歴史的修正主義研究会

最終修正日:2004308

 

<質問12

わが国の正史派の研究者○○氏は、最近刊行されたホロコースト研究書の中で、殺人目的のガス車=ガス・トラック=ガス自動車があたかも実在したかのように記述をしていますが、歴史的修正主義者はこの点についてどのように考えていますか?

 

<回答>

 たしかに、○○氏は、その研究書の中で、ガス車=ガス・トラック=ガス自動車の開発について次のように述べています。

 

「『特殊自動車』すなわち、固定したガス室ではなくて、『車上備え付けのガス室』は、戦後裁判の証人供述によれば193912月から40年はじめ、精神病院施設撤去に際して使用された家具用付属車であった。ポメルン、オーバーシュレージエン、編入ポーランド地域の精神病施設の患者は、コーヒー会社の看板『カイザー・コーヒー会社』の名を両側面につけてカムフラージュした付属車の中で、鋼鉄製ボンベから排出された純粋一酸化炭素で『安楽死』の名の下に抹殺された。この作戦を指揮したのは、親衛隊中尉・刑事警察課長ヘルベルト・ランゲで、彼のコマンドは40521日から68日にもオスト・プロイセンのゾルダウで『カイザー・コーヒー会社』型ガス自動車で1558名の病人を『疎開』、すなわち抹殺した。

 しかし、『一酸化炭素ボンベをソ連まで輸送するのは不可能』なので、このタイプをソ連占領地で使用することはできなかった。419月はじめ、ネーベは刑事犯罪技術研究所のヴィトマンに爆薬と金属製ガス管をミンスクに持ってこさせた。ロシア人女医の証言によれば、彼らは918日にミンスクで実験を行ない、まず塹壕に精神病者を入れて爆破したが、それは成功しなかった。最初、自動車の排気ガス管から金属製ガス管を使って壁の穴から密閉した部屋に排気ガスを注入した。5分、さらに8分注入しても何の作用も起きなかったので、さらに秩序警察隊の貨物自動車の排気ガス管からもう一本、同じ密閉空間に排気ガスを注入した。そうすると人々が意識不明になるまで『わずか数分』だった。二つの車のエンジンをさらに10分間吹かせた。ネーベはこの実験結果から、排気ガスによる殺害を実用的だと結論した。」[1]

 

 以上のような○○氏の記述のもとになっている典拠文献は、その脚注2933から判断すると、以下の2つです。

 

(1)            ベーア論文「ユダヤ人殺戮におけるガス車の発展」Matias Beer, Die Entwicklung der Gaswagen beim Mord an den Juden

(2)            コーゴン、ラングバイン、リュッケルル編『毒ガスによる民族社会主義者の大量殺戮』(E. Kogon, H. Langbein, A. Rückerl, Nationalsozialistische Massentötungen durch Giftgas

 

 また、このガス・トラックの開発については、ヒルバーグの著作『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』でも扱われています。参考資料として引用しておきます。

 

「ヒムラーの要望に最終的に答えたのは、ガス・トラックであった。この車両は、すでに1940年に、東プロイセンとポンメルンの精神病患者をソルダウにある旧ポーランド回廊にある収容所で、毒ガスで殺害するために使われていた。1940年のモデルは、国家保安本部技術部のラウフSS中佐のもとで作られたもので、瓶に詰めた一酸化炭素を装備していた。車輪のついたガス室は、『皇帝のコーヒー』という標識でカモフラージュされていた。しかし一酸化炭素の瓶は、占領下ソ連で使うには、値段が高すぎ、取り扱いが厄介であった。したがって、次の段階は、排気ガスを車内に導入することのできる車両の製造であった。…ヴィートマンは以前ミンスクで精神病患者を爆破した人物だった。彼は、このガス・トラックは精神異常者を殺害するためにだけ用いられると思っていた。…」[2]

 

 ガス車の開発に関する○○氏とヒルバーグの記述内容はほぼ同一です。それは、両者が依拠している文献がほぼ同一だからです[3] また、大量射殺→銃殺隊の心理的負担、ヒムラーの心理的動揺→ガス車の開発そして、ガス室へという因果関係のとらえ方も、○○氏とヒルバーグは同一です。

 

 

論点

@        前提として確認しておかなくてはならないことは、今日まで、この「ガス車」の実物や設計図が提示されたことは一度もないということです。

A        さらに、ホロコースト正史派の文献には、わずか1枚の写真だけが、「ガス車」を撮影したものとして掲載されていますが、それも、たんにザウラー社の貨物トラックを写したものにすぎず、それが「ガス車」であるとはまったく判断できません。

B        要するに、貨物自動車の写真を掲げて、それに、「ガス車」というキャプションをつけているにすぎません。もしこの写真が、本物の「ガス車」であれば、この前面部だけではなく、殺人目的に使われた決定的証拠、すなわち、気密の「ガス室」に引き込まれた排気ガスの導管、少なくともその痕跡だけでも必ず撮影するはずだからです。

「チェルムノその他で使用されたガス車」[4]

C        この写真は、たんに囚人の列を写した写真に「ガス室送りのための囚人の選別」とか、浴室内の裸の人々を写した写真に「ガス処刑の様子」といったようなキャプションをつけて提示する「ホロコースト写真」とまったく同一のものです。

D        正史派の研究者のあげている文書資料には、「ベッカー書簡」、国家保安部関係の資料がありますが、それはきわめて信憑性のないものです。くわしくは、I. ヴェッカート論文「ガス車:証拠の批判的評価」[5]を参照してください。

E        残っているのは、「目撃証言」や戦争犯罪裁判での「加害者側」の「自白」だけなのですが、○○氏やヒルバーグが依拠しているコーゴン、ラングバインの著作に集められている「目撃証言」だけを取って見ても、「ガス車」の外観:「窓がなかった」、「のぞき穴や窓ガラスがあり、そこから中をのぞくことができた。」、「窓やのぞき穴があり、運転手席から車内を除くことができた。」、「ペンキで偽の窓が描かれていた」、 「ガス車」のドア:「車の後部には大きなドアがあった」「二つのドアか二重ドアがあった」「気密にすることができた」、「かんぬきで閉められていた。」、「ボルトで閉められていた」、「 南京錠で鍵をかけられており、その鍵は運転手席にぶらさがっていた」、 「上と真ん中と下の三箇所で、3つのねじで閉められていた」と様々です。

F        ようするに、様々な貨物自動車のことを述べているにすぎないのです。

G        そして、○○氏など正史派の研究者が見過ごしているか、触れようとしていないのが、こうした「ガス車物語」の起源が、大戦末期にソ連のクラスノダルとハリコフで開かれた、ドイツ軍兵士とその協力者に対する「人民裁判」であることです。

H        19431215日から17日までに開かれたハリコフ裁判では、被告となった3名のドイツ軍捕虜と1名のウクライナ人労働者全員が、自分たちの罪を「自白」し、4名全員が絞首刑を宣告され、何と翌日の18日に処刑されています。

I        この裁判は、検事はいうまでもなく、弁護人や裁判官も被告の罪を告発し、被告は、その告発すべてに「はい」と答えるという、ソ連式「見世物裁判」の典型でした。裁判長が質問し、それに対して、筋書き通りに答えている被告ラングヘルト(W. Langheld)の様子を引用しておきます。

 

裁判長:被告ラングヘルト、「ガス車」をどこで見ましたか。

被告ラングヘルトは、通訳コピロフを介して、「ガス車」をハリコフで見たと答えた。

裁判長:いつのことですか。

ラングヘルト:19425月頃のことでした。ハリコフに勤務する途中でした。

裁判長:「ガス車」はどのようなものでしたか。

ラングヘルト:私の記憶しているところでは、「ガス車」は、後部に気密ドアを持つ、暗い灰色の車両です。

裁判長:この車は何名を積むことができましたか。

ラングヘルト:6070名ほどです。

裁判長:ハリコフでは、どのような状況のもとで、この車を見たのですか。

ラングヘルト:チェルニスケフスキイ通り76SD本部にいたところ、恐ろしい騒音と叫び声を耳にしました。

裁判長:何が起こったのですか。

ラングヘルト:そのとき、ガス車が建物の入り口のところにやってきて、ドイツ軍兵士が車のドアのところに立っているなかを、人々が車に押し込まれていました。

裁判長:ガス車に人々が押し込まれているところにいたのですね。

ラングヘルト:はい。ガス車から数歩のところにいて、何が起こっているのかを見ました。

裁判長:人々がどのようにしてガス車に積み込まれていったのか話してください。

ラングヘルト:ガス車に積み込まれた人々の中には、老人、子供、老婦、若い女性がいました。彼らは自分の意志では車に乗り込もうとしなかったので、SS隊員が足蹴にしたり、自動小銃の銃床で殴りつけて、彼らをガス車に押し込みました。

裁判長:なぜ彼らは自分の意志では車に乗り込もうとしなかったのですか。この車のことについて知っていたのですか。

ラングヘルト:自分たちを待ち受けている運命を知っていたのだと思います。

裁判長:車に積み込んでいるとき、誰が指揮していましたか。

ラングヘルト:そこにいた人物をまったく知りませんでしたので、特定の名前をあげることはできませんが、いずれにしても、全員がSS隊員でした。ガス車の近くに、知人がいました。ドイツ軍の大尉です。

裁判長:なんという名ですか。

ラングヘルト:ボイコフ大尉です。

裁判長:占領下のソ連領のどの町で、ソ連市民の絶滅のためにガス車が使われましたか。

ラングヘルト:ボイコフ大尉から聞いたところでは、ハリコフ、ポルタヴァ、キエフといった占領下のソ連領の大都市の大半で、この種のガス車が使われました。

裁判長:予備尋問で証言していますが、スモレンスクでもガス車が使われたことを知っていましたね。

ラングヘルト:はい、ガス車がスモレンスクでも使われたことを耳にしたことがあります。

裁判長:誰の命令ですか。

ラングヘルト:SS隊員がガス車を使っていたので、政府の命令に違いありません。」[6]

 

J        ソ連政府が「宣伝」のために発行した裁判記録『人民の判決』には、こうした話が満ち満ちています。

K        では、ソ連はこうした「自白」や「証言」をどのように引き出したのでしょうか。コーゴン、ラングバインの『民族主義者の大量殺戮』の共同編者であり、1960年代の「民族社会主義者裁判」で検事をつとめたリュッケルルでさえも、「自白は飢餓やときには拷問を使って引き出され、これらの自白がソ連の軍事法廷の公判の土台となった」と述べているのです。

L        さらに、ソ連崩壊後、ロシアの裁判所は、1930年代の粛清裁判での被告の名誉回復を進めると同時に、戦時中の戦争犯罪裁判で断罪されたドイツ軍兵士の名誉回復も行なっています。

M        技術的観点からすると、非常に不可解なのは、最初は、一酸化炭素ボンベを積載したガス車が使われていたが、東部占領地区でそれを使用するには、「一酸化炭素ボンベをソ連まで輸送するのは不可能」なので(○○氏の記述)、「一酸化炭素の瓶は、占領下ソ連で使うには、値段が高すぎ、取り扱いが厄介」なので(ヒルバーグの記述)、排気ガスを車両に引き込む新型の「ガス車」が開発されたという点です。

N        なぜならば、ドイツは、石油燃料の節約のために、おもに木材を使った(石炭、コークスを使うこともある)「ガス発生器」を備えた「ガス発生車(Generatorgaswagen)」――たんに、「ガス車(Gaswagen)」とも呼ばれた――を大量に使用しており、殺人のために一酸化炭素が必要であれば、この「ガス発生車」の「ガス発生器」から、簡単に18%/vol.から35%/volの一酸化炭素を作り出すことができたからです[7]

ザウラー社製のガス発生車(形式5BH

O        つまり、ヴィトマンやネーベたちは、○○氏やヒルバーグの記述にあるように、苦労して実験を行なう必要などまったくなかったのです(この点はホロコースト正史に登場する、ディーゼルの排気ガスをつかった「一酸化炭素ガス室」にもあてはまります)。

 

 

結論

@         ○○氏の「ガス車」開発に関する記述は、ヒルバーグなどの従来のホロコースト正史の記述とまったく同一です。

A         物的証拠、文書資料的証拠をまったく欠いた「殺人ガス車物語」は、ドイツによるカチン事件の暴露にうろたえたソ連が行なった対抗「虐殺宣伝」に起源を持っています。

B         ○○氏は、そうした「殺人ガス車物語」の歴史的背景に言及せずに、ソ連の「虐殺宣伝」に由来する目撃証言を無批判的に引用して、あたかも「ガス車」が「歴史上の事実」であるかのように、記述しています。

 

 

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[1] 『ホロコーストの力学』、青木書店、2003年、161162頁。

[2] ラウル・ヒルバーグ、望月その他訳『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』、柏書房、1998年。上巻、256

[3] 同上書、巻末脚注47頁。ここではC. Browning, Fateful Monthと○○氏の典拠文献、(1)(2)が「ガス・トラックの開発についての」参照文献としてあげられています。

[5] Ingrid Weckert, The Gas Vans: A Critical Assessment of the Evidence, Gauss, Ernst, Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of 'Truth' and 'memory', (Ed.), Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000, online http://www.codoh.com/found/fndwagon.html、(その試訳)。

[6] The People’s Verdict, A full Report the Proceedings at the Krasnodar and Kharkov German Atrocity Trials, L., NY., Melbourne, 1944, pp. 65-66.

[7] 詳しくは、Friedrich Paul Berg, The Diesel Gas Chambers: Ideal for Torture - Absurd for Murder, Gauss, Ernst, Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of 'Truth' and 'memory', (Ed.), Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000, online: http://www.codoh.com/found/fndieselgc.htmlその試訳)を参照してください。