試訳:写真はナチスのユダヤ人絶滅を証明しているか?
ウド・ヴァレンディ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2007年10月14日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Udo Walendy, Do Photographs Prove the NS Extermination of the
Jews?, Gauss, Ernst, Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of
'Truth' and 'memory', (Ed.), Theses & Dissertations Press, online: http://vho.org/GB/Books/dth/fndgcffor.html [歴史的修正主義研究会による解題] ドイツの修正主義者ヴァレンディは、ホロコーストの証拠としてこれまで提示されてきた「写真資料」を分析して、そこには、間違ったキャプションが付けられているもの、写真が改竄されているもの、意図的に修整されているものなど、信憑性が疑われる写真が数多く存在することを指摘している。論集『ホロコーストの解剖』の論文。 |
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1. 序文
フェルディナンド・アヴェナリウスが多くの事例を使って示したように(1)、写真はすでに第一次大戦の時に連合国が敵を中傷するにあたっての中心的な役割を果たしていた。当時の修整技術は粗雑なものであり、偽造は注意深い検証者が見れば、容易に発見できるものであった。しかし、そのような見識眼を持つ人物は数少なく、しかももっと重要なことに、第一次大戦の扇動的な環境のもとでは歓迎されなかった。この時代の絵や漫画は粗雑なものであり、簡単に偽物であると認識できるのに、人々はそれを真実であると受け取ってしまったことに、今日では驚くであろう。しかし、われわれはこのような謙虚な態度をとることができるであろうか。
アライン・ヤウベルトがすでに指摘しているように、独裁権力はとくに写真に手を加えたり、あるいはポーズを取ったり、完全に偽造された写真を作ることに強い関心を抱いている。(2)ヤウベルトがおもに扱っているのは、修整されたあるいは「改善された」写真による支配者の肖像写真であり、残念なことに、戦時宣伝の興味深い側面――独裁権力よりも躊躇することが少なかった民主主義諸国による宣伝をほとんど扱っていない。大英帝国は疑いもなくこうした傾向をリードしている。
ヤウベルトの例の一つは検討に値する。彼は自著の78頁に、第二次大戦中のフランスでフランスの民間人がイギリスの捕虜をののしっていることを示す写真を載せている。彼はこの写真をドイツ占領軍によるやらせであると解釈している。しかし、この主張を論証する論拠は与えられていない。連合国もフランスの都市を空襲し、その結果、多くの民間人の命が失われていたので(3)、フランス人のかなりの部分が、一部は日和見主義から、また一部は確信を持ってドイツと協力していたという事実を考えると、フランス人が連合国の捕虜に怒りを向けたとしても、それは考えられることであろう。しかし、連合国がフランスを空襲したこと、ドイツとの戦時の協力は今日のフランス社会ではタブーなのである。それゆえ、この写真がヤウベルトのいうように、やらせなのか、それとも、彼の解釈が正しくないのか、それは判然としていない。
2. 写真の偽造技術とその発見
3種類の偽造を次のように区別しておく。
1. 本物で修整されていない写真に嘘のキャプションがつけられている場合。これは写真自体の偽造ではないが、その内容の偽りの説明である。しかし、これはもっとも有効な詐欺の手段の一つであった。写真自体は本物であり、ミスリードされたキャプションが暴露されるのは、信頼すべき資料によって写真が実際に何をあらわしているかが示されたときに限るからである。しかし、あるケースでは、写真の詳細がそのキャプションの偽りを明らかにすることがある。例えば、写真の撮影場所、人物、被写体がキャプションと一致していないことがあるからである。
2. 細部に修正が加えられた本物の写真の場合。これは、第一に、偽造であることを反駁するような部分を除去するために、写真の特定の部分を対象とする。第二のバリエーションは、本物の写真の一部が別の写真に挿入されたものである。結果として、写真の伝えていることがまったく変わることになる。そこでは、本物の修整は、顔の変更や、好ましくない部分を消し去ることに限られる。このような修整は、1970年代末と1980年代初頭まで、手書きで行なわれた。写真の一部を人工的に変更したり、拡大したりしたのである。経験をつんだ鑑識家であれば、この種の偽造を簡単に見破ることができる。影、遠近法、実際の書き込みが完璧ではないからである。しかし、このような修整が非常に正確に行なわれているケース、修整をほどこされたコピーの焦点をぼかすことで、修整の判別を意図的に難しくしたケースもある。
今日では、先進的なコンピュータ技術を使うことで、写真資料を際限なく操作することができ、修整を判別することができなくなっている。現代のコンピュータ・システムは、コンピュータに取り込んだ写真に対して、影、遠近法、色、形状を完璧に操作することができる。このために、写真資料は証拠としての価値をほぼ失っている。したがって、歴史学的な論争に関係する写真は、それが始めて公表されたものであっても、証拠としては厳格にしりぞけなくてはならない。対応するネガ写真が実在するか、あるいはコンピュータ時代以前のものであることが証明されない限り、写真を歴史資料とすることはできない。
3. 完全な偽造。資料的写真とされているものが、手書きの図面から構成されていたり、別の写真を集めて構成されたものであるとすると、それは完全な偽造である。修整写真と完全な偽造を分かつ線は、その性格上、明確ではない。修整写真と同じように、偽造写真も、影や遠近法、形状、色彩、線の方向のなかに矛盾があることを発見することにより、ならびに、写っている人物、物体、場所の組み合わせがありえないことを証明することによって、偽造が暴露される。
現代のコンピュータ技術のために、最近の資料的写真の証拠的価値にも、2項で述べたような事情が適用される。
3. 第三帝国におけるユダヤ人迫害に関する「資料」写真
本書が指摘しているように、ナチスによるユダヤ人迫害についての目撃者の証言、自白、宣誓供述書、あらゆる種類の証拠は、きわめて疑わしい状況の中で登場し、また登場し続けている。このことを考慮すると、近年にナチスによるユダヤ人迫害に関するすべての写真の信憑性を疑わざるをえないであろう。それゆえ、これらを写真には慎重に対処し、それを批判的に検討することは理にかなっていることではないだろうか。
実際には、ナチスによるユダヤ人迫害に関する資料的写真、あるいはそのように扱われている写真についての研究書は1つしかない。(4)ヤウベルト(2)は、政治的に適切ではないと考えたのであろうか、このテーマを扱っていない。G.フレイ(5)はこのテーマを扱っているが、私の見解では、あまりこのテーマを重要視していない。このような事例以外には、定説派の歴史家がこのような資料写真の信憑性を問題にするのは、これらの写真に疑いを呈している人々、批判者に対して反駁を加えたり、刑事訴追を行なう場合だけに限られていた。しかし、後述するように、このような状況は1996年/1997年に変わってきた。
これは、深刻で、警鐘をならすべきような事態である。今日は、図版入りの雑誌とテレビの時代であり、このような時代には、写真は人々に対して強力な教育力を持ち、偽造写真は宣伝的、あるいは扇動的な効果を持っており、この点を看過すべきではないからである。このような事態は、とくにナチスによるユダヤ人迫害の事例にあてはまっており、このテーマは、大部分の人々がパブロフ的な反応をし、証拠の検証を不可能にしてしまうような状況を作り出している。
いくつかの写真が、ナチスによるユダヤ人迫害の証拠として繰り返し提示されてきたが、以下において、これを検証し、批判的に分析しておこう。紙面は限られているので、分析を必要とする写真の数の面でも、分析内容の面でも、すべてを網羅するようなものとはならない。このテーマに関する有名な写真を包括的に批判するという課題は、私のこれまで研究(6)の能力を超えており、今後果たされなくてはならないであろう。
3.1. 間違ったキャプションのついた写真
写真がキャプションの述べていることを写しているかどうかを立証するのは、難しい。一般的に、信憑性を保証しているのは、目撃者の証言、すなわち一方では撮影者の証言、他方ではその事件を目撃したか、写真に写っている人々の証言だけである。撮影現場の映像を手がかりに、この写真がとられた場所、ときとして、時間を決定することができる。事件に関与した有名人物が写真に写っていることは、信憑性を確定する手がかりとなる。だが、素性不明の人々だけが写っていたり、背景には写真が撮影された空間や時間を決定するような特徴を持つものが何も写っていなかったとすれば、撮影者と彼の申し立てを信用するしかない。撮影者の素性が明らかではなく、証拠が証言や伝聞だけであるとしたならば、このような写真は歴史資料としては価値がない。誰もこの写真に気ままに意味づけすることができるからである。
事実、写っている人物や撮影者の素性がまったくわかっていないことがある。以下に掲載されている写真はすべてそうである。また、ユダヤ人の殺害に関するいわゆる「資料」写真にはこのようなものが多い。だから、写真のデータ(いつ誰によって撮られたか)と被写体(人物と場所)が写真以外の証拠によって検証できる場合を除いて、これらの「写真資料」を十分に調査しなくてはならないことになる。いくつかの事例を見てみよう。
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図1:いわゆる縮んだ首、R. Neumann, Hitler - Aufstieg und Untergang des Dritten Reichs, |
最初の写真は、アメリカ軍がブッヘンヴァルト収容所を解放した際に発見したとされている2つの縮んだ首である。これらの医学標本は囚人の死体の一部であるという。刺青の入った電灯の笠、本のバインダー、しおり、ならびに2つの縮んだ首はとくにセンセーションを呼び起こした。一般的なニュルンベルク裁判の起訴状とは別に、これらは、ブッヘンヴァルトの前収容所長の妻イルゼ・コッホの裁判で証拠として提出された。彼女は、刺青で囚人を選別し、殺害して、彼らの皮膚から様々な製品を作るように命令したという。
アメリカ軍のクレイ将軍の陳述によると、人間の皮膚から作られたとされる電灯の笠は、ヤギの皮から作られたものであった。(7)A.L. スミスは、この問題についての詳しい研究の中で、合衆国委員会が人間の皮膚から作られているとみなしていたものは、ニュルンベルク国際軍事法廷に送られたのちに、跡形もなく消え去ってしまったことを発見した。(8) のちに発見されたすべての物は、偽物の皮か動物の皮、繊維かボール紙であった。1973年、合衆国国立文書館は、人間の皮膚で綴じられている2つの本を発見した。1982年、このスェード皮を法医学的に分析した結果、大きな動物の皮膚であるという結論となった。(9)
のちにイルゼ・コッホはドイツの法廷でも告発されたが、その告発は、ダッハウ裁判の職業的証人の価値のない証言だけにもとづいていた。これについてはマンフレッド・ケーラーがすでに本書で議論している。この当時広まっていたヒステリー、「宣伝と大衆的連想」(10)の雰囲気の中でイルゼ・コッホ――アメリカのダッハウ裁判では終身刑を宣告されたが、その後恩赦されていた――はドイツの法廷でふたたび終身刑となり、のちに自殺した。証拠として提出された2つの縮んだ首は南アメリカ起源のものであることがわかり、ドイツの人類学博物館の物品番号をつけていた。(11)これらも跡形なく消え去っている。
スミスの指摘するところでは、ブッヘンヴァルト収容所にはイェーナ大学からの医学生がおり、彼は刺青と犯罪との関係についての学位論文を書いていた。彼は、この関連で、すでに死亡した囚人からとられたものであったかもしれないが、刺青の入った皮膚を利用したのかもしれないという。(12)病人から器官や身体組織をとることは、病人やその親戚の同意があれば、医学的・教育的目的とすると、異常なことでも非難すべきことでもなかった。だから、どのような意味で皮膚が採取されたのかが問題となる。いずれにしても、ブッヘンヴァルトその他で発見されたものには、誤ったキャプションが付けられており、虚偽の話となっている。
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図2:小夜啼鳥大隊による虐殺の犠牲者といわれる。H. Bergschicker, Der zweite |
ベルクシッカーによると、図2はウクライナの民族主義大隊「小夜啼鳥」――その政治将校はテオドール・オベルレンダーであったとう――の虐殺の犠牲者である。(13)クルト・ツィーゼルは彼の本Der rote Rufmordのなかで、当時の連邦大臣に対するキャンペーンが偽りのキャプションにもとづいていることを証明した。(14)この写真に実際に写っているのは、ソ連の内務人民委員部による犠牲者であった。内務人民委員部は1941年に赤軍が撤退する前に反体制派を大量に処分したのである。こうした事例は特殊なものではない。死体の山を特定の犯人の罪にしてしまうことは普通のやり方である。ドイツ人はこうした推定上の犯人になりやすい条件を持っていたために、絶好のターゲットとなった。
図3は同様の事例をあらわしている。アメリカの雑誌『ライフ』1945年5月21日号に掲載されたものである。この写真はノルトハウゼン強制収容所の奴隷労働者の死者を写しているという。雑誌のコメントは、これらの囚人が飢え、疲労、殴打によって死んだと指摘している。しかし、実際には、ブロシャートその他は、これらの死者が連合軍の爆撃の犠牲者であることを明らかにした。(15)
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図4:チフスの犠牲者の写真、ベルゲン・ベルゼン強制収容所でイギリス占領軍が撮影した。例えば、1979年の『クウィク』など様々な雑誌に「アウシュヴィッツの犠牲者」として掲載された。 |
図4はアウシュヴィッツの大量殺戮の犠牲者とされている。(16)実際には、ベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスで死んだ囚人の死体であった。今日まで、アウシュヴィッツその他のいわゆる大量絶滅の現場でこのような写真は発見されていない。戦争末期の第三帝国の強制収容所では、飢餓、チフス、物資の不足、不衛生な環境によって多くの犠牲者が出た。だが、実際の写真が不足していたために、このような犠牲者の写真を意図的に間違って提示しなくてはならなかったのであろう。
地獄のような状況が、西部地方の収容所に広まっていた。このために、西側連合国の民間の観察者は、大量殺戮が意図的に実行されたとの印象を抱いた。そのような内容の連合国のレポートが登場しても、その事情は十分に理解することができる。しかし、実際には、このような地獄をもたらしたのは、例えば、前線近くの収容所の疎開といった外的な環境であった。そこの囚人は(愚かにも)ヒムラーの命令で内地に移送されたのである。(17)その結果、収容所は過剰人口となり、致命的な爆撃を受けていた第三帝国のインフラストラクチャーの崩壊によって収容所への衛生的、医療物資、食料の供給が断たれたために、収容所では地獄のような環境が生まれた。
ノルベルト・フライは、西側連合軍が強制収容所に到着したときの反応について、次のように述べている。(18)
「彼らが経験した衝撃は、事実関係の面では誤った結論を生み出し、そのうちのいくつかは今日でも効力を持っている。逆説的なことであるが、そうした結論は政治的、歴史的意味では正しい結論を生み出した。」
「歴史的意味では正しい結論」という彼の表現は、大量絶滅という告発は西部地方の収容所にはあてはまらないが、東部地方の「絶滅収容所」にあてはまるということであろう。「政治的意味では…正しい結論」という表現は、このような写真に間違ったキャプションがつけられて、「社会教育」に導入され、望ましい効果を生み出しているということであろう。(19)
たとえば、ダッハウ強制収容所の状況は1944年冬以前には、そんなに劣悪ではなかったが、そのことは、1942年から1945年6月までダッハウに収容された囚人の日記からも明らかである。(20)これとは逆に、戦後アメリカ軍のダッハウ収容所に収容されたドイツ軍兵士の状況ははるかに厳しかった。(21)そして、これは、できるだけ多くのドイツ人を害するために、意図的に行なわれた。(22)
3.2 改竄写真
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図5a: 修整された輸送写真、「ゲットー、絶滅収容所への輸送」とのキャプションがついている。H. Eschwege, Kennzeichen J, |
図5b: 連邦鉄道局のオリジナル写真。そのキャプションは「難民を満載した貨物列車、1946年、ルール地方に向かう満員の貨物列車、うしろにはリューベックにむかう二階建ての列車が写っている」というものである。 |
写真5aはユダヤ人が非人道的にゲットー、絶滅収容所に移送された証拠として何回も登場し(23)、ドイツのテレビでも放映された。(24)しかし、ハンブルクの連邦鉄道局写真アルヒーフは、この写真が実際に何を写しているのか明らかにしている。これは1946年に、ハンブルク駅に停車中の貨物列車で、ルール地方に向かうドイツの難民を満載しているのである。修整されていないオリジナル写真5bは、ハンブルク中央駅にかかっている。(25)この写真の左側には、リューベックに向かう2階だての客車が、右側には中央駅の建物の一部が写っている。両方ともこの写真がハンブルク中央駅であることを明らかにしているが、改竄写真では、修整されているか、カットされている。このことは、ゲットーや強制収容所へのユダヤ人の移送がなかったことを決していおうとしているわけでも、これらの移送が快適な客車によって行われた(西ヨーロッパからの移送の初期の段階ではそのようなこともあったけれども)(26)ということをいおうとしているわけでもない。この種の偽造を暴露することは、いわゆる資料写真にはきわめて懐疑的にアプローチしなくてはならないことを意味しているにすぎない。
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図6:薪の山のうえで焼却される殺されたユダヤ人の死体とされている。(27) |
図6は、エストニアのクローガ収容所でドイツ人によって殺されたユダヤ人が薪の上で焼却されているところであるという。この写真で注目すべきことは、第一に、薪の上に積み重ねられている死体のうちのいくつかが帽子をかぶっていることである(左上)。これは、「ナチスの悪党」が死体の頭に帽子をくくりつけたか、あるいは、生きている人々が撮影部署についたのちに帽子を自分でかぶったことを意味している。後者の可能性のほうが高いであろう。この写真に写っている人物は死後硬直状態にはまったくなっていないからである。彼らの手足は、薪の上にまったくうまくあてはまっている。左下の人物の腕、もしくは、右上の人物の腕をご覧いただきたい。事実、この写真は間違ったキャプションを付けられた写真というだけではなく、不要部分を切り取られた写真でもある。同じ光景を別の角度から写した写真があるが、そこには、ポーズをとって微笑を浮かべているソ連軍の制服を着た人々が写っている。この光景を写した写真が少なくとも7枚あるが、J. クラスが明らかにしたように、そのすべてに、死後硬直状態ではない、帽子をかぶった人々が写っている。(28)
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図7:3つのバリエーション |
図7にはコメントの必要もないであろう。(29)どの絵を見るかにもよるが、ミュンヘンのユダヤ人医師シュピーゲル、(シーゲル、シュヴァルツ)が1933年に警察の保護を求めたが、その代わりにポスターを渡され、靴、靴下、ズボンを奪われて市の中央を歩かされたというものである。別の資料はこれが1938年11月9日夜の「水晶の夜」の光景である(夜に日光が照らしているだろうか)としている。連合国の宣伝は、ユダヤ人に対する暴力的な攻撃が「水晶の夜」以前にも起っていたと主張しているが(30)、実際には、そうではない。それゆえ、この写真が撮影されたのは、1938年11月9日以前ではないであろう。
入念な調査にもかかわらず、この人物の素性は明らかではない。1979年ミハエル・シーゲル博士というユダヤ人(ドイツ連邦共和国勲章の保持者)がペルーの自宅で死んだが、彼の写真を提示した者はいない。(31)
写真にもとづいて絵が作成されているが、それは著しく修整されている。ポスターの文章も異なっており、シュピーゲル、シーゲル、シュワルツ氏の下半身も超現実的であり、焦点がぼけたりしている。
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図8:フランスの研究書 souviens-toi! Think of it, |
図8は図7に驚くべきほどよく似た興味深い諷刺画である。これはすでに1935年に公表されていたが、本物の写真にもとづいているとはいわれていなかった。(32)他方、図7は戦後に一つ一つ公表されていった。ここで、興味深い質問が持ち上がる。写真が最初なのか、漫画が最初なのか。まったくの偽物なのではないか。このように推測する十分な根拠がある。
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図9(a、b):左の写真は『シュピーゲル』(1966年42号)に掲載されたもので「SS国家における完全な奴隷制度」というキャプションがつけられている。右側のものはそのバリエーションで、「SSのサディストが『木のちゅうずり』を実行している」とのキャプションがつけられている。 H. Eschwege, op. cit. (23 ), p. 266.に掲載されている。 |
『シュピーゲル』誌によれば、図9(a、b)はブッヘンヴァルト強制収容所の看守とその犠牲者である。囚人は手を縛られて、木にぶら下げられているという。(33)図9aは一見すると写真のようである。しかし、図9bはコントラストが強く、各部分が寄せ集められた平板な感じであるので、書かれたものであろう。たとえば、SS隊員のベルトや拳銃、制服の襟とブーツ、地面に横たわっている囚人の上着の影を見ていただきたい。その黒い線は描かれたものにちがいない。とくに、SS隊員のまったく輪郭のない顔に注目していただきたい。
この様子を再現してみることをお勧めする。ジムへ行って、後ろ手でバーから自分の体を支え、膝は曲げたままにしておくのである。1分以上もこのポーズを取ることができたならば、素晴らしい腹筋に賞賛をおくりたい。偶然、いわゆる囚人が木に結び付けられているひもは、驚くほど強いようである。ロープは太いので写真に写るはずであるので、これはロープではありえない。だから、これは完全な偽物ではないとしても、モンタージュ写真あるいは絵であろう。事実、ドイツ当局は1996年に、これは、旧東ドイツの、すなわち、共産主義者の映画プロデューサーDEFAによって1954年に作られたことを公式に認めている。(34)
図10(a):「SS隊員がユダヤ人の頭皮に星を刻んでいる」というキャプションがつけられている。Faschismus, Getto, Massenmord, pub. in Frankfurt/Main by the
Jewish Historical |
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図10(b、c下):左側は詳細なもの、in R. Neumann, Hitler - Aufstieg und Untergang des Dritten Reichs (36); 「星」が動いていることに注意していただきたい。右は同じ写真、 in T. Kotarbinski, Meczenstwo walka, zaglada zydow W Polsce
1939-1945, Warsaw, 1960(36). |
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1994年初頭、図10(a、b、c)は、右翼急進派に対する大衆抗議運動を起こそうとして、ハレの少女が鉤十字を自分の上に描いて、メディア、検事と左翼のドイツ有罪派を引き回していたときに、ドイツでは今日的な意味を持つようになった。(35)
(創作された)犯罪的な絵の件で右翼を非難しようとする、この少女のアイディアは何も目新しいものではなかった。身元不詳の3名のユダヤ人の頭や額のダヴィデの星は動いている。その背景の情景はまったく知られていない。(36)モンタージュ写真なのか、それとも絵なのか。
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図11: R. Schnabel, Macht
ohne Moralより |
図12:V. Berdych, Mauthausenより |
シュナーベルによれば図11はマウトハウゼン強制収容所で生きている囚人が死者の傍らに座っているところを写しているという。(37)図12は本物の写真であり、その一部は図11に非常に良く似ている。これは、マウトハウゼン強制収容所のロシア地区で病人の囚人が日光浴しているところである。(38)写っている囚人はともに完全に一致している。図11に関して注目すべきは、第一に、オリジナルと比較すると、焦点がぼけていることであり、そのために改竄を発見することが難しくなっている。また、背景の左のバラックは書き直されており、写真の右半分は付け加えられたものである。右のバラックの窓は歪んでおり、バラックの影は間違った方向に伸びている。
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図13: Shown as Document 57 by Pressac, also in the
German edition Die Krematorien von Auschwitz, Munich: Piper, 1994. |
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図14:G. Schoenberner, op. cit. (39), p. 162. の図13の拡大図。死体と思われる上を歩いている男の腕は非常に長く、二つの肘を持っているようである。さらに、地面に横たわっている死体は焦点がぼけているだけではなく、解剖学的にありえない。 |
図13はビルケナウの焼却棟Xでの大量ガス処刑の犠牲者を戸外で焼却する光景を焼却棟Xの窓から写したものとされている。(39)実際、背景のフェンスや向こう側の森は当時の情景と良く似ている。今日見ることができる航空写真の1つには、問題の場所での煙の痕跡が写っている。(40)だから、この図は本物の写真をもとにしているようである。しかし、図13の細部を見ると、疑問がわく。例えば、背景の左には、輪郭よりも少々大きく、杖によりかかっている人物が写っている。他のすべての人物が、日光に明るく照らされているのに対して、この人物は不可解に暗く、輪郭がないので、全体にマッチしていない。死体と思われるものの形も奇妙である。とくに図14拡大版に写っている死体は奇妙である。それゆえ、焼却の光景に本物の火をそそぐために、死体と労働者を付け加えることで、望まれるべき「真理」が加速されたのであろう。しかし、たとえ、写真が本物であるとしても、これは何を写しているのだろうか。これらの死体はガス処刑の犠牲者なのか、それともチフスの犠牲者なのであろうか。いずれにしても、煙が地上から出ていることは、高く積まれた薪の山などなかったことを明らかにしているし、航空写真には焼却壕なども写っていないのである。(41)したがって、この写真は、チフスで死んだ囚人のシラミに汚染された衣服を焼却しているところを写しているにすぎないといえるであろう。
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図15(a、b、c):戸外の大量埋葬地でのポーランド系ユダヤ人の処刑 |
図15(a、b、c)は戸外の埋葬地でのポーランド系ユダヤ人の処刑を証拠立てているといわれている。(42)発砲しようとしている兵士は眼鏡をかけていたり、かけていなかったりする。襟章は白い縁を持っていたり、持っていなかったりする。とくに、図15cでは、この人物はカット・アンド・ペイストされたかのようである。制服の周囲には白いアウトラインが引かれており、影がない。背景の人々もやはりカット・アンド・ペイストされたかのようである。彼らの足と胴体を比べていただきたい。これはおそらく、合成写真か、少なくとも、部分的に書き込まれた偽造写真である。しかし、このことは、ドイツ人が、死刑宣告された人々、とくにパルチザンを射殺し、大量埋葬地に埋めなかったことを証明しているわけではない。パルチザンの射殺は戦時中には非合法ではなく、異常なことではなかったので、ドイツ人はこのような処刑を実行したし、そのことを文書に記録している。
3.3全体的な偽造
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図16a:history1900s.about.com/education/ history1900s/library/holocaust/bleinsatz6.htm. |
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図16b:Jewish Historical Institute of Warsaw, Faschismus - Getto - Massenmord (p. 334)から。「処刑直前の子供を連れた女性」というキャプション。 |
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図16c:S. Einstein, Eichmann - Chefbuchhalter des Todes, Frankfurt/Main, 1961, p.
202. |
図16はトレブリンカのガス室の外に整列する裸の囚人を写しているという。(43)これらの図が写真にもとづいているとすると、図16aからcにいくにしたがって、修整が施されているために、質が劇的に悪くなっている。撮影者も撮影場所の不明であり、これが処刑現場を写しているとどうして主張できるのかもミステリーである。図16cがオリジナルの図、すなわち図版かモンタージュであって、その他の2つは、この図版を洗練することで作られていったと考えられる。
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図17:左はG. Schoenberner, Der gelbe Sternから、「リイェパヤでの大量処刑」というキャプション。右はS. Einstein, Eichmann - Chefbuchhalter des Todesから。 |
同じことが図17にも言える。これはラトヴィアでの大量処刑を前にした裸の囚人を写したものとされている。(44)とくに左の図は写真とは呼べない。せいぜい、写真にもとづいた絵であろう。書き込まれたと思われる、背景の2人の女性を比べていただきたい。
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図18:左はR. Schnabel, Macht ohne Moralから。「アウシュヴィッツ殺された人々の靴」とのキャプション。右は C. Simonov, The Lublin Extermination Campから。 |
図18は、どちらのバージョンを選択したかにもよるが、アウシュヴィッツあるいはマイダネクの犠牲者から集められた靴の山を示しているといわれる。(45)背景は曖昧であり、写真の中の靴は非現実的で描かれたもののように見える(とくに右側)。この中の靴に多くの食い違いがあり、これらの靴が書き込まれたものであることを示している。
靴、眼鏡、ブラシ、結婚指輪その他のものが、ユダヤ人の絶滅の証拠としてしばしば示されてきた。このようなやり方は、論理的な観点からすると、例えば、赤十字は毎年ドイツで大量の古着を集めているが、これは赤十字が古着を集めているときにドイツ国民を絶滅していることを証明していると主張するのと同じことである。実際には、原料物資の不足のために、とりわけ戦時中には、第三帝国ではほとんどあらゆる物が集められ、リサイクルされていたということが、今日ではまったく忘れ去られている。時折時折に撮影された写真は、このようなもの集め運動の結果を写しているにすぎないかも知れないのである。(46)連合国が宣伝写真を撮影するために、靴などの物品を集めたとすれば、それは、問題外である(47)
この種類の「証拠」は大量殺戮説を証明することはできないが、平均的な人々に確信的な印象を与え、驚きの感情を与える点でとくに悲劇的な側面を持っている。それは、戦後にドイツ人に見せられ、この種の光景を写していた映画Todesmühlenと同様である。(48)
3.4映画
戦争直後、アメリカ軍はこの映画Todesmühlenをドイツの民間人ならびに数十万のドイツ軍捕虜に見せた。それは強制収容所の中での虐殺を示しているかのようで、ドイツ国民の再教育に役立つと考えられた。しかし、この映画の中身が本物であるかどうかは検討されたことがない。例えば、チェンバレンの報告によると、不穏な動きが上映中にしばしば発生したが、抗議の芽は、その映画の影響を受けた観衆によってしばしば、摘み取られたという。(48)当時の報告によると、批判を呼び起こしたのは、戦争末期のドイツの強制収容所の状況に関する写真と映画のクリップ(多分本物)に、爆撃されたドイツの町でのドイツ人の死者の山、「自動的逮捕」収容所での衰弱したドイツ人囚人の光景がつけられており、それがドイツの強制収容所の犠牲者として勝利者によって提示されていたことであった。(49)
チェンバレンによると、占領軍当局は映画を作製するのに十分な材料を持っていなかったというから(50)、これが「最後の手段」であったにちがいない。不幸なことに、このような非難はまったく文書として記録されていないので、とりわけ、目撃者の世代がしだいに死んでしまっているので、今日では事態を検証することは困難である。
アメリカがニュルンベルク裁判で証拠として提出したフィルムはまったくの偽造であることが明らかになっている。フランクフルトの帝国銀行所蔵の殺されたユダヤ人からの金歯の発見についての映画記録のことである。(51)しかし、裁判とその後の調査の中で、アメリカ人が最初から最後までこれを演出したことが明らかとなった。(52)いわゆる金の詰め物がどこからやってきたのか、どこに行ってしまったのかは、ブッヘンヴァルト収容所で発見された人間の皮膚の運命と同じように、ミステリーである。
他方、もっと複雑であるのは、アメリカ人がニュルンベルク裁判で見せ、Todesmühlenのように、強制収容所での虐殺を示しているとされているフィルムである。囚人がダッハウのシャワー室でガス処刑されたという嘘は別として、この映画は、悪名高い縮んだ首、人間の皮膚からの物品、栄養失調とチフスで死んだ大量の囚人も写している。しかし、映画中のナレーションは、ミスリーディングである。
ソ連がアウシュヴィッツ収容所の解放に際して撮影したが、1980年代半ばまで公開されなかったフィルムにも偽造のシーンがちりばめられている。例えば、フィルムは、胴体がすでに薪で焼かれている囚人の顔を写しているが、その顔は恐怖をいっぱいうかべてカメラを見ている。もしも、胴体が本当に火に焼かれているとしたのならば、頭にはまったく髪の毛などないはずであるし、目は少なくとも、焼かれていないとしても、熱で曇っていることであろう。
この関連で奇妙であると思えるは、西側諸国が、朝鮮戦争やヴェトナム戦争でのアメリカ軍の虐殺に関するソ連のフィルムを、批判的に検証しないまま、真実とはまったく受けとっていないことである。その一方で、第三帝国の犯罪を立証しているとされるフィルムその他は、まったく検証されることなく、西側諸国の学校で教材として使われているのである。
『ホロコースト』、『ショアー』、『シンドラーのリスト』のような映画は、まったく別のカテゴリーにある。当然なことに、これらの映画には資料的な価値はまったくないが、大衆への心理的な影響は圧倒的で強力である。(53)定説派の歴史家は映画『ホロコースト』について、事実関係の面では受け入れがたいと評価している。この評価はその他の映画にも適用できるにもかかわらず、これらの映画は好評であり、「社会教育」や世論の方向に影響を与えているのである。(54)
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図19:『シンドラーのリスト』から |
プラショフ強制収容所 |
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図20:映画の中の収容所、目撃証言に従って再現された。険しい丘に取り囲まれており、外からは見えなかった。所長ゲートは自分の屋敷のバルコニーから囚人に発砲した。彼の屋敷は、囚人バラックの上、丘の頂上にあった。 |
図21:1944年の航空写真による収容所。収容所は丘の頂上にあり、鉄条網のフェンス越しに、3方の村から見ることができた。ゲートの屋敷は丘の底にあり、彼はバルコニーから収容所を見ることができなかった、したがって、囚人に発砲することもできなかった。 |
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一つの事例は、このような写真が歴史的に受け入れられないことを示している。図19は、『シンドラーのリスト』からのシーンである。ここでは、収容所長ゲートが自分の家のバルコニーにたって、プラショフ収容所の囚人をランダムに射撃している。しかし、航空写真によれば、所長の家は丘のふもとにあり、一方、収容所は丘の頂上にある(図20)。(55)このシーンを可能とするには、図20のような屋敷と収容所の配置が必要であろう。それゆえ、このシーンは、地理的な理由からだけでもありえないことなのである。しかし、スピルバーグの偽造はそれだけではない。
『シンドラーのリスト』は、歴史的題材をあつかった小説にもとづいている。(56)しかし、意図的にモノクロ撮影と不安定なカメラワークを使っており、それは、このフィルムがドキュメンタリー映画であるという誤った印象を観衆に与えるためであった。映画の関係者もこのことを認めている。(57)これは映画作成者の意図を明瞭に示している。また、ドイツやオーストリアだけではなく、授業でこの映画を見させようとしている人々の意図を明瞭に示している。この映画のとくに不誠実な点は、ドイツ軍兵士やSS隊員が命令を発したり、怒鳴ったり、叫んだり、暴力行為に及んだりするときには、その言語が英語その他ではなく、ドイツ語であることである。この結果、ドイツ語は残酷な下等人種の言語であると世界中の人々が感じてしまう。そして、このことに気づいていないのはドイツ人だけである。ドイツでは、『シンドラーのリスト』はすべてドイツ語に吹きかえられているからである。このようにして、心理的なトリックが秘密裏に行なわれ、ドイツ人、ドイツ語、ドイツ文化への敵意が世界中でかきたてられているが、ドイツ人は何が進行しているのか知らないのである。
これ以外にも、スピルバーグは、プラショフ収容所長がSSから訴追された事実を隠している。(58)
「幅広い意味合いを持つこれらの事件における個別的な犯罪行為には、死亡診断書の偽造によって隠された、所長か部下による殺人許可の設定が含まれている。
専横的な振る舞い、ごまかし、不法な体罰、残酷な行為、サディズム行為、役に立たなくなった共犯者の処分、窃盗、闇市場での暴利。
これらの犯罪は、すべて囚人やSS隊員だけか、双方が協力して行なわれた。しかし、大半はSS隊員とカポー(強制収容所ユダヤ人看守)との共謀であった。
1943年7月、私が調査を始めたことから、強制収容所でのSS管轄権への干渉が始まり、それは終戦まで続いた。それよりも早く始めることはできなかった。この点については嫌疑がなかったからである。
ブッヘンヴァルト、ルブリン、ワルシャワ、ヘルツォゲンボシュ、クラクフ・プラショフの所長が逮捕された。」
スピルバーグは、自分のだまされやすい観衆から、犯罪が調査され、犯人が処罰されたという事実を隠したがったにちがいない。彼が関心を抱いていた、抱いているのは、歴史的に正確な映画ではなく、ホロコースト正史のイデオロギーを受け入れるように世論を形作ることだからである。観衆はだまされやすく、発言しないかもしれないが、スピルバーグは詐欺師であり、歴史的真実を否定する者である。
4. 写真を使った宣伝:反ドイツ国防軍展示会
1995年以降、おもに写真を使ってドイツ国防軍の犯罪を暴露する展示会がドイツとオーストリアを巡回した。(59)この巡回展示会のスポンサーは、1960年代末からドイツの左翼過激派と無政府主義者に資金を提供していた億万長者ヤン・フィリップ・レエムツマであった。この展示会をまとめたのは、旧共産党員で、左翼過激派への共感を隠していないヨハネンネス・ヘールであった。ジャーナリストのリュディガー・プロシュケが指摘しているように、この展示会を後押ししたのは、1960年代末の急進左翼学生反乱以降、盲目的に左翼イデオロギーを支持してきた人々であった(プロシュケ自身もかつてはそのメンバーであった)。(60)
それゆえ、この展示会は、共産主義者や左翼過激派の虚偽宣伝の継続であり、その目的は、ドイツ的なアイデンティティのルーツを破壊することで、自分たちの政治的・文化的ヘゲモニーを確立することであった。左翼過激派は、過去数十年にわたって、東側ブロックの左翼過激派体制が人権をひどく侵していたために、世論の指導権と道徳的権威を失っていた。政治的穏健派は、そうしなければ自動的にファシスト・シンパという嫌疑をかけられてしまうので、自分たちは「ナチ」の犯罪に反対していることを繰り返し表明しなくてはならなかった。左翼過激派は、政治的穏健派に反「ナチ」を表明させることによって、失われていた世論の指導権と道徳的権威をある程度回復したのである。
政治学者のクニュッター教授が指摘しているように、この概念の裏にある目的は、旧来の価値システムを破壊し、イデオロギー的な真空地帯を作り出し、そのなかで、社会主義的、無政府主義的、共産主義的な救済の教えに豊かな土壌を作り出すことである。クニュッターによると、この過程では、ドイツ国民を多文化的混成体に置き換える過程が同時進行する。そして、この混成体はアイデンティティを欠いてはいるが、不可避的な衝突とそれに付随する社会的・経済的諸問題のおかげで、革命思想だけは十分に持ち合わせるようになるというのである。(61)
こうした政治的背景を、展示会の主催者が展示している写真は純粋な宣伝にすぎないとしてしりぞける口実に利用すべきではない。何名かのアカデミックな研究者たちは、レエムツマとヘールがどのようにしてこの展示会をまとめあげたのかを調査した。その調査によると、展示写真の大半(314枚のうち218枚)がもともとは、モスクワとミンスクの文書館のものであり、その典拠をまったく明示していいない。(62)言い換えれば、誰がいつどこでこの写真を撮影したのか、撮影されているのは何であるのか確証する手がかりはまったくない。ところで、興味深いことに、ナチスの犯罪の証拠として提示されている写真は、一般的に、旧東側共産圏の著作や文書館からのものである。かつて、東側共産圏は、ナチスの犯罪(あるいはそのような話となっている犯罪)を誇張し、利用することに大きな関心を抱いていた。(63)W. シュトラウスは、多くのこれらの写真の撮影者がイェヴゲディ・アナニエヴィチ・ハルデイであったことを明らかにしている。
彼は、「タス通信所属の従軍写真家であり、高い勲章を授与されている。1941年6月からは、直接前線ではなく、後方地域や再占領地域で活動していた。個人崇拝の筆頭のスター記者であり、スターリンも含むソ連の実力者たちの肖像を撮影した功績で受勲されている。
ハルデイのやり方は、修整写真をオリジナル現場写真としてソ連内外に公表することであり、それによって金銭とスターリン勲章を受けた。」(64)
重要なことは、展示者たちは典拠についての情報をまったく欠いた写真を無批判的に展示し、そのような短絡的やり方が批判されても、姿勢を変えようとしていないことである。
ドイツで二番目の週刊誌『フォーカス』は、展示写真には間違ったキャプションが付けられていることを繰り返し攻撃し、偽造と虚偽で責任者を告発した。展示会の責任者たちは、入浴のために脱衣しているユダヤ人を写した写真が「大量処刑の光景」であると主張し、非常にあいまいな内容の写真を「ドイツ国防軍の犯罪」として展示し、あやまちが証明されても、展示の訂正を拒んだからであった。(65)前者について興味深い点は、展示責任者が偽りのキャプションを取ってきたのは、ヴィリイ・ドレセンが共同編者である本(66)からであり、このドレセンは、ルードヴィヒスブルクの地方司法局中央局長であり、いわゆるナチス犯罪の訴追の責任者であることである。この本の出版当時すでに中央局で働いていたドレセンがたとえ実際の事件を知っていたとしても、彼は、間違ったキャプションを支持していた。このようなことは、「事の次第をよく知っている」人々には別に驚きではない。中央局の職業的な「ナチ・ハンター」と急進左翼、職業的反ファシストのイデオロギー的結びつきはいつも緊密であったからである。
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図22:パンチェヴォ(セルビア)での処刑、誤って、犯罪とされている。(67) |
ドイツ国防軍の犯罪として繰り返し展示されている1つの写真をもっと詳しく検討してみよう。図22は、セルビアのパンチェヴォ村の墓地の壁の前でのパルチザンの処刑である。この写真も、反ドイツ国防軍展示会の一部として展示されている。ドイツの従軍記者はこの処刑を映画撮影していた。この映画は、1997年4月に、ドイツ国防軍の犯罪の証拠として、ドイツのテレビで放映された。(68)しかし、責任者の将校が、戦争犯罪をおおやけにかつ詳細に記録することを記者に許していること自体がありそうもないことである(同じことがこのような資料にあてはまる)。反ドイツ国防軍展示会とテレビ放送がもみ消していることは、この写真に写っているのは、ドイツ軍兵士に対する殺害行為で死刑宣告されたパルチザンに対する正規のドイツ軍法会議の判決が執行された現場であるという事実である。当事であっても、そして今日であっても、この件での戦時法の下では、この処刑は犯罪ではなく、法的に認められた戦争手段であった。この事件は残酷そうに見える。しかし、あらゆる戦争はこのようなものである。したがって、処刑自体に犯罪を求めるのではなく、戦争をもたらした原因に犯罪を求めるべきなのである。
反ドイツ国防軍展示会は、明らかに左翼過激派的な目的を持って行なわれた。ドイツでは、この展示会をめぐる議論は、第三帝国の歴史学を事実上独占している左翼思想家集団のネットワークが存在していることを暴露した。(60)それだけではない。戦後50年経って初めて、現代史家たちは、ナチスの犯罪を証明しているとされてきた資料を分析し、その信憑性を疑い始めたのである。この意味で、クラウス・ソイカ教授博士についてとくに触れておかなくてはならない。彼は、レエムツマ展示会の写真を、その他多くの写真と比較し、史料批判の観点から包括的に分析することで、これらの写真を詳細かつ徹底的に批判した。(69)フランツ・ザイドラー教授は、最近再発見されたドイツ国防軍戦争犯罪局(70)の文書を公表して、この議論全体に別の焦点をあてた。それは、東部戦線でのドイツ軍兵士に対する犯罪を、注意深く、かつ詳細に記録していた。
「本書は、『絶滅戦争。ドイツ国防軍の犯罪、1941−1945年』展示会への回答である。…
反ドイツ国防軍展示会とは異なり、このソ連の戦争中の虐殺行為の記録には、偽造、ミスリードする文章、根拠のない主張はまったくない。すべての事件が記録されている。場所や日付についての情報も明確である。写真は個人的な写真ではなく、法律的、医学的証拠である。文書資料は手を加えられていない。多くの資料は今後研究者によって確証されうるであろう。文書資料のテキストは、連邦文書館、フライブルクの軍事文書館、書棚RW 2/v.147-v.152.において検証することができる。」(71)
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図23:ドイツ軍捕虜に対するロシア人の人肉食い、1941年秋:『捕虜収容所305収容所2における内臓のはみ出した死体』Photo document re. Case
304, F. W. Seidler, op. cit., p. 363. |
ここに掲載されているいくつかの写真は、読者の血を凍らせてしまうであろう。たとえば、ドイツ軍兵士に対するロシア人の人肉食いを記録した多くの写真がある(図23)参照。この記録を見れば、スターリンと彼の同志の野蛮な姿勢のために、ドイツ軍が汚い戦争を戦わなくてはならなくなった事情が理解できる。(72)
とくに興味深いのは若い歴史家ヴァルター・ポシュトの回答である。彼の話は多くの点で修正主義的であり、こう締め括っている。
「『絶滅戦争。ドイツ国防軍の犯罪』に関する本の論文の中で、アルフレド・シュトライム[ルードヴィヒスブルク地方司法局中央局の検事]は、中央局が1958年に設立されて以来、ドイツ国防軍のメンバーに対する3000ほどの予備審理がドイツ連邦共和国で行なわれたと述べている。言い換えると、3000名のドイツ国防軍兵士が、ナチス犯罪や戦争犯罪に関与した嫌疑を受けたというのである。
ドイツ国防軍に所属していたのは1800万ほどの男女であった。とすれば、3000名とは全体の0.017%である。仮説として、未報告の事件、露見していない事件の割合が90%であるとすると、容疑者の合計は30000名となり、これでも、0.17%にすぎない。しかも、ドイツ連邦共和国での3000の予備審理のなかで、2件だけが有罪となった。旧東ドイツでも、ドイツ国防軍のメンバーが有罪となったのは合計8名であった。
したがって、量的研究によると、『高潔なドイツ国防軍』という伝説は、伝説ではなかったことになる。」(73)
最後に、1999年末、この展示会はアメリカにわたる直前に、一時的にキャンセルされた。3名の研究者が詳しく調査した結果、写真の大半には間違ったキャプションが付けられており、わずか10%だけが犯罪を写していたからである。展示物のうちいくつかは、ソ連の内務人民委員部による大量殺戮の犠牲者を写していた。(74)この結果、ヨハネンネス・ヘールは、この展示会の責任者としてのポストを失い、著名なドイツ史家は、それを取り替えるのではなく、廃止するように勧告した。(75)最近、ヴァルター・ポシュトは、周到に調査した結果、この展示会は、歴史家たちが主張しているように、いくつかの間違った写真を使って「正しい」説(「絶滅戦争。ドイツ国防軍の犯罪」)を立証したのではなく、この説自体が虚偽であることを立証してしまったことを明らかにした。(76)
このような著作は、50年以上にわたってドイツの歴史学を麻痺させ、歴史家たちがその最大の使命、すなわち資料の批判的な分析という使命を果たすことを妨げてきた呪文を打ち破ったかのようである。結局のところ、学術的な観点からのみならず、すべての面で、レエムツマ展示会は、もはや克服することのできないような災難となってしまったのである。
5. 補遺
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図24:左:1948年の本物、右:偽物 |
次第に、大新聞その他のメディアも偽造写真を暴露するようになってきた。たとえば、ベルリン・オラニエンブルク通りのシナゴーグの火事のモンタージュ写真である。この写真は、ドイツにおける1938年11月の反ユダヤ人ポグロムに関するよく知られている写真の1つである。このとき、ドイツのいくつかのシナゴーグが放火されたことには疑いがないが、これを如実に写している写真が存在しないので、戦後すぐに、ある人物が1948年に撮影された有名なベルリン・オラニエンブルク通りのシナゴーグの写真に手を加えた。1990年にすでに、作家ハインツ・クノブロッホが、これが偽造であると証明したと主張していたが(77)、誰が犯人であるかを明らかにすることはできなかった。1998年にはじめて、クルト・ヴェルニッケが犯人を暴露した。彼が展示物の専門家から手に入れた情報によると、おそらく、オリジナル写真に手を加えたのは、モンタージュ写真の専門家クラウス・ヴィットクーゲルであった(図24)。(78)
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図25a:オリジナル |
図25b:サイモン・ヴィーゼンタール・センターの偽造、煙がフェンス・ポストから立ち昇っている。 |
1999年、サイモン・ヴィーゼンタール・センターは、次のようなキャプションをつけて、自分のサイトに図25bを掲載した。(79)
「これらの囚人たちが奴隷労働に駆り出されているとき、その友人や家族の多くはガス処刑され、焼却棟の炉で焼かれていた。背景にその煙が見える。」
1944年春にビルケナウ強制収容所で撮影されたオリジナル写真(図25)には、煙などまったく写っていない。(80)明らかに、第二世代のホロコースト宣伝家たちは、第一世代の宣伝家たちが想像しかできなかったことを今日のコンピュータ・ソフトウェアー技術を使って成し遂げているのである。ちょっとした「フォトショップ」の助けを借りれば、「目撃証言」が望むようなどのような資料でも作り上げることができる。このケースでは、煙突である。幸運(不運)なことに、彼らは、書き込んだ煙の出所として、煙突ではなく、フェンス・ポストを選んでしまった。
ナチスによるユダヤ人の迫害を証明しているとされている写真が本物であるのかどうか、という問題については、いまだ十分な研究は行なわれていない。55年たっても、そのような研究を行なう研究者は訴追の対象となっているので、この問題は、いまだ解決されていないし、これからも解決されないであろう。にもかかわらず、偶然かもしれないが、いくつかの偽造が明らかとなっている。だとすれば、このような写真すべての信憑性に懐疑的になるのは、ごく当然なのではないだろうか。
6. 結論の代わりに:あまり知られていないが、本物の写真
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図26:ライフ・マガジン、1944年5月22日、34f頁。「今週の写真、背に高いハンサムな海軍中尉がアリゾナ州フェニックスの軍需工場労働者ナタリー・ニッカーソン(20歳)に2年前にお別れを言ったとき、彼はジャップを約束した。先週、ナタリーは頭骸骨を受け取った。そこには彼女の中尉とその友人13名の署名があり、『これは良いジャップです。ニューギニアの海岸で拾い上げた死んだジャップのものです』との書付があった。ナタリーはこのプレゼントに驚いて、それをTojoと名づけた。軍当局は、この種のことに強く反対している。」 反対ですか。戦争犯罪でアメリカ人を処罰することはもっと適切なのではないだろうか。 |
最後に、アメリカ軍兵士が、殺された日本兵の骨からみやげ物を作っていたことはよく記録されており、広く認められている(図26)。アメリカ軍兵士はこれを自慢していたが、そのような犯罪をドイツ軍兵士が行なったとは証明されてこなかった。(81)
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図27:連合国の空襲によるドイツの民間人の犠牲者。投下爆弾量は2767000トン。100万ほどのドイツ人ホロコーストの犠牲者の数例。普通のドイツ人、兵士、民間人の運命は、捕虜収容所や強制収容所の数十万の囚人の運命よりも過酷であったことがあるということを忘れがちである。 |
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図27は、連合国が意図的に爆撃したドイツの町の居住区のドイツ民間人のホロコーストの犠牲者を写している。(82)ドイツへの連合国のテロル的な爆撃の結果、合計で、100万ほどの罪のないドイツ人――大半が子供、女性、老人――がこのように死んだ。(83)これらの写真と、ドイツの強制収容所で飢えとチフスで衰弱した犠牲者の写真とのあいだには大きな相違がある。
1992年にフォーリソン教授が指摘したように(84)、ドイツの捕虜収容所と強制収容所での犠牲者と、連合国の空襲および戦後の連合国と解放された諸国による虐殺行為のドイツ人犠牲者とのおもな相違は、ドイツの収容所の囚人が、戦争によるドイツのインフラストラクチャーの崩壊のために死んでいったのに対し、ドイツ人は、連合国と『解放された』諸国民、すなわち、セルビア人、チェコ人、ポーランド人によって大量に殺戮されたという点にある。したがって、本当のホロコーストは、戦時中のドイツの町で、戦後のドイツ各地で起ったのである。
注
(1)F. Avenarius, Das Bild als Verleumder,
Callwey, Munich 1916; F. Avenarius, Das Bild als Narr, ibid.,
1918; cf. U. Walendy, Historische Tatsachen No. 22: "Alliierte
Kriegspropaganda 1914-1919", Verlag für Volkstum und
Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1984, cited in the following as HT
(2)A. Jaubert, Fotos, die lügen,
Athenäum, Frankfurt/Main 1989.
(3)A. Grosser, Ermordung der Menschheit,
Hanser,
(4)U. Walendy, Bild-"Dokumente"
für die Geschichtsschreibung?, Verlag für Volkstum und
Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1973; cf. also U. Walendy, Europa in Flammen,
v. II, ibid., 1967, documentary appendix, and U. Walendy, The Journal
of Historical Review (JHR) 1(1) (1980) pp. 59-67 (online:
vho.org/GB/Journals/JHR/1/1/Walendy59-67.html)。手を加えられた写真と映画については、U. Walendy, "Immer neue Bildfälschungen", part 1
& 2, HT 63 & 64, Verlag für Volkstum und
Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1994/1995; S. Egel, "Verordnete
Einheitsmeinung" part 1 & 2; Vrij Historisch Onderzoek, Berchem
1997も参照。
(5)G. Frey (ed.), Vorsicht Fälschung,
FZ-Verlag,
(6)上記の研究(注4)以外に、多くの個別的な事例を挙げておかなくてはならないが、それらは、Historische Tatsachen, Verlag für
Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, Vlotho 1975-1997のさまざまな号で繰り返し、公表されている。
(7)A. L. Smith, Die "Hexe von
Buchenwald", Böhlau,
(8)Ibid., pp.
103, 138, 153, 164; U. Walendy, HT No. 43, 1990, pp. 15ff.; G. Frey, op.
cit. (note 5), pp. 200ff., 211; A. Mohler, Der Nasenring, Heitz
& Höffkes, Essen 1989, pp. 133ff.
(9)David Irving, "Menschenhäute",Vierteljahreshefte
für freie Geschichtsforschung, 3(2) (1999), pp. 214ff. (online:
vho.org/VffG/1999/2/Irving214-216.html)を参照。英語版:online
at fpp.co.uk/Auschwitz/documents/controversies/humanskin.
(10)A. L. Smith, op. cit. (note 7), p.
138.
(11)おそらく、ブッヘンヴァルト近くのヴァイマール自然博物館――今日では存在しない――のものであろう。その展示物の一部は、ゴータの自然博物館に所属している。Peter Langeとの個人的会話。 Helmut Rehmは、当時のメディア報道から、これらの首にはベルリンのダーレムの人類学博物館の物品番号がついていたと記憶している。個人的会話。コッホ関係の書類を調査して、この首がどこから来たのか、現在どこにあるのかを調べる価値がある。
(12)A. L. Smith, op. cit. (note 7),
pp. 127f.
(13)H. Bergschicker, Der Zweite Weltkrieg,
(14)K. Ziesel, Der rote Rufmord,
Schlichtenmayer, Tübingen 1961, pp. 78ff.; cf. U. Walendy, Bild-"Dokumente"...,
op. cit. (note 4), pp. 3ff.
(15)M. Broszat, Studien zur Geschichte der
Konzentrationslager, Schriftenreihe der Vierteljahrshefte für
Zeitgeschichte, No. 21, Stuttgart 1970, pp. 194f.; cf. U. Walendy, HT
No. 34, 1988, p. 37.
(16)From a 1979 issue of Quick, cited
as per G. Frey, op. cit. (note 5), p. 259, who does not give a precise
date
(17)Cf. A.
(18)Cf. N. Frei, Vierteljahrshefte für
Zeitgeschichte (VfZ) 35 (1987) pp. 385-401, here p. 400.
(19)その他の間違ったキャプションの2つの事例は、M. Weber, "The
(20)A. Haulot, "Lagertagebuch. Januar
1943 - Juni 1945", in Dachauer Hefte, 1(1) (1985), pp. 129-203
(21)G. Naumann, Besiegt und
"befreit". Ein Tagebuch hinter Stacheldraht in Deutschland 1945-1947,
Druffel, Leoni am Starnberger See 1984. 2つの本の比較はI.
Weckert, "Zweimal Dachau", Sleipnir 3(2) (1997), pp.
14-27 (online: vho.org/D/Sleipnir/RauWe3_2.html)で行なわれている。この論文のために、Sleipnir のこの号は没収され、出版者は訴追された。VffG 2(1) (1998), pp. 22-36 (online:
vho.org/VffG/1998/1/Toepfer1.html)を参照。
(22)Cf. J. Bacque, Other Losses,
Stoddart,
(23)H. Eschwege (ed.), Kennzeichen
"J", Deutscher Verlag der Wissenschaften,
(24)Der Tod ist ein Meister aus
Deutschland, part 3, May 2, 1990; cf. E. Gauss, Vorlesungen
über Zeitgeschichte, Grabert, Tübingen 1993, pp. 144f. (online:
vho.org/D/vuez/v2.html).
(25)Published as such in Hamburger
Abendblatt, Oct. 21, 1981, p. 4; cf. G. Frey, op. cit. (note 5), p.
258; U. Walendy, HT No. 13, 1982, p. 16.
(26)東部地区へユダヤ人を移送するにあたって、快適な客車が使われたことについてのよく知られている目撃証言が、ランズマンのドキュメンタリー映画『ショアー』の中に登場している。
(27)Downloaded from:,www.nizkor.org/
ftp.cgi/orgs/german/ einsatzgruppen/images/eg-06.jpg; source given: George St.
George, The Road To Babyi-Yar, Spearman,
(28)J. Kuras, "Gestellte sowjetische
Scheiterhaufen-Bilder", VffG 3(3) (1999) (online:
vho.org/VffG/1999/3/Kuras3.html).
(29)この写真にはさまざまなバージョンがあり、出所もさまざまである。U.
Walendy, Bild-"Dokumente"..., op. cit. (note 4), p. 68;
U. Walendy, HT No. 34, 1988, pp. 38ff.; U. Walendy, HT No. 38,
1989, pp. 31ff.を参照。
(30)ドイツの歴史家シッケルは、ナチス・ドイツ時代の初期における西側メディアのヒステリーと虚偽の宣伝について優れた論文を公表している。"Notizen zur Zeit", in Freiheitliche Akademie der
FPÖ (ed.), Freiheit und Verantwortung, Jahrbuch, publ. by ed., Vienna
1995; cf. "The Jews under the Nazis: Public Perception and Reality",
in Anglo-Hebrew Publishing (ed.), Holocaust Denial: New Nazi Lie or New
Inquisiton?, InfoText, 93c Venner Road, Sydenham, London SE26 5HU, n.d., pp
17-22.
(31)U. Walendy, HT No. 38, pp. 31ff.
(32)E. Varlin, Israël souviens toi! Think
of it,
(33)Der Spiegel No. 40,
(34)W. Ayaß, D. Krause-Vilmar, "Mit
Argumente gegen die Holocaust-Leugung", in Polis,
Schriftenreihe der Hessischen Landeszentrale für politische Bildung, Wiesbaden
1996, p. 22f.; referring to H. Obenaus, "Das Foto vom Baumhängen - ein
Bild geht um die Welt", in Stiftung Topographie des Terrors Berlin
(ed.), Gedenkstätten-Rundbrief no. 68, Berlin, October 1995, pp. 3-8.
(35)Welt am Sonntag, Jan. 16, 1994, p. 1を参照。
(36)Ill. a): R. Neumann, Hitler - Aufstieg
und Untergang des Dritten Reiches, Desch, Munich 1961, p. 151; Ill. b):
Jüdisches Historisches Institut Warsaw [Jewish Historical Institute of Warsaw],
Faschismus, Getto, Massenmord, Röderberg, Frankfurt/Main 1960, p. 42; R.
Neumann, H. Koppel, The Pictorial History of the Third Reich, Bantam
Books, New York 1962, p. 148; Ill. c): T. Kotarbinski, Meczenstwo walka,
zaglada zydow W Polsce 1939-1945, Warsaw 1960, Picture No. 38; cf. U.
Walendy, Bild-"Dokumente"..., op. cit. (note 4), pp.
28f.
(37)R. Schnabel, Macht ohne Moral,
Röderberg, Frankfurt/Main 1957, p. 332.
(38)V. Berdych, Mauthausen, Nase
Vojsko, Prague 1959, Photo Appendix No. 50; cf. U. Walendy, Bild-"Dokumente"...,
op. cit. (note 4), pp. 36f.
(39)Internationale Föderation der
Widerstandskämpfer (ed.), Die SS-Henker und ihre Opfer, self-pub.,
Vienna 1965, p. 17; J.-C. Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the
Gas Chambers, Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989, pp. 422, 424;
J.-C. Pressac, Les Crématoires d'Auschwitz, la Machinerie du meurtre de
masse, Éditions de CNRS, Paris 1993, Doc. 57; G. Schoenberner, Der gelbe
Stern, Rütten und Loening, Hamburg 1960, p. 162.
(40)Photo of May 31, 1944, Ref. No. RG 373
Can D 1508, exp. 3055.
(41)本書のボール論文参照。
(42)Ill. a): R. Schnabel, op. cit.
(note 37), p. 397;
(43)a):history1900s.about.com/education/history1900s/library/holocaust/bleinsatz6.htm.
G. Schoenberner は、少々悪い質でこれをop. cit. (39)p. 163に掲載しており、「子供を腕に抱えてガス室に入っていく女性たちの写真の撮影者はわからない」とキャプションをつけている。b): Jüdisches Historisches Institut Warsaw (ed.), op. cit.
(note 36), p. 334; Ill. c): S. Einstein, Eichmann - Chefbuchhalter des Todes,
Röderberg, Frankfurt/Main 1961, p. 202; A. Donat (ed.), The Death Camp
Treblinka, Holocaust Library, New York 1979, pp. 260f.; cf. U. Walendy, Bild-"Dokumente"...,
op. cit. (note 4), pp. 14ff.
(44)Ill. a): S. Einstein, op. cit.
(note 43), p. 200; Ill. b): Der Spiegel No. 53/1966, p. 48; G.
Schoenberner, op. cit. (note 39), p. 97; cf. U. Walendy, Bild-"Dokumente"...,
op. cit. (note 4), pp. 18ff.
(45)Ill. a): R. Schnabel, op. cit.
(note 37), p. 244; Ill. b): C. Simonov, The Lublin Extermination Camp,
Foreign Languages Publication House, Moscow 1944, p. 12; cf. U. Walendy, Bild-"Dokumente"...,
op. cit. (note 4), pp. 70f.
(46)Cf. U. Walendy, HT No. 31, 1987,
p. 33.
(47)E. Gauss, op. cit. (24), p. 21は、アウシュヴィッツ博物館に展示されている靴が囚人のものではなく、周辺地域に暮らす人々のものであったと考えている。彼は戦後にアウシュヴィッツに持ってきたというのである。
(48)B. S. Chamberlin, "Todesmühlen.
Ein Versuch zur Massen-'Umerziehung' im besetzten Deutschland 1945-1946",
VfZ 29 (1981) pp. 420-436, here p. 432.
(49)旧ドイツ軍兵士Egon F.C. Harderがそのようにゲルマール・ルドルフに語った、不幸なことに、このことについての証人の話は文書化されておらず、われわれの関心を引いたことがなかった。Die Unabhängigen Nachrichten No. 11
(1986), p. 11によると、連合国は、連合国によるドレスデン爆撃の死体の山を写したドイツ側の写真を映画Todesmühlenの中に紛れ込ませ、これらの写真を強制収容所での大量殺戮の証拠として提示した。
(50)B. S. Chamberlin, op. cit. (note
48), pp. 425f.
(51)International Military Tribunal, Trial
of the Major War Criminals, IMT, Nuremberg 1947, v. XIII, pp. 169ff.
(52)Cf. H. Springer, Das Schwert auf der
Waage, Vowinckel, Heidelberg 1953, pp. 178f.; P. Kleist, Aufbruch und
Sturz des Dritten Reiches, Schütz, Göttingen 1968, p. 346; U. Walendy, HT
No. 43, 1990, pp. 12ff.
(53)Regarding "Holocaust"
cf. T. Ernst, Aus Politik und Zeitgeschichte 31(34) (1981) pp. 3-22, and
P. Malina, Zeitgeschichte (ZG) (
(54)Cf. M. Broszat, VfZ 27 (1979) pp.
285-298; P. Dusek, ZG 6 (1978/79) pp. 266-273.
(55)From air photos, National Archives,
Washington DC, nos.: DT RL 751, Cracow, May 3, 1944; TuGx 895 A SK, exp. 382f.,
October 1944; J. C. Ball, Schindler's List - Exposed as Lies and Hate,
Samisdat Publishers,
(56)T. Keneally, Schindlers Ark,
Hodder & Stoughton, London 1982; simultaneously: Schindlers List,
Simon & Schuster, New York 1982. キニーリーは、世界各地のユダヤ人生存者を2年間調査したと述べている。興味深いことに、 1993年に刊行された第2版の初刷りの版権の頁には、「本書はフィクションである。名前、場所、事件は著者の想像の産物であるか、フィクション風に使われている。実際の事件や場所、生存者、死者に類似してている箇所があったとしてもそれはまったくの偶然である」という文章がある。議会図書館出版データ・カタログも、本書を「フィクション」(出版コード7 9 10 8 6 、5 7 9 10 8 6)としている。しかし、この第2版の二刷りでは、この文章は消えた(出版コードの9 10 8 だけが空欄となり、のちにはこの空欄も消えた、出版コード13 15 17 19 20 18 16 14 12)。さらに、少々のちになるが、このカタログ情報(「フィクション」)さえも本書から除かれている(コード15 17 19 20 18 16)。スピルバーグの映画をめぐる騒動を考えると、キニーリーの本を、事実に部分的にもとづいているだけのフィクションと分類してしまうことは、もはや適切ではなくなったのであろう。しかし、引用した文章は、批判をかわすための法律的な策略であるかもしれないことを念頭においておくべきであろう。
キニーリーの小説『アスマラに向かって』の冒頭には、「トーマス・キニーリーは1964年に執筆活動を始めた。彼の作品には、…『シンドラーの箱舟』(1982年にブッカー賞を受賞し、それ以前と以後のブッカー賞受賞作品よりも多く売れた)ある」とある。本書の初版は1989年であるが、版権は1988年である。これが書かれたのは1989年、『アスマラに向かって』のコロネット版(Hodder &
Stoughton)においてであった。その後、小説がスピルバーグによって映画化されたのちに、『シンドラーのリスト』と改名され、世界中の読者に、のフィクション――実際にはそうではないが――として登場した。キニーリーは、事実から借用してフィクションを作り出すテクニックを進化させた。彼がエルトリアとスーダンを実際に訪問したのちに執筆したエルトリア・ゲリラについての本では、自分の報告のリアリティを強く否定している。
(57)Film & TV Kameramann No. 2/1994, pp. 24ff., esp. the statement of chief cameraman J.
Kaminski, p. 27.
(58)Affidavit SS-65 by SS Judge Konrad
Morgen, IMT, vol. 42, p. 556.
(59)Hamburger Institut für Sozialforschung
(ed.), Vernichtungskrieg. Verbrechen der Wehrmacht 1941 bis 1944, (War
of Extermination. The Crimes of the Wehrmacht, 1941 to 1945) Hamburger Edition,
(60)Rüdiger Proske, Wider den Mißbrauch
der Geschichte deutscher Soldaten zu politischen Zwecken, Von Hase &
Köhler, Mainz 1996; Proske, Vom Marsch durch die Institutionen zum Krieg
gegen die Wehrmacht, ibid., 1997.
(61)Hans-Helmuth Knütter, Die
Faschismus-Keule, Ullstein, Frankfurt/Main 1993.
(62)Wolf Stoecker, "Fälschung und
Agitation. Kritische Bemerkungen zur Ausstellung 'Vernichtungskrieg, Verbrechen
der Wehrmacht 1941 bis 1944.'", in Joachim F. Weber (ed.), Armee im
Kreuzfeuer, Universitas,
(63)本章に引用されている著者も参照。Bergschicker,
(64)W. Strauß, "Es war einmal ein
Fotograf", Staatsbriefe 8(11-12) (1997), pp. 6f. (online: vho.org/D/
Staatsbriefe/Strauss2_8_11_12.html)
(65)Focus, No.
16 & 17/1997, 6/1998.
(66)E. Klee, W. Dreßen, V. Rieß (ed.), "Schöne
Zeiten", Judenmord aus der Sicht der Täter und Gaffer, S. Fischer,
Frankfurt/Main 1988, p. 77.
(67)Hamburger Institut für Sozialforschung
(ed.), op. cit. (note 59), p. 30.
(68)Focus-TV,
Pro7, 13.4.1997; cf. Abendzeitung (
(69)Klaus Sojka (ed.), Die Wahrheit über
die Wehrmacht. Reemtsmas Fälschungen widerlegt, FZ-Verlag,
(70)A.M. de Zayas, Die
Wehrmachtsuntersuchungsstelle, 4th ed., Ullstein,
Frankfurt/Main/Berlin 1984を参照。
(71)Franz W. Seidler, Verbrechen an der
Wehrmacht, Pour le Mérite, Selent 1998, pp. 5f.
(72)J. Hoffmann, Stalins Vernichtungskrieg
1941 - 1945, 5th ed., Herbig,
(73)W. Post, "Die Wehrmacht im
Zweiten Weltkrieg. Armee zwischen Regime und totalem Krieg", in
Joachim F. Weber (ed.), op.cit. (note 62) (online: vho.org/D/aik/Post.html)
(74)Bogdan Musial, "Bilder einer
Ausstellung. Kritische Anmerkungen zur Wanderausstellung 'Vernichtungskrieg.
Verbrechen der Wehrmacht 1941-1944'", Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte,
47(4) (1999), pp. 563-591; cf. Bogdan Musial, "'Konterrevolutionäre
Elemente sind zu erschießen'", Frankfurter Allgemeine Zeitung,
Oct. 30, 1999, p. 11; Krisztián Ungváry, "Echte Bilder - problematische
Aussagen", Geschichte in Wissenschaft und Unterricht, 50(10),
(1999), pp. 584-595; cf. Krisztián Ungváry, "Reemtsmas Legenden",
Frankfurter Allgemeine Zeitung, Nov. 5, 1999, p. 41; Dieter
Schmidt-Neuhaus, "Die Tarnopol-Stellwand der Wanderausstellung
'Vernichtungskrieg - Verbrechen der Wehrmacht 1941 bis 1944'", ibid.,
pp. 596-603.
(75)E.g., Klaus Hildebrandt, Hans-Peter
Schwarz, Lothar Gall, cf. "Kritiker fordern engültige Schließung",
Frankfurter Allgemeine Zeitung, Nov. 6, 1999, p. 4; Ralf Georg Reuth,
"Endgültiges Aus für Reemtsma-Schau?", Welt am Sonntag,
Nov. 7, 1999, p. 14.
(76)Walter Post, Die verleumdete Armee,
Pour le Mérite, Selent 1999.
(77)Heinz Knobloch, Der beherzte
Reviervorsteher. Ungewöhnliche Zivilcourage am Hackeschen Markt,
(78)Berliner Morgenpost, Oct. 10, 1998, p. 9.
(79)http://motlc.wiesenthal.com/gallery/pg22/pg0/pg22035.html;
cf. VffG 3(2) (1999), p. 240. サイモン・ヴィーゼンタール・センターがそれを削除するかもしれないので、ページ全体を vho.org/News/D/SWCForgery.htmlに保管しておいた。
(80)S. Klarsfeld, The
(81)John W. Dower, War without Mercy,
Pantheon Books, New York 1986; cf. E.L. Jones, The Atlantic Monthly,
Februar 1946, pp. 48-53, here pp. 49f.; cf. U. Walendy, Historische
Tatsachen, no. 68: "US-Amerikanische Kriegsverbrechen"
(US-American War Crimes), Verlag für Volkstum und Zeitgeschichtsforschung,
Vlotho 1995) and more recently: Alliierte Kriegsverbrechen und Verbrechen
gegen die Menschlichkeit (Allied War Crimes and Crimes Against Humanity), 2nd
ed., Arndt, Kiel 1997.
(82)Morale Division, U. S. Strategic Bombing
Survey, Medical Branch Report, The Effect of Bombing on Health and Medical
Care in Germany, War Department, Washington, D.C., 1945, pp. 17, 21, 23.この情報については、F. P. Bergに感謝している。
(83)D.
(84)R. Faurisson, "La leçon des
photograhpie", Révue d'Histoire Révisionniste, no. 6. May 1992,
p. 62-68.