試訳:焼却棟TのチクロンB投下穴問題
C. マットーニョ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2007年10月13日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno,
The Openings for the Introduction of Zyklon B – Part
1: Crematorium I, The Revisionists,
2004, vol.4を「焼却棟TのチクロンB投下穴問題」と題して試訳したものである(文中マークは当研究会による)。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 online: http://vho.org/dl/tr/4_04.pdf [歴史的修正主義研究会による解題] 今日、見学者に展示されている焼却棟Tの死体安置室の屋根にある4つの「チクロンB投下穴=塔」が、戦後、ポーランド当局によって作られたものであることは広く認められている事実である。マットーニョは、そもそもこのような「チクロンB投下穴」が存在した痕跡は、文書資料的にも、建築学的にもまったくないことを明らかにしている。そして、チクロンBの投下手段がなかったとすれば、ガス処刑もあり得なかったのである。 |
1.
焼却棟Tの改築(1944-1947)
1944年7月16日、SS上級大将ポールは、アウシュヴィッツを訪れているときに、「守備隊外科医のために旧焼却棟の中に対ガス手術室と掩蔽強化シェルターを設置すること」(1)を認めた。これが建築現場BW98Mとなった。
(1) Letter from SS-Sturmbannfuhrer Bischoff to
Central Construction Office of October 17, 1944. RGVA, 502-2-147, p. 124.
1944年8月26日、「防空隊長」SS中尉ハインリヒ・ヨシュテンは、「旧焼却棟を防空用に改築する」(2)件について収容所長に手紙を書いている。
(2) RGVA,
502-1-401, p. 34.
「旧焼却棟の改築。手術室付きのSS病院用の防空シェルター」(図面4287号)と題するプロジェクトは、1944年9月21日に作成された(3)。
(3) RGVA,
502-2-147, p. 20. Cfr. J.-C. Pressac, Auschwitz:
Technique and operation of the gas chambers. The Beate
Klarsfeld Foundation, New York 1989, p. 156 資料2参照
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資料2:旧焼却棟の改築。手術室付きのSS病院用防空シェルター。1944年9月21日の図面4287号、RGVA, 502-2-147, p. 20 |
1944年10月17日、「シュレジエン」武装SS警察建設監督局長カール・ビショフSS大佐は中央建設局に手紙を書いて、「事態の緊急性にかんがみて」、通常の役所的な形式上の手続きをとることなく、すぐに作業に着手するように求めている(4)。
(1) Letter
from SS-Sturmbannfuhrer Bischoff to Central Construction Office of October 17,
1944. RGVA, 502-2-147, p. 124
1944年11月2日、中央建設局長ヴェルナー・ヨハンは「説明ノート:上部シュレジエン・アウシュヴィッツ強制収容所の旧焼却棟を手術室を持つSS病院用の防空シェルターに改築することBW98M」を作成している(5)。
(2) RGVA,
502-2-147, p. 125.
同日、彼はまた、「上部シュレジエン・アウシュヴィッツ強制収容所の旧焼却棟を手術室を持つSS病院用の防空シェルターに改築するBW98Mコスト見積もり」――総額4300ライヒス・マルク(6)――を作成し、「SS病院用防空シェルター建設現場スケッチ」(7)も描いている。作業は11月後半に完了した。
(3) RGVA,
502-2-147, pp. 126-126a.
(4) RGVA,
502-2-147, p. 122.
1942年4月10日の図面1241号によると、焼却棟Tには17×4.60mの死体安置室、それに隣り合う4.17×4.60mの「洗浄室」、4.10×4.60mの「死体配置室」があった(8)。
(5) RGVA,
502-2-146, p. 21. 資料1参照。
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資料1:Inventory plan of building no. 47a. B.W. 11.
Crematorium. Plan no. 1241 of April 10, 1942. RGVA, 502-2-146, p. 21. この図面は、この建物が殺人ガス処刑用に使われていたとされているときのものである。注目点:死体安置室(「ガス室」)と炉室との間のドアは双方向のスウィング式である。このドアはガス気密でもなく、パニック状態の犠牲者の圧力に耐えることができるものでもないので、ガス室のドアではありえない。 |
ホロコースト正史によると、この死体安置室は、1941年9月までに、二つのガス気密ドアを設置し、チクロンB投入用の穴を平屋根に開けることによって、殺人ガス室に改築されたという。しかし、穴の数は証言ごとにまちまちである。
事実、この穴の数は、スラニスワフ・ヤンコフスキ(9)とハンス・シュタルク(10)によると二つ、ペリー・ブロード(11)とフィリップ・ミューラーによると六つであった(12)。ヘスはと言えば、彼の裁判の中の、1947年3月12日の審理で、一つの穴について証言している(13)。
「ガス処刑はこう行われました。穴[単数]が天井に開けられ、それを介して、クリスタル結晶状のガスが投げ込まれました。」
(9)“Aussage von Stanisaw
Jankowski (Alter Feinsilber),” in: Inmitten
des grauenvollen Verbrechens. Handschriften von Mitgliedern des
Sonderkommandos, Hefte von Auschwitz, Sonderheft I,
Verlag des Staatlichen Auschwitz-Birkenau Museums, 1972, p. 42.
(10)Interrogation report, Hans Stark,
Cologne, April 23, 1959. ZStL,
Ref.:
AR-Z 37/58 SB6, p. 947.
(11)“Erinnerungen von Perry Broad,” in: Hefte
von Auschwitz,
Wydawnictwo Pastwowego Muzeum w Owiciumiu, 9, 1966, p. 31
(12) F. Muller, Sonderbehandlung.
Drei Jahre in den Krematorien und Gaskammern von Auschwitz. Verlag Steinhausen, Munich
1979, p. 62.
(13)AGK, NTN, 105, pp. 110-111.
最後に、建設作業に従事したと称する、したがって、その数、サイズ、形、位置について熟知していたはずの囚人チェスワフ・スウコフスキは、穴の数についてはまったく知らない。1971年9月28日の陳述の中では、次のように、あいまいに述べているにすぎない(14)。
「私たちは最初、焼却棟の炉の設置に取りかかりました。私自身は、最初のソ連軍捕虜がガス処刑された死体安置室の天井に穴をあけました。これらのロシア人が連れてこられたとき、彼らのことを目にしました。彼らは、現在のホテルと焼却棟の間にあったブロック長の家の近くの通りに立っていました。裸でガス処刑を待つ数百名の集団でした。私はSS隊員[複数]が穴[複数]」から死体安置室にガスを投げ込むのを目撃しました。」
(14)APMO, Owiadczenia,
t. 74, pp. 6-7.
1944年9月21日の図面4287号(資料2)にもとづいて、焼却棟を防空シェルターに改築する作業は、三つの隔壁を使って死体安置室を四室に分割することで行われた。南側にある最初の部屋――エアーロック(気密室)――には、外からの入り口が開けられ、2×2mの小さな玄関口(ロビー)が設置された。さらに、焼却棟へのおもな入り口の後ろにあった「前室」は隔壁によってふさがれ、3.87×3.45mのもう一つのエアーロック(気密室)を作るために、他の壁も強化された。
前述のヨシュテンの手紙によると、「7つのガス気密・掩蔽強化ドア」(15)の設置が計画されていたが、1944年11月2日のヨシュテンの見積もりでは「6つの通常ドア」(16)となっている。収容所当局は、経済上の理由から、二つのエアーロック(気密室)――現存している――の二つの「ガス気密・掩蔽強化ドア」だけを設置させたのである。6つの隔壁には通常のドアが設置され、二つの小さな部屋=「乾燥[化学的]便所」には、図面4287号によると70×200cmの二つのドア、ヨシュテンの1944年8月26日の手紙では「70×200cmの二つの通常ドア」(17)が設置された。だとすると、「殺人ガス室」の二つの「ガス気密」ドアはどうなったのであろうか?うち一つは、すなわち、死体安置室と炉室の間にあったドアは、(それがあった開口部が壁で埋められたために)取り除かれ、二度と使われなかったことになっている(18)。洗浄室と配置室の間にあったもう一つのドアは、取り除かれて、通常のドアに置き換えられた(19)。何と、すべてのドアが「ガス気密・掩蔽強化ドア」でなくてはならないガス気密防空シェルターおいてこの有様である!。
(15)RGVA, 502-1-401, p. 34.
(16)RGVA, 502-2-147, p. 12a.
(17)RGVA,
502-1-401, p. 34.
(18)ドアのなかった気密室の小さな前室に論理的な場所を発見したに違いない。今日では、ここには軽い木製ドアがある。
(19)今日のドアには窓も付いている。資料14参照。
言うまでもないことであるが、収容所が解放されたときに、「殺人ガス室」の二つのガス気密ドアについてのわずかばかりの痕跡も発見されておらず、それが実在したという痕跡も、中央建設局の文書資料にはまったくない。
1946年から1947年にかけて、ポーランド人は、「殺人ガス室」の「オリジナル状態」を再建しようとして、上記の3つの隔壁だけではなく、死体安置室と洗浄室を隔てていた隔壁までも取っ払ってしまった。そして、この出来上がった空間に、4つの穴――「チクロンB投下穴」――を作り、そこに、蓋のついた木製の枠をはめ込んだ(資料11、12を参照)。このために、今日、焼却棟Tの「ガス室」の長さは21.32mであり、もともとの部屋の長さよりも4.32m長い。さらに、ポーランド人は炉室と死体安置室を結ぶドア(SSが壁で塗り込めていた)を再度設置したが、それはもともとの場所から半メートルずれており、粗雑な形状であった。
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資料11:死体安置室の屋根の写真、4つの塔すべては、戦後、ポーランド人によって作られた。 |
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資料12:死体安置室の屋根の写真。戦後、ポーランド人が作った4つの塔のうちの一つ。 |
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資料13:死体安置室の天井の写真。戦後、ポーランド人が作った4つの塔のうちの一つ。 |
1.
チクロンB投下穴なるもの
2.1 プレサックの解釈
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資料6:スタニスワフ・ルチコが(おそらく、1945年5月に)撮影した焼却棟Tの屋根。1、2、3、4:屋根葺きフェルトの上の長方形上のダーク・スポット。 |
1989年、プレサックは、おそらく1945年5月に、スタニスワフ・ルチコが撮影した写真の一枚を公開した(20)。そこには、焼却棟Tの平屋根が写っている。フランス人歴史家はこの写真に「旧焼却棟の屋根でのダンス」というキャプションをつけ、こうコメントしている(21)。
「南東から眺めた焼却棟Tの屋根の光景、1945年(5月?)煙突はまだ再建されていない。屋根には、
―炉室用の二つの換気塔(暗い柱頭をもつツートンカラー)
―二つの煉瓦の換気塔(新築のようなので、防空シェルターを換気するためであろう)
―さらに、二つの換気塔の左側に平行上に、チクロンB投下穴が埋められた3つの地点を見て取ることができる。死体安置室がガス室として使われたことを示している。
ハンマーと鎌の描かれた赤い星が圧倒的な印象を与えているステージの上にはポーランド国旗(左側)とソ連国旗(右側)がたなびいており、その上には装飾ランプが付けられている。
この写真は、1945年に、焼却棟Tの屋根の上でダンスパーティーが企画されたこと、人々が実際にガス室の上で踊ったことを証明している。このエピソードは信じがたいものであり、きわめて悲しむべきことであるが、その動機は知られていない。また、この写真は、今日の屋根葺きフェルトの覆いと屋根の周囲のとがった先端がオリジナルのものではないことを証明している。」
(20)APMO, sygn.
5149. 資料6参照.
(21)J.-C. Pressac, op. cit. (note 3), p. 149.
この説明は驚くべきものである。プレサックが、1941年に死体安置室の天井に3つの穴が開けられた根拠としているのは、1945年に撮影された写真だからである。この問題をもっと詳しく検証してみよう。
かつての囚人アダム・ズウオブニツキは、1981年11月18日の陳述の中で、次のように述べている(22)。
「この焼却棟の平屋根の上にあったチクロンB投下穴も再建されたものであることをよく覚えています(23)。オリジナルの投下穴の場所には、その穴がセメントでふさがれたのちにも、はっきりとした痕跡が残っていましたので、再建は簡単でした。まったく同じ場所に、穴が再び開けられ、小さな塔(24)が立てられたのです。この作業も、1946-1947年に行われました。」
(22)APMO, Owiadczenia,
t. 96, p. 59.
(23)この話の前に、焼却棟の煙突の再建が1946年末から1947年初頭の間に行われたと述べている。
(24)死体安置室の天井板に設置された小さな木製覆い
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資料3:死体安置室およびその左側の部屋の図面(オリジナル状態)。 A、B、C、D:現在の屋根の穴の位置 1、2、3、4:防空シェルターのオリジナル開口部の位置 T:炉室へのオリジナルドア T1:現在の炉室への入り口の位置 T2:現在の外部から入口 S:防空シェルターに改築された時に設置された、現在の玄関ホール |
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資料4:防空シェルター改築後の死体安置室およびその左側の部屋の図面。 A、B、C、D:現在の屋根の穴の位置 1、2、3、4:防空シェルターのオリジナル開口部の位置 T:炉室へのオリジナルドア T1:現在のドア(両方とも、防空シェルターとして使われるときに塞がれた) S1、S2:防空シェルターの換気塔の位置 |
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資料5:現在の死体安置室およびその左側の部屋の図面。 A、B、C、D:現在の屋根の穴の位置 1、2、3、4:防空シェルターのオリジナル開口部の位置 T:炉室へのオリジナルドア T1:現在のドア S1、S2:防空シェルターの換気塔の位置 |
戦後にポーランド人が再建した4つの穴=塔の位置は資料5に示されている。死体安置室の壁に平行な内側部分(A-B)と外側部分(C-D)である。穴=塔C、Dは外壁から82cm、Aは内壁から90cm、Bは85cmとなっている。だから、穴=塔は、それぞれ、2.4mの高さの地点のイレギュラーな平行四辺形の隅にあることになる。
興味深い点は、現状では、Dは外部へのドアのある壁から5.10mの地点、Cは洗浄室と配置室を隔てる反対側の壁から7.10mの地点、Bは位置口近くの小さな玄関ホールの壁から7.10mの地点、Aは反対側の壁から5.10mの地点にあることである。
このような配置が意味を持つのは、現状の死体安置室に関してだけである。明らかに、穴=塔の配置は現在の「ガス室」の長さ21.3mを合理的に分割することによって決定されたのである。すなわち、AとDは壁から5.10m、BとCは7.10mの地点にある。奇妙なことに、Bの位置は外壁からではなく、玄関ホールを隔てる壁からの距離で決定されている。その結果、BはDに対して2mずれている。しかし、「オリジナル」とされている穴=塔が死体安置室の天井に穿たれた時点では、玄関ホールを形作る壁は存在していなかったが、その一方、死体安置室と洗浄室を隔てていた壁はまだ存在していた。つまり、今日の穴=塔の位置が意味を持つのは、焼却棟Tのこの部屋の今日の配置を念頭に置く場合だけに限られるのである。だから、これらの穴=塔はこの部屋のオリジナルな状態とはまったく関係がない。
死体安置室のオリジナル構造(資料3参照)を念頭に置くと、今日の穴の配置はまったくナンセンスである。Dは壁から5.10mの地点にあるが、Bは9.1mの地点にあり、Aは、洗浄室の壁からわずか0.7mの地点にあり、Cは2.8mほどの地点にあるからである。
さらに、このような配置であるとすると、死体安置室のうち洗浄室側に隣り合う左半分(広さ8.5m×4.60m=39.1u)にA、B、Cという3つの穴=塔があり、同じ広さの右半分にはなんとDだけがあることになり、このような配置がまったく不合理であることはいっそう明白となる。
プレサックの著作に掲載されている1945年の写真を見てみよう。3つの四角形のダーク・スポット(資料6の中の1、2、3)は、二つの煉瓦換気塔に平行であり、うち最初のもの(カメラに一番近い方)は、死体安置室の上部にある。さらに、最初のダーク・スポットは最初の塔(資料3-5の2)の右側にあるようだが、一方、アウシュヴィッツ博物館が再建したものにあっては、この換気塔(資料3-6参照)にもっとも近い「チクロンB投下穴」はその左側にある。もし、これらのダーク・スポットが「チクロンB投下穴」の痕跡であり、目撃証人ズウオブニツキが述べているように、現在の穴はオリジナルの穴のあった痕跡の上に作られたものであるとすれば、なぜ、今日、ダーク・スポット1のある場所になぜ穴がないのであろうか?それどころか、アウシュヴィッツ博物館は、写真にはダーク・スポットがない地点に穴を作らせてしまっている(資料3-5のC)。
焼却棟がSS病棟用防空シェルターに改築されたとき、その作業工程表には、「暖房炉、吸・排気システム用のパイプと壁の穴を設置すること」、さらに、もっとはっきりと「5つの壁の穴の設置」とある(25)。
(25)“Kostenuberschlag zum Ausbau des alten Krematoriums als
Luftschutzbunker fur SS-Revier mit einem Operationsraum im K.L. Auschwitz O/S – BW 98 M,” RGVA, 502-2-147, p. 126.
しかし、死体安置室周囲の壁には穴の痕跡はない。さらに、外壁は土塁で覆われていたし、今日でも覆われている。後部の壁もそうであり、ただ、土塁から入口に入る狭い通路だけが覆われていない。一方、前部の壁はまったくむき出しで、死体安置室側に窓が一つあるにすぎない。最後に、死体安置室と炉室の間の壁にも穴の痕跡はなく、いずれにしても、暖房用のパイプや換気装置のために、この場所に穴をあけるのは意味がない。
だから、前記の資料に登場する5つの穴が開けられた場所は、防空シェルターに改築された部屋の天井であったに違いない。
今日の死体安置室の天井には、二つの四角形の換気塔、一つは旧配置室の隅(のちに手術室となる、資料4、5のS1)、もう一つは入り口からみて二番目の防空シェルター室の隅(S2)がある。その位置からみても、この塔は建物が防空シェルターに改築されたときに付け加えられたと推定される。
この二つの塔に加えて、粗雑に穿たれた4つの丸い穴の痕跡を見ることができる(26)。もともと、直径35cmほどであった。対応する痕跡は(入口のある)後部の壁から1m、7.2m、8.5m、18.30mの地点、死体安置室と炉室の壁から1.0m、1.4mの地点にある(資料7-10参照)。
(26)もともとは配置室であり、今日では、Trzebinia
の焼却棟のコリ社製オイル燃料炉が保管してある部屋は見学者に公開されていない。だから、その天井に穴の痕跡があるかどうか確定できない。
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資料7:旧死体安置室の一部である玄関の穴1 |
資料8:死体安置室の屋根の穴2 |
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資料9:死体安置室の屋根の穴3 |
資料10:死体安置室の屋根の穴4 |
死体安置室の長さは17mなので、四番目の穴は、1942年の時点では、死体が洗われた部屋(洗浄室)であった部屋の天井にあることになる。これが、これらの穴が「チクロンB投下」装置とは全く関係のない第一の証拠である。さらに、形が四角ではなく、円形であるというのが二番目の証拠である。
それゆえ、問題の天井にはオリジナルの穴が6つあり、そのうち4つはセメントで塗り込められていることになる。しかし、前述の資料には、穴は5つだけ付け加えられることになっている。
別の資料から判断すると、死体安置室が死体安置室として実際に使われているときに、その天井には一つの換気穴があったと推測しうる(27)。そして、穴1がこの換気穴であったと思われる。合理的な設計であれば、長い部屋の換気穴はその部屋の末端に設置されるはずであろうし、穴1のある区画は、防空シェルターに改築されるときに、換気口のいらない玄関に変えられたからである。
(27)C. Mattogno, Auschwitz:
Crematorium I, Theses & Dissertations
Press,
Chicago, in preparation, docs. 2 and 9; RGVA, 502-1-327,
pp.
191f., 502-1-312, p. 111.
2.2 THE HOLOCAUST HISTORY PROJECTの解釈
最近、THE HOLOCAUST HISTORY PROJECTのメンバー三名、すなわち、Daniel Keren、Jamie McCarthy、Harry W. Mazalは、「焼却棟Tのガス室、とくにチクロンBの穴についての広く広まっている誤解を正す」(28)ために、プレサックが掲載している写真を引っぱり出している。
(28)D. Keren, J.
McCarthy, H.W. Mazal, The Ruins of the Gas Chambers: A
Forensic Investigation of Crematoriums at Auschwitz I and Auschwitz-Birkenau,
in: “Holocaust and Genocide Studies”, vol. 9, n.
1, spring 2004, pp. 97-99.
マザルたちでさえも、穴3と4の痕跡が、プレサックの掲載する戦後の写真にある四角形のスポットと対応している可能性を除外している。穴の痕跡は円形だからである(29)。
(29)Ibid., p. 98.
「その他二つの地点で穴は塞がれているが、それらは円形の換気口であった。」
マザルたちは、焼却棟の屋根にはチクロンB投下用の穴がもともとは5つあったと主張しているが、これはどの目撃証言とも食い違っている。マザルたちは、焼却棟の屋根の屋根葺きフェルトの上に第四のダーク・スポットの痕跡がみとめられる(資料6のスポット4)と主張しているが、プレサックはこのスポットについてまったく気にも留めていない。ついで、彼らは、戦後にポーランド人が作った5つのチクロンB投下穴=塔のうちの4つは、前述のダーク・スポットのある場所に正確に打ち込まれたと主張し、それらをZ3[=資料6では3]、Z2[=2]、Z4[=4]と名づけた。ダーク・スポットZ1[=1]は開けられることなく、一方、彼らがZ3とZ2の間に置いているダーク・スポットZ5は写真には写っていないという。
マザルたちは穴Z1の痕跡を死体安置室の天井に発見したと主張し、その写真を掲載している(30)。それは、私が穴2と呼んでいるものの残滓である。だが、マザルたちも認めているように、四角形ではなく円形であり、Z1の場所にはなく塔Bから2mほど離れたところにある(資料3-5、8参照)。
(30)Ibid., figure
31 on p. 92.
ダーク・スポットZ1は、ダーク・スポットZ4の垂直線上にあり(資料6参照)、現在の穴Dの前、A-B軸の延長線上にある(資料3−5参照)。死体安置室の天井のこの区画には、埋められた穴の痕跡はない。
したがって、死体安置室――現在のものであれ、以前のものであれ――の屋根には、ダーク・スポットZ1に対応する穴は存在していない。では、なぜ、ダーク・スポットZ2、Z3、Z4はこのような穴に対応しているのであろうか?
マザルたちは、焼却棟が防空「ブンカー」に改築されたとき、「チクロンB投下穴」が再び塞がれたと主張しているが(31)、ピぺルの議論(32)に依拠したこの主張は文書資料的証拠を欠いており、ひいては、前述の1944年11月2日のコスト見積もりによっても否定されている。この見積もりは、どんなものであれ、穴を塞ぐことについて言及していないだけではなく、すでに指摘したように、壁、すなわち天井に5つ穴を開けることを特記しているからである。
(31)Ibid., p. 97.
(32)F. Piper, Gas
Chambers and Crematoria, in: Yisrael Gutman and Michael
Berenbaum Editors, Anatomy of the Auschwitz Death
Camp. Indiana University Press, Bloomington and Indianapolis,
1994, p. 177 note 16: 「焼却棟Tが防空シェルターに改築されたとき、穴は塞がれた。」
また、マザルたちは化学的証拠についても触れている(31)。
「クラクフ法医学研究所の法医学的調査が明らかにしたように、部屋の壁には、収容所のその他のガス処理施設と同じように、シアン化合物を依然として検出することができる。」
彼らがここで言及しているのは、マルキエヴィチ、グバラ、ラベヂによる「アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所のガス室の壁に含まれているシアン化合物についての研究」(33)のことである。「ガス室」から採取された7つの建設資材サンプル(16-22)のうち、3つがネガティブ(18、19、21)、その他が最大で292μg/sの分析結果を示した(34)。ポーランド人科学者たちは化学的分析の対象からプロシアン・ブルーを除外する(このために、彼らが算出した数値は、ルドルフやロイヒターに比べて著しく低い)という奇妙な決定を行っているが(35)、そのことはさておいて、ポーランドの化学者たちの方法のもう一つの問題点は、サンプルを採取した場所を具体的に明示していないことである。
(33)Z Zagadnie
Nauk
Sdowych,
z. XXX, 1994, pp. 17-27.(クラクフ法医学研究所報告(試訳と評注))
(34)Ibidem, table
III on p. 23.
(35)Cf. Rudolf’s
critique, The Rudolf Report, Theses &
Dissertations Press, Chicago, IL, 2003, pp. 270-273.
ロイヒターは明示している。彼の報告(36)の付録V、すなわち焼却棟Tの図面には、現在の死体安置室からサンプルを採取した7つの場所が記載されている。そのうちの一つサンプル28からは、1.3mg/kgが検出されているが、その数値は、一つを例外として、他のサンプルと同程度の数値である(37)。しかし、もともと死体安置室であったスペースから採取されたこれらのサンプルとは異なり、(Enrique Aynatがすでに指摘しているように)、サンプル28は、もともと死体安置室ではなく、したがって、「ガス室」ではない配置室と洗浄室を隔てる壁から採取されている。
(36)Fred A.
Leuchter, An Engineering Report on the Alleged Execution Gas
Chambers at Auschwitz, Birkenau and Majdanek, Poland.
Fred A. Leuchter, Associates, Boston, Massachusetts, 1988.(試訳:「ロイヒター報告」(ルドルフによる注釈つき))
(37)In order, the values are as follows: 1.9,
1.3, 1.4, 1.3, 7.9, 1.1 mg/kg
それゆえ、サンプル28にシアン化合物が検出されたことは、そこで殺人ガス処刑が行われたためではなく、通常の害虫処理が行われたためである(もしくは、分析対象としては、不確定な数値、変動が起こりうる数値である)。
2.
結論
死体安置室の屋根に現存する4つの穴はオリジナルなものではなく、プレサックの掲載している写真に写っているダーク・スポットは、(スポットZ1に対応する天井の四角形の穴の痕跡は存在しないという事実が立証しているように)穴の痕跡ではない。
また、焼却棟の屋根の穴を塞いでも、このようなダーク・スポットを作り出すことはできない。砂モルタルとセメントで塞がれた穴の表面を平らにするには、穴よりも大きな木の板が必要なだけである。しかし、このようなダーク・スポットを作り出そうとすれば、モルタルで塞がれた穴の表面のセメントに苦労してひっかき傷をつけなくてはならないであろう。「穴」の痕跡を残すような作業は、煉瓦職人労務班がサボタージュを行うことを意味する。しかし、そのような危険を行なう囚人は誰もいないであろう。建物内部では、穴を塞いだ痕跡が死体安置室の天井に明白に残ってしまうからである。
屋根葺き作業を行なう囚人も、同じようにサボタージュを行なって、セメントの中の「四角のダーク・スポット」に正確にフィットさせるように屋根葺きフェルトを形作らなくてはならないだろう。
これらのダーク・スポットが作り出された理由ははるかに単純である。屋根葺きフェルトの縮みによって作り出されたのである。太陽光線のもとで柔らかくなった屋根葺きフェルトは、ソ連・ポーランド・ダンスパーティーで使われたセメントの花壇やその他の装飾品のような平らで重い物品が置かれた地点で、縮んだというわけである。このために、屋根葺きフェルトのひだが、端に沿って、わずかにくぼむのではなく、際立ったものとなっている。
3.
要約
1. 「チクロンB投下穴」が焼却棟Tの死体安置室に存在したという証拠は一つもない。
2. 死体安置室が二つのガス気密ドアを備えていたという証拠は一つもない。
3. これらのドアは、焼却棟がガス気密防空シェルターに改築されたときに、SSによって取り除かれ、二つの通常のドアに取り換えられたという話となっているが、これは、論理的な計画性とはまったく矛盾している。
4. 死体安置室の壁に存在するシアン化合物の痕跡は、この部屋が殺人ガス室として使われたことを立証しているわけではない。
5. 戦後、ポーランド人が作った穴の数(4個)は、目撃証言とは一致していないし、Holocaust History Projectのメンバーがあげている数字(5個)とも一致していない。
6. 穴の位置、チクロンB投下塔の構造と大きさ双方についてのポーランド人による「再建」は、文書資料にも目撃証言にももとづいていない。
7. プレサックの掲載する焼却棟Tの屋根の写真に写っている4つの四角形のダーク・スポットが、のちに塞がれた穴の痕跡であるという証拠は一つもない。それどころか、ダーク・スポット1に対応する痕跡は死体安置室の天井には存在しない。
8. 現存する塞がれた穴の痕跡は円形であり、それは、焼却棟が防空シェルターに改築されたことに関連しているに違いない。
9. ポーランド人が作った穴が意味を持つのは、幾何学的にいえば、現在の状態の死体安置室を念頭に置く場合だけに限られる。しかし、オリジナルな状態を念頭に置くと、まったく不釣り合いであり、非合理的である。このことは、ポーランド人が作った穴が、オリジナルの「穴」とはまったく関係がないことを立証するさらなる証拠である。