6章 ホロコースト正史に対する簡潔な反論

 ホロコースト正史が真実であるとすれば、ドイツ支配下の地域で生き残ったユダヤ人はほとんどいないはずである。ドイツが拘束したユダヤ人はすべて死の収容所に送られたことであろう。(ドイツ人は、なぜ、ポーランドの絶滅収容所を設立して、そこにヨーロッパ各地からユダヤ人を移送したのであろうか。そんなことをするよりも、現地でユダヤ人を射殺する方が、はるかに実践的であったろうに。)実際には、ヨーロッパ・ユダヤ人の大半は移送されなかった。フランスでは、30万人ほどのユダヤ人のうち、移送されたのは、75721人であり、その大半が外国旅券の所持者であった。(この数字は、ユダヤ系の歴史家セルジュ・クラルスフェルトが『フランスのユダヤ人の移送の記憶(Deportation des Juifs de France, Beate Klarsfeld Foundation, Brussels/New York 1982)』の中であげている数字であるが、これまで誰にも反駁されていない。)だから、フランス系ユダヤ人の圧倒的多数は、深刻な迫害を被らなかったことになる。同じことがベルギーについても言える。強制収容所を経験したのは、ベルギー系ユダヤ人のごく一部であった。(これに対して、オランダ系ユダヤ人は、70%以上が移送されている。)

 この議論をさらに進めよう絶滅政策が存在したとすれば、収容所を生き残ったユダヤ人はほぼ一人もいなかったはずである。しかし、「ホロコーストの生存者」の回想録は図書館に山ほど存在している。ホロコーストの目撃者を自称しているエリー・ヴィーゼルのような職業的「生存者」こそが、ユダヤ人の組織的屠殺なるものが起こらなかった生き証人である

 ルーマニア生まれのユダヤ人エリー・ヴィーゼルは、1944年春に家族とともに移送され、アウシュヴィッツで9ヶ月すごした。病気になったとき、ドイツ人は彼を収容所病院に入院させた。赤軍が接近してきた19451月、ドイツ人は、病気の囚人たちに、西方に疎開するか、それとも、ロシア人の解放者を待ってそこに残るかを選択させた。ヴィーゼルと彼の父は、ドイツ人とともに西方に疎開することを選択した。この話は、ヴィーゼルの本『夜(La Nuit)』の中にある。

 アンネ・フランク一家の悲劇的な運命でさえも、ホロコースト正史を確証していない。アンネ・フランクはその日記(実際にはその大半を父のオットーが執筆した。Robert Faurisson, Is the Diary of Anne Frank genuine?, I.H.R., Torrance 1985を参照)のおかげで、その死後、世界的に有名になったが、19448月に家族とともにアムステルダムからアウシュヴィッツに移送された。その直後、ドイツ人は戦局の悪化のためにアウシュヴィッツの疎開を始め、囚人たちは徐々に西部地区の収容所に移送された。案ねと彼女の姉はベルゲン・ベルゼンに移送され、終戦直前に、チフスで死亡した。アンネの母は19451月のアウシュヴィッツで死亡した(ガス処刑の実在を信じている人々も、ガス処刑は194410月か11月に中止されたと主張しているから、彼女の死はガス処刑によるものではない)。アンネの父親は生き残った。彼は戦後にスイスに移住した。アンネ・フランク一家の実例は、ユダヤ人の迫害が過酷なものであり、多くの人々が収容所という悪条件の中で死んでいったけれども、絶滅政策など存在しなかったことを示している。もしも存在していれば、一家全員がアウシュヴィッツに到着するやいなや、ガス処刑されているはずであろう

 多くのユダヤ人が、殺されてしまうとのリスクなしに収容所から収容所に移送されている。有名な事例はオーストリアのユダヤ人社会主義者ベネディクト・カウツキーである(彼は、戦時中のすべてを収容所ですごした。最初、ダッハウに収容され、その後、ブッヘンヴァルトに送られ、そして、アウシュヴィッツに送られ、ブッヘンヴァルトに戻される直前の19454月に、そこで解放された。ユダヤ人歴史家Arno Lustigerも、いくつかの収容所を経験している。『ホロコースト百科事典』の編者Israel Gutmannも、マイダネク、アウシュヴィッツ、マウトハウゼン、グンキルヘンの収容所を経験している。ちなみに、このように頻繁な移動が実行されたのは戦時中のドイツが恒常的な労働力不足に苦しんでいたためであった。囚人たちは、労働力が必要なところに派遣されたのである。戦争の最終段階では、東部地区収容所の囚人は、西部地区収容所に移送された

 20004月にスイスのローザンヌで開かれた裁判では、修正主義的出版者Gaston-Armand Amaudruzを告発したユダヤ人団体は、二人の「ホロコースト生存者」Sigmund TomanLeon Reichを証人として召喚した。Reich4つの収容所を経験しており、Tomanは父親とともにアウシュヴィッツを生き残っている。このような証人たちは、「ナチスの絶滅政策」の存在を立証するどころか、そのような政策が存在しなかったことを彼ら自身の存在によって明らかにしたのである。(Verite et Justice, Le proces Amaudruz. Une farce judiciaire, Chatel-St. Denis/Switzerland, 2000.20002月、ポーランドで調査していたとき、少なくとも10の収容所を生き残ったポーランド系ユダヤ人の話を発見した。トレブリンカ「絶滅収容所」、マイダネク「絶滅収容所」、その他8つの「通常の」収容所である(Samuel Zylbersztain, "Pamietnik Wieznia dziesieciu obozow" in: Biuletyn Zydowskiego Instytutu Historycznego Nr. 68, Warsaw 1968.)。

 戦後に回想録を発表した多くのユダヤ人囚人は、どのようにして「ナチスの殺戮マシーン」を生き残ったのか質問される羽目に陥ったが、いつも、奇跡的に逃れることができたと回答している。以下は二つの例である(私の本『ホロコーストか、詐欺か?論点』の中に多くに事例が掲載されている)。エリー・ヴィーゼルは、ドイツ人がユダヤ人を生きたまま殺した(今日では、このような話をとなえている歴史家は一人もいない)と述べているが、自分が奇跡的に死を免れた事情を次のように記している。

 

「私たちから、壕の中で燃えさかる炎、巨大な炎は遠くなかった。何かが燃えていた。貨物自動車が壕のところにやってきて、何かを投げ入れた。小さな子供たちであった。何と赤ん坊であった。それをこの目で目撃した。炎の中の子供たち(そのとき以来、眠ることは私の目をそらしているのではないか)。私たちもそこにいた。少々離れたところに、大人用の壕もあった。『お父さん、もしもそんなことなら、じっとしてはいられません。電気鉄条網に身を投げます。何時間も炎の中で苦悶するよりましです。』…私たちの列はそこからほんの15歩ほどだった。歯ががたがたいっている音を父に聞かせないようにするために、口をしっかりと閉ざした。あと10歩。8歩、7歩。私たちは、自分たちの棺の後ろにいるかのように、一緒に進んだ。あと4歩だった。3歩。炎の燃えさかる壕はすぐそこだった。私は、残っていたすべての力をふりしぼって列から飛び出し、電気鉄条網に身を投げかけようとした。心の奥底で、父と全世界からの別れを告げられた。…死の天子のまえに立つ寸前であった。そうはならなかった。壕から2歩のところで、向きを変えて、バラックに戻るように命令された。」(Elie Wiesel, La Nuit, Editions de Minuit, Paris 1958, p. 58-60.

 

 もっとすごい奇跡が1993年のカナダに新聞記事に登場している。

 

11歳の少年であったモーシェ・ピアは、第二次世界大戦中にベルゲン・ベルゼン強制収容所の囚人であり、少なくとも6回はガス室に送られた。そのたびごとに、彼は、大勢の女子供がガス処刑されて死んでいくのを、恐れおののきながら目撃しつつ、生き残った。今でも、ピアは自分がどうやって生きのびたのか覚えていない。『わかりません、子供の方が抵抗力があったのかもしれません』と先週のインタビューで述べている。…ピアと彼の姉妹たちは、全員が生きのび、二つの女性収容所で治療を受けた。戦後、ピアは両親に再会した。」(The Gazette, Montreal, 5 August 1993

 

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