのである。
b) ガス室が存在したのはどの収容所か
今日では、ホロコースト史家の大半が、殺人ガス室が存在したの「絶滅収容所」だけであり、これらのすべての収容所がポーランドにあると主張している(オーストリアのマウトハウゼン、ポーランドのシュトゥットホフでは小規模のガス処刑が行なわれ、数千名の犠牲者が出たと主張する歴史家も存在するが、ホロコーストの教皇ヒルバーグの標準的な著作は、この二つの収容所でガス処刑が行なわれたとはいっていない)。しかし、終戦直後の話では、ほとんどすべての収容所に、ユダヤ人絶滅目的のガス室が存在したことになっていた。イギリスの検事Sir Stanley Hartcrossは、ニュルンベルクの最終陳述において、ドイツ人が「アウシュヴィッツ、ダッハウ、トレブリンカ、ブッヘンヴァルト、マウトハウゼン、マイダネク、オラニエンブルクのガス室と炉において大量生産のように」殺戮を行なったと述べている(Nuremberg volume IMT XIX p. 483,
translation of the German version)。今日では、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、オラニエンブルクにガス室があった、ドイツは炉を使って殺戮を行なったというようなことを主張する歴史家は誰もいないであろう。1946年1月、ダッハウに収容されていたチェコ人医師フランツ・ブラハ博士は、ダッハウでも医療に従事し、ニュルンベルク裁判では宣誓の上で、自分はガス処刑された囚人の死体を検死したと証言している(Nuremberg volume IMT V p. 198, German
version)。多くの「目撃証人」が、ブッヘンヴァルト、ダッハウ、ベルゲン・ベルゼンその他の西側収容所にガス室が存在したと証言している。しかし、1960年、ドイツの著名なホロコースト史家ブロシャートは、「旧帝国」(すなわち、1939年時点のドイツ帝国)の強制収容所ではガス処刑は行なわれなかった、ガス処刑が行なわれたのは、ポーランド領にある「絶滅収容所」であったと述べた(Die Zeit, 19 August 1960)。したがって、ブロシャートは、西側収容所でのガス処刑についての目撃証言をすべて無効と宣言したことになる。だとすると、アウシュヴィッツ、ベルゼク、トレブリンカでのガス処刑に関する目撃証言を、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン、ダッハウでのガス処刑に関する目撃証言以上に信じることができるのはなぜなのであろうか。ラッシニエの時代から、修正主義者は単純明快なこの質問を繰り返してきたが、いまだ回答がない。
c) ユダヤ人石鹸物語
ユダヤ虐殺宣伝の中でとりわけ不愉快な実例は、ドイツ人が殺されたユダヤ人の脂肪を利用して石鹸を生産したという話である。メディアが数十年間もこの噴飯ものの話を暖め続けているために、今日でも、この話を信じている人々は多い。「ナチハンター」で嘘つき筆頭のヴィーゼンタールは、オーストリアの新聞『新しい道(Der Neue Weg
(Nr. 15/16, 1946))』にこう書いている。
「[1946年]三月の最後の数週間、ルーマニアの新聞が異常な内容の記事を伝えていた。すなわち、ルーマニアの小さな町フォルティチェニで、20個の石鹸箱が、完全な葬送の儀式の中で、ユダヤ人墓地に埋められたというのである。この石鹸は旧ドイツ軍の補給基地で最近発見されたものであった。石鹸箱には、RJF(Rein Juedisches Fett[純粋ユダヤ人脂肪])との刻印があった。」
実際には、RJF「純粋ユダヤ人脂肪」ではなく、RIF (Reichsstelle fuer industrielle
Fettversorgung)「帝国産業油脂局」を意味しているにすぎない。1990年、イスラエルのホロコースト史家クラコフスキは、ユダヤ人石鹸物語が神話にすぎないことを認めた(Daily Telegraph, 25 April 1990)。しかし、クラコフスキはあつかましくも、この嘘の責任をドイツ人に押し付けている。ドイツ人は、ユダヤ人囚人を怖がらせるためにこの話を捏造したというのである。
d) 強制収容所犠牲者数
ソ連側はニュルンベルク裁判で、少なくとも400万人以上がアウシュヴィッツで殺されたと主張した(Nuremberg document URSS-008)。ポーランド当局は45年間もこの馬鹿げた数字に固執していたが、1990年、この数字が誇張されていることをしぶしぶ認め、実際の数字は150万人であると主張するようになった。(公平を期すために言っておくと、西側のユダヤ系ホロコースト史家はこの400万人という馬鹿げた数字を認めていなかった。ヒルバーグは、その標準的な著作『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(The Destruction of the European Jews, Holmes and Meier, New York 1985, p. 895)で、アウシュヴィッツのユダヤ系・非ユダヤ系犠牲者の数を125万人としている)。1993年、フランス人プレサック――メディアは最終的に修正主義者を論駁した人物と持ち上げた――は、アウシュヴィッツの死者数を77万5000人に引き下げた(Les crematoires d'Auschwitz, CNRS, Paris 1993)。そのドイツ語版では、さらに63万人にまで引き下げた(Die
Krematorien von Auschwitz, Piper Verlag,
Munich 1994)。実際には、アウシュヴィッツ収容所では、15万人ほどの囚人――その半分以上がユダヤ人であった――がさまざまな原因(疫病、飢餓、消耗、老齢、銃殺・絞首による処刑)で死んでいった。この数字は、イタリア人歴史家マットーニョがもっぱら戦時中のドイツ側資料にもとづいて執筆した研究書(2001年刊行予定)の中で明らかにされるであろう。マイダネクについては、ポーランドとソ連側は、1944年夏に収容所が解放された直後は、170万人がここで死亡したと主張していた、だが、すでに1948年には、36万人に引き下げられ、90年代初頭には、さらに23万5000人に引き下げられた。実数は42500名ほどであろう(Juergen Graf and Carlo Mattogno,
KL Majdanek. Eine historische und technische Studie, Castle Hill Publisher, Hastings 1998)。
注目すべきは、個々の収容所での死者の数が劇的に減少しても、ホロコーストの犠牲者600万(500から600万)人という神聖なる数字には何の影響もないことである。この数字は、ピラミッドのように立ち尽くしている。籠の中にリンゴが6つあって、そのうち、1つ、2つ、ひいては3つを食べても、まだ6つのリンゴが残っているというのが、ホロコーストの算数なのである。