第5章 修正主義者への抑圧
今日まで、ヨーロッパの7カ国が、ホロコースト修正主義を刑事訴追の対象とする抑圧法を採用している。もちろん、これらの法律は言論の自由と自由な歴史研究という原則を大きく侵しているが、ホロコースト正史の脆弱性も明らかにしている。もしも、修正主義者が間違っていれば、例えばテレビ討論などで、彼らを公に論駁すれば十分であるからである。だが、このような討論は、「自由世界」では許されていない。修正主義者と反修正主義者のテレビ討論が唯一行なわれたのは、1979年4月のことであった。フォーリソン教授がスイスのイタリア語テレビで、ドイツのホロコースト専門家ヴォルフガング・シェフラー教授に議論を挑んだのである。調査によると、大半の視聴者はフォーリソンの勝ちであるとみなしたという。1979年以来、修正主義的研究者の仕事のおかげで、修正主義者の立場は大いに強化されたが、ホロコースト正史の支持者たちはまったく進歩を遂げていない。今日では、ホロコースト正史派の歴史家の誰一人として、有能な修正主義者と公に議論する勇気を持ち合わせていないであろう。だから、西側社会のオピニオン・メイカーたちがホロコーストについての公開討論という考え方に震え上がるのも無理はない。
修正主義者への抑圧がとくに過酷であるのはドイツである。ドイツでは、政治制度全体が、ホロコーストという嘘を生きのびさせる能力に依存してしまっているからである。数百のドイツの修正主義者が、罰金刑、禁固刑に処せられている。彼らの大半は、刑法130条(「人種的憎悪の煽動」)で訴追されている。1992年10月、第二次世界大戦中にもっとも高い位の勲章を授与された兵士であるオットー・エルンスト・レーマー少将が、「ホロコースト否定」の咎で、シュヴァインフルトで執行猶予なしの22ヶ月の実刑を宣告された。(当時82歳で重病にかかっていたレーマーは友人たちによってスペインに移された。彼は、1997年10月4日に、スペインの亡命地で他界した。)1995年4月、国家民主党前党首ギュンター・デッカート――英語とフランス語の教師であった――が、合衆国の修正主義者で、ガス室専門家のロイヒターの技術的講演を通訳した咎で、2年の刑を宣告された。1995年6月、化学者のゲルマール・ルドルフが、アウシュヴィッツの「殺人ガス室」についての学術的報告を執筆した咎で、14ヶ月の禁固刑を宣告された。彼は亡命した。1996年5月、編集者ヴィグベルト・グラベルトが、修正主義論文集『現代史の基礎(Grundlagen zur Zeitgeschichte, Grabert Verlag, Tuebingen 1994)』を出版した咎で30000マルクの罰金を科された。この本が発禁処分となる以前に、この本を一部以上注文していたドイツ市民は、6ヶ月の投獄処分となった。1996年5月には、修正主義的な季刊誌『歴史的事実(Historische Tatsachen)』を刊行していたウド・ヴァンディが、「ホロコーストを矮小化した」咎で14ヶ月の刑を宣告された。ヴァレンディは今では70歳を超えており、持病を持っていたが、「自分の書いていない」件でさらに22ヶ月投獄された。この事件のことを知らない人々のために説明しておけば、歴史家であって大学で研鑽を積んだ政治学者のウド・ヴァレンディは、自分が書いたことではなく、自分が書かなかったことの件で刑を宣告されたのである。判事クネーナーはこう述べている。
「私たちが扱っているのは、あなたがここで書いたことではありません。それは当法廷が扱う事項ではありません。ここで扱っているのはあなたが書かなかったことなのです。」(『ヴェストファレン紙(Westfalen-Blatt)』1997年5月8日からの引用)
ヴァレンディは、抑圧的なドイツの体制のもっとも著名な政治囚であるが、私が本小論を執筆しているときには、依然として獄中にある。もう一人の政治囚は、「ホロコースト否定」の咎で数年投獄されている農業技術者エルハルト・ケンプナーである。こうした言語道断のテロル的裁判では、法廷は被告側の議論を1秒たりとも考慮しなかった。
オーストリアでは、同国の法律が修正主義を民族社会主義者の支配の復活の企てと同一視しているために、理論的には、20年の懲役という危険が修正主義者にのしかかっている。フランスでは、修正主義者がとくに多く、その活動も活発なのであるが、約100の裁判が開かれている。ただし、一つの事例(Alain Guionnet)をのぞいて、巨額の罰金を科せられることはあっても(被告はユダヤ人団体にそれを支払わなくてはならない)、投獄された修正主義者は一人もいない。スイスでは、「反人種差別法」が1995年に公布されて以来、9名の修正主義者(Arthur Vogt,、Andreas Studer、Ernst Indlekofer、Aldo Ferraglia、Dr. Max Wahl、Rene-Louis
Berclaz、Gaston-Armand
Amaudruz、Gerhard Foerster、そして私)が罰金刑や懲役を宣告されている。ベルギーでは、数年前から反修正主義者法が存在しているが、ヨーロッパ各国に修正主義的な文献資料を送付している、非常に活動的で、有能な編集者ジークフリード・フェルベケに対してさえも、この法律は適用されていない。スペインでは、修正主義者であるだけではなく、公然とした反シオニストであるペドロ・ヴァレラに対して、1998年11月に5年までの懲役が宣告されたが、この判決は、上級審によって破棄されている。1999年に反修正主義者法が公布されたポーランドでは、大学教授ダリウシュ・ラタイチャクが10月に裁判にかけられた。小冊子を出版し、その中で、修正主義者の説を客観的に要約し、600万人という数字は誇張されていると述べたためであった。彼は無罪となったが、裁判以前にすでに解雇されていた。ちなみに、この小冊子のタイトルは『危険な諸テーマ(Tematy niebezpeczne)』であった。この年の8月にラタイチャクのもとを訪れたとき、危険なテーマは一つだけであったことを知るようになりましたと笑いながら話してくれた。
修正主義者に対する抑圧の中でとくに非道な点は、被告が自分たちの説の有効性を証明することをまったく許されていないことである。法廷で自説に固執する修正主義者は、「頑迷さ」と「改悛の意思のなさ」のために、より厳しい処罰を科せられてしまうのである。
フュルシュターと私に対するバーデン裁判では、私の弁護人のオズヴァルト博士は、フォーリソン教授とオーストリア技術者ヴォルフガング・フレーリヒを証人として召喚した。二人は、ガス室物語に対す修正主義者の議論には説得力があることを証言するはずであった。フォーリソンは証言を許されなかった。しかし、防疫専門家のフレーリヒは発言を許された。彼は、アウシュヴィッツの囚人たちの語るところの殺人ガス処刑は技術的に不可能であると証言した。彼の証言は以下のとおりである。
「害虫駆除剤チクロンBは、粒状の媒体に吸収されたシアン化水素から構成されています。シアン化水素は空気と接触することで放出されます。シアン化水素の沸点は25.7℃です。気温が高くなればなるほど、放出も早くなります。民族社会主義者の収容所などでチクロンBが使用された害虫駆除室は30℃以上に暖められるために、シアン化水素は媒体の丸薬からすみやかに放出されます。目撃証言によると、チクロンBを使った大量ガス処刑が行なわれたのはアウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の半地下の死体安置室です。そこでは、気温ははるかに低いのです。たとえ、この部屋がその中に押し込まれた人々の体温によって暖められたとしても、暖かい季節であっても、15℃を越えることはありません。ですから、シアン化水素が放出されるには何時間もかかるのです。目撃証言によると、犠牲者は急速に死んでいったとのことです。目撃証人は、その死亡時間について「即死」から15分のあいだと話しています。このような短時間でガス室に押し込められた人々を殺害するには、ドイツ人はきわめて大量のチクロンBを使用しなくてはならなかったことでしょう。推定では、ガス処刑ごとに40−50kgです。目撃証言によると、ガス室から死体を除去することになっている特別労務班員は、たとえガスマスクをつけていたとしても、すぐに死んでしまうでしょう。きわめて大量のシアン化水素ガスは開かれたドアを介して戸外に放出されていき、収容所全体を汚染してしまうでしょう。」
フレーリヒがこの論点を証言し始めると、検事Dominik Aufdenblattenは、狂人のように、彼の話の腰をおり、「人種差別」の件で彼を告発すると脅迫した。
ローザンヌでのAmaudruz裁判では、法廷は弁護側の召喚した二人の証人(フォーリソンとフランスの弁護士Eric Delcroix)の証言を拒んだ。ドイツでは、獄中のギュンター・デッカートの弁護人ルードヴィヒ・ボック博士は、「殺人ガス処刑」の技術的根拠薄弱性について、独自の専門家報告を申請したところ、10000マルクの罰金を科せられた。したがって、弁護活動は事実上麻痺状態とされている。依頼人を誠実に弁護しようとする弁護人は、自分自身も告発され、処罰される危険があることを知っておかなくてはならないからである。
注目すべきことに、シオニストの牙城であるアメリカ合衆国では、言論の自由を保障する憲法修正1条を侵犯してしまうために、反修正主義者法は存在しない。カリフォルニアに本部をもつ歴史評論研究所は、法的な抑圧を受けることを恐れることなく、本や雑誌を出版し、修正主義者の大会を組織することができる。しかし、アメリカの修正主義者が、不愉快な事件を免れているわけではない。1984年7月、テロリストたちはアメリカの修正主義を沈黙させようとして、歴史評論研究所本部を放火した。だが、研究所の活動は一時的に麻痺しただけであった。