試訳:ゾヤ・コスモデミヤンスカヤ

――英雄か放火犯か――

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2004329

 

本試訳は当研究会が、研究目的でКосмодемьянскаягероиня или поджигательница своих? を試訳したものである。

 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

onlinehttp://revisio.msk.ru/242.htm

 

 

 ゾヤ・アナトリエヴナ・コスモデミヤンスカヤ(1923913日−19411129日)

 第201モスクワ中学校の女生徒であった。彼女は、194110月に、戦闘パルチザン部隊に入った。そして、フォミンスキイ地区のオブホーフ・ナロ村のところで、共産青年同盟パルチザングループとともに前線を越えた。194111月末、軍事行動を遂行中に捕まり、モスクワ郡ベレイスキイ地区ペトリシチェヴォ村で、ドイツ軍によって絞首刑に処せられた。そして、ソ連邦英雄となった最初の女性となった。多くの通り、コルホーズ、学校が彼女の名前ゾヤを記念している。

1129日、ドイツ軍は、モスクワ近郊のペトリシチェヴォ村での放火事件で、ターニャという名の娘を捕らえた。ヒトラー一派は一晩中彼女を拷問し、そして、絞首刑にした。1942114日、この村が解放され、2日後に、モスクワから新聞記者が村にやって来た。127日、『プラヴダ』紙上に、ナチスに責め殺された勇敢なパルチザン女性についての「ターニャ」という記事が掲載された。スターリンはこの記事を気に入り、彼女をとくに称えて、「これこそが民族の英雄である」と述べた。のちに、このターニャは、ゾヤ・コスモデミヤンスカヤであることが明らかとなった。

 

 年月が経ち、いわゆる「ペレストロイカ」の時代となると、ゾヤは、自国民に対して闘ったテロリストであるとみなされるようになった。

 1941年末、スターリンは、モスクワ近郊での反撃を準備するにあたって、ドイツ国防軍が冬季の戦闘には準備ができていないことを知って、ドイツ国防軍に「荒地で生計を立てさせようとして」、「焦土戦術」の採用を決定した。ドイツ軍の背後にある村を消滅させるために、3040名のたいまつ部隊を前線に設立する命令が出された。このような破壊工作部隊の一週間の活動によって、53の居住地が焼かれた。平和的な住民もドイツ軍と一緒に、通りに投げ出された。

 共産青年同盟員のゾヤも、このような後方地帯の破壊工作部隊に派遣された。ペトリシチェヴォ村に近づく頃には、10名ほどの隊員しか残っていなかった。隊長は、この状況を知って、前線から部隊を戻すように決定したが、3名が独立して活動する決意をした。

 共産青年同盟部隊の、ヴァシーリイ・クルプコフ、ボリース・クライノフ、そしてゾヤであった。最初の夜、彼らは3つの家と馬小屋に放火した。ヴァシーリイ・クルプコフが捕まり、尋問を受けて、「自分一人ではない」ことを自白した。次の日の夜、ドイツ軍は捜索体制を強化し、地元住民の自警団を組織した。

 1129日、ゾヤはふたたび、村に潜入した。村長のステパン・スヴィリドフは彼女の姿に気づき、ドイツ軍に通報した。ゾヤはセドフ家の近くで捕まり、小屋に連行された。当時6歳であったユーリイ・セドフがこのことを良く覚えている。彼女は、家から家へと引き回されて、拷問された。その際、放火犯によって苦しんでいた地元住民も、彼女への復讐の念で燃え上がっていた。目撃者によると、家族とともに家を失っていた一人の女性は、横たわっているゾヤを白樺の枝で殴りつけ、また別の女性は汚物の甕から中身を彼女に注ぎかけたという。これらの行為は、ドイツ軍が「頼んだ」わけでもなく、ドイツ軍のいないところで行なわれたという。昼に、ゾヤは絞首刑となり、その死体はまる1ヶ月、「さらしもの」として吊るされたままであった。

 ヴァシーリイ・クルプコフは、1942416日、「祖国を裏切った咎で」銃殺された。(彼の事件は、国家保安委員会機密文書に保管されている)。ボリース・クライノフは19433月に死んだ。

 一時、ゾヤを聖人の列に序そうとする声も上がっていたが、ロシア正教会はそうしないことを決定した(私の見解ではそれは正しい)。ゾヤは、自分の信仰の証拠を残していないからである。しかし、このことは、彼女の人間としての功績を減じているわけではない。

 

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