第8章 戦時中の文書に照らし合わせた民族社会主義政府のユダヤ政策
1933年1月に権力を獲得したヒトラーの民族社会主義ドイツ労働者党は反ユダヤ的であった。民族社会主義者はユダヤ民族のことを、退廃・破壊分子、国際共産主義の尖兵(マルクスその他の共産主義理論家がユダヤ人であっただけではなく、ロシアのボリシェヴィキ革命を先導したのもおもにユダヤ人であった)とみなしていた。ヒトラー政府は1933年以降、ドイツ系ユダヤ人の諸権利を制限する法律を多数発布し、そのために、ドイツ系ユダヤ人の多くは亡命していった。民族社会主義者はユダヤ人の移住をスピードアップするために、ユダヤ人のパレスチナ移送を望んでいたシオニストと緊密に協力した。アメリカ系ユダヤ人の作家エドウィン・ブラックは『移送協定』(New York/London 1994)の中で、民族社会主義者とシオニストとの協力関係を文書資料にもとづいてあとづけているが、この点については、誰も反駁していない。ドイツ系・オーストリア系ユダヤ人の大半は1941年以前に移住していた(もっとも、パレスチナに実際に移住したのはごく少数であった)が、ドイツが大戦の緒戦で征服することに成功した諸国には大量のユダヤ人が残っていた。1941年まで、ドイツ政府は、ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカルに移送し、この島にユダヤ人国家を創設するというマダガスカル計画を実施しようとしていたが、イギリスが海を支配していたので、この計画を実行できなかった。
強制収容所への大量移送は1941年に始まった。健康なドイツ人男性の大半は前線で戦っていたので、労働力がきわめて不足していた、さらに、ユダヤ人は治安上の危険をもたらしているとみなされていた。これは、杞憂ではなかった。レジスタンス・メンバーで、いくつかの収容所を生き残ったユダヤ系Arno Lustiger歴史家は、ユダヤ人はフランスの人口の0.6%であったが、レジスタンス運動参加者の15%を占めていたと自慢しているからである(Der Spiegel, 7/1993)
いくつかの強制収容所、とくにアウシュヴィッツとマイダネクでは、死亡率はひどく高かった。食糧不足、悪質な衣料、虐待、銃殺・絞首刑も死因であったが、疫病、とくにシラミによる恐ろしいチフスが、高い死亡率の主因であった。シラミに対するもっとも有効な武器は、害虫駆除剤チクロンBであったが、量が不足していた。チクロンBは、殺人のために使われたのではなく、人の命を救うために使われたのである。フォーリソンが的確にも指摘しているように、ドイツ人がもっと多くのチクロンBを持っていたならば、囚人の死亡はもっと少なくなったことであろう。(ホロコースト史家は、チクロンBがシラミその他の害虫を駆除する殺虫剤であったことを否定していないが、アウシュヴィッツやマイダネクでのユダヤ人を殺害する凶器としても使われるという二重の機能を果たしていたと主張している)。最大の収容所アウシュヴィッツでは、チフスの蔓延は1942年9月7−11日に頂点に達し、毎日、平均して375名が死亡した。1943年1月、平均の死亡率は、1日107名にまで下がったが、3月には、また298名に上昇した(Jean-Claude Pressac,
Les crematoires d'Auschwitz,
p. 145)。
1942年12月28日、収容所監察官リヒャルト・グリュックスは、収容所長全員に次のような手紙を回覧している。
「収容所の医師団は、自分たちの持っているあらゆる手段を使って、収容所での死亡率がかなり低くなるようにするであろう。…収容所の医師は、以前よりも注意深く、囚人の栄養状態に配慮し、収容所長の行政的措置に対応しながら、改善策を提案すべきである。こうしたことは、紙の上だけではなく、収容所の医師団によって定期的に監察されるべきである。…SS全国指導者は、収容所の死亡率を是が非でも低くするように命令している。」(Nuremberg document NO-1523)
この命令の結果、死亡率は1943年8月までに、ほぼ80%低下した(Nuremberg document PS-1469)。1943年10月26日、SS経済管理本部長官ポールは、19の収容所所長あての書簡の中で次のように述べている。
「再教育政策が採用されていた初期の時期には、囚人が有益な仕事をするかどうかは問題とならなかった。しかし今では、囚人の労働能力は重要であり、収容所長、連絡所長、医師団のすべての権限は囚人の健康と効率を維持するために拡大されるべきである。偽りの同情からではなく、われわれは囚人たちの手足を必要としているからである。囚人たちはドイツ民族の偉大なる勝利に貢献しなくてはならないのだから、われわれは心から囚人の福祉に配慮しなくてはならない。」(Archiwum Muzeum Stutthof,
1-1b-8, p. 53.)
ドイツ人は囚人を絶滅することなどまったく考えてもおらず、労働者として必要としていたがゆえに、彼らを生かそうとしていたのである。上記の文書は、このことを疑いもなく立証している。(後述するように、このことは、一時的もしくは恒常的に労働不能となった人々が殺されたことを意味しているわけではない)。
戦時中のいくつかのドイツ側文書は、Aussiedlung(疎開)、Umsiedlung(再定住)という用語に言及している。例えば、1942年8月21日、外務省ドイツ課長ルターは、ドイツ帝国のユダヤ政策に関する覚書に次のように記している。
「権力奪取後のドイツのユダヤ人政策の原則は、あらゆる手段をつかってユダヤ人の移住を促進することにあった。現在の戦争は、ヨーロッパでのユダヤ人問題を解決する機会と義務とをドイツに提供している。…言及されている総統の指示[ヨーロッパからすべてのユダヤ人を排除せよという1940年8月のヒトラーの決定]にもとづいて、ドイツからのユダヤ人の移送が始まった。同時に、ユダヤ人に対する措置を取っている諸国の国民であるユダヤ人も移送されるべきであると論じられた。…東部地区に移送されたユダヤ人の数は、当地での労働力の需要を満足させるには十分ではなかった。」(Nuremberg document NG-2586.)
ドイツの絶滅政策を立証する一つの文書も提示することができなかったホロコースト正史派の歴史家たちは、数十年にわたって、この「再定住」とか「疎開」という用語が「絶滅」を意味するコード言語であると勝手気ままに主張し、今日でも、このようなナンセンスを繰り返し続けているホロコースト史家もいる。「ユダヤ人問題の最終解決(Endloesung der Judenfrage)」という単語も、ドイツの影響地域からのすべてのユダヤ人の疎開もしくは移住を意味することが明白である資料が存在するにもかかわらず、ホロコースト正史派は「絶滅」をカモフラージュする用語だと解釈するのである。しかし、1993年、ガス室物語を信じているプレサックは、コード言語説が神話であることをLes Crematoires d'Auschwitzの中で認め、1996年、修正主義に反対するフランス人歴史家ジャック・バイナクは、殺人ガス室の実在を立証する科学的証拠が存在しないことを認めた(Le Nouveau Quotidien,
Lausanne/Switzerland, 2 and 3 September, 1996)。
1990年代初頭、ロシアはアウシュヴィッツの「死亡者名簿(Sterbebuecher)」を公開した。この文書では、収容所当局は、1941年中頃から1943年末までにアウシュヴィッツで発生した66000件の死亡を丹念に記録している。各頁には、名前、誕生日、誕生地、民族、宗教、死亡した囚人の死亡日と死因が記載されている。(死亡者名簿には多くの脱落があり、また1944年以降の記録は失われているので、文書資料としては不完全である)。絶滅論者たちはこの死亡者名簿の存在にひどく困惑している。ドイツ人たちはアウシュヴィッツで登録もせずに100万のユダヤ人をガス処刑したということになっているが、収容所で自然死した事例に関しては、どうして、このように苦労して、各事例について文書記録を残したのか、絶滅論者たちは説明できないからである。
1995年、マットーニョと私はロシアの文書館を訪問した。アウシュヴィッツ中央建設局からのドイツ側資料88000頁が保管されていた。研究者がこの文書資料にアクセスできるようになったのは90年代初頭からであった。中央建設局は、ホロコースト正史によると殺人ガス室のあるアウシュヴィッツの焼却棟に建設に責任をおっていた。(実際には、これらの「ガス室」は、囚人の死体を焼却されるまで保管しておく通常の死体安置室にすぎなかった)。
予想されたことではあるが、われわれは、ガス室と絶滅物語を確証するような文書資料をまったく発見できなかった。もし、そのような文書資料が存在していたとすれば、ソ連側は、ドイツの民族社会主義体制の野蛮さを立証するために、すでに1945年に勝ち誇って提出していたであろうからである。
収容所当局の文書はユダヤ人絶滅物語を確証していないだけではなく、それとは逆の事実を確証していた。例えば、アウシュヴィッツ博物館に保管されている記録は、1942年7月1944年6月のあいだに、15706名の囚人――大半がユダヤ人――がモノヴィツ(アウシュヴィッツのサブキャンプ)で治療を受けたことを明らかにしている。そのうち766名が死亡し、残りは退院している(Panstwowe Muzeum w Oswiecimiu, Syg. D AuI-III-5/1,
5/2 5/3)。この事実と絶滅政策とはどのように共存するのであろうか。労働不適格者は殺されたという神話も文書資料によって反証されている。一例を挙げれば十分であろう。マットーニョと私は2000年4/5月にモスクワで研究調査を行なっているとき、1945年初頭、すなわちアウシュヴィッツの解放直後に、収容所病院で働いていた4名のユダヤ人医師(レボヴィツ、ブロッホ、ライヒ、ヴェイル)がロシア人の庇護のもとで作成したドイツ語の報告書を発見した。報告書には、ドイツ側が収容所を疎開するにあたって放置していった1000名以上の患者――ほとんどがユダヤ人――の氏名が記載されている。その中には、1歳から15歳までの97名の少年と83名の少女が含まれていた。(Gosudarstvenny Archiv Rossiskoi
Federatsii, Moscow, document 7021-108-23)。家族の分散を避けるために、両親とともにアウシュヴィッツに移送されてきていたのである。もしホロコースト物語が真実であるとすれば、こうした子供たちは、労働不能であるのだから、1945年以前に殺されていたに違いないはずであろう。