<質問04>
あなたは、ユダヤ人絶滅を支持したヒトラーの命令、もしくは彼の管轄下の部局からの命令が存在したことを否定していますね? また、絶滅決定が通知されたとされる1942年1月20日のヴァンゼー会議議事録の信憑性に疑問を呈しておられますね?
<回答>
最初の質問に関して、2つの基本的な立論をしておきます。
第一に、ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅せよとの文書資料、命令、全体計画はまったく存在していません。
ホロコースト正史の古い説明は、命令は口頭でなされており、残っている数少ない文書もナチスによって破棄されてしまったので、このような命令は存在していないというものでした。今では、この説明は、一方では、ホロコースト正史派の中の「機能派」によって、他方では、プレサックの研究によってしりぞけられています。
機能派は、決定的な行為としての決定や命令という概念自体を否定し、ホロコーストをもたらしたとされるプロセスを、カリソマ的合法的人物としての総統の周囲に結集しているさまざまな対抗勢力と潮流の合意にもとめています。この場合には、特別な絶命命令がヒトラーからのたんなる「黙認」と代わっています。ミュンヘンの現代史研究所前所長マルティン・ブロシャートは、ブローニングが指摘しているように、「ヒトラーは決定的な決定を下しておらず、最終解決の全体命令を出してもいなかった」という論理的な結論に達しています。[1]
アウシュヴィッツ建設局は、アウシュヴィッツの焼却棟や「ガス室」の設計・建設に責任をおった部局ですが、その文書がソ連側に「現存」しています。しかし、これらの文書(プレサックによるとモスクワに80000の文書が保管されており、それらをプレサックは検証したという)には、ユダヤ人絶滅の全体命令や計画に関する1つの文書も存在していません。
第二に、ナチスのユダヤ人移住政策は、移住が禁止された1941年10月23日まで、重大決定によって追及されていました[2]。このことは、ユダヤ人を絶滅する意図があったということと明白に矛盾していますし、さらには、ナチスのユダヤ人移住政策自体が、ユダヤ人絶滅の全体計画が存在したということと矛盾しています。
歴史家ブローニングはこの点について次のように書いています。
「ヒトラーは、移住を促進しようとするナチスのユダヤ問題専門家の努力と彼らの大量再定住計画を容認しただけではなく、奨励さえもした。このような振る舞いを、西ヨーロッパのユダヤ人を殺戮しようとする意志が長期にわたって存在したという仮説と両立させることは難しい。」
そして、ブローニングは次のように断言しています。
「ナチスが1941年まで行なっていたユダヤ政策は、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅という、十分に考え抜かれた計画や願望が長期にわたって存在したという説を正当化しない。」[3]
しかし、ここで、ホロコースト正史派の歴史学が解決していないもうひとつの問題が生じます。旧来の説明ではないとしても、やはり、総統命令は神秘的で、理解しがたいものです。ヒトラーは1941年10月までは、ユダヤ人について、移住・再定住政策を追及し、そのあと突然に、まったくもっともらしい理由なしで、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅を決定し、そして、もともとは1941年12月9日に予定されていた[4]ヴァンゼー会議を介して、急いで自分の決定を当該部局に伝えたということになるからです。
ヴァンゼー会議の議事録の信憑性については、否定したことはありません。しかし、この議事録の本当の意味は、その全文を読み、歴史的文脈の中に置けば、明らかです。ホロコースト正史派の歴史学は、このような基本的な歴史学の基準をいつも軽視してきました。
この文書では、保安警察長官兼保安機関長官ハイドリヒはまず、ナチスのユダヤ政策の基本的諸段階をまとめ、次に、ドイツ政府が、さまざまな困難にもかかわらず、1941年10月31日までに、旧ドイツ帝国領、オーストリア、ボヘミア・モラヴィア総督府から537000名のユダヤ人を移住させることに成功したと指摘しています。
そして、議事録はこう続けています。
「一方、SS全国指導者兼ドイツ警察長官[ヒムラー]は、戦争中の移住の危険、および東部地区への移住の可能性を考慮して、ユダヤ人の移住を禁止した。今後は、ユダヤ人問題の解決を一段と進める処置として、従来のごとく移住せしめるかわりに、あらかじめ、総統の許可を得た上で、ユダヤ人を東部地区に移送すること。この措置は、来るべきユダヤ人問題の最終解決において重要な意味を持つであろう実際的経験を集めるために意図されている、たんなる一時しのぎの解決とだけ考えられるべきであろう。」[5]
1942年2月10日の外務省からの情報書簡は、ヴァンゼー会議の意味をまったく疑いの余地なく明らかにしています。
「1940年8月、私は、私の部局が作成したユダヤ人問題の最終解決のための計画を発送した。それによれば、講和条約において、フランスにマダガスカル島を求めることが必要であるが、実際の課題の実行は国家保安本部にゆだねられるべきであるという。この計画を調整するにあたって、上級集団長ハイドリヒが、ヒトラーからヨーロッパのユダヤ人問題解決の実行を委任された。一方、ソ連との戦争のために、ほかの地域を最終解決のために利用することが可能となった。このために、総統は、ユダヤ人をマダガスカルにではなく、東部地区に追放すべきであると決定した。だから、マダガスカルを最終解決に予定すべきではない。」[6]
この文書も、有名な「最終解決」が再定住計画に他ならなかったことを明確に明らかにしています。
数年前、イスラエルの歴史家イェフダ・バウアーは、伝統的な歴史学の説明を「古い馬鹿げた物語」と呼んで[7]、この説明にととめの一撃を加えました。しかし、フリードレンダーが指摘しているように、機能派のハンス・モムゼンは、「ヴァンゼー会議は絶滅計画に関与するような議論を行なっていない」[8]という結論にすでに到達していたのです。
最近では、プレサックがこの説明をさらに否定しています。
「1月20日、「ヴァンゼー会議」と呼ばれる会議がベルリンで開かれた。ユダヤ人を東部地区に移送するという作戦が計画され、そこでは、労働によって幾分かのユダヤ人が『自然に』清算される可能性が含まれていたとしても、工業的な大量清算について語った者は誰もいなかった。この会議に続く日々、週、アウシュヴィッツ建設局は、工業的な大量清算という目的のための施設を計画することを要請する呼び出し、電報、書簡をまったく受け取っていない。」[9]
[1] Colloque de l’Ecole des Hautes Etudes en sciences socials, L’Allemagne
nazie et le génocide juif. Gallimard-Le Seuil, p. 1985, p. 191.
[2] T-1209
[3] L’Allemagne nazie et le génocide juif , op. cit. p. 195
[4] PS-709; NG-2586-F
[5] NG-2586-G, p. 5
[6] NG-5770
[7] Canadian, Jewish
News,
[8] L’Allemagne nazie et le génocide juif , op. cit. p. 24
[9] Jean-Claude Pressac, Le machine dello sterminio,