ヴラーソフのロシア解放軍について

 

歴史的修正主義研究会編・試訳

最終修正日200446

 

 ソ連時代には、独ソ戦でドイツ側に協力したソ連軍将軍ヴラーソフは、祖国の裏切り者として断罪されていたが、ソ連崩壊以降は、彼と彼の運動についても、歴史的評価が変ってきている。当研究会は、ロシア人による最近のいくつかの論稿・資料を、「ヴラーソフのロシア解放軍について」という題で編集・試訳した。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online:http://www.russia-talk.com/vlasov.htm

http://www.hrono.ru/dokum/1943vlasov.html

http://www.angelfire.com/wv/volk959/vlasovtsy.html

 

T ヴラーソフとロシア解放軍

 アメリカ合衆国ニューヨーク州のスプリング・バレー市のノヴォ・ヂヴェエヴォ・ロシア正教会女子修道院の美しい庭には、ロシア解放運動の参加者に対する記念碑がある。そこでは、19468月ルビャンカ監獄の拷問室の中で拷問にかけられ死亡したアンドレイ・アンドレエヴィチ・ヴラーソフ将軍と、ロシア国民の敵=国際共産主義との戦いの中で倒れた彼の同志に対する祈りが、長いあいだ毎年毎年捧げられてきた。

 ロシアの抑圧者すなわち共産主義者たちは、武器を手にして共産主義者と戦ったヴラーソフその他のロシア人に対して、1942年から、嘘と中傷を浴びせかけてきた。共産主義・マルクス主義の崩壊、民主化、私有化などという宣伝にもかかわらず、今日まで、ヴラーソフたちに対する嘘と中傷は拭い去られていない。共産主義者たちがヴラーソフを憎んでいることは十分に理解できる。ヴラーソフは、1918年に白軍が始め、今日にいたるまで、ソ連権力が存在している全期間を通じて中断されることのないロシア民族の戦いを続けようとしていたからである。かつて、レーニン・トロツキイといったロシアの裏切り者は、自分たちだけを救おうとしてロシアの半分をドイツに譲り渡し、ドイツと恥ずべきブレスト講和を結んだ。しかし、ヴラーソフたちはこの道を歩まず、ドイツ軍の捕虜となっても、ドイツへの服従ではなく、ドイツとの同等の地位にしっかりと立脚していた。ロシア解放運動とその指導者ヴラーソフの歴史は、「大祖国戦争」の歴史と同じように、ロシア国民に対しては、50年間にわたって、歪曲して伝えられてきた。だから、ここでは、ヴラーソフと194145年の戦争に関する事実を簡単に要約しておこう。

 アンドレイ・ヴラーソフは、190091日、ニジェゴロト県ロマキノ村で農民の息子として生まれた。彼の祖父は農奴であったが、父は子供たちに教育を受けさせようとした。ヴラーソフは、学校を終え、そして、聖職者学校に入った。

 ヴラーソフは、2月騒乱、10月騒乱のときには、聖職者学校4年生であった。多くのロシア人と同じように、彼はボリシェヴィキについてほとんど知らなかった。「農民小屋には平和を、邸宅には戦争を」、「奪われた物を奪い返せ」、「土地は農民に、工場は労働者に」といった、ボリシェヴィキの騒々しい、嘘の宣伝だけを知っていた。

 1918年、ヴラーソフは、ニジェゴロト大学に入学した。しかし、国は内戦の砲火にさらされており、学業どころではなかった。ボリシェヴィキが権力を握っているところでは、戦時共産主義が荒れ狂っていた。労働者は農民に、農民は労働者に敵対させられた。こうしたことすべてが、やがて到来するはずである輝かしい未来の名において行なわれた。そして、まず、当面の敵を清算しなくてはならないというのであった。このような敵となるのは、まず、ロシア国民全体、すべてのロシア人であることを理解していた人々は少数であった。

 1919年春、ヴラーソフは、赤軍に召集され、まもなく、将校養成課程に派遣された。4ヵ月後、彼はすでに南部戦線にいた。1920年初頭、中隊長となり、そのあとすぐに、師団参謀本部副官となった。若いヴラーソフは参謀という職務が気に入らなかったようで、まもなく、師団の歩兵・騎兵偵察隊の指揮官の職務に移った。

 内戦のあいだ、ヴラーソフは、彼と同世代の若者と同じく、輝かしい未来を目指す闘争に全力を注いだ。

 1923年、内戦が終了すると、赤軍は600万人から60万人に縮小した。師団は連隊となり、連隊は大隊となった。この結果、ヴラーソフは中隊長となり、彼の中隊はまもなく模範的な中隊となった。彼は、赤軍創設5周年に、銀時計を授与され、1924年には、4年制の第26歩兵連隊中隊学校の指揮官に任命された。

 1928年、ヴラーソフは指揮官養成高等歩兵戦術課程に派遣され、終了後に、連隊に戻って大隊長の職務についた。

 1930年、ヴラーソフは、レニングラート指揮官養成学校の戦術教官となり、全連邦共産党(ボ)の党員となった。同年、軍事学校教官養成課程に派遣された。そして、レニングラートですばらしい成果を挙げて、1933年まで、学校で、教導部隊指揮官補の職務についた。

 1935年、ヴラーソフは、レニングラート軍管区参謀養成学校指揮官補に任命された。このとき、レニングラート軍管区軍団長代理プリマコフとともに、軍管区を視察してみると、第4トゥルケスタン師団第11歩兵連隊が、非常に訓練不足であることが明らかとなった。ヴラーソフが事態の改善のために、連隊長に任命された。この連隊の訓練が行き届くようになると、ヴラーソフは、今度は第137歩兵連隊を任せられた。この連隊もまもなくキエフ軍管区で最優秀の連隊となった。その後、ヴラーソフは、第72師団指揮官補となった。

 1938年、キエフ軍管区司令官チモシェンコは、連隊長ヴラーソフを、軍管区参謀養成部長に任命した。だが、この1938年、ヴラーソフは、中国に派遣されていたチェレパノフ師団長の軍事顧問団参謀の職についた。193911月、ヴラーソフがソ連に帰国するにあたって、蒋介石は、中国軍の組織化に貢献した功績で、ヴラーソフに金龍勲章を与えた。

 この時期、赤軍の粛清が行なわれ、多くの幹部が失われたが、ヴラーソフは、内戦時代からよく知っていた幹部たちが人民の敵であるかどうか疑問を持つようになっていった。自分の村も含む農村で進行していた、富農の逮捕、飢餓、奴隷状態、コルホーズ監督者の専横も、こうした疑問をかきたてた。

 しかし、戦争が始まると、真のロシアの愛国者であったヴラーソフは、不安をふりはらって、軍隊の強化に全力を尽くした。

 193912月、ヴラーソフは第99歩兵師団長に任命された。9ヶ月間のあいだこの師団の訓練に力を尽くし、1940年秋には、彼の師団はキエフ軍管区最良の部隊となった。チモシェンコ元帥は、この師団をまじかに視察して、この師団こそが赤軍最良の部隊であると考えるようになった。師団には、3つの殊勲旗、すなわち、最優秀歩兵連隊旗、最優秀砲兵連隊旗、最優秀師団旗が授与された。国防人民委員部は、ヴラーソフに金時計を、政府はレーニン勲章を授与した。この時期、ロシア国内では、テロル、教会の破壊が荒れ狂い、逮捕と銃殺が頻繁に行なわれていた。

 1941年、ロシア国内では、大量テロル、迫害、国民的零落、飢餓が進行していた。このとき、ヒトラーの率いるドイツがソ連を攻撃した。戦争が始まると、ドイツは大量の宣伝攻勢を開始し、憎むべきソ連体制の犯罪性を数多く暴きたてた。飛行機は数百万のパンフレットを前線や後方地帯にばら撒き、共産主義と戦うために、ドイツに降服せよとロシア人に呼びかけた。ドイツ軍が戦っているのは、ロシア国民ではなく、共産主義体制であるというのである。

 ドイツの宣伝は燎原の炎のように広まった。ソ連軍兵士は数十万単位でドイツ側に寝返り始めた。ロシアの軍事史上初めて、ソ連軍の制服を着たロシア人兵士が、自発的に敵側に寝返っただけではなく、共産主義と戦うために、武器を与えてくれとドイツ側に要請したのである。ドイツの現場司令官たちは、ドイツの政治的指導部の真意を知らず、自分たちの宣伝を真に受けて、ソ連軍捕虜をドイツ軍に受け入れた。ソ連軍元帥や将軍たちの回想録には、この時期の戦争の実情が歪曲されて描かれている。しかし、ドイツ軍が成功を収めたのには、まったく客観的な原因があったのである。

 1941年の秋までに、ドイツ軍はヨーロッパ・ロシアのかなりの部分を占領し、モスクワから数kmのところにまで迫っていた。このときまでに、ドイツ軍に降服したソ連軍兵士は400万ほどに達していた。ソ連邦の余命はいくばくもないかのようであった。

 ヒトラーは、夏期攻勢の成功から、ソ連は崩壊し、自分の本当の目的、すなわち、独立国としてのロシア(ソ連邦ではなく)と民族としてのロシア人を解体するという目的を実行に移すときであると結論に達した。アルフレド・ローゼンベルクの東方占領地域省の計画には、ヨーロッパ・ロシアをドイツの植民地とし、ロシア人住民の大半を根絶し、残りをドイツ人入植者の奴隷とする計画が入っていた。ソ連邦が存続を許されたのは、ウラル以東とシベリア地域であった。この際、さまざまな非ロシア民族(ウクライナ人、ベラルーシ人、バルト諸族、カフカース人など)には何らかの特権が与えられることになっていた。ローゼンベルクとヒトラーは、自分勝手な思い込みから、非ロシア民族はロシア人から抑圧されてきており、喜んで、ロシア人と戦うであろうと確信していた。

 しかし、実際には、この計画は、捕虜の大量根絶と市民に対する略奪によって行なわれた。その多くが自発的に投降していたソ連軍捕虜は、鉄条網で囲まれた区画に押しこめられ、食事も与えられなかった。このような収容所での死亡率は、ソ連の強制収容所での死亡率よりも高かった。地元住民が、飢え死にしかかっているソ連軍捕虜に食事を上げようとすることもあったが、衛兵たちは彼らに発砲した。

 こうした政策の効果はてき面であった。ドイツ人のやり方についての噂はロシア各地にすぐに広まった。すでに1941年冬、ソ連軍は反撃し始めた。投降するソ連軍兵士の数は、急速に減っていった。ドイツ軍はモスクワからスモレンスクに後退したが、その功績の多くはヴラーソフによっていた。

 スターリンはスターリンで、ヒトラーの失策を全力で利用しようとした。1942年のプラカードに見られるように、ロシアの歴史を「ロシアはいつも打ち負かされてきた」という自分の有名な一節にまとめてきたそのスターリンが、突然、(マルクス、エンゲルス、レーニンの像ではなく)、わが国の先祖の像を使って国民を鼓舞し始めたのである。戦争当初から、ソ連の宣伝は、ロシア人がソ連という祖国のためには死地に赴かないことを知っていたので、この戦争を、共産主義や共産党のための戦争ではなく、外国の侵略者から自分たちの祖国を護るロシア国民の祖国戦争と描き始めた。開戦前夜までロシア的なるものすべてを中傷していた同じ宣伝家たちが、ロシア国民の偉大なる過去、栄光の軍事的伝統を語り始めた。軍隊には、将校の呼称や、内戦時代には廃止された将校の襟章が導入されるようになった。クトゥーゾフ勲章、アレクサンドル・ネフスキイ勲章、スヴォーロフ勲章、ドミートリイ・ドンスコイ勲章も導入された。国内ではロシア正教会がふたたび開かれ、生き残りの聖職者たちが収容所から急いで釈放され始めた。(実際には、1943年にスターリンが任命した)モスクワ「総主教」は、外国の侵略者と戦うように、ロシア人に呼びかけた。軍隊には、帝政ロシア時代の連隊名を持つ親衛連隊や親衛師団が創設され、ソ連の宣伝家たちは、数世紀の伝統を持つこうした連隊について、および、ドイツ人、スウェーデン人、フランス人、トルコ人といったロシアの敵に勝利を収めた栄光を記念する連隊旗の歴史について語り始めた。共産主義とマルクス主義は存続を停止したかのようであった。戦争は、祖国戦争、すなわち、歴史的なロシアのための戦いとして描かれ始めた。1941年夏には、多くの町や村の住民がドイツの宣伝を信じて、ドイツ軍をパンと塩で歓迎した。だが、19411942年の冬には、ドイツ軍の後方地帯で、パルチザン運動が燃えさかるようになった。パルチザンは道路を破壊し、ドイツ軍部隊を攻撃し始めた。赤軍の中では愛国主義的な宣伝が完全に成功を収めているとは考えられていなかったので、後方地帯には、軍や司令官の命令なしで退却する兵士に発砲する阻止部隊や、懲罰大隊が組織された。後者には、ちょっとした軍規違反を犯した兵士や将校が送られた。いうまでもないことだが、1000年のロシア軍の歴史の中で、このような二つの措置がとられたことは一度もなかった。

 ロシア愛国主義とドイツの自殺的政策にもとづく宣伝以外に、イギリスとアメリカがスターリンを助けにやってきた。短期間のあいだに、物資がソ連邦に供給された。なかでも、ソ連邦がとくに必要としていたのは、食料、トラック、燃料であった。

 この結果、すでに1942年夏、ドイツ軍の計画は頓挫し、ドイツ軍は19421943年の冬には、スターリングラートで大敗を喫した。1943年、ドイツ軍は前進できなかっただけではなく、クルスクでふたたび大敗を喫し、ソ連領から徐々に撤退し始めた。戦争は、祖国戦争となったことで、ドイツにとってまったく不利になっていったのである。

 ロシア解放運動は、戦争当初から始まっていた。もっといえば、運動は、ボリシェヴィキが権力奪取した日から中断することはなかった。20年代の大反乱以外に、193033年には、農民反乱が、オルロフ、ヴォロネシ、ゴリコフ地方で起り、騒動はロシア共和国各地で起った。ウラル、クズバス、ソルモフ、イヴァノヴォの工場では労働争議が起っていた。193339年には、強制収容所でも反乱が起った。

 ドイツ軍将校のあいだには、共産主義に勝利を収めるには誠実にロシア国民と同盟することが必要であると信じている本物の反共産主義者が多数存在していた。こうした将校たちは、自分たちの政策の正しさを近い将来にヒトラーとその側近たちに説得することができることを期待して、ロシアの反共産主義者たちをドイツ軍に引き入れようとしていた。こうした見解の持ち主は、下級・中級将校のあいだだけではなく、高級将校のあいだにも存在した。例えば、ブラウヒチ元帥は、ロシア国民と同盟して戦争を遂行することをヒトラーに進言して、職務を解かれている。

 こうしたドイツ軍将校たちは、ロシア解放運動の先頭に立つにふさわしいロシア人を探し求めていた。こうした人物がまもなく見つかった。1942年夏、ドイツ軍は、レニングラート近郊で、有名なソ連軍将軍ヴラーソフを捕虜にした。彼は、1941年のモスクワ防衛戦のときに、功績を挙げた将軍であった。ヴラーソフに対する最初の尋問で、彼がスターリンに反対していることが明らかとなった。また、ヴラーソフは、優秀な将軍として、ソ連軍でも有名であった。このために、ドイツは、彼にロシアの反共産主義運動の先頭に立つように要請した。

 戦争が始まったとき、ヴラーソフは第4機械化軍団長であり、そのために、ドイツ軍の最初の攻撃を引き受けることになった。彼は、開戦当初から、民衆が共産主義者=抑圧者に憎悪を抱いていることを知っていた。数千トンのドイツ側のビラにこたえて、赤軍兵士は数十万単位で、ドイツ側に寝返っていた。数千数万のロシア軍兵士が武器を捨てて、敵に寝返るようなことは、ロシア1000年の歴史の中で前代未聞のことであった。キエフ地方だけで、何と64万人の兵士と将校がドイツ軍に投降したのである。

 194111月、ヴラーソフはモスクワに召還された。モスクワはパニックに陥っていた。工場や施設は疎開し、老人や女性は塹壕と対戦車壕掘りに駆りだされ、党指導部は後方地帯に逃亡した。こうした中で、ヴラーソフは、第20軍を組織して、モスクワを防衛する任務を課せられた。

 ソ連軍元帥や将軍の回想録の中では、赤軍兵士と将校が自発的にドイツ軍に投降した事実については一言も触れられていない。武器、弾薬、食料の全面的不足だけが語られている(24年間にわたって、戦争の準備を整えてきた国で、どうしてこのような事態が生じたのであろうか。不可解である)。ジューコフ元帥の回想録は、モスクワ防衛戦について、第20軍のことには触れているが、その指揮官がヴラーソフであったことは「忘れてしまっている」。しかし、このヴラーソフこそが、ドイツ軍に対するモスクワ近郊での最初の戦略的意義を持つ勝利で重要な役割を果たし、ドイツ軍をルジョフに後退させたのである。ヴラーソフはこの作戦の功績で、赤旗勲章を授与され、中将に昇格した(19411213日の『プラヴダ』と『イズヴェスチア』を参照)。

 19423月、ヴラーソフは、メレツコフ将軍のヴォルホフ戦線副司令官に任命された。包囲下のレニングラートを解放するための戦線軍の一つが、包囲されていた。ヴラーソフはこの軍に飛行機で駆けつけ、クルイコフ将軍から指揮を受け継いで、最初の任務をはたした、すなわち狭い突破口(幅3km)を作り出した。だが、補充がなかったので、この突破口はふたたびドイツ軍によってふさがれた。軍は崩壊のふちにあった。

 ヴラーソフは、「総司令官」スターリンの指導こそが軍の破滅をもたらしたことを熟知していたので、ロシアの兵士たちは誰のために戦っているのだろうかと再度自問した。祖国のためなのか、それとも国民の首を締め付けている国際的な強盗団のためなのか。ヴラーソフが軍隊に誠実に奉仕してきたのは、軍隊に奉仕することで国民に奉仕していると信じていたためであった。しかし、この戦争の中で、国民の士気は、ロシアの軍事史上前代未聞なほど崩壊してしまっており、その雰囲気はヴラーソフもとらえていた。

 ヴラーソフは、自分のために送られてきた飛行機に乗って、包囲網から脱出し、破滅のふちにある軍隊を残酷な運命にゆだねてしまうことを拒否して、ドイツ軍に投降した。まもなく、彼は、バルト沿岸地方出身のドイツ人ヴィルフリード・カルロヴィチ・シュトリク=シュトリクフェルトと出会った。シュトリク=シュトリクフェルトは、帝政ロシア軍で大尉として勤務した経験を持ち、1941年の戦争のときには、ドイツ軍の通訳であった。彼は、ヴラーソフがドイツにいた全期間を通じて、ヴラーソフのもとにとどまった。

 ドイツ軍指導部が、国際共産主義というロシア国民の抑圧者に対するロシア国民の戦いを率いてくれないかと提案すると、ヴラーソフはこれに賛同した。ただし、ドイツと同等の立場でスターリンに反対する戦いを行なうためであった。ヴラーソフはロシア政府の設立をドイツに要求した。このロシア政府はドイツと同盟を結び、スターリンに勝利を収めたあかつきには、正統な独立ロシア国家を創設するはずであった。

 ヴラーソフとの交渉を開始したドイツ軍指導部は、袋小路に陥った。ヒトラーが、ロシアを植民地に、ロシア人を奴隷にしようとしていたことは良く知られていたからである。ヒトラーは『我が闘争』の中で、ロシア人を劣等人種と呼んでおり、彼にとって、そのロシア人と同等の立場で協力するなどとは問題外であったからである。

 したがって、交渉は一向に進まず、それは2年以上も停滞したままであった。ドイツ側がヴラーソフの条件に賛同するには、スターリングラートでのドイツ軍の崩壊、クルスクでの敗北、ソ連軍のドイツ国境への接近、アメリカ軍とイギリス軍のフランス上陸、日本軍の戦況の悪化、ヒトラー暗殺事件が必要であった。やっと19449月になって、ヒムラーは、ヒトラーに秘密で、ヴラーソフに2個師団だけの設立を許可した。当時、100万人ほどのロシア人がドイツ軍に協力していたことを考えると、これは大部隊ではなかった。だが、この師団はヴラーソフの要求どおりに設立された。師団長から個々の部隊長まですべてがロシア人で、ヴラーソフがすべての師団を指揮した。194411月、ロシア民族解放委員会が創設され、ドイツと同等の立場で、対ソ協定を締結した。

 19441114日プラハで、ロシア解放運動の綱領を明らかにする「プラハ宣言」が調印された。宣言の骨子は、ボリシェヴィズムの打倒、市民が自由に生活・労働できる正統なる国家としてのロシア国家の創設であった。14か条の宣言の一つは、戦争の中止とドイツとの名誉ある講和の締結であった。ヴラーソフは、未来のロシアとドイツとの同等の立場を達成したのである。

 ドイツ側がヴラーソフを信用していなかったとすれば、ヴラーソフもドイツ側を信用していなかった。ヴラーソフは、実際に戦争に勝つことだけがドイツ側を譲歩させることができることをよく理解していた。ヴラーソフは、義勇兵との会話の中で、「ロシアまではドイツ軍と一緒に、ロシアではわれわれ自身で」と繰り返し語っていた。ヴラーソフと彼の側近は、ドイツ人は明らかな敵であり、一方、共産主義者は内なる「自分たち」の敵であるがゆえに、ドイツ人に対処するほうが、単純かつ容易であると確信していた。

 しかし、すべては遅すぎた。1944年秋には、連合軍がすべての方向から、ドイツ国境に迫っていた。アメリカ軍とイギリス軍の航空隊が、ドイツの後方地帯を崩壊させていた。

 にもかかわらず、ヴラーソフは、ロシア解放軍の最初の2つの師団の組織化に着手した。ロシア解放軍指導部は、スターリンとヒトラーによって憎むべき共産党権力を守ることを強いられているソ連軍の制服を着たロシア人を自分たちの側に引き寄せるには、少ない兵力でも十分であると考えていた。

 このことは、第1師団が19454月(すなわち、何とドイツの降服の1ヶ月前)に、オーデル河畔の東部戦線に姿を現したときに、明らかとなった。ソ連軍兵士は、自分たちのまえにいるのがロシア解放軍であることを知るやいなや、ドイツの敗戦が不可避であることがわかっていたにもかかわらず、ロシア解放軍側に寝返ったのである。彼らは、スターリンと戦うために、ドイツ軍ではなく、ロシア解放軍のもとに駆けつけてきたのであった。

 ヴラーソフと彼の側近は、イギリスとアメリカは、ヒトラーとの決着をつければ、今度は共産主義に対して戦い始めると考えていたが、それはあまりにもナイーブすぎた。このために、第1師団は勢力温存のために、戦線を放棄して、設立されたばかりのロシア解放軍第2師団と合流しようとした。チェコで、師団は合流したが、このときドイツが降服した。ロシア解放軍部隊はソ連軍の捕虜となるか、アメリカ軍の捕虜となった。ソ連軍の手に落ちたヴラーソフ軍兵士は、スメルシュと内務省の部隊によって、容赦なく銃殺された。アメリカ軍の手に落ちたヴラーソフ軍兵士は、当初は抑留されていたが、その後、強制的にソ連邦に引き渡され、スターリンの復讐の対象となった。ヴラーソフ自身とロシア解放軍の指導者も引き渡されて(ジューコフの回想録にはこれについて数行の記述がある)、1946年に、ルビャンカ監獄で拷問を受けたのちに殺された。

 こうして、ロシア国民の抑圧者=国際共産主義に対するロシア国民の戦いのもう一つの段階が終わった。内戦の時期の白軍の運動と同じく、ドイツ軍やロシア解放軍の隊列の中でこの戦いに参加したロシア人は、自分たちの抑圧者たちが愛国主義と祖国の擁護者という仮面のうしろに隠れているときであっても、ロシア人が自分たちの抑圧者に対してどのような態度をとっているのかを全世界に知らしめることによって、ロシア国民の誠実さをしっかりと明らかにしたのである。彼らの思い出は、世代から世代へと受け継がれるであろう

 

 

U 私はなぜボリシェヴィズムとの戦いの道に立つようになったのか?

ア・ア・ヴラーソフ

 

19433月。

 私は、スターリンとその取り巻きに対する戦い、ボリシェヴィキと資本家のいない新しいロシアの建設を目指す戦いに決起するように、すべてのロシア人に呼びかけるにあたって、ここで、自分の行動の意義を説明しておかなくてはならないと思う。

 私はソビエト権力に悪感情を抱いたことはない。私は農民の息子であり、ニジェゴロト県で生まれ、高等教育を受けた。民衆革命を受け入れ、農民には土地を、労働者にはよりよき生活を、ロシア国民には輝かしい未来を約束する戦いのために、赤軍に入隊した。そのときから私の人生は赤軍と切っても切れない関係となり、24年間にわたって赤軍に勤務してきた。私は、兵卒から司令官の道を進んだ。中隊、大隊、連隊、師団、軍団を指揮した。レーニン勲章、赤旗勲章、労農赤軍20年章を授与された。1930年からは、全連邦共産党(ボ)党員であった。

 そして今、ボリシェヴィズムに対する戦いの道に入り、すべての民衆――私は民衆の息子である――に対して私に続くように呼びかけている。

 なぜなのか。私の呼びかけを読んだ人ならば誰もが抱く疑問であろう。そして、誠実に答えておかなくてはならない。内戦時代に、私が赤軍の隊列の中で戦ったのは、革命がロシア国民に土地と自由と幸福を与えてくれると信じていたからであった。

 私は赤軍司令官となると、灰色の軍服を身に着けたロシア人労働者、農民、インテリゲンツィアからなる兵士と将校のあいだで暮らした。彼らの考え方、思い、心配、重荷を知っていた。自分の家族、自分の村との結びつきを断てずに、農民が何をしているのか、どのように暮らしているのかを知っていた。

 そこで気がついたのは、ボリシェヴィキが勝利しても、ロシア国民は内戦時代に目標として戦ったことを何一つとして手に入れることができなかったということであった。労働者がどれほどつらい生活を送っているのか、農民がどのようにして強制的にコルホーズに押しこめられたのか、数百万のロシア人が裁判・審理なしで逮捕され、どのようにして死んでいったのかを見てきた。

 政治人民委員制度は赤軍を解体してしまった。責任のなさ、監視、密告のために、指揮官たちは、民間人の服か軍服を着た党官僚の操り人形となってしまった。

 19381939年、私は、蒋介石の軍事顧問として中国にいた。ソ連邦に帰国してみると、赤軍の上層部が、スターリンの命令で何の根拠もなく、殺されてしまっていた。元帥も含む数万のすぐれた将校たちが逮捕され、銃殺された。もしくは、強制収容所に収容されて、永遠に姿を消した。テロルが軍隊だけでなく、国民全体に襲いかかった。この災難を逃れることができた家族は存在しなかった。軍隊は弱体となり、国民は、スターリンによる戦争準備を知って、未来を恐れおののきながら眺めていた。

 私は、ロシア国民がこの戦争では膨大な犠牲者を生み出さざるをえないことを予期して、赤軍の強化に全力を尽くそうとした。私の指揮する第99師団は、赤軍の中で最優秀と認められるまでになった。そして、私にゆだねられた部隊に配慮し、彼らを訓練することによって、スターリンとその取り巻きの振る舞いに対する怒りの感情を抑えようとつとめてきた。

 ここで戦争が勃発した。私は第4機械化軍団長の職務についた。兵士として、また祖国の息子として、自分の職務を誠実に果たさなくてはならないと考えていた。私の軍団は、ペレムイシリとリヴォーフで敵の攻撃を受け、それに持ちこたえて、攻勢に出る準備までしていたが、私の提案はしりぞけられた。戦線司令部は政治人民委員の統制のために、優柔不断であり、混乱していた。この結果、赤軍は数多くの敗北を喫してしまった。

 私は部隊をキエフに差し向けた。ここでは、第37軍司令官、キエフ市守備隊司令官という困難な職務についた。わが国は、二つの理由から戦争に負けつつあることが見てとれた。すなわち、ロシア国民はボリシェヴィキ権力と圧政を守るために戦おうとはしないこと、軍は無責任状態におちいっており、大小の政治人民委員が軍事活動に干渉していることであった。

 この困難な状況の下で、私の部隊はキエフ防衛に従事し、2ヶ月間にわたって、ウクライナの首都の防衛に成功した。しかし、治癒されていない赤軍の病の効果があらわれた。前線は各個に突破され、キエフは包囲された。私は、最高司令部の命令で、防衛強化地区を放棄せざるをえなかった。

 包囲から脱出すると、南西方面軍司令官補、ついで第20軍司令官に任命された。モスクワの運命を決定する困難な状況の下で、第20軍を組織しなくてはならなかった。私は首都防衛に全力を尽くし、第20軍はモスクワへの攻撃を退け、今度は、みずからが攻勢に移っていった。第20軍はドイツ軍の前線を突破し、ソルネチノゴルスク、ヴォロコラムスク、シャホフスカヤ、セレダなどを奪取し、モスクワ戦線に従事していた全部隊が攻勢に移ることを保証して、グジャツカに迫った。

 モスクワをめぐる決定的な戦いのとき、私は、後方地帯が前線を助けていることを知った。しかし、この後方地帯の労働者や住民は、前線の兵士と同じように、自分たちが祖国を防衛していると考えているがゆえに、そのように行動したのであった。祖国のために、すべてを犠牲にして、数多くの苦難が経験された。ここでふたたび、私は、祖国という神聖なる仮面をかぶったボリシェヴィズムのために、ロシア国民の血が流されなくてはならないのか、といういつもの問題を自問せざるをえなかった。

 私は、ヴォルホフ戦線司令官補、第2突撃軍司令官に任命された。この軍の指揮系統は中央集権化されており、総司令部の手に握られていた。しかし、その実態を誰も知らず、関心も抱いていなかった。命令が矛盾していることもしばしばであった。軍はまさに崩壊のふちにあった。

 兵士と将校は日に100g、ひいては50gの量の乾パンを週ごとに受け取っていた。彼らの身体は、飢えのためにむくんでいた。最高司令部が送りこんだ沼地を進むこともできない兵士も多かった。しかし、全員が献身的に戦い続けた。ロシア人は英雄として死んでいった。では、何のためであったのか。何のために彼らは命を捧げたのか。何のために死ななくてはならなかったのか。

 私は最後の瞬間まで、兵士と将校と一緒に残った。われわれは一握りになってしまった。しかし、最後まで兵士としての義務を遂行した。私は包囲網を突破して、1ヶ月ほど、森と沼地に身を隠していた。しかし、さらに、疑問が頭をもたげてきた。これ以上ロシア国民の血が流され続けなくてはならないのか。戦争を続けることはロシア国民の利益にかなっているのか。何のために、ロシア国民は戦っているのか。

 私は、ロシア国民がボリシェヴィキによって戦争に引き込まれたのは、自分たちには関係のない、イギリスとアメリカの資本家たちの利益のためであることを明瞭に理解した。イギリスはいつもロシア国民の敵であった。イギリスはいつもわが祖国を弱体化しようとし、害をもたらしてきた。しかし、スターリンは、イギリスとアメリカの利益を図ることで、世界支配という自分の計画が実現できると考えていた。この計画を実現させるために、スターリンはロシア国民の運命をイギリスの運命と結びつけ、ロシア国民を戦争に引き入れ、彼らに数多くの災禍をもたらした。こうした戦争の災禍は、わが国の諸民族が25年間のボリシェヴィズム支配のもとで経験したすべての苦難の完成である。

 これ以上血を流すのは犯罪ではないだろうか、ボリシェヴィズム、とくにスターリンはロシア国民の第一の敵ではないだろうか。誠実なロシア人であれば、スターリンとその取り巻きに対する戦いに立ち上がることは、第一の聖なる義務ではないだろうか。

 森と沼地の中で、私は、ボリシェヴィキ権力の打倒のための戦い、ロシア国民のために平和をもたらす戦い、ロシア国民には必要のない流血の戦争を中止するための戦いに決起するよう、ロシア国民に呼びかけることが自分の責務であるとの結論に達したのである。

 

 

V 第二次大戦中のロシア人対ドイツ軍協力者

 

1941年秋、ボック元帥は、20万人のロシア人義勇兵から解放軍を創設し、スモレンスクにロシア政府を設立する計画案をヒトラーの司令部に送った。この案は、194111月に、「このような考え方を総統にはかることはできない」との決定をつけて、戻された。カイテル元帥がこれに署名していた。彼はこの案をヒトラーに見せようともしなかった。

 

ヒヴィ(Hiwi

 同じ頃の1941年秋、東部戦線のドイツ軍司令官の多くは、ソ連軍脱走兵、解放された捕虜、地元住民の志願者を、補助部隊や補助業務に自分のイニシアティブで受け入れるようになっていた。最初、彼らは「われわれのイヴァン」と呼ばれていたが、その後、「協力を志願する人々」を意味するドイツ語の単語Hilfswillige(自発的協力者)略称Hiwiと正式に呼ばれるようになった。

 彼らは、後方地帯の物資の護衛、運転手、馬番、料理人、倉庫番、現場作業員などに使われた。この実験は、ドイツ人の期待を上回る成果をあげた。1942年春には、ドイツ軍の後方部隊には、20万を上回るヒヴィが雇われており、1942年末には、ある見積もりでは、その数は100万に達していた。

 したがって、1942年末にはヒヴィは、東部戦線のドイツ国防軍のほぼ4分の1を占めていたことになる。例えば、スターリングラートの戦いの時期、パウルスの第6軍には約52000名がいた(194211月)。スターリングラートの3つのドイツ師団(第7176267歩兵師団)では、「ロシア人」(ドイツ人はソ連市民すべてをロシア人と呼んでいた)が、ほぼ半分を占めていた

 「ライプシュタンダルト・アドルフ・ヒトラー」、「トーテンコップフ」、「ダス・ライヒ」といった武装SSのエリート師団では、19437月(クルスクの戦い)の時点で、ソ連市民は58%を占めていた、

 ちなみに、戦争直後、ソ連文学の権威でノーベル文学賞受賞者のミハイル・ショーロホフは、『人間の運命』という小説を書き、それは、ソ連邦で大量に出版され、ソ連の学校の授業にも取り入れられているが、この小説の主人公アンドレイ・ソコロフは、ヒヴィであった。この際、彼は肯定的な人物として描かれている。

 

ロシア解放国民軍、国民軍、ロシア民族国民軍

 ロシア人義勇兵の最初の部隊は、194142年の冬にブロニスラフ・カミンスキイが設立したロシア解放国民軍であった。(ちなみに、この時期、有名なヴラーソフ将軍は、モスクワ近郊でドイツ軍と英雄的に戦っていた。)

 ロシア解放国民軍の土台となったのは、ブリャンスク地方のロコチ市長イヴァン・ヴォスコボイニコフが創設した「市民軍」であった。19421月に、ヴォスコボイニコフはソ連のパルチザンによって殺されたが、そのときまでに、自分たちの町や村を守るための400500名の部隊の組織化に成功していた。

 ヴォスコボイニコフの死後、部隊を率いたのはブロニスラフ・カミンスキイであった。彼は、1903年にペテルブルクで、ドイツ人の母親とポーランド人の父親とのあいだに生まれ、化学技師であったが、刑法58条違反で、5年間の収容所送りを経験していた。

 1943年中頃には、カミンスキイの指揮する部隊は、5連隊10000名の兵士からなっており、24両のT-34戦車、戦利品の大砲36門を持っていた。ドイツ人は、この部隊を「カミンスキイ隊」と呼んでいた。19447月、この部隊は、「突撃隊−ロシア解放国民軍」として武装SSに編入された。同時に、カミンスキイは、ナチス党員ではなかったけれども、SS少将という肩書きを得た。

 まもなく、この部隊は、武装SS29歩兵師団(第1ロシア人師団)と改称した。19447月、師団の部隊が、ワルシャワ反乱の鎮圧に参加し、かなり残酷な振る舞いをした。819日、カミンスキイと彼の側近たちは、裁判・審理なしでドイツ軍に射殺された。武装SSロシア人師団の兵士が、二人のドイツ娘を強姦して、殺したとの理由であった。ドイツ人は、ロシア人SSの反乱を恐れて、ポーランド人パルチザンがカミンスキイを殺したと説明していた。

 ロシア解放国民軍と同じ頃、ベラルーシで、ギリ・ロヂオノフの国民軍が、1941年末に、スモレンスクの近くで、ロシア民族国民軍が創設された。

 1943年、ギリ・ロヂオノフ(ソ連軍中佐)がふたたびソ連側につくと、ドイツ軍は彼の国民軍を解散した。ボヤルスキイ(ソ連軍中佐、師団長)の部隊として知られていた後者も、1943年末に解散させられた。

 

東部部隊(オストレギオン)

 ドイツ政府上層部は、ソ連市民であるが非ロシア人の義勇兵から構成されるいわゆる東部部隊の創設にははるかに好意的であった。

 すでに19411230日には、最高司令部は、トゥルケスタン部隊(トゥルクメン人、ウズベク人、カザフ人、キルギス人、タジク人義勇兵)、カフカース回教徒部隊(アゼルバイジャン人、ダゲスタン人、イングシ人、チェチェン人)、グルジア部隊(グルジア人以外には、オセット人、アプハジア人)、アルメニア部隊の創設を命じた。19421月には、ヴォルガ・タタール部隊が設立された。カルムイク連隊も存在し、いくつかの部隊がソ連の後方地域で活動した。

 これは非常に奇妙な事態であった。ヒトラーは、トルコ人=非アーリア人部隊、ひいてはカルムイク人=モンゴロイド人部隊の創設をやすやすと認める一方で、ロシア人=アーリア人からなるドイツの同盟軍の創設に強く反対し続けたからである。ロシア人の多くはソ連政府に対して戦うことを願っていたが、そのロシア人をヒトラーが病理学的ともいえるほど嫌悪していたことが、対ソ戦争の敗因となった、と多くの人々が考えている

 東部部隊は個別的に、大隊や中隊単位で使われた。例外は、19435月に設立された第162トルコ人歩兵師団であった。ドイツ人(将校の大半と下士官)、トゥルクメン人、アゼルバイジャン人で構成されたこの師団は、そのドイツ人司令官の言葉によると、「通常のドイツ軍師団よりも優秀であった」。

 

カザーク

ドイツ人は、カザーク固有の国家の創設は支持していなかったけれども、とくにカザーク(スラヴ人ではなく、ゴート族の子孫とみなしていた)に共感を寄せていた。

 カザークは、すでに18世紀、フリードリヒ大王の時代に、ドイツ軍に勤務していた。第一次世界大戦のときには、ドイツ人はドン・カザークの保護国の創設も計画し、カザークの分離主義者を軍事的に支援した。だが、これはエピソードにとどまってしまった。

 第二次世界大戦では、はるかに大きな支援となった。1942年夏、ドイツ軍がドン軍管区のほぼ全域を占領するとすぐに、カザークの義勇兵が駆けつけてきた。当初、カザークは赤軍捕虜の監視にあたった。その後、カザーク人部隊はドイツ国防軍第40戦車軍団に編入され、指揮官はザヴゴロドニイ大尉であった(その後、第1級鉄十字章を授与された)。数週間後、捕虜監視部隊は前線に送られた。

 1941822日、スモレンスクの近くで、コノノフ少佐が、彼の指揮する連隊(第155歩兵師団第436歩兵連隊)の数百の兵士を率いてドイツ軍に投降した。カザークのコノノフは、フィンランド戦争の経験者で、赤旗勲章を授与されており、フルンゼ大学に進み、1927年からボリシェヴィキ党員であった。

 ドイツ軍の前線司令部は、妨害工作・偵察目的で、脱走兵と捕虜からの志願兵でカザーク人部隊を組織することをコノノフに許可した。コノノフは、シェンケンドルフ将軍の許可を得ると、ドイツ側に寝返った8日後に、モギリョーフの捕虜収容所を訪れた。そこで、スターリン主義との戦いを呼びかけると、4000名以上の捕虜がそれに賛同した。ただし、カザーク人部隊に登録されたのはその(80%がカザーク)内の500名だけで、残りは待機するように命じられた。その後、コノノフは、ボブルイスク、オルシャ、スモレンスク、プロポイスク、ゴーメリの捕虜収容所を訪れ、同じような成功を収めた。

 1941919日までに、カザーク人連隊には77名の将校と1799名の兵士が登録されていた(うち60%がカザークであった)。連隊は第120カザーク連隊と呼ばれた、しかし、19431月には、連隊は、2000名の兵で構成されており、さらに翌月には1000名の到着が予定されていたにもかかわらず、第600カザーク人大隊と改称された。この補充によって、第17カザーク人戦車大隊が創設され、この部隊は、第3軍の一員として前線で戦った。

 19424月、ヒトラーは、カザーク人部隊をドイツ国防軍の中に組織することを公式に許可した。これらの部隊はきわめて急速に組織された。しかし、将校の大半はカザークではなく、ドイツ人であり、多くの場合、カザーク人部隊は、パルチザンとの戦いのためのドイツ人治安師団にはりつけられた。

 1943年夏、ドイツ軍最高司令部は、パンヴィッツ大佐の指揮のもとで第1カザーク師団を組織した。それは、2つのドン・カザーク連隊、2つのクバン・カザーク連隊、1つのテレク・カザーク連隊、1つのシベリア・カザーク連隊、1つの混成補充連隊、計7連隊から構成されていた。彼らの軍装はドイツ流であったが、特徴のある袖章をつけていた。

 19439月、ドイツ軍最高司令部は、この師団をパルチザンとの戦いのために、ユーゴスラヴィアに派遣した、ここでは、白系ロシア人亡命者とその子供たち15000名の兵士から構成されるロシア防衛兵団が、ユーゴスラヴィアのパルチザン=共産主義者に対して戦っていた。

 194412月、パンヴィッツの第1カザーク師団は2つの騎兵師団からなる第15カザーク軍団に改組された。25000名ほどの兵士からなり、武装SSに編入されていた。この頃までに、カザークは、もっとカザーク風な制服を着用する権利を獲得しており、カザーク軍団のカザーク人将校も、ドイツ人将校もSSの記章をつけてはいなかった。

 19441226日、ホルヴァート・ハンガリー国境地帯で、武装SS15カザーク騎兵軍団が、1943年以来はじめて、ソ連軍との戦闘に入った。

 戦争末期には、軍団(2つの騎兵師団、クバン・カザーク前哨部隊)の兵力は、35000ほどであった。

 1943年から、いわゆるカザーク・スタンというカザーク人部隊も存在し、1944年中頃には、2つのカザーク歩兵師団、2つのカザーク騎兵連隊が北イタリアに配置されていた。戦争末期には、18000名の兵士がいた。

 これ以外にも、さまざまなカザーク人部隊(中隊から連隊まで)が、194345年に、ベラルーシ、ウクライナ、フランスに駐屯していた。

 ドイツ側にたって戦うか、ドイツ軍に勤務したのは、カザーク人を自称する約250000名の軍人たちであった。

 

東方部隊(オストトルッペン)

 19421213日、陸軍中央司令部は、東方部隊監察官の職務を設置した。ソ連市民から作られた軍事組織すべてがその管轄下に入った。19435月、東方部隊には次のような部隊があった。

 

    10連隊:6カザーク人連隊、2カルムイク人連隊、1トゥルケスタン人連隊、1東方連隊

    170大隊:63東方大隊、30トゥルケスタン人大隊、21カザーク人大隊、12アゼルバイジャン人大隊、12グルジア人大隊、10ウクライナ人大隊、9アルメニア人大隊、5北カフカース人大隊、4ヴォルガ・タタール人大隊、4エストニア人大隊

    221中隊:104東方中隊、45トゥルケスタン人中隊、18グルジア人中隊、12アゼルバイジャン人中隊、11アルメニア人中隊、11カザーク人中隊、9ウクライナ人中隊、6北カフカース人中隊、4ヴォルガ・タタール人中隊、2ラトヴィア人中隊、1エストニア人中隊、1リトアニア人中隊

 

19435月の時点で、これらの部隊には20万のソ連市民が勤務していた。ちなみに、ドイツ国防軍、武装SSの師団に勤務しているヒヴィ、補助警察部隊に勤務しているヒヴィは、東方部隊とは関係がなかった。

「東方」(連隊、大隊、中隊)という呼称に関していえば、1943年には、ロシア人とベラルーシ人から構成される部隊もそのように呼ばれた。この呼称が選択されたのは、ヒトラーを怒らせないためであったにちがいない。

 

武装SSの中のロシア人、ベラルーシ人、バルト沿岸諸族

 武装SSの中には、ウクライナ人師団、ロシア人師団、ベラルーシ人師団、エストニア人師団、二つのラトヴィア人師団が存在したことだけを指摘しておく。

 

ヴラーソフ軍

 1942年夏にドイツ軍の捕虜となったヴラーソフ中将は、ボリシェヴィズムに反対し、独立ロシアを目指す戦いのためのロシア解放軍を組織しようとしていた。ナチスは、独立ロシアの設立を渋っていたために、ヴラーソフの活動を認めようとはしなかった。

 例えば、19434月、カイテル元帥は、ヴラーソフをその「厚顔きわまる発言」ゆえに捕虜収容所に戻す命令を出している。「厚顔きわまる発言」を繰り返した場合には、ヴラーソフをゲシュタポに引き渡せというのである。カイテルの命令書はこう述べている。

 

「総統は、いかなる状況においてもヴラーソフの名前を耳にしたいとは思っておられない。純粋なプロパガンダ作戦においても、それを実行するにあたってはヴラーソフの名前は必要であるが、彼個人は必要ではない。」

 

 すなわち、ナチスは、ヴラーソフ将軍の名において、赤軍の兵士と将校に対して、ドイツ側に寝返って、ロシア解放軍に加入するように呼びかけはしたが、その解放軍自体を組織しようとはしなかったのである。1943年以降ドイツが許可したのは、ドイツ国防軍に勤務するロシア人がアンドレイ旗(帝政ロシアの軍旗)の袖章、青い対角線上の十字架をつけた白いワッペンをつけることだけであった(ロシア帝国の白・青・赤の国旗は認められなかった)。一方、ドイツ国防軍や武装SSに勤務する外国の義勇兵は、それぞれの国旗をかたどった袖章をつけていた(ウクライナ人、アゼルバイジャン人、グルジア人、アルメニア人など)。

 アンドレイ旗の袖章にはロシア解放軍のイニシアルもついていたが、この当時、ヴラーソフ将軍は、この袖章をつけた兵士を一人も指揮していなかった。

 さらに付け加えておけば、1943年、「東方部隊」の兵士が大量にソ連側に寝返っているとの報告を受けたヒトラーは、「東方部隊」の各民族の将校をドイツ人将校と交替させた上で、東方の義勇兵部隊をフランス、デンマーク、ノルウェー、イタリアに派遣するように命じた。(ただし、この命令は完全には実行されなかった。)

 連合軍がノルマンディに上陸すると、東方部隊の兵士が大量に(大隊まるごと)、投降した。連合軍と戦う兵士たちもいたが、それは、捕虜となれば、スターリンに引き渡されると考えていたためであった。

 この1944年中頃までにナチス政府は、事態がまったく楽観できないことを理解し始めた。1944916日、SS全国指導者ヒムラーは、ヴラーソフ将軍を招待した。ヴラーソフはヒムラーが、10のロシア人師団の創設を許可してくれたと、ヒムラーとの会談ののちに側近に語っている。しかしまもなく、彼は、3つの師団だけの創設を認めるとの電報をヒムラーから受け取った。

 ロシア解放軍各師団の組織化が始まったのは、終戦の半年前、194411月のことであった。急いで、2つの機械化師団、補充大隊、工兵大隊、いくつかの士官学校が創設された。総数約50000名であった。

 ロシア解放軍第1師団(第600戦車・歩兵ロシア師団)は、ブニャチェンコ将軍の指揮下で、19452月までに戦闘能力を持つようになった。19454月に、前線に派遣された。

 ロシア解放軍第1師団(第650戦車・歩兵ロシア師団)は19451月に組織され始めたが、終戦までに戦闘能力を持つにはいたらなかった。

 パンヴィッツの第15カザーク軍団とロシア防衛兵団も形式上ロシア解放軍に編入されたが、実際にはヴラーソフ軍に入らなかった。正確にいえば、間にあわなかった。

 かくして、実際のヴラーソフ軍の軍事行動は、次のようなものであった。

 ブニャチェンコ師団は、フランクフルト・アム・オーデル地方にあったソ連軍のオーデル河畔橋頭堡の攻撃を命じられた。1945413日、攻撃が失敗すると、ブニャチェンコは自分の部隊に退却を命じ、数日後、師団はチェコ国境に向かった。途中、ロシア人捕虜や労働者が合流したために、国境に迫った4月末には、12000名ではなく、20000名となった。

 194555日、プラハ蜂起が始まった。チェコ人は、アメリカ軍とソ連軍にラジオ放送で支援を呼びかけた。だが、西側連合軍はクレムリンと協定を結んでおり、チェコスロヴァキアはソ連圏に引き渡されることになっていたので、アメリカ軍はプラハにはやって来なかった。ソ連軍は、まだプラハから遠く140200kmのところにいた。

 結局、チェコ人はブニャチェンコに呼びかけた。56日朝、ロシア解放軍第1師団はプラハでの戦闘に突入し、その日の夜までに、SS部隊からプラハを解放した。57日、ヴラーソフ軍は、プラハを再占領しようとしたSS部隊を撃退した。その夜、師団は、ソ連軍との遭遇を避けるために、プラハを離れた。

 194559日、ブニャチェンコ師団は、アメリカ軍の占領するチェコの村で、武器を棄てた。512日、アメリカ軍将校は、チェコ領はすべてソ連軍に引き渡され、ロシア解放軍師団はアメリカ軍占領地域に移動することは許されないとブニャチェンコに伝えた。ブニャチェンコは師団を解散し、兵士たちに、個人的にアメリカ軍占領地域に脱出するように提案した。しかし、ヴラーソフ軍の大半は、逃亡中にソ連軍に逮捕されるか、殺され、残った兵士もアメリカ軍によってソ連に引き渡された。

 

 結局、東方部隊、武装SS師団、カザーク人部隊、ヒヴィ、補助警察の中で、スターリンに対して、もしくはドイツ側にたって戦った(もしくは協力した)ソ連市民の合計は150万から200万人であった。ヴラーソフ将軍の指揮する実際のヴラーソフ軍が、ソ連軍との戦闘に参加したのは一度だけであった。

 

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