第1章 私の人生を変えた知的冒険
私は、1951年8月15日、スイスのバーゼルで生まれました。父は銀行に勤めており、母は専業主婦でした。二人とも存命で健康に暮らしています。父は2000年12月12日に80歳の誕生日を祝いましたが、何年も前に退職しています。
高校を卒業後、バーゼル大学に進み、フランス語、英語、スカンディナヴィア諸語の言語学を学びました。1979年、修士号を習得し、バーゼルの学校で語学教育にたずさわることができるようになりました。1982年、東南アジアに旅行に出かけ、台湾の台北大学でドイツ語教師の職を得ましたので、1988年まで帰国しませんでした。帰国してからは、教育職に関係のないいくつかの職に就きましたが、1990年に語学教育に復帰しました。1993年3月に、最初の修正主義的著作を出版した咎で罰金刑となるまで、バーゼル近郊の小さな町テルヴィルでラテン語とフランス語を教えていました。
1994年10月、バーゼルの私立語学学校で、外国人むけにドイツ語を教える教師の職を得ました。給料はよくありませんでしたが、学生たちは非常に熱心な成人でしたので、この仕事を非常に気に入っていました。校長のレモ・オルシニ氏は、ホロコーストとシオニズムについて、私と意見が一致していたわけではないのですが、私の修正主義的活動(これについて、自分の授業で触れたことはありません)には寛容に接してくれました。私の著作の編集者ゲルハルト・フュルスターと私は破廉恥なバーデン裁判で禁固刑に処せられました。1998年8月、オルシニ氏は私をしぶしぶ解雇しました。自分の学校が、私を教師として雇っているとの仮借のないメディアの中傷キャンペーンのターゲットとなり、つぶれてしまうのを恐れたためです。バーデン裁判のあとでは、私を雇ってくれる人は誰もいなかったので、わずかばかりの翻訳の仕事を除くと、スイスでは職を見つけることができませんでした。2000年8月15日、私の49歳の誕生日のときに、スイスを離れました。政治状況が変化して、スイスがふたたび自由な国になるまでは帰国するつもりはありません(もし今帰国すれば、すぐに逮捕されることでしょう)。
修正主義のことを知ったのは1991年のことです。600万人という数字は少々誇張されていると思っていましたが、ナチスの絶滅計画と殺人ガス室の実在を少しでも疑ったことはありませんでした。ホロコースト正史の真実に疑問を呈している人々の存在を知ってはいましたが、ヒトラーを免罪しようとするネオナチのやからだと思っていたので、どのような主張がなされているのか調べようともしませんでした。しかし、この当時、私はすでに反シオニストでした。第一に、イスラエルによるパレスチナ人の非人道的扱いに憤激していましたし、第二に、ユダヤ人たちが第二次大戦中の自分たちの悲劇を恥知らずに利用して、ドイツから巨額の金をゆすりとり、ドイツ民族全体を中傷していることに憤慨していました。ドイツ人の親戚が多くいましたので(父はスイス国民ですが、ドイツ生まれで、帰国してきたのは1947年のことでした)、幼いときからドイツびいきでした。ドイツ民族をヒトラーとホロコーストの件でひとまとめに中傷することは許されないと考えていました。現代史やとくに第二次大戦史に大きな関心を抱いていましたが、ホロコーストというテーマを避けようとしていました、ホロコーストはヨーロッパ史とドイツ史のなかで醜悪で、恥ずべきエピソードでしたので、その残酷な事実にたちいりたくなかったのです。
しかし、1991年4月に、スイス人の老齢の紳士アルトゥール・フォークト氏と知り合いになったときに、事態は変わりました。フォークト氏は1917年生まれで、退職した数学と生物の教師でした。このときに以来、私の緊密な知人となり、私を寛大に保護してくれています。フォークト氏は最初にあったときに、修正主義者であると自己紹介し、彼が編集した修正主義的内容のテープをくれました。そのテープの内容に完全に納得したわけではありませんでしたが、非常にショックを受けました。修正主義者の主張にも理があり、彼らを変人、山師の類として片付けることができないことがわかりましたので、フォークト氏にもっと情報を提供してくださいと頼みました。彼は、当時出版されていた最良の修正主義的著作を送ってくれました。Serge ThionのVerite Historique ou Verite Politique? (La Vieille
Taupe, Paris 1980)、アーサー・バッツの『20世紀の詐術』(Institute
for Historical Review, Torrance/California 1977)、ヴィルヘルム・シュテークリヒの『アウシュヴィッツの神話』(Grabert Verlag, Tuebingen 1979)です。これらの著作の研究に取りかかる前に、フォークト氏から手に入れた新聞記事のドイツ語訳を読んでいました。赤軍がアウシュヴィッツ強制収容所を解放した1週間後の1945年2月2日、ソ連共産党機関紙『プラウダ』に登場した記事です。(4年後、モスクワで私はロシア語のオリジナルを手に入れました。)記事の筆者は解放直後にアウシュヴィッツを訪れたユダヤ系のソ連新聞記者ボリース・ポレヴォイです。彼は、「数百人が一時に電気で殺される工場生産過程のような殺人施設」のことを記事にしていました。また、アウシュヴィッツ収容所の東側地区にあるガス室についても触れています。今日では、ドイツが電気を使って人々を殺戮したと主張している人は誰もいませんし、ホロコースト正史によると、アウシュヴィッツのガス室は、中央収容所の東側地区ではなく、西側のビルケナウに存在していたことになっています。この記事を読んだとき、修正主義者が正しいことを知りました。ガス室と大量絶滅物語は宣伝家によって偽造され、その初期の話は、その後の話とも一致していないのです。
この日、すなわち、1991年4月29日、私は、人間が作り出した中でもっとも奇怪な嘘と闘うことに生涯を捧げることを決意したのです。
私はフォークト氏と長いあいだ意見を交換しました。彼は私の熱意を評価してくれ、有益な助言をしてくれました。私は、歴史研究に時間を費やすために、週15時間だけ教えることにしました。もちろん、そのために、給料は減りましたが、それでも、かなりの額でした。(スイスでは、学校教師の給料はかなり高いのです。)当時すでに、多くの修正主義的著作や論文が公表されていましたが、その大半はホロコーストの特定の局面にだけ焦点をあてていました、修正主義とその主張についての簡便な入門書がなかったので、自分で執筆することにしました。その本のタイトルは『ホロコースト詐欺』となる予定でした。1992年3月、世界でもっとも有名な修正主義者フォーリソン教授を訪問しました。フランスのヴィシーの自宅です。フォーリソン教授はフランス文学の権威でしたが、修正主義的な著作のために、キャリアに大きな傷が付けられてきました。何度も裁判にかけられ、法外な罰金を科せられ、1989年には、「ユダヤ人の記憶の息子たち」と称するユダヤ系のごろつき集団によって殴られ、殺されかけました。彼は、私の本の草稿に手を入れてくれました。彼の輝かしい知性、大いなる勇気、妥協を知らない真実への探究心に感銘を受けました。
その後、『ホロコースト詐欺』が修正主義への入門書としては長すぎることがわかりましたので、短縮版を執筆しました。それは1993年初頭に、『スキャナーにかけたホロコースト』というタイトルで出版されました。これは、その後、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語、ブルガリア語、アラビア語、スウェーデン語に翻訳されました。出版直後に、私は非倫理的振る舞いの咎でテルヴィルでの職を失いました。『ホロコースト詐欺』は『スキャナーにかけたホロコースト』のすぐあとに出版されました。最後の3つの章の中で、ホロコーストという詐欺の政治的意味合いについて、それまでの修正主義者の分析よりも厳密に分析しておきましたが、この部分はとくに好評でした。フォーリソン教授による序文も好評でした。
1993年4月、教師としての職を解雇された数日後に、当時73歳のドイツ生まれの技術者ゲルハルト・フュルシュター氏と知り合いになりました。チューリヒ近くのヴェレンロスで暮らす修正主義者です。彼の父はシュレジエン人で、戦後にポーランドが占領した東部ドイツ領から1200万人のドイツ人が残酷にも追放されていったときに、死んでいきました。フュルシュター氏は、胡散臭いユダヤ人のホロコーストについてはマスメディアが毎日大騒ぎしているのに、自分の民族の恐ろしい悲劇については誰も気にかけていないことに深く傷ついていました。彼自身は優秀な技術者でありましたが、著述家ではありませんでしたので、自分で歴史書を書くことはできませんでした。一方、私はこのテーマに通暁していましたので、彼は、アウシュヴィッツのガス室物語がもっぱら依拠している目撃証言についての本を書くように促してくれました。(後述するように、ドイツの強制収容所にたった一つでもガス室が実在したことについての物的証拠、文書資料的証拠は一つもありません。ホロコースト正史はまったく目撃証言に依拠しているのです。)
新しい本の執筆のために必要な史料のいくつかはすでに手に入れていましたが、入手困難なものもありました。1993年9月、私は、家族とともにローマ近郊で暮らしている修正主義的研究者カルロ・マットーニョのもとを訪れました。マットーニョは、最初に出会ったときすでに10年以上もホロコーストを研究しており、貴重な資料の膨大なコレクションを所持していました。その多くはポーランド語でした(ホロコーストの研究にとっては重要であったので、私はこの困難な言語を習得しました。)新著のために必要な資料をコピーしました。最初の訪問以来、私はマットーニョと緊密に協力するようになりました。彼の著作の多くを翻訳し、6回ほど一緒に旅行し、二冊の本を共同で書き上げています。ホロコーストに関するマットーニョの学識は比類のないものですが、彼の著作はきわめて学術的で、少数の人々だけを対象とするものであったので、難解でした。イタリアには反修正主義者法がありませんので、彼は訴追されたことはありません。彼は私の親友の一人で、訪問すると、家族の一員として迎えてくれます。
私の著作『アウシュヴィッツ。ホロコーストについての実行犯の自白と目撃証言』は、1994年8月にフュルシュター氏によって出版されました。不名誉な「反人種差別法」(スイス刑法261条b)が公布される数ヶ月前のことです。この本は、アウシュヴィッツの「殺人ガス室」に関する30名の重要な目撃証言を批判的に分析しています。結論は、「目撃証人」はすべて嘘をついているという明確なものです。彼らの証言はたがいに矛盾しており、一致している場合にも、いつも、同じように、論理的かつ技術的にありえない内容となっているのです。例えば、多くの目撃者が、アウシュヴィッツでは、焼却棟の焼却室の中で3体を焼却するには20分かかったと主張しています。しかし、現代の焼却棟でも、1体の焼却に1時間ほどかかりますし、資料からもわかるように、戦時中のドイツの焼却棟でも同じような状況でした。目撃者がまったく別々に同じような馬鹿げたことを発明したはずはないので、事前に嘘をつくように指示されたに違いありません(目撃者の多くは、殺人ガス室の実在を「立証する」ことを目的としたポーランド、イギリス、アメリカの見世物裁判で証言しています)。もしくは、別の人から聞いたか本で読んだことをたんにオウム返しにしたに違いありません。目撃証人のほぼ全員が強制収容所のユダヤ人囚人でしたので、自分たちから自由を奪ったドイツ人たちに喜んで復讐しようとしており、数世紀ではないとしても、数十年間はドイツ民族を中傷するために、虐殺物語であればなんであっても、自発的に口にしたのです。
1994年9月、私は、カリフォルニアで開かれた修正主義者の大会に出席しました。それは、歴史評論研究所(P.O. Box 2739, Newport Beach, CA, 92659,
USA)が組織した会議でした。歴史評論研究所は学術誌『歴史評論』を出版しています。この大会で、歴史評論研究所長もつとめるアメリカ人歴史家マーク・ウェーバー、ブラッドレー・スミス、エルンスト・ツンデルなどホロコースト修正主義の指導者たちと知り合いました。
1995年10月、フュルシュター氏は私の4番目の修正主義的著作『死因、現代史研究(Todesursache Zeitgeschichtsforschung)』を出版してくれました。フィクション風のスタイルをとっているので、小説と呼べるかもしれません。ドイツの学校で、二つの学生グループが、ホロコーストやその他のデリケートな歴史のテーマを議論しているのです。一つのグループはホロコースト正史を信じており、もう一つのグループは信じておらず、両者が論争を繰り広げます。結局、修正主義者グループが勝利を収め、教師のマルガレーテ・レンプレは修正主義を支持するようになります。彼女はホロコーストについての討論を奨励したとの咎で解雇され、その後、殺されます。『死因、現代史研究』は、学術的な著作ではありませんが、私の著作の中では一番好評を博しています。この話が実話であると思い込んだ読者がいたのには驚きました。あるドイツ人女性などは、この小説の不幸なヒロインの墓に花を捧げようと、その墓地の場所を知りたがっていました。
1995年7-8月、11-12月の二回にわたって、私はロシアの文書館で仕事をするために、マットーニョと一緒にモスクワを訪れました。私たちはアウシュヴィッツその他の民族社会主義者の強制収容所についての膨大な資料を発見し、数千をコピーしました。マットーニョは彼の著作でそれらの資料を使っています。最初の訪問では、私たちの友人ルス・グラナタが同行しました。彼は、イタリア系アメリカ人の老紳士で、マットーニョの著作の英語版を出版しており、自分でも修正主義的サイトを運営しています(www.russgranata.com)。
1996年、ドイツでは出版されなかった著作がロシア語に翻訳されました。それは、修正主義的見解の要約集で、『スキャナーにかけられたホロコースト』よりも質が高いものです。ロシア語版のタイトルは『ホロコーストの神話』でした。最初、民族主義的・反シオニズム的月刊誌『ロシア報知』の特別号として出版されましたが、きわめて好評でした。ドイツ語の原稿はその後英訳されました。それは出版されませんでしたが、『ホロコーストか、詐欺か?論点』というタイトルで、インターネットで利用可能です(Historical Review Press, http://ety.com/HRP)。
1997年1月、「スイスの自由の崩壊(Vom Untergang der Schweizerischen Freiheit)」という小論を発表しました。2年前に公布されていた「反人種差別法」を厳しく攻撃したものです。この法律はまったくシオニストによって作成されたものであり、その主な目的はホロコースト修正主義の抑圧であることを明らかにしました。2年半後の1999年10月、この小冊子は政治的な騒動を引き起こします。保守的なスイス国民党右派を率いるポピュリスト的な政治家にクリストフ・ブロヒャーという人物がいますが、彼は私の友人から「スイスの自由の崩壊」を入手し、私信の中で謝礼を述べると同時に、ユルゲン・グラーフが正しいと述べていたのです。1999年10月に予定されている選挙ではブロヒャーの党が大勝を収めることが予想されていましたが、その1週間前に、日曜紙『ゾンタークスブリック』がこの私信を公表し、ブロヒャーが修正主義に共感していると厳しく批判したのです。数日間、スイスのメディアではブルヒャーの私信でもちきりであったので、スイス国内はてんやわんやでした。予想されたように、ブロヒャーがタオルを投げました。残念ながら、自分は過ちを犯した、この本を読んだことはないと釈明したのです。この中傷キャンペーンは反作用を生み出しました。ブロヒャーの党は大勝を収めたのです。
1997年夏、私はマットーニョともに、ポーランド、リトアニア、ベラルーシに旅立ちました。ポーランドでは、マイダネクとシュトゥットホフ強制収容所の文書資料を調査し、「殺人ガス室」とされた施設の写真を多数撮影しました。帰国してから、マットーニョと私は、マイダネクについての本を執筆しました。この『マイダネク強制収容所。歴史的技術的研究』(KL Majdanek. Eine historische und technische Studie ("Concentration camp Majdanek)は、1998年9月、ゲルマール・ルドルフのCastle Hill Publisher (Hastings, TN34 3ZQ, UK)から出版されました。3分の2はマットーニョが書いたものです。彼は、ガス室と焼却棟についての章を執筆しています。これは、難解な技術的問題を扱っており、私は技術的知識を十分に持ち合わせていなかったので、彼がこの章を担当したのです。
1998年5月、マットーニョと私はベルギーとオランダを訪れました。ベルギーのアントワープでは、友人のジークフリード・フェルベケを訪ねました。彼は、不屈の修正主義的出版者で、ヨーロッパ修正主義のキーパーソンの一人です。オランダのアムステルダムでは、ドイツの強制収容所に関するものも含む、多数の戦争中の文書資料が保管されている文書資料館で数日を過ごしました。
1998年7月16日、私の編集者ゲルハルト・フュルシュターと私は、スイスの「反人種差別法」を侵犯した咎で、スイスのバーデンで裁判にかけられました。この法律は、「虐殺の否定・矮小化もしくは正当化」を禁止していますが、ガス室や600万人という数字、ひいてはユダヤ人やホロコーストについても言及していません。この「反人種差別法」はいかようにでも解釈できるので、裁判官は、すべての咎ですべての人々を告発することができます。私は執行猶予なしの15ヶ月、フュルシュターは12ヶ月の刑を宣告され、その上に巨額の罰金を科せられました。さらに、私は、この法律が公布される以前に執筆した本の件で処罰されたのです。この裁判についての英文資料は、『ホロコーストか、詐欺か?論点』の終わりの章にあります(http://ety.com/HRP)。
フュルシュターはこの裁判のときに病にかかっており、車椅子で出廷しなくてはならないほどでしたが、9週間後の1998年9月23日に他界しました。私は、その3日前に病院に見舞いにいきました。彼は、波乱の生涯の最後の数十年を過ごしたヴュレンロスに埋葬されました。安らかにお休みください!
私の弁護人ウルス・オズヴァルト博士の仕事は見事でしたが、この裁判は政治裁判であり、判決はあらかじめ決まっていたので、どのような弁護士であっても、それを覆すことはできなかったでしょう。もちろん、オズヴァルト博士は控訴しました。1999年6月26日、アルガウ郡裁判所は判決を承認しましたので、オズヴァルト博士は、ローザンヌの最高裁判所、連邦裁判所に上告しました。2000年4月、上告が棄却され、10月2日に刑務所に出頭することを命じられました。しかし、このとき、私は婚約者とともにモスクワにいました。Rene-Louis Berclaz、Philippe Brennenstuhlと私の主宰するスイス人団体「真実と正義(Verite et Justice)」は、私の事件についての文書記録『スキャナーにかけられた政治裁判。ユルゲン・グラーフ事件(Un proces politique au scanner. L'affaire Juergen Graf)』を出版しました。この小冊子は『作動中の異端審問官たち(Inquisitoren in Aktion)』というタイトルで独訳されました。フランス語版もドイツ語版もVerite et Justice, C.P. 355, 1618 Chatel-St. Denis, Switzerlandで入手できますし、インターネットサイト Wilhelm Tell (www.ety.com/tell)でも閲覧可能です。前述した英語版の裁判記録はこの文書記録にもとづいていますが、バーデンで開かれた最初裁判を扱っているだけです。一方、「真実と正義(Verite et Justice)」が出版した小冊子はアルガウで開かれた裁判も扱っており、この悪名高い「反人種差別法」の背景についての情報も提供しています。
1999年、マットーニョと私は、文書資料の調査のために、もう一度ポーランドを訪れました。チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの文書資料館も訪れました。旅の前半には、オーストリアの修正主義者フレッド・テーベン博士も同行しました。その後、アデレイド研究所長のテーベン氏は、オーストラリア(反修正主義者法は存在しない)の自分のインターネットサイト上で修正主義的資料を公表した咎で、ドイツで逮捕され、7ヶ月投獄されています。ドイツ最高裁の最近の裁定によると、世界中のどの国であれ、インターネット上に修正主義的な資料を掲載した人物は、ドイツに入国すれば、逮捕され、5年間投獄されることになるのです。
イタリアに帰国すると、私たちはシュトゥットホフについての著作『シュトゥットホフ強制収容所と民族社会主義者のユダヤ人政策におけるその機能(Das Konzentrationslager
Stutthof und seine Funktion
in der nationalsozialistischen
Judenpolitik)』を執筆し、それは、同年秋に、Castle Hill Publisher, Hastingsから出版されました。マイダネクについての著作、シュトゥットホフについての著作も英訳されているのですが、まだ出版されていません。英訳は2001年に出版予定です。
2000年初頭、Castle
Hill Publisherは私の本『粘土足の巨人。ラウル・ヒルバーグとホロコーストについての彼の標準的著作(Riese auf toenernen Fuessen. Raul Hilberg und sein Standardwerk ueber den Holocaust)』を出版しました。オーストリア生まれのユダヤ系アメリカ人ラウル・ヒルバーグの3巻本『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(1985年の「決定」版)はホロコーストについての標準的著作と広く評価されていますが、この本を徹底的に批判したものです。詐欺師ヒルバーグはホロコースト正史を確証するために、まったく欺瞞的な方法を使っていますが、そのことを暴露しました。英訳は2001年春に出版予定です。
1999年、2000年、私は、スイスでの知的自由の復権のために闘っている団体「真実と正義」のために、多くの活動を行ないました。2000年3月、「真実と正義」は、嘘に満ちたベルギエル報告を徹底的に論駁した『反ベルギエル報告(Le Contre-Rapport
Bergier)』という2番目の小冊子を出版しました。(1999年末、ベルギエル教授が指導するシオニストグループ、親シオニスト宣伝家集団は、スイスをナチスのホロコーストに深く関与した国として糾弾するベルギエル報告なる文書を公表しました。この偏見に満ちた報告には歪曲や嘘が多数含まれていますが、わが国に対するユダヤ人のさらなる金銭的要求の思想的な根拠を提供するものとなっていました。)ベルギエル報告に対する私たちの回答のフランス語版、ドイツ語版はVerite et Justicで入手できますし、インターネットサイト Wilhelm Tell (www.ety.com/tell)でも閲覧可能です。2000年9月、「真実と正義」は、79歳という老齢の修正主義的出版者Gaston-Armand Amaudruzに対する残酷な裁判の文書資料を出版しました。Gaston-Armand Amaudruzは、600万人という数字を論点とし、ナチスのガス室の実在性に疑問を呈した咎で、ローザンヌの裁判所で懲役1年の判決を宣告されたのです。三番目の小冊子『Amaudruz裁判。滑稽な裁判(Le proces Amaudruz. Une farce judiciaire)』、ドイツ語版(Der Amaudruz-Prozess. Eine Justizfarce)です。
2000年4月、5月、マットーニョと私は、モスクワを訪れました。3回目の訪問で、文書資料館で私たちの仕事を完成させるためでした。5月末、私はカリフォルニアで開かれた歴史評論研究所第13大会に出席し、「アウシュヴィッツに移送され、登録されなかったユダヤ人には何が起ったのか」という講演を行ないました(この講演のテキストはJournal of Historical Review, Volume 19, Number 4, July/August 2000に公表されています)。3ヵ月後の8月後半、私は、若く聡明なオーストリアの技術者リヒャルト・クレーゲに同行して、ポーランドに向かいました。この旅行の目的については後述することにします。ポーランドから、ロシアへ、そしてウクライナに向かい、レンベルク(リヴォフ)の文書資料館で調査を行ないました。こうした旅行すべてが寛大なるスポンサーの手によって可能となったことを指摘しておきたいと思います。
修正主義は私の人生を根本から変えました。私の人生は危険で危ういものとなりましたが、根本的に邪悪なものと闘っていることを知るにつれて、かつてよりも、興味深くかつ意味深いものになっていきました。ホロコーストの真実を発見することは、まさに知的冒険であり、私の目を開いてくれました。ユダヤ人の絶滅と殺人ガス室物語が奇怪な嘘にすぎないことを確信すると、いわゆる「西側民主主義」の本質を理解するようになりました。外部の敵対的な少数派が、西欧社会を蝕んでいる退廃と腐敗の背後の存在する推進力であるという事実を知ることになったのです。ホロコーストは極端な嘘の事例にすぎません。ユダヤ人の支配するメディアが、その嘘を利用して、世界を毒しているのです。もっとも典型的な事例は、イラン・イスラム共和国に対する邪悪な宣伝です。ユダヤ人とそのちょうちん持ちは、イランを憎悪しています。この国が、世界で唯一の超大国、シオニストの指導するアメリカ合衆国の政治的、軍事的、文化的帝国主義に挑戦してきたからです。「ガス室」と「600万人」についての嘘をつき続けている人々が、イランとイスラム革命に対して中傷を行なっている人々と同じ人々であることを想起することは非常に重要です。彼らはまた、中絶、同性愛者の権利(同一の性と結婚する同性愛者の権利、同性愛者のカップルが養子をとる権利)、ハードコアのポルノグラフィ、その類の醜悪なものを宣伝している人々なのです。