試訳:アカデミズムにおける異端審問
マーク・ウェーバーその他
歴史的修正主義研究会編・試訳
最終修正日:2004年1月26日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Mark Weber, German
Professor [Werner Pfeifenberger], Accused of
Revisionism, Commits Suicide,
Polish Professor Fired for Dissident History Book, Revisionist
Master's Thesis Under Fireという3つの小論を、「アカデミズムにおける異端審問」とまとめて試訳したものである。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 online:http://www.ihr.org/jhr/v19/v19n3p24_Weber.html |
ドイツ人教授[ヴェルナー・プファイフェンベルガー(Werner Pfeifenberger)]が修正主義の咎で告発されて、自殺する
マーク・ウェーバー
ドイツ人政治学教授ヴェルナー・プファイフェンベルガーが、5年に前に発表した論文が修正主義的、「ネオ・ナチ」的と告発されて、ウィーンで裁判にかけられる数週間前の、2000年5月13日、オーストリアで命を断った。この58歳の研究者は、6月26日に、郡の刑事裁判所に出廷する予定であった。そして、1995年に執筆した著作がオーストリアの反ナチズム法を侵犯した咎で、10年の刑に処せられる可能性があった。彼の弁護人によると、プファイフェンベルガーは、不公平な裁判を恐れて、自殺する意図を前もって宣告していた。
1941年10月生まれのプファイフェンベルガーは、尊敬される学者であった。法律、経済、政治学を学んだのち、ザルツブルク、ミュンスター、パデルボーン、グルノーブル(フランス)、ステレンボシュ(南アフリカ)、台北(台湾)の単科大学、総合大学で教鞭をとった。そして、しばらくのあいだ半官のオーストリア政治教育研究所所長であり、1978年から1983年まで、その定期刊行物『政治教育』の編集に責任を負っていた。
プファイフェンベルガー教授は、何年も、左翼団体とユダヤ人団体からの攻撃にさらされていた。彼は、「オーストリア文化基金」、「ドイツ・南アフリカ協会」といった「ネオ・ファシスト」的、「ネオ・ナチ的」団体を支持しているというのであった。また、彼が南アフリカのアパルトヘイト政策を支持し、「右翼的」刊行物に寄稿していることも批判されていた。
彼の立場は、論文「国際主義と民族主義:終わりのない、死に至る反目なのか」がオーストリア自由党アカデミーの1995年の年鑑に掲載されたとき、いっそう難しいものとなった。高名なユダヤ系ジャーナリストのカール・プファイファー(Karl Pfeifer)がプファイフェンベルガーと彼の論文を目標に定めた。プファイファーは、ウィーンのユダヤ人共同体の雑誌に寄稿し、プファイフェンベルガーが「ネオ・ナチ的な言い回し」を使っていること、「民族共同体(Volksgemeinschaft)」を賞賛していること、「ユダヤ人の世界的陰謀という古いナチスの伝説」を復活させていることを非難した。ユダヤ人雑誌は、プファイフェンベルガーが「ドイツに対するユダヤ人の戦争」――ドイツ第三帝国に対する1933年の世界ユダヤ人の国際的ボイコット行動――について触れていること、オーストリア前大統領クルト・ヴァルトハイムを加害者ではなく被害者として描いていることに注意を促した。
ユダヤ人ジャーナリストたちは、プファイフェンベルガー博士に対する一斉攻撃を始めた。そして、結局、プファイフェンベルガー博士は自殺に追い込まれた。
ドイツでは、社会民主党議員団のリーダーが、プファイフェンベルガーの論文には「反ユダヤ主義的傾向がある」と公に表明し、1997年、北ライン・ヴェストファリア州政府は、プファイフェンベルガーを、ミュンスターの特別単科大学(Fachhochschule)の教職から解雇した。この解雇は1998年4月に撤回され、1999年10月には、彼はビエレフェルトの特別単科大学に新しいポストを得た。しかし、この新しいポストは研究職であったので、実際には、教育者としての彼の経歴は終わってしまった。
オーストリア議会では、社会民主党と緑の党が、プファイフェンベルガー論文を攻撃し、年鑑の出版者、すなわち、ライバル政党である自由党のハイダーに対する法的措置を取るように圧力をかけた。ウィーンの裁判所は、ユダヤ人共同体の雑誌による告発を認めて、プファイフェンベルガー論文には「ナチス的言い回し」があると認定した。
ドイツでもオーストリアでも特徴的なことは、プファイフェンベルガーの著作が正確であるか、真実であるかが問題とはならなかったことであった。「言い回し」とか「口調」という告発だけで、作者に対する法的措置がとられたのである。
このようなことは、アーヴィングを巻き込んだ事件でも明らかであった。1990年4月に開かれたミュンヘンでの集会で、このイギリス人歴史家は、アウシュヴィッツT中央収容所で数十年にわたって「ガス室」として見学者に展示されてきた建物は捏造であると発言した。アーヴィングはすぐに告発され、ドイツの裁判所は彼に10000マルクの罰金を課した。1993年1月、ミュンヘンの裁判所は罰金を3倍の30000マルク(約21000ドル)にした。注目すべきことは、最近ロンドンで開かれたアーヴィング・リップシュタット裁判での弁護側証人ペルト自身も、有名なアウシュヴィッツTの「ガス室」は、事実上、戦後に偽造された、再建された建物であると認めていることである。(R. Faurisson, "The 'Gas Chamber' of
プファイフェンベルガー事件は、ドイツとオーストリアにおける表現の自由、研究の自由に対する更なる打撃であるだけではなく、今日のヨーロッパ諸国を支配している偽善的な「民主主義」を明らかにしている。
ウィーンの週刊誌(2000年6月2−8日)は次のように指摘している。ヴェルナー・プファイフェンベルガーの職業生活は、自殺を決意する以前に、すでに破壊されていた。彼は、これ以上の不名誉と破滅を避けるために、死を選んだ。「ポリティカル・コレクトネス」に依拠した、表現と学術研究の自由の敵は、誇らしげに別の犠牲者を求めるであろう。民族社会主義(ナチズム)の復活を禁止するオーストリアの法律にどのような正当性があろうとも、1992年の法律は、知的自由の敵に対して、自分たちの敵対者を脅迫する「ファシズム的な棍棒」を与えている。1992年の法律は、「重大な過ち」であることがわかってきた。そして、「ヴェルナー・プファイフェンベルガーはその過ちのために、命を失ったのである。」
プファイフェンベルガーの死は、退職したドイツ人化学者が自殺した5年前の事件を思い起こさせる。1995年4月25日、ラインホルト・エルストナーは、「わが民族に注がれた」半世紀に及ぶ「中傷」と「ナイアガラの滝のような嘘」に抗議して、ミュンヘンの下町で焼身自殺を遂げた。死の直前に書かれた遺書には、「半世紀にも及ぶ際限のない中傷、醜悪な嘘、民族全体の悪魔化はうんざりだ!…私はすでに75であり、できることはほとんど残っていないが、焼身自殺だけはできる。ドイツ国民に自覚をうながす最後の行為である。私の行動によって、たとえ一人であっても、ドイツ人が目覚め、真実への道を発見するならば、私の行動も無駄ではないだろう」とある("A German Takes His Life to Protest Defamation and Historical
Lies," Sept.-Oct. 1995 Journal, pp. 23-24参照)
ポーランド人教授が異論派的歴史書の咎で解雇
マーク・ウェーバー
ポーランドの歴史学教授が、戦時中のドイツはヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅する計画や政策をもっていなかったとする著作を出版した咎で、大学を解雇され、教育することを禁止された。2000年4月初頭、国立オポレ大学は、37歳のダリウシュ・ラタイチャク(Dariusz Ratajczak)が倫理規定を侵犯したがゆえに、その他の大学で教鞭をとることを3年間禁止すると通告した。
ラタイチャクは学生に人気があったが、国家検事が彼の著作『危険なテーマ(Tematy niebezpieczne)』の出版について捜査を始めると、1999年4月、大学の歴史研究所の教職を停職となった。子供を抱えた彼の生活は困難になっている。(Polish
Professor Under Fire for 'Holocaust Denial'," May-June 1999 Journal, p. 31参照)
1999年12月、オポレ(シレジア)の裁判所は、ホロコーストについての修正主義的見解を広めた咎で、ラタイチャクを有罪としたが、著作の配布が限られたものであるために、ドイツの戦時中の犯罪・共産主義時代の犯罪を公けに否定することを犯罪としているポーランドの法律を侵犯してしまうほどの違反ではないので、彼に処罰を科さなかった。裁判所は、ラタイチャクが第二版の序文では修正主義的見解に組しているわけではないと記しているとも指摘している。(No Punishment for Polish 'Holocaust Denier'," in the Sept.-Dec.
1999 Journal, p. 47を参照)
ラタイチャクは、ホロコースト問題について異論派的見解を抱いている歴史家たちの説を要約したにすぎない、自分の見解は本の中にある説に組しているわけではないと述べている。「ホロコーストについてのさまざまな見解を学生に紹介したにすぎない」というのである。
ラタイチャクは、「ホロコースト修正主義」と題する5頁の節の中で、ドイツはヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅計画・プログラムを持っていなかったと主張するラッシニエ、フォーリソン、アーヴィング、ツンデルなどの修正主義者の研究を事実に即して引用している。また、ロイヒターとルドルフが行なったアウシュヴィッツ・ビルケナウでの法医学的調査、および、技術的な理由から、ガス室で数百万のユダヤ人を殺戮することは不可能であるという彼らの結論を引用している。
ラタイチャクは彼らの見解を支持するとは明言していないが、ホロコーストの「目撃証言」を「役に立たない」ものと呼び、ホロコースト正史派の著述家たちを、「過去の誤ったイメージ」を他人に押し付けている「ホロコーストという宗教の帰依者」とみなしている。また、「ホロコースト」で死んだユダヤ人の数は、よく言われているところの「600万」ではなく、300万であるとも主張している。
ラタイチャクは1999年3月に自分の著作320部を自費出版した。大学の書店で販売されたり、直接学生に販売されたり、さらに、友人に献呈されたのはごくわずかであり、残りは警察によって没収された。1999年9月、彼は第二版30000部を出版し、それはキオスクで販売されたり、ポーランド国外から手紙で注文を受けた。ワルシャワの小さな出版社は、非常に「過激」な文章を検閲して、それを巻末の脚注の中に入れたという。数千部が売られた。ラタイチャクは次のように述べている。
「『ホロコースト否定』は、ドイツ、フランス、オーストリアを含むいくつかのヨーロッパ諸国で犯罪となっている。」
集中砲火を浴びた修正主義的修士論文
ニュージーランド大学がユダヤ人の要求に抵抗
ユダヤ人団体は、6年まえにホロコースト絶滅論に疑問を呈した修士論文に与えられた修士号の撤回を要求していたが、ニュージーランド大学はこの要求を拒んでいる。ユダヤ人共同体の指導者に対して、オープンな学術研究というアカデミックな伝統を引きながら、カンタベリー大学(クライストチャーチ)は、修士論文の中で、ヨーロッパ・ユダヤ人に対する戦時中のドイツの政策についての修正主義的見解を支持したジョエル・スチュアート・ヘイワード(Joel Stuart Hayward)に付与された修士号を撤回するつもりはないと通告した。
ヘイワードは現在、ニュージーランド北部のマッセイ大学で教鞭をとっているが、最近、自分の修士論文について遺憾の意を表明している。
ヘイワードは、1948年から1993年までのホロコースト修正主義の進展と衝撃を丹念に調査して、360頁の論文にまとめ上げたが、それが議論の中心となった。1991年、1992年に執筆された「ドイツ人の手中にあったユダヤ人の運命:ホロコースト修正主義の進展と意味についての歴史学的探求」は、1993年、カンタベリー大学によって、きわめて高く評価すべき研究として認められた。
その論文の中で、ヘイワードは、ドイツはヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅する政策を持っていなかったこと、第二次大戦中に死亡したヨーロッパ・ユダヤ人の数は600万よりの少ないこと、ガス室での殺戮についての数多くの話は嘘であることを示す証拠を提示している。彼は、「ホロコーストの生存者」の「目撃証言」には信憑性が欠けていると指摘し、「歴史家たちは何年にもわたって多くのホロコースト物語をこっそりと放棄してきたけれども、そのことを専門家以外の人々はほとんど知らされなかったために、この物語が繰り返され続けてきた」と述べている。
ヘイワードは、ユダヤ人が戦時中にガス室で殺害されたかどうかという、心理的・感情的負担の重い問題については、「ナチスのガス室についての利用可能な証拠を注意深く、かつ公平に調査すれば、ガス室が虐殺宣伝の領域に入っていることは明白である」と述べている。彼は自説を立証するために、アメリカのガス室専門家ロイヒターが1988年に行なった、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの法医学的調査(「ロイヒター報告」)を引用している。「当初は、信用できないようにみえたロイヒターの、ホロコースト正史に反する結論は、膨大な証拠によって確証されている」というのである。
ヘイワードは、修正主義者について次のようにまとめている。「前述したことを繰り返しておかなくてはならない。修正主義者の著作と論文(ウェーバー、アーヴィング、フォーリソンなどの)は、堅実な研究と高い分析力によって支えられており、バランスが取れていると同時に説得的である。それらは、ホロコーストについての知識を蓄積するにあたって、大きく貢献しており、定説を支持する歴史家たちもこれらの著作と論文を無視したり、拒絶したりすべきではない。」歴史評論研究所についての60頁に及ぶ章の中で、ヘイワードはマーク・ウェーバー(現研究所長)を「思考力のある誠実な歴史家」と賞賛している。「ホロコーストその他の歴史学的テーマについて研究調査の行き届いた、説得力のある著作」を発表しているというのである。
ヘイワードの修士論文の結論は次のとおりである。
「ガス処刑説は、ユダヤ人問題についての公的なナチスの政策の本質に関する圧倒的な証拠と矛盾している。この証拠を注意深く、先入観無しに読めば、この政策とは全面的な絶滅政策ではなく、移送と強制労働という野蛮な政策であったことがわかる。
…ナチスはガス室で組織的にユダヤ人を絶滅しなかった、彼らは絶滅政策を採っていなかったことは圧倒的な証拠から明らかではあるが、第二次大戦中にドイツ人の手中にあったユダヤ人の苦難が恐るべきものであったことは否定できない。…犠牲者の総数は、100万以上であり、600万という象徴的な数字よりもはるかに少なかったにちがいない。」
ユダヤ系の学者ドフ・ビン教授は、『ニュージーランド・ジューイッシュ・クロニクル(New Zealand Jewish Chronicle)』(2003年4月)に掲載された書評の中で、「1991年、ジョエル・ヘイワードはホロコースト否定派の網の中に捕らえられてしまった。彼は、客観的でアカデミックなスタイルで彼らの見解を批判的に分析しようとしたのであるが、結局は彼らの見解を支持するようになってしまった。彼は、アーヴィング、フォーリソン、ウェーバーのような人物を賞賛するようになったのである」と推論している。
当然のことながら、ユダヤ人団体はヘイワード論文に仰天してしまった。とくに、この論文が、注意深い審査ののちに、高く評価されて認められ、5年間何もなく放置されていたからであった。このために、ニュージーランドのユダヤ人を代表する団体ニュージーランド・ユダヤ人会議は、カンタベリー大学に、ヘイワードの修士号を撤回するように求めた。
ヘイワードはこの論文が受諾されると、その閲覧を禁止し、自分の許可を得た人々だけに閲覧を認めた。だから、昨年まで、ごく少数の修正主義的研究者を除いて、その内容は知られていなかった。その後、彼の許可なしで、インターネットに掲載された。修正主義的なアデレーデ研究所の所長フレデリック・テーベンは、(やはりヘイワードの許可なく)、オーストリアでの裁判でこれを利用しようとした。
ここにいたって、ヘイワードは、今となっては公けになってしまった自分の論文に補足説明を付け加え、その結論の主要部分を撤回した。彼は「自説撤回書」の中で次のように述べている。
「私の論文は、出来事をもっとよく理解しようとして、出来事の意味を探求しようとした誠実な試みでした。しかし今となっては、このような複雑なテーマに、十分な知識と準備も無しで取りかかってしまったことを後悔しています。この短い補足説明を発表することで、私の研究がニュージーランドとそれ以外の地域のユダヤ人共同体にこれ以上不快感を引き起こさないこと、邪悪な動機を持った個々人や団体に誤用されないことを希望します。…8年間のその後の研究にもとづいて、もう一度考え直してみますと、私の論文にはいくつかの事実関係の誤りと解釈の誤りが含まれていることがわかりました。」
ヘイワードは、『ニュージーランド・ジューイッシュ・クロニクル』への最近の書簡の中で、「私は、600万人ほどのユダヤ人が第二次世界大戦中に殺されたことを、疑問の余地なく信じています。彼らはナチスとその同盟者によって殺されました。実行犯は、ガス室、射殺、物理的消耗、飢餓といったさまざまな方法を使って、この巨大な犯罪を実行しました」と述べている。
ヘイワードの「自説撤回」はどの程度真摯なものであったのか。彼は、自分の論文が(許可なく)公表され、攻撃にさらされ始めたときに「自説撤回書」を発表している。しかし、最近の彼のホロコースト観はいささか異なっている。一つの事例がある。1998年11月、ヘイワードは、反修正主義者に対してきわめて批判的な姿勢をとった。例えば、彼は、デボラ・リップシュタットの本『ホロコーストを否定する人々(Denying the Holocaust)』を「絶望的。きわめて貧困」と評している。
ヘイワードは1964年、ニュージーランドのクライストチャーチで生まれた。20代のときに、自分にユダヤ系後が部分的に入っていることを示すために、ジョエルをファーストネームとした。現在は、ニュージーランドのパーマストン・ノースにあるマッセイ大学で、尊敬を集めている学部教員となっている。大学の歴史、哲学、政治学部の「上級講師」であり、防衛・戦略研究会の世話人である。
ヘイワードは、軍事史、戦略、作戦について執筆し、教鞭をとっている。学術誌に掲載された多くの論文以外には、広く認められた歴史研究書『スターリングラードでの停止:東部戦線におけるドイツ空軍とヒトラーの敗北、1942−1943年』――1998年に、カンザス大学出版から出版された――の著者である。
クプカ事件
ニュージーランド関係の事件では、最近、ユダヤ人団体は、ドイツ人学生を博士課程から追放するようにワイカト大学に要求している。その学生は、反ユダヤ主義的「ホロコースト否定派」だというのである。彼、55歳になるハンス・ヨアヒム・クプカ(Hans-Joachim Kupka)は、ドイツとオーストリアからの移民がニュージーランド社会にどのように貢献しているのかを分析する博士論文に取り組んでいた。
ユダヤ人団体は、クプカは1992年にニュージーランドに来る前には、ドイツで、「ネオ・ナチ的」といわれる共和党で活動していたとの警戒心を表明した。1980年代には、下部バイエルンの党地区議長であり、1987年には、党バイエルン支部の議長代理であったというのである。ユダヤ系の学者は、クプカが最近インターネットに掲載した文章を取りあげ、それを「反ユダヤ主義的ホロコースト否定」であるとした。ユダヤ系の学生は、大学構内でデモを組織し、彼の追放を要求した。
その一方、ワカイト大学の3名の教授がクプカの文章を吟味して、「極端な右翼的内容とは解釈できない」と結論した。同じく、大学副学長は、文章が「ホロコースト否定」にはあたらないとみなした。
ユダヤ系団体からの圧力を受けて、クプカは突然博士課程から退学した。にもかかわらず、地元紙『ワカイト・タイムズ』が伝えるところでは(2000年7月6日)、「ユダヤ人共同体は事態を収拾しようとはせず」、今回の事件についての大学の対応の自己批判を要求している。
ロック事件
ヘイワードとクプカの事件は、1986年のアンリ・ロック事件を思い起こさせる。このフランス人研究者は、その博士論文が修正主義的な結論に達しており、ユダヤ人団体の憤激を呼び起こしてしまったために、ほぼ8世紀にわたるフランスの大学史上で始めて、政府の命令によって、博士号を取り消されたのである。ロックは、数十年にわたってガス処刑のおもな証拠とみなされてきたSS将校クルト・ゲルシュタインの「自白」を丹念に検証した。そして、ゲルシュタインの戦後証言は、「法外で、ありえないことで満ち満ちており」、歴史学的な資料に必要な証拠的価値をもっていない、したがって、戦時中の殺人ガス室の実在の証拠とみなすべきではないと結論した。
ロックの博士号は、ナント大学の3名の教授が彼の博士論文を認めたにもかかわらず、取り消された。しかし、「ロック・スキャンダル」が公けになってから、イギリスの優れた歴史家ヒュー・トレヴァー・ローパーはロックの博士論文を(1990年の書簡の中で)、「限られてはいるが、重大なテーマに関する、史料批判にもとづく、まったく正統的、学術的、責任のある研究」と賞賛したのである。(the Sept.-Oct. 1993 Journal, pp. 40-41参照)