第1部:正史の批判的分析
第1章:歴史学におけるトレブリンカの記述
1. ホロコースト正史の中のトレブリンカ
通常、歴史家たちは、事実に関する書物と小説とを峻別している。しかし、トレブリンカについての正史、すなわち、ガス室での大量絶滅説を支持する正史にあっては、この峻別はほとんど不可能となっている。物的・文書資料的証拠がまったくないために、トレブリンカ正史の提唱者でさえも、学術的研究と称してはいても、目撃証言に依拠せざるをえないのである。そして、その目撃証言は、以下の事例で明らかにされていくであろうが、きわめて、その価値が疑わしいものである。このために、トレブリンカ収容所全体かその一部に関して1945年以来登場した重要な著作を年代順に概観するにあたって、このような峻別を放棄せざるをえなかった。
a. ヴァシリイ・グロスマン(Wassili Grossmann)
まず、1945年に登場したユダヤ系ソ連人ヴァシリイ・グロスマン(Vassili Grossmanとも綴る)の『トレブリンカの地獄(Treblinka Ad)』をとりあげよう。この著作のロシア語オリジナルは市販本としては利用できない。われわれがロシアの文書館で発見した完成草稿というかたちで存在している[23]。日付は付けられていないが、その内容から判断すると、1944年末か1945年初頭に作成されたにちがいない。すでに、1945年、フランス語版[24]がL’enfer de Treblinkaというタイトルで、ポーランド語版[25]がPiełko Treblinkiというタイトルで登場している。同様に、ドイツ語版も1945年に出版され、それは、マイダネクについてのコンスタンチン・スミルノフの報告も掲載していた[26]。ドイツ語の第2版――その一部がウド・ヴァンレディのHistorische Tatsachen 44号に掲載されている[27]――は1946年に刊行されている。
ロシア語の草稿と外国語訳とを比較してみると、後者のほうが少し長いことがわかる。だから、これらの翻訳が依拠したロシア語版は、草稿を長くしたものであろう。
グロスマンの著作は虐殺宣伝の古典的事例である。1945年のドイツ語版からいくつかを引用しておこう。
「トレブリンカには二つの収容所があった。さまざまな国民、とくに多いのがポーランド人であるが、その囚人たちが働いている第1労働収容所、ユダヤ人第2収容所である。
第1収容所――労働もしくは強制収容所――は、森の端にある砂利壕に直接隣接していた。それは、ゲシュタポが占領東部地区に数百、数千と設立した収容所と同じ収容所であった。その開設は1941年であった。ヒトラー体制の恐ろしく歪曲された姿を醜悪に映し出しているドイツ的性格の特徴が、共通分母であるかのように、その収容所には組み合わされていた。[27f頁…]
第1収容所は1941年秋から1944年7月23日[まで]存在していた。同収容所は、囚人たちがソ連軍の鈍い砲声をすでに耳にしはじめていたときに完全に清算された。7月23日早朝、看守とSS隊員は、シュナップス酒で元気付けしたのちに、収容所の清算に取りかかった。夕方までに、囚人たちはすべて殺され、埋められた。ワルシャワの家具屋マックス・レヴィトは、生きのびることができた。同僚の死体の下に身を隠し、暗くなるのを待って、森に忍び込んだからである。彼は、30名の少年たちが銃殺される前に、『祖国の歌』を歌っているのを耳にしたという。また、一人の少年が『スターリンがわれわれの復讐をしてくれる』と叫んだのを耳にしたという。また、少年たちを率いていた収容所の人気者ライプが、撃たれて壕の中に倒れたとき、もう一度立ち上がって、『パン[[28]]看守、撃ちそこないました。どうかお願いです。もう一度撃ってください』と頼んだのを耳にしたという。[29頁…]
われわれは、収容所のSS隊員、その性格、特異な性格を知っていた。われわれは、収容所長ヴァン・アイペンを知っている。彼は、オランダ人とドイツ人との混血で、狂った殺人者、度し難い気まぐれ者であり、馬には眼がなく、颯爽と馬に乗っていた。[…]
われわれはオデッサ出身の片目のドイツ人スヴィデルスキイを知っている。『ハンマーの達人』という異名を持ち、『血の出ない殺人』の無類の専門家とみなされていた。数分間でハンマーを使って、労働不適切とみなされた8歳から13歳までの子供15名を殺したからである。われわれは、無口で気難しく、『老人』というあだ名を持つ、やせこけて、ジプシーのようなSS隊員プライフィを知っている。彼は憂さを晴らすために、収容所の残飯が集められている場所の後ろに隠れていた。そして、ジャガイモの皮を食べようともぐりこんでくる囚人にこっそりと近づいて、無理やり囚人の口を開かせ、大きく開いた口の中に銃を発射した。われわれは、職業的な殺人者シュヴァルツとレデッケの名前を知っている。彼らは、夕方戻ってくる囚人たちに向かって嬉々として発砲し、毎日20名殺した。否、30名、40名かもしれない。[29f頁]
こうしたことがこの収容所の生活であった。マイダネクのミニチュア版であった。これ以上劣悪な場所は世界中にも存在しなかったように思われた。しかし、第1収容所の囚人は、自分たちの収容所よりも何百倍も劣悪な収容所があることを知っていた。労働収容所から3kmのところに、ドイツ人たちは、1942年5月、ユダヤ人収容所を建設し始めた。ここは、人間屠殺場であった。[31頁…]
13ヶ月にわたって、列車がトレブリンカに到着した。その列車は60両の貨車から構成されており、それぞれに、チョークで150、180、200と番号が書かれていた。この数字は、貨車に積まれている人々の数を指していた。鉄道労働者と農民は、こっそりと列車の数を数えた。ブルカ村(収容所にもっとも近い集落)のある農民、62歳のカジミェシ・スカルジンスキは、シエドルツェ鉄道のあるブルカだけで6回の列車が通過した日があり、この13ヶ月間に、列車が通過しなかった日は一日もないと話してくれた。しかし、シエドルツェ線は、トレブリンカにつながっている4つの線の一つにすぎない。トレブリンカから第2収容所に向かう支線の補修作業に雇われていた労働者ルチアン・チュコヴァは、1942年6月15日から1943年8月までの作業中に、1回から3回の列車がこの支線を通ってトレブリンカ駅から収容所に到着した、各列車は60両の貨車からなっており、一つの貨車には150名以上が載っていたと述べている。こうした証言が数十存在する。列車がトレブリンカに運んでいった人員についての目撃証言の数を2で割ったとしても、13ヶ月間にトレブリンカに運ばれていった数は300万ほどに達する。[31f頁]
この最終的な悲劇の列車についての報告の中で、すべての目撃証人が、人間の姿をした動物であるSS隊員ツェプフの虐殺行為のことに触れている。彼は子供たちを殺す専門家であった。この動物は巨大な権力を握っており、突然人々の群れの中から子供をつかみ出して、その子供を棒のように振り回して、頭を地面にたたきつけたり、二つに引き裂いたりした。この怪物も女性から生まれたのであろうが、彼のことを耳にしたとき、彼の振る舞いについての話は信じられないもの、ありえないもののように思われた。しかし、直接の目撃証言からの報告を聞いたとき、この事件は、トレブリンカの地獄では異常なことでも、ありえないことでもないことがわかり、このような動物が実在したことを信じるようになった。[43頁…]
最初の3つの部屋の広さは、5×5m、すなわち、25uにすぎなかった。部屋の高さは190cmであった。二つのドアがあり、一つは生きている者が入ってくるドア、もう一つは、ガス処刑された死体を運び出すドアであった。後者は非常に幅広く、2.5mほどであった。部屋は共通の土台の上に建てられていた。ベルリンは、生産工程式の殺戮を要求していたが、これらの3つの部屋ではその生産性に応えることができなかった。[…]
700名の囚人が、新しい大規模な殺戮施設の建設に、5週間にわたって従事した。作業がピークに達しているとき、ドイツからスタッフを連れて専門家がやってきて、事態を調整した。前部で10個の新しい部屋は、コンクリートの廊下の両側に対称的に配置された。[…]
新しい部屋はそれぞれ、7×8m、すなわち56uであった。10個の部屋全体の面積は560uとなり、小集団が到着するときに稼動する古い3つの部屋を加えると、トレブリンカには、635uの殺人区画が存在したことになる。一時に、460名から500名が一つの部屋に詰め込まれた。だから、部屋を満杯にすれば、10個の部屋では1回の作動で平均4500名を絶滅することができた。もっとも一般的な事例をあげると、トレブリンカの地獄の部屋には1日に少なくとも2回か3回(5回のときもあった)、人々が詰め込まれた。この数字を意図的に減らして、新しい部屋は1日に2回使用されたとすると、トレブリンカでは1日に10000名ほどが殺されたことになる。1月では、10万ほどになる。トレブリンカは13ヶ月間毎日毎日稼動していた。修理のために90日間必要であったとしても、まる10ヶ月稼動していたことになる。1月平均30万人が到着していたとすると、10ヶ月では、トレブリンカは300万人を絶滅したことになる。[47f頁…]
著者の義務は恐ろしい真実を報告することであり、読者としての市民の義務はそれを学ぶことである。そこから目をそむけたり、素通りしたりすることは、殺された人々の記憶を汚すことである。真実全体を知らないことは、赤軍がいかなる敵に対して、いかなる怪物に対して、必死の戦いを繰り広げていたのかを理解しないことである。[55頁]
われわれは、反乱の日から13ヵ月後の[1944年]9月初頭にトレブリンカ収容所に入った。13ヶ月のあいだ、ドイツ人は彼らの仕事の痕跡を消し去ろうとしなくてはならなかった。[…]そして、地面は1フィートほど沈み、大量の亜麻油に浸されたかのように、ぶかぶかと膨張している。トレブリンカのやわらかい土は、渦を巻く海のように盛り上がっている。鉄条網の囲まれたこの荒地は、人類の登場以降の地球の大洋と海全体よりも多くの人命を使い尽くしてきた。[61f頁]」
グロスマンは、自分の編集した報告書では、3つの大量殺戮手段、すなわち、ガス処刑、熱いスチームによる火傷、真空ポンプを使った死の部屋での窒息が存在したと記している。このテーマについては、次の章で立ち戻ることにする。いずれにしても、二番目と三番目の殺戮手段は、歴史の中からまもなく消え去り、ガス室だけが残った。また、グロスマンはトレブリンカの犠牲者の数が300万であったと繰り返しているが、これも、信頼できない数字とみなされ、その後の出版物の中では、かなり低い犠牲者の数が挙げられている。
b. ラへル・アウエルバッハ(Rachel Auerbach)
1946年、ポーランド系ユダヤ人女性ラヘル・アウエルバッハ――彼女自身はトレブリンカの囚人ではなかったが、囚人たちから話を聞いたという――が、イディッシュ語で収容所についての話を書いた。それは、1979年に、アレクサンダー・ドナト(Alexander
Donat)によって英訳され、『トレブリンカの野原にて(In the fields of Treblinka)』[29]という題で出版された。アウエルバッハは、グロスマンのあげている300万の犠牲者数を批判している。彼女は、正確な犠牲者数を1074000名とし、次のように記している。
「トレブリンカで行なわれた大量殺戮の醜悪さを記録するために、犠牲者の数を誇張するような奇妙な愛国主義が存在しているが、巨大な大量埋葬地を持つトレブリンカのような場所には、そのような愛国主義は必要ない。信じていただきたいのだが、この狭い場所で1年間に100万人以上が殺されたということは、100万の頭脳が理解できるよりも100万倍も明白なのである。たとえ50万であったとしても、十分なのである。」(55頁)
彼女は、いかなる誇張にふけることも拒んでおり、そのこと自体は賞賛に値することであるが、トレブリンカについては次のように記している。
「ガス室の床は傾斜しており、滑りやすかった。最初に足を踏み入れた者は滑って転んでしまい、起き上がることができなかった。次に入ってきた者は彼らを踏みつけにした。人々は部屋いっぱいに押し込まれた。ひどく詰め込まれたので、押しあい圧し合いして、やっとのことで立っていた。ある目撃証言によると、室内の人々は、もっとスペースを空けるために、腕を上げ、おなかを引っ込ませなくてはならなかった。そして、ぎゅうぎゅうに立っているところに、小さな子供たちが小包のように頭越しに運ばれていった。
ガスは高価なために、節約して使わなくてはならなかった。
ついに、ドアがしっかりと閉じられた。
死への準備が整った。
浴室近くの作業場にあるエンジンを稼動させた。最初、吸気ポンプが、部屋から空気を吸い出すために使われた。その後、エンジンからの排気ガスをためていたボンベにつながるパイプが開かれた。
収容所のこの区画で働いていたユダヤ人は、『数分後、この建物の中から恐ろしい叫び声が聞こえてきた』と回想している。人間の苦痛、恐怖、絶望の叫び声であった。最後の瞬間、ポンプが空気を吸い出し始めるときには、自制心は吹き飛び、ガス室内は集団的ヒステリー状態であった。
その後、…しかるべき時間がたつと、ふたたび静寂が戻ってきた。
25−45分ほどののち、入り口の反対側の扉が開かれ、死体が転げ出てきた。死体は裸であった。白い死体もあれば、青く膨れ上がった死体もあった。[35f頁…]
トレブリンカでは他の場所と同じように、子供たちが生きたまま火に投げ込まれるか、大量埋葬地に投げ込まれることがあった。最大の関心事は、銃弾とガスを節約することであった。子供たちは成人のように、銃弾やガスでは簡単かつ速やかに死亡しないとも考えられていた。医師たちもこの件について説明を加えていた。子供の血管はまた固くなっていないので、血液の循環が速やかであるというのであった。」(38f頁)
アウエルバッハは、血液は「第一級の可燃物質であることが分かった」(38頁)と述べている。この発見は、科学史上、画期的な発見であり、読者は驚いてしまう。また、1日数千のユダヤ人のガス処刑は、「30−40名のSS隊員と200−300名のウクライナ人看守」[30]によって行なわれたと述べている。ユダヤ人特別労務班員については触れていない。トレブリンカでの、芸術活動や娯楽については、次のように記している。
「ドイツ人たちは、単調な殺戮作業にいろどりを与えるために、トレブリンカにユダヤ人オーケストラを設置した。他の収容所でもすでに行われていたやり方であった。このオーケストラの目的は二つであった。ガス室内で死の苦悶にある人々の叫び声とうめき声を、できるかぎり、聞こえなくするようにすること。ドイツ人とウクライナ人という二つの音楽愛好民族からなる収容所スタッフに音楽の楽しみを提供することであった。楽団は、収容所でしばしば催された娯楽活動にも必要であった。合唱団も組織されることもあり、素人劇団でさえも存在した。しかし、反乱が起こったために、トレブリンカ用に作り上げられた文化と芸術活動促進計画は頓挫してしまった。[44頁…]
1943年2月末にヒムラーがトレブリンカを訪問したとき、彼のために特別な『アトラクション』を準備しなくてはならないという話となった。このために若い女性のグループがとくに選抜された。彼女たちは裸で作業に従事し、『浴室』に押し込まれ、死体となって出てきたのであるが、その際、SSと警察の最高指導者が彼女たちの裸の姿を見て芸術的に楽しむことができるようにするためであった。イタリアのことわざにあるとおり、『Se non è vero, è ben trovato.』というわけである。」(48頁)
この最後の一節は「たとえ本当でないとしても、よく作られている」という意味である。この一節は、トレブリンカについてのラヘル・アウエルバッハの「事実報告」にまったくあてはまる。
c. ジスワフ・ウカシキエヴィチ(Zdzisław Łukaszkiewicz)
やはり、1946年、ポーランドにおけるドイツの犯罪中央調査委員会[31]報知に、ジスワフ・ウカシキイヴィチ判事の「トレブリンカ絶滅収容所(Obóz zagłady Treblinka)」[32]という30頁の論文が掲載された。「予備的調査」のことを扱っている序文の中で、次のように記している。
「以下のように、予備的調査が依拠した証拠の土台は、第一に、トレブリンカ収容所の囚人であった13名のユダヤ人の目撃証言である。彼らは、1943年8月2日の武装反乱のときに逃亡に成功し、生存することができた。以下が、目撃証人である。ヤンキエル・ヴィエルニク、ヘンリク・ポスヴォルスキ、アロン・チェチョヴィチ、アベ・コン、オスカル・ストラヴチンスキ、サムエル・ライスマン[[33]]アレクサンデル・クドリク、ヘイノフ・ブレンナー、スタニスワフ・コン、エウゲニウス・トゥロフスキ、ヘンリク・ライヒマン[[34]]、シュヤ・ヴァルシャフスキ、レオン・フィンケルシュテイン。」
ウカシキエヴィチが補足証拠として言及しているのは、11名のポーランド人鉄道労働者の供述と鉄道文書資料――トレブリンカに移送された囚人の数がわかるという――、収容所の地面から掘り出されたコインと文書、法医学的調査と土地調査である[35]。しかし、13名のユダヤ人証人の陳述が、いわゆる大量絶滅の唯一の根拠となっている。
ウカシキエヴィチによると、当初、トレブリンカには二つの[36]ガス室があったが、のちに10個のガス室が付け加えられた。殺戮はエンジンの排気ガスによって行なわれた。死体は戸外で焼却され、一時に2500体が焼却格子の上に置かれて、灰となった。収容所の病院では、ドイツ人とウクライナ人助手が、首の後ろに発砲して大量の囚人を殺した。老人、虚弱者、親戚のいない子供は到着すると直接病院に送られて、射殺された。合計で、少なくとも731600名がトレブリンカでは殺されたが、犠牲者の総数は実際にはもっと多いという[37]。
やはり同年の1946年、ウカシキエヴィチは、『トレブリンカの絶滅収容所(Obóz straceń
w Treblince)』[38]という題のかなり詳しい報告書を編集している。それは、グロスマンやアウエルバッハ流の純粋な虐殺宣伝から、学術的であると主張するような話への過渡的な産物であった。これに伴って、文体もグロスマンやアウエルバッハの文体よりも冷静なものとなり、明らかにありえないような事件の記述はまれとなった。とはいえ、この著作はやはり宣伝の領域を出ないものであり、学術的な価値はほとんどない。ウカシキエヴィチは、収容所の犠牲者の数は80万人であり、その大半はユダヤ人であったが、ポーランド人とジプシーも殺されたと簡潔に述べている[39]。
ウカシキエヴィチの記述は、西側のホロコースト正史派の歴史家が支持するトレブリンカ論と本質的に一致している。
d. N. ブルメンタル(N. Blumental)
やはり1946年にポーランドで、ユダヤ人中央歴史委員会員ブルメンタルが編集した資料集『文書と資料(Dokumenty i Materiały)』が登場し、トレブリンカについての80頁の報告が掲載されている[40]。序文と、二人の囚人シュロモン・ゴルドベルク、サムエル・ライツマンの陳述からなっている。あとで、この陳述から抜粋しておこう。
e. マリアン・ムシカト(Marian Muszkat)
1948年、マリアン・ムシカトは、戦争犯罪調査国連委員会のために、ポーランドでの「文書資料」を用意した[41]。そこでは、トレブリンカについても話題となり、いくつかの囚人の陳述が引用されている。一例として、証人ヤン・スウコフスキの「体験報告」から抜粋しておこう[42]。
「ドイツ人は、3−4mの高さの足場からなる『死の橋』を作った。ドイツ人[ラムペルト]は何人かのユダヤ人を選んで、この橋のうえに登るように命じた。ユダヤ人たちは登っていく途中で射殺された。奇跡的に天辺まで登ることができたユダヤ人がいたが、靴を脱いでそれを頭の上にかかげるように命じられた。このアクロバット的な動作は、足場が揺れ動いていたために、非常に難しかった。そして、このユダヤ人は射殺された。私自身が、SS隊員がこの『無邪気な』ゲームにふけるのを目撃した。」
目撃者レオン・フィンケルシュテインは次のように述べている[43]。
「ビリツ・アルフレドとゲンス・アドルフはガス室の入り口のところに立っていて、長いナイフで、女性の乳房を切断していた。」
さらに二人の目撃者ヘイノフ・ブレンナーとジグムント・ブラチェルスキも、ビリツが女性の乳房を切断したのを目撃したという。ジョン・デムヤンユクに対するイェルサレム裁判では、アルフレド・ビリツとアドルフ・ゲンスはまったく登場してきておらず、ガス室の入り口のところに立っていて、短剣か剣で女性の乳房を切断したのは被告デムヤンユクだったということになっていた[44]。
この「文書資料」が登場してから、トレブリンカに関しては長い沈黙の期間が続いた。ほぼ18年間も、この収容所に関する著作、ひいては注目に値する論文は登場しなかった。やっと、1966年にフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判が終わって、目撃者と年代記録者がふたたび発言し始めた。
f. ジャン・フランソア・シュタイナー(Jean-François Steiner)
1966年、ユダヤ系フランス人のジャン・フランソア・シュタイナーが、ゴーストライターGilles Perraultの助けを借りて、『トレブリンカ』[45][46]と題する小説を発表した。この著作は、民族社会主義者の強制収容所について、精神病的な妄想家が作り上げてきた大量のごみため作品の、不愉快きわまる典型にすぎないが、シモーヌ・ド・ボーボワールのような有名人に高く評価されている。
翌年、『トレブリンカ』[47]という題で英訳も出版された。シュタイナーがトレブリンカでの死体焼却を記述している場面は、この作品の本質を如実に現している。[48]
「彼は、ブロンドでほっそりとしており、優しい顔を持ち、遠慮がちな仕草をしていた。その彼が、ある晴れた朝、小さなスーツケースを持って死の王国の入り口にやってきた。彼の名はヘルベルト・フロスで、死体焼却の専門家であった。[…]
最初の焼却は翌日に準備された。そのとき、ヘルベルト・フロスは自分の秘密を明らかにした。死体は同じ割合では燃えない。良い死体と悪い死体、すなわちなかなか燃えない死体とすぐに燃え上がる死体がある。悪い死体を焼くために、良い死体を利用するのがコツである。彼の調査や分析結果によると、古い死体の方が新しい死体よりも、太った死体の方が痩せた死体よりも、女性の死体の方が男性の死体よりもよく燃え、子供の死体は女性ほどではないが、男性の死体よりもよく燃えた。理想的な死体は太った女性の古い死体であった。フロスはこれらの死体を脇にとっておいた。そして、男性と子供の死体を選別させた。1000名の死体が掘り起こされ、このように並べられると、彼は、良く燃える死体を下に、燃えない死体を上につみ始めた。彼はガソリンを使わず、木の方に向かった。彼のやり方は完璧のようであった。木材は、キャンプファイアーのような小さな薪の山の中の格子の下に置かれた。真実があかされる瞬間がやってきた。彼は重々しく、マッチ箱を受け取った。そして、身体をかがめて、火をつけていった。木が燃え始めると、彼は、少し離れたところに待機していた将校グループのところに、奇妙な足どりで戻っていった。
炎が死体に広がっていった。最初は弱々しく、ついで、たいまつの炎のように力強く燃え上がっていった。誰もが息を潜めていた。ドイツ人は心配そうにいらいらしながら、囚人たちは気を落として震えながら。フロスだけがリラックスしているようであった。自信に満ちて、『申し分のない、申し分のない』と低い声でつぶやいていた。死体が燃え上がった。突然、煙を出しながら、炎が上り、低いうなりがあがった。苦痛にゆがんだ死者の顔と肉がはじけた。地獄のような光景であったので、SS隊員でさえも茫然自失となり、しばらくは大理石のように動かなかった。フロスは微笑んでいた。この炎は彼の生涯の最良の日であった。
ドイツ人たちは、気を取り直すと、喜びと満足の意をあらわした。ヘルベルト・フロスは英雄となった。このような出来事はそれにふさわしいやり方で祝わなくてはならなかった。ドイツ人たちは、薪の山の反対側にあるテーブルの方に向かった。そこには数十の酒瓶、ワイン、ビールがおかれていた。日も沈みかけていたが、薪の山の炎が照りかえり、太陽が沈もうとしている空は、火のショーで燃えていた。
特別パーティーが始まった。最初の乾杯は総統に捧げられた。掘削機の作業員が機械のところに戻っていった。SS隊員がけたたましくグラスをかかげると、掘削機がまるで生きているかのように、突然、長いジョイントアームで、空に向かってナチス式の敬礼をした。それは合図のようなものであった。10回、人々は腕を上げて、そのたびに、『ハイル・ヒトラー』と叫んだ。人間のような機械が、機械のような人間の敬礼を真似し、総統を祝福する叫び声があたりに響き渡った。パーティーは薪の山が燃え尽きるまで続いた。乾杯のあとに、粗野で野蛮な歌、憎しみの歌、怒りの歌、ドイツの永遠をたたえる歌が続いた。」
ホロコースト正史のイメージを100%支持している人でさえも、この種の話が話し全体の信憑性をなくしていることを理解している。だから14年後、ユダヤ系フランス人ピエール・ヴィダル・ナケは、当初シュタイナーの本を「賞賛」していたのであるが[49]、突然、サディズムにうったえるような「二流文学」について語り始め、「シュタイナーの仕組んだ罠に足を踏み入れてしまった」[50]ことを認めたのである。もう一人のフランス人批評家Didier Daeningckxは、シュタイナーの著作を「真実に見せかけた偽りの小説」、「パラレル・モンタージュの技法を利用しているもの」と酷評している[51]。
g. クリスチナ・マルチェフスカ(Krystyna Marczewska)/ウワヂスワフ・ヴァジニエフスキ(Władysław Waźniewski)
1968年、二人のポーランド人歴史家マルチェフスカとヴァジニエフスキが、戦時中のトレブリンカでのポーランド人抵抗運動についての論文を発表した[52]。ここに掲載されている抵抗運動に関する報告は、トレブリンカに関する正史のイメージがどのように作り上げられてきたのかを理解するうえで、非常に貴重である。第2章でこの問題を扱うことであろう。
h. マーチン・グレイ(Martin Gray)
1971年、ポーランド生まれのユダヤ系フランス人マーチン・グレイが『私のすべての名において(Au nom de tous les miens)』[53]という題の著作を出版し、その中で、とくにトレブリンカでの滞在について触れている。グレイのゴーストライターでやはりユダヤ系のマックス・ギャロ(Max Gallo)が、この「トレブリンカの生存者」にインタビューして、それを本にまとめたのである。ギャロは序文の中で次のように述べている[54]。
「私たちは数ヶ月間毎日会った。[…]私は彼に質問し、テープに記録した。私は彼を観察し、事態の真理を確かめた。彼の話、沈黙に耳を傾けた。彼が謙虚であり、不屈の意志を持っていることがわかった。彼の肉体の中には、トレブリンカを生み出した世紀の残忍さ、野蛮さが刻み込まれていた。[…]私は書き直し、事実と照らしあわせ、背景の中で事件をスケッチし、その状況を再現しようとした。」
ギャロとグレイの協力の結果、次のような一節を含む著作が登場することになった[55]。
「私たちは、まだ暖かい死体の中に生きている子供を発見したこともあった。まだ生きていた幼児は母親の死体にしがみついていた。自分の手で絞め殺してから、埋葬地に投げ込んだ。そのような振る舞いは、時間を浪費してしまうので、命の危険があった。殺人者たちは、何事も速やかに行なうことを望んでいたからである。」
グレイは、奇跡的にトレブリンカと戦争を生きのびたのちに、合衆国に亡命し、本の中で書いているのだが、合衆国で偽物のアンティークを売って金持ちになった。自分の本の英訳版を出版したのち、彼は、――フォーリソンによると――、「偽のアンティークを撃っていたのと同様に偽の回想録をでっち上げたと疑われた。いずれの場合でも、他人の助けを借りて、お金目当てで行なわれた。」[56]ユダヤ系フランス人で、反修正主義的な著述家エリク・コナン(Eric Conan)でさえも、この本は「同時代の歴史家すべてに偽書として知られている」[57]と書いており、グレイのやっつけ仕事を厚顔無恥な偽造と酷評した。しかし、シュタイナーの作品と同様に、ゴミ屑にすぎないにもかかわらず、フランスとドイツで再版されているという状況は変わっていない。
i. ギッタ・セレニイ(Gitta Sereny)
1974年、ハンガリー生まれのイギリス人ジャーナリスト、ギッタ・セレニイが『暗闇の中へ(Into that Darkness)』[58]という題の本を出版した。それは、今日に至るまでも、トレブリンカを扱った標準的著作と評価されている[59]。セレニイは1971年4月から6月にかけて、獄中にいたトレブリンカの二番目の所長フランツ・シュタングルを数回尋ねて、彼にインタビューしている。シュタングルは1970年のデュッセルドルフ裁判で終身刑を宣告されていた。セレニイの本はこのインタビュー(および戦時中にトレブリンカに勤務していた3名のSS隊員と何名かのユダヤ人囚人とのインタビュー)にもとづいている。
セレニイによると、シュタングルは、彼女との話の中で、ホロコースト正史によるトレブリンカ像を確認したという。しかし、彼女の本は歴史資料としては無価値である。彼女は、シュタングルが実際にそのようなことを証言したとする証拠をまったく提出していないからである。すなわち、会話のテープ記録は存在していないのである。1971年6月28日、セレニイが最後に訪問した1日後に、シュタングルは不可解な状況の中で突然死んだ。死者の口からは否定の言葉が出てくることはないので、『暗闇の中へ』の著者は、望むどおりのことを死者の口からしゃべらせることができた。
フランスの修正主義者Pierre Guillaumeは、セレニイとの話し合いの中身を次のように記している[60]。
「テーブルに座って、飲み物を注文し、普通の中身のない挨拶を交わしたのちに、私はセレニイに次のように述べた。『私はあなたの著書を一度以上、いくつかの文章については数回読みました。最初読んだときには、シュタングルの話が真実であること、彼の自白が実際のものであることには疑うことができませんでした。しかし、今一度、文章を読みすすめていくと、私が読んでいる内容ではなく、むしろ、一般的に、読者が期待しているものがまったく欠如しているために、驚きが大きくなっていきました。そして、シュタングルの自白を繰り返し、丹念に読んでみると、その驚きはさらに大きくなりました。自白は例外なく、間接的であいまいな文体であり、シュタングルが述べたことと、セレニイが述べたことを区別することができなくなっているからです。』
私は幾分か意味ありげな表情をして、セレニイの目を穏やかにのぞき込みながら、一つ一つの単語を強調しながら、『手短にいえば、彼は自白などしていないのです。』、『しかし、もちろんしていません。…彼はそのようなことはできなかったのです』と言った。
セレニイの見解によると、彼女はシュタングルに対して精神療法士的な役割を果たしており、この意味で、彼が自白――彼一人で自白することはまったくおそろしいこと――によって自分の良心を救う手助けをしたのだという。[…]シュタングルはきわめて健康で、自分に科せられた罪を否定し続けていたにもかかわらず、『自白』した直後に、獄中で突然死亡した。彼は[控訴]審を心待ちにしており、彼と彼の妻も有利な判決が下されることを期待していたのである。」
われわれはPierre Guillaumeの話を一言一句信じている。セレニイの本を読んでみれば、「一般的に、読者が期待しているものがまったく欠如しているための驚き」をすぐに感じるからである。この質の悪い400頁以上の本には、意識を麻痺させてしまうような心理的な思考が繰り返し何回も登場しているが、ガス室の作動方式、80万人ほどを跡形もなく消し去った方法などの大量殺戮の実際の過程についての記述はまったく存在していない。自分の事件を控訴して冤罪を晴らそうとしている囚人が、控訴理由の中で否定してきたこと、認めてしまえば、控訴審で冤罪を晴らす希望などなくなってしまうことすべてを、突然、一介のジャーナリストに「認めて」しまうことなどありえようか。したがって、トレブリンカについての標準的著作であると喧伝されてきた本書は、厚顔無恥な偽書なのである。
j. スタニスワフ・ヴォイチャク(Stanisław Wojtczak)
1975年、ポーランド人スタニスワフ・ヴォイチャクは、英訳では「刑罰・労働収容所トレブリンカTと絶滅センタートレブリンカU(The Penal and Labor
Camp Treblinka I and the Extermination Center Treblinka II)」と題する長文の論文を執筆している。そこにはこの収容所についての膨大なテキストが集められている[61]。この著作は、ポーランド当局が行なった調査を詳しく要約して紹介している。ヴォイチャクは、ポーランドにおけるヒトラー一派の犯罪中央調査委員会の文書資料にアクセスできる。この委員会はドイツのルードヴィヒスブルクにある国立司法行政中央局のような組織であり、さまざまな地方の公判についての文書をすべて集めている。
k. アダルベルト・リュッケルル(Adalbert Rückerl)
1977年ドイツで、『ドイツの刑事裁判を通して見た民族社会主義者の絶滅収容所(NS-Vernichtungslager im Spiegel deutschen Strafprozesse)』[62]という文書資料が出版された。それは、トレブリンカ、ソビボル、チェルムノの収容所スタッフに対する西ドイツの刑事裁判所の裁判を扱っていた。その著者は、中央局長であったリュッケルルである。本書についても、後述することになるであろう。
l. アレクサンダー・ドナト(Alexander Donat)
1979年合衆国で、アレクサンダー・ドナトの編集した論文集『死の収容所トレブリンカ(The Death Camp
Treblinka)』が出版された。そこには、1946年にイディッシュ語で出版された、前述のアウエルバッハの文章が、「トレブリンカの野原」という題ではじめて英訳されて、掲載されている以外に、6名の著者(Abraham Krzepicki, Jankiel Wiernik, Samuel Willenberg, Tanhum Grinberg, Shalom Cohen, and Samuel Rajzman)が寄稿している。ドナト自身の序文によると、これらの論文には「ドラマ仕立て、装飾、発明、空虚な文句」は存在しないという。しかしこの約束が守られているかどうかは、アウエルバッハのありえないようなホラー物語が、コメントも付けられずに再掲されていることからも判断できる。また、ヤンキエル・ヴィエルニクの文章――これについては後述する――が重要資料として再三引用されているが、それは次のようなことを述べている[63]。
「妊娠した女性の死体が焼却されると、おなかが破裂することがあった。胎児が現れ、母親の子宮の中で燃えているのを見ることができた。」
ホースト・ケール(Horst Kehl)は、1981年の『歴史評論誌』の書評の中で、ドナトの論文集について次のように述べている[64]。
「子供を半分に引きちぎることは不可能なのではないか。人を半平方フィートの中に詰め込むことは不可能なのではないか。女性の死体を火付け器として使い、人間の脂肪をバケツですくい上げるのは不可能なのではないか。高さ9フィート以上のフェンスを乗り越えることは不可能なのではないか。一体、この神話のような話のどこに真実があるのであろうか。」
m. 中央委員会の『百科事典的な通報者(Encyclopedic
Informer)』
やはり1979年、ヒトラー一派の犯罪中央調査委員会は、ドイツ占領下にあった収容所と囚人に関する『百科事典的な通報者』を出版した。トレブリンカUについて文献目録に登場しているのは、裁判資料、文書資料、およびマルチェフスカ/ヴァジニエフスキの地下運動に関する論文以外に、ヴィエルニク、グロスマン、ウカシキエヴィチの著作だけである[65]。したがって、ポーランドでは1946年から1979年のあいだに、学術的と称したトレブリンカについての研究書は登場しなかったことになる。
n. オイゲン・コーゴン、ヘルマン・ラングバイン、アダルベルト・リュッケルルその他
1983年、コーゴン、ラングバイン、リュッケルルその他が共同で、『ナチスの大量殺戮』を出版した。著者たちは序文の中で、「ガスを使った数百万の殺戮を否定する…人々」と「ナチス体制を擁護しようとする」彼らの願望にくってかかっているが、著者の名前も本の名前もあげていない。さらに、「こうした否定派が存在しているという事実が、入念に、反駁できないようなかたちで、歴史的真実を確定しようとするわれわれの意図を十分に正当化している」と述べている[66]。しかし、この「歴史的真実」とは、おもに目撃証言と加害者の自白によって「入念に、反駁できないようなかたちで確定されている」のである。アブラハム・ゴルドファーブ(Abraham Goldfarb)は、トレブリンカでの大量殺戮の主要証人の一人であるが、次のように述べている[67]。
「犬を連れたドイツ人が、ガス室への道の両側のフェンス沿いに立っていた。これらの犬は人間を攻撃するように訓練されていた。男性の性器や女性の胸に噛みつき、肉を切り刻んだ。ドイツ人は、囚人たちができるだけ速く『シャワー室』に入るように、鞭や鉄の棒で殴って追い立てた。女性の泣き声が、遠くからでも、収容所の別の場所からでも聞こえた。ドイツ人は、『速く、速く、シャワーの水が冷たくなってしまう、ほかの人も待っているのだから』と叫びながら、走っている犠牲者を追い立てた。犠牲者たちは殴られまいと、できるだけ速くガス室に向かって走っていった。力の強い者は、弱い者を押しのけた。ガス室の入り口のところには、二人のウクライナ人イヴァン・デマニウク[68]とニコライが立っていた。一人は鉄の棒を、もう一人は剣を持っていた。彼らも犠牲者を殴りつけて、押し込んでいた。…
ガス室が満杯となると、ウクライナ人がドアを閉め、エンジンを始動させた。20分から25分たつと、SS隊員かウクライナ人がドアの窓をのぞきこんだ。全員が窒息死したことが確認されると、ユダヤ人囚人がドアを開き、死体を搬出した。室内は満杯であり、犠牲者たちはたがいにくっついていたので、全員が立ったままで、一つの肉の塊のようであった。」
この本の著者たちは、この種の目撃証言にまったく満足しているために、トレブリンカ(その他の「絶滅収容所」)での大量殺戮について、物的・文書資料的証拠を提出しようとはしていない。
o. クロード・ランズマン
1985年、ユダヤ系フランス人ランズマンの撮影した9時間半のフィルム『ショアー』が登場した。「ホロコースト生存者」の目撃証言にもとづいて、トレブリンカも含む「絶滅収容所」でのユダヤ人の絶滅を立証することを目的としていた。映画のテキストすべてを収録した同名の本の序文の中で、ボーボワールは次のように書いている[69]。
「われわれは、大戦後、ゲットー、絶滅収容所について多くの話を読んできて、衝撃を受けてきた。しかし、今日、クロード・ランズマンの並外れた映画を観て、何も理解していなかったことを悟るのである。われわれはすべてを知っていたにもかかわらず、恐ろしい体験はわれわれから遠い場所にあった。そして今、それを頭、心、肉体のなかで体験するのである。それは、われわれの体験となった。」
この映画と同名の本の標準的考え方を知るために、監督と彼のスター証人、トレブリンカの床屋アブラハム・ボンバとの会話を引用しておこう。英訳からである[70]。
「[ランズマン:]ガス室はどのようでしたか。
[ボンバ:]大きな部屋ではなく、12フィート×12フィートほどでした。[…]そのとき、カポーの一人がやってきて、こう言いました。『床屋の諸君、お前たちは、入ってくる女性すべてに、ここではただ髪を切ってもらうだけで、次にシャワーを浴び、そのあと、ここから出て行くと信じさせるように、仕事をしなくてはならない。[…]』
[…]
[ランズマン:]突然、女性たちの入ってくるのが見えたのですね。
[ボンバ:]はい、入ってきました。
[ランズマン:]どのような様子でしたか。
[ボンバ:]服を脱いでいました。裸で、服やその他のものをまったく身に着けていませんでした。
[…]
[ランズマン:]鏡はなかったのですか。
[ボンバ:]はい、ありませんでした。ベンチだけで、椅子はありませんでした。そこで、私たち、16名から17名の床屋が働いていたのです。
[…]
[ランズマン]床屋は16名いたとおっしゃいましたね。1回で何人の女性の髪を切ったのですか。
[ボンバ:]一時に、同じ部屋に60名、70名女性が入ってきたことがあります。この集団が終わると、別の集団が入ってきました。」
フォーリソンはこれについて次のようにコメントしている[71]。
「ボンバの目撃証言のこの部分は次のようにまとめることができる。16uの部屋に16名(17名)の床屋がいて、ベンチがあった。60名か70名の裸の女性たちが、その数は定かではないが、子供たちとともに、部屋に入った。[…]ありえないことである。まったくのナンセンスである。[…]人間というものはまったく騙されやすいものである。洗脳、ドイツやナチの蛮行に対する何世代も続いた宣伝のために、人は何でも真に受けてしまう。すべてが事実であると真に受けてしまうのである。」
p. イツァク・アラド(Yitzhak Arad)
1987年、イスラエルの「ホロコースト専門家」イツァク・アラドは、『ベルゼク、ソビボル、トレブリンカ。ラインハルト作戦収容所(Bełźec, Sobibor, Treblinka.The
Operation Reinhard Death Camps)』の中で、トレブリンカおよびその他の「東部地区収容所」におけるユダヤ人の絶滅を学術的に論証しようとした。ここには多くの脚注が付けられているが、アラドの絶滅説がもっぱら目撃証言にもとづいている事実を払拭することはできない。そして、この目撃証言の価値は、すでに引用してきた事例からすぐに判断できるのである。アラドの著作は、今日でも、トレブリンカとその他二つの「ラインハルト作戦収容所」についての標準的な著作とみなされているが、まったくありえない記述が含まれている。
例えば、アラドは収容所の「古いガス室」について次のように記している[72]。
「ガス室の入り口のところには、二人のウクライナ人イヴァン・デミアヌクとニコライが立っていた。一人は鉄の棒を、もう一人は剣を持っていた。彼らも犠牲者を殴りつけて、200−250名を16uの部屋に押し込んでいた。[…]
ガス室を開けるのがはやすぎることがあり、犠牲者はまだ生きていた。ドアをもう一度閉めなくてはならなかった。ガスを室内に供給していたエンジンも停止し、絶滅作戦をとめてしまった。この種のエンジン停止は、犠牲者がすでにガス室内にいたときにも起り、彼らは、エンジンの修理が終わるまで長時間そこに押し込められたままであった。」
もしも、新鮮な空気を供給せずに、200−250名を16u(高さ2.6m[73])の部屋に押し込めることが可能であると、非現実的に推定しても、エンジンが修理されるまでにすでに窒息してしまい、哀れな犠牲者たちは「長時間」待っている必要はないであろう。だから、エンジンは必要なかったにちがいない。
この点とその他の技術的不可能性については別の章で、ふたたび扱うことにする[74]。また、アラドが典拠資料を偽造している点についても検証することにする[75]。
q. リシャルド・チャルコフスキ(Ryszard Czarkowski)
1989年、ポーランドで『トレブリンカの影に(Cieniom Treblinki)』と題する本が出版された。その著者チャルコフスキは、戦時中、「絶滅収容所」トレブリンカUから3kmも離れていない労働収容所トレブリンカTに収容されていた。序文によると、労働収容所の囚人は、「二つのセンターのあいだでは労働による接触があったので」、隣接する「絶滅収容所」での大量殺戮を目撃できたという[76]。
チャルコフスキは、ウカシキエヴィチのあげているトレブリンカの犠牲者数80万を批判している。彼は、目撃証言と移送列車の数から、1582000名が殺されたとしている[77]。
1582000の死体を跡形もなくどのように処理することができたのか。スターリン主義的なポーランドの歴史学と戦後の裁判も、トレブリンカの犠牲者の数を、チャルコフスキのあげている数の半分にまで少なくせざるをえなかった。チャルコフスキは、こうしたことを考え直す材料とはしていない。
r. J. グムコフスキ(J. Gumkowski)とA.
ルトコフスキ(A. Rutkowski)
グムコフスキとルトコフスキの手になる著作『トレブリンカ』[78]には日付がないが、アラドとチャルコフスキの著作の出版以降に出版されたにちがいない。この本は、ポーランド民族に対する犯罪中央調査委員会(旧ポーランドにおけるヒトラー一派の犯罪中央調査委員会)の文書館からの文書資料と写真を掲載しているので、非常に貴重である。
s. ヴォルフガング・ベンツ(Wolfgang Benz)
1991年、ヴォルフガング・ベンツ監修の論文集『民族虐殺の規模(Dimension des Völkermords)』が出版された。その8年前にヴァルター・サニング(Walter Sanning)が人口学的研究『ヨーロッパ・ユダヤ人の分散』[79]を出版し、第二次大戦中のドイツ支配地域でのユダヤ人の損失の合計は数十万にすぎないと述べていたが、ベンツの論文集はこれに答えたものであった。ベンツと共同執筆者は約600万人のユダヤ人犠牲者というこれまでの数字を擁護している。トレブリンカに関しては、ベンツは、1946年にアウエルバッハがあげた犠牲者1074000人という数字を繰り返している。この数字のほうが「これ見よがしの少な目の数字よりもリアリスティックに思われる」からであるというのである[80]。アウエルバッハの著作は、トレブリンカでは血が「第一級の可燃物質」であったと述べている。ベンツの論文集がこのアウエルバッハの著作を重要資料とみなしているという事実は、この論文集の質を明らかにしている。ゲルマール・ルドルフは、サニングの著作とベンツの論文集を比較して、ベンツの論文集が人口学的な詐術を使っていることを明らかにしており、この点について次のようにコメントしている[81]。
「トレブリンカの犠牲者を100万以上とするベンツの分析は、アウシュヴィッツよりもトレブリンカのほうを重視しており、ホロコースト研究のまったく新しい潮流である。」
近年、アウシュヴィッツでの犠牲者数は劇的に少なくなっている。ルドルフが正しくも指摘しているように、トレブリンカの犠牲者を増やすことは、600万人という聖なる数字を維持するためのものである。
t. リヒャルト・グラツァール(Richard Glazar)
1992年、トレブリンカが解体されてから49年後、ユダヤ系のリヒャルト・グラツァールが、自分の目撃証言『緑のフェンスを持つ監視塔(Trap with a green
fence)』を出版した。グラツァールの話では、彼は、1942年10月から1943年8月まで収容所にいた。しかし、『ホロコースト百科事典』に掲載されている、トレブリンカについてのホロコースト正史では、ユダヤ人囚人は、「数週間か数ヶ月収容所で働いたのちに殺され、新しい移送集団と交代した」[82]はずである。彼の「個人的体験談」は、そのほかの「トレブリンカの生存者」のさまざまな話と交じり合った剽窃である。彼が執筆のインスピレーションを受けたという典拠資料は、1986年にヘブライ語で――ついで1989年に英語で――出版されたサムエル・ヴィレンベルク(Samuel Willenberg)の著作である。ここには、1943年春にトレブリンカに移送されてきたユダヤ系ギリシア人の話が記されている[83]。
「1943年春の始め、汽笛が新しい移送集団の到着を告げた。少々風変わりな集団が出てきた。浅黒い顔つきで、髪は黒色、外国語をしゃべっていた。貨車から取り出されたスーツケースには、『サロニカ』とのラベルがついていた。ギリシアからのユダヤ人が到着したニュースは、電光のように収容所に広まった。[…]
[SS隊員の]ミッテがドイツ語を理解できる3名のギリシア人を見つけて、彼らを通訳にした。」
グラツァールの本では、この部分は次のように描かれている[84]。
「人々は貨車から、押し合いもせずに、静かにでてきた。[…]検疫所にいるかのようであったにちがいない。[…]顔つきは、健康そうで、普通ではないほど暗い色をしていた。髪は黒色、まったくの黒色であった。[…]彼らがまったくの外国語を話していることを聞くことができた。」
「この移送集団から3名が選ばれた。[…]彼らはほんの少しだけドイツ語を話すことができた。この3名を介して、すべてのものが殺菌駆除されること、彼らは浴室に行って殺菌駆除されること、そのあとで労働に送られることが伝えられた。」
グラツァールは二つの大失敗を犯している。まず、彼は、死体の焼却が1942年「11月の曇った日に」始められたと述べているが[85]、標準的な文献によると、死体の焼却は1943年3月/4月以前には始められていない。次に、彼は、トレブリンカの「カモフラージュ班」に属していたと述べている[86]。
「ここには、自然と接触して働き、外部から死の収容所を眺めることを許されている少数の人々――そして、今日でも、唯一の人々――がいた。[…]彼らは収容所の外に出て、森に入り、松ノ木の小枝を折って、それを集めていた。[…]しかし、このカモフラージュ班に雇われたのは、高い木に登って、小枝の重い束を持って収容所に急いで戻ってくることのできる労働者だけであった。彼らは、小枝を鉄条網に編みこんで、収容所の周囲を緑のカモフラージュで覆い隠した。」
「カモフラージュ班は、まだ実際の仕事を持っている唯一の古い労働部隊の一つであった。修復しなくてはならない外のフェンス、中のフェンスがたくさんあったからである。修復箇所がまったくないとしても、カモフラージュ部隊は、収容所の周囲の森での木々の伐採という仕事に非常に適していた。[…]1日に数回、25名の部隊のうちの何名かは森に入り、木に登って、長い小枝を集め、収容所に持って帰らなくてはならなかった。収容所では修復のために使われた。別の班員はフェンスポストを強化・固定し、鉄条網をしっかりとしたものにし、新しい松の小枝をフェンスに編みこんで、フェンスがまったくの緑の壁に見えるようにした。[…]われわれはカモフラージュ部隊だった。[…]
カールと私は、木に登って、小枝を折ってきたために、手や顔に引っかき傷を負っていた。」[87]
したがって、グラツァールによると、トレブリンカでは、収容所の外に出て、森の中で働き、重労働に従事して、必要な木材を収容所に提供することができたのはこの25名の囚人だけだったことになる。もしも、トレブリンカでの死体の焼却のために大量の木材が必要であり、そのために、囚人たちを森に入らせて、木を切らせたとすると、数百万の小枝が生み出されたはずであり、カモフラージュ部隊の木登り活動などかすんでしまったことであろう[88]。しかし、グラツァールは、彼が収容所にいたときには、このような伐採活動はまったく行なわれなかったと述べている。トレブリンカの木こりたち、すなわちグラツァールのような囚人たちは死体の焼却手順を知っており、その件について次のように述べているのにである。
「大きな焚き火を作り、死体のあいだに大量の焚き付けをおき、それから、全体に可燃性の物質を注がなくてはならない。」
u. プレサック
1995年、フランスの雑誌Historamaにプレサックの論文が登場した[89]。彼は、ガス室を歴史的事実とみなしてはいるが、その他のホロコースト正史派の研究者と比べると、目撃証言に比較的批判的姿勢をとる研究者である。この論文でのプレサックの関心はアウシュヴィッツについてであるが、トレブリンカ、ソビボル、ベルゼクも取りあげている。プレサックは、ホロコースト正史がこれらの収容所がもっぱらユダヤ人の絶滅のために設立されたと主張しているのとは対照的に、もともと通過収容所もしくは害虫駆除収容所として設立されたが、その後、絶滅収容所に変わっていったとの見解を抱いている。別の章でこのプレサックの説をもっと詳しく検討しておこう[90]。
やはり1995年、Valérie Igounetがプレサックにインタビューを行なっており、その記事はやっと2000年になって公表された。その内容は、プレサックの意志で変更を加えられていた。プレサックは、強制収容所についてのホロコースト正史を「誤り、誇張、削除、嘘」で際立っていると酷評し[91]、民族社会主義者のユダヤ人政策に「虐殺」という概念を適用することは不適切であると断定している[92]。また、トレブリンカも含む「純粋な絶滅収容所」での犠牲者の数を劇的に減らしている[93]。
v. 評価
ここまで見てくると、ホロコースト正史派の歴史家たちが描いてきた収容所像は、まったくどうしようもないものであると裁定せざるをえない。学術的と称する少数の研究書も、例外なく、信憑性のない資料に立脚している。誤りにみちた厚顔無恥な嘘つきの話が、トレブリンカ研究の古典として認められているのである。簡単にいえば、この収容所に関するホロコースト正史の価値は、哀れなほど、ゼロに近いのである。
2. 修正主義的研究の中のトレブリンカ
a. トレブリンカとゲルシュタイン報告
ホロコースト正史が、その当初からアウシュヴィッツに焦点をあてていたために、修正主義者も、その戦場で闘わなくてはならず、もっぱらその関心をアウシュヴィッツ強制収容所に向けてきた。このために、修正主義者もトレブリンカにはほとんど焦点をあててこなかった。
修正主義者がトレブリンカについて言及したのは、いわゆる「ゲルシュタイン報告」との関連においてであった。SS将校ゲルシュタインは、その「自白」の中で1942年にベルゼクとトレブリンカを訪れたと述べていたために、彼の「自白」はホロコースト正史を支える支柱の一つであった。ゲルシュタインは、ベルゼクでガス処刑に立ち会ったと述べているが、その記述は、ありえないことで満ちあふれている。例えば、彼は、700−800名の犠牲者がなんと「25u、45㎥」のガス室に押しこめられたと述べているのである。
レジスタンス戦士で、ブッヘンヴァルトとドラ・ミッテルバウ強制収容所の囚人でもあったフランス人ラッシニエは、修正主義の創設者であるが、1964年に出版された『ヨーロッパ・ユダヤ人のドラマ(Le Drame des Juifs Européens)』[94]の中で、ゲルシュタイン報告が疑わしいものであると指摘し、歴史学的には価値のないものであることを強調した。もう一人のフランス人アンリ・ロックは、その博士論文の中で、ゲルシュタイン報告には、部分的にかなりの異同のある6つ以上のバージョンが存在することを立証した[95]。ただし、ゲルシュタインが記述しているのはトレブリンカではなくベルゼクでのガス処刑であるので、ラッシニエとロックの研究は、とくに、ベルゼク収容所についてのゲルシュタインの記述には、信憑性がないことを明らかにしたことになる。この二人のフランス人歴史家とは異なり、マットーニョの1985年の研究『ゲルシュタイン報告、偽造の解剖(Il rapporto Gerstein, Anatomia
di un falso)』はもっと深くトレブリンカに切りこんでいる。その中でマットーニョは、トレブリンカについての「ガス室神話が広まったのは比較的あとのことである」と論じている。すなわち、1943年の『ポーランド系ユダヤ人の黒書(Black Book of Polish Jewry)』では、ユダヤ人を絶滅するスチーム室が言及されており、ポーランド政府が提出した1945年12月のニュルンベルク裁判資料PS-3311でも同じ殺戮手段が登場している。マットーニョによると、やっと1946年2月に、ユダヤ人証人サムエル・ライツマンがニュルンベルク法廷でガス室について証言している[96]。
今日まで、4人の修正主義者が、ホロコースト正史によるトレブリンカ像を体系的に批判している。フリードリヒ・ベルク、ジョン・ボール、ウド・ヴァレンディ、アルヌルフ・ノイマイアーである。前二者は、個別的に重要なテーマについて研究・調査し、後二者は、トレブリンカの定説について包括的な批判を行なっている。
b. フリードリヒ・ベルク(Friedrich P. Berg)
1984年、技術者の学士号を持つベルクは、『歴史評論誌』に、その後の道を切り開くような論文「ディーゼル・ガス室:神話の中の神話」[97]を発表した。その中で、彼は、トレブリンカ、ソビボル、ベルゼクの凶器とされていたディーゼル・エンジンを技術的、毒物学的に検証した。また、1994年、拡大ドイツ語版が論文集『現代史の基礎(Grundlagen zur Zeitgeschichte)』[98]に掲載された。2003年に出版された後者の英語版『ホロコーストの解剖(Dissecting the Holocaust)』にも、ベルクは改訂論文を寄稿している[99]。
ベルクはその研究の中で、ディーゼル排気ガスは高い濃度の酸素、きわめて低い濃度の一酸化炭素を含んでいるために、人間の大量殺戮の凶器としてはきわめて適切ではなく、ガソリン・エンジンの方がはるかに効率的であることを立証した。この問題については、目撃証言批判との関連で、第4章で立ち戻ることにする。
ベルクの研究は、トレブリンカ、ソビボル、ベルゼクに関するホロコースト正史の根幹を揺るがした。もしも、ドイツ人が実際に、172万ほどのユダヤ人[100]を、記録されている時期に3つの収容所でガス処刑し、死体の痕跡のすべてを取り除くことに成功していたとすれば、まさに技術的な天才でなくてはならないし、そのような天才ならば、非効率的な凶器を用いるはずがないからである。また、凶器はガソリン・エンジンであったという反論も想定しうるが、ガス処刑の「目撃者」たちは、捕獲されたロシア軍の戦車のエンジンの排気ガスによってガス処刑が行なわれたと述べており、第二次大戦中のロシア軍戦車はディーゼル駆動であったので、このような反論にも根拠がない。『ホロコースト百科事典』最新ドイツ語版は次のように明確に断言している[101]。
「ベルゼク、ソビボル、トレブリンカは、とくに総督府からのユダヤ人に対するラインハルト作戦(1942年6月からそのように呼ばれた)という殺戮作戦の枠内で建設された。これらの絶滅収容所は、ディーゼル・エンジンの作り出す一酸化炭素ガスを使用した。」
目撃証言は凶器については間違った陳述をしているのかもしれないと反論したとすれば、そのことは、目撃証言の信憑性とともに、もっぱら目撃証言に依拠した「東部地区絶滅収容所」についての全体像の信憑性をおとしめていることになるのである。
c. ジョン・ボール(John C. Ball)
ベルクの行なった技術的・毒物学的調査に劣らず重要なのは、トレブリンカも含む「絶滅収容所」に対する戦時中の連合国およびドイツの航空偵察写真の分析である。カナダ人航空写真分析専門家ボールが、この分析を行い、1992年に、その研究成果を『航空写真の証拠』[102]で公表している。この写真については後述することにする。
d. ウド・ヴァレンディ
ドイツの歴史学雑誌『歴史的事実(Historische Tatsachen)』の編集者兼出版者で政治学者のウド・ヴァレンディは、この雑誌の二つの号でトレブリンカを扱っている。1982年の12号は、トレブリンカの収容所スタッフに対する1964/65年のデュッセルドルフ裁判について分析している[103]。その中で、ヴァレンディは、この裁判の法律的根拠を厳しく批判し、判決を支持する議論に含まれている数多くの馬鹿げた点を明らかにしている。以下に彼のコメントの抜粋を引用しておこう[104]。
「50名のSS隊員が、戦車のエンジンを使って、1年で700000名ほどを殺戮し、すべての痕跡を消し去ったという。SS隊員一人あたり14000名であり、1日につき40名である。そして、合計で1日2000名である。しかし、待っていただきたい。その他の話では、毎日8000名や30000名となっている。1日あたりである。
さらに、これらのSS隊員は、サディスティックな虐殺行為のために、休みをとって、新しい虐殺行為を、鞭を持ちながら、あるいは持たずに、発明したという。収容所の通常の管理業務は滞ってしまったであろう。しかし、刈られた女性の髪の殺菌消毒から、衣服のダヴィデの星の取り外しまで、大きな壕に埋められていた死体の焼却から、すべての痕跡の除去――灰をふるいにかけること、骨を砕くこと、灰を土に混ぜること、収容所の土地をならすことなど――にいたるまで、すべてが完璧に機能していたという。
[…]弁護士も専門家も陪審員も判事も『歴史家』も新聞記者も、このように技術的に不可能なことを、何の悩みもしないで、戦時中の50名のドイツ人看守部隊に押し付けているのである。」
8年後に出版された『歴史的事実』44号は、もっぱらトレブリンカ収容所のことを扱っており、「トレブリンカ事件(Der Fall Treblinka)」号とも呼ばれている[105]。冒頭、ヴァレンディは、グロスマンのグロテスクな著作『トレブリンカの地獄』からの文章を引用し、そのあとで、次のようなトピックを扱っている。
・
トレブリンカで300万人が「生産工程式処刑」によって殺されたとする、世界ユダヤ人会議が1946年に出版した『黒書』
・
トレブリンカの地理的な配置に関する標準的研究書の記述の矛盾、「目撃者」によるさまざまな「スケッチ」の矛盾
・
絶滅説を論駁する航空写真の分析
『歴史的事実』44号は、トレブリンカについてのホロコースト正史をもっとも完璧かつ包括的に批判した著作である。その後、ヴァレンディは、歴史的真実を発見しようとしたために、2年以上ドイツの刑務所に投獄された[106]。
e. アルヌルフ・ノイマイアー(Arnulf Neumaier)
トレブリンカについてのホロコースト正史が、目撃証言の述べている手段と方法によって、死体を跡形もなく取り除くことが可能であるとの前提に立っているので、この点に関するノイマイアーの計算はとくに重要である。1994年、技術者の学士号を持つアルヌルフ・ノイマイアーの論文「トレブリンカ・ホロコースト(Der Treblinka-Holocaust)」[107]が論文集『現代史の基礎』の論文として出版された。同書の英語版にも、英訳の「トレブリンカ・ホロコースト」として掲載されている[108]。その中で、ノイマイアーは、トレブリンカでのユダヤ人絶滅説の技術的前提を包括的に検証している。彼は、ディーゼル排気ガスによる大量殺戮説に対するベルクの批判を継承し、それに別の側面を付け加え、さまざまな殺戮手段をあげている目撃証言に含まれている数多くの矛盾点を明らかにし、とくに、死体処理問題について焦点をあてている。
f. 通過収容所説
これまで、これらの修正主義的研究は、トレブリンカを「絶滅収容所」とみなすホロコースト正史を批判することに集中してきた。それに代わる解釈はこれらの研究には登場していない。同時代の資料がまったく欠如しているためであった。しかし、著名な修正主義者が、トレブリンカはユダヤ人通過収容所であったという説を唱えている。バッツ博士は、1976年にはじめて出版された修正主義の古典『20世紀の詐術』の中で、トレブリンカは労働収容所であると同時に、ユダヤ人を東部地区に定住させるための通過収容所であったという説を提起し[109]、フォーリソン教授も通過収容所説を支持している[110]。
最後に、合衆国の歴史家マーク・ウェーバーは合衆国の弁護士アンドリュー・アレン(Andrew Allen)と共同で、1992年に、トレブリンカについての優れた論文を発表している。二人の著者は、「絶滅収容所」説に対するこれまでの議論すべてを整理し、この分野に新しい観点を導入して、収容所の性格について次のように述べている[111]。
「トレブリンカが絶滅収容所でないとすれば、何であったのか。[…]証拠を公平に検討すると、トレブリンカUはベルゼクとソビボルとともに、ユダヤ人移送者が、東方に、ドイツ支配下のソ連領に移送される前に、財産と貴重品を奪われる通過収容所であったことがわかる。」
トレブリンカは小規模の収容所であったので、そこに移送されてきた大量のユダヤ人を収容できないことを考えると、通過収容所説は、伝統的な絶滅収容所説に代わる唯一の説得力のある説である。どっちつかずの中途半端な可能性はありえない。
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[23] GARF 7021-115-8, pp. 168-203.
[24] V. Grossman, L’enfer de
Treblinka, B. Arthaud,
[25] Published by Wydawnictwo Literatura Polska, Kattowitz 1945.
[26] Die Vernichtungslager
Maidanek und Treblinka, Stern-Verlag,
[27] “Der Fall Treblinka,” Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1990.
[28] 英語の「サー」、「ミスター」にあたるポーランド語の単語。訳者注。
[29] Rachel Auerbach, “In the Fields of Treblinka,” in: A. Donat, op. cit. (note 4), pp. 19-73.
[30] Ibid., p. 40.
[31] この委員会は、同盟国である共産国東ドイツに対する配慮から、「ポーランドにおけるヒトラー一派の犯罪中央調査委員会」と改名し、共産主義体制が崩壊したのちには、「ポーランド国民に対する犯罪中央訴追委員会」と改名した。
[32] Zdzisław Łukaszkiewicz, “Obóz zagłady
Treblinka,” in Biuletyn Głównej Komisji Badania
Zbrodni Niemieckich w Polsce, no. 1, Posen 1946, pp. 133-144.
[33] ライマンと綴られることも多い。
[34] この証人はのちにはイェヒール・ライヒマンと称するようになる。彼は、ジョン・デムヤンユクに対するイェルサレム裁判に検事側証人として登場している。第5章参照。
[35] Z. Łukaszkiewicz, op. cit. (note 32), p. 133.
[36] のちに、当初は3つのガス室が存在したという話になっている。
[37] Z. Łukaszkiewicz, op. cit. (note 32) p. 142.
[38] Z. Łukaszkiewicz, Obóz straceń w Treblince, Pañstwowy Instytut Wydawniczy,
[39] See Chapter III c.
[40] “Treblinka,” in: Wydawnictwo
Centralnej Zydowskiej Komisji Historycznej (ed.), Dokumenty i Materiały.
Tom I: Obozy, revised by N. Blumental,
[41] Polish
charges against German War Criminals, submitted
to the United Nations War Crimes Commission by Dr. Marian Muszkat,
[42] Ibid., p. 194.
[43] Ibid., p. 195.
[44] See Chapter V.
[45] シュタイナーは『トレブリンカ』の初版が出版された20年後に、この著作が小説であること、小説家Gilles Perraultが原稿の作成に協力してくれたことを認めている(Le journal du dimanche, March 30, 1986)。フォーリソンからの情報。
[46] Published by Librairie Arthème Fayard,
[47] Jean-François Steiner, Treblinka, Simon and
[48] Ibid., pp. 352-355.
[49] “Treblinka et l’Honneur des Juifs,” Le Monde, May 2, 1966. フォーリソンからの情報。
[50] Esprit, September 1980. フォーリソンからの情報。
[51] “De Treblinka à Bordeaux,” Revue de la Shoa, May-August 1999. フォーリソンからの情報。
[52] Krystyna Marczewska, Władysław Waźniewski, “Treblinka w swietle
Akt Delegatury Rządu RP na Kraji” (Treblinka in the Light of the Files
of the Delegation of the Government of the
[53] Editions
Robert Laffont, Paris. English translation: For Those I Loved,
[54] Ibid., Max Gallo’s Foreword, p. ixf;
[55] Ibid., p. 139.
[56] Robert Faurisson, Ecrits révisionnistes (1974-1998), private edition, 1999, Vol. I, p. 376.
[57] L’Express,
[58]
[59] So in the latest German version, Am Abgrund, Piper,
[60] Pierre Guillaume, “Les bonnes intentions dont l’enfer est pavé,” in Annales d’Histoire Révisionniste, no. 5, Summer/Fall 1988, pp. 189f.
[61] Stanisław Wojtczak,
“Karny obóz
pracy Treblinka I i osrodek zagłady Treblinka II,” in: Biuletyn Głównej Komisji Badania Zbrodni Hitlerowskich w Polsce,
[62]
[63] In: A. Donat, op. cit. (note 4), p. 170.
[64] Horst Kehl, “‘Holocaust’ Pharmacology vs. Scientific Pharmacology,” in:
Journal of Historical Review, Vol. 2, no. 1, Spring 1981, p. 95.
[65] Główna Komisja Badania Zbrodni Hitlerowskich w Polce (ed.), Obozy hitlerowski na ziemiach polskich 1939-1945. Informator encyklopedyczny, Pañstwowe Wydawnictwo Naukowe,
[66] E. Kogon, H. Langbein, A. Rückerl, et al. (eds.), Nazi Mass Murder, Yale University Press, New Haven 1993, p. 1f.
[67] Ibid., p. 126f.
[68] 正しくは、デムヤンユク。第5章参照。
[69] Claude Lanzmann, Shoa, éditions Fayard,
[70] Shoa, English edition, pp. 112-116.
[71] R. Faurisson, Ecrits révisionnistes, op. cit. (note 56), Vol. II, pp. 558f.
[72] Yitzhak Arad, Belzec, Sobibor, Treblinka. The Operation Reinhard
Death Camps,
[73] アラドによると、ガス室高さはそのようであった。(ibid., p. 42).
[74] See Chapter IV.
[75] See Chapter II.
[76] Ryszard Czarkowski, Cieniom Treblinki, Wydawnictwo Ministerstwa Oborony Narodowey,
[77] See Chapter III.
[78] J. Gumkowski , A. Rutkowski, Treblinka, published by the Council for Protection of Fight and Martyrdom Monuments, Warsaw, without date.
[79] Walter Sanning, The Dissolution of Eastern European Jewry,
I.H.R.,
[80] Wolfgang Benz (ed.), Dimension des Völkermords. Die Zahl der jüdischen Opfer des Nationalsozialismus, R. Olderbourg Verlag, Munch 1991, p. 468.
[81] Germar Rudolf, “Holocaust Victims: A Statistical Analysis · W. Benz and W. N. Sanning – A Comparison,” in: Germar Rudolf (ed.), Dissecting the Holocaust, 2nd edition, Theses & Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, p. 202.
[82] Encyclopedia
of the Holocaust, op.
cit. (note 18), as cited on p. 16. Chapter I: The Description of Treblinka in
Historiography
[83] Samuel Willenberg, Revolt in Treblinka, ッydówski Instytut Historyczny, Warsaw 1989, pp. 104f. Almost identical (the
SS man is called Miete, though): Samuel Willenberg, Surviving Treblinka, Basil Blackwell,
[84] Richard Glazar, Trap with a green fence, Northwestern University Press,
[85] Ibid., p. 29.
[86] Ibid., p. 56.
[87] Ibid., p. 127f.
[88] See Chapter IV.12.f. for details. このようなカモフラージュ部隊が実在していたとしても、何名かを木登りさせるのではなく、木を切らせて、小枝を集めさせれば良いことになる。こうした活動はまったく馬鹿げている。
[89] J.-C. Pressac, “Enquête sur les camps de la morte,” in: Historama, no. 34, 1995.
[90] See Chapter IX.
[91] Valérie Igounet, Histoire
du négationnisme en
[92] Ibid., p. 641.
[93] See Chapter III.
[94] Paul Rassinier, Le drame des juifs européens, Les sept couleurs,
[95] Henri Roques, “Les confessions de Kurt Gerstein, étude comparative des six versions,” in: André Chelain, La thèse de
[96] Carlo Mattogno, Il rapporto Gerstein, Anatomia di un falso, Sentinella d’Italia, Monfalcone 1985, pp. 167ff.
[97] Journal of Historical Review 5 (1), 1984, pp. 15-46.
[98] Friedrich P. Berg, “Die Diesel-Gaskammern: Mythos im Mythos” in: E. Gauss (ed.), Grundlagen zur Zeitgeschichte, Grabert Verlag, Tübingen 1994, pp. 321-345.
[99] Friedrich P. Berg, “Diesel Gas Chambers: Ideal for Torture – Absurd for Murder,” in: G. Rudolf (ed.), op. cit. (note 81), pp. 435-469.
[100] 『ホロコースト百科事典』(注18)によると、トレブリンカが870000名、ベルゼクが600000名、ソビボルが25000名である。
[101] Eberhard Jäckel, Peter Longerich, Julius H. Schoeps (eds.), Enzyklopädie des Holocaust. Die Verfolgung und Ermordung der europäischen Juden, 3 vols., Argon Verlag, Berlin 1993, entries for “Aktion Reinhard,” vol. 1, p. 15 「ガソリン・エンジンかディーゼル・エンジン」, “Bełźec”, vol. 1, p. 176 「250馬力のディーゼル・エンジン」, “Sobibor”, vol. 3, p. 1332「200馬力のエンジン」, “Treblinka”, vol. 3, p. 1428「ディーゼル・エンジン」,「ガス室」, vol. 1, p. 505「総督府の絶滅収容所における…ディーゼル排気ガス」、「絶滅収容所」, vol. 3, p. 1496: 「これらの絶滅収容所[ベルゼク、ソビボル、トレブリンカ]はディーゼル・エンジンからの一酸化炭素ガスを使った。」この資料によると、ソビボル収容所(250000名の犠牲者)だけが、どのエンジンであるか定かではない事例である。ベルゼク(600000名の犠牲者)とトレブリンカ(700000−1200000名の犠牲者)では、明確のディーゼル・エンジンとされている。『百科事典』の英語版では、個々の収容所のことを「ガス室」、「ラインハルト作戦」の項目の中で言及しているが (AR: vol. 1, p.16; B: vol. 1, p. 175; GC: col. 2, p. 540; S: vol. 3, p. 1375; T: vol. 3, p. 1483)、「絶滅収容所」の項目は「ガソリン・エンジンかディーゼル・エンジン」と述べている, vol. 2, p. 462 。ドイツ語版の編集者は、目撃証言や判決文にあわせるために、ガソリン・エンジンを削除したにちがいないが、ラインハルト作戦の項目から削除することを忘れてしまっている。
[102] John C. Ball, Air Photo Evidence, Ball Resource Services, Delta, B.C. 1992. An abridged version appears in: Germar Rudolf (ed.), Dissecting the Holocaust, op. cit. (note 81), pp. 269-282.
[103] “‘NSG-Prozeß’ Treblinka” in: Historische
Tatsachen no. 12 (“Das Recht, in dem wir
leben”), Vlotho 1982, pp.
28-32.
[104] Ibid., p. 30.
[105] Historische Tatsachen no. 44, “Der Fall Treblinka”, Vlotho 1990.
[106] Cf. Vierteljahreshefte für freie Geschichtsforschung,
1(2) (1997), p. 126, and 2(4) (1998), p. 327; all in all, U. Walendy had to sit in prison for 29 months
[107] Arnulf Neumaier, “Der Treblinka-Holocaust,” in: Ernst Gauss (ed.), op. cit. (note 98), p. 347-374.
[108] In: Germar Rudolf (ed.), Dissecting the Holocaust, op. cit. (note 81), pp. 471-500.
[109] Arthur R. Butz, The Hoax of the Twentieth Century, 3rd ed., Theses and Dissertations Press, Chicago, IL 2003, p. 270.
[110] Robert Faurisson, Ecrits révisonnnistes, op. cit. (note 56), pp. 754f. (Volume II).
[111] Mark Weber, Andrew Allen, “Treblinka,” in: Journal Historical Review, no. 2, Summer 1992, p. 139.