試訳:マイダネク裁判
J. グラーフ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2007年10月16日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Jürgen Graf
and Carlo Mattogno, CONCENTRATION CAMP MAJDANEK A
Historical and Technical Study, Theses & Dissertations Press, Chicago,
2003の第10章を試訳したものである(文中のマークは当研究会による)。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 (online: http://vho.org/dl/ENG/ccm.pdf) |
第10章:裁判
1944年から1981年までのあいだ、ポーランド、連合国、西ドイツの法廷は、マイダネクの看守であった人々に法的措置をとった[1]。そうした裁判のうち、歴史学的な関心の対象に値するのは二つだけである。1944年11月27日から1944年12月2日という短期間で性急に行われたルブリン特別法廷での6名の収容所看守に対する裁判とデュッセルドルフでのマイダネク裁判(1975-1981)である。この二つの裁判を詳しく検証してみよう。
1. 1944年末のルブリン裁判
1944年10月26日、マイダネクで働いていた4名のSS隊員と2名のカポーに対する囚人の殺人と虐待の告発が、ルブリン特別法廷にもちこまれた。裁判は同年11月27日-12月2日に開かれ、SS隊員ヘルマン・フォーゲル、ヴィルヘルム・ゲルシュテンマイアー、アントン・テルネス、テオ・シェーレンおよびカポーのハインツ・シュタルプに死刑判決が下された。6番目の被告、カポーのエドムンド・ポールマンは裁判前拘束中に自殺したという。判決は速やかに執行され、12月3日、絞首刑が行われた。
当時の状況のもとでは、法の支配のもとにある裁判など不可能であった。ドイツ占領軍が撤退し、厳しい外国の支配が終わったのはわずか4カ月ほど前であり、戦争はまだ、ポーランド各地で荒れ狂っていたからである。ルブリン市およびその周辺の住民の多くは収容所で家族を失なったり、自分自身が収容所体験を持っていた。さらに、マイダネクが解放されると、そこでは150万人の犠牲者が殺されたという情報が急速に広まり、焼却棟、「ガス室」、発見された死体の写真が、戦略的宣伝目的でフルに利用された。
人々は、復讐を求めて絶叫した。この憤激の嵐の中では、被告たちにはチャンスはほとんどなかった。もちろん、今となっては、彼らが本当にそのような犯罪に関与したのかどうかを調べることは容易ではない。このSS隊員やカポーが誰であっても、不運にも、これらの男たちと同じような状況に陥れば、間違いなく同じような処罰が課せられるであろう。有罪であるにせよ、無罪であるにせよ、検事側は思いのままの証人を簡単に見つけ出すことができたし、自分たちの望む自白を引き出すのも難しくはなかった。
判決理由を読めば、囚人席に座っているこれらの被告たちが、民族社会主義ドイツのみならず、ドイツ全体の身代わりであったことがはっきりと分かる[2]。
「この裁判は、アドルフ・ヒトラーが設立・完成・近代化・機械化したシステムの醜悪な性格をあますところなく明らかにした。そして、このヒトラーこそが、ドイツ騎士団の帝国主義的方策、ブランデンブルク選帝侯の方法、フリードリヒ大王の方法、ビスマルクの帝国主義、トライチュケのイデオロギーの正統なる継承者であった。戦争がはじまると、ヒトラー一派は、馬鹿げた人種理論、『支配民族』という教義、他の民族を犠牲にしても『生活空間』を獲得するというスローガンを実行に移し、ドイツ占領諸国で、地元住民を、まさに前代未聞の規模と方法で絶滅していった。占領当局に対する犯罪の咎で処分・処刑された犠牲者の数は、いわゆる死の収容所で起こった絶滅規模に比べると、些細なものである。実にマイダネクだけで、170万人が殺された。通常のいわゆる労働収容所、強制収容所、強制労働収容所は言うまでもなく、その他の11の死の収容所で死亡した人々の数を加えると、まったく途方もない犠牲者数となる。」
予備審問での証人尋問記録を読めば、この裁判のための「証拠」がどのように「集められた」のかが分かる[3]。
Q:名前は?
A:ベネン・アントン。
Q:国籍・民族は?
A:オランダです。
Q:収容所にはどれくらい?
A:1年。
Q:収容所での殴打や殺人については?
A:何回も殴られました。特別なやり方で吊り下げられ、殴られました。30分後、水の中に投げ込まれ、ふたたび殴られました。
Q:ソ連軍捕虜の状況は?
A:ガス室で窒息したり、射殺されました。
Q:何か話しておくことは?
A:あらゆることが、誰にも見られず、聞かれずというやり方で行われました。しかし、私は、600名の隊列が死に導かれていくのを目撃しました。
Q:マイダネクではどのような国籍・民族の人がいましたか?
A:ロシア人、ポーランド人、ユダヤ人ですが、それ以上は知りません。
Q:ガス室での殺人については?
A:人々はガス室の中で窒息死し、その後、死体が引きずり出されていったことを知っています。
Q:収容所では病気にかかりましたか?元気そうには見えないし、喉には絆創膏が張ってありますが?
A:4年も強制収容所にいました。食事が十分ではなかったので病気になりました。
Q:他にもオランダ人囚人がいましたか?
A:はい、大半がユダヤ人でした。もっとあとにここに移送されてきました。
Q:どんな収容所にいたことがありますか?
A:。オストブルク、ダッハウ、そして、ルブリンです。しかし、ルブリンが最悪でした。
Q:なぜ、ダッハウからルブリンに移送されたのですか。
A:徴兵されましたが、軍には入りたくありませんでした。そのために、拘束されたのです。
Q:現在、誰が世話をしてくれていますか?
A:ポーランド赤十字ですが、食料が十分ではありません。
これで証人尋問が終わり、マイダネクでの大量殺戮のもう一つの「証拠」、すなわち、被告人尋問に移る。予備尋問での被告人尋問も非常に性急に進められた。たとえば、SS伍長テオ・シェーレンの尋問は次のとおりである[4]。
Q:マイダネクにいたか?
A:はい、いました。
Q:強制収容所で起こったことすべてを知っているか?
A:実際に目撃したのは数少ないです。その他のことは話で聞いたことです。
Q:ガス処刑された人々のことを知っているか?
A:ガス処刑の多くは夕方に行われ、死体は焼却棟の炉で燃やされたことを知っています。
Q:ガス処刑はどのように行われたのか?
A:私は死体を見ただけです。私個人は殺人に関与していません。
Q:人々はガス室の隣のシャワー室を通って行ったというのは本当か?
A:はい、彼らは浴室に入り、その後、部屋に入っていったのです。
Q:ドイツ人は一般に、マイダネク収容所のことを何と呼んでいたか?
A:「絶滅収容所」です。この用語は、囚人の大量殺戮が行われ始めた時期から使われました。
Q:マイダネクにはどのような国籍の人々・民族が収容されていたか?
A:詳しくはわかりません。
Q:どのような国籍の人々・民族がもっとも多かったか?
A:ユダヤ人、ロシア軍捕虜、ポーランド人、フランス人、イタリア人その他です。
Q:ソ連軍捕虜はどのように扱われていたか?
A:ロシア人のことは詳しくは知りません。しかし、18000人から20000人のユダヤ人が1943年11月3日に殺されています。
Q:ナチス党員か?
A:はい、1937年から。ただし、SSに入ったのは1942年です。
Q:囚人を虐待したのは、とくに誰か?大量殺戮の責任者は誰か?
A:大勢いましたが、すべての名前を覚えているわけではありません。私の覚えている限りでは、SS隊員フォシュテド[第三収容所長フロルシュテットのことを指しているのかもしれない]、トゥルマンSS中尉、ムスフェルトSS中尉が管理と囚人の虐待に大きな役割をはたしていました。
Q:マイダネクでの職務は?
A:補給品倉庫の監督者でした。
Q:収容所で大量に発見された靴、子供服、婦人服はどこから来たのか?
A:殺された人々、とくにユダヤ人のものでした。
Q:死体はどのように処理されたか?
A:焼却棟で焼却されたと聞いています。
Q:殺戮に関与したか?
A:いいえ、現場からはるかに離れた所にいて、補給倉庫を管理していました。
Q:殺戮のことを話したのは誰か?
A:名前は覚えていません。ムスフェルトとトゥルマンがやったと耳にしただけです。
裁判は、弁護人も第二の検事としてふるまうという古典的なスターリン主義的見世物裁判の形式にのっとって進められた。だから、被告人ゲルシュテンマイアーとフォーゲルの官選弁護人ヤロスラフスキイは、裁判所に、次のような理由から、免職を申し出ている[5]。
「…ドイツは千年にわたって、スラヴ民族などの近隣諸民族に対して組織的に犯罪を行なってきたからです。ドイツは、エルベ川とオーデル川のあいだに暮らしていたスラヴ諸民族を完全に絶滅し、スラヴ諸民族を完全に根絶しようとする意志を明らかにしてきたからです。ドイツはアドルフ・ヒトラー総統にしたがって、1939年9月にポーランド国家を攻撃し、恐ろしい世界大戦を引き起こしたからです…。」
被告人テルネスの官選弁護人カジミェシ・クルジマンスキも次のような理由から免職を懇願している。
「当法廷で裁かれる予定の悪行はまったく恐るべきものであり、悪魔的なやり方で計画・実施されたので、マイダネクで愛する人々を失った私たちは、この虐殺行為を行ったと告発されている人々の弁護をするようなことはできないからです。」
当然ながら、これらの弁護人たちの求めは却下され、彼らは、自分たちの「依頼人」を「弁護」し続けなくてはならなかった。
ヒステリックな雰囲気がこの裁判を支配していたはずであることは、たとえば、少なくとも50万のドイツ人がマイダネクでの絶滅計画の実行に関与していたというイェルジ・サヴィエツキ検事の非常識な告発からも判断できる[6]。
「少なくとも50万のドイツ人――計理士、会計士、書記、倉庫番、鉄道員、郵便配達人、電話交換手、技師、医師、法律家、農業技師、化学者、薬剤師――、ちょっと想像しただけでも、このような人々からなる合計50万のドイツ人が、無防備な人々を殺戮するためにシステム化された機構に関与していた。恐るべきこの事実を誰が想像できるであろうか? 50万人が、一つの思想、すなわち、できる限り速やかに、安価に、効率的に人々を絶滅するという思想に駆り立てられていたのである。これがマイダネクだ。」
この検事は自分が語っていること本当に信じていたのだろうか。チクロンBの空き缶という「物証」以外の証拠といえば、計13名の目撃証人の証言しかなかった。ここでは、そのような目撃証言の中から一つの事例を検討してみよう。証人ヤン・ヴォルスキの尋問記録からの抜粋である[7]。
検事:マイダネクでのスラヴ諸民族の絶滅について、どのようなことを知っているか?
ヴォルスキ:ベルリンから総督が巡察にやってきたとき、私はカジノのテーブルのところに座っていたのですが、彼と収容所長ヴァイス(ゲルシュテンマイアーもいました)がマイダネクでスラヴ諸民族をどのようにしたら絶滅できるかを話し合っているのを耳にしました。
検事:ゲルシュテンマイアーがチクロンBの缶を追加注文したことを知っているか?
ヴォルスキ:はい、耳にしたことがあります。彼は将来に備えて、チクロンBをストックしておこうとしていたからです。彼は、『いつの日か分からないが、すべての囚人を駆逐する用意をしておかなくてはならない』と言っていました。
被告人たちも、この見世物芝居で自分たちが演じるべき役割をしっかりとたたきこまれ、あらかじめ作成されていた自分の罪を認める文書を従順に暗唱してから証言した。以下は、カポーのハインツ・シュタルプの尋問記録からの抜粋である[8]。
検事:子供たちのことを尋ねる。子供たちはガス室でどのように絶滅されたのか?
シュタルプ:一つの事件を知っています。ポールマン通りの『衣服製造所』にいたとき、2台のトラックがやって来て、マイダネクで働いていた親たちの子供がそこに載せられました。親たちには、子供たちを教育目的で連れて行くと話されていました。
検事:子供たちの服も一緒に運ばれたのか?
シュタルプ:はい。
検事:子供たちの人数と年齢は?
シュタルプ:幼い子供、1歳の子供もいましたが、大半は13−14歳でした。
検事:子供たちはどのようにガス室に連れて行かれたのか?
シュタルプ:トラックが直接ガス室に向かいました。SD[保安部]隊員がそこにいて、子供たちは女性区画(区画1号)に連れて行かれました。女性区画から10人の女性が、子供たちの服を脱がせるために連れてこられていました。そのあと、子供たちは部屋の中に入るように命じられました。その部屋がどんなに素敵な場所であるか話されていました、泣き叫ぶ子供たちもいましたが、自分たちがこれから殺されるなどとは知る由もありませんでした。子供たちが部屋に入ると、SD隊員がドアを閉めました、ガスがパイプをつたって、四角形の穴から注入されました。
検事:ガス室で窒息していく子供たちをみたことがあるか?どのような様子だったか?
シュタルプ:はい。囚人たちがガス室から引き出されていくのを見たことがあります。彼らの肺は破裂していました。血が流れ出していることもありましたが、いつもそうであったわけではありません。二日後、彼らの死体は緑色になりました。
マイダネクで使われたという一酸化炭素やシアン化水素ガスが肺を破裂させることはない!カポーのハインツ・シュタルプは、あらかじめ強制された証言内容を繰り返したにちがいない。
2. デュッセルドルフ裁判
デュッセルドルフで開かれたマイダネク裁判の前には、予備調査が何年も行われ、その中で、200名以上が尋問された。この調査が完了した後に、歴史上「マイダネク裁判」と呼ばれることになる暗欝な見世物裁判が1975年11月26日に始まった。公判は6年続き、1981年6月30日に判決が下されて結審した。当初、6名の女性も含む15名の収容所看守が起訴されていた。当時73歳であった被告の一人アリス・オルロフスキは公判中の1976年に死亡した。もう一人の被告ヴィルヘルム・ラインアルツは、拘禁に耐えられないとの理由で、1978年に釈放された。ロジ・シュス、シャルロッテ・マイアー、ヘルミネ・ベッチャーの3名の看守と収容所医師ハインリヒ・シュミットは、無実が明らかとなったので、早期に、1979年に釈放された。残りの9名の被告のうち、ハインリヒ・グロフマンは1981年に釈放された[9]。残された8件の判決は以下のとおりである[10]。
被告人ヘルマネ・ブラウンシュタイナー-ライアン:少なくとも100人の共同殺戮に関与した二つの訴因で終身刑。
被告人ヒルデガルト・レヘルト:少なくとも100人の殺戮に共同協力した二つの訴因で懲役12年。
被告人ヘルマン・ハインリヒ・ハックマン:少なくとも141人の殺戮に共同協力した二つの訴因で懲役10年。
被告人エミール・ラウリヒ:少なくとも195人の殺戮に共同協力した五つの訴因で懲役8年。
被告人ハインツ・フィライン:少なくとも17002人の殺戮に共同協力した二つの訴因で懲役6年。
被告人ハインリヒ・ペトリック:41人の殺戮に共同協力した咎で懲役4年。
被告人アルノルド・シュトリッペル:41人の殺戮に共同協力した咎で懲役3年6ヶ月。
被告人トーマス・エルヴァンガー:少なくとも100人の殺戮に共同協力した咎で懲役3年。
厳罰に処せられた二人の被告ヘルマネ・ブラウンシュタイナー-ライアンとヒルデガルト・レヘルトは、ユダヤ人女性と子供をガス室送りに選別したことに関与した咎で告発されていた。他の6人は、囚人の処刑、とくに1943年11月3日の「大量殺戮」に関与した咎で告発されていた。
デュッセルドルフ裁判の判決文の中から、いささか長文ではあるが、マイダネク収容所での囚人のガス処刑と犠牲者数を述べている個所を引用しておこう[11]。
「囚人たち、とくにユダヤ人たちに対するもっとも恐るべき苦難はガス処刑のための選別であった。この選別は1942年晩秋に始まり、おもに、1943年春と夏に実施された。
マイダネク強制収容所には最初から、焼却棟といわゆる害虫駆除施設が設置される予定であったが、その完成は、すべての建設計画と同じく、大幅に遅れた。収容所は実際には『強制収容所』として設計されていたが、当初は『捕虜収容所』と呼ばれていたので、『害虫駆除施設』なる用語が暗号として使われていた。前述したヒムラーの1942年7月19日の命令[総督府で暮らしているすべてのユダヤ人は同年末までに一定区画に収容されるべきであるという内容とされる]のために、収容所がおかれている環境は変わった。すなわち、収容所は、強制労働兼通過収容所という当初の目的とは別に、ガス処刑施設を備えた絶滅収容所としての機能も果たさなくてはならなくなった。…ガス処刑の犠牲者はあらゆる年代、さまざまな国籍のユダヤ人、とくに子連れの母親、老人、病人、負傷者、ならびに労働不適格にみえる人々やまったく労働不適格な人々であった。収容所当局のメンバーは、『最終解決』の対象となるのがどのグループなのか、それとも、しばらくのあいだ民族社会主義体制に労働力を提供するのがどのグループなのかを決定するにあたって、多くの場合、彼ら独自の裁定基準を使っていた。…非ユダヤ人囚人もガス処刑の対象となった個々の事例、たとえば、いわゆるムスリムすなわち老齢や病気のために衰弱している人々もガス処刑の対象となった事例があったかどうかを確定することはできない。しかし、少なくとも、このようなことは、ときおり生じたことであろう。
『最初の選別』――労働力としてもはや有用ではないとみなされたユダヤ人の摘出――の後でも、同じ目的の選別が行われ、さまざまな予防拘束収容所の施設でも実施された。SSが使った収容所用語では、これらの選別は皮肉にも『天国に向かう集団』の選別と呼ばれていた。このような選別がもっとも頻繁に行われたのは、規則的間隔ではなく様々な方法によってであるが、1943年春と夏であった。SS収容所医師の一人に『委任』されることもあり、SS男性隊員・女性隊員グループが行なうこともあり、個々の施設の看守たちが行なうこともあった。ユダヤ人――病人、衰弱者、負傷者、その他に理由から『生きていくのに不適格』な人々――が犠牲者であった。
ガス処刑はいつも同じように進行した。殺戮の対象となる囚人たちはバラックに連れて行かれ、服を脱がされたのちに、ガス室の一つに押し込められる。囚人の背後でガス気密ドアが閉じられるや否や、一酸化炭素もしくはチクロンBが室内に注入される。二つの毒ガスとも呼吸器官の麻痺を引き起こし、窒息による苦痛に満ちた死をもたらす。一酸化炭素はガス処刑が行われた当初の段階で使われただけであるが、一般的に、死亡に要する時間はチクロンBを使うよりも少々短い。チクロンBはまた、即効性ではなく、効果を発揮するには一定の時間がかかる。ガスを放出する速度は、ゆっくりと上昇していく室温に依存しているからである。ガス処刑の監督責任者のSS隊員が、全員の死亡を確認すると、ガスを外部に逃がすために鉄製のドアが開かれる。それから、囚人たちの特別部隊が死体を引きずり出して、手車か車両に積み込み、焼却のために古い焼却棟もしくは新しい焼却棟に運んでいくか、あるいは、収容所の外の森に用意されている壕か薪の山に運んでいく。
ガス処刑による殺人のために人々を大量に選別することは、マイダネク強制収容所ではもっとも遅くても1943年初頭から始まっていた。この結果、実際にはガス処刑以外の目的で、とくに、他の収容所への移送目的で選別された大量の囚人が同じような状況の下で、ガス処刑のために選別されたとみなされてしまった。このことは、1943年6月末から8月末に行われたアウシュヴィッツとラーフェンスブリュック強制収容所およびスカルシスコ・カミエンナ強制労働収容所への移送のための女囚の選別にあてはまる。女性収容所選択バラックの中、女性SS隊員の前で、移送対象となった女性たちは服を脱ぎ、一人のSS収容所医師の『検査』を受けなくてはならなかった。しかし。この選別の目的は、同じようなやり方で行われていた『殺戮』のための選別とは異なって、労働不適格な囚人ではなく、『労働適格な』囚人を選別することであった。
この法廷に提出された証拠だけでは、ガス処刑、処刑その他の暴力的手段、疫病、栄養失調、物資の欠乏その他の理由で死亡したマイダネク強制収容所の犠牲者の数を確定することはできない。しかし、当法廷は、少なくとも犠牲者数20万人――うち、少なくとも6万人がユダヤ人――という数が確実であるとみなしている。」
次いで、法廷は、殺人ガス処刑、ガス室送りの選別、犠牲者数に関する「分析結果」をどのように出したのかを詳述している。それによると、目撃証言がこれらの分析結果の唯一の根拠であり、証人たちは以下のカテゴリーに分類されている。
A)
被告自身、およびすでに釈放されている4人の共同被告人、――「彼らが適切な情報を提供しているかぎり」――
B)
デュッセルドルフ裁判で証言した75人の、大半がユダヤ人のかつての囚人たち
C)
当該犯罪に関与したと疑われているが告発されていない11人のSS隊員
D)
国外に出ることができず、その代りに、合衆国、カナダ、オーストラリアで法廷メンバーによる尋問を受けた6人の女性証人
E)
国外に出ることができないか出る意志がなく、その代りに、法廷メンバーの立ち合いのもとに、イスラエル、ポーランド、ソ連、オーストリアで、法執行国際協力機関による尋問を受けた37人の、大半がユダヤ人の元マイダネク囚人
F)
書面供述書というかたちで証言を行ない、その後死亡したか、尋問を受けることができない状態となった23人の囚人
G)
犯罪の嫌疑をかけられていないか告発されていない18人のもとSS隊員、SS女性看守
H)
旅行できないために、その代りに自宅で尋問を受けた3人のドイツ人証人
これらの証言の証拠的な価値を補強するイチジクの葉として、「現代史専門家」ヴォルフガング・シェフラー博士による「専門家報告」、「主要予備尋問で議論された他の文書資料、論文、写真」――それを見聞することで裁判の要素となるかぎりにおいて――の中身が添えられた。そして、法廷はこう続けている[12]。
「法廷は、収容所の設計と建設、その使用目的、収容人口の変遷、犠牲者数の合計を裁定するにあたって、おもに、現代史専門家の報告に依拠した。このテーマの専門家もこの部分に関する陳述と結論を説得力をもって論証し、広範囲な文書資料によって立証している。さらに、彼らは、この件についてどのような証拠が提示されてきたのかに関しても大体一致している。…法廷は、ガス室とその技術的施設の物理的な場所に関する分析結果に関しては、このテーマの専門家の説得力のある陳述、法執行国際協力機関を介して行われた収容所の現場検証の中身、そして、おもに、証人ハインツ・ミューラー、ツェザルスキ[さらに8名の名前が続く]の証言に依拠している。
SS隊員たちの大半が、収容所での当該の事件に関して、無知、忘却、無関心を装ったり、その他の言い訳を使って証言を拒んでいるのに対して、証人ミューラーは、知っていることを隠そうとしなかった数少ないSS隊員の一人である。彼の陳述によると、彼は1941年末以降Wachsturmbannに、1942年末から1943年春まで司令部に勤務していた。そして、SDG[衛生サービス助手]としての訓練の中で、一群の裸の人々が小さなガス室の中で、そこにパイプで送り込まれた一酸化炭素によって殺される現場に立ち会ったこと、小窓から犠牲者の死を観察したことを認めた。証人ツェザルスキ、スタニスワフスキ、スキビンスカ、オストロフスキはそろって、チクロンBが使われたことを認めている。このことは、証拠として朗読されたベンデン、グレーナー、ロッキンガーの尋問記録からも明らかである。」
このように、判決はもっぱら目撃証言に依拠している。この点をどのように考えるべきか?
一般的には、人間の記憶は非常に信頼できるものではなく、容易に操作可能なので、目撃証拠は、証拠の中でもっとも不確実な形式とみなされている。学問において、ならびに法の支配のもとにある司法においては、証拠の価値については序列がある。すなわち、物的証拠や文書資料的証拠は、目撃証言よりも上位の価値をもっている[13]。
フランスの歴史家ジャック・バイナクは、歴史家にとっての目撃証言の価値を的確にこう述べている[14]。
「アカデミックな歴史家にとって、目撃証言は本物の歴史ではない。それは歴史のオブジェにすぎない。目撃証言は重要な証拠ではない。たとえ数多くあったとしても、それを確証する確固とした文書資料がなければ、目撃証言の価値は、一つの文書資料よりもはるかに低い。アカデミック歴史学の前提条件とは、文書資料がなければ、確定される事実もないということであるといっても過言ではない。」
さらに、デュッセルドルフ裁判の場合には、目撃証言をきわめて疑わしいものとみなす、いくつかの理由もある。
裁判の対象となった事件が30年以上も前に起こっていること。このような場合、人間の記憶は時間とともに劣化していくので、目撃証言はほとんど価値のないものとみなさなくてはならない。
民族社会主義者の収容所でのガス室の大量殺戮の物語は大量に流布されてきたが、収容所から解放されて、このような話を聞いたことも読んだこともない証人は一人もいなかったであろう。このような状況のもとでは、証人たちは自分たちが経験したことと、たんに聞いたり読んだりしたことを混同してしまうことがあると予想しなくてはならない。
マイダネクの囚人は必然的に、自分たちを抑圧した人々に対して怒りと憎悪を抱いている。自由を奪われたことを喜ぶような者は誰もいないし、死亡率のきわめて高いルブリン収容所での生活は、あらゆる人間的尊厳を奪うものであった。さらに、被告人のうち少なくとも何人かは囚人を実際に虐待したと考えられる。こうした状況のもとでは、囚人たちにとっては、たとえ先入観にとらわれていたとしても、なにも恐れるものがないので、SS隊員たちが実際に行なった悪行を暴露するだけではなく、それ以外のはるかに邪悪な犯罪を彼らに押し付けてしまうという誘惑を避けることは出来にくい。
デュッセルドルフ裁判の時点で、目撃証言が「立証した」とされるドイツの虐殺行為が実際には連合国の虐殺宣伝であったことがすでに明らかになっていた。一例は、ドイツがカチンの大量殺戮を行なったという告発であるが[15]、実際には、実行犯のソ連が敗者のドイツに罪をなすりつけたものであった。ソ連の法廷で、ドイツ軍将校は目撃証言にもとづいて有罪となり、カチンの殺人犯として絞首刑になっている[16]。ソ連が自国の罪を認めたのはゴルバチョフ時代になってからのことであるとはいえ、西側、したがって西ドイツは、当初から、ポーランド将校の虐殺の責任者はソ連であり、それゆえ、ソ連の司法制度が担ぎ出した証人は嘘をついていることを知っていた。
さらに、この当時、ダッハウその他の西部地区強制収容所では、ガス処刑の「証拠」が終戦直後から目撃証言というかたちで登場していたにもかかわらず、殺人ガス処刑はまったく行われなかったこともよく知られていた。たとえば、ダッハウ収容所の医師フランツ・ブラハはニュルンベルク裁判で、この収容所でガス処刑された犠牲者の死体を検死したと宣誓証言している[17]。しかし、当時ミュンヘンの現代史研究所員で、のちに所長となったブロシャートは、1960年に、ダッハウ(もしくはその他の西部地区収容所)では一人のユダヤ人もその他の囚人もガス処刑されたことはないと明言している[18]。正史派の歴史家たち、すなわち絶滅説を支持する歴史家たちも、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼンなどにガス室など存在しなかったとみなしている。だとすると、証人たちはここでも嘘をついているのである。デュッセルドルフ裁判は、目撃証言を盲信するのではなく、このような事例を頭にたたきこんでおくべきであった。マイダネクのガス処刑についての目撃証言が、ダッハウのガス処刑についての目撃証言よりも、アプリオリになぜ信用できるのであろうか?
SS隊員ですら、法廷にガス室殺人が行われていたことを確証しているではないか。すなわち、最初嫌疑がかけられていたが、最終的には起訴されずに釈放された4人の共同被告人のSS隊員と、嫌疑をかけられなかったSS隊員もガス処刑が行われたことを確証しているではないか。このように反論する読者もいらっしゃるかもしれない。
こうした反論に対して、まず指摘しておかなくてはならないことは、外部の者には法廷での主張をチェックするすべがまったくないことである。裁判記録が公開されていないので、問題のSS看守たちが正確に何を証言したのか知ることができない。もし、SS隊員たちが実際に殺人ガス処刑が行われたことを証言したとすれば、西ドイツの司法当局が望んでいたような証言を行うことで、早期の釈放や免訴を手に入れたと疑わざるをえない。結局のところ、マイダネクの看守たちのうち、誰が囚人席につくべきなのか、それともそうではないのかを決定する権力をもっていたのは西ドイツの司法当局であった。司法当局がどの看守を起訴・投獄するのかを決定してきたとすれば、司法当局の望むような犯罪を立証する目撃証言を手に入れることはさして難しくなかった。司法当局は、圧力をかけて、自分たちが望む証言を手に入れる手段には事欠かなかったのである。
この意味合いで、SS隊員ハインツ・ミューラーの件は特徴的である。すでに指摘したように、法廷は彼のことを、「SS隊員たちの大半が、収容所での当該の事件に関して、無知、忘却、無関心を装ったり、その他の言い訳を使って証言を拒んでいるのに対して、…知っていることを隠そうとしなかった数少ないSS隊員の一人である」と誉めている。彼は、一酸化炭素によるガス処刑に立ち会ったことを自白し、その自白は、この毒ガスによる殺人を立証する証拠となった。しかし、このテーマに関する公式文献は、この殺人方法を異口同音に口にしているものの、一酸化炭素によるガス処刑についての彼以外の目撃証言を一つたりとも発見することができない。
ハインツ・ミューラーは、この協力のおかげで十分に報われた。彼は、囚人席に座らずにすんだのである。
驚くべきことに、法廷は、目撃証言が信憑性を欠く場合があることを、思わず認めてしまっている。すなわち、「多くの囚人たちは…実際にはガス処刑以外の目的で、とくに、他の収容所への移送目的で選別された大量の囚人が同じような状況の下で、ガス処刑のために選別された」とみなしてしまったというのである。もし、囚人たちが「実際にはガス処刑以外の目的で、とくに、他の収容所への移送(もしくは労働部隊への配属)目的で選別された大量の囚人が同じような状況の下で、ガス処刑のために選別されたとみなしてしまった」とすれば、このような誤解は、「ガス室のための選別」に関する法廷証言にも当てはまるはずであるが、デュッセルドルフ裁判はこうした判断をまったく下さなかったのである。
西ドイツの司法当局は、(同じような民族社会主義犯罪裁判と同様に)マイダネク裁判でも、問題となっている殺人ガス処刑に関する文書資料的証拠、物的証拠を手に入れようとはまったくしなかった。司法当局が文書資料的証拠にまったく無知であったことを示す一例は、「害虫駆除施設」という用語が殺人施設を偽装したコード言語であったとの主張である。法廷が現存するドイツ側資料を少しでも研究してみれば。収容所ではシラミの媒介する疫病が蔓延していたこと、このために、害虫駆除施設の建設が計画されていたことを知るであろう。そして、法廷は、その他の点では非常に重視している目撃証言の中にも、害虫駆除作業が登場していることを知るであろう。
デュッセルドルフ裁判は、マイダネクが人間の計画的殺戮現場であったとの構図を描いているが、この構図を立証している文書資料は一つもない。法廷は、「収容所の設計と建設、その使用目的、収容人口の変遷、犠牲者数の合計についての陳述と結論を、説得力をもって論証し、広範囲な文書資料によってそれを立証している」とされる「現代史専門家」シェフラーのことに何回も触れて、お茶をにごしているにすぎない。法廷は賢明にも、これらの文書資料がどのようなものであるのかについては沈黙している。実際には、「広範囲な文書資料」などまったく存在していないがゆえに、シェフラー氏でさえも、これらの文書資料を利用して、大量絶滅もしくは少なくとも20万人の犠牲者を立証できなかったからである。
20万人という数字はまったくのフィクションであるが、法廷はその根拠を提示して、辻褄を合わせようともしていない。目撃証言をその根拠に挙げたとしても、それは哀れなほど根拠薄弱な主張である。たとえ、ガス処刑が実際に行なわれたとしても、目撃証言が立証しているのはせいぜい個々の殺戮作戦だけにすぎず、収容所での犠牲者数の合計など知るよしもないからである。犠牲者数を定めるのにまず必要なのは、マイダネクに移送された囚人の合計を知ることであり、法廷がまず行なうべきことは移送リストの所在をつきとめることであるが、そのようなことはまったく行なわれていない。
法廷は、「ガス室とその技術的施設の物理的な場所」に関しての「テーマの専門家の説得力のある陳述」に依拠したという。また、「現場検証も、法執行国際協力機関を介して行われた」という。しかし、この検証は、徹底的に行われたものであったとは言い難い。もし、徹底的に行われたものであったとすれば、少なくとも、検証を行なった専門家は、「殺人ガス室」の一つが、犠牲者たちがすぐに打ち壊してしまうような窓を備えていたことに気づいたことであろう。
政治的な意味合いを持たない殺人裁判であれば、当然のことながら、凶器に関する専門家報告が重視される。しかし、デュッセルドルフ裁判は、大量ガス処刑という壮大で恐ろしい犯罪を告発するにあたって、凶器に関する専門家報告を余計なものと判断した。
もしも、「凶器」(この場合には、「ガス室」とみなされた部屋と使用されたことになっている二つの毒ガス)に関する専門報告が作成されたとすれば、この報告は、ガス処刑に関する目撃証言の土台を揺るがすものになったことであろう。しかし、法廷はそのような事態を望んでおらず、したがって、このような専門家報告を排除した。そして、化学者や毒物学者に意見を求めるのではなく、「現代史専門家」シェフラーの意見を求めたのである。
不幸なことに、弁護側は、この点をとらえて、「凶器」に関する専門家報告の作成を求めるチャンスを逸した。他の民族社会主義犯罪裁判と同じく、弁護側は、日和見主義的配慮に屈服し、「絶滅収容所」というイメージ事態を問題とするのではなく、依頼人の個人の無実を主張する弁護戦術をとったのであった。
法廷は、いわゆるガス処刑については、11月3日の「大量処刑」に関する目撃証言だけに満足し、その証言を、無条件に採用している。
判決が1943年11月3日の大量殺戮を立証する証拠として言及しているのは、委託された「現代史専門家」シェフラー以外に、以下の目撃証人である。
マイダネクの24人の囚人
被告グロフマンとヴィライン(前者はその後釈放、後者は起訴内容と比べるとかなり低い刑を宣告されている)
共犯の嫌疑をかけられたが起訴されなかった13人のSS隊員
釈放された共同被告人ヘルミネ・ベッチャー
旅行できないために書面供述書を書いた4人のドイツ人証人
旅行できないかその意志がないために書面供述書を書いた5人のポーランド人、ソ連人証人
死亡した13人の証人(エーリヒ・ムスフェルトを含む!)
嫌疑をかけられたが起訴されなかった検事側証人の一人はSS隊員ゲオルグ・ヴェルクであった。判決は彼に関してこう述べている[19]。
「証人ヴェルクは、その証言によると、この当時、ルブリンの事務所に配置され、処刑部隊に配属されていたが、銃殺には関与せず、(彼の話では)『幸運なことに』、自分の機関銃が故障していたために、たんに『見ていた』にすぎなかったと述べている。故障した云々の話は信用することはできないが、証言のその他の部分、とくに、犠牲者の頭の後か首筋を撃たせるために、屋根のタイルのように犠牲者たちを並べて横たえなくてはならなかったことについての証言には信頼できることに疑いの余地はまったくない。」
法廷が、ヴェルクから証言を「買った」ことを想像するには、さしたるイマジネーションは必要ない。ゲオルグ・ヴェルクは法廷の望む大量殺戮に関する証言の報酬として免訴となった。法廷は、機関銃が故障したとの言い訳を信用できないものと判断した、したがって、論理的にはヴェルクを殺人の共犯者として起訴すべきであると判断したにもかかわらず、彼を免訴したことになる。その一方で、処刑に関与したことを断固として否認したSS隊員エーリヒ・ラウリヒは、証人Zacheusz
Pawlakの証言によって「その犯罪を暴露され」、懲役8年の刑を宣告されている[20]。
判決の性格をもっともよくあらわしているのは、証人スタニスワフ・チヴィエイチャクに関する個所である。彼は、被告ハインツ・ヴィライン(1943年11月3日の「大量処刑」に関与したと告発されていた)ともう一人のSS隊員がその日、射殺される予定のユダヤ人から貴重品を受け取った、すなわち、このユダヤ人は助命のために、隠してあった場所から貴重品をもってきたが、結局、ヴィラインはこのユダヤ人を処刑壕に連れて行ったと証言して、ヴィラインが有罪であると述べた。法廷はチヴィエイチャクの証言を次のような理由から信用できないものであるとみなしている[21]。
「証人チヴィエイチャクは1980年9月17-18日の主要予備尋問での尋問の中で、被告人ヴィラインのことを、ユダヤ人囚人に付いて隠し場所いった二人のSS隊員のうちの一人であるとみなしている。証人プヒも同じことを証言している。しかし、証人チヴィエイチャクも認めているように、この主張は、法廷メンバー在席のもとで、10ヶ月前の1979年11月6日にワルシャワで行われた尋問での証言とは正反対なのである。すなわち、この尋問では、彼は被告人ヴィラインがこの事件に関与していなかったと述べている。証人チヴィエイチャクは、ワルシャワでの尋問ののちに、もう一度思い返してみて、被告人ヴィラインが現場にいたことを思い出したことを、このように矛盾した証言をした理由としており、それは真実かもしれない。しかし、ワルシャワでの尋問と主要予備尋問のあいだに、自分で「思い返すこと」だけではなく、外からの情報によって記憶を『リフレッシュ』しようとしたことを示唆する証拠があるがゆえに、法廷は彼の証言をそのまま鵜呑みにすることはできない。」
しかし、デュッセルドルフ裁判は、このように述べておきながら、「外からの情報によって」自分の「記憶」を「リフレッシュ」する時間と機会を与えられていたのは証人チヴィエイチャクだけではなかったとは思いもよらないのである。
デュッセルドルフ裁判の被告の中には、囚人を虐待した者、引いては殺害した者がいたかもしれない。また、戦後30年以上も経過して、法の下にある国家の原則に完璧にのっとって、証拠を提出し、審理を行うことは不可能であるかもしれない。だが、いずれにしても、このような個々人の犯罪を裁いたとしても、そのことは、マイダネクにガス室があったのかどうか、少なくとも17000人のユダヤ人が1943年11月3日に射殺されたかどうか、少なくとも20万人がルブリン収容所で本当に死んだかどうかという3つの中心的な論点についての決定的な証拠とはなりえない。
マイダネク裁判とは何であったのか?それは、その審理の中で、被告人が有罪か無罪かという問題はまったく重要ではなく、判決によって「絶滅収容所」というイメージを確定し、そのことによってドイツ国民の再教育に貴重な貢献をする政治的見世物裁判であった。これが、明白な結論である。
ポーランド人が、自国の一部を依然として支配している敵国民を、マイダネクが解放されてから4ヶ月後に見世物裁判にかけることは、それなりに理解できる、しかし、西ドイツが、戦後30年以上も経過してから、目撃証言の価値は物的証拠や文書資料的証拠の価値よりも低いという基本的な司法基準を無視してしまうような裁判を実施したことは正当化できない。せいぜい情状酌量の余地があるだけであろう。
デュッセルドルフ裁判の判事に情状酌量の余地を与えなくてはならないとすれば、その一つは、彼らが、国内外のメディア、反ファシスト団体、外国政府、とくにイスラエル政府とポーランド政府からの非常に強い圧力にさらされていたこと、さらに、西ドイツ政府からの圧力にもさらされていたことであろう。何人かの被告を早期に釈放したこともすでに、抗議の波を呼び起こしていた。法廷が何人かの被告を有罪としたのは、彼らを有罪としなくてはすまなかったためであり、刑を宣告したのも、刑を宣告しなくてはすまなかったためであった。そして、その刑も、国内外で、軽すぎるとすぐに批判にさらされた[22]。このような状況のもとでは、独立した裁判の遂行などほとんど不可能であった。
マイダネクの20万以上とされる犠牲者、マイダネクの殺人ガス処刑、1943年11月の虐殺に関する証拠は、デュッセルドルフ裁判によっても、確固としたものにはならなかった。しかし、ホロコースト正史を保持・維持することに並々ならぬ関心をもつ人々は、この大量犯罪は、この裁判以降、「法的に既知の事実」とされ、もはや立証の必要がないものとなったと主張することができた。そして、ファンタスティックな「現代史専門家」ヴォルフガング・シェフラーをはじめとするドイツ人歴史家たちは、マイダネク収容所に関するアカデミックで科学的研究を行なう責務を回避する口実として、この裁判を利用し続けるであろう。
最後に、補足としてではあるが、デュッセルドルフ裁判の判決は、1950年にベルリンで行われたもう一つのドイツの裁判の判決と矛盾していることを指摘しておかなくてはならない。この裁判では、何人かの被告が、ソビボル収容所での虐殺と大量殺戮に関与した咎で告発されていた。マイダネクに関して、この判決はこう述べている[23]。
「マイダネクからの移送。ガス処刑される目的で、一時に15000人ほどのユダヤ人囚人の移送集団が、ガス処刑施設を持たないマイダネク収容所から到着した。この当時、ソビボル収容所のガス処刑施設は故障していたので、…」
なんと、この判決によると、マイダネクにはガス室などなかったのである!
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[1] Regarding
these trials, see Czesław Pilichowski, op. cit. (note 61), pp. 423-436.
[2] Sentencja
wyroku, op. cit., (note 198) pp. 99f.
[3] Indictment
of Hermann Vogel et al., op. cit. (note 3), p.
51.
[4] Ibid., pp. 50f.
[5] Majdanek.
Rozprawa przed specyalnym sądem karnym w Lublinie (Majdanek. Proceedings of the Special Court in Lublin),
Cracow: Spółdzielnia Wydawnicza 'Czytelnik', 1945, p. 6.
[6] Ibid., pp. 79f.
[7] Ibid., p. 40.
[8] Ibid., pp. 27f.
[9] C.
Pilichowski, op. cit. (note 61), pp. 432-434.
[10] District
Court Düsseldorf, op. cit. (note 55). The sentences and Reasons for Sentence
are given on pages 778-795.
[11] Ibid., pp. 86-90.
[12] Ibid., pp. 97-101.
[13] E.
Schneider, Beweis und Beweiswürdigung, Munich: F. Vahlen, 1987, pp. 188, 304;
quoted as per M. Köhler, "The Value of Testimony and Confessions
Concerning the Holocaust", in: Germar Rudolf (ed.), op. cit. (note 142),
pp. 85-132(試訳:ホロコーストに関する証言と自白の価値(M. ケーラー)).
[14] Le Nouveau
Quotidien, Lausanne, Sept.
3, 1997.
[15] MT, vol. VII, p. 425.
[16] Franz
Kadell, Die Katyn-Lüge, Munich: Herbig, 1990.
[17] IMT, vol. V, p. 172.
[18] Die Zeit, Aug. 19, 1960.
[19] District
Court Düsseldorf, op. cit. (note 55), v. II, p. 486.
[20] Ibid., v. II, p. 510.
[21] Ibid., v. II, p. 492.
[22] C.
Pilichowski, op. cit. (note 61), p. 435.
[23] District
Court Berlin, Verdict of May 8, 1950, Ref. PKs 3/50; Chamber Court Berlin,
Verdict of Nov. 11, 1950, Ref. 1 Ss 201/50; reproduced in: Fritz Bauer, Karl
Dietrich Bracher, Ch. J. Enschedé et al. (eds.), Justiz und NS-Verbrechen.
Sammlung deutscher Strafurteile wegen nationalsozialistischer Tötungsverbrechen
1945-1966, vol. 7, Amsterdam: University Press Amsterdam, 1971, p. 547.