試訳:総統代理ルドルフ・ヘスの遺産
M. ウェーバー
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2006年5月18日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Mark Weber, The Legacy of Rudolf Hess, The
Journal of Historical Review, volume 13 no. 1を「総統代理ルドルフ・ヘスの遺産」と題して試訳したものである。(文中のマークは当研究会が付したものである。) 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 online: http://www.ihr.org/jhr/v13/v13n1p20_Weber.html [歴史的修正主義研究会による解題] 総統代理ルドルフ・ヘスはニュルンベルク裁判において、終身刑となり、1987年にシュパンダウ刑務所で不可解な死を遂げた。修正主義者ウェーバーは、ニュルンベルク裁判が「平和を求めて」単身イギリスに渡ったヘスを「平和に対する罪」で断罪したことこそ、この裁判のまやかしを象徴していると論じている。 |
1941年5月10日の晩、第三帝国総統代理は、自分の最後の、そしてもっとも重要な秘密の任務に取りかかった。ルドルフ・ヘスは暗闇の中、武装を取り外した戦闘爆撃機メッサーシュミットBF110に乗り込んで、アウグスブルクの飛行場を離陸し、イギリスに向けて北海を横切っていった。ドイツとイギリスの講和交渉が彼の計画であった。
イギリスの対空砲とスピットファイアーの追撃を避け、4時間後にヘスは生まれてはじめて、パラシュート降下を試み、足首をくじきながらも、スコットランドの農場に降り立った。驚いた農夫は負傷したパイロットを発見し、地元の郷土防衛隊に引き渡した[1]。
ヘスは非武装かつ自分の意志でやってきたにもかかわらず、チャーチルはヘスの講和提案をすぐに拒絶し、彼を戦争捕虜として投獄した。そしてその後、この平和の使者ルドルフ・ヘスは、1987年8月、93歳で他界するまで囚人であった。
多くの人々にとって、総統代理、ヒトラーの側近の最後の生き残りの死は、恐ろしい時代の終わりとして、歓迎すべきものであった。しかし、彼の本当の遺産はまったく別のものである。彼は、生涯の半分にあたる46年間を、残酷な勝者の正義の犠牲者として、獄中ですごした。このことは、ニュルンベルク裁判の復讐心と偽善を何よりも象徴している。
<使命=任務>
1939年9月、イギリスはドイツに宣戦布告したが、このことはヘスに強い衝撃を与えた。数ヵ月後、彼はヒトラーの承認を得て、中立国のポルトガルとスイスで、イギリスのエージェントを介して、二つの「ゲルマン兄弟国家」とのあいだの講和条約交渉を始めた[2]。この努力が失敗すると、ヘスはイギリスに飛ぶ準備を始めた。それは、自分の愛する祖国と自分の大いに賞賛する国家とのあいだの戦争を終わらせようとする、ナイーブであったとしても、無条件に誠実な行為であった。ヘスはこの飛行の数週間後に、イギリス当局にこう述べている。
「私がこのようなやり方でイギリスにやってきたことは、尋常ではないので、その意味をすぐに理解できる人はほとんどいないでしょう。私は非常に厳しい決意を迫られていました。私の眼前には、嘆き悲しむイギリス人とドイツ人の母親たちが続く際限のない子供たちの棺の列と、嘆き悲しむイギリス人とドイツ人の子供たちが続く別の棺の列がありました。このために、[イギリスに飛ぶ]という最終的な選択を行わざるをえなかったのです。」[3]
ヘスの任務が成功するチャンスはほとんどなかったけれども、彼の飛行およびその後の経緯については明らかになっていない点も多い。イギリス政府は数十のヘス関連文書を封印し、その公開を2017年としている。戦時中の対ドイツ宣伝放送責任者セフトン・デルマーは、イギリス政府には隠さなくてはならない十分な理由があると憶測している[4]。
当時、チャーチルはヘスの事件について言及しておらず、沈黙を保っていた。イギリス国内には強力な対ドイツ講和派が存在しており、ヘスの講和提案を拒否することで、大臣の座から追い払われることを恐れていたのであろう。
<勝者の正義>
終戦とともに、ヘスはニュルンベルクに連行され、「主要戦争犯罪人」の一人として、他のドイツの指導者たちとともに、米、英、ソ、仏によって裁かれた。
このニュルンベルク裁判で、ヘスはほかのどの被告よりも不公平な扱いを受けたが、この裁判自身が法的にも道徳的にも疑問の余地のあるものであった。欧米の多くの著名人が、この裁判が二つの根本原則を逸脱したと指摘している。
第一に、この裁判は敗者に対する勝者の裁判であった。勝者が、法律を作り、検事と判事と被害者=原告を務め、同時に、ある点では共犯でもあった(ポーランド分割にあたってのソ連)。
第二に、罪状は、事件が起ったのちに作られた法律によって捏造されたものであった(「事後法」)。
合衆国最高裁判事Harlan Fiske Stoneはこの裁判のことをまやかしと呼び、こう記している。
「ジャクソンはニュルンベルクで彼の高度なリンチを取り仕切っている。私は彼がナチスに対して何をするかには関心がない。しかし、彼が一般法に従って法廷と審理を指導している振りを見ることを憎む。…ニュルンベルク裁判が、勝者による敗者への権力の行使を、後者が侵略を行なったという理由で正当化しようとするのであれば、その裁判が合法性という虚偽の仮面をつけていることに嫌悪感を覚える。この裁判について言えることは、それが戦勝国による政治的な行為であったということである。」[5]
最高裁判事補William O. Douglasは、ニュルンベルクで「力で諸原則を変えてしまった」咎で連合国を非難した[6]。さらにこうも書いている。
「私は、ニュルンベルク裁判が法的な諸原則に反していると当時も考えていたし、今もそのように考えている。法律は、当時の激情と騒動に合わせるために事後に作られた。事後法という概念は、アングロ・アメリカ的な法律観にはマッチしていない。」[7]
「国際軍事法廷」にソ連が参加したことが、その政治的視見世物裁判としての性格をいっそう明らかにした。公判の開始を厳かに司ったニキチェンコ判事は、1936年にモスクワで開かれた、有名な見世物裁判――ジノヴィエフとカーメネフを裁いた――の判事でもあった。「国際軍事法廷」が召集される前に、ニキチェンコは裁判についてのソ連側見解をこう説明している。
「われわれがここで扱っているのは、すでに有罪とされ、[連合国]政府首班によるモスクワ声明とクリミア[ヤルタ]声明によってその有罪が宣告されている主要戦争犯罪人である。・・・今後なすべきことは、彼らの犯罪に対するすみやかで公正な処罰を定めることである。」[8]
ニュルンベルク裁判の寄ってたつ法的基盤が疑わしいことは別として、ヘスやドイツの指導者たちに適用された原則は、連合国の指導者には適用されなかった。アメリカ首席検事ジャクソンは、公の舞台では連合国の建前の論理を強く打ち出したが、トルーマン大統領あての私信では、連合国も、ドイツ人が訴追されているのと同じ所業を行なってきたし、行なっていることを認めている。
「フランスはドイツ軍戦争捕虜の扱いの面でジュネーブ協定を犯しており、ドイツ軍捕虜を[フランスでの強制労働のために]連行しています。われわれは、略奪の件を訴追していますが、連合国もそれを今行なっています。われわれは、侵略戦争を犯罪と宣告していますが、われわれの同盟国の一つは、征服という手段によってバルト諸国に対する主権を行使しています。」[9]
ニュルンベルク裁判の不公平さを如実に表しているのは、ルドルフ・ヘスに対する裁判所の処遇である。
彼が被告席に座らされているのは、鳴り物入りの、重要ではあるが、幾分か中身のない総統代理という肩書きのためであった。ヒトラーの代理という彼の職務はまったくセレモニー向けのものであった。国民にクリスマスの挨拶を送り、国外からの民族ドイツ人の代表を歓迎し、慈善事業に姿を現し、毎年のニュルンベルク党大会で総統を紹介するという具合であった。レニー・リーフェンシュタールが1934年の党大会を描いた作品「意志の勝利」には彼が登場するシーンがあるが、世界がもっともよく覚えているのは、このシーンの中の目を見開いた、恍惚の境地にいるヘスなのである。
ヘスは「党の良心」として知られており、党内の過激分子による迫害の犠牲者のために、しばしば権力と影響力を行使した。歴史家R. Conotはその著作 Justice at Nuremberg (New York: Harper & Row, 1983)の中で、ドイツ人被告には非常に批判的な姿勢をとっているが、ヘスのことを「上品で誠実な」人物、「心からの平和主義者」と呼んでいる[10]。
戦勝4カ国は総統代理ヘスに対する起訴状の中で、彼のことをできる限りの悪意を持って描いている[11]。「ヘスは第一次世界大戦終了直後から陰謀活動を始め、軍国主義的・国家主義的団体に加入した」というのである。さらに、「ヘスは、すでに1933年には世界征服が目標であると告白している[ナチの]陰謀組織の一員であった」というような馬鹿げた主張をしている。連合国の起訴状は、次のような馬鹿げた文句で終わっている。
「1920年から1941年の全期間を通じて、ヘスはヒトラーの目的と意図のもっとも忠実で、冷徹な実行者であった。彼が陰謀に全身全霊を傾けて加担したことは、イギリスとの戦争を終わらせ、彼自身もその作成を助けたロシアに対するドイツの要求にイギリスの支持を得るために、スコットランドに飛来した事件で頂点に達した。ナチの陰謀にヘスが加担した割合は、彼の指導する党がその陰謀に加担した割合と同じである。したがって、党の犯罪は彼の犯罪である。」
実際には、ヘスに対する連合国の告発の根拠は脆弱であった。ヒトラーは、対外政策や軍事的決定のことをヘスにあまりつまびらかにしなかった。ヘスが、ヒトラーが自分の軍事計画を議論したどの会議にも出席していなかったことが、ニュルンベルク裁判で明らかとなっている[12]。そしてもちろん、彼には、イギリスへの飛行以降に行われたドイツの行為、独ソ戦の最中に行われた行為についても責任がありえるはずがない。
にもかかわらず、ニュルンベルク裁判は、ヘスについて、「平和に対する罪」(「侵略戦争の計画と準備」)および他のドイツ指導者との「共謀」の点では有罪、「戦時法違反」および「人道に対する罪」に点では無罪を宣告した。
ヘスが「平和に対する罪」で有罪であったというニュルンベルク裁判の告発を信じている高名な歴史家は、今日では一人もいない。最近では、ヘスに対する批判は、彼が、ドイツ系ユダヤ人からすべての市民権を取り上げ、ユダヤ人と非ユダヤ人とのあいだの結婚と性的関係を禁止した1935年のニュルンベルク法に署名した点に集中している。数年後には、これらの法律がユダヤ人絶滅への「道を切り開いた」というのである[13]。この議論にいかなる利点があるにせよ、ヘスはこれらの法律の起草と作成にまったく関与していない。彼の署名はまったく形式上のことである。そして、この法律は国内法であり、アメリカ合衆国その他の国にも、これと類似した法律が存在していた。
同僚の被告シュペーアは、戦時中は軍需大臣であり、ヘスに比べるとドイツの戦争マシーンの運行にはるかに関与していたが、国際軍事法廷に取り入ることで、懲役20年の刑を受けただけであった。シュペーアとは異なり、ヘスは国際軍事法廷に取り入ることを拒否した。ヒトラーと民族社会主義体制を全面的に支持したことをまったく後悔していないと明言したのである。
彼は、1946年8月31日の最終陳述の中で、こう述べている。
「私は、わが国民が千年の歴史の中で産み出したもっとも偉大なる息子のもとで、私の生涯の多くを費やして働く機会に恵まれました。もし可能だとしても、私の生涯から、この時期のことを消し去ろうとは思いません。私は、ドイツ人として、民族社会主義者として、総統の忠実なる部下として、わが国民に対する義務を果たしました。そのことに喜びを感じております。後悔することは何もありません。
すべてを最初からやり直すことができたとしても、すでにやってきたことと同じように行動するでしょう。たとえ、このことで火刑に処せられるようになることを知っていたとしても、そうするでしょう。人間がたとえどのようなことをしようとも、いつの日か、私は、永遠なるものの裁きの椅子の前に立つことでしょう。そして、私は、永遠なるものの尋問に答えるでしょう。そして、私は知っています。永遠なるものは私を無実であると審判するであろうことを。」
判決を下さなくてはならない時期が到来すると、判事たちは、悔いることのない被告に寛大な措置をとろうとはしなかった。ソ連の判事とその代理は、処刑されるべきだと考えていた。イギリスとアメリカの判事、アメリカとフランスの代理は終身刑を支持した。一方、フランスの判事は懲役20年を支持した。イギリスの代理は棄権した。結局、終身刑に落ち着いた[14]。
著名なイギリス人歴史家テイラー教授は、ヘスのケースが不公平であることについて、1969年にこう述べている。
「ヘスが1941年イギリスにやってきたのは、平和の使節としてだった。彼は、大英帝国とドイツとのあいだに平和を回復しようとして、やってきた。彼は、誠実に振る舞った。彼はわれわれイギリス人の手に落ち、まったく不公平に、戦争捕虜として扱われた。戦後、われわれはヘスを釈放できたはずであった。ヘスについてはどのような罪状も立証されていない。…記録の示すところでは、彼は、ヒトラーが自分の戦争計画を説明した秘密会議に、一度も出席したこともない。もちろん、彼はナチス党の幹部であった。しかし、彼の有罪の程度は、その他のナチ党員、もし言ってよければ、その他のドイツ人の有罪の程度と同一である。ナチ党員、ドイツ人すべてが戦争を遂行していた。しかし、このことで告発されてはいない。」[15]
ルドルフ・ヘスはニュルンベルク裁判の被告の中でただ一人、命を懸けて平和を求めた人物であるが、その彼が「平和に対する罪」で有罪となっていることは、正義を実現したとされるニュルンベルク裁判のもっとも皮肉な側面であろう。
<シュパンダウ刑務所>
ヘスは1947年から最後を迎えるまで、戦勝4カ国が管理する西ベルリンのシュパンダウ刑務所に収容されていた。「拘禁は独居房で行われる」との規則であり、看守はヘスを名前で呼ぶことを禁止されていた。彼は「囚人7号」とだけ呼ばれていた。
待遇がひどく悪いので、フランス人牧師Pastor Casalisは1950年に、「シュパンダウは、キリスト教徒として良心がそのことに口をつむぐことができないほど劣悪で、精神的な拷問部屋となっている」と収容所管理局長に抗議している[16]。
最初の20年間は、ヘスにも、他のニュルンベルク裁判の被告という少数の仲間がいたが、1966年10月から彼の死までの21年間は、もともと600人が収容できる要塞のような監獄の中でたった一人の囚人であった。シュパンダウのアメリカ人管理局長Eugene Bird中佐の言葉を借りれば、「世界でもっとも孤独な人間」であった。
西ドイツ政府は、シュパンダウ刑務所に一人の囚人を収容するために、毎年85万マルクを支出した。その上、戦勝4カ国はそれぞれ、担当期間に、一人の将校と37人の兵士、ならびに1年を通じて、管理局長と看守チームを提供しなくてはならなかった。22名の常駐維持スタッフには、コック、ウエイトレス、洗濯屋が含まれていた。
ヘスはその最後の日々、病弱な老人となり、片目が見えずに、杖を突いて歩いていた。厳格に定められた規則にしたがって、まったく孤独の中で暮らしていた。まれに、妻や息子と面会することができたが、抱擁したり、ひいては触れることも許されなかった[17]。
ヘスの獄中生活は、彼が死亡するかなり前から、醜悪で、馬鹿げた様相を呈するようになった。
チャーチルでさえも、彼の待遇に懸念を表明して、1950年にこう書いている。
「事件の推移を省みると、自分がヘスに対する過去と現在の処遇に責任を負っていないことに安堵の念を覚える。ヒトラーの近くにいたドイツ人にどのような道徳的罪があるにせよ、ヘスは、この行ないに関して、精神錯乱的善行というまったく献身的で熱狂的な所業によって、その罪をあがなったように思われる。彼は自分の自由意志でわれわれのもとにやってきて、まったく権威を持ってはいなかったけれども、それなりの使節としての資格を持っていた。彼の事件は犯罪事件ではなく、医学的な問題であり、そのように扱われるべきである。」[18]
ニュルンベルク裁判でのイギリス首席検事ショークロス卿は1977年のインタビューの中で、ヘスの拘禁が続けられていることを「スキャンダル」と呼んでいる[19]。
ヘスに対する不正は、一過性のものでも、すぐに過ぎ去っていったものでもない。この不正は、46年間、毎日毎日続いた誤りであった。ルドルフ・ヘスは平和の囚人であり、復讐の時代の犠牲者であった。
[1] Ilse Hess,
Rudolf Hess: Prisoner of Peace (Torrance, Calif.: IHR, 1982), pp. 31-38, 25-27;
Wolf R. Hess, My Father Rudolf Hess (London: W.H. Allen, 1986), pp. 17-24;
Eugene K. Bird, Prisoner # 7: Rudolf Hess, (New York: Viking Press, 1974), pp.
184, 200, 209-210.
[2] W. R. Hess, My Father Rudolf Hess, pp. 50,
66-67; Ilse Hess, Rudolf Hess: Prisoner of Peace, pp.
15, 24.
[3] Hess statement to Sir John Simon,
[4] Quoted in: W. R. Hess, My Father Rudolf
Hess, pp. 391-392.
[5]
[6] William O. Douglas, An Almanac of
[7] Quoted in: H. K. Thompson, Jr. and Henry Strutz, eds., Dönitz at
[8] Report of Robert Jackson, United States
Representative to the International Conference on Military Trials,
[9]
[10] R. Conot,
Justice at
[11] Office of the United States Chief of
Counsel for the Prosecution of Axis Criminality, Nazi Conspiracy and Aggression
(11 vols.),
[12] R. Conot,
Justice at Nuremberg, pp. 347-348, 501; W. R. Hess, My Father Rudolf Hess, p.
229.
[13] See, for example: "Rudolf Hess,"
Washington Post (editorial),
[14] R. Conot,
Justice at
[15] Sunday Express,
[16] W. R. Hess, My Father Rudolf Hess, pp.
265-266.
[17] Eugene K. Bird, Prisoner # 7: Rudolf Hess,
p. 152 and passim.
[18] Winston S. Churchill, The Grand
[19] Interview with Bild
am Sonntag,