試訳:ヴィルヘルム・ヘットルと捕らえどころのない「600万人」
M. ウェーバー
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年7月20日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Mark Weber,
Wilhelm Höttl and the elusive 'six million', The Journal for Historical
Review,
September/December 2001を試訳したものである。 |
600万人という数字は人々の意識の中に深く浸透してしまっているので、平均的なアメリカ人であるならば、第二次世界大戦中に600万人のユダヤ人がドイツ人によって虐殺され、それが「ホロコースト」と呼ばれている事件であることをよく知っているであろう。しかし、同じ人物が、この大戦でのイギリス人、ポーランド人、ロシア人、ひいてはアメリカ人の死者の数を知らないのである。そしてまた、南北戦争での同じアメリカ人の死者の数を知らないのである。
このような事態は驚くべきことではない。600万人という数字は、新聞、雑誌、映画、テレビのみならず、学校においても人々の意識の中に絶えず叩き込まれているからである。さらに、特別な納税者によってまかなわれている合衆国連邦政府部局、すなわち合衆国ホロコースト記念会議は、首都ワシントンで壮大な合衆国ホロコースト記念博物館を運営しているからである。
例えば、よく親しまれているWorld Book
Encyclopediaには、「1945年までに、ナチスは600万人以上のユダヤ人男性・女性・子供を殺戮した。それはヨーロッパのユダヤ人の3分の2以上であった」とある[1]。また、しばしば引用されるドイツ大統領ヴァイツゼッカーの1985年5月8日の記念演説にも、「ドイツの強制収容所で殺された600万人のユダヤ人」とある。ユダヤ系イギリス人歴史家マーチン・ギルバートは、チャーチルの「公的」伝記も執筆した多産な作家であるが、その彼も、「600万人のユダヤ人の組織的殺戮」と述べている[2]。また、Encyclopaedia
Judaicaも「600万人ほどの犠牲者という見積もりには疑問の余地がない」と明言している[3]。合衆国ホロコースト記念会議の発行するパンフレットは、首都ワシントンにあるホロコースト博物館のことを、「ナチスの狂信によって、ホロコーストで死んでいった600万人のユダヤ人とその多数百万人の犠牲者の生きたメモリアル」と表現している。
だが一体、このよく親しまれている数字の根拠はどこにあるのか?
ヨーロッパで第二次世界大戦が終わる以前に、すなわち、まだ入念な調査が可能となる以前に、600万人という数字はすでに広く広まっていた。例えば、有名なユダヤ系ソ連人作家イリア・エレンブルクは、1944年末と1945年初頭に発表した文章の中で、「ドイツ人」は600万人のユダヤ人を殺したと、多くの読者に対して記している。エレンブルクは、1945年3月に、英語のロンドン週刊誌「ソ連戦争ニュース」に寄稿しているが、その記事の中で、「今では、ドイツが600万人のユダヤ人を殺したことを世界が知っている」と述べている[4]。
その数週間後、メジャーなユダヤ人団体の代表者が、ニューヨークでこの数字を認めた。この件について、アーヴィングは次のように記している[5]。
「ヨーロッパでの終戦の数週間後の1945年6月、メジャーなユダヤ人団体を代表する3名のユダヤ人法律家が、ニューヨークでロバート・ジャクソンに会った。ジャクソンは、ニュルンベルクでのいわゆる『国際軍事法廷』の合衆国首席検事となる予定であったが、ナチス占領下の諸国でのユダヤ人の死者の数を尋ねると、600万人という数字がかえってきた。」
驚くほどの一致であるが、すでにこの25年前に、アメリカのユダヤ人共同体は、ヨーロッパでの600万人のユダヤ人の「ホロコースト」について警告していた。1919年、ユダヤ系アメリカ人の著名な新聞American Hebrew of New
York Cityに「ユダヤ人の十字架刑を止めなくてはならない!」という見出しの記事が掲載された。その中で、ニューヨーク州前知事マーチン・グリンは、「600万人の」ヨーロッパ・ユダヤ人が、「人間生活の恐ろしいホロコースト」の中で「死につつあり」、「墓場に向かって押し寄せている」と繰り返し語っている[6]。
以上のことを念頭に置くと、ゲーリング、ヘスその他の第三帝国の高官に対する1945−46年のニュルンベルク裁判という、史上もっとも法外な裁判で、600万人という数字の「証拠」が提出されたと考えたとしても、驚くべきことではない。この伝説の数字は、ニュルンベルク国際軍事法廷の中で歴史の事実として確定された。イギリスの検事ショークロス卿は最終陳述の中でこの数字を引用し、連合国の判事も判決の中でこの数字を引用しているからである[7]。
しかし、この数字は、入念な調査、研究、計算の上で出されたものではない。ニュルンベルク裁判に提出された唯一の証拠は、SS将校ヴィルヘルム・ヘットルの伝聞証言だけである。彼は、ヒムラーの国家保安本部(RSHA)ユダヤ問題課長アイヒマンからの発言として、この数字をあげていた。戦時中に国家保安本部に勤務していたヘットルは、1945年11月26日に作成され、ニュルンベルクの合衆国検事団にわたされた供述書の中で、400万人ほどのユダヤ人が「さまざまな絶滅収容所」で殺され、さらに、200万人が、その他の方法、とくに、独ソ戦期における特別行動部隊による銃殺によって殺されたということを、1944年8月にアイヒマンから聞いたと証言したのである[8]。
注目すべきことに、アイヒマン自身は、ヘットルの話を「ナンセンス」とみなし、そのような話をしたことを強く否定して、ヘットルがこの数字を持ってきたのはラジオ放送か新聞記事からであったに違いないと推測している[9]。
もしも、ヘットルが、600万人という商標を世界中の人々の心の中に刻み付けた張本人でなかったとすれば、彼の歴史的な位置はせいぜい脚注扱いにすぎなかったことであろう。
この人物は何者なのか、彼の歴史的な供述はどの程度信頼できるものなのであろうか?
ヘットルは1915年3月ウィーンで生まれた。1938年、23歳の若さで、ウィーン大学から歴史学の博士号を授与されている。まだ在学中に、ナチス党とSSに加入している。1939年から終戦まで、ヘットルはほほ中断なく、ドイツの中央情報局、国家保安本部に勤務していた。まず、ウィーンの「外国課」(Amt Ausland、のちのAmt
VI)に、ついで、1943年初頭からは、ベルリンの第4課「南東ヨーロッパ局」にSS少佐として勤務した。
1944年3月、ヘットルはブダペストに転勤となり、ハンガリーでのヒムラーのSS代表ナンバー・ツーとして、またヒトラーのハンガリー大使フェーゼンマイアー――彼は、1944年のハンガリーからのユダヤ人の大量移送についてベルリンに報告している――の政治顧問として勤務した。1945年5月8日、ドイツ軍が連合国に対して無条件降伏すると、アメリカ軍はオーストリアでヘットルを逮捕した。その後数年間、彼は、アメリカの情報員として活動した。彼は、自己弁明的な回想録を出版してほどなく、1999年に死んだ。
2001年4月、合衆国CIAは、それまで未公開であった、ドイツの戦時中の主要人物に関する数千頁の資料を公開したが、そこには、ヘットルについての膨大なファイルも入っていた。二人の合衆国の役人が、この文書の公開に伴って、最近極秘扱いから解除されたCIAのファイルにもとづいて、ヘットルについての詳細な報告を執筆・公表した。それは、ヘットルの戦時中と戦後の経歴に光をあてている。この報告の表題は「ヴィルヘルム・ヘットル人物ファイルの分析」であり、合衆国「部局間作業グループ」の二人の「歴史研究者」ミリアム・クレイマンとロバート・スクヴィロトによって書かれている[10]。
これらの文書によると、ヘットルが、自分にお金を支払ってくる人物の気に入るようにつねに情報を捏造するまったく信頼できない情報提供者であった。二人の合衆国の研究者は、報告の中で次のように述べている。
「ヘットルの人物ファイルは600頁にもおよび、今回公開されたものの中でも最大のファイルの一つである。ヘットルは戦後、自分に金を支払ってくれる人であれば、誰に対しても、よいものであれ悪いものであれ、情報を提供してきたが、そのために、彼の人物ファイルが膨大となっている。ヘットルは、合衆国、ユーゴスラヴィア、オーストリア、イスラエル、ルーマニア、バチカン、スイス、フランス、西ドイツ、ロシア、ハンガリー、イギリスなど12カ国の情報機関と接触していた。」
1945年5月、アメリカ軍に逮捕されると、すぐにヘットルは合衆国戦略情報局(OSS)――現在のCIAの前身――のために働き始めた。上記の研究者によると、「ヘットルは逮捕されるとすぐに、自分を逮捕した人々の利にかなうように行動した」というのである。ヘットルが、歴史的な、そして呪われた「600万人」という供述書を提供し、それをアメリカ検事団が連合国主導のニュルンベルク裁判に提出したのは、まさにこの時期、すなわち、彼が秘密裏にアメリカ情報機関のために働いていたときのことであった。
ヘットルは、自分に金を提供してくれる人々が望むような情報を喜んで提供し、そこから利益を引き出していたが、そのような腐敗が明らかになるのには時間がかかった。腐敗が存在していると合衆国情報機関が確信するには数年を要したのである。
1949年6月、合衆国の一人の情報将校が、いかなる理由であれヘットルを利用することに警告を発している。ヘットルは「非常に資質が劣悪で、政治的記録もかんばしくないので、彼を合衆国の情報活動に利用することは、それがどんなに役に立つように見えようと、先見の明のない政策となってしまう」というのである。1950年8月、CIAの内部文書は、ヘットルを「悪名高い情報の捏造者」と呼んでいる。1952年初頭の合衆国陸軍CIC報告は、ヘットルの情報を無益なものとしてしりぞけ、ヘットルは「誰であっても、自分の情報を買ってくれる人のために、幅広い情報活動にかかわっている」と記している。1952年4月、ヘットルの報告は「価値がなく、水増しされているか捏造されている」と呼ばれている。
興味深いことに、合衆国の多くの情報報告が、ヘットルと有名な「ナチ・ハンター」サイモン・ヴィーゼンタールとの関係を指摘している。ある合衆国陸軍CIC文書は、ヴィーゼンタールを「イスラエル情報局のオーストリア工作員首席」と呼んでいる。1950年1月のCIC報告には、ヴィーゼンタールが過去3、4ヶ月、ヴィルヘルム・ヘットルから情報を集め」、彼を雇って、「ナチ・ハンター」の報告のために情報を集めたと指摘されている。
1952年7月、合衆国陸軍情報機関がヘットルとの関係を絶ったとき、合衆国陸軍の書簡は次のように警告している。
「ヘットル博士は、オーストリアの当司令部とその他の連合国軍事機関には、以前から情報の捏造者として知られていた。彼の報告には、事実の蜘蛛の巣の上に、嘘、虚偽、憶測、その他の虚偽情報がちりばめられている。当組織は、ヘットル博士と彼の仲間とはまったく関係を持たないであろう。彼は、オーストリア在住のアメリカ、フランス、イギリス諸機関には好ましからざる人物である。」
合衆国政府の歴史研究者クレイマンとスクヴィロトは、ヘットルの戦後の経歴についての報告を次のようにしめくくっている。
「ヴィルヘルム・ヘットルの人物ファイルにある大部な資料のよると、彼は、次々と情報機関をうまく説得して成功を収め、その後、その情報機関の信頼を失っていくという、悪名高い情報提供者・捏造者であったことがわかる。」
すでに指摘したように、ヘットルは、ドイツ政府が第二次世界大戦中に600万人のユダヤ人を殺したと、ニュルンベルクの連合国裁判のアメリカ・イギリス検事および判事を「うまく説得し」、その後、世界中の多くの人々を説得することに成功した。合衆国情報機関と合衆国政府の研究者が、ヘットルは信頼できないと最終的に判断するようになったにもかかわらず、ヘットルによるもっとも重要な歴史上の主張は、広く、ひいては公的に受け入れられている。
ヘットルに関する最近公開された合衆国の情報文書と彼の戦後の経歴についての合衆国政府報告は、すでに何年か前から修正主義的研究者が主張してきたことを確証している。バッツ博士は、1976年に初版が登場した、道を切り開いた著作『20世紀の詐術』の中で、すでに1950年代に公開されていた資料を引用して、戦時中にヘットルが一度ならずSS当局と揉め事を起こしていたことを明らかにしている。彼は、1942年にポーランドでのいかがわしい土地取引に関与していたが、そのことがSSの調査対象となったのである。SSの内部報告は、彼のことを、「不誠実、陰謀家、おべっか使い、・・・本当の詐欺師」と呼んでおり、SS隊員、ましては、微妙な情報活動の職務にはふさわしくないと結論している[11]。このために、ヘットルは降等処分となった。しかし、友人で同じオーストリア人のカルテンブルンナーが1943年に国家保安本部長官に任命されると、ヘットルにも運が向いてきた。
ヘットルは、保安部関係の資金を乱用した件で、査察対象になりかけたが、このときも、カルテンブルンナーがかばってくれたようである。
ヘットルの有名な供述にはまったく信憑性がないが、にもかかわらず、この600万人という数字が有効であるのかという、もっと重要な問題が残っている。
ホロコースト史家たちが、500−600万人のユダヤ人が絶滅されたという数字を算出するにあたって使っているもっとも一般的な方法は、ヨーロッパ諸国・地域の戦前と戦後のユダヤ人人口を比較して、その差額が殺されたと推定することである。例えば、ヤコブ・レシュチンスキイは、1946年の世界ユダヤ人会議報告の中で、この方法を使って、ユダヤ人のホロコースト犠牲者5957000名という数字を算出している[12]。また、もう一人のユダヤ系ホロコースト史家ルーシイ・ダヴィドヴィチも、このテクニックを使って、590万人のユダヤ人犠牲者という数字を算出している[13]。
しかし、この方法は、戦時中に連合国や中立国に亡命・逃亡したユダヤ人の実数を考慮に入れていない。また、とりわけ東ヨーロッパの多数のユダヤ人が戦後に故郷には戻らず、ヨーロッパ以外のパレスチナ、合衆国その他の諸国に移住していった事実も無視されている。
さらに、すべてのユダヤ人死亡者(「損失」)がドイツや枢軸国の政策によるという前提に立っている。すなわち、戦時中に死亡したドイツや枢軸国支配下の地域のユダヤ人は、その死因が無視されて、すべて「ホロコーストの犠牲者」であったとみなされてしまっているのである。自然死したユダヤ人、連合軍による都市・強制収容所空爆での犠牲者、連合国兵士、とくにソ連軍兵士として死亡したユダヤ人、戦争末期の破局的状況の中で――数十万のドイツ人民間人と同様に――疲弊、疫病、野ざらしによって死亡したユダヤ人もすべて「ホロコーストの犠牲者」に入ってしまっている。もっとも高名なホロコースト史家であるヒルバーグも、「ユダヤ人の損失」と「ホロコーストの犠牲者」とを区別すべきであると考えている。例えば、彼は、開戦時のドイツのユダヤ人の平均年齢が並外れて高かったことを指摘している[14]。
また、戦時中には、600万人ものユダヤ人がドイツ人の支配下には存在しなかったと思われる。
戦時中の在スイス世界ユダヤ人会議代表ゲルハルト・リーグナーは、ドイツ占領下・支配下諸国のユダヤ人の合計が340−350万人である、と1942年8月にロンドンとワシントンに内々で報告している[15]。この数字は、大ドイツ(ポーランドも含む)、およびフランス、ベルギー、スロヴァキアと占領ソ連領にいたユダヤ人に関するものであろう。そして、ハンガリーとルーマニアに生活していたと推定される120万のユダヤ人をこの数字に加えても、戦時中にドイツの直接・間接支配下にあったユダヤ人の合計は、520万人を超えることがない。
600万人という伝説の数字が信用できないことは、特定の諸国でのホロコースト統計の操作からも明らかである。この意味では、はるかに信頼できる統計その他のデータが利用できる西ヨーロッパ諸国でのユダヤ人の損失を検証するほうがはるかに有益であろう。これに対して、信頼できるデータのないポーランドのような東ヨーロッパ諸国でのユダヤ人の損失を見積もることには、大きな困難がある。(例えば、ポーランドの場合には、国境が戦時中と戦争直後に劇的に変化している。)このような数字の操作の結果、個々の国々でのユダヤ人の戦時中の損失といわれている数字が、長年にわたって、水増しされたり、減らされたりしたと思われるにもかかわらず、合計の数字をできるかぎり高いものに維持するようなかたちで、数字の操作が明らかになされてきた。これは重要な点である。
デンマークの場合
デンマークを例にとってみよう。1946年、「アングロ・アメリカ調査委員会」は、よく引用されている報告書の中で、戦時中に死んだ570万人のヨーロッパ・ユダヤ人のうち、1500人がデンマーク人であったと述べている[16]。ヒルバーグも3巻本の『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』の中で、戦時中に「失われた」デンマーク系ユダヤ人の数を、やはり1000人としている[17]。
実際には、デンマークから移送されたユダヤ人は500人以下であった。(デンマーク系ユダヤ人の大半は1943年にスウェーデンに逃亡していた。)デンマークからの移送者全員がテレジエンシュタット(テレジン)ゲットー収容所に送られ、51名のユダヤ人(大半が老人)が死亡したが、全員が自然死であった[18]。したがって、この51名をデンマークでの「ホロコースト犠牲者」、ユダヤ人の「損失」と数えたとしても、その数字は、権威のあるとされる「アングロ・アメリカ委員会」によって約30倍、ヒルバーグによって19倍も水増しされていることになる。
コルヘア報告
1943年初頭、SS長官ヒムラーは、「統計官」リヒャルト・コルヘアに、「ユダヤ人問題の最終解決」についての報告を作成するように命じた。コルヘアは、主として、国家保安本部の提供した情報と数字にもとづいて、16頁の統計調査をまとめ、それを1943年3月23日、ヒムラーに提出した。数週間後、彼は、同じ題の縮小補足版もまとめている[19]。
ヒルバーグも、この報告の大半が、その素性と目的も含めて、「あいまいである」と指摘しているにもかかわらず、これらの報告は、ヨーロッパ・ユダヤ人の運命に関する戦時中のもっとも権威のある統計記録である[20]。このようなトップレベルの極秘文書でさえも、ユダヤ人絶滅計画や大量殺戮についてまったく言及していない。もしもこのような計画が実在したとすれば、そのようなことはありえないことであろう。さらに、ユダヤ系の歴史家ライトリンガーも指摘しているように、最大限悪意を持ってこのデータを解釈したとしても、600万人のユダヤ人が殺されたにちがいないというような結論はこのデータからはでてこない[21]。戦後、敬虔なカトリックであったコルヘアは、自分の報告が犯罪的な意味合い、もしくは虐殺を示唆するような意味合いを持っていたとはまったく知らなかったと述べている[22]。
ユダヤ人の賠償請求
600万人という数字が正確ではないことを示しているもうひとつの重要な事例は、ボンそして最近ではベルリンのドイツ政府から賠償金を受け取ったユダヤ人「ホロコースト犠牲者」が大量なことである。戦時中のドイツから「政治的、人種的、宗教的、イデオロギー的理由で迫害を受けた」人々は、1953年と1956年の連邦補償法のもとで、ボン・ベルリン政府から賠償金を受け取る資格者となっていた。ここには、収容所やゲットーに収容されていたユダヤ人、ダヴィデの星をつけなくてはならなかったユダヤ人、隠れて暮らしていたユダヤ人も含まれていた[23]。
1984年1月までに、439万人が連邦補償法賠償請求を獲得している。その大半はユダヤ人であった。ヒルバーグも、この請求の「約3分の2が」ユダヤ人からのものであったことを認めている[24]。これは、リアリスティックではあるが、控えめな見積もりである。補償金受領者のうち約40%がイスラエルに、20%が西ドイツに、40%がアメリカその他の諸国で暮らしていた[25]。
The Atlanta
Journal and Constitution newspaperは1985年、世界中のユダヤ人生存者の50%ほどが西ドイツの年金で暮らしていると報告している[26]。しかし、この数字は高すぎるであろう。例えば、ポーランド、ソ連、ハンガリー、ルーマニア、チェコスロヴァキアのユダヤ人は、少なくともこの当時は、補償金の有資格者ではなかった[27]。アメリカでは、1985年時点で、アトランタ(ジョージア州)のユダヤ人「ホロコースト生存者」のうちドイツの補償金を受け取っていたのは66%ほどにすぎなかった[28]。
ドイツの補償金を請求する439万人のうち3分の2がユダヤ人からであったと控えめに見積もったとしても、290万人ほどのユダヤ人請求者がいることになる。そして、世界中のユダヤ人「ホロコースト生存者」の半分(これは低い見積もりである)が補償金を受け取っておらず、通常は、請求有資格者の数は実際の請求の数よりも多いとすると、600万人ほどのヨーロッパ・ユダヤ人が第二次世界大戦中に「生き残った」ことになる。(もちろん、ドイツの連邦補償法が1953年に公布される以前に死んでしまったヨーロッパ・ユダヤ人生存者もいたことであろう。)そして、戦時中のドイツ支配下には800万人ほどのヨーロッパ・ユダヤ人がいたとすれば[29]、第二次世界大戦中のヨーロッパで死亡したユダヤ人の数は、300万人以下にちがいない。しかし、以下に指摘するように、ユダヤ人の戦時中の死者数ははるかに低いのである。
最後に、近年、権威のあるユダヤ系の資料が、「ホロコースト生存者」を見積もっているが、それは、広く受け入れられている「ホロコースト」物語もしくは600万人という数字と矛盾してしまっている。
ここで、注目すべき事実として指摘しておかなくてはならないことは、近年、「ホロコースト生存者」の数がかなり増加してきていることである。それは、フィンケルシュタインが重要な著作『ホロコースト産業』で指摘しているように、「ホロコースト生存者」のために数10億ドルを請求・獲得してきたイスラエル、世界ユダヤ人会議、その他のおもなユダヤ人団体が、戦時中の犠牲者と戦後の生存者の数を水増しすることに利害関係を持っていたためである。
イスラエルの首相官房が組織した委員会は、1997年7月、すなわち、終戦53年後に、報告書を公表しているが、そこでは、「ホロコースト生存者」(かなり広く解釈されている)の数は834000から960000名のあいだと見積もられている。同様に、2000年6月、すなわち、ヨーロッパでの終戦55年後に公表された権威ある報告書では、ユダヤ人「ホロコースト」生存者の数は、832000から935000名のあいだと見積もられている[30]。フォーリソンが指摘しているように、これらの数字は、1939−45年の戦争が終わった時点で、ヨーロッパには300万人強のユダヤ人「生存者」が存在したことを意味しているのである[31]。
ニューヨークのハンター・カレッジ政治学教授で、『ホロコースト産業』の著者であるフィンケルシュタインは、これらのイスラエルもしくはユダヤ系の数字にもとづくと、1945年5月の終戦時点で、ヨーロッパには800万人のユダヤ人「ホロコースト生存者」が存在していたことになるとコメントしている。フィンケルシュタインは次のように述べている[32]。
「ナチス占領下のヨーロッパにいたユダヤ人は800万人弱でした。言い換えれば、これらの数字が正しいとすると、ホロコーストは起こらなかったのです。母がいつも言っていましたように、ホロコースト生存者であったと主張している全員が本当に生存者であったとすると、一体ヒトラーは誰を殺したのでしょうか。」
第二次世界大戦中に、何名のユダヤ人が死んだのか。終戦から1年後、「ユダヤ人の犠牲者はどれほどか」と題する非常の公平なスイスの分析報告は、「せいぜい150万人のヨーロッパ・ユダヤ人が、戦時中のドイツ支配のもとで、(あらゆる原因から)死亡したにちがいないと結論している。この分析報告は、1946年6月、中立国スイスの権威ある日刊紙Baseler
Nachrichtenに掲載された[33]。この分析報告によると、広く引用される500−600万人のユダヤ人死者という数字は、公式資料にもとづいておらず、ドイツ支配下にあるユダヤ人の数を過大に見積もった、たんに私的な見積もり、半公式的な見積もりにすぎないというのである。
戦後にドイツに駐在した合衆国陸軍省法律顧問ステファン・ピンターは、1959年に、報告書を公表しており、その中で、「ナチスが数百万のユダヤ人を殺戮したという古い宣伝神話」を糾弾している。彼はこう書いている[34]。
「私は、戦後6年間ドイツとオーストリアで暮らしたが、そこからえた結論は、たしかに、多くのユダヤ人が殺されたが、それは100万人にはまったく達しなかったということである。私は、ドイツとオーストリアの強制収容所の囚人であった数千のユダヤ人にインタビューしてきた。そして、このテーマに誰よりも通暁していると思っている。」
修正主義的歴史家も同じような結論に達している。バッツとフォーリソンは、戦時中にあらゆる原因で死亡した(軍人として死亡した人々を除く)ヨーロッパ・ユダヤ人は100万人ほどであったと記している[35]。ヨーロッパ・アメリカの研究者で、大学講師のワルター・サニングも、1983年の詳細な研究の中で、第二次大戦中のユダヤ人の損失の合計は、「125万人前後」であり、その多くは赤軍兵士として、あるいはソ連の収容所や強制移住の中で死亡したと結論している[36]。
600万にという数字に疑問を呈すると、それに対する一般的な回答は、「何名が殺されようとも、どのような相違があるのか。100万人、ひいては1000人のユダヤ人が殺されたとして、それは恐るべきことなのだから」というものである。多くの人々にとって、本当の数字を確定しようとすることは、感受性に乏しい、自分たちには無関係ないいがりに見えるかもしれない。しかし、600万人の殺されたユダヤ人のことをいつもまくしたてているのは、数字に疑問を呈っしている人々ではない。この伝説の数字のトーテムポールを作り上げ、似非宗教的な聖なるシンボルとしているのは修正主義者ではない。いずれにしても、聖像あつかいとなってしまっているような600万にという数字の歴史的正確さを求める努力は、まさに、歴史家たちに求められていることなのである。
[1] World Book
Encyclopedia, 1984 edition, s.v. "Holocaust." vol. 9, pp. 263-264.
[2] Martin
Gilbert, The Holocaust (New York: Holt, Rinehart and Winston, 1986), p. 811.
[3] Encyclopaedia
Judaica, 1971 edition, s.v. "Holocaust."
[4] The Ehrenburg
essays, published in Soviet War News (London), Dec. 22, 1944, Jan. 4 and March
15, 1945, are reprinted in facsimile in the fifth edition of Joachim Hoffmann's
detailed study, Stalins Vernichtungskrieg 1941-1945 (Munich: Herbig, 1999), pp.
390-393 (see also p. 183), and in Hoffmann, Stalin's War of Extermination
1941-1945 (Capshaw, Alabama: TADP, 2001), pp. 189-190, 402-405.
[5] David Irving,
[6] The American
Hebrew (
[7] Trial of the
Major War Criminals before the International Military Tribunal (IMT), vol. 1
(Nuremberg: 1947-1949), pp. 252-253; IMT, vol. 19, p. 434; and IMT, vol. 22, p.
496.
[8] Höttl
affidavit of Nov. 26, 1945: 2738-PS (USA-296) in IMT, vol. 31, pp. 85-87, and
Nazi Conspiracy and Aggression (NC&A), vol. 5 (Washington, DC: 1946-1948),
pp. 380-382; 2615-PS in NC&A, vol. 5, pp. 338-339. On the ad hoc and
self-serving origins of the Höttl affidavit, see Otto Skorzeny's letter of Dec.
14, 1956, in Gerd Honsik, Freispruch für Hitler? (Gibraltar and Barcelona:
1994), pp. 196-197.
[9] R.
Aschenauer, ed., Ich, Adolf Eichmann (Leoni [Bavaria]: Druffel, 1980), pp.
460-461, 474; Jochen von Lang, ed., Eichmann Interrogated (New York: Farrar,
Straus and Giroux, 1983), pp. 117-118. Dieter Wisliceny, another former SS
officer, made a statement similar to Höttl's at
[10] The report is
posted on the U.S. National Archives web site:
http://www.nara.gov/iwg/declass/hoettl.html
[11] Arthur Butz,
The Hoax of the Twentieth Century (Newport Beach, CA: IHR, 1997), p. 8
[12] Jacob
Lestchinsky (Leszczynski), "Balance Sheet of Extermination," 1946 and
revised in 1955. Cited in Nora Levin, The Holocaust (New York: Crowell, 1968),
p. 718; Leon Poliakov, Harvest of Hate (New York: Holocaust Library, 1979), p.
335 (Revue d'histoire..., Oct. 1956); Raul Hilberg, The Destruction of the
European Jews (New York: Holmes & Meier, 1985), p. 1202.
[13] Lucy
Dawidowicz, A Holocaust Reader (New York: Behrman, 1976), p. 381; Lucy
Dawidowicz, The War Against the Jews, 1933-1945 (New York: Bantam [pb. ed.],
1976), p. 544.
[14] Hilberg,
Destruction, p. 1206.
[15] Walter
Laqueur, The Terrible Secret (Boston: Little Brown, 1980; New York: Henry Holt,
1998), p. 77.
[16] Levin,
Holocaust, p. 715; Gerald Reitlinger, The Final Solution (London: Sphere Books
[pb., 2nd ed.], 1971), p. 546; Wolfgang Scheffler, Judenverfolgung im Dritten
Reich (Berlin: Colloquium, 1960), p. 114.
[17] Hilberg,
Destruction, p. 1048.
[18] Leni Yahil, The
Rescue of Danish Jewry (Philadelphia: JPS, 1969), p. 318; Dawidowicz, The War,
p. 505.
[19] Documents
NO-5193 through NO-5198. Complete texts in German and English in: Serge
Klarsfeld, ed., The Holocaust and the Neo-Nazi Mythomania (New York: B.
Klarsfeld Foundation, 1978), pp. 165-211 (appendices). Also published in: John
Mendelsohn, ed., The Holocaust: Selected Documents in Eighteen Volumes (New
York: Garland, 1982), vol. 12, pp. 210 ff. (The two reports are sometimes
together referred to as "the Korherr report.") See also Hilberg,
Destruction, pp. 1204-1206; Gerald Fleming, Hitler and the Final Solution, p.
136, 138; von Lang, ed., Eichmann, pp. 112-115.
[20] Raul Hilberg,
"The Statistic," in: François Furet, ed., Unanswered Questions: Nazi
[21] Reitlinger,
Final Solution, pp. 534-535.
[22] Gerald
Reitlinger, The SS: Alibi of a Nation, 1922-1945 (New York: Viking/Compass
[pb.], 1968), pp. 221-223; Hilberg, Destruction, pp. 1205-1206. In a letter to
Der Spiegel (Nr. 31, July 25, 1977, p. 12), とくにコルヘアは、最初報告草案にある「特別措置」という用語は殺人を意味していないと述べている。
[23] Focus on
"Restitution in
[24] Hilberg
testimony in Zündel case, Toronto District court, Jan. 18, 1985. Transcript
page 1229.
[25] Focus on
"Restitution in
[26]
[27] Hilberg,
Destruction, p. 1170; D. Margolick, "Soviet Emigre Lawyer...," New
York Times, March 10, 1983, p. B2.
[28]
[29] Jacob
Lestchinsky, statistician for the American Jewish Congress, estimated that in
1939 there were 8.25 million Jews in the lands that came under German or Axis
control. "Balance Sheet of Extermination," in Levin, Holocaust, p.
718. Lucy Dawidowicz estimated that the "pre-Final Solution
population" of the lands that came under Axis control was 8.86 million.
Dawidowicz, The War, p. 544.
[30] Number of
Living Holocaust Survivors, July 27, 1997, report of the "Spanic
Committee," organized by the Israeli Prime Minister's Office (with
estimates slightly revised in May 1998), and the "Ukeles" report,
June 28, 2000, commissioned by the "Conference on Jewish Material Claims
Against Germany," a semi-official Jewish agency. Both cited in:
"Special Master's Proposed Plan of Allocation and Distribution of
Settlement Proceeds," (Sept. 2000, also referred to as the "Gribetz
Plan"), Volume I, Annex C, "Demographics," pp. C-2, C-8, C-9.
Posted on line at the "Official Information Web Site for the Holocaust
Victim Assets Litigation Against Swiss Banks and other Swiss Entities":
http://www.Swissbankclaims.com/media
[31] Robert
Faurisson, "Impact and Future of Holocaust Revisionism," JHR 19
(Jan.-Feb. 2000), pp. 9, 28 (n. 24).
[32] Interview
with Norman Finkelstein, by Viktor Frölke, in Salon.com, "Shoah
business," August 30, 2000. Posted on-line at:
http://www.salon.com/books/int/2000/08/30/finkelstein/index.html See also: N.
Finkelstein, "How the Holocaust Industry Stole the Swiss Monies,"
June 2001, Postscript to Foreign Translations. Posted on-line:
http://www.normanfinkelstein.com/id112.htm
[33] "Wie
hoch ist die Zahl der jüdischen Opfer?," Baseler Nachrichten
(Abend-Blatt), June 13, 1946, p. 2. (This newspaper, founded in 1845, is no
longer published.)
[34] Pinter letter
in the national Catholic weekly, Our Sunday Visitor, June 14, 1959, p. 15.
[35] Butz, Hoax,
p. 239; Robert Faurisson interview with Storia Illustrata (
[36] Walter
Sanning, The Dissolution of Eastern European Jewry (Newport Beach, CA: IHR,
1983), pp. 198, 196.