試訳:「目撃証人」ルドルフ・ヴルバの法廷証言
――ツンデル裁判(1985年)での反対尋問から――
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2004年10月20日
本試訳は当研究会が、研究目的で、1985年にカナダのトロントで開かれたいわゆるツンデル裁判に検事側証人として出廷したルドルフ・ヴルバの証言(弁護人クリスティの反対尋問)の一部を試訳したものである(文中、Q:は弁護人クリスティ、A:は証人ヴルバ)。 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。 なお、マーカー部分、[・・・・・・]内のコメントは当研究会が付したものである。 |
トロント地方裁判所(1985年1月)
1985年1月23日[水曜日]
――証人尋問の再開
裁判長:陪審員の入廷に先立って、何か発言がありますか?
弁護士クリスティ:ありません、裁判長。
――陪審員が入廷する。午前10時07分。
裁判長:クリスティ弁護人、始めてください。
ルドルフ・ヴルバ、宣誓ずみ
クリスティ弁護人による反対尋問
[ヴルバの証言・著作全体の信憑性について]
Q:アウシュヴィッツについてのあなたの話は真実であるというのですね。
A:そのことを隠してはきませんでした。
Q:アウシュヴィッツについて話してきたすべてが真実であるというのですね。
A:そのように質問された場合という意味では、そう考えてきました。
Q:『私は許すことはできない』という題の本がありますが、あなたはこの本の著者ですね。
A:共著者です。
Q:内容すべてをチェックして、それが真実であるかどうかを確認しましたか。
A:出版されたのは何年ですか。
裁判長:質問に答えてください。
Q:この質問に答えることができますね。
A:出版されたのは何年ですか。
裁判長:証人に本を見せてください。
Q:1964年3月、グローブ出版。あなたとアラン・ベスティック氏が著者となっています。この本を読みましたか。
A:もちろんです。私が書いたのですから。
Q:内容すべてが真実ですか。
A:この質問には直接的に答えることはできません。これは文芸作品であり、ドキュメントではありませんから。この本の背景を少々お話ししておきたいと思います。そうすれば、どのような性格の本であるかを明らかにすることができます。
話の腰を折らないでください。そのようには続けることができません。
Q:質問しても良いでしょうか。
A:まだ、前の質問に答えていません。
Q:申し訳ありません。
A:まだ、前の質問に答えていません。
Q:わかりました。続けてください。
A:この本が生まれる背景となったのは、アウシュヴィッツでの恐ろしい犯罪が裁かれたフランクフルト裁判の調査判事を勤めた博士との話し合いの中からでした。私は、彼を手助けできると思っていたのです。彼は、自分が集めたアウシュヴィッツのSSについての80巻の調査資料を見せてくれて、少々怒った調子で、長年にわたってこの80巻の資料を集めてきたけれども、まだアウシュヴィッツの実像がわからないと話してくれました。
彼と話し合った結果、もし彼が正しいとすれば、私は、アウシュヴィッツでの恐ろしい犯罪の全体像を描くために、81番目の本を書かなくてはならないとの結論に達しました。もしも、私が81番目の本を書けば、この分野について専門家ではないが、この分野についての基本的な知識を必要としている人物は、81巻の資料集を読み通すことができるでしょう。そして、その1巻の本を書かなくてはならないとの結論に達しました。そして、その際、写真撮影の禁止されている当法廷でも使われている特別な技法を使いました。しかし、昨日、私と裁判長の写真がテレビに映っているのを見ました。これらの写真を見た人物であれば、法廷で何が起こっているのかについて、おおよそは理解できると思いますが、私も裁判長も、自分の顔写真を取り出して、それを正確さを必要とするパスポート写真としては使えません。
結局、この本で描かれていることは、今世紀の最大の恐怖に理解する訓練も受けていない若者に、ナチに代表される一部の人類がどれほど堕落することができるのかを理解させるようなやり方で描かれた、濃縮された話なのです。
ですから、この本をドキュメントとみなすべきではありません。当法廷に出席していない人々に、法廷では何が起こっているのかを理解させるために、法廷の様子を描いている画家による絵と同じような価値をもつ、出来事についての絵画とみなすべきなのです。この本がどのようなものであるのかについて説明するとすれば、ざっとこのような答えとなります。
本書が出版されたあと、多くの書評が寄せられました。Times
Literary Supplement、New York Times 、Book
of the Monthなどを含む100、200の書評が寄せられ、多くの意見が述べられていました。
しかし、この本はあの破局的な事件を芸術的に描いたものにすぎないのです。ですから、この本についての議論は、文学の午後とでもいえるようなサロンで行なわれるべきであり、そこでならば、弁護人とも喜んで議論いたしましょう。
Q:わかりました。
A:しかし…
裁判長:ヴルバ博士、ここは演説を行なう場所ではありません。あなたにはかなりの自由を与えてきました。まだ長くかかるのですか。
A:いいえ。あと2分ほどです、裁判長。
裁判長:わかりました。続けてください。それから、次の質問に移りましょう。
A:私は、文学に関する専門家証人として召喚されたのではありません。私はドストエフスキイでもトルストイでもなく、文学の素人にすぎません。しかし、私はアウシュヴィッツで1942年6月30日から1944年4月7日のあいだに起こった出来事を知っていますし、この出来事については、文学作品のレベルではなく、法律の枠内で議論する用意があります。
私の忠告に反して、この本について議論したいとすれば、この本を読んでいない陪審員の前で、本について議論するのは非常に難しいことです。陪審員が本を読んでいるとの条件のもとであれば、本について議論できますし、陪審員たちも、何が話されているのか理解できるでしょうし、私も、弁護人による本書の歪曲から守られることができます。
裁判長、説明の機会を与えてくださってありがとうございます。
裁判長:クリスティ弁護人、先に進んでください。
Q:この本には嘘がありますか。
A:すでに説明して、お答えしていますが、この質問は、同じ内容のものを言い換えたにすぎません。この本は、真実を作り出そうとする芸術的な試みであり、芸術的な試みには欠点がつきものです。そして、あなたは、欠点は嘘であるとおっしゃるのでしょう。この本には欠点があります。確かに時間的な制約のために、欠点はあるのですが、嘘はありません。その点については立証できますし、当法廷で議論してもかまいません。
Q:実際には起こらなかったことも、この本の中では起ったことになっているということですか。
A:そのことについては知りません。
Q:実際には目撃していなかったことも、この本の中では目撃したことになっているということですか。
A:この本は法律文ではありませんので、私の信頼する友人からの情報が本の中に紛れ込んでしまっていることはありえます。
ご存知のとおり、どのような文学作品の作者であっても、何らかの理由で、自分自身で目撃したことを利用するだけではなく、他人の経験にもとづいて作品を描いているのです。
Q:この本では、実際には目撃していないことを、目撃したと書いたことがありますか。
A:そのことについては知りません。
Q:ということは、本の中で目撃したと書いたことは、実際に目撃したのだと理解しても良いのですね。
A:この本については、文学の午後とでも呼べるサロンで、いつでも議論したいと思います。この場では、議論したくはありません。陪審員の皆さんがこの本を読んでいないからです。
Q:裁判長が質問には答えなくても良いと指示しているわけではないと理解していますが、もし、私が間違っていなければ、私には、質問する権利があります。あなたがこの本の中で実際に目撃したと述べている事件は、実際に目撃した事件だったのですか、そうではないのですか。
裁判長:陪審員は退廷してください。
――陪審員は退廷する。午前10時20分
裁判長:ヴルバ博士、この点をもう一度だけ申し上げておきます。あなたは、ここで証言をしなくてはならない証人なのです。証人として証言すると宣誓しましたね。陪審員が何をすべきか、ご自分が何をしてもらいたいのか、何をしてもらいたくないのかを命令する権利は、あなたにはないのです。私が質問に答えなくても良いと指示しない限り、弁護人の質問には答えなくてはならないのです。おわかりですか。
A:ありがとうございます。
裁判長:ではそうしてください。
A:ありがとうございます。もしも、質問が不適切であると思った場合には、答えなくても良いという、あなたの許可を求めることができますか。あなたの助言を求めることができますか。
裁判長:質問が不適切であると思ったときには、そのように言うことができます。ただし、手短におっしゃってください。たとえ、あなたがクリスティ弁護人の質問が不適切であると考えたとしても、彼の質問に何回も異議を申し立てることによって、クリスティ弁護人の反対尋問が、妨げられることがあってはなりません。
あなたも、民主主義国家にあっては、たとえどのような人物であっても、被告には、法律的に、質問に答え、自分を弁護する十全な権利があることを知っておられるはずですし、知っておられると期待しています。ここには、反対尋問の権利も入っています。あなたの証言は、事実の裁定者、すなわち陪審員の前で検証されなくてはなりません。
もし、異議を申し立てるのであれば、その異議にも耳を傾けるつもりです。そこに理があれば、そのように裁定します。もし理がなければ、そのように裁定します。しかし、どのような理由であっても、クリスティ弁護人の反対尋問が妨げられるようなことはあってはならないのです。
おわかりですか。
A:非常に良くわかりました。
裁判長:ありがとうございます。陪審員を入廷させるように。
A:裁判長、陪審員の入廷の前に、1つ質問させてください。
裁判長:かまいません。
A:全体の文脈から切り離して、本書の一部を引用することは、誤った印象を与えてしまいます。
裁判長:そういうことがあることを否定しません。
A:歪曲のために利用されることもありえます。
裁判長:そうですね。
A:本書について、そのような歪曲がなされてきました。大学の高名な歴史学教授の研究書でさえも、そのような歪曲がなされていることに注意を促したいと思います。
裁判長:弁護人の質問に対するあなたの回答が、質問の当該箇所に対応しているかぎり、誰も、あなたの回答を妨げたりはしません。
A:裁判長、被告人が有罪か無罪かを最終的に判断する陪審員が、弁護側に有利な特定の箇所ではなく、本書内容全体を知っていたほうが、審理のためになるのではないでしょうか。
言い換えれば、とくに、特定の政治集団の戦術を念頭に置くと、本書の一部だけを提示することで本書全体を歪曲する危険性が大きくなるということです。それゆえに、もし本書全体ではなく、好都合な断片だけが提示されるとすれば、陪審員の皆さんの頭の中に、やすやすと誤った印象が作り出され、正義の道から外れてしまうのではないか、ということを懸念しています。全体像ではなく、右側の一部、左側の一部が陪審員に見せられることになってしまうのです。本書は、わずか250頁ですので、それを読み終えるのに1日以上はかからないと思います。
裁判長:もう一度だけ繰り返しておきます。弁護人の質問に対するあなたの回答が、質問の当該箇所に対応しているかぎり、誰も、あなたの回答を妨げたりはしません。
陪審員を入廷させるように。
――陪審員は入廷する。午前10時25分
裁判長:クリスティ弁護人、続けてください。
Q:ありがとうございます。
Q:本書のこの部分が真実であるかどうかお尋ねします。2頁の、共著者アラン・ベスティック氏の箇所ですが、そこでは…
裁判長:何頁ですか。
Q:申し訳ありません。2頁です。
Q:「私は彼に多くを負っているといわなくてはならない…」とありますが、この「彼」とはあなたのことですね。
A:はい。
Q:そうですか。「彼は非常に苦労して本書の細部を執筆した。非常に入念な、こだわりすぎともいえる本書の執筆にあたっても、彼は正確さを追及した。彼は、恐ろしい2年間の血も凍るような調査が要求した勇気を示した。この点で、私は彼に多くを負っているといわなくてはならない…」とあります。
正確に読み上げましたか。
A:はい、正確です。
Q:正確さを追究したというのは本当ですね。
A:アラン・ベスティックが、彼なりのやり方で、私の正確さを評価したのです。ですから、その正確さが何を意味しているのかどうかについては、アラン・ベスティックに質問すべきでしょう。
Q:あなたが正確さを追究したことは真実であるというのですね。
A:自分自身のことについて、自分自身で裁定せよとおっしゃるのですか。
Q:あなたが目撃したと本書の中で記していることについては、真実を語っているのですね。
A:私の知る限り、そして、私が経験した真実という意味では、その真実はアウシュヴィッツでの2年間の生活にあります。
Q:本書の中で、経験したとか目撃したと語っている場合、ご自身で、経験・目撃したのですね。
A:実際に目撃したと述べている箇所は一つもありません。友人たちから耳にした多くの事件が本書にはありますし、その事件を本書の中に入れました。この本は、署名を必要とする裁判証言ではなく、多くの友人たちから集めた印象なのです。他界した人々もいますし、彼らの殉教の後でも、その声を残しておきたいと考えていました。
[ヒムラーのアウシュヴィッツ訪問について(史実としては、ヒムラーがアウシュヴィッツを最後に訪問したのは1942年7月であった)]
Q:申し訳ありません。まだわからないのですが、例えば、10頁には、「このとき、私は彼がやってきたのを見て喜んだ」とあります。この表現は、このことを実際に目撃したという意味ではないのですか。
A:何がやってきたのを目撃したのですか。
Q:その箇所を読み上げても良いですね。
A:はい。
Q:「ハインリヒ・ヒムラーは1943年1月にアウシュヴィッツ収容所を再度訪問した。このとき、私は彼がやってきたのを見て喜んだ。」
A:わかりました。
Q:全体を、2頁でも、10頁でも読み上げることができますが。
A:続けてください。何を意味するのかわからないですので。
Q:わからない、わからない、ですか。
A:はい、わからないのです。
Q:あなたは彼が43年1月にやってきたのを目撃したのですね。
A:43年9月ですか、43年1月ですか。
Q:本には43年1月とあります。
A:そうではありません。彼がやってきたのを目撃したのは42年7月です。そして、1943年にもう一度…
Q:本には、「43年1月」とありますが。
A:間違いです。
Q:間違いですって。
A:はい。
Q:でも、このとき彼がやってきたのを目撃したのですね。
A:彼のことを見たのはこれが初めてでした。ちょうど、今のあなたと私の距離ほど近くに、彼がいましたから。
Q:今の私くらいの近さでですか。
A:大体そのくらいです。
Q:わかりました。そして、あなたは…
A:彼は一歩前に出て、私と握手しました。
Q:わかりました。
A:しかし、二度目に彼のことを見たのは、以前見たことのある自動車に乗って通り過ぎていくときでした。彼は随行員とともに黒のメルセデスに乗っていました。ほんの600ヤードほどの距離から目撃しました。それが彼であるとの話を聞きました。しかし、今度は、私と握手して自己紹介したりはしませんでした。彼だったと思いますが、彼の代わりの人物だったかもしれません。さしたる違いはないのです。
Q:それは、今の私ぐらいの距離に彼がいたときのことですか。
A:いいえ。二番目のときです。今のあなたの距離に彼がいたのは、1942年7月のことです。
Q:42年ですか。
A:はい。
Q:アウシュヴィッツ収容所でのことですね。
A:アウシュヴィッツ収容所Tのことです。
Q:あなたの本には、「ハインリヒ・ヒムラーは1943年1月にアウシュヴィッツ収容所を再度訪問した。このとき、私は彼がやってきたのを見て喜んだ」とあります。そうですね。
A:おそらく、親友がやってきたのと同じように、彼がやってきたのを見て喜んだのではありません。今となっては、彼を見てなぜ喜んだのか覚えていません。おそらく皮肉な表現だったのでしょう。こうした表現は法廷では使えませんが、本の中では使えます。
Q:真実ではないことを本の中で語っているのですか。
A:真実がこみいっているときには、画家の技術を使っています。すなわち、私の能力――さしたるものではありませんが――の枠内で、できるだけ真実に近い印象を作り出そうとしているのです。
Q:ドストエフスキイやシェークスピアのようにですか。失礼、そうではなかったのですね。
A:そうではないと申し述べました。
Q:わかりました。もう少し質問させてください。10頁、11頁、12頁を読み上げてから、いくつか質問します。
A:パラグラフを飛ばしてしまうことはないですね。
Q:そうしないように注意していてください。
A:本書が手元にありますか。
Q:法廷が提供します。私のと同じものですよね。
A:そう願います。
Q:別の版を持っていますが、それは、ペーパーバック版ですね。
A:はい。私の許可なく、そして、私が校正することなく出版されました。
Q:あなたの許可なく、あなたが校正することなく出版されたのですか。
A:そのとおりです。出版者を告訴しなくてはなりませんが、その余裕がありません。しかし、この本については、校正しています。これは初版です。
Q:するとこちらのほうは、誰かがあなたの文章に手を入れた可能性のある偽物だということですか。
A:その本が出版されるにあたっては、まったく関与していません。ですから、本の中身について保証しかねるのです。
Q:まったく読んでいないのですか。
A:はい。
Q:そうなのですか。
A:はい、読んでいません。しかし、オリジナルのほうは読んでいます。
Q:なんですって。
A:読んでいるのは初版です。ペーパーバック版の出版者とはまったく契約を交わしていません。
Q:グローブ出版版は1964年3月に出版されており、版権はルドルフ・ヴルバとアラン・ベスティックにあるとありますが、あなた方のことではないのですか。
A:これはグローブ版ではありません。
Q:バンタム・ブックスから出版されています。
A:そのとおりです。
Q:ということは、海賊版なのですか。
A:そのような言い回しは使いませんでした。あなたの言い回しです。
Q:それでは、異同があった場合には、あなたがお持ちの版を参照することにしましょう。反対尋問しているときには、この本を誰かに渡して、チェックしてもらったらどうでしょうか。
A:適切なアドバイスです。
Q:そして、これらの話が真実であるかどうか、事実関係の質問をします。
ハインリヒ・ヒムラーが収容所を訪れたのは43年1月であったと考えているのですね。ですから、ここからはじめたいと思います。読み上げますから、私と一緒に読んでください。間違えないようにします。2頁か3頁を読み上げます。そして、いくつか質問します。
A:わかりました。
[1943年1月のヒムラーによるガス処刑の視察(ホロコースト正史によると、ビルケナウの焼却棟が稼働し始めたのは1943年3月以降である)]
Q:「ハインリヒ・ヒムラーは1943年1月にアウシュヴィッツ収容所を再度訪問した。」あなたの手元の本でも同じですか。
A:はい。
Q:よろしい。
A:異同があれば、指摘します。
Q:わかりました。ありがとうございます。「このとき、私は彼がやってきたのを見て喜んだ。彼が寛容と正義感から私たちの境遇を改善してくれるとの淡い期待を持っていたわけではないけれども。彼の訪問は私たち全員に歓迎であった。1日は、突然の殴打や殺害が起こらないことを意味していたにすぎなかったからであった。もう一度、われわれは整列した。…」
A:申し訳ありませんが、誰もが文意を理解できるように読み上げてくださいませんか。
Q:そうしましょう。もし、陪審員の皆さんの中で、文意が理解できなかった人がいらっしゃれば、手を上げてください。そこで、読み上げるのを中断します。もし、私の朗読が正確でなければ、そのように言ってください。
A:わかりました。
Q:ありがとうございます。「もう一度、私たちは、病人を後方に、健康な者を前面にして、整列した。もう一度、バンドが演奏し、かかとが打ち合わされ、ひざ上まで達するブーツが、主人の照らす明かりの中で踊った。もう一度、彼は収容所を視察し、アウシュヴィッツの炉の外回りを、ずんぐりした学者風の指で1インチごとに触れながら、ゴミがついていないかを調べた。今度は、自分の砂粒を滑らかな装置に落としてしまうようなヤンケル・マイゼルはいなかった。
彼はいつものように徹底して収容所の視察を行なったが、それは、それに続く食事のための食前酒にすぎなかった。視察のおもな目的は、自分が7ヶ月前にアウシュヴィッツで作成した計画から生み出された煉瓦・漆喰の建物を自分の目で見ることであった。
彼は、世界で最初のベルトコンベア式殺戮装置、ヘス所長ブランドの新しいおもちゃ、すなわち、焼却棟の稼動開始を見るはずであった。それは、たしかにすばらしい装置であった。長さ100ヤード、幅50ヤードであり、設置されている15の炉は、20分に3体を同時に焼却することができた。その建設者ヴァルター・デヤコ氏による、コンクリートのモニュメントであった。」
正確に読み上げていますか。
A:正確です。
Q:「私のようなアウシュヴィッツの生存者は、それを建設した奴隷労働者であった…」
A:「それを建てるために働いていた」です。
Q:そうでした。「それを建てるために働いていた」です。すみません、間違えました。「興味深いことではあるが、デヤコ氏はオーストリアのチロル地方の町ロイテでまだ仕事をしていることを偶然に知ることになった。1963年、デヤコ氏は、ロイテ教区司祭のために素晴らしい教会を設計したことで、インスブルック司教から賞を受けている。
だが、1943年は戦時中であり、彼は、自分の能力を発揮するもっと実践的な機会に関心を向けていた。絶滅産業はまだ誕生したばかりであったが、ヒムラーが私たちのもとを訪れた朝に、デヤコ氏の働きのおかげで、大産業に成長していく劇的な第一歩を歩み出すことになった。
彼は、確かに印象的なプレゼンテーションを目にした。多くのドイツの小さな鉄道駅では列車の遅れを気遣っていたが、その列車の遅れだけが、このプレゼンテーションにちょっとした傷をつけただけであった。ヘス所長は、自分の新しいおもちゃをもっとも印象的にプレゼンテーションしようとして、近代的なドイツ的やり方で屠殺するために、3000名のポーランド系ユダヤ人を特別に用意した。
その朝、ヒムラーは8時に到着し、ショーが1時間遅れで始まった。8時45分までには、巧妙な偽物シャワーと、『清潔を保て』『静粛に』との標語をもった新しいガス室は満杯となった。SS看守は、1インチのスペースも無駄にしないために、入り口あたりで、数発発砲した。このために、犠牲者たちは入り口からさらに押し込められ、多くの犠牲者が奥へと進んでいった。それから、赤ん坊と幼児が大人の頭上に放り込まれ、ドアが閉じられ、封印された。
重々しいガスマスクをつけた一人のSS隊員が、ガス室の屋根の上に立ち、シアン化水素ガスを放出するチクロンBの丸薬を投下しようとしていた。彼は、今日の主役であった。このように著名な観客を前にして、仕事をすることなどめったにないからであった。このために、ダービーのスターターのような緊張感を味わっていたことであろう。
8時55分までには、この緊張感は耐え難いものになっていた。マスクをかぶった人物は、丸薬の箱をもってそわそわしていた。彼の下の劇場は大入り満員であった。しかし、全国指導者からの合図はなかった。ヘス所長と朝食をとるためにその場を離れていたからである。
どこかで電話が鳴った。全員がその方角のほうを見た。若い下士官が作戦責任将校のもとに向かい、急いで敬礼してから、伝言を伝えた。将校の顔はこわばったが、一言も発しなかった。
『全国指導者はまだ朝食を終えられていない』との伝言であった。
誰もが少々リラックスした。また、電話が鳴った。下士官が汗を流しながら、ダッシュした。別の伝言であった。責任将校が、周りの将校たちにささやいた。
全国指導者はまだ朝食中のようであった。ガス室の屋根の上にいるSS隊員は腰を下ろした。ガス室内では、アウシュヴィッツのシャワーが何を意味するのか知るようになっていた、半狂乱の男性と女性が、泣き叫び、ドアを弱々しくたたき始めた。しかし、新しい部屋はガス気密であると同時に防音でもあったので、外の人々には聞こえなかった。
たとえ聞こえたとしても、誰も気に留めなかったであろう。SS隊員は自分たちのことだけを心配していたからである。朝はだらだらと続き、伝令が行ったり来たりしていた。10時になっても、マラソンのような朝食はまだ続いていた。10時半になると、SS隊員も偽の警報に慣れてしまい、屋根の上のSS隊員でさえも、電話が鳴っても、腰を下ろしたままであった。
しかし、11時、ちょうど2時間遅れで、車がやってきた。ヒムラーとヘスが降りてきて、しばらく、先任将校と話をしていた。ヘスは、手順の説明を熱心に聞いていた。彼は、封印されたドアのところに行って、小さなのぞき窓から、室内でもがいている人々を注意深く観察してから、部下に鋭い質問を投げかけていた。
終に、すべての準備が整った。屋根の上のSS隊員に鋭い声の命令が発せられた。彼は丸いふたを開けて、自分の下にいる人々の頭上に丸薬をすばやく落とした。彼は、そして、誰もが、押しこめられた人々の体温によって、数分以内にガスが丸薬から放出されることを知っていた。そして、彼は、ふたをすばやく閉めた。
ガス処刑がはじまった。誰もが、毒ガスが適切に広がるのをしばらく待っていた。ヘスは、自分のゲストをもう一つののぞき窓に丁重に案内した。数分間、ヒムラーは死の部屋をのぞきこんで、強い印象を受けたのちに、新たな興味を抱いて、収容所長に質問を投げかけた。
ヒムラーは、自分の目で見たことに満足したようで、上機嫌であった。彼はめったにタバコを吸わないが、将校からタバコを受け取って、不器用に一服した。そのとき、笑って冗談を言っていた。
もちろん、このようになごやかな雰囲気であったといっても、基本的な仕事が忘れ去られていたわけではない。ヒムラーは何回も、将校たちにのぞき穴から事態の進行を観察させた。室内の全員が死亡したとき、彼は、これらの手順に深い興味を示した。
特別なエレベーターが死体を焼却棟に持ち上げていったが、すぐに焼却が行われたわけではなかった。金歯を取り外さなくてはならなかった。魚雷の防水弾頭に使われる毛髪も、女性の死体から切り取らなくてはならなかった。金持ちのユダヤ人の死体は、宝石やダイヤを体内に隠しているかもしれないとのことで、あらかじめ、解剖用にとっておかなくてはならなかった。」
ここで、中断しましょう。
A:もうちょっとでは…
Q:そうですか。では終わりまで読みましょう。
A:その方が良いでしょう。
Q:たしかにそうですね。「非常に複雑な仕事であったが、新しい装置は、熟練作業員の手でスムースに稼働した。ヒムラーは、煙突から煙が出始めるまで観察していた。そして、時計に目をやった。
1時だった。ランチタイムだった。彼は、先任将校たちと握手をして、いつもどおりに部下たちに敬礼を返し、上機嫌で、ヘスとともに車に乗り込んだ。
アウシュヴィッツは仕事中であった。小柄なヤンケル・マイゼル老人ならば、驚きと不信で頭を抱えてしまうような規模で。彼は、意欲的な人物ではなかった。だから、合理化された大量殺戮などは、彼の単純な頭には浮かびもしなかったことであろう。
そして、彼は最終解決なども耳にしたこともなかった。まして、アウシュヴィッツがその役割の一部を果たすことになるとは知りもしなかった。」
終わりまで正しく読み上げましたか。
A:はい、正しく読み上げました。
Q:よろしいですね。この話は真実ですか。
A:この法廷で画家が描いている絵と同じ程度に真実です。
Q:わかりました。
A:すなわち…
Q:もう結構です。
A:最後まで話させていただければ、また質問することができます。
Q:わかりました。
A:すなわち、ガス処刑がアウシュヴィッツで高官の臨席の下に行なわれたときの雰囲気を正確に伝えているのです。
Q:ふむふむ…
A:説明が欠けています。注意深く選んだ一文の意味が歪曲されてしまう可能性があります。例えば、ヤンケル・マイゼルという名前が二回登場していますが、この人物が誰であるか、ここにいる人々はわからないからです。しかし、ヤンケル・マイゼルは同じ章に登場していますので、一文の朗読だけでは混乱が生じるかもしれません。ですから、この一文は、不幸な犠牲者のガス処刑が行なわれているときの雰囲気を、二流の画家が描こうとしているような程度のことを伝えているのです。
Q:わかりました。法廷にいる画家が絵を描くのと同じようなやり方で、この一文を書いているというのですね。
A:大体そのとおりです。そうでなければ・・
Q:続けてください。
A:そうでなければ、画家の立場に立つためではなく、80巻の著作の一語一句に正確を期する法律家の立場に立つために、80巻の書物を書かなくてはならなかったフランクフルトの判事の立場に立たなくてはならないことになります。
Q:フランクフルトの判事の話は別にしておきましょう。法廷の画家と似ているというのですね。この画家は、例えばあなたと同じように、実際の現場にいる本物の画家なのですね。
A:そのとおりです。
Q:あなたは、ハインリヒ・ヒムラーがガス室のドアののぞき穴をのぞき込んでいるのを目撃したと証言しましたね。
A:いいえ、彼がのぞき穴からガス室をのぞきこんでいる現場にいたとは証言していません。この現場にいて、そのことを私に話してくれたさまざまな人々から何回も聞いた話をまとめたのです。私が目撃することができたのは、8000名のユダヤ人がクラクフから移送されていたときのことです。
Q:8000名ですって。数えたのですか。
A:昨日も説明しましたように、トラックの数、アウシュヴィッツに到着した貨車の数から、どれほどの犠牲者がその日に到着したのかをかなり正確に知ることができました。
Q:この本のどこに、その日に8000名のユダヤ人が到着したと書かれているのですか。
A:もし、書かれていないとすれば、そのように記憶しているだけです。
Q:ほう。
A:記憶していることすべてを本書の中にしるしているわけではありません。そんなことをすれば、81巻の書物すべてを書かなくてはなりません。
Q:質問しているのは、あなたがご自分の本の中に記している特定の事件なのですが。
A:わかりました。
Q:「このとき、私は彼がやってきたのを見て喜んだ」とあり、そのあとで、その後に起こったことの記述に進んでいますね。
A:はい。
Q:そのとき、あなたは18か19歳でしたね。
A:1943年のことですので、19歳でした。
Q:あなたは、ハインリヒ・ヒムラーとヘスとのあいだに立っていて、彼らの話しに耳を傾け、彼らがガス室のほうを眺めていた場所に彼らと一緒にいたのですね。そう証言したのですね。
A:いいえ。彼らはガス室をのぞき込んでいた、そこには多くの特別労務班員がいた、また、多くのSS隊員もいたと証言したのです。
Q:その場にいたのですか。
A:いいえ。そのときは、検疫収容所にいました。多くの囚人と話をして、彼らの話しに耳を傾けました。そして、VIPがやってこなかったので、不幸な犠牲者たちのガス処刑が大幅に遅れたこと、犠牲者たちはガス室に留め置かれていたことを知りました。
Q:本の中では、実際にご自分で目撃したような話となっていますが。知り合いから聞いた話であるとは書いてはありませんが。
A:この出来事については、聞いた話です。
Q:ここで描かれている事件は、伝聞にもとづいているというのですね。
A:はい。
Q:あなたのいう検疫収容所は、「展示証拠H」に記載されていますね。これは収容所の図面ですね。
A:図面を陪審員も見ることができるようにしたらどうでしょうか。
Q:そうしましょう。
A:私も同じ図面を持てば、陪審員に見せることができます。
Q:わかりました。同じ図面をお持ちしますので、私なりのやり方でやらせてください。
A:でも、あなたがここで何をしようとしているのか陪審員が理解できるようなやり方でお願いします。それが展示証拠でしょう。
Q:そのようにしましょう。収容所の全体図を間違ったやり方で提示しなければ、それでかまいませんか。
A:陪審員の皆さんに、あなたが言おうとしていることを正確に理解していただけるようにお願いします。
裁判長:博士、反対尋問が終われば、検事側は、もしそうしたければ、あなたにふたたび尋問することができます。どうか、クリスティ氏が質問したときには、氏の質問に答えるようにしてください。
A:ご忠告ありがとうございます。クリスティ弁護人、続けてください。
Q:展示証拠Hを見てください。これはあなたが前に提出したのと同じ図面ですね。
A:はい。十分に役に立ちます。
Q:かなり大きいですね。
A:はい。
Q:検疫収容所はBUAですね。
A:はい。
Q:あなたが話しているのは、KU、すなわち焼却棟U地区のことですね。
A:はい。
Q:ここで、今問題としている出来事が起こったのですね。
A:はい。
Q:焼却棟U地区にいったことがありますか。
A:焼却棟U地区の中で、ブロック27から見ることができました。
Q:わかりました。
A:しかし、クリスティ弁護人、その日付は1943年1月です。しかし、昨日の後半でも証言しましたように、私が検疫収容所にいたのは1943年6月8日以降のことです。ですから、私は検疫収容所からではなく、フレッド・ヴェツラーのいた死体安置室――のちにそこから逃亡しました――から見ることができたのです。そこは、1943年1月の時点では、焼却棟から50ヤードの距離にありました。
Q:数分前には、ヒムラーがやってきたときの事件が起こったときには検疫収容所にいたと証言なさったのではないですか。そのような証言であったと思っていますが。
A:1月の事件であったことを知りましたので、ここから目撃したことが判りました。
Q:ほう。この本の中に日付を発見したときに、ブロック27から目撃したということがわかったのですか。
A:そうです。しかし、本の中では、どこから見たとは述べていません。あなたが、どこかから見たと私にいわせようとしているのです。検疫収容所から見たといわせようとしているのです。私は、本の中にそれについては書きました。
Q:しかし、本の中には「私は見た」とあります。自分の目で見たことを本に書いているような印象を受けますが。
A:どこから見たかといえば…。もし関心があれば、説明を続けさせてください。関心がなければさえぎってください。
Q:関心がないことを質問したりはしません。
A:関心があるのであれば、回答しますが、私がその手順の一部を目撃したのは、43年4月、死体安置室からでした。
Q:陪審員の皆さんに、その場所を示しましょう。ブロック27はここですね。
A:はい。
Q:そして、検疫収容所はここですね。
A:はい。1943年1月の時点では空でした。誰もいませんでした。
Q:ありがとうございます。
A:ですから、ヴェツラーの死体安置室からだけ見ることができたのです。本の中に、どこから見たとは書きませんでした。
Q:そうです、書いていません。そのとおりです。
A:しかし、あなたは、私にどこから見たといわせようとしました。
裁判長:わかりました。次の質問に移ってください。
Q:もう少し、この話について質問したいと思います。ハインリヒ・ヒムラーが窓からのぞいていたのを目撃した、会話を耳にしたというのは、他の人々から聞いた話なのですね。
A:他の人々から聞いた話です。
Q:しかし、私が読み上げた箇所では、他の人々から得た情報であるとは書かれていませんね。あなたがその場にいたかのように書かれていますが。
A:いいえ。どこに、その場にいたと書かれていますか。
Q:「このとき、私は彼がやってきたのを見て喜んだ。彼が寛容と正義感から私たちの境遇を改善してくれるとの淡い期待を持っていたわけではないけれども」とあって、そのあとに、その場の状況の描写に移っていますが、それが、他人から得た情報であるとは言及していません。
A:「私は彼がやってきたのを見て喜んだ」とあるのは、私は、アウシュヴィッツでの恐ろしい殺戮がナチスの指導者の知らないところで進められていると素朴に考えていたためです。
Q:ほう…。
A:ですから、彼がこれらの殺戮を目にすれば、ドイツ政府の高官の知らないところで、不法なことが進行中であることに気がつくであろうと考えたのです。これが「喜んだ」理由です。私が彼を見て喜んだ理由です。そして、その日に、ガス処刑が残酷なかたちで行なわれたのを耳にしたとき、ヒムラーが満足を表明したと収容所の情報網から耳にしたとき、ヒムラーが去ったのちに、さらに頻繁にガス処刑が行なわれたことを耳にしたとき、私は失望しました。
Q:すると、この段階では、ヒムラーがそれを中止すると期待していたのですね。
A:私たちが目にしていた犯罪は人間の想像を絶するものであったために、アウシュヴィッツが、ドイツ政府の高官の知らないところで、大量殺戮を行なっている、ヘスのような軍服を着た地獄の使者によって運営されていると、依然として、素朴に、まったく根拠もなく、期待していたのです。
ですから、ドイツ政府に近い人物が訪問してきたことで、私たちは偽りの希望を抱いたのです。ご存知のように、恐ろしい状況に置かれた人々というものは、高官がアウシュヴィッツにやってきて、その恐ろしい状況を見れば、ドイツのような文明国にはふさわしくないことに気がついて、それを中止させてくれるだろうとの偽りの希望を抱くものです。ですから、彼がやってきたのを見て喜んだと書いたのです。
Q:「私は彼がやってきたのを見て喜んだ」とのすぐあとに、「彼が寛容と正義感から私たちの境遇を改善してくれるとの淡い期待を持っていたわけではないけれども」とありますね。
これはあなたの言葉ですね。
A:もちろんです。殴打のことをいっているのです。
Q:ガス処刑ではないのですね。
A:ガス処刑ではありません。
Q:ここでの話は伝聞のはずなのですが、そのようには書かれていませんね。
A:殴打を指しています。殴打については、いかなる改善も期待していませんでした。ザクセンハウゼン、マウトハウゼン、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、ラーフェンスブリュック、フリュッセンベルクでは、囚人に対する殴打と拷問は、ナチスの指導部もよく知っており、認めていた手段だからです。アウシュヴィッツでは、少々異なっていました。大量ガス処刑が行なわれていたからです。ですから、大量殺戮、とくに子供、老婦、妊娠中の女性に対する大量殺戮は、ドイツ政府の知らないところで、狂信者によって行なわれているとの希望的観測を抱いていたのです。
Q:この当時、その他の強制収容所でのこれらの出来事すべてについて知っていたのですか。
A:よく知っていました。
Q:ということは、さまざまな収容所から情報が出たり入ったりしていたのですね。
A:はい。私がアウシュヴィッツ収容所に収容される前にも、例えばダッハウのような強制収容所を目撃したドイツ人亡命者による本が数多く出版されていました。
例えば、シカゴ出身のブルーノ・ベッテルハイムは、33年と34年にダッハウに収容されており、釈放後にアメリカにわたって、ダッハウについての本を書いています。このような本は、ドイツ人、ナチスが私の母国を占領する前にも、チェコスロヴァキアでよく知られていました。
ですから、ドイツの強制収容所では、囚人に対する殴打と拷問が広く行なわれていたことをよく知っていました。『茶色の本』という意味ですが、ブラウン・ブフという本がありますが、その本はリヒテンシュタインについては触れてはいませんが、1933年、1939年に大量の資料を出版したドイツの強制収容所の数多くの生存者について触れています。私はこの資料を読んでいたので、これがドイツの強制収容所では普通のやり方であることを知っていました。しかし、ガス室については何もありませんでした。
さらに、アウシュヴィッツには、各地の強制収容所から移送されてきた囚人が数多くいました。
私自身も、最初からアウシュヴィッツではありませんでした。アウシュヴィッツは私の最初の強制収容所ではありませんでした。マイダネクからやってきました。ですから、アウシュヴィッツにいても、私たちは、他の強制収容所での出来事をよく知っていたのです。他の強制収容所でも囚人に対する殴打と拷問、非合法の殴打が行なわれていることを知っていましたが、まったく無実の人々、登録されていない人々に対する大量ガス処刑が行なわれていたのはアウシュヴィッツだけであることを知っていましたし、目撃することができたのです。
Q:わかりました。おっしゃりたいことは、これですべてですか。
A:私のつつましい作品についての文学談義ということであれば、そして、もうこれ以上質問がなければ、そのとおりです。
[1944年4月7日時点で、カナダ区画が完成していたかどうか]
Q:まだ、質問を続けます。『アウシュヴィッツ・カレンダー』という本を知っていますか。
A:そのような『カレンダー』があることは知っていますが、見たことはありません。
Q:収容所の事件記録です。
A:はい。フランクフルト裁判で見たことがあります。裁判長ホフバウアー博士が見せてくれました。…
裁判長:博士、ちょっと待ってください。次の質問に移ってください。
Q:ありがとうございます。
Q:これは、1944年4月7日のあなたの逃亡の記録ですね。
A:アウステンラーゲル…
裁判長:博士、この裁判は英語で進められています。テキストを見てから、弁護人の質問に答えてください。
A:わかりました。もう一度、質問をまとめていただけますか。
Q:これは、あなたが企てたという逃亡、アウシュヴィッツからの逃亡の件ですね。
A:パラグラフ7.4と呼ばれている1つのパラグラフがあります、そこでは、…
Q:質問を良く聞いてください。よろしいですか。これは、アルフレド・ヴェツラーとヴァルター・ローゼンベルクの関係した4月7日の逃亡の件、記録ですね。
A:4月7日については何もありませんが。
Q:4・7とは4月7日のことですね。
A:4407は刺青された番号のことです。
Q:4・7です。
A:ああ、日付ですね。
Q:4月7日ですね。
A:年は書いてありません。
Q:戻ってみてください。1944年のことだとわかります。本を見てください。1944年のことだと確認できますね。
A:ポーランドで1964年に博物館が出版しました。
Q:アウシュヴィッツ博物館ですね。
A:そうです。
Q:ご自分で1944年のことだと確認したくないのですか。
A:あなたを信用します。
Q:私を信用してくれるのですか。
A:あなたの手の中にある文書を信用します。
Q:わかりました。4月7日の項目に戻りましょう。
A:はい。
Q:これは、アルフレド・ヴェツラーとヴァルター・ローゼンベルクの逃亡を記載しているのですね。
A:まったくそのとおりです。
Q:この日に起こったことを記載しているのですね。
A:はい。そして、私たちの腕に刺青されている番号も記録しています。
Q:あなたの腕にですか。
A:はい。
Q:右手ですか、左手ですか。
A:左手です。
Q:あなたが逃亡した日のことですね。
A:1944年4月7日。逃亡を決行しました。
Q:逃亡した時点で、カナダはビルケナウでまだ完成していなかったのですね。
A:私の知るかぎりでは、完成していませんでした。しかし、カナダに人が収容されていたのは夜のことです。言い換えれば、1943年1月15日以降は、夜には、ビルケナウのバラックに囚人が暮らしていたのです。
Q:『アウシュヴィッツ・カレンダー』の1943年の項目に移ります。1943年のところがわかりますか。
A:はい。
Q:前半のところです。
A:はい。
Q:英語で読み上げます。確認してください。正しい翻訳かどうか、お尋ねしますから。
A:はい。
Q:「1943年12月14日、ビルケナウで建設区画BUが完成した。囚人たちは、この倉庫の建設区画のことをカナダと呼んでいた。倉庫区画には、35のバラックがあった。そのうち30のバラックに、ユダヤ人の所有物が保管され、整理されていた。2つのバラックには、倉庫で働く囚人が暮らしていた。残りの建物には、管理当局が入っていた。」
正確な翻訳ですか。
A:ドイツ語のテキストを正確に理解したところです。翻訳を読んでいただけますか。
Q:わかりました。「1943年12月14日、ビルケナウで建設区画BUが完成した。囚人たちは、この倉庫の建設区画のことをカナダと呼んでいた。倉庫区画には、35のバラックがあった。そのうち30のバラックに、ユダヤ人の所有物が保管され、整理されていた。2つのバラックには、倉庫で働く囚人が暮らしていた。残りの建物には、管理当局が入っていた。」
正確に読み上げましたか。
A:結構です。
Q:この一文は、1943年12月14日の時点では、カナダの建設工事は終わっていることを意味しています。あなたは、カナダの建設工事がご自分の逃亡以前には終わっていなかったと証言していますね。
A:私の記憶では、逃亡以前には終わっていませんでした。また、私の記憶では、BUD区画のとおりで頻繁に見かけたカナダ作業班はいつものとおりそこにいました。しかし、私は作業班から長らく遠ざかっており、そのときから、作業班にはあまり関心を向けなくなっていました。
また、完了とはいっても、それが計画の完了を指しているのか、バラックの完了を指しているのか、バラックへの囚人の移送の完了を指しているのか、それが問題です。
ポーランド人研究者の記録が私の記憶よりも正確だとしても、この点がはっきりしていません。
[焼却壕問題]
検事側尋問でのヴルバ証言 検事グリフィス:焼却壕を見たことがありますか。 A:はい。壕はバラックの近くでした。1942年12月でした。壕から熱が出ていました。壕は使われてはいませんでした。誰もいませんでした。壕の中をのぞきこむと、骨の断片を目撃しました、焼却されているものは少なく、大半が、焼却されていないか、少し焼却されている子供の頭でした。そのときには、なぜ燃えていないのかわかりませんでしたが、今では、子供の頭には多くの水が含まれているので、子供の頭蓋骨を完全に焼却することは、大人の頭蓋骨を焼却することよりもはるかに難しいことを知っています。 Q:いくつあったのですか。1つ以上ですか。 A:記憶しているかぎりでは、3つ以上ではありませんでした。バラックから離れたところにもっとあったかもしれませんが、そこまでは歩いていけませんでした。バラックのそばにいなくてはならなかったからです。 Q:これらの壕の大きさはどのくらいでしたか。 A:深さは6mほどでした。 Q:6mですか。 A:はい。 裁判長:フィートに換算すると。 A:6mは約20フィート、18フィートです。ですから、深さは、このパネル、二番目のパネルほどになります。6mほどでした。ほぼ正方形でした。正方形でした。縦横が6m、深さ6mでした。使われてはいませんでしたが、熱がまだ出ていました。12月で、寒かったので、熱にひかれて近づいていったのです。 |
Q:そうですか。昨日、焼却壕について証言しましたね。
A:はい。
Q:昨日、幅6m、長さ6m、深さ6mの焼却壕が存在したと証言しましたね。
A:メジャーで測定したわけではなく、私がそのように判断したとも指摘しています。
Q:壁にかかっているパネルで説明しましたね。たしか、パネルの天辺を指し示しましたね。
A:そうだったと思います。
Q:そうですか。ドイツ人が、水位の高いこの湿地帯の中で水につかっていた死体をどのように焼却したのか、説明してください。
A:私は技術的な問題の証人として召喚されているわけではありません。私が目撃したのは、壕が完成してからのことです。しかし、私の技術的なアドバイスを求めているのならば、300人か400人の奴隷労働者を提供していただければ、私は、ドイツ人がどのように作業したのかを目撃しないでも、また、ドイツ人がどのように作業したのか技術的な相談をもちかけることなく、そうすることができると思います。まったく問題はありません。
Q:どのようにやったのか説明してください。この周囲の土地は湿地であったと描いていますね。そうではありませんか。
A:周囲の土地は湿地でした。田舎の土地のようであったという意味です。
Q:二つの川に挟まれていましたから。
A:二つの川に挟まれていました。しかし、田舎の湿地帯で暮らしてみればわかりますように、そこには、たびたび、旅行者や漁師が訪れます。ですから、湿地であっても、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所当局によって乾燥・整地された区画が存在していたのです。その区画は、湿地ではなく、とくに水に浸されていたとみなすことはできません。とりわけ、私がそこにいたのは1942年の冬ですので、土は凍りついていました。固い土だったのです。
Q:凍りついた土だったのですか。
A:凍りついた土でした。
Q:日によって、水が溶け出してしまうのをどのように防いだのですか。
A:どのように…
Q:この湿地帯から水が溶け出して、このパネルの天辺までの高さの壕を一杯にしてしまわないように、火をつけるにはどのようにしたのかということです。
A:私が、目撃証人として知らないような質問をしています。私は、技術的問題について相談を受けているわけでもありません。技術的な教育を少しでも受けている人物であれば、湿地の中で、1平方キロメートルの区画を乾燥させれば、その1平方キロメートルの区画は、それ以外の湿地とはまったく異なった条件のもとに置かれることを説明してくれるでしょう。そう思います。
Q:そう思っているのですね。
A:しかし、あなたは目撃証人としてではない、話を求めています。
Q:何をおっしゃりたいのですか。
A:私は自分が実際に目撃したことを証言しているのに、あなたは、ドイツ人がどのようにそれを行なったのか憶測せよと私に求めているのです。
Q:法廷の壁にかかっているパネルの天辺ほどの深さの壕を実際に目撃したのですね。そして、火が壕の底でくすぶっていたのを目撃したのですね。
A:いいえ、火は消えていました。注意深くお聞きになればおわかりかと思いますが、私が申し上げたのは、私が目撃したときには、壕は使われてはいなかったが、壕の中にはまだ熱があったので、少し前まで使われていたのであろうということです。
Q:ほう。
A:そして、壕をのぞきこむと、子供の骨の断片を目撃したのです。
Q:子供の骨の断片ですね。
A:はい。頭の骨です。
Q:頭の骨ですか。自分自身が暖を取った火の残りかすが壕の底にくすぶっていたと証言しましたね。
A:この壕の中で、2、3日間にわたって大量の火を燃やし続け、そのままにしていけば、次第に火は消えていきます。そして、2日後に戻ってきたとします。大量の火が燃やされ、400か500体がそこで焼却されたのです。そうすれば…
Q:そうすれば…
A:そうすれば、2日後には、非常に寒く、手袋をして、手をその上にかざすことになります。
Q:火の上にですか。
A:火ではありません。穴の上にです。
Q:残り火の上ですね。
A:はい。そうすれば、暖を感じ取ることができるはずです。
Q:そうですね。
A:これが、私が感じ取ったことなのです。
Q:そのように感じ取ったのですね。
A:だから、そこに立っていたのです。子供の頭を見たことは、私の心を和ませるとか、喜ばせるよういった類のことではありませんでした。
Q:それは深い壕であったと証言していますね。子供の頭があったのは、下のほう…
A:壕の底です。
Q:6m下の。
A:はい。壕の底です。
Q:6m下の。
A:はい。しかし、6mではなく4mであったかもしれません。メジャーをもっていたわけではなかったからです。そして、私の測定能力も正確ではなかったかもしれません。恐ろしい状況を考えると、実際よりも深くみえたのかもしれません。1、2m以内だったのかもしれません。
Q:1、2m以内ですか。
A:あなたは、私が物差しを使わなかったといって非難していますが、そのようなことは技術的に不可能でした。
Q:少しも非難していません。質問しているだけです。私の聞き間違いでなければ、あなたの証言にある6m×6m×6mは、1m×1m×1mもしくは2m×2m×2mとなってしまうということですか。
A:1m×1m×1mもしくは2m×2m×2mかもしれません。
Q:そうですか。なぜ、壕の底には水がまったくないのでしょうか。まったく説明していませんが。
A:説明できます。壕に火が入れられ、そこで死体が何回も焼却されたとすれば、その間に水は干上がってしまうのです。
Q:わかりました。そこは湿地であったと証言しましたね。
A:アウシュヴィッツの周辺は湿地でした。言い換えれば…
Q:ビルケナウの周囲ではないのですか。
A:ビルケナウの周囲です。そして、ビルケナウを逃亡して、共通収容所区画を横切らなければならなかったときにはじめて気がついたのですが、ビルケナウは湿地帯に建設されましたが、ビルケナウ自身はそれほど湿地でもなかったのです。
Q:ビルケナウは地上レベル以上の高さに建設されたというのですね。
A:地上レベル以上の高さに建設されたというのではありません。ビルケナウとビルケナウの建物が湿地の水に浸らないようにするために、適切な灌漑措置がとられたということなのです。この回答でご満足でなければ、アウシュヴィッツ収容所の技術当局に問い合わせるべきでしょう。私は建設技師ではありませんが、建設方法は知っていました。
Q:どのような灌漑措置がとられたのですか。
A:不意の洪水を規制する灌漑措置です。農業が大規模に行なわれている施設では、農地の一部を乾燥させ、一部を湿ったままにしたいときには、ごく普通にとられている措置です。それは、灌漑によって行なわれます。
Q:アウシュヴィッツでは水の浸入を防ぐためにどのような灌漑措置がとられたのですか。盛り土をしたのですか。
A:収容所管理局は、技術的詳細については私に教えてくれませんでした。ですから、まったくわかりません。
Q:ガス室の様子を証言しましたね。私が間違っていなければ、あなたはブロック27からそれを見たのですね。
A:そうです。
Q:ブロック27とは、アルフレド・ヴェツラーの死体安置室ですね。
A:そのとおりです。
Q:図面には記載されていない木造の建物ですね。
A:そうです。
Q:彼が自分でこれを建てたのですか。
A:いいえ。誰かが建てたのです。
Q:この地図、展示証拠Hに印を付けてくれませんか。色鉛筆をお貸しします。
A:わかりました。印を付けろとおっしゃるのですね。
裁判長:ちょっと待ってください。ここに赤鉛筆があります。
Q:裁判長、ありがとうございます。
Q:この展示証拠Hの上に○を付けてください。死体安置室があったブロックに○を付けてください。できましたか。
A:はい。
Q:それで結構です。
A:死体安置室のあったブロック27はここです。
Q:正しくマークされています。もしお望みならば、○印を付けてください。
A:死体安置室はここです、木造の付属建物です。ブロック27の壁の一つと死体安置室の壁の一つは同じものです。つまり、二戸建なのです。
Q:矢印を書いても良いですか。その方がはっきりすると思いますが。
A:それは、あなたのものです。何を書こうと自由です。
Q:ここに、アルフレド・ヴェツラーが…
A:1943年6月8日まで、事務所と死体安置室をもっていたのです。
Q:ここで、あなたは観察したのですね。
A:はい。
Q:そこにあなたのイニシアルを書いてください。そうすれば、あなたの話を確認できます。
A:わかりました。しかし、矢印の向きは、あなたが記載したものとはまったく異なっています。
Q:矢印を書いたのは、場所を示すためで、方角を示すためではありません。
A:あなたは正確さに固執していますので。ウェツラーではなく、ヴェツラーです。名前を間違えたと私を非難されるかもしれないので。
Q:そんなことはしません。この人物がチクロンBを穴に投下したのを目撃したのはどこですか。
A:もう一度お願いします。
Q:SS隊員がチクロンBを穴に投下したのを目撃したと証言しましたね。投下した場所を0か○、または別の印で記載してください。
A:はい。
Q:どこですか。
A:ここか、ここかです。
Q:2つの場所の可能性があるのですか。
A:はい、記憶が薄れていますので。完全ではないのです・・・
Q:だから2つの場所に印を書き、おのおのに3つの点を書いたのですね。
A:そのとおりです。
Q:矢印を書いて、地図の中に、投下した場所を示してください。ここで、SS隊員がチクロンBを投げ入れたのですね。
A:SS隊員がチクロンを投げ入れました。
Q:わかりました。
A:焼却棟T、焼却棟Uから突き出ている換気口の中へです。それは、私が窓から見ている視線の上に、はっきり見えました。
Q:ここでの話しすべてを証言していただく必要はありません。
A:あなたは正確を期しています。私が、ビルケナウTBのブロック27の隣接する死体安置室の窓から見ていたとき・・
Q:もうわかりました。
A:ここにも署名しましょうか。
Q:そうしてもかまいません。
A:署名しました。
裁判長:この展示証拠は今後展示証拠21となります。
――展示証拠21:ビルケナウの地図(旧展示証拠H)
Q:さて、ヴルバさん…
A:これまで、35年間、ヴルバ博士と呼ばれてきました。しかし、それがお気にめさないのならば、サーを付けてください。その方が短くてすみます。
[SS隊員によるチクロンBの投下]
検事側尋問でのヴルバ証言 A:焼却棟Uは建物は別として、このようなテーブル2つ分の高さほどのブンカーを持っていました。ブンカーは、この高さ、人間の身長以上の高さでした。 Q:わかりました。約6フィート半、7フィートだったというのですね。 A:そう思います。言い換えれば、ここに登る人物は、手を持ち上げて、ブンカーの上に自分を引き上げるために練習をしなくてはならなかったのです。このブンカーには換気口が3つか4つほどあり、それは、可動容易な木製のようなふたでカバーされていました。 裁判長:カバーされていました・・・ A:ふたによってです。その距離からは、ふたが木製であるか金属製であるかわかりませんでした。そして、Sanitäts Dienst Gefreiterを目撃しました。 Q:なんですって。 A:衛生担当伍長です。彼は、チクロンの缶を4つか5つ持ってやってきました。私は、赤十字の自動車に積み込んだことがあるのでその缶を良く知っていました。そして、彼は、ブンカーにやってきて、それらを下ろし、それから、これらの缶をすべてブンカーの屋根の上に運び始めました。そして、それらを腕の下に抱えて、ブンカーを上ったのです。スポーツマンのように身体をゆすっていました。SS隊員がスポーツをするような動作をするのは尋常のことではないので、この動作は私の関心を引きました。それから、ブンカーの屋根の上で持っていたガスマスクを取り出し、ガスマスクをつけました。そして、50ヤードほどの距離からでもはっきりとわかったのですが、何かを使って、チクロンBの缶のふたを開けました。そして、ゆっくりとした歩みで換気口の1つのところに行って、それを開け、缶の中身をゆっくりと換気口の中に押し入れました。作業を終えると二回ほど…たたきました。 Q:缶をたたいたということですか。 A:開口部をたたきました。そして、また、かなりゆっくりした動作で、開口部を閉じ、ガスマスクをつけたままで、次の換気口のところまで行き、先ほどの手順を繰り返しました。換気口には、1つか2つの缶が投げ込まれました。1つのときもあれば、2つのときもありました。すべてを片付けると、空の缶をブンカーの端に持って行き、ブンカーから下りました。空の缶をブンカーから降ろしました。ガスマスクをはずし、ホルダーの中に入れ、缶を手に抱えて、焼却棟の中に姿を消して生きました。 |
Q:私は、あなたの確認した突き出た場所を指し示しています。私の指し示している場所が正しいかどうかチェックしてください。ここは、あなたが3つの点を書き入れた2つの場所です。正しいですね。
A:はい。しかし、私が印をつけたのは、ブンカーとして焼却棟から突き出た場所です。
Q:わかりました。これを陪審員にお見せします。
さて、ヴルバ博士、SS隊員がどのようにこのブンカーの上に登っていったのかもう一度証言してください。
A:昨日の証言をもう一度ですか。
Q:ブンカーに上っていった箇所です。それを証言してください。SS隊員は缶を屋根の上に…と証言しましたね。その箇所です。
A:わかりました。彼は最初、運搬器に入れたままでは持っていけないので、中の缶を下に置きました。それを腕の下に入れて運びました。5つか6つだったと思います。
Q:5つか6つの缶ですね。
A:はい。
Q:そして、1つずつとりあげて、屋根の上にもっていったのですか。
A:最初、下において、それから、それらを屋根の上にまでもって行き始めました。猿のように這い上がっていったので、驚きました。
Q:手を端にかけて、身体を引き上げたのですね。
A:はい。猿のように登っていきました。
Q:ブンカーの端まで登らなくてはならなかったのですか。
A:はい。手でしっかりとつかむためです。
Q:わかりました。
A:そして、すべりやすいセメントの上を登っていきましたが、うまくやり遂げました。
Q:昨日、SS隊員はスポーツマンのように身体をゆすっていたと証言しましたね。
A:はい。
Q:どのくらいの高さを登らなくてはならなかったのですか。
A:歩き登っていくことができないほど高かったのですが、練習を行なうことはできました。
Q:練習を行なったのですか。
A:彼は努力しなくてはなりませんでした。歩いて登ることも、飛び上がって登ることもできませんでした。それよりも高かったのです。
Q:これよりも高い距離を登らなくてはならなかったのですね。
A:おそらく。
Q:そのとき、屋根の端をつかんで、身体を引き上げたのですね。
A:多分。しかし、彼の手はこの位置にあったのでしょう。40年もたっていますので、正確には言えません。私の記憶力が乏しいのかもしれませんが。しかし、40年もたっているので、どのような動き方をしたのか、正確に述べることはできません。
Q:平らな屋根の上での話でしたね。
A:はい。
Q:この屋根には換気口がついていたのですね。3つあったのですね。
A:3つか4つです。
Q:あなたが書いた図面では3つです。
A:わかりました。
Q:彼の動きはスポーツマンのようであったと私たちに信じさせようとしましたね。昨日、この用語を使いましたね。
A:はい。
Q:SS隊員がそのような仕草をするのは尋常なことではなかったのですね。
A:はい。彼らは、病理学的対象となるほど、自己尊厳の念を持っていましたから。ここでは、このSS隊員はこのことに気を配っていませんでした。
Q:彼が登っていかなくてはならなかった壁はセメントの壁であったと理解してもよいのですね。
A:はい。
Q:そう確信しているのですね。
A:かなり確信しています。
Q:かなりですか。
A:はい。触れたわけではありませんが、50ヤードの距離からこのセメントを見ることができましたので、かなり確信しています。この点については疑問を抱いてはいません。
[死体安置室(ガス室)について]
Q:Leichenkellerとは何であるかご存知ですか。
A:はい。
Q:それが何かご存知なのですね。
A:はい。
Q:それは何ですか。
A:死体安置室です。
Q:死体安置室の屋根について証言されましたが、死体安置室は地下なのですね。
A:そこにいかれたことがありますか。
Q:いいえ。あなたはどうですか。
A:いいえ、しかし、そこで働いていた人々からガス室だと聞きました。
Q:いったことはないですね。
A:中に入ったことはありません。普通、中に入った人々は出てきません。ですから、そこにいなかった私は幸運でした。
Q:あなたはとても興味深い人物ですが、私の質問に答えてください。建物の屋根は地上に出ていたのですか、それとも地上と同じ高さだったのですか。
A:屋根は地上に出ていましたが、下にもぐりこんだ屋根だったのです。ビルケナウでは、多くても日に300名か400名が死亡し、死体は、毎晩、アウシュヴィッツに搬送されて、焼却されました。ですから、ビルケナウの死体安置室は囚人用としては必要なかったのです。400名の死者ならばフレッドの小さな部屋で間に合うのに、30ヤードの長さの死体安置室がどうして存在していたのでしょうか。
Q:フレッドの小さな部屋には、毎日300か400体の死体が保管されていたのですね。
A:はい。
Q:そこから焼却棟に運ばれたのですね。
A:そのとおりです。フレッドの部屋はここよりも大きい部屋でした。このスペースに300名を収容できることをお見せしましょうか。
Q:あなた方がコーヒーを飲むことができるほど十分な広さだったのですね。
A:下にナプキンを引きながら、テーブルの上のコーヒーを飲むことができるほど十分な広さでした。
[収容所での医療について]
Q:病気になると病院に運ばれたが、治療はまったく行なわれず、患者は死んでしまったのですね。
A:普通はそうです。しかし、治療が行なわれたこともありました。
Q:命を救おうとしたケースですか。
A:病院でですか。
Q:いいえ。収容所全体です。昨日のあなたの証言からは、誰かが病気になり、働けなくなると、地面に横たえられて、首に棒がかけられ、カポーが棒の両側に飛び乗って、首を押しつぶしたという印象を受けているのですが。
A:そのとおりです。もしくは気難しい気分…
Q:ブロック長は、病気の人物が建てなかったときには即座に殺すか、もしくは、気難しい気分のときには、病院に送ったというのですね。病院は病院ではなく、病棟と呼ばれており、それは、翻訳すれば、病院ではなく、病院用のバラックを意味するというのですね。
A:そのように呼ばれていました。
裁判長:クリスティ弁護人、20分休廷したいのですが。
――陪審員は退廷する。11時30分。
裁判長:博士、証人席から降りてください。本審理の終了まで、この事件について誰にも話してはなりません。
――証人は証人席から降りる。
――短い休廷
――再開
――証人は証人席につく。
裁判長:陪審員を入廷させる前に、何かありますか。
Q:ありません。
裁判長:陪審員を入廷させてください。
――陪審員は入廷する。午後12時。
裁判長:クリスティ弁護人、続けてください。
Q:ありがとうございます。
Q:ヴルバ博士、病院では医学的治療を受けたのですか。
A:医学的治療を受けるのは、例外的でした。
Q:あなたも例外の一人ですね。外科手術を受け、麻酔をかけられ、そして回復したのですね。
A:そのとおりです。
Q:お尻の部分が何らかの感染症にかかったのですね。
A:そうです。
Q:その結果、働けなくなったのですね。
A:殴打のためです。
Q:そうでした。殴打のためでした。カポーから殴られ、怪我をしたのですね。
A:いいえ。SS隊員からでした。
Q:怪我をして病院に運ばれ、麻酔をかけられたが、それが完全に効く前に、手術が始められたのですね。
A:そうです。
Q:そして回復したのですね。
A:そうです。
Q:以前の怪我から、敗血症のようなものにかかったのでしたね。
A:お尻を殴られることで、お尻の組織が数多く破壊されます。細胞は、当時広まっていた感染症にかかりやすかったのです。敗血症が体全体に広まるのを防ぐために、外科手術が必要だったのです。
Q:そして、病院に運ばれて、手術を受け、回復したのですね。
A:はい。
Q:傷口を縫いましたね。
A:多分。
Q:ご存じないのですか。
A:知りません。傷あとはまだあります。
Q:あなたの本の209頁の話に移ります。三番目のパラグラフを読み上げますので、間違っていないか確認してください。「彼の体力は」から始まる箇所です。見つけましたか。209頁です。
A:探しています。
Q:最初から三番目のパラグラフです。パラグラフの最初の部分は、前の頁から始まっていますので、「彼の体力」というところから始まっている箇所です。
A:208頁ですね。
Q:209頁です。
A:209頁ですか。
Q:はい。
A:「彼の体力は」…、はい、わかりました。
Q:「収容所の長老モンキー・チンでさえも彼のことを恐れていた。彼は、有力な囚人、とくに、ガス室の犠牲者の貴重品にアクセスできる特別労務班とコネクションを持っており、それは、フェロ・ランガーのコネクションよりも密であった。」
正確に読み上げていますか。
A:はい。
Q:「彼は、20ドル紙幣をトイレット・ペーパーとして使ったビルケナウの標準から見ても、大金持ちであった…」
A:正確です。
Q:「…そして、自分の富を使って、SS隊員に賄賂を贈り、彼らに対する影響力を手に入れていた。」
A:正確です。
Q:ビルケナウでは、20ドル紙幣をトイレット・ペーパーとして使ったそうですが、それを目撃したのですね。
A:私が使いました。
Q:あなたが使ったのですか。
A:はい。だから、ドイツ人の手には入らなかったのです。
Q:本当ですか。
A:はい。
Q:アメリカドルですか、カナダドルですか。
A:アメリカドルかイギリスのポンドしか見たことがありませんでした。イギリスのポンドの方が、一方の側だけが印刷されていましたので、トイレット・ペーパーには向いていました。
Q:他の人々がトイレット・ペーパーとして使っているのを見たことがありますか。
A:はい。
Q:目撃したのですね。
A:便所のことですので、近くで見たことはありませんが、私たちが移送者の所持品の整理をしているとき、SSに手渡さなくてはならないお金が、しばしば便所に持ち込まれたことを知っています。ですから、ナチスは西ヨーロッパの通貨を手に入れることはできませんでした。サボタージュのようなものです。
Q:わかりました。しかし、なぜお金を持ち帰らなかったのですか。
A:お金を持ち帰るには手間がかかります。誰かに見つかれば、命を落とします。
Q:便所に持ち込んで、トイレット・ペーパーとして使う方が簡単だったのですね。
A:便所に行けば、それをトイレット・ペーパーとして使うこともできます。迷っているのでしたら、それを便所に投げ捨てることもできます。私も、100ドル紙幣の束を投げ捨てたことがあります。
Q:わかりました。100ドル紙幣の束ですね。
A:そのとおりです。
Q:収容所では、数万ポンドのイギリス紙幣が、賄賂として使われていたのですね。
A:そのようなことがありえましたが、賄賂は通貨で支払われていたわけではありません。ダイアモンドで支払われていました。一缶のダイアモンドは数万ポンド以上の価値でした。
Q:誰かが10000ポンドの賄賂をSS看守に贈っていたということでよろしいですね。
A:現金ではありません。10000ポンドの価値のある貴重品です。
Q:SS看守は収容所の外で誰かから賄賂をもらっていたという話をされましたね。
A:どの話のことでしょうか。
Q:覚えておられないのですか。
A:どの話のことですか。SSの収賄については、いくつかの話があります。SSは殺人者であると同時に、泥棒でもありましたから。
Q:そうですか。100ポンドの賄賂を贈ったと本の中に書いているのを覚えていないのですか。もっとあったのですか。
A:チャールズ・ウンゲルが、収容所からの逃亡のために、支払った賄賂のことですか。
Q:はい。
A:その話は覚えています。お金が支払われるはずでした。缶の中に入っていました。ですから、金、20ドル紙幣、その他の金貨、そして、おもに、かなりのカラットのダイアモンドが入っていると考えました。約50万ドルもしくは10000ポンドの価値があったと思います。
Q:そうですか。アウシュヴィッツからは多くの人々が逃亡したのですね。
A:その統計を持っているわけではありません。
Q:ヨーゼフ・ガルリンスキの『戦うアウシュヴィッツ』という本を知っていますか。
A:はい。
Q:ご存知なのですね。
A:精読しました。
Q:もう一度お願いします。
A:精読しました。ガルリンスキ氏と1972年に会ったことさえあります。
Q:そうですか。彼は、アウシュヴィッツとその付属収容所、おもにビルケナウから逃亡したのは、1942年には、667名の囚人であり、うち16名が女性だった、1941年には、…と述べていますね。
A:その逃亡は成功した逃亡なのですか。
Q:のちに、どのくらいが成功したかを述べていますが、ここでは逃亡についてです。
A:ドイツ人は逃亡を計画したものを、縛り首にしたので、逃亡者の数は割り引いて考えなくてはなりません。例えば、ある政治犯は上着の下にシャツを2枚着ていただけで絞首刑になったのを目撃したことがあります。彼は、寒いのでシャツを2枚着ていたと釈明しましたが、他の人々は寒くても1枚しか着ておらず、2枚着ているのは逃亡の準備をはかっているためということになって、絞首刑となったのです。ですから、逃亡を企てて処刑された囚人が統計上の数字に入っているかどうかわかりませんし、統計上の数字が正確なものであるのかもわからないのです。
Q:ということは、逃亡に成功したか、しなかったかわからないということですか。
A:65名のロシア人が特別な状況のもとで大脱走を図ったのを知っていますし、逃亡を企てた咎で多くの人々が絞首刑となった現場に立ち会ったこともあります。
Q:そうですか。
A:しかし、逃亡に成功して収容所に連れ戻されずにすんだ人については、個人的にはまったく知りません。
Q:わかりました。逃亡に成功した者は誰もいなかったということですね。
A:私の知るかぎりではそうです。
Q:だから、あなた以外には、収容所での絶滅を告発できなかったのですね。
A:いいえ。逃亡に成功して、おそらく、姿を隠した囚人は多少存在しているでしょう。彼らは、殺人者の手を逃れて生きのびたことに満足してしまったのです。しかし、私は、もっとやるべきことがあると考えました。だから、報告書を書いて、アウシュヴィッツでの事件を伝えようとしたのです。
Q:ドイツ人に深い憎悪を抱いていらっしゃるようですが。
A:ドイツ語にもロシア語にも堪能で、ゲーテもプーシキンも愛しています。そして、民族的な憎悪の感情を漂わせているものには反対しています。そして、ナチスに対しては人間的な憎悪を抱いています。ナチスは反人間的な団体で、全世界が6年間もこの団体に対して血みどろの戦いをくりひろげたのです。私も、この悪の存在を地上から追放しようと決意している人々の中の一員です。
Q:わかりました。あなたが憎悪しているのは、民族ではなく、政治組織だということですね。
A:民族を憎悪することは犯罪です。
Q:そうですか。あなたはナチスを憎悪しているのですね。
A:そうです。
Q:彼らについて嘘をつくほど憎悪しているのですね。
A:もう一度お願いします。
Q:彼らについて嘘をつくほど憎悪しているのですね。
A:私は、ここで真実を証言すると宣誓しています。しかし、あなたは私が嘘をついていると中傷しています。とすれば、その証拠を提出すべきでしょう。そうでなければ、悪意のある中傷とみなします。
[死体安置室の地上に突き出た部分の高さについて]
Q:昨日の証言で、SS隊員が長いブンカーの上に登るとき、6フィートか7フィートの高さを登らなくてはならなかったことを事実として証言しましたね。私は、あなたの証言を正確に伝えていますね。
A:そうですか。
Q:あなたは証人です、そして、記憶を持っています、そして、証言しました。そして、私は、あなたの証言をもう一度繰り返しました。
A:基本的に私が証言したことは、彼はブンカーに登らなくてはならなかったこと、このブンカーは、私の記憶では、この部屋の高さよりもおそらく高かったことです。言い換えれば、彼は高い場所に上らなくてはならなかったことです。私は、メジャーを持ってその場所に行ったわけではないので、5フィートであったのか7フィートであったのか測ったわけではありません。私が大体この部屋の高さぐらいであると証言したのは、陪審員と当法廷にわかりやすく説明するためで、実際に、測定器を使った高さと同じではありません。
Q:しかし、6フィートから7フィートと話して、それを事実として証言しましたね。
A:はい。
Q:そう証言しましたね。
A:はい、大人の背丈ほどです。
Q:そうですか。
A:はい。
Q:あなたが地図の上で指摘した死体安置室の屋根は、地上レベルとほぼ同じ高さなのですが。
A:そうなのですか。
Q:そうなのです。
A:どうしてそれを知っているのですか。
Q:回答せよとおっしゃるのであれば、私は図面を見たからです。あなたは見たことがありますか。
A:ありません。
Q:見せて差し上げましょう。ジョルジュ・ヴェレールの著作『ガス室は存在する』をお見せします。
A:『存在した』です。
裁判長:この本と図面を知っているかどうか質問してください。
Q:この本を見たことがありますか。
A:見たことはありませんが、著者のジョルジュ・ヴェレールには会ったことがあります。
Q:この図面を見たことがありますか。
A:図面を見たことはありません。少し説明してもかまいませんか。
[死んだはずの人物がふたたび登場していることについて]
Q:私の手元にある本の149、152、153、そして170頁に、あなたは、ヨーゼフ・エルデルイの死について書いていますね。なぜそのことを書いたのかを話してください。
A:もう一度、頁番号を教えてください。
Q:149、152、153頁に、あなたはヨーゼフ・エルデルイがチフスで死んだと書いていて、170頁では、自分と一緒にいたと書いていますが、この件を説明できますか。
A:153頁までですか。
Q:はい。あなたはハードカバー版を、私は、ペーパーバック版を使っていますが、同じ頁だと思います。
A:この件は、説明するまでもありません。よく覚えているからです。次のようなことですね。
本の中で、エルデルイが死んだと書いて、そのあとで、エルデルイが証人として登場しているということですね。
Q:そのとおりです。
A:わかりました。本の中ではそうなっています。あなたのご指摘は正確です。私は、子供のときからの友人、バノフツェ出身のエルデルイの1942年9月か10月の様子を書きましたが、それは本の後半部分で、そのときまでは、逃亡者に対するアウシュヴィッツの処置についてはまったく書いていません。私がこの処置をはじめて目撃したのは、私がアウシュヴィッツにやってきた最初の週、1942年7月でした。そのときには、エルデルイは生きていました。言い換えると、私がこの本の中で使ったのは、文学作品の著者たちが使う一般的なテクニックです。すなわち、フラッシュバックです。
Q:わかりました。フラッシュバックなのですね。
A:はい。
[ふたたびヴルバの著作の性格について]
Q:わかりました。本の中では、お話を語っているのですね。あなたは、状況を作り出しているのですね。
A:状況を作り出してはいません。状況を描いているのです。
Q:この本の中では、他人の口にした言葉が書かれていますが、どのように書いたのですか。
A:私は、一語一語を正確に記録する速記者でもなく、録音機を持っていたわけでもありません。
Q:しかし、豊かな想像力をお持ちなようですね。そして、言葉を作り出したのですね。
A:想像力とおっしゃっていますが、豊かな記憶力とおっしゃってください。
Q:はー。
A:私がこの本を書いたのは、芸術家として、もしくは芸術的な試みとしてであるということをお認めいただければ、私は芸術的に状況を作り出したのです。
Q:さらに、あなたは捏造を重ねていますね。本書全体を通じて、ルドルフ・ヴルバという第三者のことをあげています。そして、会話の中にも、ヴルバとかルディなる人物が登場してきますが、収容所にはそのような名前の人物はいなかったのではないでしょうか。
A:そのとおりですが、「捏造」という言葉には強く反対します。この本はドキュメントではなく文学なのです。そして、若者を対象とした文学なのです。地下活動のすべての方法や、名前を変えなくてはならない理由を若者に説明すれば、混乱をまねくだけなのです。
さらに、私がドイツ的な名前を母国語的な名前に変えた理由も説明しておかなくてはなりません。これは、私が避けたいと思っているドイツ人に対する憎悪を読者に伝えてしまうからです。
言い換えれば、私は詩人の放埓さ、詩的放埓さを使って、若者たちが全体の状況を理解できるような事実と事件だけを本の中に書いたのです。
Q:それが、あなたにとっての詩的放埓さなのですね。
A:この特殊なケースでの詩的放埓さです。
Q:わかりました。
A:言い換えれば、わたしが行なわなくてはならなかったのは、ドキュメントを作ることではなく、真実を込み入らせることなしに、できるかぎり真実に近い状況を再現することだったのです。
Q:真実をこみいらせることなしにですか。ご自分が書いたことを認めている文章から引用してもかまいませんか。本書の序文をチェックしなくてはなりませんが。
A:はい。
Q:同じ序文か確認してください。
A:はい。
Q:この本について、「ここにはけんか腰の姿勢はまったくない。痛烈さは存在しても、それは、妄想によってではなく、否定し得ない事実によって注意深く抑制されている」とありますね。
A:痛烈さはどこに・・・ですか。
Q:違います。「痛烈さは存在しても、それは、妄想によってではなく、否定し得ない事実によって注意深く抑制されている」です。
A:まったくそのとおりです。痛烈さに関していえば、この法廷で、私が痛烈である、寛容であるか、そのことはまったく重要ではありません。私がアウシュヴィッツのガス室について正しい記述をしてようと、間違った記述をしてようと、この序文はアラン・ベスティック氏について書かれたものであるので、ベスティック氏の文学的才能に関しては、彼と個人的に話をしてください。
[ヴルバの「目撃した」ガス処刑の犠牲者176万人について]
Q:私は、事実についてあなたと議論することに関心を持っています。この本の中には否定し得ない事実が存在しているかどうかを知りたいのです。
A:この本は、アウシュヴィッツが大量殺戮の現場であったこと、私がそこにいるあいだに、176万人の男性。女性、子供たちが卑劣な方法で殺されたことを描いています。
Q:ガス室の中でですね。
A:ガス室およびその他の方法です。
Q:1つ質問があります。
A:話の腰を折らないでください。この意味で、この本は、当然にも、真実なのです。
Q:170万人がアウシュヴィッツではガス処刑されたと述べていますね。
A:170万ではなく、私のいたときには、176万人プラスです。私がいないときにも、多くの人々が殺されたはずですから。しかし、私は目撃者ではありませんので、その件についてはまったく語ることができません。
Q:あなたは175万人が…
A:私の計算では、176万5000人です。
Q:176万5000人が、あなたのいるあいだに、ガス処刑されたのですね。
A:はい。
Q:ここにはユダヤ人、キリスト教徒その他も入るのですね。
A:そのとおりです。
Q:当時あなたが提供した戦争難民局報告は、あなたがそこにいるあいだ、250万人がガス処刑されたと述べているのは真実ですか。
A:ここに戦争難民局報告があります。それはアメリカ合衆国大統領府から出ており、犯罪捜査特別局の印が付いています。
Q:私の間違えです。この質問を撤回します。
A:また間違えましたね。間違っていることを証明しましょうか。
Q:いいえ、結構です。間違いを認めます。
A:なぜならば、これによると…
裁判長:博士、ちょっと待ってください。弁護人は間違っていたことを認めています。弁護人が同じ質問を繰り返すのでなければ、それを証明する必要はありません。
A:わかりました。
Q:176万5000人といっていますね。
A:176万5000人です。
Q:わかりました。あなたはガス処刑を目撃したことがありますか。
A:私は176万5000人が焼却棟T、焼却棟U、焼却棟V、焼却棟Wのスペースに歩いていくのを目撃しました。このスペースはまったく閉ざされていました。そこから戻る道がまったくないところを、歩いていったのです。誰も、煙となる以外には戻ってきませんでした。
Q:その件について議論したいのですが、あなたの本の10頁では、少々異なっています。読み上げます。
「この装置は、3年間で250万人の男性、女性、子供たちを飲み込み、彼らを無害な黒煙としてはきだした。」
これで良いですか。
A:何頁ですか。
Q:私の本では10頁です。あなたのハードカバー版でもそのあたりでしょう。
A:クリスティ弁護人、これは単純な計算上の問題です。私は、1944年4月7日に逃亡しましたが、私が携えていたメッセージは、ハンガリー系ユダヤ人の大量殺戮の準備が整っているというものでした。このとき、100万のハンガリー系ユダヤ人がいました。利用可能な歴史資料からもわかりますが、1944年5月15日から7月7日のあいだに、少なくとも43万7000人のハンガリー系ユダヤ人が移送され、そのうち90%が到着するとすぐにガス処刑されました。
ですから、176万5000人に、私の逃亡以降にアウシュヴィッツに移送されてきたハンガリー系ユダヤ人の数、さらに、私の逃亡以降にウッチ・ゲットー、テレジン・ゲットーから移送されてきて殺戮されたことがわかっている多数のユダヤ人の数を足してみれば、私のあげている数字が、歴史記録にかなり近い真実であることがわかるはずです。
Q:ということは、別の資料から集めてきたことを事実として話しているのですね。
A:私の判断と、私の正確さ、私が目撃したことへの信頼、ハンガリーで起こったことについての知識にもとづいて話しているのです。私の親戚の多くもこの時期に死んでいます。そして、この時期の歴史記録を参照して、アウシュヴィッツでは250万人が死亡したとの結論に達したのです。この数字は真実にかなり近いということができますが、この真実は、最大10%の誤差を含んでいると思います。このことは本の末尾に明確に述べてあります。そして、1960年のアイヒマン裁判のときに、イスラエル大使館で、宣誓供述した供述書の中にも、述べられています。正確な文章を引用しましょうか。
裁判長:その必要はありません。
Q:あなたが250万人と見積もっているかどうかという簡単な質問なのです。あなたは、そう見積もっていると証言し、その理由も説明してくれました。もし、これ以上おっしゃりたいことがなければ、次の質問に進みたいと思います。
A:私がどのようにして250万人という数字に到達したのかについて、あなたは混乱させようとしています。陪審員はこの本を読んでいないからです。ですから、もう一度繰り返しておかなくてはなりません。この頁に書いたことは、私は、4月7日までに176万5000人がアウシュヴィッツで死亡したということ、そして、1944年までの私の数に、1944年5月、6月、7月に殺されたハンガリー系ユダヤ人40万人と、アウシュヴィッツで死亡した登録囚人35万人を加えて、250万人という数字が出てきたことです。
ですから、私の記憶、観察、考察によると、アウシュヴィッツの犠牲者数は250万なのです。それゆえ、私のアウシュヴィッツの死者数の見積もりと、アウシュヴィッツ所長ヘスの見積もりとは、まったく別個のもので、別々の方法を使っているのですが、結論は一致しているのです。全能の神にかけて、私が署名している供述書の中身は真実なのです。
あなたがばらばらにしてしまった話と、私がここで全体をお話した話には、どのような違いがあるのですか。
Q:あなたの数字はルドルフ・ヘスの数字と一致しているということでよいですね。
A:私の知るかぎりではそうです。私はヘスの数字を読んだことがありますが、彼と同じ結論に達しています。ヘスの計算方法、彼の考察方法は私とは異なっていますが、彼も私と同じ数字に達しています。しかし、私の数字は、ヘスがまだアウシュヴィッツ所長であった1944年4月に出されています。そして、この数字は、やはりヘスがまだアウシュヴィッツ所長であった1944年11月に、アメリカ大統領に届いています。ですから、私がヘスから剽窃したなどということはありえないのです。
Q:そうですね。あなたに賛成します。しかし、あなたの見積もりが、その2年後のヘスの見積もりと一致している点はどうですか。
A:ヘスが真実を知り、私も真実を知っていたからです。
Q:ヒルバーグ博士のような専門家がこの数字に異論を唱え、100万人ほどにしていること、ライトリンガー氏は、ビルケナウの場合ですが、80万人にしていることはどうですか。
A:ヒルバーグとライトリンガーの研究内容については説明できません。彼らは異なった研究方法を使っているからです。彼らは、価値のある十分な文書資料を持っていなければ、最終的な見積もりを出そうとはしません。歴史学の学問的方法に制約されているからです。一方、私の数字は目撃証言にもとづいています。
Q:ということは、あなたは176万5000人のガス処刑の目撃者であったということですか。
A:そうです。この点でヒルバーグとライトリンガーは過小評価していると思います。また、ヒルバーグもライトリンガーも、特別行動部隊がガス処刑ではなく銃殺したユダヤ人の数を140万人と見積もっていますが、3年前に、ドイツのクラウスニク教授の新しい研究を読んだことがあります。クラウスニク教授はケルン大学教授で、…研究所長ですが、生存者の証言ではなく、ドイツ軍将校の書簡いうドイツ側資料だけにもとづいて、特別行動部隊が殺戮したのは140万人ではなく、225万人であったとの結論に達しました。
ですから、ナチスが信じがたいほどの犯罪の痕跡を隠匿しようとしたのもかかわらず、今日の研究は、たえず進化して、真実に近づいているのです。
これは、ヒルバーグとライトリンガーに対する批判ではありません。優秀な研究者が、優秀な方法を使い、資料を検証すればするほど、正確な数字を算出することができるようになり、限られた文書資料の研究に時間を費やした研究者の数字よりも、観察にもとづいた私の数字に近づいていくのです。
Q:あなたの経験のほうが、知識よりも上に立っているということですか。
A:当然です。私はそこにいたのですから。
Q:すると、あなたは176万5000人がガス室に入っていくのを数えたのですね。
A:すでに2回申し上げました。