13章 3つの未解決の大問題

 修正主義者は、その先駆者ラッシニエが活躍した時代以降、非常に大きな進歩を成し遂げてきたが、第二次世界大戦中のユダヤ人の運命に関するいくつかの重要問題がいまだ解明されていないので、修正主義者の使命はまだ完遂されていない。今日まで、修正主義者が部分的にしか解決していない3つの基本的問題がある。

 

  アウシュヴィッツに移送されながらそこに登録されなかったユダヤ人には何が起ったのか。

  ベウゼック、トレブリンカ、ソビボル、チェウムノの実際の機能は何であったのか。

  東部戦線でドイツ軍による射殺されたユダヤ人は何名であるのか。

 

a) アウシュヴィッツに移送されながらそこに登録されなかったユダヤ人には何が起ったのか。

 戦時中のドイツ側文書資料が大量に残っているおかげで、さまざまなヨーロッパ諸国からの100万ほどのユダヤ人がアウシュヴィッツ強制収容所に移送されたことがわかっている。このユダヤ人移送者のうち20万人(プラス20万人の非ユダヤ人)がアウシュヴィッツに登録され、残りの80万人ほどが登録されなかった。これら80万人のユダヤ人のうち半分以上が19445月−7月にハンガリーから移送されてきた集団であった。(戦時中の資料によると、437000名ほどのユダヤ人が2ヶ月以内にハンガリーから移送されてきた、私も含めて、修正主義者の大半はこの数字を受け入れているが、著名な修正主義者バッツは受け入れていない。Journal of Historical Review, Volume 19, Nr. 4, July/August 2000には、この問題に関するバッツと私の論文が掲載されている)。

 ホロコースト正史派の歴史家たちは、非登録ユダヤ人囚人はほとんどすべて、アウシュヴィッツ・ビルケナウに到着するとすぐにガス処刑されたと主張している。しかし、アウシュヴィッツはそこに登録されないユダヤ人囚人の通過収容所でもあったと考えることのできる十分な理由がある。1941年から1943年にアウシュヴィッツに送られたハンガリー系ではないユダヤ人のケースを考察してみよう。

 19421016日、スイス系ユダヤ人新聞Israelitisches Wochenblattはこう伝えている。

 

「しばらくのあいだ、ポーランドのゲットーの解体が続いている。ルブリンがまず解体され、ワルシャワがそれに続いた。この計画がどの程度実行されているかどうかわからない。ゲットー住民は東部地区、占領ロシア地区に移送されている。彼らは、ドイツからのユダヤ人と部分的に交替している。…最近までリガ・ゲットーにいて、その後逃亡に成功した目撃証人は、リガ・ゲットーにはまだ32000名のユダヤ人がいると伝えている。占領以降、数千人が死亡した。ユダヤ人は市の外での労働を強制されている。…最近リガでは、ユダヤ人移送集団がベルキーその他の西ヨーロッパ諸国からやってきているが、すぐに、ここからさらに、別の地区――どこかは定かではない――に移送されている。」

 

 ホロコースト正史によると、ポーランドとベルギーから占領ソ連地区に移送されたユダヤ人は存在しないことになっている。ポーランドのゲットーから移送されてきたユダヤ人は絶滅収容所で殺され、移送されてきたベルギー系ユダヤ人もアウシュヴィッツに送られる(そして大半がガス処刑されたという)か、西側の収容所に送られたという。二人の修正主義的研究者、すなわちスペイン人のEnrique AynatEstudios sobre el "Holocausto", Graficas Hurtado, Valencia 1994)とフランス人Jean-Marie BoisdefeuLa Controverse sur l'extermination des juifs par les allemands, Volume II, V.H.O., Berchem/Belgium 1996)は、文書資料にもとづいて、西ヨーロッパの移送されたユダヤ人集団が戦時中にアウシュヴィッツよりもはるかに東方の地区に登場しているケースを数多く検証している。一方、ホロコースト物語では、彼らは、アウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室でガス処刑されたことになっているので、そのような場所には到達するはずもなかった。だが、ホロコースト正史の文献でさえも、数千のドイツ系・チェコ系ユダヤ人がミンスク(白ロシア)とリガ(ラトヴィア)に移送されたことに触れている。リガへの最初の移送は194112月のことであった。ヒルバーグがその標準的研究(Die Vernichtung der europaeischen Juden, p. 377)で述べているように、これらのユダヤ人の多くはドイツ軍および私企業のために働いたが、身体障害者、傷病兵、70歳以上の高齢者もリガに送られている。ホロコースト正史によると、この当時すでに、ユダヤ人の大量虐殺は、最初の絶滅収容所(チェウムノ)ではじまっていたという。このホロコースト正史を信じるとすると、なぜ、ドイツ人は、殺害予定の非労働ユダヤ人をチェウムノではなく、東部占領地区に移送したのであろうか。ホロコースト正史派の歴史家たちは、こうした話が絶滅論というドグマと矛盾してしまっているがゆえに、このような単純な質問にも答えることができない

 19444月、フランス共産党の地下新聞Notre Voixは、赤軍がかつてはパリで暮らしていた8000名のユダヤ人をウクライナで解放したと伝えている(この記事のフォト・コピーが、Boisdefeu's book La Controverse sur l'extermination des juifs par les allemands, volume 2, p. 86に掲載されている)。これらの、パリのユダヤ人はどのようにしてここにたどり着いたのであろうか。なぜ、彼らはアウシュヴィッツでガス処刑されなかったのであろうか。

 連合国は、アウシュヴィッツから東部地区に移送されたユダヤ人に関するドイツ側資料を、それが絶滅神話と矛盾しているがゆえに、隠滅したか、安全な場所に保管したに違いない。しかし、いくつかの文書資料的証拠が残っている。パリにユダヤ人資料センターに保管されているドイツ側文書は、19428月と9月、労働不能者も含むすべてのユダヤ人移送集団が総督府、すなわち占領ポーランドに送られると述べている(Centre de documentation juive contemporaine, Paris, XXVI-46)。すべてのフランス系ユダヤ人移送集団がこの時期に向かったアウシュヴィッツは、総督府にではなく、その西部、すなわち、ドイツが1939年に併合したポーランド領にあった。「ユダヤ人問題の解決」協議会に参加したドイツ軍将校アーネルトは、194291日に、フランスからの国家のないユダヤ人はロシアに建設予定の収容所に送られると伝えている(Centre de documentation juive contemporaine, Paris, XXVI-59)。これら二つの事例は、アウシュヴィッツがそこに移送されてきたユダヤ人の一部とっては通過収容所にすぎなかったことを確証している。そして、このことは、ユダヤ人の東部地区への「疎開」や「再定住」に言及するドイツ側資料とまったくマッチしているのである。文書資料は断片的にしか現存していないが、このような事例だけでも、アウシュヴィッツに送られたが登録されなかったユダヤ人はガス室で殺されたという絶滅論を根底から揺るがしている

 19445月から6月にアウシュヴィッツに移送され、そのうち28000名しか登録されなかったハンガリー系ユダヤ人問題は、まだ未解決である。すでに明らかにしたように、死体焼却が不可能であったので、これらのユダヤ人がアウシュヴィッツ・ビルケナウで絶滅処分となったはずはない。59日、SS全国指導者ヒムラーは、SS経済管理本部への書簡の中で、20万人のユダヤ人が軍需産業で雇用されるであろうと述べている(Nuremberg document NO-5689)。ハンガリー以外からの大規模なユダヤ人の移送は、この時期にはなかったので、これらの20万人とは、ハンガリーからやってきたユダヤ人のことであろう。19446月から10月、23000名以上のユダヤ人――おもに女性囚人――がアウシュヴィッツからダンツィヒ近郊のシュトゥットホフ強制収容所に送られ、工場、農場で雇用された。その大半はハンガリーからやってきていた(Stutthof, Muzeum Archiwum, I-IIB-8; Juergen Graf and Carlo Mattogno, Das Konzentrationslager Stutthof und seine Funktion in der nationalsozialistischen Judenpolitik, Castle Hill Publisher, Hastings 1999)。このことは、アウシュヴィッツに移送されたがそこには登録されなかったユダヤ人はその他の収容所か、ドイツ帝国の工場に移送されたことを立証している。だが、その向かった先がどこであったのか、依然として、その多くは明らかではない

 

b) ベウゼック、トレブリンカ、ソビボル、チェウムノの実際の機能

 これら4つの収容所は純粋絶滅工場であったという。しかし、これらの収容所に関する文書資料は一つも残っていない。すでに説明したように、言われているところの大量絶滅は技術的に不可能であり、多くのユダヤ人が占領ソ連領に送られたのであるから、ポーランド東部地方にあるベウゼック、トレブリンカ、ソビボルは、さらに東方に向かうユダヤ人のための通過収容所であったのであろうが、これを確証する文書資料的証拠はない。(チェウムノについては、何もわかっていない)。トレブリンカも、マイダネクその他ルブリン近くの収容所向かうユダヤ人のための通過収容所であった。(ポーランド系ユダヤ人で10の収容所を生き延びたサムエル・ジルベルシュタインは、1942年に数百のユダヤ人とともに、トレブリンカからマイダネクにどのようにして移送されたのかを記している。Pamietnik Wieznia dziesieciu obozow, in: Biuletyn Zydowskiego Instytutu Historycznego, Nr. 68, Warsaw 1968)。

 

c)  東部戦線でドイツ軍による射殺されたユダヤ人の数

 ホロコースト正史派の歴史家たちは、ドイツ人が占領ソ連領で100万から150万人のユダヤ人を射殺したと主張している。(注目すべきことに、殺されたとされるユダヤ人の大量埋葬地は一つも発見されていない。その一方で、共産党テロルの犠牲者の大量埋葬地は数多く存在しており、数百の埋葬地が共産党支配体制が終わってから発見されている)。

 もっとも悪名高い虐殺行為は、キエフ近郊のバビー・ヤール渓谷で行なわれたといわれている。ここで、ドイツ軍は1941929日、33711人のユダヤ人を射殺したという。この非常に詳しい数字は、ロシア軍がベルリンを占領してから発見したドイツ軍「行動報告」に掲載されているという。「行動報告」は、その他数万の犠牲者を生み出した虐殺行為についても数多く言及しているという。しかし、なぜ、ドイツ側は、赤軍の到着以前に容易に破棄することができたにもかかわらず、このように、自分たちの犯罪行為を証明してしまうような証拠を、ロシア人のために残しておいたのであろうか。不可解である

 19439月、ソ連軍がキエフに接近したとき、ドイツ側は死体を掘り起こして、巨大な薪の山で焼却したという。幸運な偶然ではあるが、死体焼却が行われたとされる時期に、ドイツ軍偵察機がバビー・ヤール渓谷を撮影している。この航空写真には、人間の活動、戸外の埋葬地、薪の山、槌が動かされた痕跡などはまったく写っていない。(John Ball, Air photo evidence, Ball Resource Limited, Delta B.C., Canada, 1992)。したがって、バビー・ヤールの虐殺はまったくの捏造なのであり、「行動報告」などの文書はおそらく偽造なのであるから、「行動報告」に登場するその他の数字もそもそも疑わしいのである。もちろん、このことは、ユダヤ人の大量射殺が行なわれなかったことを意味しているわけではない。ユダヤ人は、ドイツ軍後方地帯で非合法のパルチザン戦争を行なう共産主義者のレジスタンス運動の中心メンバーであったので、ユダヤ人民間住民に対する大量報復は行なわれたに違いない。しかし、文書資料が欠けているために、修正主義者は、殺されたソ連系ユダヤ人の数について根拠のある見積もりを提示できない。当面、多く理由から、ホロコースト正史派の歴史家たちの主張する数字が非常に誇張されているということができるにすぎない。

 

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