グスタフ・ペトラトの減刑嘆願書

 

 

第二次大戦末期、マウトハウゼン収容所のSS看守をつとめたグスタフ・ペトラト(Gustav Petrat 1924-1948)は、終戦後、同収容所での囚人の殺害・虐待の咎で逮捕され、米軍の主宰する「ダッハウ裁判」にかけられ、死刑判決を受けて、処刑された。以下に紹介するのは、処刑を前にしたグスタフ・ペトラトの減刑嘆願書である。J. Halow, Innocent at Dachau, Neport Beach, 1993, pp. 258-263. 「ダッハウ裁判」の実態をよく伝えている。

 

(処刑直前の写真、ibid.

 

私、グスタフ・ペトラト19241112日に、リトアニアのヴィルバレンで生まれました。そして、いまはレチのランツベルクにいます。この陳述が合衆国地区軍政長官に提出されること、虚偽の陳述は処罰されることを知らされたのちに、以下の宣誓陳述書をしたためました。

 

  119445月、負傷したために、私はマウトハウゼン収容所の看守に転勤となり、そこで第16看守中隊の犬の監督官として勤務しました。私の階級は武装SS伍長でした。

  21945510日、マウトハウゼン近くのライドで米軍兵士に捕まり、ティットリング収容所に連行されました。そこに着いたとき、鞭、拳骨、脚で虐待されました。この当時、新しくやってきた囚人をこのように扱うのは、普通の慣習でした。

  3)多くの者と同じく、戸外のジャガイモ畑に宿営させられました。このために、全員が野ざらしでした。

  最初の3日間、私たちにはまったく食物が与えられず、4日目から、20名の囚人につきパンひとかたまり、2名につきスープ1リットルが与えられました。このような条件のもとで数週間暮らしていたので、まったく栄養失調となり、この場所から動くこともできないほどでした。

  41945525日、最初の尋問を受けましたが、それは私の捕虜生活の中で忘れられないものでした。最初の質問をされるまえに、殴られ、その場に倒れてしまいました。弱っていたにもかかわらず、やっとのことで立ち上がり、尋問官から足蹴にされたのちに、本当の尋問が始まりました。尋問官は、私がそうする意志を十分に持っていたとしても答えることができないような質問をしました。マウトハウゼン強制収容所長の所在を答えなくてはなりませんでした。私はその件については実際に知らず、伍長として知ることもできなかったのですから、答えようがありませんでした。このために、殴打の嵐が飛んできました。

  第二の質問は私自身に関することでした。何名の囚人を射殺したり殴ったりしたのかと尋ねられました。わたしは「一人も」と誠実かつ良心を持って答えました。

  すると、尋問官はピストルを取り出し、すぐ本当のことを言わなければ殺すぞと脅しました。彼は、私が絞首刑に処せられるべきであると言っていました。私は、本当のことだけを話しており、殺したければ殺せばよい、すくなくともこのような乱暴な状態から解放されるともう一度言いました。すると、またもや殴られました。…

  5194559日、80名の囚人とともにムースブルク収容所に送られました。194597日、ムースブルクで二度目の尋問を受け、ティットリング収容所でと同じ質問をされました。ここでも、鞭で殴られました。それは、皮ひもがついている30センチほどの木の取っ手でした。私が否認すると、本当のことを白状させるほかの手段があると言われました。その後、尋問官は数分間部屋を離れ、二番目の尋問官をつれて戻ってきました。殺人についてはまったく知らなかったので、この人物に対しても否認したところ、彼は拳骨で私を殴り、「縛り首にする」、「銃殺する」と言って脅しました。私は自分の意見を言い通しました。その後、房に戻されました。

  1946210日、私はダッハウ収容所に移送されました。

  6)ここでは二回尋問されました。1946621日の尋問では、尋問官たちは、私がマウトハウゼン強制収容所で8名の囚人を射殺したという内容の陳述書を読み上げました。これに署名せよというのですが、囚人を射殺したことはなかったので、懸命に拒否しました。署名を何度も求められたのちに、拳骨で殴られ、足で蹴られました。彼らは、私がアメリカ軍の尋問官や兵士に殴られたことはないという内容の文書を私の前に置き、それに署名を求めました。拒絶すると、殴打が繰り返され、署名するまで部屋を出ることはできない、私の頑固さを打ち砕く手段を知っていると脅迫され、ついに私は署名してしまいました。

  私はこれまでの人生のなかで裁判とかかわったことがまったくありませんでしたので、私の命がもっと危うくなることを恐れていました。

  719471月、いわゆる「面通し」がダッハウ特別収容所で始まりました。囚人と3回対面しましたが、私を告発した者は一人もいませんでした。「面通し」の責任者エントレス氏は、私が多くの囚人を射殺し、殴って死に至らしめたと囚人たちに話しましたが、爆笑が起こっただけでした。このとき、私は22歳でした。19歳半ばのときにマウトハウゼンに犬の監督官としてやってきました。

  有名な囚人ザンナー博士は、自分は彼のことを知らないし、もしも犬の監督官が囚人を殴って死に至らしめたり、射殺したことがあったとすれば、この話は収容所で知られていたことであろうと述べました。その他多くの長期囚も、無罪を証明してくれるようなこの証言に賛同してくれました。

  819477月中旬、私と7人の共同被告人は、公式の弁護士ウイリアム・オーティス少佐に初めて紹介されました。訴因が何であるか、誰から告訴されているか知っているかという質問に対して、私は、虐待したり、殺害したりしたことはないので、まったく罪の意識も無いし、裁判に引き出されることも考えたことはないと答えるしかありませんでした。

  オーティス少佐は、自分も何も知らない、検事側の犯罪調書を見ることもできない、だから、私の陳述書、起訴状、法廷での検事側証人の証言をこれから検討しなくてはならないと述べました。

  検事側だけが記録のアクセスすることができ、私の弁護人は記録を見ることができなかったので、当然にも、私の弁護人が弁護を準備することはとても困難でした。オーティス少佐はできる限りのことをすると約束してくれました。私も、自分にとって重要であり、彼ら自身もダッハウに収容されていた証人の名前を挙げました。

  91947715日、起訴状を受け取り、共同被告人とともに、ダッハウ収容所のブンカーTに移送されました。

  無罪を証明してくれるような資料をここで手に入れることは不可能でした。外界からは遮断されていたからです。証人や裁判のことについて触れている親戚・知人あての手紙は、検閲されていたので、受取人はその一部しか受け取ることができず、そこからは何も情報を得ることができませんでした。このために、弁護資料を手に入れることは不可能でした。証人への特別な手紙や弁護士への資料請求も実りの無いものでした。

  結局、無罪を証明するような資料を手に入れることはほとんど不可能でした。また、開廷までの期間が短く、資料を手にいれることはできませんでした。

  10)裁判は、194786日に開廷し、821日まで続きました。

  11)検事側証人は検察当局からあらゆる支援を得ていました。彼らが嘘をついていることがわかると、ルンドベルク検事が飛び上がって、弁護士が証人を脅迫している、彼らを嘘つきとしたがっていると非難しました。

  12)実際には、逆でした。弁護側証人は検事の騒々しい声によって脅迫され、偽証との烙印を押されました。弁護側証人が非ドイツ系囚人によって脅迫され、殴られたために、もはや弁護のために出廷してこなくなったということもありました。彼らは自分たちも告訴されてしまうことを恐れていました。非ドイツ系囚人はそのようなことができたし、ドイツ人全員を憎んでおり、復讐に駆り立てられていたからです。

  13)法廷にはポーランド人、ユーゴスラヴィア人、ユダヤ人の囚人が傍聴者として在席しており、彼らは情報センターの役割を果たしていました。すなわち、彼らは休廷のときに、自分たちの尋問を待っている同僚に、法廷で議論されたことすべてを話していました。この情報にもとづいて、次の証人は告発を補強し、無罪の主張を無効にすることができたのです。

  このために、告発ではいつも同じ論点を提出することが可能でした。

  14)前もって私たちが答えていた質問用紙は、検事や通訳を介して、検事側証人に渡されていました。だから、検事側証人は、偽証となる恐れを抱かずに、正確な日付を証言し、被告の犯罪を立証することができたのです。にもかかわらず、交差尋問の過程で矛盾をおかすことがありました。しかし、検事側証人はアメリカの法廷の保護下に置かれていたので、偽証――彼らは繰り返し偽証をおこなった――の罪を恐れる必要はまったくありませんでした。

  15)私たちには被告として、自分の意見を述べる権利がまったく与えられていませんでした。裁判の冒頭で、弁護士は、私たちが静寂を保っていなくてはならないこと、証人への質問は紙に書いて、通訳のバー氏に渡さなくてはならないことを話してくれました。私はリトアニア人で、ドイツ語が少々わかるだけなので、裁判の大半を理解できませんでした。休廷中に、私の訴因を同僚から聞き出さなくてはならないほどでした。

  17)(ママ)弁護士による最終陳述はありませんでした。私は1947821日に死刑を宣告されました。判決は1948626日に承認されました。

ランツベルク/レヒ、1948910日、グスタフ・ペトラト