書評、プレサック著『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』
マーク・ウェーバー
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2003年4月22日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Mark Weber, Jean-Claude
Pressac: Auschwitz: Technique and operation of the
gas chambers. (review), The Journal of Historical Review, Summer,
1990; vol. 10 no. 2: p. 231-237;を試訳したものである。 online: http://vho.org/GB/Journals/JHR/10/2/Weber231-237.html |
フランス人薬剤師プレサックの手になる有益で啓発的な著作は、ホロコースト修正主義の側から高まっている批判に抗して、アウシュヴィッツ絶滅論を擁護しようとする野心的な仕事である。著者と出版者――「ナチ・ハンター」のビートとセルジュ・クラルスフェルトは、ホロコースト修正主義が一時のたわいもない現象ではなく、すでに多くの賢明な支持者を持っている深刻で重大な挑戦であることをはっきりと悟っている。
出版者はこの著作を、「ガス室を否定している人々に対する科学的反駁」として推奨している。これに関する『ニューヨーク・タイムズ』の記事(1989年12月18日)の見出しは、「新しい著作はホロコーストについての修正主義者の見解を反駁するもの」あるいは(その他の版では)「アウシュヴィッツ:疑う者は恐怖を検証する」というものである。
17.5×11.5インチという大きなサイズの564頁に印刷された『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』には、オリジナルなドイツの建築計画図面、図式、戦時中と戦後に撮影された写真、多くの資料(翻訳つき)が数百、良質なかたちで掲載されている。印刷された1000部のうち、半分は世界中の大きな図書館や研究所に寄贈された。残りは、小さな図書館に寄贈されるとの希望から、100ドルで売られている。
プレサックは、ガス室でのユダヤ人大量絶滅に関する二つの証拠を提示している。
・
第一に、彼は、ミクロス・ニーシュリ、チャールズ(ポール)・ベンデル(マットーニョが『歴史評論』1990年春号で扱っている)といった著名なものも含む少数の「目撃証言」を引用している。しかし、同時に、プレサックは、これらの証言が「あやまち」、「馬鹿げた話」、「発明」、「矛盾」で歪められていることを率直に認めている。(469−479頁)
・
第二に、プレサックは、アウシュヴィッツとビルケナウでの絶滅についての文書的な「犯罪の痕跡」を引用している。これらの「痕跡」は、フォーリソン博士が殺人ガス処刑の「一つの証拠」、たとえ「一つでもいいから」、証拠を求めたことに対する回答である。プレサックは、これらが本当の「証拠」ではないことを認め、本当の証拠は存在しないことを付け加えている。プレサックの疑わしく、説得的ではない資料的「痕跡」のうち、少なくともいくつかは、修正主義者にはすでに既知のことである。(エンリケ・アイナト・エクネスは、『歴史評論』1988年秋号で、これらの「痕跡」を修正主義的観点から、鋭く批判している)。
プレサックの著作は、アウシュヴィッツの絶滅論ひいてはホロコースト伝説全体に対する修正主義者の見解を事実上補強してしまっている。プレサックは、彼の中心的な説を打ち出すにあたって、修正主義者の立場にかなり譲歩せざるを得なくなっている。彼は、ホロコーストについての無数の主張、「証言」、解釈の信憑性を、公然とあるいは暗黙に、否定しているのである。
プレサックは自分の著作と「公式」の絶滅論との関係を次のように述べている。
「本研究は、伝統的な[『ホロコースト』]史の完全な破産をすでに示している。…この歴史は、大半が証言にもとづいており、その証言は時代の雰囲気に応じて集められたものであり、勝手な真理に適合させるために切り捨てられたり、不均等な価値を持つ少数のドイツ側資料と混ぜ合わされたり、互いに関係を持っていなかったりする。」(264頁)
だから、プレサックは、ヒルバーグ、ダヴィドヴィチ、レヴィンのようなホロコースト史家の仕事を[破産]として、暗黙のうちに否定しているのである。プレサックと両クラルスフェルトを、公式のホロコースト物語という、広大ではあるが防御しにくい低地を放棄して、狭くはあるが、もっと守りやすいと思われる要塞に撤退することによって、修正主義者の呵責のない進撃を食い止めようと決意した、苦戦中の軍司令官と比較することができるかもしれない。
プレサックは多くの真理を認めざるを得なくなっているが、そのうちおもなものは、以下の諸点である。
・
アウシュヴィッツ中央収容所の焼却棟で殺人ガス処刑が行なわれたという広く広まっている説には、決定的あるいは資料的な証拠はまったくない。建物全体は戦後大規模に、「改築」・「再現」されており、焼却棟の煙突は偽物である。(123、131−133、144−146、551頁)
・
しばしば引用される、アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの『自伝』は、誤りに満ちている。さらに、数百頁の手書きの草稿には、ひとつの訂正も、線引きによる削除もなく、それがコピーされたものであることを示している。(127−128、551頁)
・
1945年のソ連のドキュメンタリー・フィルムは、「カナダT」地区での絶滅ガス処刑を映しているが、それは「まったくのでっち上げ」である。ここで殺人ガス処刑が行なわれたことはまったくなかった。(46、47、49、264頁)
・
1946年に、イギリスはチクロンの供給者ブルーノ・テシュとカール・ヴァインバヒャー博士に対する軍事裁判を開き、両名は死刑判決を受けて、絞首刑となっているが、この裁判は不公正で、おそらく「虚構」であった。(17頁)
・
アウシュヴィッツでは400万人が死亡したという説が広く引用されるが、この数字は「宣伝」であり、「象徴的なもの」である。
・
焼却は、ホロコースト史家が主張してきたよりもはるかに問題を抱え、時間を消費する作業であり、アウシュヴィッツでは毎日、10000名の死体が焼却されたとか、さらには25000名の死体が焼却されたというような、何回も繰り返されてきた物語は、馬鹿げており、実行不能である。(244、247、253、334、384、413、420頁)
・
「特別行動」は、殺人あるいは絶滅の婉曲表現ではなかった。(210、213頁)
・
1944年に流布された戦争難民局報告にあるビルケナウの「ガス室」の図は「正確ではない」。(459、461−頁)
・
写真や図は、ビルケナウの病気の収容者や負傷した収容者に対する広大な検疫施設と治療施設が存在したことを示している。(510−513頁)
ビルケナウの4つの焼却棟(焼却棟U−X)はアウシュヴィッツ絶滅物語の核心である。数十万のユダヤ人が、1943年3月から1944年11月までにこれらの建物でガス処刑されたという。しかしながら、本書が提示している資料的証拠は、どのようなかたちであっても、組織化された、システム化された絶滅計画や政策とはまったく合致していない。
ドイツ側の記録が明確に示しているように、これら4つの建物は、1942年末と1943年初頭に建設され、1943年3月から6月末にかけて完成した。だから、プレサックは、ビルケナウでユダヤ人を組織的に絶滅する「計画」は1942年6月から8月にかけて決定され、1943年3月から6月にかけて初めて実行されたと考えている。(212−213、246、348頁)
これは、標準的な絶滅論から根本的に袂をわかっている。ホロコースト史家の大半は、ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するという決定は1941年半ばから1942年初頭のあいだに下されたと主張してきた。たとえば、ドイツの官僚が「最終解決」政策を調整したベルリンの「ヴァンゼー会議」は、1942年1月20日に開かれている。アウシュヴィッツ所長ヘスの戦後の「証言」は広く引用されるが、それによると、「大量ガス処刑」がアウシュヴィッツで始まったのは、1941年夏であった。プレサックは本書に提示された大量の資料的証拠にもとづいて、ビルケナウの焼却棟UとVは通常の焼却棟として設計・建設されたという的確な結論を下している。建築図面や多くの資料が示しているように、いわゆる「ガス室」は通常の死体安置室(Leichenkeller)として設計・建設された。これらの「死体地下室」は、そこに保管される死体が冷たさを保ち、腐敗の進行を防ぐために、部分的に地下に建設された。(284−285頁)のちになってはじめて、これらの建物は、即興的に改築され、絶滅施設に改造されたというのである。(184、224、264、285、289、415、429頁)
しかし、このような議論は、明らかに、ありそうもない話である。(チクロンBからの)シアン化水素は自然に、湿った表面に固着し、地下の死体安置室は湿っていたので、致死性のガスは壁や床に固着し、ガスにまみれた死体を除去しようとする人々の生命を危険にさらしてしまうからである。
プレサックは、ビルケナウの焼却棟WとXについては、少々異なった議論を組み立てている。彼によると、二つの焼却棟を追加して建設する決定は、1942年8月になされており、それは、収容所に蔓延していた破滅的な疫病に対処するためであった。これらの建物は、絶滅施設としては「考えられて」いなかったという。(384、392、398頁)しかし、プレサックは、4つの建物が同時に建設中であったにもかかわらず、焼却棟WとXは、焼却棟UとVとは異なって、絶滅施設として建設されたと非論理的に論じている。(448頁)にもかかわらず、ユダヤ人を焼却棟WとXでガス処刑した技術は、非論理的で極度に不器用なものであったというのである。彼は、いわゆるガス処刑の手順を次のように記している。
「作業手順はきわめてシンプルのようであるが、きわめて非合理的で、馬鹿げたものとなった[?]。犠牲者を中央の部屋からガス室に向かわせ、そのあとで元に戻すのは、内部設計の導線論理を破壊しており、非合理的であった。ガスマスクをつけたSS隊員が左手で1kgのチクロンBの缶を持ちながら、短い階段の上でバランスをとり、それを開けて、右手で丸薬を30cm×40cmのシャッターに投げ込んでから、それを閉めるというのは、馬鹿げていた。このパフォーマンスは6回も繰り返されねばならなかったのである。…各開口部の下に設置された数階段は、これらすべてのパフォーマンスを無効にしてしまったに違いない。」(384、386頁)
焼却棟WとXは完成が数週間遅れ、それぞれ、完成したのは、5月と4月末であった。(348、349、384頁)性急かつ粗雑に建設されたので、焼却棟Wはまもなくかなりの期間休止し、焼却棟Xは断続的にしか使うことができなかった。(413、420頁)
焼却棟WとXは[絶滅施設]として建設されたとされているにもかかわらず、その焼却棟の「ガス室」には、換気装置がなかったという。しかし、この事実が意味していることは、これらの部屋がガス処刑にはまったく不適当であるということだけである。致死性の毒ガスを除去する強力な換気装置がなければ、何時間もの「自然」換気が必要であり、そのあとでやっと、ガスマスクをつけた人物が、ガスのしみこんだ部屋に安全に入ることができたであろう。プレサックは、この厄介な事実が自分の基本テーゼに難点を持ち込んでいることを知っているが、「室内の換気は深刻な問題であった」と嘆いているだけである。(386、416、498頁)
(プレサックは、焼却棟UとVのいわゆる「ガス室」は換気システムを持っていたと述べているが、それらは明らかに「暖かいガス室用ではなく、冷たい死体安置室用であった」ことを認めている。)(224、285、289頁)
所長ヘスの1942年8月12日の重要な「特別命令」(201頁)でも、チクロンBの危険性とアウシュヴィッツでのその重要性は理解されている。40部が収容所の役人に配布された。
「本日、青酸ガスによる毒に汚染された軽い症状のケースがあったが、このために、ガス処理の関係者全員、とくに、マスクをつけないでガス処理のための部屋を開ける仕事に従事するその他すべてのSS隊員に、少なくとも5時間待機し、ガス室から少なくとも15mの距離を保つように警告しておかなくてはならない。さらに、風向きにはとくに関心を向けるべきである。」
ビルケナウの4つの焼却棟の建設には、外部の民間労働者も関与していた。この事実は、焼却棟が極秘の大量絶滅施設として建設されたとすれば、驚くべきことである。たとえば、外部の9つの民間会社の労働者が焼却棟WとXの建設に関与している。(350、384頁)また、この4つの施設を完成させるために突貫工事が行なわれたわけでもなかった。1942年12月23日から1943年1月4日まで、すべての工事は中断され、民間労働者たちは帰宅して、クリスマスと新年を家族とともに過ごすことができたからである。(210、213頁)
ビルケナウの4つの焼却棟が、隠されたり、人目から隠されたり、「カモフラージュ」されたことは一度もなかった。それらは、新たに到着したユダヤ人も含めて、すべての人々の目に入った。とくによく見ることができたのは、焼却棟UとVである。(247、250、251、464、556頁)この点では、アウシュヴィッツ絶滅論だけがこの事実を認めることを拒んでいる。すなわち、当局が、自分たちの大量絶滅施設を隠そうともしなかったと考えることは信じられないというのである。
プレサックには、驚くべきほど無知なときがある。たとえば、彼は、アウシュヴィッツ・モノヴィツ収容所の生活条件を写している6つの写真を特定できない「修正主義者の資料」としているが(506−507頁)、実際には、ワシントンの国立文書館ニュルンベルク裁判記録6のデュルフェルト・ファイルからのものである。
プレサックは、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの「ガス室」を始めて法医学的に調査したアメリカ人技師ロイヒターの重要報告について手短に言及している。しかし、報告を歪曲し、いわゆる「ガス室」はどれひとつとして殺人目的では使われたはずはなかったというロイヒターの明白な結論を無視している。(133頁)
プレサックの著作を読むことは簡単ではない。彼の文章は、整っておらず、不必要なほど、ねじまがっており、不明瞭であることも多い。彼の論旨を理解するには、広く頁にまたがって文意を探らなくてはならないことも多い。しかし、われわれは、このような混乱に感謝すべきであろう。もしも、プレサックが、明晰で論理的な執筆者であるとしたら、両クラルスフェルトは、出版を拒んだかもしれないからである。
プレサックは、健全な精神状態の人物ではないのかもしれない。たとえば、自分は1979年10月にアウシュヴィッツ中央収容所で自殺「しそう」になったと告白している。(537頁)フォーリソンやフランスの修正主義出版社ギヨーム――彼は数頁を捧げている――との関係も賞賛から、個人的な憎悪に変わった。彼は、ホロコースト問題での、フォーリソンとの不一致は認めていても、心からの敵意を正当化するかもしれない、フォーリソンが自分をどのように扱ったのかということについてはまったく触れていない。プレサックはフォーリソンに対して感情的な敵意、ひいては悪意のある憎悪を抱いているが、それは、彼が、不健全、不安定な人格であることを示しているかもしれない。
プレサックの著作は、その欠点にもかかわらず、彼自身や出版者の意図とは異なった理由であるにせよ、重要で啓発的な仕事である。