偽書『断片』(ヴィルコミルスキー)事件

 

歴史的修正主義研究会編集・試訳

最終修正日:2004903

 

T 事件の概要

onlinehttp://en.wikipedia.org/wiki/Binjamin_Wilkomirski

 

 ビンヤミン・ヴィルコミルスキー(Binjamin Wilkomirskiとは、彼がホロコースト生存者を偽ったときに採用したブルーノ・グロスイェアン(Bruno Grosjean)の名前である(1941年生)

 1995年、ビンヤミン・ヴィルコミルスキーは、回想録『断片:戦時中の幼少期の記憶から19391948年』[邦訳、小西悟訳『断片:幼少期の記憶から19391948』(大月書店、1997年)]を発表し、その中で、ナチスの強制収容所で自分が幼少期に経験したとされることを綴った。彼は、1939年にラトヴィアのリガで生まれたポーランド系ユダヤ人と称した。

 本書は多くの言語に翻訳されており、英語版が出版されたのは1996年のことである。本書は、ユダヤ人団体、合衆国ホロコースト記念博物館から各種の賞を受賞している。ヴィルコミルスキーは、ホロコースト生存者の会合、シンポジウム、テレビのドキュメンタリイ番組に数多く出席した。もう一人の自称生存者ラウラ・グラボフスキは彼の話に信憑性を与えた。

 ヴィルコミルスキーは、自分の養父母が、自分たち自身の子供を遠ざけ、彼に素性を受け入れるように強制することで、意図的に彼の過去を隠そうとしたと述べている。彼は、精神療法士の助けを借りて、記憶を取り戻すことができたというのである。

 19988月、自分自身もホロコースト生存者の息子であったスイス人ジャーナリストのダニエル・ガンツフリードがスイスの週刊誌Weltwocheに、ヴィルコミルスキーの正体を暴露する記事を発表した。ヴィルコミルスキーは実際にはブルーノ・グロスイェアンであり、1941212日に、未婚の母の子供として生まれた。未婚の母イヴォンヌ・グロスイェアンは、彼が2歳のときに彼を養子に出した。彼は、金持ちのデッセッケル夫妻に養子として迎えられるまで、2年半、孤児院と養父母の家を行き来した。養父は彼が医者になることを望んでいたのであるが、彼は音楽家となった。彼は、自分の最初の妻には、自分を産んでくれた母のことを話さなかったというのである。

 ヴィルコミルスキー自身はすべてを否認し、彼の支援者はガンツフリードを非難した。ガンツフリードはさらなる証拠を提出し、ヴィルコミルスキーは自分の話の多くの信憑性を証明することができなかった。当初、彼はDNAのテストを受けることを拒んでいた。このテストは2001年に行なわれ、ヴィルコミルスキーは自分の否定していた父親と血縁関係にあるという事実が確証された。

 ヴィルコミルスキーの代理人は歴史家Stefan Maechlerに調査を依頼した。18ヶ月間にわたる調査が行なわれた結果、彼の話を否定する人々のインタビューが存在していることが明らかとなった。しかも、ラウラ・グラボフスキも、以前には、ローレン・ストラトフォード(Lauren Stratford)という名を使って、悪魔の生贄の儀式についての本を書いたことのある詐欺師であることが暴露された。

 Stefan Maechlerは、ヴィルコミルスキーの父親と思われる人物まで探し出した。ヴィルコミルスキーの本の出版者は、その本を店頭から引き上げた[日本語版を出版した大月書店では絶版扱いとなっている]。数ヵ月後、合衆国のテレビ番組「60分」が、さらなる証拠を放映した。

 

 

U 偽書を称えた人々

 

 

・訳者小西悟氏の「訳者あとがき」から

『断片:幼少期の記憶から19391948』(大月書店、1997年)181184

 

第二次世界大戦中のショア(ユダヤ人大虐殺)」の恐怖の証言として、これほど生々しいものはなかったし、おそらくこれからもありえないのではあるまいか。著者の網膜に焼きつけられた鋭い輪郭をもつ数々のおぞましいイメージは、翻訳の作業の間中、訳者の脳裏でたえずもう一つのイメージと重なって、テレビのゴースト現象のような二重の映像を結んだ。それは、類似の極限状況を体験した広島・長崎の原爆の生き残りたちが描く地獄絵の姿である。・・・

 ・・・人類全体が、まるでビンヤミン少年さながらに、剣の刃渡りを強いられているこんにちの危機の状況は、わたしたちに、ショアを学び、「ヒロシマ・ナガサキ』をより深く学ぶことをますます要請している。この本が『戦争を知らない世代』にひろく読まれることを願う

 

 

・大月書店版の『断片』の広告から

幼くして両親、兄弟すべてを失ったぼくには、自分の名前も生年月日もない。

残るのは、フラッシュライトの点滅に一瞬浮き上がるような記憶の断片だけだ。

それを秩序だてることも、いまとなっては、できない。3歳か4歳だったぼくの目の前で殺された男性は、どうやら父さんらしい。収容所でカチンカチンになったパンのかけらを手渡してくれた女性が母さんだったのかもしれない。

自分のアイデンティティは何なのか。収容所での苛烈な日々の記憶だけが、ぼくの幼少期のすべてだ

この世の地獄をピュアな心で見つめ、詩的に浄化された文章で描いたホロコースト文学の傑作。

1996年度全米最優秀自叙伝賞受賞。

1997年度ブック・オブ・ザ・イヤー賞(ワシントン・ホロコースト博物館)受賞

 

毎日新聞社の書評から

onlinehttp://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/holocaust11.html

 

幼い時、ナチスの収容所に入れられ、兄弟、両親を失い、自分の名前も生年月日もない子供がいる。彼らには、収容所体験の全体的な記憶はない。ある一瞬がフラッシュにあぶり出された光景として、前後の脈絡もなく、切れ切れに本当の断片として在るだけだ。断片を秩序立てることは、既にできない。

 3歳か4歳で「マイダン・ルブリン、マイダネック」へ収容されたポーランドのユダヤ人だったビンヤミン・ヴィルコミルスキーは、ある日、自分の目の前で壁に車で押しつぶされる男が死んだのを見た記憶がある。どうやら、その男は彼の父親だったようだ。そして、マイダネックの絶滅収容所である日、誰かが「お母さんに会わせてやる」と言って、瀕死で横たわっている女性の元に連れていく。その瀕死の女性は何も言わず、カチンカチンの塊を一つ彼にくれた。それは、パンの塊で、水につけておけば食べられる、と誰かが教えてくれた。

 そうして、またある日マイダネックからの移送があり、彼はどこだか知らないバラックへ連れていかれる。そしてまたある日、突然どの子もいなくなっていて、自分が一人きりなのに気付く。バラックの外に出るとみんなが柵を出ていく。あの禁じられた柵を。「みんなはいったい、あそこで何をしようというんだろう? あそこで世界は終わっているんだよ、あそこから先はもうないんだ」と彼は思う。

 突然一人の女が彼を見つけて「ビンヤミン」と呼んで走り寄ってくる。「そうだ、ぼく――ぼくは、ビンヤミンだ。ぼくのことなんだ!」彼は稲妻に打たれたように理解する。何が何だかさっぱりわからない。けれどもぼくはこの人が誰かわからない。しかし、彼はこうして、生き延び、助かった。

 戦後、彼は過去は悪夢だと思って忘れなさい、という養父母に育てられた。しかし、彼はどうしても、悪夢から解放されなかった。彼には収容所がなくなったということが信じられなかった。

 養父母の大きな家にある半円形の蓋の付いた暖炉を見たとき彼は、「やっぱりそうか、ぼくは罠に落ちたんだ。子供を焚いて部屋を暖めることもできるんだ」と思った。スイスの英雄ウイリアム・テルの絵を見て、彼はテルが子供を矢で殺そうとしている、としか見えない。子供殺しが英雄なんだ、と彼は思う。冬を過ごした養護園で連れていかれたスキー場でリフトを見た彼は、乗っていった子供たちが誰一人帰ってこないのを見て、リフトは山の上の小屋に子供たちを運び、そこで首をはねているのだ、と思い込み、リフトに乗るのを拒否する。そうして、彼は自分が「死ぬことが計画されていた」人間で、こうして生き残ったことを知られたら、やはり今は制服をぬいでいる死刑執行人にたちまち捕まって殺されるのだ、とずっと思いつづけた。記憶は決して消せなかった。

 戦後のポーランドはスターリン主義の下でナチス時代が形を変えて続いていた。彼は大人たちによって、黙らされ第二の名前、誕生日を与えられ、新しいアイデンティティーの下で、結局は、自分が本当は誰かを知らぬままに、亡霊のように生きてきた。しかし、彼も「もう黙っていたくなかった」。数年前ワルシャワと米国にホロコーストの子供たちの会」ができ、イスラエルに「アムチャ」の組織があることがわかり、彼は心理学者や歴史家とともにショアの生き残りの子供たちの問題に取り組んでいる。

 いずれにせよ、彼の本当の生年月日や生まれた場所、両親の顔もいまだわかっていない。ただ、彼は、いくつかの説明不能の記憶の切れ端の意味を解き明かすことができ、自分の記憶の歴史的全体像を組み立てることができた、と書いている。この『断片』(小西悟訳・大月書店)という本は彼の切れ切れの記憶である。しかし、『ブーヘンヴァルトの日曜日』のセンプルンと並ぶ「ホロコースト文学」の新しい作品だと思える

 

・鎌田 慧『生きるための101冊』(岩波ジュニア新書、1998年)

「『生きることって,本当はどういうことなんだろう?』現代のような複雑であわただしい時代,私たちは目前のことにばかり追われがちだが,時にはじっくり『生きる』ことについて考えてみてはどうだろう.社会について,歴史について,について,自分の頭で考え,自分の判断で行動できる人間になるための格好の読書案内」との宣伝文句のついた101冊の推奨図書の中に、ドストエフスキーの『罪と罰』、カミュの『ペスト』などの作品とならんで、ヴィルコミルスキー『断片 幼少期の記憶から・1939-1948』(小西悟訳、大月書店)も入っている。

 

・『ヒトラーの意図的処刑人』の著者ゴールドハーゲンの書評から

Stefan Machler, The Wilkomirski Affair: A Study in Biographical Truth, N.Y., 2001, p. 116.

 

子供の生活、人間関係、言語使用能力に対してホロコーストが与えた壊滅的影響を伝える傑作。ホロコースト文献に通暁している人々でさえも、この注目すべき書物から学ぶことが多いであろう。すべての人々が深く心を動かされるであろう

 

・『ホロコーストを学びたい人のために』(柏書房、2004年)の著者ヴォルフガング・ベンツの書評から

Stefan Machler, The Wilkomirski Affair: A Study in Biographical Truth, N.Y., 2001, pp. 116-117.

 

本書は本物であるだけではなく、文学的にも重要である。他の文書資料によっては、読者に伝えることができないようなこの複雑な悲劇を跡づけることを可能にしている作品である

 

 

V 暴露

 

・ヴィルコミルスキーの素性を暴露したガンツフリードの記事の要約

Stefan Machler, The Wilkomirski Affair: A Study in Biographical Truth, N.Y., 2001, pp. 129-130.

 

@           ヴィルコミルスキーが生まれたのは、ラトヴィアのリガではない。彼は、1941212日に、未婚の母イヴォンヌ・グロスイェアンのもとにビエルで生まれた。その後一時的に、アデルボーデンの孤児院に収容されたが、1945年に養子に出され、最終的に、チューリヒのデッセッケル夫妻に引き取られた。

A           ヴィルコミルスキーは、1948年に始めてスイスにやってきたと述べているが、1946年の夏に、家族とともにチューリヒベルクの山荘の外で撮影された写真が残っている。そして、19474月に、当地の小学校に入学している。

B           ヴィルコミルスキーすなわちブルーノの本当の父親は、養子縁組が最終的に確定する1957年まで、養育費を払い続けている。

C           それゆえ、ビンヤミン・ヴィルコミルスキー、別名ブルーノ・グロスイェアンがドイツの強制収容所に収容されていたはずはなく、彼がアウシュヴィッツとマイダネクを知っているのは観光客としてだけである

D           したがって、その作品『断片』は、想像力が自分自身とはかけ離れてしまっている人物が、自分の頭脳の中でその想像力をまとめ上げた作品である

 

 

W 事件の考察

フィンケルシュタイン『ホロコースト産業』から

N. G. Finkelstein, The Holocaust Industry, L., N.Y., 2000, pp. 57-62.

 

 最近の偽物、ビンヤミン・ヴィルコミルスキーの『断片』は、コシンスキの『異端の鳥』というホロコーストのまがい物を粗雑なかたちでまねている。コシンスキと同様に、ヴィルコミルスキーも、自分のことを、無口となり、孤児院で過ごし、後に自分がユダヤ人であることを知った孤児の生存者として描いている。『異端の鳥』と同じように、『断片』の語り口は、無垢な子供のシンプルで、削りそがれた口調であり、それによって、時系列や地名があいまいとなっている。『異端の鳥』と同じように、『断片』の各章は、暴力の馬鹿騒ぎでクライマックスを迎えている。コシンスキは、『異端の鳥』を「精神のゆっくりとした解凍」と呼んでいるが、ヴィルコミルスキーも『断片』を「回復された記憶」と呼んでいる。

 『断片』はまったくの偽物であるにもかかわらず、典型的なホロコースト回想録である。強制収容所からはじまっており、そこでは、看守たちは、ユダヤ人の赤ん坊の頭を嬉々としながら打ち砕いている、狂気のサディスティックな怪物として登場している。しかし、ナチスの強制収容所についての古典的な回想は、「サディストはほとんどいませんでした。5%10%以下でしょう」というアウシュヴィッツの生存者エラ・リンゲンス-ライナーのようなものである。だが、ホロコースト文献には、ドイツ人のサディストたちが頻繁にどこにも登場している。彼らは、ホロコーストがきわめて独特の非合理性を持っていたこと、ならびにその実行犯が熱狂的な反ユダヤ主義者であったことを、「ドキュメント化」しているのである。

 『断片』の特異な点は、ホロコーストのときの生活の描き方ではなく、ホロコーストのあとの生活の描き方にある。幼いビンヤミンは、スイス人家族に引き取られると、新しい苦痛を耐え忍ぶことになる。彼は、ホロコースト否定派の世界に囚われてしまう。「忘れなさい、悪い夢だったのです。…悪夢にすぎなかったのです。これ以上そのことについては考えてはいけません」とビンヤミンの養母は叫ぶ。「この国では、誰もが、私は忘れるべきで、それは起こらなかった、夢を見ただけなのだといい続けている。しかし、彼らはそれについてすべてを知っているのだ」と彼はいらだっている。

 学校においてさえも、「男の子たちは僕を指さして、拳骨をつくって叫ぶ。『彼は嘘つきだ、そのようなことは起こらなかった。嘘つき!彼は狂っている。大馬鹿だ。』(ところで、この男の子たちは正しかった。)キリスト教徒の子供たちは、哀れなビンヤミンに対して結束し、彼を小突き、反ユダヤ主義的な戯れ歌を歌う。一方、大人たちは、「作り話をしている」と彼をなじり続ける。

 ビンヤミンは、無気力からくる絶望におそわれて、ホロコースト的な直感に到達する。「収容所はまだここにあるのだ。隠されて、うまく偽装されているだけだ。彼らは制服を脱いで、正体を見抜かれないように、着飾っているだけだ。…自分がユダヤ人かもしれないと少しでも彼らにほのめかせば、すぐにわかることだ。ここには同じ人々がいる。それを確信している。彼らは制服など着てなくても、殺すことが依然としてできるのだ。」

 『断片』はホロコーストの教義に忠誠を誓っているどころかそれ以上である。まだ、銃口から煙を出している銃である。このスイス、中立国のスイスにおいてさえ、すべてのキリスト教徒はユダヤ人を殺したがっているというのだから。

 『断片』はホロコースト文学の傑作として、広く賞賛された。12ヶ国語に翻訳され、全米ユダヤ人著作賞、ユダヤ人季刊誌賞、ショア記念賞を受賞した。ヴィルコミルスキーは、ドキュメンタリー・フィルムのスター、ホロコースト会議やゼミナールの首席講演者、合衆国ホロコースト記念博物館の基金発起人となることで、すぐにホロコーストの「顔」となっていった。

 ダニエル・ゴールドハーゲンは、『断片』を「傑作」として持ち上げ、学会でのヴィルコミルスキーの最大の支援者となった。しかし、ヒルバーグのような学識ある歴史家たちは、かなり前から、『断片』を偽書であるとみなしていた。彼はまた、ヴィルコミルスキーの正体が暴露されたのちにも、次のような正当な疑問を提起している。「いくつかの出版社で、この本が回想録としてどのように認められていったのか。ヴィルコミルスキー氏は、合衆国ホロコースト記念博物館ならびに著名な大学に、どのようにして招待されたのか。ホロコーストの資料が出版に値するかどうかを判断するにあたって、適切な品質管理を持たなくなってしまったのは、どうしてなのか。」

 ヴィルコミルスキーは、戦争中スイスですごしていたことが明らかとなった。彼は、ユダヤ人ですらなかった。しかし、ここでホロコースト産業界の弁明に耳を傾けてみよう。

 

「『断片』は非常にすばらしい本です。ノンフィクションとみなすから、偽物となってしまうだけです。フィクションのカテゴリーで再版するつもりです。本物ではないかもしれませんが、彼は優れた作家です。」(アーサー・サムエルソン:出版者)

 

「告発が正しいとしても、問題となっているのは、チェック可能な経験上の事実ではなく、思索を必要とする精神上の事実なのです。必要とされるのは精神のチェックでしょうが、それは不可能です。」(キャロル・ブラウン・ジェーンウェイ:編集者、翻訳者)

 

 これだけではない。イスラエル・ガットマンは、ヤド・ヴァシェムの所長であり、ヘブライ大学のホロコースト講師である。また、アウシュヴィッツの囚人でもあったが、彼によると、『断片』が偽書であるかどうかは「重要ではない」、「ヴィルコミルスキーは、彼自身が深く経験したことを物語として執筆した。彼は、詐欺師ではない。魂の中でこの物語を経験した人物なのである。その苦痛は本物だ」というのである。だから、ヴィルコミルスキーが戦時中に強制収容所にいたのか、それともスイスの山小屋にいたのかは重要ではないことになる。ヴィルコミルスキーは、その「苦痛が本物」であれば、詐欺師ではなくなる。ホロコースト専門家となったアウシュヴィッツの生存者はこのように語っているのである。サムエルソンとジェーンウェイは軽蔑するに値するが、ガットマンにはただただ憐れみを感じるだけである。

 『ニューヨーカー』は、ヴィルコミルスキーの正体を暴露した記事に「ホロコーストを盗む」という題をつけた。ヴィルコミルスキーは、ほんの少し前には、キリスト教徒の悪についての物語を書いた点で賞賛されていたが、今では、もう一人の邪悪なキリスト教徒として懲らしめられている。いずれにしても、いつもキリスト教徒のあやまちとなっている。確かに、ヴィルコミルスキーは、ホロコースト経験を捏造したが、イデオロギー的な目的のために歴史を歪曲して悪用するホロコースト産業こそが、ヴィルコミルスキーのような捏造を歓迎しようとしていたという方が真実に近い。ヴィルコミルスキーは、発見されることを待っていたホロコーストの「生存者」であったのである

 199910月、ヴィルコミルスキーの『断片』を書店から引き上げたドイツの出版社は、ヴィルコミルスキーがユダヤ人の孤児ではなく、ブルーノ・デッセッケルという名のスイス生まれの人物であることを公に認めた。万事休すであることを知らされたヴィルコミルスキーは、「私はビンヤミン・ヴィルコミルスキーである」と挑戦的に言い放ったという。1ヶ月もたたないうちに、アメリカの出版社ショッケンは、『断片』をその出版リストからはずした。

 

 

 

偽書として暴露されたホロコーストの生存者の回想

M. ウェーバー

M. Weber, Holocaust Survivor Memoir Exposed as Fraud, The Journal of Historical Review , Volume 17 (1998)

 

onlinehttp://ihr.org/jhr/v17/v17n5p15_Weber.html

 

 評判の高い文学賞と数多くの賞賛を受けたホロコースト生存者の回想録が、偽書であったことが暴露された。

 ビンヤミン・ヴィルコミルスキーは、『断片:戦時中の幼少期の記憶から』の中で、リガ(ラトヴィア)のユダヤ人ゲットーですごした子供時代の苦難を描いている。彼のもっとも幼いときの記憶は、このリガで父親が殺されたことを目撃したことだという。また、ヴィルコミルスキーは、3歳か4歳のときに経験した、ドイツの強制収容所マイダネクとアウシュヴィッツでの恐ろしい戦時中の囚人生活をどのようにして生き延びたのかを語っている。

 『断片』は1995年にドイツ語ではじめて出版され、その後、12ヶ国語に翻訳された。ヴィルコミルスキーが暮らしているスイスでは、最大のベストセラーとなった。二つのドキュメンタリー・フィルムが作られ、ヴィルコミルスキーが国中の学校を回ったために、『断片』はさらに売れていった。

 アメリカ版を出版したのはランダムハウスの印刷元ショッケンであった。同社は『断片』を教師用の指導教材、その他の補助教材として熱心に売り込んだ。

 ユダヤ人団体とアメリカの新聞も『断片』を賞賛した。『ニューヨーク・タイムズ』はそれを「非常に魅力的」と、『ロサンゼルス・タイムズ』は「ホロコーストに関するオーソドックスな第一級の物語」と賞賛した。そして、『断片』は1996年に、全国ユダヤ人著作自伝・回想録賞を受賞し、イギリスでは、ユダヤ人季刊誌文学賞、フランスではショアの記憶賞を受賞した。

 連邦政府の機関であるワシントンの合衆国ホロコースト記念博物館も高く賞賛し、昨年秋には、合衆国の資金でヴィルコミルスキーを6つの町に派遣した。

 しかし、この夏、ヴィルコミルスキーの回想録が偽書であることを暴露する決定的な証拠が公表された。

 ヴィルコミルスキーは、1939年にラトヴィアで生まれ、1947年か1948年にスイスにやってきたと述べているにもかかわらず、スイスの司法記録によると、実際には、彼は、19412月にスイスで生まれた、未婚の母イヴェッテ・グロスイェアンの息子であった。彼は、その後、チューリヒの中産階級デッセッケル夫妻の養子となって、彼らに育てられた。ユダヤ系ジャーナリストのダニエル・ガンツフリードの記事は、養父母の家の庭で1946年に撮影された写真に、ブルーノ・デッセッケル(ヴィルコミルスキー)が写っているのを発見したとも述べている。

 著名な文学者イェルジ・コシンスキの自伝的「ホロコースト回想録」とみなされていた『異端の鳥』は、のちに偽物であることが判明したが、その著作とヴィルコミルスキーの『断片』との比較もなされてきた。

 ヴィルコミルスキーの正体が暴露されたのちのユダヤ系ホロコースト研究者たちの反応は、教訓に満ちたものであった。彼らは、歴史の真実よりも宣伝効果の方を重視しているようであったからである。彼らは、詐欺行為が犯されたことに憤るのではなく、詐欺行為が暴露されたことにまず懸念を表していた。

 ユダヤ系の作家Judith Shulevitzは、カナダの有力紙(Ottawa Citizen, Nov. 18, 1998)に発表したエッセイの中で、『断片』が本物であるかどうかはまったく重要なことではない、とあつかましくも論じている。彼女が懸念していたのは、この詐欺行為が稚拙であったことであった。「私としては、ヴィルコミルスキー=デッセッケルが詐欺行為をするにあたってもっと細心の注意を支払って、世界的な文学作品に値するような壮麗な偽物を執筆すればよかったと考えている」というのである。

 クラーク大学(マサチューセッツ州ウォセスター)のホロコースト研究センター所長であり、『アウシュヴィッツ:1270年から今日まで』(イェール大学出版、1996年)の共著者でもあるDeborah Dworkは、『断片』が偽書であることが判明したことは認めつつも、ヴィルコミルスキーに出会ったとき、彼は「深く心の傷を負った人物のようであった」と述べて、彼への共感を表明している。何と、Deborah Dworkは「彼のアイデンティティを信じているがゆえに」、彼の詐欺行為を非難しないし、むしろ、出版者の方が彼のことを「利用して」きたというのである(『ニューヨーク・タイムズ』1998113日)。

 反修正主義的な論争の書Denying the Holocaustの著者デボラ・リップシュタットは、自分の勤務するエモリー大学でのホロコーストの記憶に関する授業で、この『断片』を使っていた。彼女は、これが偽書であるとの証拠を突きつけられると、ヴィルコミルスキーの正体が暴露されたことは「事態を少々込み入ったものにしたかもしれないが、作品は依然として力強いものである」とコメントしている。

 ガンツフリードは、もし『断片』が偽書だとしても、彼の暴露記事は「ホロコーストを否定する人々」を危険なほど助けてしまっているとの苦情が数多く寄せられたと述べている。

 アメリカのユダヤ系作家Howard Weissは、Chicago Jewish Star (Oct. 9-29, 1998)に掲載されたエッセイの中で、同じようなことを述べている。

 

「ホロコーストに関するフィクションの話を実話として発表してしまうことは、ナチズムの恐怖と死の収容所は存在しなかったと主張する人々に塩を送るようなものにすぎない。一つの話が嘘であるとすると、否定派は、だとすると、どの生存者の話が真実であるのかというようにたたみかけてくるからである。…」

 

 ヴィルコミルスキー自身は、自分の正体が暴露されたために、姿を隠した。もっとも、彼は、自分の回想録をめぐる議論が「全体主義的な裁定と批判」という「悪意のある」環境の中で進められたとの挑戦的な声明を公表しているが。

 

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