ドイツにおけるアメリカの虐待行為
エドワード・L・ヴァン・ローデン判事
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ドイツのダッハウでの合衆国法廷のアメリカ人尋問官は、自白を手に入れるために次のような方法を使った。すなわち、殴打と野蛮な足蹴。歯を折ること、顎を砕くこと。偽裁判。独房への拘禁。僧侶の振りをすること。食糧配給の減額制限。無罪の約束。
陸軍長官ケネス・ロイヤル(Kenneth Royall)は、昨春に、拷問についての不平を受け取った。ロイヤルは、テキサス州最高裁判事ゴードン・シンプソン(Gordon Simpson)と私をドイツに派遣し、報告書をまとめるように要請した。
私たちは、チャールズ・ローレンス中佐に伴われて、ドイツのミュンヘンに出かけ、そこに事務所をかまえ、アメリカの虐待行為がどのようになされたのかについての証言に耳を傾けた。
しかし、最初に、背景を少々述べておかなくてはならない。昨春、最高裁は、有名なマルメディ裁判で74名のドイツ人を弁護したアメリカ人法律家ウィリス・N・エヴァレット・ジュニア(Willis
N. Everett. Jr.)大佐の身柄提出令状嘆願を却下した。エヴァレットは、有能な法律家であり、良心的で誠実な紳士である。狂信的な人物ではない。
エヴァレットは、その嘆願のなかで、ドイツ人が公平な裁判を受けていないと告発した。エヴァレットの主張は、ドイツ人被告全員が無罪ということではなく、公平な裁判を受けていないので、有罪か無罪かを決定する方法がないということであった。
悲劇は、私たち多くのアメリカ人が、汗と血を流しながら戦い、そして勝利を収めたのちに、今では、「ドイツ人全員を処罰すべきである」と語っていることである。私たちは勝利を収めたが、殺戮を続けたがっている者が、私たちのなかにいる。これが不愉快な点である。
エヴァレットの衝撃的な告発が真実であるとすれば、それは、アメリカの良心にとって、永遠の汚点となるであろう。平時にこのような虐待行為がそのまま放置されているとすれば、戦時中にアメリカ人に対するドイツ人の虐待行為、ドイツ人に対するアメリカ人の虐待行為が存在したという事実によっても、私たちの不名誉が消え去ることにはならないであろう。
私たちの特別任務は、エヴァレット大佐の告発を検証することだけではなく、当時まだ執行されていなかった139名の死刑判決を検証することであった。152名のドイツ人はすでに処刑されていた。
まだ生存していた139名の死刑囚は3つのグループに分かれていた。彼らは、ダッハウ強制収容所での犯罪への関与、アメリカ軍飛行士の殺害への関与、マルメディの虐殺への関与で告発されていた。これらのドイツ人の罪状となった犯罪は実際に行なわれ、何人かのドイツ人はこの件で有罪であると確信している。
しかし、戦時中と戦後に一般的となった、ドイツ人全員に対する見境のない憎悪にとらわれてしまって、有罪となった者を処罰することだけに目を奪われるべきではない。
私は、調査を行ない、双方の話を聞いてみると、ドイツ国民は、ドイツ政府の行なっていたことを知っていたわけではないと考えるにいたった。私は、ドイツ国民は、極悪人ヒムラーが強制収容所で行なった悪魔的な犯罪についてはまったく知らなかったと確信している。私たちが知るようになった虐殺行為から見ると、ヒムラーは悪魔の王子であったに違いない。
しかし、大半のドイツ人に関して言えば、彼らは、守るべき祖国を持つ忠実な市民として、戦争を戦い抜いたのである。
ドイツを空襲して撃ち落されたアメリカ軍飛行士が、ドイツの民間人によって殺された。
これらのドイツ人は、アメリカ軍飛行士を、空襲を受けた町に住む、自分たちの無防備な妻、母、子供たちの殺人者とみなした。それは、イギリス人がドイツ軍飛行士を殺人者とみなしたのと同様である。これが戦争である。
私は、これらの飛行士に深く同情する。私の二人の息子は空軍に勤務していた。ジミーはドイツに35回出撃し、神のおかげで、無事に帰還した。ディックは32回出撃したが、イタリア上空で撃ち落された。彼は、ドイツの捕虜収容所で12ヶ月過ごし、そこでは公平な取り扱いを受けた。アリゾナの保養所にいて、収容所で感染した結核を治療している。
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バルジの戦いの最中に捕虜となったアメリカ軍捕虜が射殺されたマルメディの虐殺は、実際に起こった事件である。しかし、これらの虐殺行為が起こったという主張と、当時マルメディかその近くにいた74名のドイツ人がこの虐殺行為を行なったという主張とを区別することができないであろうか。
何名かの弱悪でサディスティックなドイツ人がこれを行なったので、私たちが捕らえたドイツ人すべてが有罪であり、処刑されるべきであると言うことで、正義を実行しているのであろうか。個人的には、そうは思わない。それは、私が、そして、あなた方が教会で学んだ考え方ではない。
アメリカ人は、ロシア側の主張にもとづいて、これらの人々の再審を行なうことができなかった。この件でのロシア側の哲学は、尋問官が被告の有罪・無罪を決定し、判事はたんに刑の宣告をするにすぎないというものであった。私たちは、再審を行なわないというロシア側の定式を受け入れたが、裁判まで推定無罪という原則を捨て去ってしまった。
アメリカの法律は伝聞証拠を禁止しているが、それも効力停止されていた。法務官は、伝聞証拠、とくに、行為が行なわれて二、三年後に手に入れた伝聞証拠の価値に疑問を呈していたが、そのような伝聞証拠が認められた。検事エリス中佐とパール中尉は、満足のいくような証拠を手に入れることは難しかったと弁解している。パール検事は次のように述べている。「私たちは難しい事件をこじ開けなくてはならず、説得的手段を使わなくてはならなかった。」説得的手段には、「何らかの暴力、偽裁判のようなご都合主義的な方法」も入る。本件は、このような方法を使って手に入れた供述に依存している。
証拠として採用された供述は、3ヶ月、4ヶ月、5ヶ月も独房に始めて拘禁された人物からのものであった。彼らは、窓のない、四方を壁に取り囲まれた部屋に拘禁され、身体を動かす機会もまったく与えられなかった。一日二回の食事が、ドアの下の隙間から差し込まれた。誰かに話しかけることも許されていなかった。家族や聖職者と連絡を取ることもできなかった。
ドイツ人を、あらかじめ用意されていた供述書に署名することを説得するには、この独房への拘禁だけで十分であった。そして、この供述書の内容は、署名した人物だけではなく、それ以外の被告にも関係していたのである。
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私たちの尋問官は、被告の頭に黒いフードをかぶせて、メリケン・サックで顔を殴ったり、足蹴にしたり、ゴム・ホースで殴ったりした。ドイツ人被告の多くは歯を折られていた。顎が打ち砕かれていた被告もいた。
私たちが調査した139件のうち、2名を除いて、ドイツ人全員が、直る見込みのないほど、睾丸を殴られていた。これが、アメリカ人尋問官による標準的な作業手順であった。
パール検事は、偽裁判や、暴力も含む説得的方法を使ったことを認め、このようにして手に入れた証拠にどれほどの価値を置くかどうかを決定するのは法廷であると述べた。しかし、すべての証拠の価値が認められたのである。
18歳になる一人の被告は、何回も殴られたあとに、言われたままの供述を書いていた。16頁にまでやってくると、この少年は、一晩、閉じ込められた。翌朝早く、近くの房にいたドイツ人は、この少年が「もう嘘はつけない」とうめいているのを聞いた。そのあと、看守がやってきて、虚偽の供述書を完成させようとすると、このドイツ人は、房の棒に首をつって死んでいた。にもかかわらず、このドイツ人が首をつってまで署名を逃れようとした供述書は、法廷に提出され、他の被告の裁判証拠として認められた。
署名を拒んだ囚人が、薄明かりの部屋に連れて行かれたこともあった。その部屋では、アメリカ軍の制服を着た民間人尋問官が、黒いテーブルの周りに座っていた。テーブルの中央には、十字架があり、両端には、二つのろうそくがともされていた。そして、被告には、「これから、アメリカの裁判が開かれる」と宣言された。
偽の法廷は、偽の死刑判決を下した。そして、「将軍がこの判決を承認すれば、数日以内にお前は絞首刑となる。しかし、この自白に署名すれば、無罪としてやることができる」と宣告された。にもかかわらず、署名しなかった者もいたという。
私たちは、このように、十字架がいかがわしく利用されたことにショックを受けた。
別の事例では、偽のカトリックの司祭(実際には尋問官)が被告の房に入ってきて、懺悔を聞き、贖罪を認めてから、「尋問官が署名を求めたものならば、なんでも署名しなさい。そのことで、自由になるでしょう。たとえそれが虚偽であっても、私が、嘘をついたことに贖罪を認めることができます」と親しげに教えてやった。
これらの裁判に関する私たちの最終報告は、ロイヤル陸軍長官に渡された。上記のような多くの事例にもかかわらず、証拠を不適切に手に入れようとする共同謀議を発見することはできなかった。29例を除いて、処刑を実行すべきではない理由を発見することはできなかった。110件については、拷問によって手に入れた証拠を除外しても、死刑を妥当とする十分な証拠が、他の資料からも存在した。
29名については、アメリカの標準にもとづく公平な裁判を受けておらず、減刑を提案した。この提案にしたがって、彼らのうち27名は終身刑、1名は懲役10年、1名は懲役2年6ヶ月となるはずであった。また、戦争犯罪裁判で有罪とされた他の囚人の判決についても、それを考慮しなおし、恩赦を与えるような制度を作ることを提案した。
ロイヤル長官は、私たち国民の良心を救った。彼がそのようにしなかったとすれば、私たちアメリカ人は、二度と、頭を上げることができなかったであろう。彼は、私たち国民の名誉と国際的な名声を救った。
しかし、この件でのロイヤル長官の行動にもかかわらず、アメリカ人がそれだけで自己満足してしまう余地はほとんどない。私たちの報告が明らかにしたように、依然として、ドイツには解決しなくてはならない深刻な事態が存在する。さらに、私たちが減刑を提案した人々のうち5名が、この報告書のあとに絞首刑となってしまった。だから、調査をはじめた139名のうち、100名が死んでしまっていることになる。
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アメリカの正義の名において、アメリカ国旗のもとで虐殺を行なったアメリカ人尋問官は、その代償を免れている。この点で、二つの目標を追求すべきである。
(1) 減刑されてはいないが、まだ絞首刑となっていない死刑囚の生命を、完全な再審が行なわれるまで、救うべきである。
(2) 勝利者の権力を乱用し、復讐に正義を売りわたしてしまったアメリカ人尋問官を、できれば、合衆国国内で公に暴露し、処罰すべきである。
アメリカ人がおかしたこれらの犯罪が、自国内で私たちによって暴かれなければ、アメリカとアメリカの正義の名誉は、永久に、取り返しのつかないほど、傷ついてしまうであろう。私たちが進んで、私たち自身の職権乱用を調査し、それを公に非難し、その行為を否定すれば、部分的にではあるが、罪滅ぼしをすることができる。もしも、私たちの敵が私たちの罪を外国で公表するまで、待ってしまえば、私たちができることは、恥を忍んで、それを認め、頭を下げることだけとなるだろう。
ペンシルバニア州判事エドワード・L・ヴァン・ローデンは、第一次世界大戦、第二次世界大戦に従軍し、第二次大戦では、ヨーロッパ戦線軍事裁判部長であった。ヨーロッパの戦場では、ノルマンディ、ベルギー、ラインラント、バルジの戦い、アルデンヌで職務を果たした。1946年に、職務に復帰し、ドイツでのいくつかの重要な軍事法廷で職務を果たした。1948年、陸軍長官ロイヤルは、彼を、ダッハウ戦争犯罪裁判調査特別委員会に任命した。 |
E. L. Van Roden, "American Atrocities in Germany", The Progressive. February 1949, p. 21f.
Online: http://www.codoh.com/atro/atrusa4.html