2章 ホロコースト正史

 「ホロコースト」という用語はギリシア語起源で、「生贄として焼き尽くされること」を意味する。今日では、第二次世界大戦中のドイツ人によるユダヤ人「絶滅」をもっぱら指して使われている。

 ホロコースト正史派の歴史家たちによると、民族社会主義の指導部はユダヤ人種の一掃を決定し、6つの絶滅収容所を設立し、そこでは[600万人のユダヤ人がガス処刑された。この6つの殺戮工場すべてがポーランド(もしくは、戦前はポーランド領で、1939年にドイツに併合され、1945年にポーランドに返還された地域)にあった。そのうち4つ(ベルゼク、トレブリンカ、ソビボル、チェルムノ)は純粋な絶滅収容所で、生き残ったユダヤ人は一握りであった。ユダヤ人は、ベルゼク、トレブリンカ、ソビボルではガス室で、チェルムノではガス車で殺された。残りの2つの絶滅センター、アウシュヴィッツとマイダネクは殺戮工場としても、労働収容所としても使われた。この2つの収容所では、労働不適格なユダヤ人はガス処刑され、労働的なユダヤ人は一時的にではあるが命を長らえることができた。ガス処刑されたユダヤ人の死体は、一部は焼却棟で、一部は戸外で焼却されたために、戦後になっても、大量埋葬地は発見されていない。ガス処刑命令のすべてが口頭であったので、殺人ガス室の実在を確証するような文書資料的証拠はまったく発見されていない。

 ホロコースト史家は、大量ガス処刑に加えて、ドイツ人は東部戦線で100万から200万のユダヤ人を射殺したと主張している。ホロコースト史家によると、500万から600万人のユダヤ人が、ドイツ支配地区で殺された。内半分以上がガス室で(はるかに規模が小さいが、殺人ガス車で)殺され、その大半が占領下のソ連領で射殺され、残り(数十万)が、労働収容所やゲットーで、疫病、飢餓、虐待によって死亡した。

 以上が、ラウル・ヒルバーグの標準的著作『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』に描かれているような、ホロコースト正史である。しかし、後述するように、最初のホロコースト物語は、今日のホロコースト物語とは非常に異なっているのである。

 

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