試訳:東部占領地区での特別行動部隊の役割
――C. マットーニョ――
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年11月06日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, Jürgen Graf , Treblinka
Extermination Camp or Transit Camp?, Theses & Dissertations Press, PO
Box 257768, Chicago, IL 60625, USA, June 2003(その試訳)の第7章にあたるCarlo Mattogno, The Role of the Einsatzgruppen in the Occupied
Eastern Territoriesを試訳したものである。また、マークは当研究会が付したものである。 online:http://vho.org/GB/Books/t/# |
1. 初期の状況
ホロコースト正史派の歴史家たちは、占領ソ連地区で、ドイツ側はユダヤ人の組織的絶滅政策を追求していたのだから、ユダヤ人がポーランドの絶滅収容所で殺されたのか、それとも、東部地区に移送されたのちに、そこで射殺されたのかは大した問題とではないと主張するようになっているが、この議論を反駁するには、東部地区ではユダヤ人の組織的絶滅が行なわれたのかどうかという問題に焦点をあてておかなくてはならない。そして、この問題を明らかにするには、特別行動部隊とその任務をまず検証しておかなくてはならない。
ドイツ軍がソ連に侵攻すると、合計3000名――運転手、通訳、無線技師といった非戦闘員集団も含む[576]――の4つの特別行動部隊が占領地区で活動するようになった。もちろん、その任務の1つは、後方地帯の治安維持、すなわちパルチザンと戦うことであった。しかし、ホロコースト正史によると、これ以外の別の、もっと邪悪な任務が特別行動部隊には与えられたという。ヒルバーグは、特別行動部隊D司令官オットー・オーレンドルフの戦後の供述に言及することで[577]、次のようにまとめている[578]。
「オーレンドルフによると、特別行動部隊の司令官はヒムラーから個人的に命令を与えられた。彼らは、自分たちの任務の重要な部分は、ユダヤ人――女性、男性、子供――と共産党機関員の除去であると知らされた。」
ヒルバーグによると、特別行動部隊は90万以上のソ連系ユダヤ人を殺害し、その数は、ドイツ占領下のユダヤ人犠牲者のほぼ「3分の2」であった。残りは、ドイツ国防軍、SS、警察、ならびにドイツ側に協力したルーマニア人に殺されるか、収容所やゲットーで死亡したという[579]。
特別行動部隊による数十万の殺戮の証拠として、しばしば引用されているのが、いわゆる「事件報告」である。それは、1941年6月から1942年5月の時期のものであり、大量殺戮の犠牲者の数を5桁の数で言及している。連合国はベルリンの国家保安中央本部の事務所で、これらの文書を発見したという。この文書は適時に簡単に焼却できるのであるから、ドイツ側がこのような犯罪の証拠となる文書を放置して、敵側にやすやすと手渡してしまったことは、きわめて奇妙である。事実、「事件報告」の信憑性に疑いの目を向けている修正主義的研究者も存在しているし、少なくとも一部は偽造された文書であると考えている修正主義的研究者も存在する。こうした説の根拠となっているのは、この文書に記されているような大量殺戮の証拠がないことであるが、この問題については、あとで検討しよう。さらに、バッツは、次のような理由を挙げている[580]。
「それら[文書]は謄写版刷りであり、署名があるものはまれである。もしあったとしても、犯罪的な内容ではない頁についている。たとえば、資料NO-3159は、R. R. Strauchの署名がついているが、特別行動部隊のさまざまな部隊の配置がしめされている冒頭の頁だけである。1942年8月−9月に363211名のロシア系ユダヤ人を処刑したことをヒトラーに報告したヒムラーの報告とされているNO-1128もある。この話はその4頁目に掲載されているが、ヒムラーの署名とされている署名は不適切な1頁目にある。さらに、ヒムラーの署名を偽造するのは簡単である。1つの水平線に3つの垂直線を引けばよい。」
ウド・ヴァレンディはこう付け加えている[581]。
「ドイツ国防軍総司令部裁判でのアメリカの軍事法廷がすでに述べているように、『ソ連邦事件報告』は配置、指定時刻、部隊、その他、兵力、装備、補助兵力、兵站などの詳細について非常にあいまいである。ベルリンで書かれた、あるいは書かれたとされる文書の断片にある数字は、たとえ報告自体が本物だとしても、歴史家にとってはきわめて脆弱な証拠である。文書の断片に登場している数字は、偽造可能であり、文書を綿密に検証することが必要だからである。」
もっと重要なことは、ソ連占領地区での大量絶滅政策自体が、ユダヤ人の東部地区への移住という民族社会主義者の政策(第6章、第8章参照)とだけではなく、いくつかの特別行動部隊報告ともひどく矛盾していることである。例えば、1942年6月26日の「東部占領地区報告」第9号は、治安警察によるゲットー化措置およびルテニア系ユダヤ人の労働力利用措置を報告したのちに、次のように結論している[582]。
「これらの措置によって、その後に意図されているヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終解決の土台が、白ロシア領に対しても作られてきた。」
1941年8月14日の報告第52号も、「プリペト湿地、北ドニエプルおよびヴォルガの湿地の干拓」計画に、大量のユダヤ人を使用することを提案している[583]。
ここでは、「事件報告」の信憑性に関しての議論はペンディングにしておいて、信憑性とは関係なく、この文書が歴史的事実を反映しているかという問題だけを検証することにする。
特別行動部隊が数多くの大量射殺を行ったことについては、疑いの余地がない。しかし、本小論のテーマに関しての重要な論点は、以下の2点である。
特別行動部隊はソ連系ユダヤ人の組織的絶滅という任務を課されていたのか?
東部地区に移送された西部地区ユダヤ人は、ソ連系ユダヤ人と同じように扱われたのか?
2. 大量射殺の理由
このうちの第1点に関しては、ユダヤ人射殺政策は、東部地区のユダヤ人すべてを対象としたものではなかったこと、さらに、ユダヤ人全体を対象としたものではなかったことが確証しうる。1941年4月29日の覚え書の中で、アルフレド・ローゼンベルクはこう述べている[584]。
「ユダヤ人問題の過渡的解決が設定されなくてはならないが(ユダヤ人の強制労働、ゲットー化など)、ユダヤ人問題は全体的な措置を必要としている。」
1941年5月7日、ローゼンベルクは、「ウクライナ総督のための指示」の中で、こう指示している[585]。
「事態の成り行きとして当然起こることであるが、ユダヤ人をすべての公職から追放したのちに、ユダヤ人問題は、ゲットーや労働部隊の設立による決定的な解決を経験するであろう。強制労働が導入されるべきである。」
「住民区分」のパラグラフにある「茶色の書類」は、東部ユダヤ人を2つのカテゴリーに分けている[586]。
「個々の帝国総督府、その中の弁務府では、ユダヤ人が全住民の中のかなりの部分を構成している。例えば、白ロシアとウクライナでは、数世代にわたってそこに生活している300万人のユダヤ人がいる。一方、ソ連邦の中央地域では、ボリシェヴィキ時代だけでそこに移住してきたかなりのユダヤ人がいる。ソ連系ユダヤ人は特別集団を形成している。彼らは、1939年−1940年に赤軍の列車によって、東ポーランド、西ウクライナ、西白ルテニア、バルト諸国、ベッサラビア、ブコヴィナに運ばれてきた。これらのさまざまな集団に対して、さまざまな扱いが行なわれている。まず、過去2年間に、ソ連が新しく占領した地区に移住してきたユダヤ人は、彼らが逃亡していない限り、厳しい措置によって取り除かれるべきである。これらの集団は、地元の住民たちにテロルを行使し、そのために、激しい憎悪を呼び起こしているために、彼らに対する絶滅が、ドイツ軍の面前で、多くの場合、地元住民によって行なわれている。この種の報復的な措置を反対すべきではない。その他の居住ユダヤ住民は、まず、強制的出頭によって登録されるべきである。ユダヤ人すべてが、はっきりとそれとわかる記章をつけていなくてはならない(黄色のダヴィデの星)。」
「ソ連系ユダヤ人」は射殺され、その他圧倒的多数の居住ユダヤ住民はゲットーに収容されたのである。しかし、その他多くの東部地区ユダヤ人も、サボタージュ、反ドイツ活動、疫病の媒介者、とりわけ、パルチザン攻撃への報復措置として殺された。
このことは、特別行動部隊の初期の報告にすでに現れている。その1つからの抜粋はこう述べている[587]。
「[白ロシア]。ゴロドニアでは165名のユダヤ人テロリストが、チェルニゴフでは19名のユダヤ人共産主義者が清算された。また8名のユダヤ人共産主義者がベレスナで射殺された。
とくにユダヤ人女性が抵抗を示すケースも頻繁であった。このために、クルグロイェでは28名のユダヤ人女性を、モギリョーフでは337名のユダヤ人女性を射殺しなくてはならなかった。
ボリッソフでは331名のユダヤ人サボタージュ主義者と118名のユダヤ人略奪者が処刑された。ボブルイスクでは、ドイツ占領軍に対する中傷・虐殺宣伝を行なっていた380名のユダヤ人が射殺された。
タタールスクでは、ユダヤ人が勝手にゲットーを離れ、前の居住地に戻って、そこからロシア人を追い出そうとしている。すべてのユダヤ人男性と3名のユダヤ人女性が射殺された。サンドルドゥブスにゲットーを設立するときには、一部のユダヤ人が抵抗したので、272名のユダヤ人を射殺しなくてはならなかった。その中には、政治人民委員もいた。
モギリョーフのユダヤ人もゲットーへの再定住をサボタージュしようとした。113名のユダヤ人が清算された。
さらに、4名のユダヤ人が就労拒否の咎で射殺され、2名のユダヤ人が、負傷したドイツ軍兵士を虐待し、指示された記章をつけていなかった咎で射殺された。
タルカでは222名のユダヤ人が反ドイツ宣伝の咎で射殺され、マリナ・ゴルカでは996名のユダヤ人が、ドイツ占領当局の命令をサボタージュした咎で射殺された。
シクロフでは、627名のユダヤ人がサボタージュ行動に関与した咎で射殺された。
伝染病の感染に危険が高かったので、ヴィテプスクのゲットーに暮らすユダヤ人の清算が始められた。約3000名のユダヤ人である。」
次節で考察するように、この数字が水増しされているのではないかという疑いは十分にある。しかし、このテキストを検討すれば、特別行動部隊にはユダヤ人全体を絶滅する任務が与えられていなかったことがわかる。もし与えられていたとすれば、特定の咎で処刑されたユダヤ人とそれ以外のユダヤ人を区別する必要はまったくないからである。
したがって、特別行動部隊が実際に行なった大量射殺については、ユダヤ系の歴史家アルノ・メイヤーが次のように要約していることが、もっとも論理的であろう[588]。
「ユダヤ人の苦難が前代未聞の規模であったにもかかわらず、東部ユダヤ人の絶滅はバルバロッサの主要目的とはならなかった。生活空間を求める戦い、ボリシェヴィズムに対する戦いは、ユダヤ人殺戮の口実とはならなかった。ユダヤ人の虐殺をパルチザンに対する報復行為と装うことも、それを正当化する煙幕とはならなかった。たしかに、ユダヤ人への攻撃は、その当初から、ボリシェヴィズムに対する攻撃と交じり合っていた。しかし、そのことは、ユダヤ人への攻撃が、バルバロッサが破壊の目的とした混成語『ユダヤ・ボリシェヴィズム』の中の主要な要素であったことを意味しているわけではない。実際には、ユダヤ人に対する戦争は、独ソ戦の接木、もしくは宿木であった。特別行動部隊と国家保安本部部隊の任務が設定されたとき、ユダヤ人絶滅はその主要な任務でも、まして、その唯一の任務でもなかった。」
メイヤーによると、東部ユダヤ人の虐殺は、組織的な絶滅計画の一部ではなく、東部戦線が仮借のない様相を呈した結果として、SSが東部ユダヤ人をボリシェヴィズムの媒介者とみなした結果として、生じたのである。
3. 射殺の規模
SSが行なった射殺は、ホロコースト正史派の歴史家たちがとなえてきたような規模ではなかった。当該報告にある数字を客観的に確証することはできないし、多くの場合その数字は非常に誇張されているからである。いくつかの事例を引用しておこう。
a. ラトヴィアで殺されたユダヤ人の数
特別行動部隊Aの行動に関する長文の全体報告には、次のようなデータが掲載されている[589]。
「1935年時点でのラトヴィアのユダヤ人の合計は、93479人、もしくは全住民の4.7%であった。…
ドイツ軍が侵攻した時点では、ラトヴィアにはまだ70000人のユダヤ人がいた。残りは、ボリシェヴィキとともに逃亡した。…
1941年10月まで、約30000人のユダヤ人が特別部隊によって処刑された。
経済的重要性のために残されたユダヤ人は、ゲットーに集められた。ダヴィデの記章をつけていない、闇市場を運営した、窃盗、詐欺といった犯罪の咎のため、およびゲットーでの疫病の危険の防止のために、その後も処刑が続いた、このために、1941年11月9日、ドュナブルクで11034名が、1941年12月初頭、リガで27800名が、SS警察長官の命令で処刑され、1941年12月中旬、リバウで2350名が処刑された。この時点で、ゲットーにはラトヴィア系ユダヤ人が(ドイツ本国からのユダヤ人は別として)、リガに約2500名、ドュナブルクに950名、リバウに3000名いた。」
まとめておこう。
ドイツ軍侵攻時点でのユダヤ人 |
70,000 |
1941年10月までに射殺されたユダヤ人 |
30,000 |
射殺されたゲットーユダヤ人(11,034+27,800+2,350=) |
41,184 |
ゲットーでまだ生きているユダヤ人
(2,500+950+300=) |
3,750 |
しかし、この射殺されたユダヤ人の数(30000+41184=)71184人にゲットーで生きているユダヤ人の数(3750人)を加えると、74934人のユダヤ人となり、その数は、ドイツ軍がラトヴィアに侵攻した時点のユダヤ人の数よりの多くなってしまう。報告を要約した「1942年2月1日までに特別行動部隊Aが行なった処刑数」という表では、射殺されたユダヤ人の数は35238人とある。これに、「ポグロム」によって殺された5500人を加えると[590]、40738名のユダヤ人犠牲者となる。この数字には、報告には登場していないポグロムによって殺された5500人のユダヤ人が含まれているけれども、射殺された数字は、71184名対40738名というように、はるかに低い。
b. リトアニアで殺されたユダヤ人の数
リトアニアでの数字も、少なからず奇妙である[591]。
「ある統計によると、ボリシェヴィキが入ってくるまで、1929年の時点で、153743人のユダヤ人がリトアニアで暮らしており、それは全住民の7.58%であった。…
多くの作戦で、合計136421人のユダヤ人が清算された。…
ゲットーのユダヤ人:
カウエン:約15000人
ヴィルナ:15000人
シャウレン:4500人」
射殺された人々(136421人)にゲットーでまだ生きている人々(34500人)を加えると、この場合にも、もともとの数字(153743人)よりも多くなってしまう。さらにラトヴィアのケースでは、25%のユダヤ人がボリシェヴィキとともに逃亡したという事情をリトアニアにあてはめてみると、ドイツ軍が侵攻してきた時点でリトアニアにいたユダヤ人は、もっと少なく、約115000人となってしまう。
c. ドイツ帝国に併合された地域でのリトアニア系ユダヤ人
ライトリンガーは、特別行動部隊A隊長フランツ・シュターレッカーが報告書を作成した時点までは、(シュターレッカーの上げている38250名に反して)50000名のユダヤ人がラトヴィアとリトアニアに生存していたが、特定のリトアニア領――メーメル地方とスヴァウキとグロドノ周辺地区――がドイツ帝国に編入されたために、生存しているユダヤ人の数ははるかに多かったと述べている。すなわち、1942年末には、40000名ほどのユダヤ人がグロドノの2つのゲットーで暮らしており、18435名が、メーメルとスヴァウキが帰属したケーニヒスベルク地方で暮らしていたというのである。彼らは、ケーラー報告によると、ほとんどが「ソヴィエト・ロシア系ユダヤ人」であった[592]。
d. シムフェローポリとマンシュタイン裁判
マンシュタイン元帥は、第11軍司令官であり、黒海沿岸地方とクリミア半島で戦った。1949年、彼は、特別行動部隊Dによる虐殺事件の共謀の咎で、ハンブルクで開かれたイギリス軍事法廷の前に立たされた。彼の弁護人はイギリス人レギナルド・パゲット(Reginald T. Paget)であり、彼は、1951年にこの裁判についての著作を著している――1年後に独訳されている――[593]。彼は、その中で、クリミアでの特別行動部隊Dの活動について次のように記している[594]。
「SDが述べている数字はありえないように思われる。8台の自動車を持つ約100名の部隊が、2、3日間で10000−12000名のユダヤ人を殺したというのである。ユダヤ人は再定住地に向かうと信じており、そのために所持品を携行していたので、SDが1台のトラックで輸送できるのはせいぜい20、30名のユダヤ人であろう。各車両にユダヤ人を乗せて、10km進み、そこで彼らを降ろして戻ってくるには2時間はかかったことであろう。ロシアの冬は日が短く、夜間の搬送はありえない。したがって、10000名のユダヤ人を殺すには、少なくとも3週間はかかったことであろう。
あるケースでは、数の検証が可能である。シムフェローポリで、SDは11月に10000名のユダヤ人を殺し、12月には、市からユダヤ人を一掃したという。事件を検証してみると、次のことがわかる。シムフェローポリでのユダヤ人の射殺は、11月16日だけに起こった。シムフェローポリにいたSD部隊は1部隊だけであった。処刑地は市から15km離れたところであった。犠牲者の数はせいぜい300名であったにちがいない。この300名はユダヤ人だけではなく、抵抗運動に関与した嫌疑をかけられていたさまざまな集団であった。シムフェローポリ事件が世に知られるようになったのは裁判が行なわれていた時期のことであった。この事件のことを証言したのは、唯一の生存者、ガッファルという名のオーストリアの兵士だったからである。彼は、対ユダヤ人作戦のことを工兵隊の宴会で耳にした、シムフェローポリ近くの処刑地のそばを通ったことがあると述べた。この証言のあと、われわれは多くの手紙を受け取ったが、その中には、マンシュタインがクリミアから撤退するまで、ユダヤ人家族の近くで暮らしており、ユダヤ人たちはシナゴーグでの礼拝といった宗教儀式を行なっており、イコンや雑貨品を売買するユダヤ人マーケットも存在していたと報告している証言もあった。シムフェローポリのユダヤ人共同体が公に存続し続けていたことには疑いはない。われわれの敵対者のあいだには、シムフェローポリのユダヤ人に対するSDの暴力行為についての噂を耳にした人々が存在したけれども、ユダヤ人共同体はとくに危険を感じていなかったようである。」
e. バビー・ヤール
「ソ連邦における保安警察とSDの特別行動部隊行動状況報告第6号」には、1941年10月1日−31日の時期について、こうある[595]。
「キエフでは、すべてのユダヤ人が9月29日と30日に逮捕され、合計33771名のユダヤ人が処刑された。」
これは、悪名高い「バビー・ヤールの虐殺」についてである。しかし、ヴァレンディとティーデマンは、この事件が起こっていないこと、少なくとも、いわれているような規模ではなかったことを立証している[596]。おそらく、シムフェローポリと同じく、キエフ近郊でも、数百名が射殺されたであろう。バビー・ヤール事件については、またあとで立ち戻ることにする。
f. リトアニアのゲットーと収容所での労働不適格ユダヤ人
特別行動部隊報告には、射殺されたユダヤ人の数だけではなく、そのカテゴリーについても疑問の余地がある。
「1942年1月16日―31日の全体報告」では、34500名(といわれる)のユダヤ人がカウネン、ヴィルナ、シャウレンのゲットーに存在することが次のように説明されている[597]。
「労働配置のために、ユダヤ人の完全な清算が実行されないので、ゲットーが作られた。これらのゲットーは現時点では以下の通りである[上記に引用されている数があげられている]。これらのユダヤ人は、防衛目的に必要な労働に雇用されている。」
これによると、労働に適格なユダヤ人だけが、上記の3つのゲットーで生活することを許されたかのようである。この論理によると、労働不適格者、とくに子供はすべて、殺されたはずである。しかし、1942年5月末に実施された人口調査によると、14545名のユダヤ人――彼らの名前は(誕生日、職業、住所とともに)は、ヴィリニュス(ヴィルナのリトアニア名)のユダヤ博物館によって公表されている――が、ヴィルナには生活していた。さらに、この資料からは、14545名のユダヤ人のうち、少なくとも3693名が15歳以下の子供である。年代ごとの子供の数は、以下の表となる[598]。
誕生年 |
年齢 |
子供の数 |
1927 |
15 |
567 |
1928 |
14 |
346 |
1929 |
13 |
265 |
1930 |
12 |
291 |
1931 |
11 |
279 |
1932 |
10 |
216 |
1933 |
9 |
226 |
1934 |
8 |
195 |
1935 |
7 |
227 |
1936 |
6 |
229 |
1937 |
5 |
182 |
1938 |
4 |
188 |
1939 |
3 |
181 |
1940 |
2 |
117 |
1941 |
1 |
172 |
1942 |
a few months |
12 |
|
合計: |
3,693 |
さらに、人口調査に登録されているユダヤ人のあいだには、65歳以上の人物が59名いる。最年長は、1852年生まれの90歳になるChana Stamlerieneであった。
子供たちはゲットーでは家族と暮らしていた。例えば、ミハイロフスキイ家は、1905年生まれのナッハマン、1907年生まれのフルマ、1928年生まれのペシア、1932年生まれのニウシア、1935年生まれのソニア、1904年生まれのマネ、1903年生まれのソニア、1930年生まれのモテル、1933年生まれのハナで構成されていた[599]。カセフ家は、1909年生まれのハイム、1921年生まれのハヴァ、1941年生まれのスロマで構成されていた[600]。シュメレヴィチ家は、1896年生まれのアブラム、1909年生まれのハワ、1938年生まれのソラ、1941年生まれのリヴァで構成されていた[601]。最後に、ツッカーマン家は、1916年生まれのコセル、1912年生まれのシマ、1932年生まれのクシア、1934年生まれのマルカ、1904年生まれのアブラム、1909年生まれのシフラ、1930年生まれのブルマで構成されていた[602]。
3693名の子供が家族とともに暮らしていたので、労働不適格者と雇用不可能者(子供の世話をしなくてはならない母親)の数はもっと多かったにちがいない。
特別行動部隊がすべてのユダヤ人、少なくとも労働不適格ユダヤ人すべてを清算しなくてはならないとしたならば、これらの3693名の子供たちは、1942年10月のゲットー第2号の解体(解体されたといわれている)のときに、なぜ殺されてはいなかったのであろうか。
これらの子供たちには死の危険がほとんど迫っていなかったことについては、アブラハム・フォックスマンによる、ヴィルナ・ゲットーの学校制度の様子からもはっきりとしている[603]。
「1941年、ゲットーが設立されてから数日後、教師集団がクラブを作り、これが、ゲットーの教育システムを組織することになった。入学者を募ると、3000名の子供が登録された。当初、入学は自発的なものであったが、1943年4月には、義務となった。『1943年4月28日に、ゲットー代表者会議が発した指令第3号は、ゲットー学校への入学が義務となると告げている。3歳から13歳までのすべての子供は、無料のゲットー学校に入学しなくてはならない。ブロック長は、入学が義務づけられている子供たちが入学することに責任を負う。』
ゲットーの初年には、20以上の教育施設が創立され、それは、ゲットー学校への入学が義務となっている子供の80%をカバーしていた。学校および作業施設もカウエンに創設された。ゲンス[604]は、ゲットーの外の森の中に、フェンスで囲まれた区画を確保する許可をドイツ人から得た。教師が週に4回、100−150名の子どもを連れて、この森の中に歩いていった。1942年、しょう紅熱が蔓延したために、開校が遅れた。10月、作業が再開され、1500−1800名の子供たちが入学した。60名の教師がいて、彼らは毎週42時間勤務した。それ以外の18時間は、厨房での作業、生徒や両親の家庭訪問、本や教科書の修理、およびさまざまな集会の指導にあてられた。」
1944年5月12日、「ロシア人無法集団」がリトアニアのいくつかの施設を攻撃し、そこを略奪した[605]。「ボフメリシュキ・ユダヤ人キャンプ――1592――には、約300名の女性、男性、子供たちがいたが、そこでは、5−6のMPIと数丁のライフルを略奪した。」
g. ブレスト・ゲットーの労働不適格ユダヤ人
もっぱら労働適格ユダヤ人だけが生存を許されていたはずのゲットーで、高い割合の老人と子供も生活していた事例もある。ブレスト・ゲットーでは、9000名以上のユダヤ人の年齢がわかっており、そこには、65歳以上の932名の老人もいたが、彼らの年齢構成は以下のとおりである。
誕生年 |
年齢 |
人数 |
1872-1876 |
66-70 years |
397 |
1867-1871 |
71-75 " |
309 |
1862-1866 |
76-80 " |
152 |
1857-1861 |
81-85 " |
57 |
1852-1856 |
86-90 " |
14 |
1850-1851 |
91-92 " |
3 |
|
合計: |
932 |
さらに、このゲットーには、15歳の子供(1927年生)380人、14歳の子供(1928年生)128人、13歳の子供(1929年生)4人、12歳の子供(1930年生)1人、10歳の子供(1932年生)1人、9歳の子供(1933年生)2人も暮らしていた[606]。
h. ミンスク・ゲットーの労働不適格ユダヤ人
ミンスク・ゲットーの878名のユダヤ人に関する1943年(月不詳)のリストには、少なくとも227名の子供が存在しており、その年齢構成は以下のとおりである。
誕生年 |
年齢 |
子供の数 |
1928 |
15 years |
45 |
1929 |
14 " |
28 |
1930 |
13 " |
28 |
1931 |
12 " |
17 |
1932 |
11 " |
23 |
1933 |
10 " |
10 |
1934 |
9 " |
4 |
1935 |
8 " |
9 |
1936 |
7 " |
11 |
1937 |
6 " |
17 |
1938 |
5 " |
12 |
1939 |
4 " |
17 |
1940 |
3 " |
4 |
1941 |
2 " |
2 |
|
合計: |
227 |
このリストには、12名ほどの老人も含まれており、そのうちの最年長者は1857年生まれ、86歳であった[607]。
i. バルト系ユダヤ人の子供のシュトゥットホフへの移送
1944年夏、カウナス(リトアニア)ゲットー――1943年秋に強制収容所に変わっていた――とリガ(ラトヴィア)ゲットーからの多くのユダヤ人がシュトゥットホフに移送された。7月12日から10月14日のあいだに、合計10458名にユダヤ人の10回の移送集団がカウナスから、合計14585名の6回の移送集団がリガから[608]、ダンツィヒ(今日のグダニスク)の東に位置する収容所に到着した。この移送者のリストは断片的にしか現存していないが、すでに確証したように、このリストの中には、少年・少女と呼ばれている15歳以下のバルト系ユダヤ人(その他)が数多く掲載されている。3098名(うち510名の名前がわかっている)を移送した1944年7月12日の移送には、このカテゴリーにあたる80名の子供が含まれていた。7月19日のリストでは、1097名の移送者(名前がわかっているの2名だけ)の中に、88名の子供がいる。以下の表は、子供の数と年齢をまとめたものである。
年齢 |
1944年7月13日の移送 |
1944年7月19日の移送 |
15 years |
3 |
- |
14 years |
7 |
4 |
13 years |
4 |
28 |
12 years |
8 |
13 |
11 years |
2 |
6 |
10 years |
4 |
9 |
9 years |
10 |
2 |
8 years |
4 |
6 |
7 years |
5 |
7 |
6 years |
9 |
8 |
5 years |
7 |
- |
4 years |
8 |
3 |
3 years |
8 |
2 |
2 years |
1 |
- |
合計: |
80 |
88 |
1944年7月26日、1983名の囚人がシュトゥットホフからアウシュヴィッツに移送された。その大半がリトアニア系ユダヤ人であった。その中には、546人の少女、546人の少年ならびに801人の「母親である女性」が含まれていた[609]。この移送者の名前のリストのかなりが現存している。年齢がわかっている1488名の囚人のうち、850名が子供であるが、その年齢構成は以下のとおりである[610]。
誕生年 |
年齢 |
子供の数 |
1929 |
15 years |
31 |
1930 |
14 " |
117 |
1931 |
13 " |
146 |
1932 |
12 " |
94 |
1933 |
11 " |
36 |
1934 |
10 " |
61 |
1935 |
9 " |
26 |
1936 |
8 " |
58 |
1937 |
7 " |
44 |
1938 |
6 " |
61 |
1939 |
5 " |
54 |
1940 |
4 " |
60 |
1941 |
3 " |
52 |
1942 |
2 " |
8 |
1943 |
1 year |
2 |
|
合計: |
850 |
このリストには、7月13日の移送に登場した80名の子供のうち24名が記録されており、7月19日の移送に登場した88名の子供のうち84名が記録されている。9月10日にシュトゥットホフを出発してアウシュヴィッツに向かった移送者のリストは、登録簿にもとづいて部分的に再現することができるが[611]、この移送には、少なくとも345名のリトアニア系ユダヤ人の子供と12歳から17歳の少年が含まれており、その年齢構成は以下のとおりである。
誕生年 |
年齢 |
子供の数 |
1927 |
17
years[612] |
56 |
1928 |
16
" |
136 |
1929 |
15
" |
119 |
1930 |
14
" |
26 |
1931 |
13
" |
6 |
1932 |
12
" |
2 |
|
合計: |
345 |
移送リストは不完全であるので、カウナスとリガから移送された少年・少女の数は、文書資料に裏づけられている1250名ほどよりもはるかに多かったにちがいない。1944年夏にカウナスとリガにこのような子供たちが存在していたという事実は、特別行動部隊がユダヤ人の全体的絶滅、少なくとも労働不適格ユダヤ人の全体的絶滅を行なっていたという説をまったくくつがえしている。
さらに、大量絶滅説に対する、もっと明確な反証がある。物的痕跡が欠けていることである。
4. 作戦1005
ドイツ側がカチンとヴィンニツァの大量埋葬地を発見すると、ソ連の宣伝は、おもに2つの策略を使って、反撃に転じた。その1つは、ソ連の秘密機関である内務人民委員部(KGBの前身)による虐殺をドイツ側のせいにすること、もう1つは、ドイツ人による犠牲者の大量埋葬地を発見したと喧伝することであった。
周知のように、1943年4月13日、ドイツは、スモレンスクからさして離れていないカチンの森で、地元住民からの情報にもとづいて、合計4143名のポーランド軍将校の銃殺死体の大量埋葬地を7つ発見した。4−6月、12のヨーロッパ諸国からの医者も含む委員会が埋葬地を調査し、さらに、ポーランド赤十字、およびアメリカ軍・イギリス軍・カナダ軍の捕虜将校からなる委員会も埋葬地を調査した。それを受けて、ドイツは、膨大な文書資料にもとづく公式の報告書を公表した。そこには、法医学的な調査結果、80枚の写真、身元確認された犠牲者の名前が含まれていた[613]。
ヴィンニツァ(ウクライナ)の虐殺は、1943年6月初頭にドイツによって発見された。3つの異なった地点に97の大量埋葬地があり、ソ連が殺した9432名のウクライナ人の死骸が発見された。少なくとも14の委員会――うち6つは外国の委員会――が6月24日―8月25日に、この埋葬地を調査した。この場合も、ドイツ側は、282頁におよぶ調査結果を公表しているが、その中には、151枚の写真、法医学専門家の意見および犠牲者の名前が含まれている[614]。
ソ連側はスモレンスク地方を取り戻すと、もう一度カチンの死体を掘り起こし、調査委員会に調査させた。この委員会はもっぱらソ連人だけで構成されており(ブルデンコ委員会)、カチンの虐殺の責任をドイツ側に押し付けた。1944年1月15日、この委員会も西側のジャーナリストを招待した。
カチン事件を扱った38の報告書が作成され、それは今日でもモスクワのロシア連邦文書館に存在しているが、この報告書が、宣伝を目的として歴史を偽造するための証拠として利用された[615]。ソ連側が厚顔無恥にもドイツ側を糾弾したニュルンベルク裁判では、カチン事件は数回の審理公判に登場しているが[616]、ヴィンニツァの大量虐殺は一度だけ登場しているにすぎず、それも、3年前にドイツが招請したカチン調査委員会のメンバーであったブルガリアの法廷医師マルコ・A・マルコフがそれとなく言及したにすぎない[617]。
ソ連側は、カチンとヴィンニツァでの犯罪を忘れさせるか、少なくともその表面化を押さえるために、赤軍が再征服した地域でドイツ側が犯したとされる犯罪、もしくはそのように捏造された犯罪について、徹底的な調査を行なった。このために、調査委員会が、文字通りありとあらゆる町に設立された。ソ連は、カチン事件から、写真が大きな宣伝効果を持つことを学んでいたので、こうした委員会は発見された大量埋葬地と死体をすべて写真撮影した。死体の数が少ない場合には、その数を多く見せるために、同じ場所を角度を変えて何回も撮影した。
オサリチ事件は、この詐術をとくに明らかに物語っている。1944年3月12日、ドイツ国防軍第35歩兵師団長リヒター中将は、その地区の白ロシア住民を、オサリチ村からさして離れていない2つの収容所に収容することを命じた。この収容所には収容施設がなかったので、収容された人々は、解放される3月18日まで、戸外で生活せざるをえなかった。ドイツ人歴史家ハンス-ハインリヒ・ノルテは、こう述べている[618]。
「これらの収容所はソ連側宣伝に利用された。いくつかの新聞が、この収容所についての記事を載せた。『ドイツ・ファシスト侵略者犯罪調査委員会』は調査団を派遣した。」
解放後の2つの収容所を写真撮影した従軍記者は[619]、この調査団に属していた。さまざまな調査委員会による犠牲者数は、ばらばらであり、8000名[620]、9000名[621]、20800名[622]、30000名[623]、37526名[624]、ひいては49000名[625]にまで達していた。
600体が地面に横たわっているのが発見され[626]、さらに、「大量の死体が」埋められている長さ100m、幅1.5−2mの大量埋葬地が収容所1で発見されたという[627]。しかし、別の記事では、囚人たちはドイツ人に強制されて「6×3×2mの大きな壕を掘らされ、その中には、すでに射殺された14体が投げ込まれた」という[628]。
オサリチ記念モニュメント計画委員会は、死体は地面に横たえられたままか、戸外の壕の上に山積みされていたと述べている[629]。
「死体は埋葬されなかった。まだ生きている人々にはそうする力がなかった。最初は、衛兵たちは、生きている人々に、フェンスの近くにとくに掘られた壕の中に死体を投げ込むか、積み上げるように命じていた。しかし、毎日毎日、多くの死体が登場するようになると、死体は生きている人々のあいだに残されたままであった。」
だから、死体は除去されてもおらず、隠されてもいなかったので、誰もが目にすることができたはずであった。赤軍の写真撮影記者がこの現場にやってきたとき、恐ろしい光景を目撃したはずであった。しかし、実際には十分に恐ろしい光景ではなかった。7名の死体――4名の子供と3名の大人――が、地面の上に少しの間隔をとりながら横たえられていたが、それが、心をいためるような光景であった。この悲しむべき発見は宣伝目的にはかなっていたが、死体の数は少なすぎた。このために、写真撮影記者はトリックを使った。9つの異なったアングルから死体を撮影し、数十の死体を見ているかのような印象を作り出したのである[630]。ほかの死体から少々はなれたところにあった死体は4回撮影された[631]。別の4つの写真では、ほかの死体から離れていない4つの死体が写っている[632]。結局、収容所での恐ろしい光景を撮影した最初の15枚の写真には、15の死体が写っていることになる。もう一つの恐ろしい光景は、写真の終わりに写っている溝である。後ろの方は基本的に空であるが、前の方には7、8体が写っている。この写真は前述した6×3×2mの壕にあてはまっており、15体が写っている[633]。さらに、14枚の写真には、合計16体が写っている[634]。こうした写真資料だけでは、8000名から49000名の死者ということを確証するには、あまりにも死体の数が少なすぎる。
同じようなことがバビー・ヤールにもあてはまる。すでに強調しておいたように、特別行動部隊報告は、33771名が射殺されたと述べている。『ホロコースト百科事典』によると、死体は、1943年8月18日から9月19日のあいだに、327「特別部隊」によって掘り起こされ、焼却された[635]。1944年11月9日、キエフでのドイツ犯罪調査委員会メンバーであったラヴレンコ少佐は、ユダヤ人目撃者ヴラヂーミル・K・ダヴィドフを尋問した。ダヴィドフは、1943年8月18日、自分と99名の囚人――大半がユダヤ人――がキエフから5kmのところにあるシレツキ強制収容所から選別され、バビー・ヤールに連れて行かれ、1941年に射殺されたユダヤ人の死体を掘り起こさせられたと証言した。ダヴィドフによると、バビー・ヤールの大量埋葬地には70000体が埋められていた。囚人たちはこれらの死体を掘り起こして、「炉」の上で焼却した。その「炉」は、キエフのユダヤ人墓地から奪った花崗岩のブロックで作られており、その上に、線路が置かれていた。線路の上に、薪が置かれ、その上に死体が積み上げられたので、死体の巨大な山は10−12mにまで達した。当初は、1つの「炉」しかなかったが、その後、何と75の「炉」が作られた。死体は、完全には燃えつきなかった。このために、燃やされる前に埋められていた壕に投げ込まれたという。この証人は次のように述べている。
「9月25日と26日[636]、作業が終わりに近づくと、もう一つの炉を作るように命じられた。われわれ自身が焼却されるのである。バビー・ヤールにはもはや死体がなかったのでそのように憶測した。しかし、われわれはその炉を作った。」
ダヴィドフと彼の仲間の多く(35−40体)は、自分たちが殺されてしまうのを逃れるために、9月29日の夜に逃亡したが、その過程で、少なくとも10名が殺されたという[637]。
イリア・エレンブルクとヴァシーリイ・グロスマンの『黒書』はこの証言を要約しているが、数字を変えている[638]。『ホロコースト百科事典』の記述の典拠はこれである。
ダヴィドフは、バビー・ヤールでの死体の焼却に参加したとする唯一の証人である。70000名という死体の数は、「事件報告」による射殺の数――これ自体がすでに水増しされているが――の2倍である。10−12mの死体の山という話は、第4章で指摘しておいたように、技術的に馬鹿げた話である。ダヴィドフは、75の「炉」が作られたと述べているが、この数自体が、彼自身の述べている犠牲者数と矛盾してしまっている。75の「炉」では、75×3000=225000体が焼却されるはずだからである。
日付に関しては、ダヴィドフは、死体の焼却が終わったのは9月25日か26日であったと述べている。そして、この日に、囚人たちは、自分自身のための最後の「炉」を作ったという。9月26日、ドイツ空軍は、バビー・ヤールのある地域の航空写真を撮影している。ボールは、この写真に次のようなコメントをつけている[639]。
「写真2―1943年9月26日
この写真は、渓谷[640]で大量焼却が行われたとされる1週間後に撮影されている。もしも33000名が掘り起こされ、焼却のための燃料を運ぶ車両や人員が存在していたとすれば、その痕跡が、ユダヤ人墓地とバビー・ヤールが交わる地域に残っているはずである。しかし、メルニク通りの終わりから渓谷にいたる狭い道の終わり、もしくは、墓地の両側かその内部の草地と生垣には、そのような痕跡はまったく存在しない。」
ボールは、この写真の拡大図についてこう述べている[641]。
「拡大写真も、そのちょうど1週間前に33000体の焼却を終えた渓谷で325名の人々が作業していた痕跡をまったく写しだしていない。燃料運搬のための輸送路が数多くあったはずであるが、ユダヤ人墓地の草地や生垣、もしくは死体が焼却されたとされる渓谷にも、車両が移動した痕跡はまったく存在しない。」
ボールはここからこう結論している。
「バビー・ヤール渓谷とそれに隣接するキエフのユダヤ人墓地を撮影した1943年の航空写真は、その1週間前に、1ヶ月で数万の死体を掘り起こして焼却した数百の労働者のもとに、資材や燃料が運ばれたとすれば、当然生じるであろう土壌や植生の乱れをまったく写しだしていない。」
ダヴィドフという唯一の証人によると、バビー・ヤールでの死体焼却は9月25日か26日に終了した。そして、この日は航空写真が撮影された同日か前日である。だから、ボールの分析結果はきわめて重要である。『黒書』は、もっとあとの日付もあげている[642]。
「作業が終了したばかりの9月28日、ドイツ人は囚人に、火をつけるように命じた。」
第4章であげておいたデータによれば、33771体を焼却するには、約4500トンの木材が必要であり、焼却の中で約430トンの木灰と190トンの人灰が生まれる。さらに、数十トンの花崗岩(墓石)を、75の「炉」の支柱を支えるために、ユダヤ人墓地からバビー・ヤールに運んでこなくてはならなかった。もしも、バビー・ヤールについての話が真実であるとすれば、1943年9月26日の航空写真には、ぬぐうことのできない痕跡が写っていたことであろう。
ソ連がキエフを再占領すると、調査委員会がバビー・ヤールに向かい、何枚かの写真を撮影し、それはアルバムに記録されている。3枚の写真が、「死体が焼却された」第一の「地域」と第二の「地域」を撮影したという[643]。もう一つの写真には、「炉の残骸と、死体焼却にあたった囚人が逃げ込んだ岩屋」が写っているという[644]。これらのキャプションは馬鹿げている。ここに写っているのは、ソ連人が苦痛に満ちて撮影し、「ドイツが射殺したソ連市民の靴と衣服の残滓」と呼んでいた、いくつかの腐った靴とボロ切れであるからである。
したがって、33771名(もしくは70000名)のユダヤ人が射殺され、その死体はその後掘り起こされて焼却されたという「事件」について、ソ連側がその犯罪現場で発見したもっとも重要な証拠は、いくつかの靴とボロ切れだけなのである。そして、もしも、ソ連側が合計100以上の殺害されたユダヤ人(ならびに無数の非ユダヤ人)の大量埋葬地を実際に発見していたとすれば、ソ連側はもっと大々的な宣伝キャンペーンを繰り広げたことであろう。しかし、そのようなキャンペーンは行なわれなかった。ソ連側は、ドイツがカチンやヴィンニツァで発見したものに匹敵するような証拠をまったく発見できなかったからである。ソ連側は殺人現場を発見できなかったというような反論はまったく無意味である。ドイツ側は、地元住民の協力で、殺害されたウクライナ人の大量埋葬地を97箇所も発見しているからである。第3章で指摘したように、ソ連側が発見したのは、トレブリンカT周辺の3つの大量埋葬地と13の個人墓地であり、ポーランド人が発見したのは、41の疫病の犠牲者の大量埋葬地であった。だから、ヒルバーグの数字を借用すれば、特別行動部隊、ドイツ国防軍、SS、警察、ルーマニア人が殺害したほぼ150万人のソ連系ユダヤ人の死体、ならびに無数の非ユダヤ人の死体が発見できないとすると、これらの死体は、完全に焼却されて、消え去ってしまったことにしなくてはならなかったのである。まさにこのために、司法制度と歴史叙述は、「作戦1005」もしくは「特別作戦1005」――第4章で概観している――を必要とした。このことは、ホロコースト正史でさえもそれとなく認めている[645]。
「大量埋葬地の死体の焼却はナチスの犯罪をぬぐい去ることができなかったにもかかわらず、死体の焼却によって、犯罪の事実を確定し、犠牲者数を確定することは難しくなった。多くの場合、ソ連とポーランドでのナチス犯罪調査委員会は、大量埋葬地の痕跡をまったく発見することができず、数の見積もりをなかなか出すことができなかった。」
換言すれば、大量殺戮の物的証拠である「他殺死体」は発見されていないが、これは些細なことにすぎないというのである。
最近の調査も、「他殺死体」が存在していないことを明らかにしている。保安警察・SD行動部隊3の司令官の1941年12月の報告によると、1941年9月1日に、マリアムポレ(リトアニア:マリヤムポル)で、「1763名のユダヤ人男性、1812名のユダヤ人女性、1404名のユダヤ人子供、109名の精神病者、1名のユダヤ人男性と結婚したドイツ人女性、1名のロシア人女性」が射殺されたという[646]。この事件に関するリトアニアの新聞Lietuvos Rytasについて、ルドルフはこう述べている[647]。
「1996年夏、リトアニアのマリヤムポル市は、ドイツの特別行動部隊に殺されたとされる数万のユダヤ人の記念碑を建設しようとした。適切な場所に建設するために、大量埋葬地の場所の正確な場所が探された。目撃者が指摘した場所の発掘が行なわれたが、不思議なことに、大量埋葬地の痕跡を一つたりとも発見できなかった。」
ソ連側は、ドイツによる犠牲者の死体を発見するたびに、ウクライナのシレツキ収容所のようなほとんど知られていない場所であっても、その死体を撮影した[648]。アウシュヴィッツ・ビルケナウでは、ソ連側は536体を発見し、すべてが検死された[649]。死者は多くの人々の前で、荘重に葬られた。その光景について多くの写真とフィルムが撮影されている[650]。
ホロコースト正史が、いわゆる「作戦1005」についてどのように語っているのか、それはどのような資料にもとづいているのかを検証してみよう。『ホロコースト百科事典』はこう述べている[651]。
「作戦1005、占領下のヨーロッパでのナチスによる数百万の人々の殺戮の痕跡を抹消するための大規模な活動のコードネーム」
この作戦の開始を許可する決定は、1942年初頭にベルリンで下されたという。1942年2月20日、ゲシュタポ長官ミューラーは、外務省のルターに、死体埋葬が不十分な状態であるとの内容の書簡を送ったという[652]。そして、この書簡は、ミューラーが「ヴァルテガウであふれている死体についての匿名の苦情を受けとった」後にかかれたことになっている。そして、この書簡が証拠として引用されているのである。この書簡のファイル名は「IV B 4 43/42gRs (1005)」であり[653]、この文書に、「作戦1005」なる名称が由来しているのである。
しかし、この書簡を先入観なく引用しているアルフレド・シュトライムは、こう述べている。
「1942年11月20日、ヒムラーは、国家保安本部第4部長ミューラーSS集団長に、こう命じている(Zst. Dok. Slg. Ordner 3,Bl. 583)。『これらの死亡したユダヤ人の死体が各地で燃やされるか、埋められるように、どこであっても、これらの死体に何か別のことが起こらないように保証しなくてはならない…』」
シュトライムは、この書簡のヘッダーが「IV B 4 43/42 gRs (1005)」であると述べていないし、この書簡に「1005」という呼称を割りあててもおらず、こうコメントしているにすぎない[654]。
「請け負った作業は、国家保安本部の官僚手順にしたがって、『1005』という呼称を与えられた。」
したがって、問題の書簡の日付は、1942年2月20日ではなく、11月20日である。すなわち、作戦の呼称「1005」は、何と、それが開始されてからまる5ヵ月後に与えられたことになる。さらに、書簡では、ユダヤ人は、「射殺された」とか「殺された」ではなく「死亡した」となっている。その上、死体の処理は焼却か埋葬となっている。すなわち、ヒムラー書簡は、射殺されたユダヤ人の死体の発掘・焼却とはまったく関係がない。したがって、この書簡を射殺されたユダヤ人の死体の発掘・焼却と関連させることは、まったくの詐術である。
ホロコースト正史によると、SS大佐パウル・ブローベルが「作戦1005」の責任者となり、「1942年6月、ヘウムノ絶滅収容所の死体を焼却することからこの作戦が始まった」という。最初の段階では、いわゆる東部地区絶滅収容所の死体は、掘り起こされて、焼却されたことになっている。この件については、第4章で、トレブリンカの典型的な事例を取り上げて検証している。
第二段階は1943年6月初頭から1944年7月末まで続いたという。この過程で、ソ連とポーランドにあった大量埋葬地は空になり、虐殺の痕跡は消し去られたというのである。
『ホロコースト百科事典』には、こうした活動が行なわれたとされるもっとも重要な地点の地図が掲載されている。南北方向に1500km(北海から黒海)、東西方向に1300km(西ポーランドから独ソ戦前線)にまたがる広大な地域である[655]。レンベルクのヤノフカ収容所から始まって、この地域にはそれぞれの「特別コマンド1005」が割りあてられたという。このコマンドは、Sicherheitsdienst(保安局)、Sicherheitspolizei(保安警察)のメンバー、Ordnungspolizei(通常警察)のメンバー、実際の作業を担当する数十、数百の囚人――大半がユダヤ人――から構成されていたという。「特別コマンド1005-A」と「特別コマンド1005-B」は、キエフで活動していたという。2つともその後別の場所に移ったという。「特別コマンド1005-ミッテ」はミンスクで活動を始め、別の「特別コマンド‐1005」はリトアニア、エストニア、ビャウストク地方、総督府、ユーゴスラヴィアに配置されたという[656]。
このテーマについてのもっとも包括的な研究によると、特別行動部隊だけで220万人の(ユダヤ人と非ユダヤ人)を殺害したという[657]。国防軍、SS、警察も数万の殺戮を行なった咎で告発されている。また、すでに強調したように、ソ連もポーランドも、数千の死体の入った大量埋葬地でさえも、一つも発見していない。だとすると、「特別コマンド1005」は、150万から300万のあいだの死体を掘り起こして、それを焼却したことになる。すなわち、彼らは、13ヶ月間で、広大な地域に散在する数百の地点で数千の埋葬地を掘り起こし、それを空にしなくてはならなかったことになる。しかも、まったく物的・文書資料的痕跡を残さずにである。
もしも、こうした埋葬地が記載されている数千の地図を持っていなかったとすれば、120万平方km以上にわたる地域に散在する数千の大量埋葬地を見つけだすことは不可能だったにちがいない。しかし、このような地図は、特別行動部隊報告にもその他の文書にもまったく言及されておらず、そのような地図は、第二次世界大戦の戦勝国が捕獲したドイツ側の文書中にもまったく発見されていない。目撃証人は、数千の薪の山が、灯火管制中の夜にもかかわらず、燃え上がっていたと証言しているが、ソ連の偵察機はそのような光景を目撃していないし、撮影してもいない。もしも、撮影していたとすれば、そのような写真は大々的な宣伝に利用されたにちがいない。
Thomas Sandkühlerはこう述べている[658]。
「作戦1005の極端な隠匿性のために、この件についての文書資料はきわめて少ない。」
言い換えれば、まったく存在しないということである。ザンドキューラーの一文は、ホロコースト正史派の歴史家たちが文書資料の欠如という事態に直面した困惑をまったく反映している。彼らは、このような事態に直面すると、いつも、「極端な隠匿性のために」文書資料は存在しないという言い訳にすがるのである。こうした言い訳は、ライトリンガーが述べているような事実とまったく矛盾している[659]。
「[特別行動部隊報告]のオリジナル文書はほぼ200の報告からなり、それぞれから60−100のコピーが作成・回覧されている。…殺人者たちがどうしてこのような証拠を残してしまっているのか不可解である。」
ソ連邦事件報告は、全体で「2900頁以上のタイプ・テキスト」であり[660]、それぞれから少なくとも30部のコピーが作成され、回覧されている。したがって、ドイツ側は、特別行動部隊による大量射殺に関する数万頁の文書を配布し、その後、犯罪の痕跡を消すために、突然、死体を掘り起こして、焼却しなくてはならないと考えながらも、犯罪の証拠となる文書資料を破棄することは忘れてしまったことになる。
「作戦1005」の物語は、少数の信憑性のない目撃証言にもとづいているにすぎない。その中の第一のものは、ソ連の調査委員会かジャーナリストが集め、エレンブルクとグロスマン編の『黒書』に掲載された。この本は、「目撃証人」の話を集めた宣伝目的の著作にすぎない。上記のダヴィドフ以外には、ビャウストクに関するシモン・アリエルとザルマ・エデルマンの(伝聞)証言[661]、カウナスからの少数の(彼ら自身の話による)逃亡者の証言[662]、ポナリ(リトアニア)についてのY・ファベルの証言[663]が掲載されている。しかし、これらの証人は、「作戦1005」や「特別コマンド1005」についてはまったく報告していない。
「特別コマンド1005」なる呼称自体がソ連側の発明である。ニュルンベルク裁判1946年2月9日の公判で、ソ連首席検事スミルノフは、「特別コマンド1005-A」と「1005-B」の活動について触れている、アメリカ軍パトリック・マクマホン中尉が作成したゲルハルト・アダメツの尋問調書(Exhibit USSR-80, Document Number USSR-80)からの抜粋を読み上げている[664]。
1946年、「1005旅団」についてのもっとも詳しい目撃証言である、Leon Weliczkerの著作『死の旅団』がウッチで出版されたが、ザンドキューラーは、またもや控えめな表現を使いながらも、この著作について、「Weliczkerの恐ろしい記録は、証拠としてはさしたる価値をもっていない」とコメントしている[665]。端的にいえば、まったく価値をもっていないということである。
Weliczker は、SS大佐パウル・ブローベルが「作戦1005」に関係していたことを知っていない。ブローベルと「作戦1005」を結びつけたのは、ロシア戦役の開始から1941年9月まで保安警察特別行動部隊C特別部隊Vの隊長であり、SS大佐ラッシュのもとで働いていたエルヴィン・シュルツであった。しかし、このシュルツも、死体の発掘・焼却にあたったこの大規模な作戦の名前については知らなかった。彼は、1945年12月20日、こう述べている[666]。
「1943年ごろ、私は、国家保安本部第1部長をつとめているときに、SS大佐ブローベルが、国防軍が撤退するはずの地域で射殺・清算された人々の大量埋葬地を隠匿しなくてはならなかったことを知った。私の記憶が正しければ、大量埋葬地のカバーネームは『水場』であった。」
最後に残されたのは、個々ばらばらの証言を寄せ集めることであった。
1946年11月、ルドルフ・ヘスはクラクフの監獄でこう記している[667]。
「ブローベルSS大佐は、全東部地区の大量埋葬地すべてを探し出して、隠匿することを命じられていた。彼の部隊は『1005』というコードナンバーを与えられた。」
最後に、1947年9月29日から1948年2月12日までニュルンベルクで開かれた特別行動部隊裁判の予備尋問で、ブローベルは、検事側のために「公的権威によって裁定された」事実となっていることを「自白」することが好都合であると判断した。彼は、1947年6月6日のニュルンベルクでの「法廷陳述」の中で、こう述べている[668]。
「1941年6月、私は、特別コマンド4Aの隊長となった。この特別コマンドは、ラッシュ博士の指揮下にある特別行動部隊Cに所属していた。私に割りあてられた特別地域は、ライヘナウ元帥の指揮する第6軍の地区にあった。1942年1月、軍規上の理由から、私は特別コマンド4A隊長の職を解かれ、ベルリンに召喚された。ベルリンでは、しばらくのあいだ、仕事がなかった。私は第4部の管轄下、集団長ミューラーの管轄下にあった。1942年秋、私はミューラーの代理として、東部占領地域に派遣され、特別行動部隊の処刑による大量埋葬地の痕跡を消し去る任務を与えられた。この任務は1944年夏まで続いた。」
アメリカ軍の尋問官はこの「自白」に不満足な様子であったので、ブローベルは、さらに「法廷陳述」を行なわなくてはならなかった。今度は、もっと詳しく証言した[669]。
「私は、この職務を解かれたのち、ベルリンにいってSS上級集団長ハイドリヒと集団長ミューラーに報告しなくてはならなかった。そして、1942年6月、集団長ミューラーから、東部地区での特別行動部隊の処刑の痕跡を消し去るという任務を与えられた。保安警察とSD司令官に個人的に報告し、ミューラーの命令を彼らに口頭で伝え、その活動を監督することが私に与えられた命令であった。この命令は国家機密であり、ミューラーから発せられたものであるが、その極秘性により、いかなる文書の交換も許されなかった。」
新しい日付(「1942年秋」ではなく「1942年6月」となっている)を記載したこの陳述は、ホロコースト正史の重要文献にまで高められた。2つの陳述の中で、ブローベルは「作戦1005」や「特別コマンド1005」についてまったく言及していないが、このような矛盾はホロコースト正史派の歴史家の常として、まったく無視されている。
次のことを十分に理解していただきたいのだが、われわれは、これまで述べてきたことによって、大量埋葬地が存在しなかったとか、死体の焼却がまったく行われなかったとか、まして、ユダヤ人の射殺がまったく行なわれなかったとか主張しているわけではない。ホロコースト正史はこれらの事件がきわめて大規模であったと主張しているが、われわれが疑問を呈しているのは、まさにこの規模なのである。
5. 東部地区における西部地区ユダヤ人の運命
東部占領地区に移送された西部地区ユダヤ人は、少なくともその当初は、「ソ連系ユダヤ人」と同じ運命をたどらなかった。ブローニングもこう認めている[670]。
「ヒトラーは、すべてのロシア系ユダヤ人の殺戮を決定することによって[671]、軍事的な成功収めるたびに、ドイツの支配下に入ってくるユダヤ人の数が増え続けるという悪循環を断ち切った。しかし、ロシア以外のヨーロッパにおけるナチスの対ユダヤ政策が、すぐに変更されたわけではない。依然として、移住、移送、将来のユダヤ人の祖国計画も語られていた。」
すでに言及した「1941年10月16日から1942年1月21日の全体報告」には、「ドイツ帝国からのユダヤ人」というテーマが登場しており、そこには次のようにある[672]。
「1940年以来[正しくは1941年]、短い間隔で、ドイツ帝国からのユダヤ人の移送集団が到着している。このうち、20000名のユダヤ人がリガに、7000名がミンスクに送られた。リガに移送された最初の10000名のユダヤ人は、一部が臨時の受け入れ収容所に、一部が、リガ郊外に新しく建設された宿舎収容所に収容された。残りの移送集団は、最初は、リガ・ゲットーの離れた区画に送られた。
宿舎収容所の建設は、労働適格ユダヤ人すべてを使って行なわれており、春には、冬を過ごした移送ユダヤ人すべてをこの収容所に送ることができる。
ドイツ帝国からのユダヤ人のうち、労働適格者の割合はかなり少ない。70−80%ほどが、労働できない女性、子供、老人である。死亡率は、並外れた厳冬ということもあって、どんどん高くなっている。
ドイツ帝国から労働適格な少数のユダヤ人を移送することは願わしい。彼らは、ロシア系ユダヤ人と比較すると、ドイツ語を話せるし、非常に清潔なので、労働力としてはるかに望ましい存在である。
これらのユダヤ人の適応力はかなりのもので、彼らは、自分たちの生活を環境に合わせるように努力している。
ゲットーの小さな区画に大量のユダヤ人を押し込めているために、疫病が蔓延する危険性が大いに存在するが、ユダヤ人医師を雇用することで、効果的に防止できる。伝染病にかかったユダヤ人は、ユダヤ人老人ホームか病院に送るとの口実で隔離され、処置された。」
総督Lohseから国家保安本部ジーゲルトSS大佐あての1942年7月21日の書簡には、ラトヴィアの「労働訓練収容所」が登場している[673]。
「ドイツ帝国から移送されてきたユダヤ人のうち、まだ400名が収容所に存在し、輸送・移送作業に雇用されている。ラトヴィアに移送された残りのユダヤ人は、別の場所で宿舎を与えられている。」
だから、このような西部地区ユダヤ人は、その大半が労働不適格であったにもかかわらず、組織的に殺されたわけではなかった。このような事態は、前述したラトヴィア土着のユダヤ人による報告書に描かれているような、大量清算とはまったく矛盾している。
こうしたユダヤ人のあいだでの自然死亡率は非常に高く、殺される運命に直面したユダヤ人も少なくないが、一部は戦後まで生き延びたのである。1944年夏にカウナスとリガからシュトゥットホフに移送されたユダヤ人の名簿が断片的に現存しているが、そこには、少なくとも959名のドイツ系ユダヤ人が存在している。その一人ベルトルド・ノイフェルトは1936年6月17日生まれであった[674]。彼は、移送されたときには5、6歳であり、1944年夏には、まだ生きていた。
さらに、少なくとも102名の生存者が、1942年1月9日のテレジエンシュタットからリガへのユダヤ人移送者のあいだに存在している。また、同年の1月15日の移送者のあいだにも15名の生存者がいる、さらに、1942年9月1日のエストニアのラアシクへの移送者のあいだにも40名の生存者が存在した。こうしたユダヤ人は次のような場所で解放されている。
ベルゲン・ベルゼン、ヴラチスラヴァ、ブロムベルク、ブッヘンヴァルト、ブルクグラーベン、ブドホスト、ダッハウ、ダンツィヒ、ゴッテンドルフ、ハンブルク、ヤガラ、カイゼルスヴァルト、カトヴィツ、カウフェリング、キーブラッセ、キール、ランゲンシュタイン、ラウエンブルク、リバウ、マグデブルク、ノイエンガムメ、ノイシュタット、ラアシク、ラグーン、リガ、ザクセンハウゼン、ザラスピス、ゾフェーエンヴァルデ、シュトラーセンホフ、シュトゥットホフ、テレジン(テレジエンシュタット)、トルン。さらに、1941年11月16日にテレジエンシュタットからミンスクに移送された集団の中の7名の生存者が、アウシュヴィッツ、ベルゲン・ベルゼン、ダッハウ、フリュセンビュルク、テレジエンシュタットで解放されている[675]。移送者の中には、個々人ではなく、かなりの生命力を有していたにちがいない集団も含まれていた。例えば、1942年1月15日と1月9日の移送集団から5名のユダヤ人がマグデブルクで、1月15日の移送集団から3名のユダヤ人が、1月9日の移送集団から7名がブッヘンヴァルトで解放されている。
こうした人々は、1945年のドイツの収容所の破局的な衛生・保健状態をも生き延びた人々である。だから、1944年の時点では、こうした生存者の数ははるかに多かったにちがいない。
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[576] Raul Hilberg, op.
cit. (note 17), pp. 289. From October 15, 1941, to February 1, 1942, the
strength of Einsatzgruppe A sank from
990 to 909 men; the percentage of combat troops fell from 725 men (= 73.2% of
the total strength) to 588 (64.7%). Ibid. (Oct. 15, 1941), and RVA,
500-4-92, p. 183, “Total Strength of Einsatzgruppe
A on 1 February 1942.”
[577] PS-3710. しかし、民族社会主義犯罪追求ルードヴィヒスブルク中央局長アルフレド・シュトライムは、この件についてこう記している。「『総統命令』の開始に関するオーレンドルフ証言と供述は…虚偽である。特別行動部隊裁判で、特別行動部隊D隊長は、『総統命令』にしたがって、最初から、ユダヤ人絶滅作戦を遂行していたことにすれば、寛大な処罰となるという弁護方針を自分の共同被告人に示唆して、その方針にしたがわせることができた。 (A.
Streim, “Zur Eröffnung des allgemeinen Judenvernichtungsbefehls gegenüber den Einsatzgruppen”, in: E. Jäckel,
J. Rohwer, op. cit.(note 276), p. 303.)
[578] Raul Hilberg, op. cit. (note 17), p. 290.
[579] Ibid., p. 390.
[580] Arthur Butz, op. cit. (note 109), p. 243.
[581] Udo Walendy, “Einsatzgruppen
im Verband des Heeres. 1. Teil”, in: Historische Tatsachen no. 16, Vlotho 1983, p. 5. The second part of
this study appeared in no. 17 of the same journal (1983).
[582] See Chapter VI, Section 6.
[583] See Chapter VIII, Section 5.
[584] PS-1024.
[585] PS-1028.
[586] In: Grüne Mappe, op. cit. (note 541), pp. 348f.
[587] Activity and
Situation Report no. 6 of the Einsatzgruppen of
the Security Police and the SD in the USSR (period of report from October 1 to
31, 1941). RGVA, 500-1-25/1, pp. 221f.
[588] Arno Mayer, Why did the Heavens not Darken? The “Final Solution” in History, Pantheon Books, New York 1988, p. 270.
[589] “Einsatzgruppe A, Gesamtbericht vom 16 Oktober 1941 bis 31 Januar 1942”, RGVA, 500-
4-92, pp. 57-59.
[590] Ibid., p. 184.
[591] Ibid., pp. 59-61.
[592] G. Reitlinger, op. cit. (note 181), p. 233f., as well as NO-5194.
[593] マンシュタインはユダヤ人虐殺の共謀の咎では無罪となったが、民間人の生命を保護しなかった咎で有罪となり、12月19日に懲役18年の刑を受けた。その後、刑期は12年に短縮され、マンシュタインは1953年5月に釈放された。
[594] Reginald T. Paget, Manstein, Seine
Feldzüge und sein Prozeß, Limes Verlag,
Wiesbaden 1952, pp. 198f.;
retranslated from German; Engl.: Manstein, his campaigns and his trial,London, Collins, 1951.
[595] 102-R. IMT, Vol. XXXVIII, pp. 292f.
[596] Udo Walendy, “Babi Jar – Die Schlucht ‘mit 33,771 murdered Jews’?”, in: Historische Tatsachen no. 51, Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1992. Herbert Tiedemann, “Babi Jar: Critical Questions and Comments”, in: Germar Rudolf (ed.), op. cit. (note 81), pp. 501-528.
[597] Einsatzgruppe A. General Report from October 16 to
January 31, 1942, RGVA, 500-4-92,
p. 60f.
[598] Vilnius
Ghetto: List of Prisoners, Volume 1. Vilnius 1996, p. 212, no. 163. (Text in
Lithuanian, Russian, and
English).
[599] Ibid., p. 85.
[600] Ibid., p. 150.
[601] Ibid., p. 213.
[602] Ibid., p. 329.
[603] Abraham Foxman, “Vilna – Story of a Ghetto,” in: Jacob Glatstein, Israel Knox, Samuel Marghoshes (eds.), Anthology of Holocaust Literature, Atheneum, New York 1968, pp. 90f.
[604] ヤコブ・ゲンス、ヴィリニュス・ユダヤ人会議議長
[605] “Report of the Kauen Sipo” of May 12, 1944. RGVA, 504-1-7, p. 41.
[606] Raissa A. Tschernoglasova, Tragedja Evreev Belorussi v 1941-1944 godach, Minsk 1997,pp. 274-378.
[607] Judenfrei! Svobodno ot Evreev!, op. cit. (note 570), pp. 289-310.
[608] Cf. the transport lists in: Jürgen Graf and C. Mattogno, Concentration Camp Stutthof and its Function in National Socialist Jewish Policy, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, p. 22.
[609] Telephone
conversation of the Kommandant of Stutthof,
Paul Hoppe, with the Kommandant of Auschwitz on July
26, 1944. AMS, I-IIC4, p. 94. ‘Procedure for taking charge’ of the transport of
July 26 and 27, 1944. AMS, I-IIC-3, p. 43.
[610] AMS, I-IIC-3,
list of names of the transport of July 26, 1944.
[611] AMS, transport list, microfilm 262.
[612] 17歳の少年は、特別行動部隊がリトアニアに進出したとき、14歳であった。
[613] Amtliches Material zum Massenmord von Katyn, Berlin 1943.
[614] Amtliches Material zum Massenmord von Winniza, Berlin 1944.
[615] GARF, 7021-114-1/38.
[616] Cf. for example IMT, Vol. VII, p. 425-428
(Conclusions of the Soviet Investigatory Commission), and Document USSR-54. Cf.
also Robert Faurisson, “Katyn
à Nuremberg,” Revue
d’Histoire Révisionniste, August-September-October 1990, pp. 138-144.
[617] IMT, Vol. XVII, p. 357. マルコフはソ連主席検事スミルノフに尋問され、スミルノフの期待通りに、ドイツの調査委員会の分析結果の信憑性をおとしめるような証言を行なった。
[618] Geiseln der Wehrmacht. Osaritschi, das Todeslager. Dokumente und Beleg, National Archives of the Republic of Belarus, Minsk 1999 (book in Russian and German), p. 272
[619] Ibid., p. 14.
[620] Ibid., p. 36.
[621] Ibid., p. 34.
[622] Ibid., p. 146. Here it says that of 52,000 internees, 40% were killed.
[623] Ibid., p. 154.
[624] Ibid., p. 38. Here it says
that of 70,960 internees, 33,434 survived.
[625] Ibid., pp. 148-150. Here it says that of 70,000 internees, 70% died.
[626] Ibid., p. 50.
[627] Ibid.,
p. 34.
[628] Ibid., p. 44.
[629] Ibid., p. 8.
[630] Ibid.,
photos 1-8 and 11, photo documents on unnumbered pages.
[631] Ibid., photos 8-11.
[632] Ibid., photos 12-15.
[633] Ibid., photo 22.
[634] Ibid.,
photos 16-21, 22-26, 28, 31f. In Photo 18, “Leiche
eines unbekannten Mädchens”, a body stretched out on straw is
recognizable whose face is in an advanced state of decomposition.In
the background one sees the first two beams of a wooden barracks. This
photograph has nothing to do with Osaritschi: in the
first place, a body does not decay within one week in the still cold White
Russian March (in nearly all photographs one sees snow), and in the second place there were no barracks in
the two camps of Osaritschi.
[635] Encyclopedia
of the Holocaust, op. cit. (note 18), vol. I, p. 134f.
[636] テキストでは「8月」となっているが、間違いであろう。4行後に、囚人の逃亡との関連で、9月となっているからである。
[637] GARF, 7021-65-6.
[638] I. Ehrenburg, V. Grossman, Le Livre Noir, op. cit. (note 24), pp. 80f. 『黒書』によると、死体を掘り起こした囚人の数は100名ではなく、300名であった。「炉」は3000名ではなく2000名を処理した。逃亡中に殺されたのは10名ではなく、280名であった。
[639] John Ball, Air Photo Evidence, op. cit. (note 102), p. 107.
[640] 「ヤール」とはロシア語で渓谷を意味する。
[641] John Ball, Air Photo Evidence, op. cit. (note 102), p. 108.
[642] I. Ehrenburg,
V. Grossman, Le Livre
Noir, op. cit. (note 24), p.
81.
[643] GARF, 128-132. Photo album without pagination..
[644] Enzyklopädie des Holocaust, op. cit. (note 101), Vol. I, pp. 13f. This picture does not seem to be included in the English edition, op. cit. (note 18).
[645] Encyclopedia of the Holocaust,
op. cit. (note 18), p. 14.
[646] RGVA, 500-1-25/1, p. 151.
[647] Dissecting the Holocaust, op. cit. (note 81), p. 44f.
[648] GARF, 128-132, photo
album without pagination. Three of the photographs show a few dozen bodies
spread out on the ground, another permits a “ditch partly filled with bodies”
to be recognized.
[649] GARF, 7021-108-21. Collection of individual autopsy reports.
[650] Cf. for this the photos in KL Auschwitz. op. cit, (note 472), pp. 228f.
[651] Encyclopedia of the Holocaust, op. cit. (note 18), article “Aktion 1005,” vol. I, p. 11.
[652] ゲルラッハによると、この書簡は何とヒムラーからミューラーに送られたものになっている。 (op. cit. (note 419),p. 773.)
[653] Thomas Sandkühler, Endlösung in Galizien. Der Judenmord in Ostpolen und die Rettungsinitiativen von Berthold Beitz 1941-1944, Verlag H. J. V. Dietz Nachfolger, Bonn 1996, p. 277.
[654] A. Streim, “Die Verbrechen der Einsatzgruppen in der Sowjetunion”, in: A. Rückerl (ed.), NS-Prozesse, op. cit. (note 251), p. 78.
[655] Encyclopedia of the Holocaust, op. cit. (note 18), article “Aktion 1005,” Vol. I, p. 12.
[656] Ibid., pp. 11-14.
[657] H. Krausnick, Hans Heinrich Wilhelm, Die Truppe des Weltanschauungskrieges. Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1981, p. 621.
[658] T. Sandkühler, op. cit. (note
653), p. 278.
[659] G. Reitlinger, op. cit. (note
181), p. 213.
[660] H. Krausnick, H. H. Wilhelm, op. cit. (note 657), p. 333.
[661] I. Ehrenburg, V. Grossman, Le Livre Noir, op. cit. (note 24), pp. 434-439.
[662] Ibid., pp. 634-636.
[663] Ibid., pp. 827-851.
[664] IMT, Vol. VII, pp. 593-596, Document USSR-80.
[665] T. Sandkühler, op. cit. (note 653), p. 522.
[666] NO-3841.
[667] Rudolf Höß, The Commandant of Auschwitz, Phoenix Press, London 2000, p. 188. The relevant section was presented as Document NO–4498b in Nuremberg.
[668] NO-3842.
[669] NO-3947.
[670] Christopher R. Browning, “La décision concernant la solution finale,” in: L’Allemagne nazie et le génocide juif, op. cit. (note 253), p. 198.
[671] すでに強調しておいたように、この種の決定がなされたとする証拠はまったく存在しない。
[672] RGVA, 500-4-92, p. 64.
[673] RGVA, 504-2-8, p. 192.
[674] AMS, I-IIB-10, p. 176.
[675] These details are taken from the book already cited, Terezinská pametni kniha, op. cit. (note 570), p. 569)