14章 ホロコースト修正主義概史

1950:フランスレジスタンスの戦士でありブッヘンヴァルト収容所囚人であったポール・ラッシニエが『ユリシーズの夢』を発表し、ブッヘンヴァルトにはガス室はなかったと述べる。ラッシニエは、その他の収容所にはガス室は存在していたと考えていたが、ガス処刑された犠牲者の数は比較的に少なかったと思っていた。

 

1964:ラッシニエは『ヨーロッパ・ユダヤ人のドラマ』の中で、ガス室とユダヤ人絶滅物語のことを「あらゆる時代の中でもっとも不愉快な嘘」と呼び、600万人という数字がありえないことを明らかにした。

 

1967:修正主義の父ポール・ラッシニエ他界。

 

1972:リチャード・ハーウッド『600万人が本当に死んだのか』。かなりの成功を収めたこの小冊子は、欠陥も持っているが、ホロコースト正史に反論する的確な論点を数多く提示していた。

 

1976:アーサー・バッツ『20世紀の詐術』。修正主義を飛躍的に前進させたこの本は、平易ではないが、修正主義の古典となった。電気工学教授バッツは、連合国がドイツ影響圏での大量絶滅について、もしそれが事実であるとすれば、知らなかったはずがないことを明白に立証した。そのような絶滅を知っていたとすれば、それを阻止しようとしたであろう。しかし、連合国は何もしていない。ユダヤ人団体の主張が戦争宣伝にすぎないことを知っていたからであるというのである。

 

1978:ヴィルヘルム・シュテークリヒ『アウシュヴィッツの神話』。ドイツの判事シュテークリヒは、アウシュヴィッツに関するホロコースト正史を丹念に分析し、その無内容さを明らかにした。最後の章では、19631965年にフランクフルトで開かれた悪名高いアウシュヴィッツ裁判を分析し、ドイツの司法制度が法的倫理基準すべてを破って、アウシュヴィッツでのユダヤ人の大量殺戮を「立証」しようとしたことを明らかにした。

 

1979:フランスの修正主義者フォーリソン教授は、アウシュヴィッツのガス処刑物語が技術的に不可能であることを指摘するいくつかの論文を発表した。これ以降、修正主義者の研究は技術的側面に向けられることになった。

 

1980:フランスの修正主義者セルジュ・ティオンが、修正主義とフォーリソン事件に関する重要著作『歴史の真実か政治の真実か』を発表した。

 

1982:フォーリソン、『ピエール・ヴィダル=ナケへの回答』。フォーリソンは、フランス系ユダヤ人研究者ピエール・ヴィダル=ナケのきわめて情緒的な修正主義批判に答えて、修正主義の反対者の議論には考慮に値するような論点がないことを明らかにした。

 

1983:ドイツ系アメリカ人の修正主義者ウォルター・サニングは、『ヨーロッパ・ユダヤ人の分解』を発表した。もっぱらユダヤ人と連合国の資料にもとづいたこの本は、依然として、第二次大戦中のユダヤ住民の損失に関するもっとも重要な研究である。サニングは、130万人ほどのユダヤ人が戦時中に死亡したが、ドイツの政策によって死亡したのはこの損失の半分以下である、戦時中のユダヤ人犠牲者の半分以上は前線で兵士として戦死したか、ソ連の移送中に死亡した、との結論に達した。

 

1984:テロリストがカリフォルニアの歴史評論研究所に火をつけた。

 

1985:カナダのトロントでの最初のツンデル裁判。ドイツ系市民のエルンスト・ツンデルは、ハーウッドの『600万人が本当に死んだのか』を配布した咎で裁判にかけられた。カナダには反修正主義法がないので、カナダの裁判所は、「虚偽のニュース」の流布を禁止する中世時代からのあいまいなイギリス法を適用した。ツンデルは禁固15ヶ月に処せられたが、第一級の専門家たちがいわゆるユダヤ人絶滅論に反駁して、自分たちの主張を展開することを許されたので、この裁判は、ホロコースト物語の支持者にはまったくの災禍となった。検事側の二人のスター証人ヒルバーグ教授とアウシュヴィッツの囚人であったユダヤ人ルドルフ・ヴルバは、ツンデルの弁護人ダグラス・クリスティによる仮借のない反対尋問にさらされた。ヒルバーグは、その無能力さを法廷にさらし、ヴルバは恥知らずな嘘つきであることが暴露された。

 

1986:フランスでの「ロック事件」。アンリ・ロックはゲルシュタイン報告についての博士論文を提出した。SS将校来ると・ゲルシュタインの「自白」は、ベウゼッツ収容所に殺人ガス室が実在したことを示す最良の証拠と考えられていた。ロックは博士論文の中で、この報告には内容的に矛盾をはらんだ、少なくとも6つのバージョンがあり、それぞれがまったく馬鹿げた話に満ちていることを明らかにした。メディアは、ロックの論文を受け入れたナント大学に対する中傷キャンペーンを始めた、ユダヤ人団体とイスラエルが抗議したために、ロックは博士号を剥奪された。スイスでは、ロックを支持していた学校教師Mariette Paschoudが、メディアの中傷キャンペーンののちに、解雇された。

 

1988:トロントで二回目のツンデル裁判。ツンデルは9ヶ月禁固に減刑(4年後の1992年、彼はカナダ最高裁から無罪判決を受け、彼を告発した法律は憲法違反であると宣せられた)。公判中、合衆国の処刑専門家フレッド・ロイヒター――アメリカのいくつかの州で犯罪者の処刑に使われているガス室を建設した――は、少数の支援者とともにポーランドに出かけ、アウシュヴィッツT、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、マイダネクの「ガス室」を検証した。その後の報告で、彼は、これらの部屋は技術的・化学的理由から殺人ガス室として使われたことはありえないとの結論に達した。ロイヒター報告には明らかな欠点があるにもかかわらず、この報告は、ホロコースト物語に大きな打撃を与えた。修正主義の評判を高め、その分析結果もその後、ルドルフのはるかに科学的な研究によって確証されたからである。

 

1990:フランスは、修正主義を取り締まる醜悪なゲイソ法を公布した。この法律は、ニュルンベルク裁判が定めたかたちでの「人道に対する罪」に疑問を呈することを禁止した。その後、この法律は、フランスで修正主義者を迫害する法的根拠となった。

 

1993:アウシュヴィッツの「殺人ガス室」に関するゲルマール・ルドルフの専門家報告初版。ルドルフは、この入念な研究の中で、「ガス室」がユダヤ人絶滅のために使われたとされる殺虫剤チクロンBにさらされたことはなかったことを明らかにした。

 フランス人歴史家プレサックが、『アウシュヴィッツの焼却棟(Les crematoires d'Auschwitz)』を発表した。メディアは、修正主義を反駁する研究所として高く評価した。しかし、プレサックは、殺人ガス室の実在を立証する文書資料的証拠をわずかでの提出できなかったので、彼の著作はホロコースト物語の脆弱性を際立たせたにすぎなかった。ただし、プレサックは、修正主義者の所説の驚くほどの譲歩を数多くしているという事実も指摘しておかなくてはならない。

 

1994:ゲルマール・ルドルフは『現代史の基礎』を編集した。その際、彼は、「エルンスト・ガウス」というペンネームを使って、法的訴追を逃れようとしたが、結局無駄であった。この学術論文集には、さまざまな修正主義的研究者がホロコーストのさまざまな局面を分析した論文が掲載されている。この本はまもなくドイツでは禁止され、ルドルフは投獄を避けるために亡命した。

 ドイツ政府は、修正主義の影響力が成長していることに対応して、『現代史の基礎』の出版以前から、修正主義を取り締まる立法措置を厳格にしていた。

 Pierre Marais, Les camions a gas en question。フランスの自動車設計士Maraisは、チェウムノ収容所やロシアでドイツ側がユダヤ人を殺すために使ったとされる「殺人ガス車」はまったく実在しなかったことを明らかにした。

 ユルゲン・グラーフ、Auschwitz. Taetergestaendnisse und Augenzeugen des Holocaust。アウシュヴィッツでの「ガス処刑」に関する目撃証言集の検証。これらの話が馬鹿げていることを明らかにした。

 

1995:修正主義を抑圧する道具となる「反人種差別法」がスイスで公布。

 マットーニョ、フォーリソン、ティオン、ルドルフが、アウシュヴィッツのガス室を立証しようとしたプレサックの最新の研究『アウシュヴィッツの焼却棟(Les Crematoires d'Auschwitz)』に回答する『アウシュヴィッツ。ありのままの事実(Auschwitz. Nackte Fakten)』中で、プレサックの所説を多くの点で反駁した。

 

1996:ガローディ事件。かなり以前にイスラム教に改宗していた世界的に有名なフランス人哲学者ガローディが彼の著作Les mythes fondateurs de la politique israelienneの中で、慎重なかたちではあるが、ホロコースト修正主義を支持した。この本の修正主義に関する章は凡庸な内容であるけれども、ガローディ事件はフランス系ユダヤ人のあいだに大混乱を引き起こし、修正主義者にとっては大きな成功となった。

 ルドルフが、亡命先のイギリスで、良質の修正主義雑誌『自由歴史研究季刊誌(Vierteljahreshefte fuer freie Geschichtsforschung)』を刊行し始めた。

 フランスの反修正主義的研究者Jacques Baynacは、スイスの新聞Le Nouveau Cotidienに掲載された二つの記事の中で、ナチのガス室の実在を証明する証拠がまったくないことを認めた。

 

1998:ユルゲン・グラーフとカルロ・マットーニョによる『マイダネク強制収容所。歴史的技術的研究(KL Majdanek. Eine historische und technische Studie)』。マイダネク強制収容所に関する初めての学術書。この収容所には殺人ガス室はなかったこと、ユダヤ人囚人の大量射殺事件は起らなかったこと、約42500人がマイダネクで死亡していることを明らかにした。

2000:ルドルフは『現代史の基礎』の拡大英語版『ホロコーストの解剖』を刊行。

 ロンドンでは、修正主義的歴史家アーヴィングが、ユダヤ系の反修正主義的著述家リップシュタットを名誉毀損で告発したが敗訴。しかし、リップシュタット側の証人ナンバー・ワンのユダヤ系ホロコースト史家ペルトの粉砕には成功した。

 オーストリアの技術者クレーゲがベウゼッツとトレブリンカで地中レーダーによる調査を行なった。両収容所には大量埋葬地がまったく存在していないことを立証するであろう分析結果は2001年に出版され、ベウゼッツとトレブリンカの嘘に決定的な打撃を与えることであろう。

 

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