試訳:告発!戦勝国の犯罪

フリーダ アトリー

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2007年3月30日

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Freda Utley, The High Cost of Vengeance, Chicago, 1949の第7章Our Crimes against Humanity(「われわれの人道に対する罪」)を「告発!戦勝国の犯罪」と題して試訳したものである。(文中の赤字マークは当研究会が付したものである。)

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

online: http://vho.org/GB/Books/thcov

 

目次

連合国の虐殺行為

ダッハウの暗黒裁判

略奪と追放

 

 

<連合国の虐殺行為>

ニュルンベルク裁判によって告発され、死刑・終身刑を宣告されたドイツ人による人道に対する罪など、戦争末期のロシア軍によるレイプ、殺戮、略奪、今日の東側地区でのテロル、奴隷化、飢餓、強盗、ポーランド人とチェコ人が行なった虐殺行為に較べれば、程度の比較ではなく、規模の比較だとすれば、些細なもののようである

 ドイツ人は、われわれがやったほど多数の民間人を殺戮することができなかったし、われわれが無差別都市爆撃で行なったほどの虐殺行為をすることもできなかった。だから、西側地区の荒れ果てた町を通れば、われわれがドイツ人を裁いたのが奇妙で恐ろしいことであったことに気がつくはずである。われわれはドレスデンの非軍事目標を空爆し、ロシア軍の進撃から西側に逃亡していた難民のあふれる無防備文化センターに無数の爆弾を落とすことによって、一晩で25万人ほどの人々を、身の毛もよだつほど恐ろしい死に追いやってしまった。果たして、ドイツのガス室はこうしたわれわれの行為よりも邪悪な人道に対する罪だったのであろうか? われわれは、われわれの目標が民間人の殺戮であると公言していたので、この虐殺行為は最大の戦争犯罪であった。われわれは、燃え上がる町を逃れて、田舎に逃げ込もうとしている女子供に対して、空から銃弾を浴びせたのである

 ドレスデンは、軍需工場があったわけでも、「軍事的な重要性」を持っていたわけでもないが、この町に対する空襲は、そうした町の人々に対してわれわれがもたらした恐ろしい死の唯一の事例ではない。

 広島の話はアメリカの雑誌や書籍でも語られてきたが、ドレスデンやケルンの話は語られてきたのであろうか?ケルンでは、廃墟の中に大寺院が無傷で残っているが、その事実は、われわれが、もしそう望めば、非軍事目標の破壊を避ける方法を知っていたことを明らかにしている。

 イギリス軍少将J. F. C. Fullerは、自著『第二次世界大戦』(New York, Duell, Sloan & Pearce, Inc., 1949.)に中でこう記している。

 

50年、100年にわたって、おそらくそれ以上にわたって、ドイツの破壊された都市は、その征服者の野蛮な行為のモニュメントとして残るであろう。殺戮された人々は忘れ去られ、強制収容所とガス室の恐怖は年月とともに薄れていくであろうが、都市の廃墟は、ドイツ人たちに対して、世代から世代へ、復讐を呼びかけることであろう。」

 

私はハイデルベルクで思慮深いアメリカ人の大学教授に出会った。彼はこう話してくれた。合衆国の軍政当局は、ドイツに入って、われわれの無差別爆撃による恐るべき破壊を目の当たりにすると、そのことが、アメリカの世論のゆり戻しを呼び起こし、敗戦国への同情の念と、われわれの戦争犯罪の自覚をうながすことによって、合衆国政府の対ドイツ政策の実行を妨げてしまうのではないか、と戦慄したという。だから、アイゼンハウアー将軍は大量の航空機を使ってジャーナリスト、議員、聖職者を強制収容所の見学に連れて行ったという。すなわち、ナチによる飢餓の犠牲者を見れば、われわれ自身の罪悪感が消え去ると考えたというのである。そして事態は、そのように進んだ。当時、アメリカの大新聞はわれわれの空爆の恐ろしさを書かなかったし、生き残った人々が死体の点在する廃墟の中で暮らしている恐ろしい光景を紹介することもまったくしなかった。アメリカ人の読者は、ドイツの虐殺行為だけを耳にすることになったのである

ドイツ在住のアメリカ人の多くが心理的防衛メカニズムを発動させているのか、それとも、「善良な大義」すなわちわれわれの大義名分の下で虐殺行為が行われれば、それは虐殺行為ではないと信じているのか、わからない。しかし、軍政当局の関係者の多くが、われわれの戦争犯罪、同盟国の戦争犯罪に触れることを、反逆罪とはいわないまでも、好ましくないと考えていることも事実である。

例えば、ベルリンのハルナック・ハウスでのカクテルパーティーの席上で、私は、ナチスの犯罪の中で、私たちや同盟国が犯さなかった犯罪はないので、私たちはドイツの罪についておしゃべりするのを止める潮時だと指摘したが、冷たい目を投げかけられた。私は、われわれの無差別爆撃、人種的な理由による1200万人のドイツ人の故郷からの追放、戦後の初期におけるドイツ人の餓死、捕虜を奴隷労働者として使うこと、ロシアの強制収容所、アメリカ人およびロシア人による略奪のことに言及した。軍事対

 私の話は、私にとっては事実を率直に述べたにすぎなかったが、最初は驚きの沈黙で、ついで、例えば、「われわれは戦争に勝たなかったほうが良かったとおっしゃっているのですか?」といった軍情報部のスピアー大尉のような馬鹿げた戯言の嵐でむかえられた。翌朝には、しっぺ返しが来た。軍政府情報局はドイツ人に民主主義を教えるプログラムの一環として、各都市のアメリカの家に図書館を開設していたが、その責任者のヴァン・デルデンなるご婦人は、とくに私の話に憤っていた。驚いたことに、彼女は、グレイ将軍の特別顧問で、非常に礼儀正しく知的な人物の一人Panuch氏と接触して、私がベルリンのアメリカの家で予定していたロシアについての講義をキャンセルするように促した。その翌日、私がベルリンにやってきたとき軍政府が提供してくれた自動車が別の人物のために必要になったと告げられ、もともと「グレイ将軍のゲスト」として招待され、滞在を許されていたハルナック・ハウスからの退去を求められた。私がもはやVIPではなく、VIPとしての招待が最初から間違いであったことを明らかにするために、「グレイ将軍のゲスト」としてハルナック・ハウスに逗留した期間、一日につき一部屋2.5ドルの請求書も渡された。

 私はVIPであると主張しようとはせず、また、社会的その他の義務から解放されるので、プレス・キャンプに移ることも多くの点でメリットであった。また、ミセス・ヴァン・デルデン、スピアー大尉その他、この類の人々が軍政府の許可期限の延長を妨害するかもしれないと考えていたことも杞憂に終わった。グレイ将軍と会い、その数日後に長時間話したが、彼は、私を厚遇してくれ、もともと3週間にすぎなかった許可期限の延長を勧めてくれた。グレイ将軍は、私が口にした「危険思想」のことを知らなかったのか、それとも、軍政府の下級官僚の狭量さを共有していなかったか、そのどちらであるのかわからなかった。

 ベルリンでの経験から学んだことはいくつもあるが、われわれの「人道に対する罪」に触れることは「やってはいけないこと」であるという点もその一つである。しかし、もしも、ドイツ人が「民主主義を教わる」べきであるとしたのならば、われわれも、われわれがドイツ人に対して適用しているのと同じ基準でわれわれ自身の行為を裁くことからはじめなくてはならない。そうしなければ、われわれは偽善者となり、民主主義とは詐術・ペテンであるという点でヒトラーは正しかったことをドイツ国民に納得させてしまうことになる。

 

<ダッハウの暗黒裁判>

 異なった倫理基準が戦勝国と敗戦国に適用されており、われわれの占領は「非交戦国の」占領なのだから、われわれにはドイツでお望みどおりのことすべてを行なう権利があるというニュルンベルク裁判の公理が適用されている。この恐るべき帰結は「ダッハウ裁判」に如実に現れている。

 これらの裁判は、マルメディ事件に関与した兵卒、下士官、将校に対する合衆国陸軍の軍事法廷、撃墜された連合国空軍兵士をリンチした民間人に対する軍事法廷、ナチ強制収容所での虐殺行為に責任を負ったドイツ人に対する軍事法廷にことである(ニュルンベルクで開かれた文民による、そして表面上は国際的な法廷とは異なる)。

 これらの事件で合衆国の尋問官と検事が使った方法は、GPU、ゲシュタポ、SSと同じ類だった。被告はありとあらゆる肉体的・精神的拷問にかけられ、指示されたとおりに供述するように強いられた。残念なことであるが、合衆国によるこれらの裁判審理は、共産主義的な恐怖政治に抗議の声を上げたカトリックやプロテスタントの聖職者たちを処罰している今日のハンガリーとブルガリアの裁判審理に匹敵する。

 その一方で、合衆国が依然として民主主義国であるという事実も、数百名の被告――すでに処刑されたしまった者もいれば、ランツベルクで処刑されようとしている者もいる――の「自白」を引き出すために合衆国陸軍の代表者たちが使った恐ろしい方法が暴露されたことからも明らかである。

 マルメディ事件で74名のドイツ人を弁護したアメリカ人法律家ウィリス・N・エヴェレット・ジュニア(Willis N. Everett. Jr.)大佐は、帰国後、合衆国最高裁に嘆願書を提出し、ドイツ人は公平な裁判を受けていないと告発した。

 最高裁は、合衆国陸軍がドイツで行なった行為に対して、管轄権を持っていないとの理由で、嘆願を却下したが、このことは、合衆国の軍政府が法の上にあること、われわれにいうところのドイツでの「統治」とは無法な専制君主による統治であることを明らかにしている。

 しかし、エヴェレット大佐の行動のために、陸軍は譲歩せざるをえず、陸軍長官ロイヤルは、彼の告発を調査する委員会を任命した。この委員会は1948年にドイツに渡ったが、ペンシルバニア州デラウエアー郡のヴァン・ローデン判事、テキサス最高裁のシンプソン判事から構成されていた。

 この二人のアメリカ人判事の調査報告は、ドイツに関するその他多くの報告と同じように、アメリカ人の目からは隠されていた。しかし、ローデン判事は、帰国すると、講演や夕食後のスピーチを何度も行ない、その中で、「殴打と野蛮な足蹴。歯を折ること、顎を砕くこと、偽裁判、独房への拘禁、僧侶の振りをすること、食糧配給の減額・制限、釈放の約束」といったような拷問がドイツ人から自白を引き出して死刑にするために――これらのドイツ人の多くはすでに縛り首になっていた――使われたと述べた。1948年12月14日、ローデン判事は、チェスターパイク・ロータリー・クラブの席上で、「私たちが調査した139件のうち、2名を除いて、ドイツ人全員が、直る見込みのないほど、睾丸を殴られていた。これが、アメリカ人尋問官による標準的な作業手順であった」と述べている。

 また、アメリカ人尋問官によってマッチで爪を焼かれて自白を強要され、法廷に出てきたときには指にまだ包帯を巻いていたドイツ人被告の話もしている。

 さらに、ローデン判事は別のケースにも触れている。「18歳になる一人の被告は、何回も殴られたあとに、言われたままの供述を書いていた。16頁にまでやってくると、この少年は、一晩、閉じ込められた。翌朝早く、近くの房にいたドイツ人は、この少年が『もう嘘はつけない』とうめいているのを聞いた。そのあと、看守がやってきて、虚偽の供述書を完成させようとすると、このドイツ人は、房の棒に首をつって死んでいた。にもかかわらず、このドイツ人が首をつってまで署名を逃れようとした供述書は、法廷に提出され、他の被告の裁判証拠として認められた」というのである。

また、ローデン判事はこうも述べている。「署名を拒んだ囚人が、薄明かりの部屋に連れて行かれたこともあった。その部屋では、アメリカ軍の制服を着た民間人尋問官が、黒いテーブルの周りに座っていた。テーブルの中央には、十字架があり、両端には、二つのろうそくがともされていた。そして、被告には、『これから、アメリカの裁判が開かれる』と宣言された。偽の法廷は、偽の死刑判決を下した。そして、『将軍がこの判決を承認すれば、数日以内にお前は絞首刑となる。しかし、この自白に署名すれば、無罪としてやることができる』と宣告された。にもかかわらず、署名しなかった者もいたという。私たちは、このように、十字架がいかがわしく利用されたことにショックを受けた。別の事例では、偽のカトリックの司祭(実際には尋問官)が被告の房に入ってきて、懺悔を聞き、贖罪を認めてから、『尋問官が署名を求めたものならば、なんでも署名しなさい。そのことで、自由になるでしょう。たとえそれが虚偽で あっても、私が、嘘をついたことに贖罪を認めることができます』と親しげに教えてやった。」

 独房への拘禁や囚人・証人の家族への報復の威嚇だけでも、あらかじめ定められた供述に署名させるのに十分であった。また、「尋問官は、被告の頭に黒いフードをかぶせて、メリケン・サックで顔を殴ったり、足蹴にしたり、ゴム・ホースで殴ったりした。」

 ローデン判事の話では、アメリカ検事団のエリス中佐とパール中尉は、公平な手段を使っていては証拠を手に入れることが難しかったといって、自分たちの悪行に情状酌量を求めているという。パールによると「私たちは難しい事件をこじ開けなくてはならず、説得的手段を使わなくてはならなかった」というのである。パール中尉はこの「説得的手段」には「何らかの暴力、偽裁判のようなご都合主義的な方法」も入っていること、マルメディ事件はこうした手段によって手に入れた供述にもとづいていることを認めている。

 ローデン判事はこう結論付けている。

 

一人の陪審員もいなかった。判事と陪審員の役目を果たす10人の将校、一人の法律家が法廷を構成しており、後者だけが法的訓練を受けており、証拠の採用についてのその裁定は最終であった。…証拠として採用された供述は、3ヶ月、4ヶ月、5ヶ月も独房に始めて拘禁された人物からであった。彼らは、窓のない、四方を壁に取り囲まれた部屋に拘禁され、身体を動かす機会もまったく与えられな かった。一日二回の食事が、ドアの下の隙間から差し込まれた。誰かに話しかけることも許されていなかった。家族や聖職者と連絡を取ることもできなかった。…悲劇は、私たち多くのアメリカ人が、汗と血を流しながら戦い、そして勝利を収めたのちに、今では、『ドイツ人全員を処罰すべきである』と語っていることである。私たちは勝利を収めたが、殺戮を続けたがっている者が、私たちのなかにいる。これが不愉快な点である。…平時にこのような虐待行為がそのまま放置されているとすれば、戦時中にアメリカ人に対するドイツ人の虐待行為、ドイツ人に対するアメリカ人の虐待行為が存在したという事実によっても、私たちの不名誉が消え去ることにはならないであろう。…それは、アメリカの良心にとって、永遠の汚点となるであろう。

 

 不幸なことに、ローデン、シンプソン両判事の行なった調査、遺憾な所業の暴露によっても、拷問によって手に入れた「証拠」にもとづいてドイツ人を縛り首にすることは中止されなかった。グレイ将軍は以前には減刑を行ったこともあったが、アメリカのマスメディアの強い抗議のために、被告の再審ではなく、処刑の継続を選ばざるをえなかったようである。

 1948年11月、金曜日ごとに15名が絞首刑となった。先週は7名だけであったが、誤審の犠牲者が多ければ多いほど、不正義の証拠は残らなくなるとの考えにもとづいているのであろう。ローデン、シンプソン両判事が調査した後に絞首刑となった最初の集団の中には、彼らが、疑問の余地のある証拠にもとづいて有罪とされたと述べている5人がいた。

 私はニュルンベルクでベティー・ノックス――United Pressの「ヨセフ」――に出会ったが、そのすぐ後の先週、ノックスは絞首刑に立ち会っている。彼の話によると、誰もがこの恐ろしい経験を忘れたがっていた。処刑が行なわれるランツベルク刑務所のプロテスタントとカトリックの教誨士たちはともに、縛り首になった人物のうち何人かは無実であったと確信している。彼らは、殺人という犯罪を止めることができないことに絶望し、処刑されようとしていく人々のうち何人かは、無実であり、その全員が拷問による自白や偏見を抱いた目撃者の証言のために有罪となったと確信していた、という。

 ノックスの出会った別の被告は、自分は再審請求を却下されたと先週の水曜日に語っていたが、その後、金曜日に独房から引き出されて、縛り首になったという。

 また、別の被告は、妻との面会を3年間も許可されていなかったが、処刑の前には面会を許可すると約束された。その妻が指定された時間に刑務所に訪れてみると、「申し訳ないが、彼はもう処刑された。順番は最後であったのですが、間違って最初に絞首刑になってしまった」といわれたという。

 ノックスが処刑に立ち会った被告たちのうち、3名の最後の言葉は次のとおりである。

 

「何も申し上げることはありません。家族にだけは会いたかったです。最後のときになっても、家族に会えなかったことが残念です」(コルネリウス・シュヴァンナー)。

 

「私は、私の刑の執行に抗議します。アメリカ人将校による公式の情報では、嘆願書の提出期限は今夜24時までのはずです。9月20日に提出された私の嘆願書は、郵便事情のために遅れてしまい、私の刑が確認されて、処刑が指示されるときには、考慮されえませんでした。私は、道で逃げまどう女子供を射殺すというようなテロ行為を行なったパイロットたちを処刑せよとの命令にしたがいましたが、それは将校として、国民と祖国に対する義務を果たしただけです。私の刑は国際法にも反しています(注:この被告は「黒いフード」をかぶせられて、「偽裁判」にかけられた)」(フリッツ・ギルケ)

 

「私は、私の処分を非難もしませんし、それに仕返ししようとも思いません。無実だということだけを申し上げたいのです。私の事件での真犯人は、囚人のときに首を吊ってしまいました。私は何らかのかたちで関与していたために、告発されました。私は自由なドイツ人として死んでいきます。私の愛する家族、私の愛する妻、私の愛する息子、私の義理の娘、私の孫たちに最後の挨拶を送ります。そして、もう一度、愛する家族と友人に挨拶を送ります。私を不当にあつかった人々を許します。私の判決のもととなった偽りの宣誓証言を行なった人々も許します。神がこの人たちに寛大なお裁きをくだされますように。青年時代に、精神的・肉体的な気晴らしのもととなった、愛するスポーツにも、最後の挨拶を送ります。民族や人種の如何を問わず、世界の最良の人々が、勝つことではなく一緒にすごすことを目的として競技の場に集うことを願います」(ヴィリ・リーケ)。

 

 アメリカが縛り首にした、そして、今も、毎週毎週縛り首にしている人々のうち、一体何名が無実であったのか、それは明らかにならないであろう。ただ、彼らには、公平な裁判、尋問が行なわれず、その告発・処刑が民主主義的な正義にはふさわしくないということだけはたしかである。

 この問題にはアメリカの名誉と尊厳がかかっていることに無自覚な読者の中には、この問題から目を背け、かかわろうとしない人たちもいることであろう。縛り首となった者はいずれにしても、全員がナチであり、ドイツ人にすぎなかったので、大した問題ではないと語る人たちもいるであろう。しかし、われわれアメリカ人自身が、民主主義の土台である正義への信頼を打ち壊しているとすれば、一体、何を守ろうとして、アメリカ人たちは死んでいったのであろうか?

 ローデン証言は、彼がアメリカ人であるがゆえに、重要である。今日、われわれは、その経歴がどんなに非の打ち所のないものであっても、ドイツ人といっただけで、その声に耳を傾けることはないからである。しかし、ダッハウ裁判はドイツにおいて恐怖と抗議の声を幅広く呼び起こしてしまったので、25人のドイツ人カトリック司祭のアピールを無視できなかったのであろう。2000万人のドイツのカトリックを代表する人々のアピールはアメリカでは注目されていないが、それはこう述べている。

 

「シュヴァービッシェ・ホールとオーベルヴェーゼルでの予備審問における拷問、ランツベルクでの大量処刑は、戦勝国のアメリカに対して、戦いに負けることよりも大きな損失を与えることになるのではないでしょうか?…殉教者を収容するようなオーベルヴェーゼルの房の中にいる生存者たちが釈放されれば、彼らは、自分たちの受けた非人道的な取りあつかいのことをくわしく世界に語りかけることができるでしょう。今のところは、刑務所から何事かをうったえうることができた人物はごく限られているにすぎません。」

 

 カトリック教会のアピールは、1945年9月17日から10月3日までに拘束されていたときに受けた待遇についてのハンス・シュミットの宣誓供述書(1948年6月25日署名)からも引用している。

 

われわれ7人は、バド・アイブリング収容所からオーベルヴェーゼルに移され、裸のままで小さな房に投げ込まれました。3、4名が収容されていた房は、6.5フィート×10フィートで、窓も換気口もありませんでした。壁、天井、ドアは硬いアスベストの板で覆われていました。一つの壁に、外部から操作する4段スイッチのついた電気ストーブ(2000ワット式)がありました。

 私たちは便所に行くときには、アメリカ兵の列のあいだを走らなくてはなりませんでした。そして、アメリカ兵たちは皮ひも、箒、棍棒、バケツ、ベルト、拳銃ホルダーで私たちを殴り倒しました。私の頭、目、身体、お腹、性器はひどく傷つけられました。便所の中にいて、私たちを殴り、つばを吐きかける男もいました。便所から戻ってくるときにも、同じようなあつかいを受けました。

 房の気温は華氏140度かそれ以上でした。最初の3日間、汗だくでしたが、その後汗は止まりました。私たちは何時間も背中合わせのまま立たされていました。のどの渇き、血液の滞留、手の麻痺にひどく苦しみました。水が灼熱した放熱器にかけられ、蒸気が充満することがありましたが、そのときには息もできませんでした。

 房内は真っ暗ですが、アメリカ兵が入ってきて数百の燭光をもつ電灯のスイッチを入れたときだけは例外で、私たちは目を閉じなくてはなりませんでした。

 のどの渇きはますますひどくなり、唇は割れ、舌はがさがさとなり、ほとんど心神喪失状態となりました。

 こうした拷問に数日間耐えると、身体を覆う小さな毛布が支給され、外の庭に連れ出されました。地面は平坦ではなく、小石で覆われていました。私たちはふたたび殴リ倒され、足は砕かれ血を流していました。息を吐くときに、火のついたタバコが口に押し込まれ、私は3、4本のタバコを口の中に入れざるをえませんでした。その間、アメリカ兵は私たちの目、頭、耳を殴り続けました、壕に戻されると、灼熱の放熱器に押し付けられたので、皮膚はやけただれました。

 13日間、昼夜を分かたず、私は同じようなあつかいを受け、暑さとのどの渇きでひどく苦しめられました。水を求めると、看守は私たちをあざけりました。私たちが気を失うと、看守は冷水を浴びせかけて、気をとりもどさせました。

 垢まみれでしたが、洗うことを許されず、目が充血して、ひどく痛みました。そして、いつも気を失っていました。

 大体20分ごとに、房のドアが開き、兵士たちが私たちを嘲笑して、殴りつけました。ドアが開くと、私たちはドアに背を向けて立っていなくてはなりませんでした。私たちののどの渇きをひどくするために、塩、胡椒、マスタードで味付けされた二皿の食事が毎日提供されました。暗闇の中、床に座って食べなくてはなりませんでした。拷問の中ではのどの渇きが一番恐ろしいもので、眠ることができませんでした。

 このような条件の中で、私は裁判に引き出されました。消耗してしまい、房に連れ戻されました。汚い爪をした軍曹が乳首の周りの皮膚を切り裂いたために、敗血症になりかけました。医者は私を野蛮にあつかい、傷の消毒さえもしませんでした。

 

 ドイツ人囚人に対して、その有罪が証明される前に、アメリカ人はゲシュタポのような拷問を加えた話を数多く耳にしてきたが、この話はその中の一つにすぎない。ドイツ人が犠牲者ではなく、拷問を行なった者たちである場合には、このような「虐殺物語」は頻繁に話題となっているので、私がドイツで耳にした逆のケースのホラー物語を、労をいとわず紹介したのである。

 しかし重要なことは、一般のアメリカ人が、政府当局とメディアによって長らく隠されていた事実を知ることである。私たちが、ナチの犯罪の責任をドイツ国民にとらせるとするのであれば、私たちも、合衆国政府機関が行なったことに対して責任を負わなくてはならないからである。アメリカは自由の国であり、こうした不正に抗議した人物を刑務所に送ることはできないという事実を念頭におくと、私たちの責任は大きくなる。

 ヒトラーの乗っていた飛行機に爆弾をおいて、「ヒトラー暗殺に成功しそうになった」フォン・シュラーブレンドルフ男爵は、ヴィスバーデンにいた私に、ヴィリ・シャーファー事件の宣誓供述書のコピーを送ってくれた。ダッハウ裁判で、シャーファー下士官はバルジの戦いのときにマルメディでアメリカ軍捕虜を射殺した咎で死刑を宣告されていた。シャーファーは終身刑に減刑されたが、彼の弁護士を勤めたシュラーブレンドルフ男爵は再審を求めて控訴したが、成功しなかった。

 シャーファーは、「1944年12月17日、マルメディの南の交差路エンゲルスドルフで行なわれた合衆国軍捕虜の射殺を見過ごし、これに反対する行動をとらず」、5名のアメリカ軍捕虜を射殺する「命令を伝達した」と告発されていた。

 シュラーブレンドルフ男爵とエヴェレット大佐の持っている証拠によると、シャーファーの二つの罪状には根拠がなく、さらに、彼は、アメリカ軍捕虜が射殺されたとき現場にいなかった。彼を告発した証人ナンバーワンは証言が虚偽であり、強要されて証言したことを宣誓の上で認め、シャーファー自身も、長期にわたり拷問を受けたのちに、やってもいない犯罪を「自白」したという。

 シャーファー軍曹の宣誓供述書の一部を掲載しておく。

 

1946年、4月7日、Harry W. Thon氏は、シュヴァービッシェ・ホールで、自分自身を告発する宣誓供述書を書くように求め、アメリカ軍捕虜の射殺命令が存在したことを認めるゼップ・ディートリヒが署名した宣誓供述書を見せてくれました。Thon氏は、求められているのは将軍たちの首で、下っ端の者は何も恐れることはないと言っていました。私は、アイフェル攻勢での自分の経験についての供述書を書く用意があるが、戦争法規に反して行われた行為については知らないと申し述べました。すると、Thon氏は、私に紙とペンを渡し、一晩の猶予があるが、もしも、自分の罪を認める供述をしないならば、私の家族から食糧配給カードを取り上げると言ってきました。そして、死の独房に閉じ込めたのです。

 その夜、私は自分の経験をまとめましたが、自分自身を告発するような内容は入れませんでした。

 翌朝、Thon氏が私の房にやってきて、供述書を読むと、それを引き破り、私を罵って殴りつけました。こちらの望むどおりに書かなければ、殺すぞと脅かして去っていきました。数分後、私の房のドアが開き、血のついた黒いフードが頭と顔にかぶせられて、別の部屋に連れて行かれました。Thon氏に脅かされていたために、黒い帽子は私の精神を打ち砕きました。4人の同僚、シュプレンガー、イェンケル、ネーヴェ、ホフマンが私を告発しました。のちに、彼らは偽証したことを認めますが。にもかかわらず、私は自白を拒みました。すると、Thon氏は、もし拒み続ければ、私がナチに属していた証拠と見なし、将軍たちと一緒に告発してやる、その場合には、死刑は確実だと脅しました。4人の証言に抗うことはできないので、自白するしか道はない、そうすれば釈放されるだろうというのです。…それでも、拒み続けました。物事を良く覚えているのですが、あなたが私に書かせたがっている事件のことは思い出すことができません、私の覚えているかぎり、そのような事件は起らなかったのですとThon氏に言いました。

 Thon氏はその場を立ち去りましたが、すぐにパール中尉をつれて戻ってきました。パール中尉は私を悪罵し、もし私が30分以内に求められていることを書かなければ、運命にゆだねられるべきであるとThon氏に伝えました。パールは、正直に自白して釈放されるか、自白しないで死んでいくかの選択肢しかないことを私に明言したのです。私は生きることを選び、お望みの供述書に署名すると言いました。すると、Thon氏は、シュプレンガーの供述と符牒を合わせるように、私の供述を口述させ、私の反駁をすべて削除しました。

 4月8日か9日、尋問官の望むようなかたちで供述しないと、膝のくぼみと背中を蹴られ、首と頭の後ろを杖で殴られました。再度、黒いフードが頭と顔にかけられましたので、このような罰を加えた人物が誰であったのか証言できません。

 私は、捕虜の射殺に関与したこともないし、そのような命令を出したこともないし、射殺を目撃したこともありません。このことをダッハウの軍事法廷に申し上げます。

 

 シャーファーを告発する偽の証拠を手に入れる方法は、ヨアヒム・ホフマンの署名した宣誓供述書(1948年1月20日、ランツベルク刑務所)に次のように記されている。

 

3ヶ月半のあいだ、私は、書くことも身体を洗うことも許されないまま、独房に拘禁されていました。尋問のときでも、黒いフードが頭にかけられました。私を尋問に連れて行く看守たちは、私を殴りつけ、蹴りつけました。2回ほど階段から転がり落とされ、ひどく怪我をしたので、口と鼻から血が出ました。尋問のときに、私の受けた虐待のことを尋問官に申し述べましたが、笑い飛ばされるだけでした。質問に答えることができなかったり、尋問官を喜ばせるような供述をしなかったときには、殴られ、顔には黒いキャップがかけられました。

 1946年3月、略式法廷に引き出されました。それに先立って、殴られ、性器を数回蹴りつけられました。法廷では死刑を宣告され、その後、木製のたんすと一枚の毛布しかない房に閉じ込められました。ここに3週間閉じ込められたのちに、尋問官が私の房のところにやってきて、もしも、指示通りに供述すれば2ヶ月以内に釈放すると請合いました。この誘惑に抗することはできませんでした。同僚が虐待されているのもたびたび目撃しました。私は求められるままに偽の供述をすることに同意しました。そのように書けば釈放されると信じていたからです。しかし、これは幻想でした。

 

 シャーファーを告発したもう一人の証人ジークフリード・イェンケルは、自分の偽証を強いた方法について次のような内容の宣誓供述をしている。すなわち、イェンケルは捕虜のときの独房に拘禁され、口述された供述書に証明することの同意するまで拷問された。また、黒いフードを顔にかぶせられて、偽裁判にかけられ、十字架、黒衣の衣装、蝋燭が見えるようにそのフードが上げられた。いつものように、検事はHenry Thon氏で、このイェンケル「裁判」は12時間ほど続いた。その後、彼はジープに「載せられて」、木から吊るされる、「弾がもったいないから」と告げられた。2日後、彼はふたたび法廷に引き出されて、「まだ若いこと」、命令にしたがって行動したことを考慮して、「真実を自白」すれば恩赦の対象となるとパール中尉に言われた。イェンケルの供述書によると、この2度目の「裁判」で、パール中尉は、「お前はまだ自白しないのか? 弁護費用はないので、お前は縛り首となる。同僚を見てみろ。真実を話したので、釈放されるだろう」と言ったという。

 2年後に署名した宣誓供述書の中で、イェンケルは、何回尋問されたか記憶にないが、数数回ほどであったと思うと述べている。そのたびごとに、「もし自白すれば釈放される。上官から命令されていたと言えば良いだけである。自白しなければ、縛り首になる」と告げられたという。彼の供述書にはこうある。

 

私は殴りつけられ、隣の房で拷問を受けている人物の叫び声を耳にしました。尋問に引き出されるたびに恐れおののきました。私はまだ19歳にすぎず、裁判や法律にどのように対処したらよいかまったくわかりませんでした。私は拷問に屈してしまい、口述された長い供述書に署名してしまい、指示されたとおりに地図のスケッチも描きました。私は十分な教育を受けていなかったので、指示されなければ、そのようなことはできませんでした。シューマッハー大尉は、『通りはほかの証人の供述同じように描けばよいが、細部に関しては、違った点があった方がよい。コピーしたと見なされてしまうからだ』と言っていました。

 

 イェンケルは自分の宣誓供述書をこう締めくくっている。

 

私は、シュヴァービッシェ・ホールで指示されたとおりに供述し、その中で同僚を告発していますが、その供述書は無理やり署名させられたものであり、真実ではありません。

 

 マルメディ裁判での尋問官の目的は、そうしなければ自分自身が縛り首になってしまうと威嚇しながら、若いドイツ軍捕虜に同僚を告発するように仕向けるものであったようである。強制収容所関連裁判はさらに劣悪であった。この場合にはアメリカの検事団は、真犯人を探し出して処罰するのではなく、できるかぎり多くの人々を絞首台におくることを目的とするナチ・共産主義者の原則にもとづいて行動したからである。おもな検事側証人は、強制収容所に収容されていた犯罪者および共産主義者であった。彼らは、SS隊員が収容所の監督をやめて前線に動員されたのちに、ゲシュタポに雇われたカポー(囚人長)であった。このために、ナチ強制収容所での虐殺行為に責任があったとして告発された人々に対するダッハウ裁判では、被告たちのことを憎んでいた犯罪者たちに、自分たちが提供した「証拠」にもとづいて、被告を告発・非難するとか、共産主義者に自分たちの政敵を絞首台に送る機会を与えてしまうというような恐ろしい光景が繰り広げられた。

 これらの裁判で終身刑や死刑を宣告された被告の中には、犯罪や虐殺行為にまったく手を染めていないが、犯罪者や共産主義者の囚人の憎悪と敵意のはけ口の対象として、有罪判決を受けてしまった人々もいたにちがいない。アメリカの尋問官たちは、被告が他者を告発すれば、罪の多くを免訴すると約束していたし、口述された供述書への署名を拒めば、家族に報復すると証人を脅していた。だから、無実の被告には釈放される機会がほとんどなかった。ナチスが始めた恐怖と不正のサイクルは、その犠牲者たちが死を逃れるために、アメリカ人に偽証を強要されるか、拷問を受けた証人の提供する証拠にもとづいて有罪を宣告されることで、その輪を閉じたのである。

 これらの事件でのアメリカ人尋問官の名前、キルシュバウム、メツガー、エンダース(アンドリュースの別名)、コロムベック、エッガーは、パール中尉やW. Harry Thonとおなじように、ドイツでは末永く記憶されるであろう。それは、ヒムラー、ボルマンその他のナチの犯罪者たちの名前がアメリカで嫌悪の念をもって記憶されているのと同じことである。

ある有名なケースでは、キルシュバウムは、被告メツェルがアインシュタインの弟を殺したことを立証するためにアインシュタインを法廷に連れ出したが、メツェルは、殺されたとされる弟が法廷にいることを指摘した。すると、ひどく困惑したキルシュバウムは、「お前が、自分の弟を法廷に連れてくるというような馬鹿なことをしでかしたので、どうしたら、この豚を絞首台に引き連れていくことができるのか」とアインシュタインをあざけったのである。

 農夫のセバスチャン・シュミットは、宣誓供述書の中でこう述べている。

 

メツガー氏は、ダッハウでもっとも悪名高いサディストで、残酷なビーターのカール・マイヤー囚人のことを知っているかどうか質問しました。そして、メツガー氏は、すでに作成されていた数頁の供述書を私に手渡し、自分はひどく急いでいるので、読まずにすぐに署名するように求めました。しかし、その供述書を読み始めてみると、『ダッハウ収容所の車庫建設班のカポーであったマイヤーは、毎日、棍棒で100人ほどの囚人を殺し、スチームローラーを使って死体を押しつぶして、建設中の道路の中に埋め込みました』ということが記してありました。

 私はこれ以上読みすすめることを止め、署名を拒みました。このような事件はまったく起ってもいなかったからです。メツガー氏にこんなことはありえないと指摘すると、彼は、『マイヤーはすでに縛り首となり、地下5フィートのところに埋められているのだから、そんなことはどうでもよい』と言いました。しかし、私は署名を拒みました。

 メツガー氏は怒り、袖をたくし上げて、もし署名しなければ殺すぞと私を脅しました。その脅しが効果のないことを知ると、『では、お前の罪状を見つけてやる。アメリカの軍事法廷に引き出してやる。お前が縛り首となるとすれば、それは私メツガーによるものである』と付け加えました。

 メツガーや彼の同僚の有名な方法によると、こうしたこともありえたのです。

 メツガーの脅しに屈服しなかったこと、偽証を行なって、無実の男とその家族を不幸のどん底に突き落としてしまうという責任を負わなかったことについて神に感謝しています。カール・マイヤーは穏やかで正直な人物であり、収容所での彼の振る舞いは非の打ち所のないものでした。カール・マイヤーはダッハウでは政治囚でした。

 

 やはりランツベルクの囚人であるマルチン・フムは、1948年5月30日署名の宣誓供述書の中で、メツガー氏が哀れなカール・マイヤーに関する証拠を執拗に探し求めていた理由を明らかにしている。それによると、彼メツガーはヒトラー・ユーゲントのメンバーであり、不道徳な行いのために告訴され、その後アメリカに逃亡したとマイヤーが話しているのを耳にしたことがあるかどうか1947年7月にフムに尋ねたという。フムは、ダッハウでメツガーについてのそのような噂を聞いたことがあると答えた。すると、メツガーはマイヤーを告発する証拠をフムに求め始め、その際、マイヤーの裁判のためにではなく、「マイヤーと個人的ないさかいを起こしているためだ」と釈明したという。フムが、1年前にすでにダッハウで供述しており、マイヤーを告発する材料などまったく知らないと申し述べると、メツガーは立ち上がって、「人生とは何と美しいものであるのか。しかし、お前はまだ若いけれども、縛り首になるのだ」と脅した。

 フムは癲癇もちで身体が弱かったので、セバスチャン・シュミットほどスタミナを持っていなかった。このために、屈服してしまい、望みどおりの供述書を書くと約束した。その後、彼はひどく衰弱し、肺気腫で病院に連れ戻された。メツガーは次の日までに供述書を完成するように要求していたので、フムは仲間の囚人に代筆を頼んだ。病気のために自分自身では書けなかったためであった。

 1948年5月の宣誓供述書の中で、フムは、メツガーに強要された偽証を拒み、マイヤーが囚人を縛り首にしたり、赤十字からの小包を盗んだり、収容所で「不正行為」を行なったりしたのを目撃したことはないと述べている。

 合衆国軍当局も、「証拠」を手に入れるために拷問を使ったことを暗に認めている。A. H. Rosenfeld大佐は、1948年にダッハウ戦争犯罪調査局長の職を辞するにあたって、ダッハウでの偽裁判物語は本当かどうかメディアからインタビューされて、こう答えている。

 

「もちろんだ。そうしなければ、これらの籠の鳥たちにしゃべらせることはできなかったであろう。」

 

 ローゼンフェルト大佐は、犠牲者がドイツ人であるとの理由で、このような手段が拷問であったとは考えていない。むしろ、自分の賢明さを自慢して、こう述べている。

 

「それは策略だったのです。魔法のような効果を発揮しました。」

 

 拷問、偽裁判、中傷、偽証その他はたしかに「魔法のような効果を発揮した」かもしれないが、ドイツにおけるアメリカの「正義」から発する臭いは、悪臭に他ならない。結局のところ、多くのドイツ人たちは、「民主主義的な正義」、ナチ的な「正義」、共産主義的な「正義」のあいだに大差がないと確信してしまった。

 ダッハウ裁判の被告の多くは拷問を受けただけではない。彼らは、殴打と餓えによってひどく衰弱した状態で法廷に引き出されたとき、自分を弁護する機会もまったく奪われていた。彼らに起訴状の中身が知らされたのは開廷数時間前、良くても数日前であり、自分たちを弁護してくれる証人を召喚する機会もまったく奪われていた。ごくわずかの例外を除けば、彼らにはドイツ人弁護士が付けられなかった。支払い能力がないとの理由か、もしくは、アメリカ軍当局が許さなかったからであった。ドイツ人弁護士が付けられても、彼はアメリカ人弁護士の命令の下で活動しなくてはならず、裁判中の短期間の接見を除いて、依頼人と相談することさえも許されなかった。

 強制収容所事件では、起訴状には、囚人の罪状が特定されておらず、また、犯罪の日時や現場も特定されていないこともあった。

 強制収容所事件のドイツ人弁護人ゲオルグ・フロシュマン博士は、1948年7月30日に、クレイ将軍に嘆願書を送っているが、そこにはこうある。

 

「強制収容所裁判の大半では、検事側はタイプで打たれた24行の一文の中に、戦争犯罪と人道に対する罪、すなわち、『殺人、殴打、拷問、餓え、暴力行為、辱め』を並べ立ててことたれりとした。そして、被告は、15カ国の国民に対するこうした犯罪の実行犯、共犯、扇動者、補助者、そうでなければ『関係者』として有罪であるというのである。」

 

 

 犯罪の日時は、1942年1月から1945年5月5日のあいだとかいうように、あいまいなままであった。

 弁護側で活動したアメリカ人将校の多くは法律的な訓練を受けておらず、ドイツ語も解せず、被告と接見しようともしなかった。被告は、自分を告発する証人に反証することができなかった。審理は被告の理解できない言語で進められ、有能な通訳も提供されなかったからである。

 裁判の審理はモスクワでの見世物裁判に酷似していた

 フロシュマン博士はこう続けている。

 

「被告たちの振る舞いを見ると、アメリカ人弁護人が彼らに与えた助言は、審理をはやく進めるために、法廷の希望をかなえようとする彼の願いにもとづいているかのようであった。

 アメリカ人弁護人の中には、検事側と親しく接触している人物もいた。彼らは検事側と奇妙なかたちで取引することを暗黙の了解としていた。彼らは、弁護活動の準備のために開廷を延期するようにとの申請もしなかった。彼らの嘆願書は検事側との合意の上で作成されたようであり、いくつかの案件では、彼ら自身が検事のようであった。」

 

 検事側には、ヨーロッパ各地から証人を召喚し、ドイツ人証人に拷問を加えて、必要とされる証拠を提供させる時間と機会が十分にあった。これに対して、暗い房に拘禁され、外界との接触を認められていない被告は、自分を弁護する人物を召請することもできなかった。さらに、「ナチスによる迫害を受けた人々協会」が、メディアを介して、強制収容所の囚人が弁護側に有利な証言をすることを禁止した

 検事側は、政治犯たちに、自由な旅行、おいしい食べ物、高額な日給、闇市場で販売できるほどの大量のタバコを約束したが、ダッハウにやってきて被告たちに不利な証言をしようとする政治犯たちはほとんどいなかった。だから、検事側は、おもに犯罪を犯して強制収容所に送られた囚人に依存せざるをえなかった。

この事実は、ダッハウで死刑を宣告された被告のうち少なくとも何名かは無実であることを示唆している。いくつもの裁判に姿を現した「職業的証人たち」の供述書は他の証拠によって確証されていない。その「職業的証人」を利用したことは、もっとも基本的な正義感に対する悪臭を合衆国の裁判に与えてしまった

それゆえ、検事側は、虐殺の咎で実際に有罪である人々を処罰するのではなく、ドイツ国民の大衆的罪を明らかにするために、できるかぎり数多くの人々を処罰したがっていたにちがいないという結論にならざるをえない。その結果、ドイツ国民の多くは、裁判の進め方や有罪「証拠」の内実を知ることになり、虐殺など起らなかったのだ、強制収容所物語などアメリカによる捏造だと口にするようになっている。ナチの罪を確定するためにナチの方法を使ったことで、ナチの犯罪のリアリティをあいまいにしてしまったことになる。

このことはイルゼ・コッホの件に顕著であった。アメリカでは「人間の皮膚で造った電灯の傘」がイルゼ・コッホの家にあったと信じられているが、裁判では、アメリカの検事団は、この傘の実在を立証するような証拠をひとつも出せなかった。このことをドイツ人は知っている。クレイ将軍はコッホを減刑するにあたって、彼女のことを戦争犯罪人ではなく、売春婦、変質者とみなしているが、これが彼女で実像であろう。

ナチスによる虐殺行為は非常に恐ろしいものであるので、「人間の皮膚で造った電灯の傘」といった物語を捏造する必要はない。われわれは、嘘を取り繕ってきたために、ガス室のリアリティもあいまいにしてしまった。数年のあいだに、虐殺物語とは、戦勝国が敗戦国の人々を非人道的にあつかったことを正当化するために広められたのだという話となってしまうであろう。

被った損失は取り返しのつかないものである。しかし、処刑が中止され、独自の十全な調査が指示され、囚人に対する拷問と不公平な裁判審理に責任を負うアメリカ人が、「人道に対する罪」の咎でドイツにおいて法廷の場に引き出されたならば、合衆国の名誉を回復することができるだろう。

合衆国最高裁は、ドイツ国内でアメリカ市民が犯した犯罪には関心がないと声明したものの、1949年3月、合衆国上院は、この問題に関心を寄せ、調査の開始に賛同した。合衆国議会の活動だけが合衆国の名誉を回復することができるのだから、政府と陸軍省はこの活動を妨害しないでいただきたい。ダッハウでナチ・共産主義者的方法を使った尋問官たちは合衆国正規軍の将校ではなく、臨時に軍務についた民間人であるから、合衆国軍自身も、軍の名誉を汚した人々を処罰することにやぶさかではないであろう。合衆国が自分の名において犯してしまった恥ずべき行為に対する関心をはじめて喚起した勇気あるエヴェレット大佐も、そのような意見であるにちがいない。

ダッハウ裁判の恐ろしい記録を削除することよりも、合衆国による占領の初期にうけた残酷で不正なあつかいをドイツ国民に忘れさせることの方が難しいかもしれない。間違ってヒトラーに従ったが、ドイツを愛する者であれば彼の指導に従わない者はいないと確信していた青年男女。ナチス党は「パンと仕事」を与えてくれると信じてナチス党に加入した労働者たち。SSやゲシュタポによる虐殺行為に責任はなく、共産主義のテロルから祖国を救うために最後まで勇敢に戦い、敗れ去ったドイツ軍兵士たち。ひいては、隠れ家から姿を現したり、強制収容所から釈放されたナチスの犠牲者たち。こうした人々が戦勝民主主義国によってひとまとめに処罰されたのである。裁判にかけられないまま何年も投獄されている人もいれば、自分や家族の財産が没収された人もいる。戦争捕虜としての権利を否定され、奴隷労働者として利用されている人もいる。戦争が終わって4年たった今日であっても、いかなるドイツ人であっても強制労働に徴用できるという管理委員会命令(3号)が効力を持っている。それは、合衆国の管轄下にあるあらゆる地域での奴隷労働を禁止した合衆国憲法に明らかに違反している。

ダッハウで裁かれた戦争捕虜および民間人の中で、ドイツ人だけが肉体的な拷問にさらされた。終戦時、われわれは将軍、SS隊員、政府官僚、ナチの指導者を大量に逮捕し、誰が有罪であるか無罪であるかを見極めること無しに、彼らに対してさまざまな虐待行為を行なった。私の知人のドイツ外務省関係者の話によると、彼は立錐の余地もないほどのトラックに押し込まれ、36時間も食べ物と水無しで移送された。中の一人は、戦前に退役していたが、その階級ゆえに逮捕された82歳の将軍であった。アメリカ人はソ連が敵に対して行なったのと同じようなあつかいをドイツ人将校と民間人の混合グループに与えていたが、このグループは身体を縮めて、この将軍を座らせてやったという。多くの囚人が病気になり、怪我をしている者もいたが、移送中は下車を許されなかった。刑務所に収容されると、ドイツの将軍たちは看守のブーツをみがくように強要され、手で便器を清掃させられた。ナチや共産主義者の強制収容所の囚人と同じようなあつかいを受けたのである。

ドイツのどの地域でも、このような話を聞くことができるであろう。もちろん、誇張された話もあるが、敗戦国の軍隊の将校たちを虐待するために、邪悪な気晴らしが行なわれたことには疑いがない

どこの軍隊にも、サディストやゴロツキがいるものである。恐るべきは、占領期間の初期に合衆国軍に出された命令によって、残虐で非騎士道的な民族的少数派の振る舞いが奨励され、敗者を取り扱うにあたってナチの方法が模倣されたことである。

ドイツ人は、ロシア人が無法者で残虐な集団であることを予想していたが、アメリカ人は自分たちを公平にあつかってくれると信じていた。だから、ドイツ人の受けた衝撃はなおさら大きなものであった。多くのドイツ人は、戦争が終われば、どのような処罰が下されようと、ナチの無法と専制のかわりに法の支配が確立されると期待していたので、終戦を歓迎していた。しかし、今では、民主主義的な正義に対する信頼は失われている。

 

<略奪と追放>

われわれがドイツで犯した虐殺行為だけが、われわれの罪を後々まで伝えていくものではない。

 ヤルタでのルーズヴェルト大統領、ポツダムでのトルーマン大統領は、人間が人間に対して行なった非人道的な振る舞いの長い歴史の中に記録されるもっとも野蛮な条約の一つに、アメリカ国民の名において同意した。これらの協定によって、約1200万人が、たんにドイツ人であるという咎だけで、略奪され、故郷から追い出されたのである

 以前には、戦勝国が領土を併合した場合でも、その地の住民は略奪を受けることもなく、先祖代々の故郷で暮らし続けることを許されていた。しかし、アメリカとイギリスは、ドイツ人が数百年にわたって住み続けていた領土をドイツから奪うことを認めただけではなく、ドイツ系の人々を略奪し、追放する権利をロシア人、ポーランド人、チェコ人、ユーゴスラヴィア人その他に与えたのである

 追放は人道的に行なわれるべしという条項は、この人道に対する罪に不愉快な偽善のオーラを与えたにすぎない。

 「オーデル-ナイセ以東」の土地を手に入れたポーランド人は、きわめて残酷なかたちで住民を追放した。数時間しか余裕を与えずに、女子供、老人、病人を故郷から追い出し、病院や孤児院にいるドイツ人にも容赦なかった。

 チェコ人も少なからず残酷で、ドイツ人を歩いて山越えさせて追放し、国境では彼らが持ち運んできた所持品を盗んだ。チェコ人は、私欲や復讐のために、ドイツ人男性の妻と子供を追放する一方で、数千のドイツ人男性を奴隷労働者として手元に置いた。

 老人、子供、病人の多くは、ドイツ本国に追放されていく途中で、餓え、寒さ、凍傷で死亡したり、難民たちを運ぶ混雑した貨車の中で、餓え、渇き、疫病のために死んでいった。この旅をやっとのことで生き延びたドイツ人も、食糧危機の飢えたドイツに放り出された。国際連合は一人のドイツ民族も助けなかった。難民キャンプはドイツ人難民には閉ざされており、国連救済再定住機関(UNRRA)、のちには国際難民機構(IRO)は、ドイツ人難民の支援を禁じられていた。新しい不可触賎民たちがドイツに投げ出されたが、死んでいくしかなかった。たとえ生き延びたとしても、空襲で焼け野原となったドイツの町には、もともとの市民の住居も不足していたので、新しくやってきた人々は、ひどくみすぼらしい宿舎で貧しく暮らすしかなかった。

 どれくらいの人々が殺されたのか、死んだのか、決してわからないであろう。どれほどが死んだのか、どれほどが奴隷労働者となったのか誰もわからない。確実なのは、国際連合に所属する「民主主義的、平和愛好的」諸国によるドイツ人の清算が、ヒトラーによるユダヤ人の野蛮な清算を凌駕していることである

 世界教会会議難民部長のウェールズ人牧師Elfan Rees博士は、1949年3月13日にジュネーブ大学で行われた説教の中で、「ナチの戦争によって故郷を失った人々よりも、連合国の平和によって故郷を失った人々の方が多い」と述べている。

 ドイツ人がfluchtlingeと呼ぶドイツ人追放者の数――ドイツ本国の中の――は800−900万人と見積もられている。国際難民機構((IRO)は、これらのドイツ人難民にまったく配慮せず、合衆国議会の法律によって彼らに支援することをまったく禁じられていた。人口過剰な西ドイツが彼らを支援することはできない。工業部門、農業部門で働けるようになったのはごく少数で、大半が、家や仕事を手に入れる当てのないまま、人間以下の境遇の中で暮らしている。

 バイエルンでは、われわれ占領国民は、自分専用に数千のホテル、シャトー、バラック、個人住宅を接収し、国際難民機構が援助する人々――その数は次第に減っている――は、ドイツ人が提供する快適な区画を占有している。その一方で、ドイツ人難民は掘っ立て小屋に押し込められ、国際機関からの食料や衣服の援助も受けていない。合衆国は、彼らを略奪し、故郷から追放することに同意しているので、彼らの運命には無関心であると表明している。軍政府はドイツ地方行政機関に、ドイツ人難民はもっぱら「ドイツ問題」であると述べている。

 事実、ドイツにおいて、われわれは、ナチ犯罪の犠牲者であれば誰も救済の対象となるが、われわれがその苦難に責任を負っている人々が衰え、死んでいっても関心の対象ではないと公言している。また、われわれは、共産主義体制からの迫害を受けている人々についても、注意深く人種的な区分けをしている。共産主義のテロルから逃亡してきたチェコ人は難民キャンプへの入所を認められ、アメリカの食料を提供されている。しかし、国境を超えてバイエルンにやってきたロシア人、ルーマニア人、ハンガリー人、ユーゴスラヴィア人はドイツ経済をあてにして暮らさなくてはならない。これらの人々は、終戦以前にドイツ国内にいなければ、難民キャンプへの入所を認められない。チェコ人だけが例外となっているのは、援助の対象は共産主義の犠牲者ではなく、ナチの犠牲者だけだからであるという話である。だから、ドイツはヒトラーの犠牲者に便宜を提供するだけではなく、数十万のスターリンの犠牲者も援助しなくてはならなくなっている。それだけではない。ドイツは、ポーランド、ルーマニア、ハンガリー、チェコスロヴァキアで共産主義者が権力を握ってから、その地を離れた数多くのユダヤ人の受け入れセンター、通過収容所となった。ミュンヘン近郊のユダヤ人難民キャンプでは、私が話しかけたどのユダヤ人も、パレスチナに移住する希望を抱いて、1945年以降にドイツにやってきた人々であった。

 ドイツにいる難民の数が減ってきており、キャンプの多くがなかば空いているにもかかわらず、ドイツ人は、難民機関が占拠した家屋、バラックその他の建物を取り戻すことを許されないか、その建物にドイツ人難民を収容することを認められていない。ドイツ当局は難民キャンプに入ることを許されていないので、正確な情報を手に入れることができないが、バイエルン難民省の見積もりでは、2400から2800のベッドが空いているという。こうした施設が使用されないまま放置されており、その一方で、ドイツ人難民は不衛生な小屋、基本的な利便施設もない宿舎に収容されており、床で寝なくてはならないこともしばしばである。

 私はニュルンベルクにやってくる前に、バイエルンのドイツ人難民キャンプをいくつか訪れている。ドイツ人難民の生活条件と、非ドイツ人難民の大半の生活条件は対照的であった。ナチの犠牲者は、「戦勝民主主義国」による人道に対する罪のために苦しんでいるドイツ人難民と比べると、何と幸運であろうことか

 ミュンヘン近郊のダッハウ収容所では、26×65フィートの木製の小屋に50人以上の男女、子供が割りあてられていた。屋内には遮るものはなかったが、収容者たちは貴重な毛布を利用して、自分たちの空間を人目から遮っていた。小屋は寒く、湿っていた。雨が降っていた。ひどい風邪を引いている小さな女の子を連れた一人の女性が、ベッドの後ろの壁を見せてくれた。雨水がそこからにじみ出てきていた。

 ダッハウでは400人が一つの手洗い室と一つの戸外の便所を共有していた。温かい水は出なかった。シーツはまったくなく、靴や上着のない収容者もいた。

 仕事を見つけることができたドイツ人難民も、まったく宿舎がないので、ダッハウのような場所で暮らさざるをえなかった。バイエルン全体では、各部屋に平均2名であり、事情は他のアメリカ地区、イギリス地区よりも少々良い。だから、仕事を手に入れたドイツ人難民は、一日に5、6時間かけて、ときには歩いて、職場に赴かなくてはならない。ダッハウで話した女性によると、彼女の娘は朝5時半に家を出て、夜に9時に帰宅するが、毎日2時間半歩いているという。

 しかし、多くの場合、ドイツ人難民が仕事にありつくことはない。とくに、彼らの仕事先であった小企業が通貨改革によって一掃されてからはそうであった。さらに、ドイツ人難民の多くは幼子を抱えた女性であった。

 私はキャンプにある二つの学校――一つはプロテスタントのための学校、もう一つはカトリックのための学校――を訪れた。教室は、暖房もなく、机もない木造バラックであった。子供たちはベンチに座り、教科書を持っていなかった。紙と鉛筆を持っている生徒はごく少数であった。二人の教員が黒板に書いて教えていた。一人はズデーテン地方出身の社会民主党員で、戦時中はナチの強制収容所に収容されていた。そして、解放されたものの、チェコ人によって故郷から追い出された。子供たちは痩せており、青ざめていた。しかし、清潔でこぎれいにしていた。ドイツ人は皆もっとも惨めな境遇のもとにあっても、何とか清潔でこぎれいに暮らしていた。

 私が教室に入ると、子供たちは立ち上がり、「グリュス・ゴット」とユニゾンして叫んだ。以前には、同じように「ハイル・ヒトラー」といっていたのであろうが、ダッハウで、彼らが、「民主主義」の方が第三帝国よりもましであると思っているとは考えられない。

 私は一日の大半をダッハウですごし、バラック14で暮らしている家族の話を聞くために、何時間もそこですごした。バラックの最年長者は、64歳のヴェルナー博士夫妻であった。彼はオーストリアでは判事をつとめ、20年間、ズデーテン地方の国家検事でもあった。ヴェルナー夫妻には息子が一人いたが、ロシア戦線で戦死していた。1945年5月、ヴェルナー博士はチェコ政府に逮捕され、2年間投獄され、飢えと殴打を経験し、仲間の囚人が拷問を受けているのを目撃した。釈放されたときには、廃人同然となっており、もちろん、財産はすべて没収されていた。その間、彼の妻はチェコスロヴァキアから追放され、持ち物すべてを奪われた。結婚指輪さえも奪われたのである。最初は、数千名の同胞とともに屋根のない貨車に載せられてテプリツに運ばれ、その後、文字通り、着の身着のままでチェコから放逐され、エルツ山脈を越えさせられたのである。彼女は、腹をすかせながら、5週間も放浪したのちに、ザクセンの農業労働者となった。ヴェルナー博士も追放されてから、この地で彼女を発見し、自分も農業労働者として雇われた。しかし、1947年8月、彼は奴隷労働者として、ボヘミアに連れ戻された。その後やっとのことで、バイエルンに戻ることを許され、ロシア地区からの逃亡に成功していた妻と再会した。

 この二人の同人は絶望状態にあった。彼らは衰弱していたので肉体労働することが困難であったが、それ以外に道はなかった。家、衣服、家具、シーツを奪われ、ダッハウで野垂れ死にするしかないようであった。しかし、彼は勇敢で、自分たちの難儀にだけ対処していたわけではなかった。ヴェルナー夫人は幼子を連れた若い女性を助け、ヴェルナー博士は、バラックにいた53名の住民の信頼と尊敬の念を勝ち得た。私は彼のおかげで、彼らの物語をまとめることができた。のちに、食料や衣服を彼に送り、アメリカの友人にも小包を送るように頼んだところ、住民たちからの手紙によると、ヴェルナー博士は品々を住民たちのあいだに配分したという。

 バラックで暮らしている家族や個々人は、それぞれヴェルナー夫妻と同じような経験をしており、もっと悪い待遇を受けた人々もいた。フリッツ・ベルングラウとその妻メリッタのケースが典型的である。フリッツはロシア戦線で戦い、捕虜となったのちに、逃亡に成功し、チェコスロヴァキアに戻った。彼は、「アメリカ軍の到着を待望していたが、アメリカ軍はカールスバード郊外に止まっていた。」ロシア軍がやってきて、その保護のもとに、チェコの共産主義者が、ベルングラウ夫妻の住むボーデンバッハ市を略奪した。そして、町の住民は、追放され、文字通り死の行進をしなくてはならなかった。1日で、24000人の住民が追放され、ザクセンへと家畜のように追い立てられた。行進のペースについていくことのできない女子供と老人は、棍棒で殴られ、途中で脱落した。手荷物はすべて放置しなくてはならなかった。ロシア占領下のニーダー・ザクセンでは落ち着き先を見つけることができず、3週間も徘徊したのちに、ベルングラウ夫妻は、追放前に家に残してきた衣服とシーツを取り戻そうと、ボーデンバッハに戻った。二人は発見・逮捕され、メリッタはひどく殴られた。彼らは、刑務所で10週間すごしたが、そこでは、二人用の房に32人が押し込まれていた。女性たちは、男性囚人が拷問を受けて叫び声をあげるのを耳にしなくてはならなかった。刑務所は、「資本家、地主」という「政治犯」で一杯だったからである。銀行家アドラーの妻は、隣の房の叫び声が自分の夫の声であると思って、自殺をはかった。文字通り、死ぬまで殴られた囚人もいた。

 フリッツ・ベルングラウ自身の話では、彼とその妻は、「自分たちの身体でボリシェヴィズムの恐怖を学んだ」ので、チェコの刑務所を釈放されるとすぐに、ロシア地区からの脱出だけを考えたという。現在、夫妻はダッハウで暮らしている。たしかに、条件は劣悪であるが、共産主義者の支配下で暮らすよりはましだという。

 最後に、もう一つのケース、エリカ・ブルーノのことを紹介しておきたい。彼女にはレナーテという娘がいたが、私がバラックに入ったとき、気になったからである。彼女はシュレジエンの農民の妻であったが、チェコスロヴァキアにいる兄を訪ねているときに、降服をむかえ、逮捕された。妊娠していたけれども、故郷に追放され、リーゼン山脈を越えて200マイルを歩かなくてはならなかった。物乞いをしたり、木の根を食べて暮らさなくてはならなかった。しかし、故郷のシュレジエンに戻ると、今度は、ポーランド人が彼女を引きずりおろし、所持品のすべて、コートや靴までも奪った。臨月の迫っていた彼女は、1945年のクリスマスまで、着の身着のままで町から町に徘徊し、ブランデンブルクにやってきたときに、入院を認められて、そこで子供を産んだ。

 ズデーテン追放者グループがミュンヘン近郊に設立したヴァゴナー「工場」を訪れることは気持ちの良いことであった。彼らは2000名の同胞とともに着の身着のままで追い出され、携行を認められていた55ポンドの手荷物も、国境のところでチェコ人に奪われた。2歳の子供を乗せた乳母車を奪われ、子供を背負わなくてはならなかった人もいた。しかし、ヴァゴナー工場の労働者は結束して、アメリカ軍当局から機械を確保することに成功した。軍当局は、賠償用に解体された機械の一時的使用を認めたのである。ついて、ノルウェー人が、機械の修理との交換で、賠償用の機械二台を提供してくれた。このような方策を利用して、熟練工であった彼らは、何とか機械を組み合わせて、生産手段を確保して、自分たちの食い扶持を稼ぎ出し、今日でも、小さな工場でボーリング機械を製造している。この企業を訪れてみれば、自分たちの私利私欲と復讐心を満足させるために熟練工を追放してしまったチェコ政府の愚かさに気づくことであろう。

 しかし、ダモクレスの剣は、生活困窮者ではなくなったドイツ人難民の上に依然としてぶら下がっている。合衆国賠償当局は、ヴァゴナー作業場や周辺の小企業に電力を提供している変圧器の解体を指示するかもしれないからである。

 もしそのような事態になれば、ヴァゴナー工場の労働者たちは、通貨改革によってなけなしの資産を奪われたしまった小企業の従業員がたどったのと同じように、ダッハウその他のキャンプでの惨めな暮らしに戻ってしまうことであろう。

 驚くことではないが、多くの人々が惨めな状態で暮らしているダッハウ収容所では、共産主義者たちがかなりの影響力を持っている。ダッハウのドイツ人難民の非公式の指導者は共産主義者で、彼は、大規模なストライキと大抗議集会を組織してバイエルン当局に圧力をかけ、木造家屋の「冬期化」と食料供出によって、収容所の状況を改善させた。バイエルン当局はキャンプでの宿舎と食料の不足に責任を負ってはいるが、真犯人は別にいる。西ドイツの中で、バイエルンは一番多くのドイツ人追放者を受け入れることを余儀なくされており、しかも、難民キャンプと占領軍の宿舎も多数必要であるので、手のほどこしようがない。

 軍政府の見積もりでは、1948年の時点で、900万人のバイエルン住民のうち、4分の1以上は固有のバイエルン住民ではなかった。チェコススロヴァキアからの100万以上の追放者、オーデル・ナイセ以東からの606000人の追放者、ハンガリーからの51500人の追放者、その他の地域から170000人の追放者がいた。さらに、他の地域もしくは西側諸国からの30万人ほどのドイツ人もいたし、ドイツ経済の負担で暮らしている164000人の外国人もいた。これに加えて、バイエルンに不法に侵入してきた無数の非登録住民がいた。この点ではバイエルンは、西側諸州の中で最悪の条件のもとにある。長い国境地帯をかかえており、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ドイツのソ連地区から、無数の人々が、夜ごと越境してくるからである。バイエルン当局が、こうした難民の失業対策と宿舎の確保に全力をあげていたとしても、その努力は、絶えず石を運び上げる仕事を与えられたシシュフォスの苦行のようなものである。

 ポツダム協定のもとで「合法的」に行なわれた追放者によるバイエルンの人口増加は、全体の半分にすぎない。1939年には700万人であったバイエルンの住民は、1948年1月1日までに925万に増加した。180万人が難民で、292000人がドイツの他地域からの疎開者であった。

 国連救済再定住機関の救援対象となっていない、70000人の外国人が1945-46年にバイエルンに入った。1947年には、さらに75000人の「越境者」がバイエルンのドイツ人キャンプに登録された。1948年の通貨改革によって、各人、40新ドイツマルクを受けとることになったが、そのことによって、登録されておらず、配給カードも受けとっていないが、闇市場に頼って生活している10万人の不法入国者がバイエルンに存在していることが明らかとなった。

 バイエルンの住民が225万人も増加したために、ドイツ当局が十分な宿舎を提供することは物理的に不可能となった。これに加えて、空襲や軍政府の接収によって自分の家を喪失した人々が33万人いたからである。戦争中の空爆によって100万戸が破壊され、70万戸が損害を受けた。合衆国軍政府はさらに115000戸を接収した。国際難民機構の難民キャンプ用に確保された比較的広いスペース、軍政府がアメリカ人やそのゲストの宿舎・娯楽施設用に接収した数多くの建物が利用できないために、今日のバイエルンは過密状態であり、二人に一部屋が平均的「生活空間」である。ニュルンベルク、レーゲンスブルク、その他ひどい空爆を受けた都市では、一部屋二人か1.5人である。

 この平均的居住空間には、冬期に暮らすには不適当なバラック、木造のサマーキャンプ、数千名を収容する湿ったセメントの壁に囲まれた地下防空壕、家畜小屋、その他人間が暮らすには不適当な建物が含まれている。

 ダンスホールやギムナジウム、その他便所や暖房のない建物で暮らしている難民もいる。通過収容所も「人道的に」詰め込まれているので、貨車で新参者が到着すると、その貨車の中に留め置かれるか、戸外で寝なくてはならないこともしばしばである。

 ドイツ人難民の大半は女子供であるが、男性やその他労働可能な人々もなかなか仕事を見つけることができない状態である。バイエルンのドイツ人難民190万人のうち、120万人が、住民4000人弱の農業コミューニティで暮らしているが、このコミューニティでは難民労働力を利用することもできない。

 バイエルン州の収入から見ても、難民の食料を提供し、ベッド、毛布、衣服、身の回りの品を配給する費用はまったくアンバランスである。1948年の時点で、バイエルン州は、もともと提供されていた衣服やベッドを除外しても、キャンプの維持のために、月額50万マルクを支出していた。

 1948年、自分自身もシュレジエンからの難民であったバイエルン州大臣イェニッケは、国連に支援を訴え、ドイツは国際難民機関が援助を拒んでいるドイツ人難民、非ドイツ人難民の宿舎と食料を提供することはできないと述べた。とくに、彼は、(a)国際難民機関が占有したが、もはや空きとなっている宿舎の返還、(b)難民の本国送還と移住の促進、(c)ソ連からドイツに逃亡し、ドイツ経済がその生活を保証しなくてはならなくなっている大量の外国人難民への国際難民帰還の支援の拡大、(d)マーシャル・プランの資金を配分して、ドイツその他のヨーロッパ諸国の難民に仕事を提供することを訴えた。

 バイエルンは、共産主義者の支配する国々からの逃亡に成功した難民の土地となっている。しかし、ドイツが、共産主義のテロルからの逃亡者の大量流入に対する援助を求めると、軍政府の問題ではなく、ドイツが責任を負う問題であるとの答えが返ってくる。軍政府は、ドイツ人追放者と難民はドイツが責任を負うべきであると主張する一方で、「十分な受け入れ施設、配給施設を用意すべきである」と指示してきたと身勝手なことを公言しているが、滑稽とは言わないまでも、馬鹿げた事態である。ドイツ人がそのようなことはできないことを誰もが知っているからである。

 

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