対独協力作家ブラジヤック裁判
――1945年1月19日、パリ――
<はじめに>
「解放」後および戦後のフランスでは、対独協力派に対する復讐、報復の嵐が吹きまくり、多くの、政治家、軍人、民間人がドイツ占領時代の対独協力の罪で処罰された。こうした対独協力派に対する裁判も、他の戦争犯罪裁判とならんで、非常に興味深いものであるが、私個人の研究能力と語学能力の欠如ゆえ、その実態になかなか接近できない。ここでは、裁判記録といったような第一次資料ではないが、対独協力の罪で処刑された作家ブラジヤックについての研究書A. Kaplan, The Collaborater: The Trial and Execution of Robert Brasillach, Chicago, 2000.から、彼の裁判を扱った章を翻訳することで、フランスにおける対独協力派裁判にアプローチする端緒としておきたい。
ただし、筆者カプランの文章は、非常に文学的であり、ひとつの文の中に、直接話法的表現、間接話法的表現、カプランの批評が渾然一体となっていて、非力な私には非常に難解である。翻訳にあたっては、裁判での判事、検事、被告の発言をできるかぎり正確に紹介することを第一の目的として、間接話法的表現、カプランによる内容の要約などを直接話法的表現にかえていくという方法を採用した。したがって、ほとんど意訳に近く、誤訳も多く含まれていると思われるので、原著を必ず参照していただきたい。
最終修正日:2002年9月14日
フランスは、「審問」システムと呼ばれる裁判制度を持っている。裁判は、芝居のように、一つ一つの幕に分かれている。最初に、起訴状の朗読が法廷書記官によって行なわれる。それは、プロローグであり、この後に続く芝居が解明する諸事件・諸事実を紹介する。
第一幕は尋問であり、裁判長が被告を尋問する。この尋問では、被告は、裁判長と会話をしながら、自己を表現するチャンスを得る。陪審員、検事、弁護士も被告を尋問することができる。次に、弁護側証人と検事側証人が召喚される。これは、尋問審理の一部とみなされている。その際、裁判官、弁護人、検事は証人を尋問できる。このように、公開された対話を伴った尋問は、アメリカの法廷で行なわれる交差尋問に等しい。
尋問ののちに、第二幕となり、それは、被告に対する検事の陳述である。
第三幕は、被告のための弁護人の陳述である。
フランスの法廷の関係者は、尋問するときや、被告や証人に異議を申し立てる場合を除いて、抑制された独白調で話す。
裁判の終わり、弁護人の陳述のあとに、裁判長が被告に、何か付け加えることがあるかどうかを尋ねる。被告には最後の一言まで述べる権利を保証するのが、フランスの司法制度の基本原則である。そのあと、陪審員たちは審議のために法廷を離れる。アメリカの陪審員は、彼らだけが残されて、自分たちのあいだから議長を選出するのに対して、フランスの陪審員は裁判長と一緒に別の部屋に行く。裁判長は、裁定に伴う処罰を説明することで、陪審員の審議を助ける。そのあと、法廷が再開され、判決が朗読される。
ブラジヤック裁判では、その一幕一幕がそれぞれの雰囲気、非常に異なった人間ドラマという性格を持っていた。驚くべきことに、この裁判では証人がいなかった。そのことはこの裁判の劇場性を際立たせていた。
<プロローグ:起訴状、午後1時>
「被告のドア」が開けられた。ブラジヤックは、頭にケピをかぶり、胸に革の銃ケースをつけた、青色の征服の憲兵に伴われて、広い法廷に入ってきた。彼はこの瞬間の自分のことを「囲いをあとにした雄牛のように」と記している。Francine Bonitzerは、「野獣が円形競技場に解き放たれた」とL’Auroreのために記した。
ブラジヤックはすぐに「被告席」という別の囲いを見つけた。箱型のオーク材のパネルでできた被告席であり、ブラジヤックと彼の看守がこれからの公判中ずっとそこに座り、ブラジヤックはそこから、希望を抱きながら、傍聴人をじっと見つめていた。彼の友人の多くは、ドイツに亡命しているか、パリのどこかに隠れていた。あるいは、彼の義理の弟Maurice Bardècheと同じように、ブラジヤック自身が拘留されているFresnesの監獄に収監されていた。一握りの親戚と友人だけがいた。妹のSuzanne、共産主義者に共感していたが、ブラジヤックには忠実であった漫画家のJean Effel、捕虜収容所時代からの将校仲間Jacques Tournant。Tournantはブラジヤックを弁護する有力な証人であったし、彼がメイドの部屋に隠れていたパリ解放の週には、連絡係をつとめていた。ブラジヤックは彼らに内気なさざ波を投げかけていた。Edóuard Helseyは、ブラジヤックが校長先生の前に引き出された腕白な生徒のようだと思った。
この1月の午後に、校長先生役を演じたのは、Maurice Vidalであった。裁判長のVidalは、52歳の読書家の灰色の髪の人物であり、年よりもはるかに老けているように見え、片目が悪かったので、人の気をそらしてしまうような印象をあたえていた。温厚な人物であり、威厳をたたえた紳士で、ブラジヤックと同じように、生涯独身であった。彼の行政ファイルには、「恭しい」、「非のうちどころのない」、とりわけ「礼儀正しい」とある。彼は、法廷前面の長いテーブルの向こう側に座っており、その前に自分のノートを広げていた。彼は、開廷を告げ、ブラジャックに起立を求めた。彼は被告の横顔を見ながら、「あなたの姓名は、ロベール・ブラジヤックですね。1909年3月31日にPerpignanで生まれましたね。著述家でジャーナリストですね。パリに住んでいますね」と尋ねた。
ブラジヤックは、戸外の冷たい空気のためにまだしわがれている声をはっきりさせようとしながら、「はい、裁判長」と答えた。自分の頭上にかかっている絵からの匂いがした。ヴィシー政府の下で作成が委託されていた大きな青いフレスコ画で、まだ乾燥しきっていなかった。そのフレスコ画は、9歳のルイ13世が、1610年に、この同じ歴史的な場所で、母親である女王と数匹の猟犬とともに誓約を行なっている情景を描いていた。この情景を描くにしては明るくけばけばしいものであったが、ヴィシー政府と解放法廷の奇妙な継続性を示している、もうひとつの残りかすであった。
裁判長はブラジヤックに着席を求め、昔から尊重されてきた定式にしたがって、「ブラジヤック、これから話されることを注意深く聞きなさい。書記官、起訴状を朗読しなさい」と付け加えた。ブラジヤックにはあたりを見回す時間があった。天井には数百年前の古い芸術作品があったが、それはヴィシー政府のフレスコ画よりもはるかに抑制された調子であった。男性の囚人のために嘆願する一人の女性、十字架にかけられたキリストの像、「法律」と記された平板を持つ二人の天使、自由を代表する剣を持つ別の女性、正義の秤を持つ別の二人の天使が描かれていた。ブラジヤックは終戦のころには痩せてしまい、大きすぎてしまったスーツに身を沈めていたものの、天使のように見えた、と新聞は記している。彼の顔は青ざめており、白いワイシャツに赤いネクタイをしていたので、その青白さは際立っていた。彼は、この瞬間をむかえるにあたって、『赤と黒』の主人公、ギロチンにかけられたジュリアン・ソレルのことを思い浮かべていた。
法廷内は3部に分かれていた。部屋の前面に、傍聴人に対するかたちで、法廷席、高いところにある長椅子があった。裁判長Vidal、そのすぐ右側に、一張羅を着た陪審員がいた。Aubervilliersからきた印刷工のLucien Grisonnet、Villetaneuseからきた電気工のEmile RiouとChampignyからきた電気工のRené Desvillettes、St. Maurからきた技師のAndré Van der Bekenである。また、二人の代理人もいた。La Courneuveからきたペンキ屋とやはり労働者階級の住む郊外から来た機械工であった。彼らは、パリという町、法廷、自分たちの役割の重要性におののいていた。
法廷席の左側、法廷の左壁に沿って、法廷席と同じ高さのところにブラジヤックの席があった。弁護人Isorniは弁護団――M. Amiel、Mlle Frène、M. Hubert、Mlle Mireille Noël――とともに、ブラジヤックのすぐ下の長椅子に座っていた。Mireille Noëlはふさふさとした髪形をした、気だての優しい女性であり、Fresnesのブラジヤックのもとを毎日訪れていた。パリの弁護士協会のメンバーも数名いた。法律家は黒いローブと白く厚い胸飾りを身につけていた。
新聞記者たちは、ブラジヤックの席の隣の3つの長椅子に詰め込まれていた。アストラハン帽とそれにマッチしたコートを身に着けていたMadoleine Jacobは、最上の席、前列左側を手に入れていた。ブラジヤックはすぐに、この評判の悪い裁判記者に気づき、「醜く、おどろおどろしい」と記した。ブラジヤックは、自分の高い席からあたりを見わたすことができ、自分の弁護人の頭の後ろを見ることができた。Isorniの後ろ髪は、芸術家のように黒くて長く、襟首のところでカールしていた。彼は陽気で優雅であり、子供のときから、ブラジヤックと同じ天使のような風貌、同じような青白い肌を持っていた。彼は、その7ヵ月後にペタン元帥を弁護したのと同様に、ブラジヤックを情熱的に弁護しようとしていた。ペタンのヴィシー政府の法律によって、彼は1940年にパリの弁護士協会から除名されていた。彼の父がフランス人ではなかったからである。特別措置によって、復権したばかりであった。そして今、ヴィシー政府の正統性の名において、ブラジヤックを弁護し、真のフランス人として彼を弁護しようとしていた。
ブラジヤックとIsorniの席の反対側、部屋の右壁にそって、Isorniの友人であり隣人である国家検事Marcel Reboulがいた。情熱的な骨ばった顔立ちをしており、その声は今にもとどろきそうであった。Reboulの席は、ブラジヤックの席と同じように高いところにあった。検事と被告をできるかぎり直接対面させるために取られている措置であった。
このような配置の中で、裁判劇は進んでいった。法廷書記官は、法廷席の下にある自分のつつましい席に座っており、長い起訴状を朗読し始めた。彼の最初の言葉は、ブラジヤックは「35歳の著述家で、現在は、Fresnesに拘留されています」、「高等師範学校卒業の彼は、いくつかの非常に文学的価値の高い小説の作者です」というものであった。プロローグは、この裁判劇の一幕一幕がそうであるように、ブラジヤックが作家であることにやむをえず言及することから始まっている。もっとも、検事側も弁護側も、これがたんなるジャーナリスト裁判ではないことをたえず思い起こさなくてはならなかったが。続いて、法廷書記官は、ブラジヤックがドイツの宣伝活動に積極的、意図的に参加したこと、敵国の政府組織と関係を結んだことを詳しく説明した。したがって、ブラジヤックは刑法75条「敵との通牒」で裁かれているというのである。ブラジヤックは自分自身の法廷での振る舞いを予想しながら、法廷書記官がこの文章を朗読するときに、言葉にとちったことを観察していた。
法廷書記官が文章を朗読し終えると、裁判劇が始まった。Isorniは、政治的な理由による裁判無効要請という最初の動議を持ち出した。彼は次のように主張した。
「ペタンやラバル、ヴィシー政府の指導者はいまだ裁判にかけられておりません。ですから、彼らが裁判にかけられ、判決を受けるまで、ブラジヤックを裁判にかけ、判決を下すことはできないのであります。ブラジヤックは反逆者ではなく、ヴィシー政府の政策にしたがったフランスの愛国者でありました。彼が有罪無罪は、ヴィシー政府の指導者たちが有罪無罪にかかっています。彼らを裁く前に、ブラジヤックを裁く根拠が国家には欠けています。なぜなら、ペタンは、1940年7月10日の国民議会によって、全権、ひいては憲法的な権力を与えられたのですから。」
しかし、ド・ゴール将軍は1944年11月にヴィシー政府を非合法と宣言しており、この非合法性こそがその後の粛清裁判の根拠であった。ド・ゴールの有名な宣言は「フランス政府の形態は共和国であったし、共和国であり続けている。この共和国は存在することをやめなかった」と述べている。ド・ゴールがフランスに求めたのは、その歴史の書き換えであった。すなわち、自由フランス、ド・ゴールのレジスタンス・フランスこそが、これ以降は、さかのぼって、国民の新政府であったとされる、ヴィシー政府はフランス史の中では、法的なごまかしとして、括弧の中にくくられるというのである。
ジャーナリストのGeorges Suarezが10月にセーヌの裁判所で開かれた最初の粛清裁判で、裁判無効を申し立てようとしたとき、法廷はこのド・ゴールの布告にもとづいて、彼の動議を却下した。Suarezは有罪となり、銃殺された。
Reboul は、Isorniの動議に次のように反論した。
「ブラジヤック裁判はヴィシー政府の役人の裁判とは独立しており、他の法的決定を待つ必要はありません。この裁判は、それ自体が充足している裁判です。さらに、本裁判の盾となっている共和国臨時政府の布告は、ヴィシー政府として知られている政府の諸法令を、原則的に無効にすると声明しています。対独協力のすべての法令は非合法であると宣言されているのであり、それは司法判断の出発点とはなりえません。」
Vidalがブラジヤックに「何か付け加えることがありませんか」と尋ねると、ブラジヤックは、「何もありません、裁判長」と答えた。型どおりの答えであった。公判のこの段階では、ブラジヤックができることは何もなかったからである。
フランス語では「法廷」と呼ばれる裁判官と陪審員は、法廷席の後ろの特別ドアから出ていき、「審議室」でIsorniの動議を審議した。Isorni の動議をすばやく却下してから、15分足らずで戻ってきた。裁判は進んでいった。
<第一幕:尋問、午後1時45分>
尋問こそが、裁判そのものの開始であった。公判の核心であり、ブラジヤックが獄中で何時間も準備してきた瞬間であった。証言の中で、異彩を放つ瞬間であった。自分の法廷での振舞いこそが、陪審員を説得するすべてであったので、全神経を傾けた。裁判官Vidalの仕事は、調査判事が集めた情報を明るみに出し、すべての告発を光にさらし、尋問のあとの検事側陳述で有罪判決を要求するであろう国家検事Reboulのために、土壌をならしてやることであった。Vidalの役割りは脇役ではなかったし、彼自身も脇役では満足していなかった。彼の告発はReboulのものよりも学術的で、実証的であり、彼の、温厚で、恭しい性格にマッチしていた。にもかかわらず、相当な重圧がかかっていた。彼の仕事は二重であった。すなわち、ブラジヤックが異彩を放ちすぎるのを防ぐと同時に、機知にとんだ敵役があらゆる段階で意図的にフランスに反逆したことを明らかにしなくてはならなかった。Vidalは善良な人物であり、しっかりした判事であったが、結局、失敗することになってしまった。
尋問は、長く、耐え難いほど丁重な意見の交換となった。
Vidalはブラジヤックに起立を求めた。被告ブラジヤックは、両手で手すりを持ちながら、席の端に立った。Vidalは自分のテーブルの後ろで青白い顔をしており、威厳をたたえていた。陪審員は背筋を伸ばして座っていた。ブラジヤックが尋問を受ける姿勢をとると、新聞記者たちは彼を注意深く眺め回し、彼の肉体的特徴を詳しく探して、命のかかった裁判にかけられている35歳の作家の姿をとらえようとした。「短い指」とFrancine Bonitzerは記し、「袖口から少し姿を現している小ぶりな手」とLe Figaro出身の老政治家Helseyは記している。
Vidalが口火を切った。「あなたは論争家気質、その上、喧嘩好きな気質ですね。最初の戦いを始めたのは、L’Intrasigeant紙上ですね。」
「私はL’Intrasigeantに1ヶ月勤めていたにすぎません。」これはブラジヤックの得点となった。彼は、告発が誇張されており、実際には誤りを含んでいることを指摘したのである。
Vidalは挽回しようとした。「ということは、この新聞は、あなたの気質にふさわしくない政治的傾向を持っていたということになりますね。」
ブラジヤックの回答は抑制されており、控えめであった。
「起訴状には、別の場合でならば、大して重要でないと思われる、細部についての誤りが数多くあります。起訴状は私がL’Intrasigeantに力を貸したと述べていますが、それはごく短期間のことでした。また、私がL’Insurgéという新聞で働いていたと述べていますが、正確ではありません。そこに勤めたことはありません。また、私がLe Jourのために働いたと述べていますが、たった一つの旅行記事以外には執筆したことはありません。また、私のペンネームがMidasであったと述べていますが、それは虚偽です。それは、Je Suis Partoutのゴシップコラム作者の名前でした。私のペンネームではありません。これらは些細な誤りですが、あとで、そのことに触れるのを避けるために、あらかじめ訂正しておきたいと思います。」
ブラジヤックは起訴状にある誤りを、まるで、出来事を正確に記録しようとする優秀な歴史家のように、きわめて注意深く、丁寧に、公平無私に訂正した。高等師範学校生としての完璧な言い回しではあったが、わずかに南部地方のなまりもまざっていた。さらに重要であったのは、ブラジヤックの口調が紳士的であったことである。その口調自体が、Vidalの冒頭陳述のいう「喧嘩好きな気質」という非難が誤っていることを立証していた。
Vidalができることといえば、彼に感謝することだけだった。「あなたは、起訴状に紛れ込んでいた誤りを訂正してくれましたが、いずれにしても、L’Intrasigeantで1ヶ月働き、ついで、アクション・フランセーズのためにペンをとったのです。」
Vidalにショックを与えたのは、粗野との評判のブラジヤックに対する尋問を準備していたのに、実際には、ブラジヤックが、非常に気配りの行き届いた人物であり、紳士的に回答しているのに気づいたことであった。
Vidalはブラジヤックの姿勢に驚いただけではなく、恐れを抱いてしまった。この瞬間から、彼の尋問には方針や焦点が欠けてしまった。次に彼は、ブラジヤックがJe Suis Partoutの編集長をつとめたことに触れたが、突然、1943年に同紙と決別したことに飛んでしまった。ブラジヤックの経歴の初めではなく、終わりから始めてしまったのである。
ブラジヤックは自分の席に座りながら、すばやく敵役を見定めた。「これといった特徴はないが、公平で無私である」というのである。彼は、「わき道にそれて、できるかぎり長い演説をさしはさむ」という自分の戦術の正しさを確信した。Je Suis Partoutとの決別というテーマについてで、ほぼ15分間も法廷を支配した。彼の下の弁護人席にいたIsorniは、楽観的であった、今のところ、彼らの戦術は、予想を上回って功を奏していたからである。
ブラジヤックはJe Suis Partoutを離れた件について、高い愛国主義的な原則にしたがって、経済的利益を犠牲にしたと主張した。この新聞を離れたのは、一番儲かっているときであり、そのとき、ファシストの大義が失われたと考えたというのである。Vidalはかろうじて言葉をはさみ、ブラジヤックは1943年には自分の立場が不利になっていることを知っていたので、新聞を離れたのは原則ではなく、ご都合主義からであったと論じた。ブラジヤックは、決別のときに同僚のRebatetに送った書簡の中から、うまく選ばれた一節を引用して弁護した。この書簡は、Rebatetのアパートで検事側証拠として没収されたものであった。「私は、民族社会主義者である以上に、…フランス人です」、「危機に際しては、民族にこだわらなくてはなりません。民族だけが裏切らないからです。」彼に不利だと思われていた文章を、賢明にも利用したものであった。
Vidalが、「ド・ゴール派」を「反逆者」と呼んだ罪状でブラジヤックを非難したとき、彼は公平に答えた。「今日、私は、自分たちの故郷に反対して、自分たちの国のために戦った人々を非難しませんが、自分たちの故郷を選んだ人々も、当時は、フランスの伝統にのっとって行動していたのだと認められるよう要望いたします。」
「しかし、私たちは今日、あなたのいう『ド・ゴール派の反逆者』が存在していたことで幸せを感じているのではありませんか。もし、存在していなかったならば、今日、私たちはどこにいたことでしょう」とVidalが反撃した。
ブラジヤックは、「これこそが、その記事について、少しの時間で解決できる問題です」と回答した。驚くべき反論であった。ブラジヤックは法廷を支配しただけではなかった。議論の方向性を定めようとしていたのである。検事Reboulには、落胆の瞬間となった。
ブラジヤックに対する反逆という告発に根拠があるかどうかという問題の核心は、ドイツの働きかけによって、ブラジヤックが捕虜収容所から釈放されたかどうかであった。Vidalはこの問題にひどく不器用に、また遠まわしにアプローチしたので、彼の言わんとするところを理解するのは難しかった。
Vidal:あなたは釈放を要請したのですね。
ブラジヤック:自分では要請しませんでした。
Vidal:あなたは釈放を要請したと考えています。
ブラジヤック:釈放要請が私に代わってなされました。
Vidal:では、記事が発表されたあとで、ヴィシー政府があなたに代わって、休戦委員会に釈放要請をしたのですね。
「それはすでになされていたのです」とReboulが検事席から叫んだ。拙速な裁判長Vidalはブラジヤックの沈着冷静さにまごついてしまい、事件の前後関係を忘れてしまっていた。ReboulはいつでもVidalに手を貸そうとしていたが、困惑していた。
ブラジヤックは、「要請はすでになされていました。1940年7月のことです」とReboulの訂正を穏やかに繰り返した。自分とReboulの方がVidalよりも事実関係をよく知っていることに吹きだしたくなる誘惑を抑えていたに違いない。しかし、傍聴人は、すぐさま騒ぎ始めた。法廷の後ろでは誰かが笑い始めた。
ヴィシー政府が、ブラジヤックをフランス人映画庁長官にするために釈放したという書簡があったが、Isorniがこの決定的な証拠を携えて、わってはいってきたのはこの瞬間であった。書簡の差出人は、ヴィシー政府の高官Jacques Benoist-Méchinで、やはりFresnesに収監されていた。Benoist-Méchinは、ブラジヤックが映画庁長官として数ヶ月勤めたのち、ドイツ人からの自治権がないことを悟って辞職した、そして、別の人物がこのポストを引き継いだと述べていた。
この証拠には二つの落とし穴があった。第一に、占領下のパリでもっとも親ナチス的なJe Suis Partoutの編集者であったブラジヤックが、ドイツ側の干渉に憤ったので、ヴィシー政権での栄達のチャンスを放棄してしまったというのでは、説得力がなかった。第二に、書簡の差出人が、戦争中の言動に嫌疑を受けて、やはり反逆の罪状で裁判を待っている人物であった。
Vidalはこの点を見過ごしてしまった。彼は、証拠の情報源にも、その中身にも疑問をさしはさまなかった。
しかし、Vidalの姿勢は少々変わった。新しいテーマに移ったとき、さらに激しい怒りの口調となっていった。彼は、ブラジヤックがドイツへの宣伝旅行を2回行なったことを非難した。ブラジヤックは、親ドイツ的な心情を持つ6名の作家とともに、1941年10月、ワイマールの学会に出席しているが、Vidalは次のように質問している。
「この時期はドイツの知識人を抱擁するのにふさわしい時期だったのでしょうか。あなたは、毎日毎日、人々が移送されており、毎日毎日、強制収容所に送り込まれていたのを良く知っていたはずです。そして、あなたはドイツの知識人を祝福するために出かけたのです。これが普通のことだと思うのですか。」
ブラジヤックは、「裁判長、1941年には、ドイツの占領はその後の事態の推移に比べるとはるかに寛容であったと思っています」と答えた。ブラジヤックは、怒りに満ちたVidalに答えるときでさえも、落ち着いた口調であった。「フランスは生き残らなくてはならなかったのです。占領政策、協力政策は、フランス人を生き残らせようとする政策、占領者と被占領者との間に、ある種のカーテンを掛ける政策でした。もっとも、そのカーテンは非常に薄いこともありましたが。」ブラジヤックの口調は、あいかわらず冷静であった。
Vidalは「被占領国から略奪するという一方通行の協力でしたがね」と皮肉を言った。彼は、ヴィシー政府のもとでブラック・マーケットを訴追する裁判の裁判長をつとめた経験から話していた。
ブラジヤックは続けた。
「裁判長、フランスの対独協力派は、国を略奪した人々ではありません。国が略奪されるのを防ごうとした人々です。おそらく、彼らは…」
被告ブラジヤックは薄氷の上を歩いていた。だから、Vidalは彼の演説を続けさせるべきであったが、ブラジヤックが自分の犯罪証拠に触れてしまう前に、口を挟んでしまった。Vidal判事は、「あなたはそのことに失敗したと思います」と冷淡に結論した。
次に、Vidalは、ブラジヤックが、飢えた占領時代に優雅なランチを提供していた文化団体ドイツ研究所に顔を出していたことを非難したが、ブラジヤックは「私は、Duhamel、Giraudoux、Gallimardの姿をそこで見かけました」と皮肉な調子で言い返した。Duhamelは、多作な作家で、フランス・アカデミー会員であり、Mercure de France出版社社長であり、はっきりとした反ナチスであった。Giraudouxは、前大使で、傑出した劇作家であり、開戦時の情報大臣であった。Gaston Gallimardはフランス第一の出版者であった。ブラジヤックがこれら有名人の名前を挙げたとき、冷笑的な笑い声、熱狂的な笑い声が聞こえた。Reboulは検事席に緊張して座っていたが、傍聴人が司法官たちに激しい敵意を抱いていることを悟った。
ブラジヤックは、「私はほかの人物がしていないことをしませんでした、なのに、なぜ自分だけが非難されているのかわかりません」と論じた。ドイツ研究所のケースでは、彼は正しかった。レジスタンス派のFrançois Mauriacも含む多くの知識人が、そこでランチをとったからである。しかし、ブラジヤックとその他の人々の違いは、決定的であった。すなわち、ほかの人々は先見の明がない人物であったか、出世主義者であったか、自分たちの振る舞いの政治的な意味について鈍感であった。いずれにせよ、ナチス同調者ではなかった。
次にVidalは、詰問した。
「あなたはナチスの宣伝道具とどのように結びついていたのですか。役員をつとめていたRive-Gauche書店とはどのようなものであったのですか。その豪勢な書店の窓には、美しい展示物があり、店内には読書室、会議場、親ナチスの展示品を展示するスペースがありました。1941年に、あなたは、ドイツ帝国のために仕事をする機会を賞賛する展示物を見たにちがいないのではありませんか。」
ブラジヤックは、次のように答えた。
「裁判長、ごく単純な理由からですが、大きな誤りがあります。その誤りとは、私が、その書店が本質的にフランスの書籍を売っていたことを見ていないかのように述べている点です。この書店では、6冊のドイツの書籍に対して10冊のフランスの書籍を売っていたからです。」
ブラジヤックは、自分に向けられた告発に対して、上品な口調を崩さなかった。自己弁護に急ぐような口調ではなかった。CombatのAntrucは、ブラジヤックが揺るぎのないプライド、尊厳を持っていたことを賞賛しており、一方、もっと懐疑的なMadeleine Jacobは、「彼の冷静な態度の中にある横柄な口調」を見てとっていた。しかし、誰もが心をうたれたのは、驚くべきほどの抑制された姿勢であった。
Vidalは「私たちがあなたを非難しているのは、あなたがドイツ監督者理事会の席についていたことです。あなたはそのことを否定していません。だから、非難しているのです」と述べた。
ブラジヤックは、この空虚な告発をとらえて、5分ほど続く演説をさしはさむことができた。彼は、Rive-Gauche書店の歴史と使命、すなわち、ドイツ軍に読み物を提供し、翻訳とフランス・ドイツの知的交換を奨励する使命について証言した。ブラジヤックは、鼻のほうに自分のめがねがずれ落ちてくるのを許したまま、法廷に向かって身を傾けて次のように証言した。
「書店がもっとも関心を向けていたのは、美しい皮装丁のPléiade版のフランスの古典を、連合国の爆撃を受けていたドイツの町や大学の図書館に売ることでした。私たちは膨大な数のモリエール、サン・シモン、コルネイユ、ラシーヌの作品を売りました。とくに、Pléiade版の全集を大量に売り、ドイツの大学に欠けていたフランス文学全集を取り揃えなおすために、送りました。」
ここでは、ブラジヤックは自分本来の領域から、文学の価値を論じている。しかし、このもっとも文学的な自己弁護の中にも、彼の政治姿勢を見てとることができる。多くのパリ市民にとって、Rive-Gauche書店とは、対独協力、ファシズム、パリの街角にドイツ軍兵士が存在することであった。一方、ブラジヤックにとっては、ドイツの町が連合国の爆撃を受けていること、ドイツの市民が偉大なるフランス文学に接する機会を奪われていることだけが悲劇だったのである。
書店の創設者Henri Jametは、1941年、対独協力誌Cahiers Franco-Allemandsに、書店の使命を次のように述べている。Rive-Gauche書店は「反ファシズム知識人たちの頑迷な抵抗と、とくに、フランスの編集者たちに強い圧力を及ぼしていたユダヤ人グループの持続的な憎悪に対抗するために設立された」というのである。
Vidalは尋問のテーマを、ブラジヤックが書店を支援したことから、ブラジヤックがドイツを愛していたことに突然移していった。彼は、1943年の記事の一つLa
Naissance d’un sentiment(感情の誕生)に言及した。「あなたはご自分の愛を表明しましたね。『灰緑色の制服を着た兵士へのあなたの愛』というのがあなたの使っている表現です。彼らが私たちの国の少年であるかのように、まったく理由無く、彼らと握手したいというのですね。」
Vidalはついに、ブラジヤックのもっとも無防備と思われた領域に進んでいった。しかし、Vidalはまたも失敗してしまった。Reboulが失策を恐れて、突然立ち上がり、自分の同僚を混乱から救おうとした。
「裁判長、最初の文章は、ブラジヤックと調査判事M. Reoutとの会話から取られたものです。『灰緑色の兵士への愛』というのが正確な表現ですが、それは記事にはでていません。多くの表現が登場していますが、実際には、『灰緑色の兵士への愛』という文はそこにはなく、使われてはいません。」
Vidalは話題を変えるべきだったのであるが、自分の誤りに固執した。「この文章を書かなかったというのですね。」
ブラジヤックは、「誤りがありますが、誤植ではなく筆のすべりだと思います。間違ったところに括弧が挿入されています。『灰緑色の兵士へのあなたの愛』というのはM. Reoutの文章です」と慈悲深く答えた。
Vidalができたのは、「あなたは、ドイツ人が『同じ人種の友人』であると言ったのですね」と付け加えることだけだった。
ブラジヤックは、「その一節は私のものです」と述べて、Vidalを安心させた。
Vidalは、「『灰緑色の兵士』という単語についてあなたに言いがかりをつけるつもりはありません。同じ意味合いなのですから」と述べた。
しかし、Vidalは言いがかりをつけたのであり、貴重な時間を浪費してしまった。
ブラジヤックはVidal判事のあやまちのおかげで力を蓄え、ふたたび法廷に向かって、「同じ人種の友人」という文章を学術的に説明し、ドイツ人を、共産主義者に対する不可欠な防衛隊として弁護するという点にまで進んでいった。彼は、ドイツの残虐行為についても、1930年のインドシナ植民地でのフランスの残虐行為のほうがはるかに邪悪であると論じた。これはレトリック上の勝利であった。フランスにおけるドイツの犯罪から、植民地でのフランスの犯罪に論点を変えることに成功したのであった。
Vidalはさらに1時間、議論を展開した。自分はナチスの反逆者ではなく、ヴィシー政権の愛国者であったというブラジヤックの主張には根拠がないことを立証しようとした。Vidalはブラジヤックのジャーナリズム活動から引用し始めた。第三共和国の大臣たちへの攻撃、ファシズムとナチズムへのロマンティックな評価、ブラジヤックが繰り返して要求した、自分の政敵――ナチスの敵でもあった――に対する「速やかな裁判」と「仮借のない弾圧」などであった。ブラジヤックの攻撃が敵を利していたことを立証しようとするならば、Vidalはここから始めるべきであった。Rive-Gaushe書店問題ではなく、ドイツ研究所問題でもなく、ドイツ旅行でもなく、まさにこのような文書による攻撃こそが、反逆という告発の土台であったからである。
ブラジヤックは2時間ほど立ったままであった。依然として席の手すりに身を傾け、両手は丁重に重ねられており、講義室にいる教授のようであった。黒髪が額にかかっていた。彼は、「あなたはなぜ、ドイツ人は、私が言ったこと行なえと命令したとお考えなのですか。ドイツ人たちは私が言ったことなど気にもとめていなかったのに」と答えた。
Vidalは、「ご自分の作品がドイツを利していると悟ったときにすぐ、そのような攻撃をやめるべきだったのです」と道徳的に答えた。
ブラジヤックは、「自分の作品が祖国に役に立っていると思っていました」と反撃した。そして、詳しく申し立てを始め、一つ一つの論点についての自分の姿勢を忍耐強く説明した。
「第三共和国は、敗北に責任を負っていました。ド・ゴール派は、正統性に欠けていました。国内のレジスタンスは、ならず者と外国人に汚されていました。共産主義者は、フランスにとって危険でありました。反ユダヤ主義は、開戦以前から存在しており、GiraudouxやTharaud兄弟のような著名な作家が提唱してきた、深くフランス的な伝統の一部でした。…私はいかなる集団的暴力も認めません。たとえば、家族がばらばらになること、女性が子供たちから引き離されることも認めません。」
ReboulはJe Suis Partoutの記事を良く知っていたので、なぜVidalはこのようなブラジヤックの歪曲を攻撃しないのだろうか、と憤慨していた
伝統だけについていえば、ブラジヤックの主張には一粒の真理以上のものがあることを誰も否定できないであろう。反ユダヤ主義は、少なくともドレフス事件以来フランスの思潮の中の強力な潮流であった。
ブラジヤックは、反逆という告発に対して自己弁護するにあたって、議論の焦点を自分の信念の中身ではなく、フランス人としての自分のアイデンティティに向けようとしていた。
「私の対独協力政策はフランスの最良の利益となっていました。私は自分の信念にもとづいて自国の人々を弾劾しましたが、その信念はフランス人の信念であり、私のファシズムはフランスの民族主義的なファシズムであり、私の反ユダヤ主義はドイツではなくフランスの伝統にもとづいていました。」
翌日、Lettres Françaisesは、Vidalが「嘆かわしかった」と不平を述べた。「反逆者ブラジヤックに対する裁判であったのか、それとも、先週の金曜日に開かれたフランス・アカデミーのレセプションであったのか」というのである。
ブラジヤックの議論の中身は脆弱であったにもかかわらず、彼はやすやすと尋問を支配した。彼の成功の鍵は、「責任」という単語を駆使したことにある。ブラジヤックは、尋問の最中に、自分の行動を説明するにあたって、6回も「責任」という単語を使った。どのようにして彼が有利な立場をとることができたのかを見ておくためにも、彼のレトリックを全文引用しておこう。
「私はアクション・フランセーズの一員ではなく、新聞の寄稿者にすぎませんでした。文芸的な意味合いにおいてだけです。私がそのように申し上げるのは、歴史の真実への敬意からであり、私なりに表現するとすれば、私の責任を逃れようとするためではなく、たんに、事実そうであったからです…
私は対独協力政策の面では対独協力派でしたが、フランス政府の大臣がこの当時に受け入れた多くの事態を決定した人物ではありません。もう一度いいますが、私の責任を他人の肩に負わせるために、自分がフランス政府内で重要人物ではなかったと申し上げるのではありません。たんに事実を申し上げたいためです…
私が、共産党の指導者に対して見せしめ措置をとることを求めたのは、私が、指導者の責任について非常にはっきりとした感覚をいつも持っていたためです。正しいにせよ、間違っているにせよ、ドイツ軍兵士に対する攻撃を命令し、その罪で訴追されるべきなのは[レジスタンスの]指導者であり、人質として逮捕された哀れな人々ではありません。…私は、指導者の責任、ほかの人々を導いた人物たちの責任について非常にはっきりとした感覚をいつも持っていました。ですから、裁判長、私は、よその国ではなく、まさにフランスの法廷にいるのです。私のことを信じてくれていた人々を見捨てたくないためなのです。私が、かつて攻撃対象としたGabriel Périに対して敬意を表することができるのも、私がこの責任感覚を持っているためです。知ってのとおり、Gabriel Périは[逮捕され拷問を受けたのちにも]、ドイツ軍兵士への攻撃を否認することを拒みました。もし、否認していれば、命が助かったかもしれませんでしたが…
私は、自分の部下の責任を取ろうとする人物に最大限の敬意を表するでしょう。そして、共産党の指導者に責任をとるように求めていたのは、彼らの部下だけに責任をとらせないようにするためでした…
枢機卿Suhardは、4月に、パリのノートルダム寺院でペタン元帥を喜んで迎えましたが、もしレジスタンスの妨害がなければ、8月に、ド・ゴール将軍を喜んで迎えようとしていました。私は、このように、責任をとらずに二股をかけている人物をこよなく憎みます。私が間違っているのかもしれませんが、私の行動は、そのような気質のなせるわざです。」
ブラジヤックは、自分を責任感のある人物として描くために、なぜドイツに行くことを拒んで、パリに身を隠したのかを説明して尋問をしめくくった。彼自身の家族が人質状態に置かれた話であった。
「私は、私の家族全員、義理の弟、従兄弟、母親までもが逮捕されたことを知りました。母の逮捕を知ったとき、一刻も猶予することなく、出頭することを決意しました。母は地方で逮捕され、3週間も不潔な監獄に拘留されました。横3メートル縦4メートルの房に、30名が押し込められ、30名に対して4つの藁のマットがあっただけです。私が囚人として出頭したという手紙がSensに届くと、母はすぐに釈放されました。」
ブラジヤックは、自分が家族に対する責任というもっとも重要と思われるものを受け入れたことを法廷に知らしめようとしていた。彼は、Vidalの側でいぶかしげに座っている陪審員を一瞥した。彼らには尋問の最中に質問する権利があったが、黙ったままであった。ブラジヤックには、彼らが木像のように見えた。ブラジヤックのあずかり知らぬところであったが、無表情に見えた陪審員の一人、口ひげをたくわえ、風焼けした顔つきの大男André Van der Beckenは、ブラジヤックの母が逮捕の餌に使われたことを知って憤慨していた。
ブラジヤックはことあるごとに、責任という問題を取り上げた。それによって、対独協力派とレジスタンスという対立するイデオロギー陣営のどちらが正しかったのか、間違っていたのかという視点から、どちらの陣営であっても、善良な人物は「責任」をとりうるし、どちらの側であっても、そのような人物であれば、英雄となりうるという、イデオロギー的ではない道徳的な見通しという視点に、論点を移そうとしていた。すなわち、善良な人物は、その人格の強さにしたがって、対独協力派にも、レジスタンスにもなりうるというのである。
粛清裁判が10月に開かれて以来、対独協力派が謝罪を拒んだのは始めてであった。ブラジヤックは満杯の法廷を見回して、冷静かつ声高な口調で尋問をしめくくった。それは、記憶に値する有名な文句であった。
「私は自分の行なってきたことをまったく後悔しておりません。」
<第二幕:検事側訴追、午後3時45分>
もしこの裁判劇が尋問で終わったとしたならば、ブラジヤックは釈放されていたことであろう。しかし、検事Marcel Reboulの出番となった。ブラジヤックは彼の挑戦を受けなくてはならなかった。
簡素な黒いローブに身を包んだReboulが席から立ち上がった。彼は、検事補という身分であったので、検事の伝統である赤いローブをまとっていなかった。彼の同僚は、場合が場合だから、赤いガウンをまとうようにすすめていた。しかし、彼は規則にしたがって行動する人物であり、その色を必要としないことを知っていた。何よりも自分の言葉自体が赤く燃え上がるだろうというのである。
彼は傍聴人に背を向けて、ブラジヤックの席よりも大きくはない自分の高い席から法廷席のほうに顔を向けた。彼は自分本来の職務についていた。多くが失われてしまっていたので、挽回しなくてはならなかった。
彼は、きっかりと5分間、お世辞をいうことから始めた。
「ブラジヤックは、作家としての人を引きつける力を備えて姿を現しました。以前には彼のことを知らなかったのですが、今、彼の話を聞いて、私もまた、彼が非常に説得力のある、人を引きつける力を備えていると言うことができます。」
Reboulは、ブラジヤックの社会的地位を高等師範学校卒業生としてまとめ、彼の小説には、「心をひきつけるような筋書きと詳しい人間心理」、「色彩豊かな言語表現」があり、ブラジヤックが30歳になるまでに「争う余地のない知的秀逸性」を手に入れたことを認めた。あとでIsorniもブラジヤックの才能をたたえることになるが、Reboulもその点では遅れをとっていなかった。
彼は、ブラジヤックの文芸評論家としての仕事に最大の賛辞をおくった。
「ブラジヤックがPéguyに優しいにせよ、Maurrasに熱狂的であるにせよ、Gideに非礼であるにせよ、Gionoの大胆不敵さに控えめであるにせよ、彼は、その幅広い学識と古典についての完全な知識によって、非常に高いテキスト分析能力を持っています。彼は、読者を自分が描こうとしている著者との精神的な親密関係に引き入れる特異な才能を持っており、このことから、彼の批評能力が生み出されているのです。」
Reboulの口調は次第に高まっていき、彼の声は法廷の隅々にまでいきわたるようになった。傍聴人の中の知識人は、Reboulがブラジヤックの作品に親しんでいるという事実に印象づけられた。ブラジヤックにも驚きであった。彼は獄中から、Reboul夫人のために、評論集Le Quatre jeudisのコピーに署名している。Isorniはこの本を彼に代わってGeoffroy St. Hilaire通りのReboulの部屋に持っていった。二人は、ブラジヤックの作品について話し合っていた。Reboulがブラジヤックの作品に親しんでいたのは、そのためであった。
ブラジヤックの自己満足はひとときのあいだだけであった。Reboulは器用に向きを変え、法廷で誰もが期待している方向に向かっていったからである。
「この人物は多くの才能に恵まれ、多くの成功を重ねてきました。そして、最初の大望の道をそのまま進めば、わが国のもっとも優秀な作家の一人になったに違いありません。しかし、なぜ、才能と成功と権威に恵まれたこの人物が、最初は不毛な政策の方に、ついで、敵側の方に若者たちを先導することになってしまったのでしょうか。」
「不毛な」という単語は、次に続くレトリックの鍵である。
次に、Marcel Reboulは、自分の主題を明確に知っている作家のように、輝かしく、感受性豊かな批評家と性急で喧嘩好きな論争家というブラジヤックの両面を並べた。
「たとえば、複雑なMarcel Proustの作品やM. de Montherlantの女嫌いの姿勢を分析したペンが、『パチョリ香油と腐敗した伝染病の臭いをはなちながら、いまだ街頭に立っている梅毒の老売春婦のような共和国』という表現を生み出すことができると想像できるでしょうか。ここでは、才能があふれ出して、おしゃべり女の多弁に場所を譲っているのです。」
Reboulは、ブラジヤックの才能を破壊してしまった資質、すなわち、あさましい性格に的をしぼった。彼は法廷席から被告席に向き直り、厳しい目つきで被告を眺めた。「しかし、今、あなたはこの共和国のもとにやってきているのです。…共和国を侮辱したことなどまったく忘れてしまって、『言論』の自由への関与だけを訴えながら。」
Reboulは、ブラジヤックがそのあさましい文章の攻撃対象としてきたさまざまな集団や個人を一つ一つ列挙した。共産主義者、フリーメイソン、第三共和国の政治指導者、ユダヤ人、そして、ソルボンヌ大学。Reboulは、このような反組織的な信念を平和なときに教授することと、外国の占領下にあり、実際の命が脅かされている国でそのようにすることとはまったく異なっていると論じた。
Reboulは休むことなく、突然ギアをシフトアップした。彼は、これが言論の裁判ではなく、反逆の裁判であることを思い起こさせた。
「[共和国]は、あなたの悲劇的な過ち、あなたの致命的な不寛容さ、あなたの破壊的な言論という罪状で、あなたを裁判にかけているわけではありません。そうではなく、刑法75条に照らしあわせて、集められたすべての証拠にもとづいて、反逆を行なった役人としてのあなたを、反逆の罪状で裁判にかけているのです。」
反逆をどのように立証するのか。ブラジヤックのような人物がもはや自国に忠実な市民ではなかったとどのように立証するのか。Reboulにとって、その証拠は共和国全体に対するブラジヤックの文章の中にも、特定の個人や組織に対する彼の攻撃の中にもなかった。それは、ブラジヤックが、対独協力政策という冒険は終わったと感じ始めていた1944年に、Révolution Nationaleのための記事「少数の若者への書簡」の中に記した象徴的な文章の中にあった。Reboulは、ブラジヤック自身の言葉を長く引用した。
「もしあなた方が、私の見解すべてを知りたいのならば、私は、戦前にも、さらには対独協力政策が始まったときにも、ドイツびいきではなかったといっておきたい。私が追求していたのは、理性的な利益であった。今では、事態が変わってしまった。私はドイツの天才と連絡を取り合ってきたように思われるが、そのことについては忘れないであろう。この時期、反省の機会を与えられれば、フランス人は、必ずしもいさかいをおこさないわけではないが、多かれ少なかれ、ドイツと一緒に眠りについていたことであろう。そして、その記憶はフランス人にとっては、甘いものであろう。ドイツの試練はわれわれの試練ではない。フランス国民は自分たち独自の試練を持っている。もっとも、これらの試練が別の国の試練よりもはるかに友愛的な試練である理由については、私にはわからないが。その感情は今そこにある。そして、あなた方が、私が何であろうとするのか知りたいならば、その感情を公平に扱わなくてはならない。」
Reboulは話を中断して、法廷席で緊張して耳を澄ましているVan der Becken、Desvillettes、Grisonnet、Riouといった陪審員の方を見た。そして、ブラジヤックの長く大げさな文章を、一つに鋭い文にまとめた。「あえてその名前を口に出そうとはしない感情とは、愛なのです。」1945年には、「あえてその名前を口に出そうとはしない感情」、19世紀のもっとも有名な裁判、オスカー・ワイルド裁判で使われたこの一節とは、同性愛的な願望をさす婉曲表現であった。法廷にいた多くの人々が、その言い回しを理解していた。もし、理解していなくても、その意味するところを知っていた。Reboulは、非常に象徴的な言い回しを使って、ドイツへの同性愛的願望の罪でブラジヤックを非難していた。この作家は、その振る舞いにおいてではないとしても、その文章において、「一律の対独協力派」であったというのである。
天才的な隠喩能力を持っていたReboulは、ブラジヤックのNaissance d`un sentimentから別の長い引用を始めた。これはVidalを難題に追い込んだ1943年の記事であり、ブラジヤックの友人らしき人物が、彼は「ドイツ人を愛している」と告白しているものであった。Reboulはブラジヤックの作品に性的な隠喩をあてはめながら、ブラジヤックのドイツへの愛は、フランスに対する不貞行為、もっと悪く、邪悪な不貞行為に等しいと論じた。ブラジヤックは邪悪で、産まず女の非フランス人であるというのである。
Reboulは、「これらの苦痛に満ちた文章から、手軽な結論を引き出すのは安易すぎる」ことを認めた。しかし、「私は安易な結論を引き出そうとは思わないが、これらの文章が書かれたときに表現していたに違いない、人質すべてに対する、拷問を受けていた人々すべてに対する、殉教者すべてに対する、フランスの苦難すべてに対する激怒を強調しておきたい。」Reboulは安易な結論を引き出そうとはしないと述べていたが、実際にはそうしてしまった。
Reboulはこれらの記事を、たとえ浮気であったとしても、ドイツ占領者の愛を求めようとするブラジヤックのやり方であるとみなした。
「私は、文芸愛好家のドイツ軍人シュチュルプナーゲルのサロンにいた――たとえそこにいなかったとしても――あなたの心が、どうしてこのような陳腐な表現にとらわれしまったのかわかりません。私は、あなたがドイツの書店でどのような種類の知的教義を希望するにいたったのか知りません。しかし、もしも、Oradour-sur-Glaneでこの悪罵を読んだとすれば、必ずや、墓の中から身を起こす死者を目の当たりにすることだけは良く知っております。」
Reboulは、1944年6月10日に、SSが行なったOradour-sur-Glaneでの恐るべき虐殺、町全体の破壊に言及した。600人の村人が射殺され、生きたまま焼かれた事件である。Oradourの虐殺が起こったのは、ブラジヤックがNaissance d’un sentimentを発表して、ドイツ軍兵士の愛すべき肖像を描いたほぼ1年後であった。ブラジヤックが法廷の場に立つころまでに、この焼き尽くされた村は戦時中のフランスの苦難の象徴となっていた。Reboulはブラジヤックの記事とこの恐るべき事件を結びつけてはいなかったが、検事が死刑を要求するときの決まり文句、墓の中の死者が殺人者に立ち向かっていくというイメージを提供するために、Oradourを利用した。ブラジヤックは自分の席の中で怒っていた。Reboulは「悪意と無知に満ちています。たとえば、日付の前後関係をごまかして、あたかも私がOradourのときに、もっともドイツびいきの記事を書いていたかのような」印象を作り出そうとしていたというのである。
Reboulの性的なあてこすりは挑発的ではあったが、ブラジヤックが同性愛的な傾向を持つ作家であることはすでに知られていたので、まったく根拠がないというわけではなかった。しかし、たとえレトリックであるにせよ、この時期のほかの裁判では、同性愛をほのめかすようなことはなかった。Reboulはブラジヤックが捕虜収容所から釈放されたことについて、同性愛を暗示するやり方をさらに潤色した。「彼はドイツと寝ました。その密通のあと、ドイツ人は彼の手に帰還切符を握らせたのです。」Reboulは、同性愛という隠喩を提供し、繰り返し、男色という隠喩を使って話をいっそう刺激的なものとしていった。「あなたは、後者[ドイツ]による前者[フランス]への侵入に抵抗するという考えを怪物的な行為と思っている」というのである。そして、ブラジヤックの動機を、「このような心理的分析を行なえば、私たちは、どのようにして、あなたが、野蛮な暴力に対する半ば肉欲的な愛によって、自分の国を甘美な記憶を持つベッドへと先導していくようになったのかをよく理解できます」としめくくった。法廷では、ブラジヤックの支持者が不満の声をあげていたことであろう。
隠喩と連想によって罪を組み立てるのは、昔からの伝統的法廷戦術である。なぜ、この隠喩がそんなに強力となったのか、検事側の高得点となったのか。Reboulは、法廷にいた全員のもっとも深いレトリック的な恐れ、すなわち、侵された国民の恐れと嫌悪に目標を定めていた。国全体の心理を、まして集団的アイデンティティを一般化することは難しい。しかし、ある国が敗北すると、その国の市民の感情は傷つき、その後遺症に苦しむのであろう。すなわち、市民の自己愛は民族的自尊心の喪失に苦しむのである。敗北、侵攻、占領――このような事態は個々人や共同体に強い影響を及ぼし、速やかに性的用語に翻訳されていく。私たちは支配され、辱められ、服従を強いられているというのである。Reboulは、私たちは男色行為を行い、この男ブラジヤックはそれが好きであったと述べたのである。
ブラジヤックのナチス・ドイツについての作品には同性愛的な隠喩が含まれているということについては、Reboulの攻撃は正しかった。Reboulは、この当時の文化の中に生き続けていた同性愛に対する恐れと憎悪を、レトリックを駆使して利用して、ブラジヤックへの憎悪をいっそうかきたてていった。Reboulの演説は男性らしさの危機の核心に、敗北し、4年間も無力であったのちに、今もとに戻ろうとしている男たちの国の人々の核心に触れていた。Desvillettesは女好きな男であったろう。Van der Bekenは家庭的な男であったろう。しかし、彼らの人格や生活様式がどのように異なろうとも、二人とも敗北とともに生きてきたのである。彼らの解放は経済的、政治的であったが、その解放は願望もかかえていた。Reboulはこの点を理解しており、どのように陪審員に訴えかけるかを知っていた。
隠喩を駆使した反逆告発は、検事Reboulの陳述の中間部分であった。結語にあたって、Reboulは、さらに、別のレトリックを使って、きわめて悪意のあるブラジヤックの言葉使いを繰り返しながら、その意味するところを描き出し、何が隠されており、何があからさまとなっているのかを説明した。これまで、Reboulは陪審員を憤慨させてきた。そして今、正義感で恐れおののかせようとしていた。
Reboulは、ブラジヤックがJe Suit Partoutを離れた時期に、彼の同僚RebatetがPierre Antonie Cousteauから受け取った書簡を読み上げた。それは、同紙がフランスの青年たちに対して持っていた大きな文化的影響力について述べていた。「Je Suit Partoutなしでは、私たちは、聴衆のいない、哀れでちっぽけな、間抜けなジャーナリスト、作家にすぎなくなってしまいます。誰も私たちに耳を傾けてくれず、影響をふるうこともできないのです。…人々は『ブラジヤックは[Présence
de] Virgileの著者だ』とは言っていません。『Je Suit Partoutの編集者』だと言っているのです」とConsteauはRebatetに書いている。
Reboulは次のように結論した。
「ここに、ブラジヤックの活動の核心があります。…彼は聴衆を探し求めており、本当の特別な政治的影響力を探し求めていました。このために、彼は、敵との知的通牒という極端にまで走ったのです。」
フランス語の「敵との通牒」と言う言葉はたんに「反逆」を意味しているが、Reboulはここに「知的」と言う形容詞を加えた。ブラジヤックは知的反逆者、非凡な反逆者であったというのである。
Reboulは、ブラジヤックの作品のいたるところに、速やかな公的復讐を要望する表現を発見していた。それは、ブラジヤックが捕虜収容所からJe Suit Partoutに寄稿した記事にはやくも登場していた。彼はその中で、フランスの敗戦の罪状でRiom裁判にかけられている第三共和国の大臣には情状酌量の余地はないと論じていた。レノー、ブルム、マンデルが攻撃対象となっていた。
Reboulは、ブラジヤックの復讐願望、敵に苦難を与えたいとする願望を何度も引用した。「眉をひそめることなく、彼らをくたばらせてやろう、しかし、すぐにだ」、「なぜ、共産党議員の処刑をためらうのか」、「これらの人物を、銃殺隊の前にではないとしても、強制収容所に送るのに後悔の念はない、むしろ、大いなる希望をもってだ」。ブラジヤックの攻撃の対象となった人々は彼の同国人であった。第三共和国議員、レジスタンスの戦士、ド・ゴール派、共産主義者であり、ナチスから生命を脅かされていた人々、陪審員の良く知っている人々であった。ブラジヤックは、Riom裁判にかけられていた第三共和国の大臣について、「情状酌量について聞きたくない」と書いていた。Reboulは、ブラジヤックの文章を引用しながら、「たしかに、あなたはそうしなかった」と皮肉った。そして、ブラジヤックの言葉は陪審員自身に向けられているかのような印象を作り出していた。翌日、ブラジヤックはMaurice Bardècheに、「私は彼をおろか者と思っています。悪意と無知に満ちています。…彼がやったことといえば、自分が巧妙にカットした記事の中から読み上げたことです」と書き送っている。うまく配置された引用を巧みに操作することで、批評家としての名声を築きあげてきたブラジヤックにとって、なんという皮肉であったことか。
Reboulが陪審員に向かって読み上げた文章の中には、ブラジヤックがユダヤ人を攻撃したものもあった。Reoulは、ブラジヤックの最悪の反ユダヤ主義的文章の中から二つをとくに取り上げた。「われわれは感傷なしに、ユダヤ人問題を処理しなくてはならない」、「われわれはユダヤ人をひとまとめにして分離しなくてはならず、ひとかけらも残してはならない」という文である。ブラジヤックは尋問のなかで、自分はヒューマニストであり、集団的暴力に反対していたと主張していたが、Reboulは、この主張とこの文章を対比した。彼は、Vidalが失ったものを挽回しようとしていた。とりたてて、劇的な動作をする人物ではなかったが、その声のなかに、膨大な怒りと熱情をこめることができた。彼は自分の言葉をブラジヤックに、彼だけに向けた。
「あなたは、自分たちの子供から引き裂かれたイスラエルの母親たちに科せられたおそらしい分離に涙を流すのをご都合主義であり、政治主義であると考えていました。そして今、あなたは、パリのユダヤ人から始まり、その残酷さで際立っていたポーランドの収容所で終わったこの殉教がきわめて残虐なものであったと感じています。そして、すぐに誤りを訂正しながら、『私はこのような分離に反対していた』と述べているのです。しかし、私は、Les Sept Internationales
contre la Patrieというあなたの記事を引用したいと思います。そこでは、『われわれは、これらの分離が少数の厄介な警察官の仕事であったことを忘れるべきではない』とあります。深刻な事態だと思いませんか。あなたは、当時、この分離が少数の厄介な警察官の仕事であったという不誠実な文章を執筆しましたが、今日でも、そのような議論に賛成できると考えているのですか。」
Reboulは「その残酷さで際立っていたポーランドの収容所」に触れている。1945年1月には、「絶滅収容所」という文句はまだ存在しておらず、ナチスの最終解決の全貌もまだ明らかではなかった。当時知られていたのは、パリの街頭で黄色の星をつけた人々、検挙と失踪であった。しかし、大量殺戮の証拠は次第に登場してきていた。BBC放送は、すでに1943年に絶滅を伝え始めており、多くの人々がそれを聞いていた。1944年11月23日、アメリカ軍がアルサス国境地帯のストルトフフを解放した。ポーランドのマイダネクは、ブラジヤック裁判の10日前に赤軍によって解放されていた。Ce Soirの見出しには「マイダネク、恐怖の光景」とあった。Reboulは、ユダヤ人をパリからポーランドに移送していった殉教を思い起こさせるために、戻ってこなかったか、戻ってこないであろう数百のユダヤ人友人や隣人の思い出を、法廷で呼び起こした。彼は、ブラジヤックのヒューマニズムは実際には効率的な移送を弁護することであったと述べて、彼の自己弁護を粉砕した。
Revoulは、ブラジヤックの人格の本質は彼が告発者であった点にあると断定した。
「被告ブラジヤックは、レジスタンスをかくまう施設を持っていたとソルボンヌ大学を告発しました。彼は、教室の壁からペタン元帥の肖像画を引き裂いたとLyceé Lakanalの学生を告発しました。彼は、バスティーユの日の演説でペタンを馬鹿にしたとHéraut地方の若者を告発しました。」
法廷いた全員にとって、「密告」という言葉は、占領時代の日常生活を毎日汚していた数千の密告の手紙というイメージを呼び起こした。隣人がその隣人を密告し、フランス人がユダヤ人を密告し、ビジネスマンはライバルを蹴落とすために密告していた。すべてが、4年間の秘密の些事であった。
Reboulはさらに一歩進んだ。ブラジヤックの密告は、普通の密告ではなかったというのである。
「たしかに、あなたは、ゲシュタポに出かけていって血を要求した密告者ではありません、しかし、今日では、あなたは別のタイプの密告者、より計画的で、公的な密告者と考えるのが適切でしょう。あなたの犯罪は、結局は、ゲシュタポがあなたの記事を読んで――彼らは読んでいたに違いありません――、ソルボンヌ大学や、Héraut地方、Lycée Lakanalに関心を向けたであろうという事実となっていったからです。もっとも、実際にゲシュタポがそのようにしたかどうかは定かではありませんが。」
ゲシュタポはHéraut地方の小さな町の町長を逮捕したであろうか、ペタンの肖像画を汚した生徒を移送したであろうか。検事Reboulはこの質問に答えないままにしておいた。法廷の全員にとって自明のことであったからである。
Revoulは、1時間15分、検事側論告を進めたのちに、弾丸を直接被告に向けた。
「あなたの活動は邪悪です、ブラジヤック。そして、厳密な結論を求めています。すなわち、死刑です。私はあなたに死刑を要求します。」
ブラジヤックは、それまでは自覚していなかったかもしれないが、今では、自分の命が風前の灯であることを察知した。記者席では、Helseyが注意深く彼を眺め回した。ブラジヤックはたじろいではいなかったが、Figaroの記者は、ブラジヤックの口元に少しのつばがついているのを目にした。
ここで終わるはずであったが、Reboulはあと20分間話を続けた。ここから、話を変えて、焦点を別の方向にむけた。彼はブラジヤックの席からIsorniの席に視線を低くした。弁護士が法廷にいることにはじめて気がついたかのようであった。「あなたは、私が彼の弁護について話をしていないとおっしゃるかもしれません。彼の弁護ですって。そんなことは知りません。それは明らかに美しいでしょう。それについては聞いたことがありません。私が知っているのはIsorniの才能です。それは非常に大きな才能です。」Reboulは、これから始まるであろうIsorniの戦術を予想しようとした。「あなたは別の裁判も担当することでしょう。」Reboulは、Isorniがヴィシー政府との協力の罪状で司法官たちを攻撃することを正確に予想していた。そして、ブラジヤックの方に向き直って、自分の予想を説明した。
「私はあなたが調査判事に申し立てた内容を読みました。調査判事が、共産主義者に対する熱心な闘争を行なったと非難したとき、あなたは、『私は司法官たちがしたことをしただけだ』と答ええています。これを読んだとき、あなた方が司法官たちを攻撃し始めるであろうとの印象を抱きました。」
「そんなことを絶対にやらせてはなりません」とReboulはJacques Isorniとその依頼人に向かって叫んだ。彼は、ブラジヤック御自慢の「責任」観を強調しながら、司法官仲間を率直に弁護した。「今日の苦痛に満ちた裁判は、国家のあらゆる分野に、知らず知らずに道を踏み外してしまった少数の人々がいたことを明らかにしています。」Reboulはブラジヤックを指しながら、続けた。
「たしかに、あなたと同じように、犯罪行為に責任を負うべき人々が存在しますが、あなたは、彼らの存在を自己弁護の口実に使うことはできません。あなたにしっかりと申し上げておきたいのですが、私たちに関する限り、Parodiの犠牲、ゲシュタポの神を恐れないバスタブの中で血を吐いて死んでいった判事の犠牲、その数十名の人々の犠牲、自分たちのポストで人目につかない活動をした数百名の頑迷な抵抗が、その揺るぎのない愛国心を自慢しながらも、代表者を送って、あなたに面と向かい、あなたの処罰を要求する権利を失ってしまった司法官たちよりも、はるかに高いところに私たちをおいているのです。」
Reboulは、フランス司法界の偉大なるレジスタンス殉教者René Parodiを自分の道徳的基盤の保証人としたのちに、最後から二番目の一撃を加えようとした。これまで、彼は、レトリックを使って、ブラジヤックが喜んでドイツ人と男色行為を行なっていたと明らかにしてきた。今度は、支配という言葉のあやをもう一つの方向にむけ、ドイツ人に支配されたブラジヤックが、今度は、若者を邪道に導いたと論じた。敵に誘惑されただけではなく、誘惑しようとしたというのである。Reboulは、自分が3週間前に担当した、Claude Maubourguetという青年に対する国家反逆裁判のことに触れた。彼は、Je Suis Partoutのジャーナリストで、Charles Lesca(Je Suis Partoutの筆頭株主)の甥、ヴィシーの民兵団の一員であった。Reboulは死刑を要求したが、Maubourguetは死刑を免れ、終身刑となった。
「彼は、あなたがJe Suis Partout紙上で書きたてた宣伝に感染して、民兵団に加入し、ライフル銃を担いで、マキ・レジスタンスとの戦闘に出かけました。彼の弁護人が彼を助けました。私が、彼の若さのために、いくつかの条件をつけて死刑を要求したとき、彼の弁護人は、『Maubourguetの犯罪に知的な意味で責任を負っている人物があなた方の前にいたとすれば、どうしますか』と陪審員に尋ねました。そして、その人物は当法廷にいるのです。Maubourguetがファシストになったのは、彼がヴィシー政権の民兵団に加入したのは、被告ブラジヤックの責任なのです。私がブラジヤックに死刑を要求しているのは、私がMaubourguet裁判で陪審員たちに行なった、真の責任者を処罰するという約束を果たすためなのです。Maubourguet裁判では、陪審員は彼の弁護人に賛同しました。しかし、この弁護人は心ならずも、あなたに対するもっとも厳しい訴追を求めたことになりました。Maubourguet事件での陪審員の寛大な判決のおかげで、私は、あなたに対して、仮借のない判決を要求しているのです。」
レトリックの面では、すばらしい作戦であった。Reboulは、ブラジヤックがイデオロギー的な指導についての責任を全面的に負うべきであることを、今一度、陪審員に念を押すことができたからである。
Revoulは陳述の最後の数分間には、あざけりの言葉も、嫌悪の言葉も捨て去った。ブラジヤックのほうを向いて、とどろくような声の調子を厳しいささやきのような調子に変えた。何回もブラジヤックの作品を読み直して、死刑を要求しない根拠がないかどうかを探し求めたと説明した。彼の口調は宗教的となった。同時に、Reboulは、ブラジヤックの責任、後悔の念の欠如をとがめていた。午後の太陽が法廷に弱々しく、長い光を送っていた。そのなかで、国家検事Reboul姿は、「長く黒いシルエットとなっていった。彼の声は次第に重々しく、深みを帯びたものになっていった。」(M. Laval)
「私が探していたのは、たった一つの哀れみの言葉です。…それこそが私の求めていたものであり、探していたものです。しかし何も見つけ出せませんでした。何もなかったからです。ですから、あなたにあるのは大きな才能だけであることがわかりました。しかし、その才能は無益です。慈悲の心を持っていないからです。私は自分の職務を果たさなくてはならないことを理解しました。もしそうしなければ、墓の中から無数の声が、かつてあなたがほかの人々に対して使った文句『なぜためらうのか』と耳元でささやくことになるでしょうから。」
ブラジヤックは、自分の敵、すなわち第三共和国に対する復讐心を煽ってきた。今度は、Reboulが、この共和国のために復讐を要求した。古い裁判スタイル、すなわち、目には目をであった。別の側面もあった。Reboulは、ブラジヤックが望んでいたもの、すなわち、自分の行動に対する全面的な責任と、Reboulが彼に提供したもの、すなわち、死とのあいだに完璧な調和があることを明らかにしたのであった。
<第三幕:弁護側反証、午後5時20分>
Reboulの陳述が終わると、15分間、休廷となった。身体をほぐす機会であった。満杯の法廷では最小限の暖房措置が取られていたが、その法廷は、人の身体の重み、言葉の重みで湯気を上げていた。青い制服を着た憲兵がブラジヤックを被告席のドアの後ろの待機室に連れて行った。そこでは、Isorniの助手Mireille Noëlが、彼の精神を回復させるように、いっぱいのコーヒーを彼に持ってきた。彼がふたたび付き添われて、Salle Des Assiesに戻ってくるころには、日は沈んでいた。
Jaques Isorniが弁護に立った。彼は自分の依頼人の前に立った。文字通りボディーガードのようであった。ブラジヤックは被告席で控えめな態度で座っていた。
Isorniは弁護側反証を、北欧の英雄伝のような話から始めた。
「家族の運命には、ときには、奇妙な一致があることがあります。…1915年1月、ロベール・ブラジヤックの母ブラジヤック夫人は、将校である自分の夫の消息を何週間も知らされていませんでしたが、夫がKénifraの戦いで戦死したこと、自分の国に命をささげたことを知りました。30年後、ほぼ同じ日に、同じ国の名前において、その息子の命を奪うように求められているのです。ブラジヤック中尉は35歳でした。ロベール・ブラジヤックもそうであります。ブラジヤック中尉はフランス軍の最良の希望を自分の墓にもって行きました。ロベール・ブラジヤックは現代文学のもっとも嘱望された作家です。」
悲運の父から作家である息子への穏やかな移行であった。Isorniは、Reboulの描いた醜悪な構図を離れて、ロマンティックな肖像画に移ろうとしていた。
「ここで国家検事は多くの喧嘩好きな文章を引用しました。私はそれを傾聴しましたが、ブラジヤックの人格の複雑さを考えざるをえなくなりました。辛辣なペンを持つ作家と、やさしく優美に物事を描く作家とが、同一の人物なのであろうかというわけです…。」
Reboulと同じく、Isorniもブラジヤックの才能を賞賛した。Reboulと同じく、彼も二重の人格という議論を持ち出した。異なっていたのは、Isorniにとって大切であったのが作家であり、Isorniがその命を救おうとしていたのが作家であったことである。
「文学について話しているときではないことを承知しております。しかし、ロベール・ブラジヤックの弁護という名誉ある職務を引き受けた者にとっては、たとえ1分間であっても、文学について話さないわけにはいきません。」
1分といったが、彼の話は15分続いた。
Reboulにとっては、ブラジヤックは祖国の敵であり、自分の才能を利用して、若者をそそのかした人物であった。一方、Isorniは、ブラジヤックがフランス文学の真髄であり、彼の世代の魂そのものであると論じた。彼の死を要求することは、フランスの過去、フランス文学の未来の死を要求することであるというのである。
「私たちにとって、ブラジヤックの文学は、はじめての暖かさ、希望、永遠の友情を持った燦然と輝く朝のようなものです。…私たちの人生への覚醒、存在の豊かさに直面したときの私たちの恍惚を、長くしなやかな文章を使って、すばらしく描ききったのが彼なのです。私たちの好み、私たちの苦悩、私たちの戦い、私たちの人としての最初の失望を描いたのは彼なのです。彼は私たちの青年時代、私そのものなのです。彼は、私の世代の青年であり、今は、有罪と釈放の岐路にいます。今後半世紀のあいだ、私の青年時代が私たちの子供たちに受け継がれていくのは、彼を通じて、おそらく彼だけを通じてであります。私たちの20代のときの遺産、私たちの30代のときの遺産が生き残っていくとすれば、それは彼を通じてであります。」
ブラジヤックだけが遺産を受け渡していくことができるというのであるが、その遺産の所有者である「私たち」とは誰であったのか。おそらく、Isorni自身、傍聴人のなかにいる知識人、社会的な名声を望んでいる人々であろう。しかし、いくら想像力をたくましくしても、法廷にいた陪審員たち――Grisonnet、Riou、Desvillettes、Van der Beken――ではなかった。
Isorniが「私たち」という言葉を使ったのは、戦略的なあやまちだった。Reboulが、ブラジヤックの作家としての才能と彼が裁判にかけられていることとは無関係であると主張したばかりだったからである。Isorniは、依頼人の才能を弁護することで、Je Suis Partoutを使って密告し、殺人を要求したという本当の告発を弁護していなかった。第二に、Isorniは、自分の依頼人の弁護に成功するには、レジスタンス戦士から構成される陪審員団を説得しなくてはならなかったが、彼が最初の発言で行なってしまったのは、法廷の傍聴人の中の文学的素養を持つ人々にうったえかけたことであった。彼が印象づけようとしたのは、まさにこうした人々であった。Jacques Isorniがレトリック的に輝きたいと願っていたことは、致命的な欠陥であり、彼の依頼人にとっても致命的となっていった。
彼は、人気のある短編小説家Marcel Aymé、尊敬すべき天才Paul Valéry、劇作家Paul Claudel、文学レジスタンスの敬虔なる代表者Mauriacといった作家がブラジヤックを弁護した書簡を大声で読み上げた。彼は、陪審員に向かって次のように話した。
「私は、私たちを支持してくれる書簡を受け取りました。そのうちから2、3の抜粋を読み上げたいと思います。それは古い時代のものではありません。知的な分野での私たちの時代のもっとも卓越した人々が、この裁判のために、私に書き送ってくれたものです。彼らは、あなた方、法廷の陪審員の皆さんのために、この書簡を書きました。皆さん方に、偉大なる人々が今日であっても、ブラジヤックを高く評価していることを知っていただきたいためです。」
彼の口調には説教じみており、恩着せがましい態度があらわれていた。Isorniが「ブラジヤックは批評の分野で争う余地のない才能をあらわしており、独創的な見解を展開している」というPaul Valéryの文章を引用したが、それは、良くても、漠然とした、中身を膨らました書評のように聞こえ、悪くすれば、問題の周囲を回るだけの上っ面な論評のように聞こえた。人の命を弁護するにしては、ひどい内容であった。記者席のHelseyもそのあやまちに気づいていた。「これは、陪審員にとってはギリシア語(ヘブライ語)のようなものだ」というのである。
Isorniが次に知識人のギャラリーの中から出してきたのは、François Mauriacであった。対独協力派の作家に対する寛容についての、彼とCamusとの論争は巷の話題となっていた。Mauriacは弁護のための二通の書簡をIsorniに送っていた。Isorniが読み上げなかった最初の書簡には、激しい主張が含まれていた。「もしも、私が信じているように、Je Suis Partoutの密告のおかげで逮捕されたフランス人がいなかったとすれば、私たちは、ブラジヤックが自分の攻撃の持っているおそらしい意味を理解していなかったことを認めることができる。」ここでは、Mauriacはキリスト教的な思いやりを一般常識の領域から取り出して、事実否定の領域に入れている。誰もが、Je Suis Partoutでの密告が致命的な効果を持っていたと信じていた。Isorniもそのように信じていた。もしも信じていなければ、この書簡に飛びついて利用したことであろう。Mauriacは、ブラジヤックの作品を高く評価することだけでは、彼の命を救うことはできないことを知っていたに違いない。彼は、ブラジヤックのもっとも弱い箇所、すなわち密告問題のホックをはずしてやろうとしていたのである。Isorniは、この問題では、自分の依頼人を弁護できないと思っていたに違いない。だから、彼は、Mauriacに別の書簡を送ってくれるように頼んだのである。
Mauriacは二番目の書簡を書いた。さまざまな意味合いを持ってはいるが、全体としてはブラジヤックの文学的業績を賞賛することに、テーマをしぼっていた。Mauriacは、ブラジヤックの情熱、批評家としての影響力を分析し、自分には、この作家の政治的なやりすぎを許してやる資格があると述べて、筆をおいている。Isorniは、この書簡全文を読み上げた。
「ロベール・ブラジヤックは、彼の世代のもっとも輝かしい精神の持ち主の一人であった。彼の中にある小説家としての資質が、依然として特定の影響力から彼を解放していないとしても、批評家や随筆作者は、ほかの人物には置き換えることのできないような、きわめて個人的な声を発見することであろう。私たちはその声を嫌悪することもできるかもしれないが、その声は私たちの関心を支配しているのである。…彼の最良の仕事はおそらく彼の回想録のなかにあるであろう。この世代は、ブラジヤックを介して、自分たちの好みを表現している。両大戦の間の映画について、前衛劇場について書かれた最良の頁なるものを提供しているのは彼なのである。世代というものは、ごく少数の作家を介して、自らを認識するものである。ブラジヤックは、右派の人々にとって、このような作家の一人であった。
もしも、法廷が、ブラジヤックは政治の面では情熱で目がくらんでしまった若造であった、まだ若かったので、思想のシステム、無慈悲な論理にとらわれてしまったと判断するならば、ブラジヤックに敵として扱われながらも、この輝かしい精神が永遠に消え去ってしまえば、フランス文学にとって損失となると考えている人物、作家の証言に何らかの意義を見いだしているのであろう。」
ブラジヤックは、自分の必要な時代の中に「敵としての兄弟」、忠実なる敵を発見するという空想を夢見ていたが、ここでのMauriacは、彼の願いにこたえているのである。Mauriacは、占領時代に自分を深刻な危険に追いやった人物、ドイツ当局に自分を密告した人物、出版物の中で自分を攻撃し続けた人物を許そうとしていた。さらには、救おうとしていた。これは「慈悲」――Le Figaroのコラムで許すことを主張したときに使った言葉――というだけではなく、劇場的なかたちの慈悲であった。ブラジヤックは小説家としてよりも批評家、回想録作者としての方が優れていたというMauriacの文学的評価のデリケートな側面については、異論の余地があるけれども、覚えておくべき指摘であろう。しかし、どの陪審員も忘れ去ってしまったであろう。もっと重要なことに、裁判の帰趨にはまったく関係なかった。
Isorniは、Aymé、Valéry、Claudel、Mauriacからの書簡を読み上げたのち、ブラジヤックを、文学界のもっと高い地位にまで押し上げた。
「この文学者には、公衆にあまり知られていない側面があります。それは詩人としての側面です。詩が、ブラジヤックの作品の中で本来占めるべき場所を得るようになったのは、彼が監獄での厳しい生活を経験してからのことでしたからです。」
Isorniによれば、私たちが裁いているのはたんなるジャーナリストでも、たんなる作家でもない、被告席にいる人物は詩人なのだ、そして、投獄という殉教がこの真の芸術に命を吹き込んだのだ、というのであった。
Isorniは「皆さん、お聞きください」と言ってから、ブラジヤックの獄中詩の全文を読み上げた。「壁の上の名前」と題する詩であった。その中で、ブラジヤックは、自分より前にFresnesに投獄されていたレジスタンス戦士に、夜、彼が思い浮かべた「見知らぬ兄弟たち」に敬意を表していた。弁護人にとって、詩の中で鍵となる節は、「私たちは同じ心を持っていなかった/彼らは私たちに言った、なぜ彼らが正しいのか/私たちが何であったのかはまったく問題とならない/ぼんやりとかすむ私たちの顔/闇夜の中にいるようだ」との節であった。
Isorniは、ブラジヤックの詩を紹介しながら、被告を、VidalやReboulの引用したブラジヤックの言葉にある、ナチスの兄弟、ナチスの愛人ではなく、自分たちの同族の一人、兄弟とみなしてくれるように、陪審員たちに求めた。Isorniは、ブラジヤックの顔がレジスタンスの顔と重なってわからなくなってしまうまで、ブラジヤックをかすんだ目で眺めてくれるように、陪審員たちに求めた。
しかし、陪審員たちも全員、自分の信念のために苦難を経験していたのである。Lucien Grisonnetは、命をかけて、非合法地下文書、偽の身分証明書を印刷し、Aubervillierの若いレジスタンス戦士たちが自分の町の通りでドイツ軍に射殺されるのを目撃していた。René Desvillettesにとって、地元の英雄は、Mont Valérienで人質として処刑された、シャンパーニュ電気工場の共産党員抵抗運動派René Damousであった。こうした人物の顔は彼らの心から永遠に消え去らなかった。ブラジヤックの詩は、陪審員を怒らせただけであった。
Isorniは、自分のノートの中で、大きな文字でひとつだけの文を書き込んだ頁にやってきた。自分の前で腕を組み、陪審員に向かい合うという、古典的な形式による弁護側反証の瞬間であった。彼は、「文明国民は、自分たちの詩人を射殺するのか」という壮大な文を、しっかりと読み上げた。彼は、詩や文明を裁判劇の中に持ち込むことで、全体の調子を高潔にし、論点をできるかぎり人文主義的なものとしようとした。Jacques Isorniは、若くてハンサムで、ボヘミア芸術家的な気質を持っており、永遠の学生であった。その彼は、まさに、今か今かと喝采を待ち望んでいる、「会議の第一の弁士」、輝かしい演説家そのものであった。被告席のブラジヤックは、何らかの反応を期待しながら、陪審員のことを知ろうとしていた。しかし、陪審員の顔には、何もうかばなかった。機知にとんだ印刷工のGrisonnetは、自分の店の紙不足のことを考えていたのであろうか。Van der BekenはLe Figaroに掲載された、裁判についてのMauriacの社説を読んだことがあるのであろうか。法廷にいたジャーナリストは、裁判記事の中で、陪審員には触れていない。その存在すらほとんど触れられていない。裁判のあとで、インタビューもしていない。暴力的な報復を受ける可能性があったので、陪審員を匿名にしておく必要を感じていたのかもしれない。あるいは、紙が不足していたので、記事の中では、陪審員についての情報をまず削ったのかもしれない。
Isorniは文学の話を続けた。彼はReboulの方に向き直って、この検事が手がけた犯罪事件(有名な殺人犯Clavier事件)に触れて、こう述べた。
「あなたはこの同じ法廷で、同じ刑法の名において、Clavierのような、女性をバラバラに殺したおそらしい殺人犯に対するのと同じ処罰を、詩人ブラジヤックに対しても要求しました。このために、あなたはご自分の大きな才能によってではなく、詩人に対しても同じ処罰を要求したことのために、後世の人々に記憶されてしまうという危険に陥っています。このことを自覚なさっているのでしょうか。」
次に、Isorniは、話題を変えて、ドイツ人と協力して、国から資源を搾り取ったビジネスマンに触れて、裁判の優先順位を批判した。
「あなたは大砲証人には、どのような処罰を用意しているのでしょうか。このようなビジネスマンはまだ裁判にかけられておりません。経済的な対独協力派が自由の身でいるのに、なぜ詩人ブラジヤックを処罰できるのでしょうか。」
Isorniの弁論は、20分経過していた。そして、彼は、ブラジヤックに対するReboulの告発の根幹に触れていった。
「皆さん、私には、あなた方の異議申し立てがわかっています。Reboulは詩人を告発しているのではない、作家を告発しているのではない、彼が告発しているのはJe Suit Partoutの編集長であるというのです。ですから、ここでJe Suit Partoutについてお話しなくてはなりません。」
彼の第一の弁護方針は、同紙が文化的性格を持っていたというものであった。アカデミー・フランセーズの書記André BellesortはJe Suit Partoutに評論を寄稿していた。Marcel
Aymé、Anouilhは文学作品を寄稿していた。Isorniは、もっとも政治的ではなく、もっとも文学的な寄稿者の名前を選んで挙げた。しかし、このような名前、このような意味合いは、陪審員には意味のないことであった。
Isorniは、ブラジヤックがJe Suit Partoutに寄稿した社説に関して、彼の名前を明らかにしようともしなかった。その代わりに、非難の矛先をJe Suit Partoutから法廷自体に、ブラジヤックの主張からVidalとReboulの主張に移した。彼は、Bouchardonという名の判事のことについて、陪審員に説明した。Bouchardonは陪審員には知られていなかったが、法曹界では有名であった。そして、来たるべき夏にヴィシー政府の大臣を反逆の罪状で裁くことになっている最高法院の長官に任命されたばかりであった。この判事Bouchardonは占領時代に、Je Suit Partout紙上で友好的なインタビューを受けていた。Bouchardonは、自分自身も同意して、Je Suit Partoutで反ユダヤ主義的な発言を行なったというのである。
そのとき、形勢が逆転した。Isorniは、Je Suit PartoutのためにBouchardonにインタビューを行なったジャーナリストからの書簡を引用した。その書簡は、この判事がブラジヤックと新聞をおおやけに賞賛していたと述べていた。Isorniは得点を稼いだ。
「国家検事殿、私はあなたの方を向いて、次のように言わなくてはなりません。あなたは、Je Suit Partoutの記事ゆえに、ロベール・ブラジヤックに対して死刑を要求しました。一方、反逆罪を裁く最高裁判事は、Je Suit Partoutへのインタビューを受けたのちに、『私はロベール・ブラジヤックと彼の記事を高く評価する』と述べているのです。検事殿、どちらかを選ばなくてはなりません。」
ここで、Isorniは、左翼からも共感を勝ちえた。1945年1月、Lettres FrançaisesとActionのコラムは、どの点から見ても、Isorniの演説と同じように、司法界に敵意を持っていた。傍聴人はBouchardonに対するIsorniのジャブにうれしそうな笑い声を上げた。笑い声を上げたのはブラジヤックの友人だけではなかった。法廷にいた若者、左翼、共産主義的なジャーナリストも笑い声を上げた。彼らは判事たちを、従順な官僚ども、古い親衛隊の一部とみなしており、解放を契機として、このような集団に取って代わりたいと考えていたからである。Isorniは、ブラジヤックの積極的な対独協力に対して、もうひとつの悪、すなわち、ドイツ人と何とかうまくやっていながら、今となっては、白い手袋をはめて、別の側に姿を現している人々による受動的対独協力を対置した。司法界はそのような人々であふれている、とIsorniは示唆した。ブラジヤックは少なくとも自分の信念を表明する勇気を持っているのに、その彼を処罰することで、受動的対独協力派の存在は忘れ去られてしまうのか、というのである。この主張は、Isorniの強力な論点のひとつであった。
Isorniは自分の得点を増やそうとして、我慢強く論じた。
「皆さん、検事側の訴追を耳にしたとき、この裁判が、言論の裁判であることがおわかりになったと思います。すなわち、この裁判は、行為ではなく言論を裁こうとする訴訟事件なのです。事実、起訴状には、ブラジヤックの言葉ではなく、行為については3つの事実が挙げられているにすぎません。第一は、ブラジヤックは自分の宣伝を続けるために、ドイツ側によって捕虜収容所から釈放されたという告発であります。しかし、それは本当ではありません。ブラジヤックが釈放されたのは、ヴィシー政府の映画庁長官に適任であると考えられたためです。彼が捕虜収容所から書いた記事が釈放を促したのではありえません。事実の前後関係が間違っています。第二に、彼はRive-Gauche書店の理事であったという告発があります。この事実は本件には重要ではありません。10月にブラジヤックを尋問した調査判事でさえも、『まったく重要性がない』と考えているほどです。事実、Rive-Gaucheは学術的、文化交流団体でしたし、ブラジヤックはそこからお金をもらってはいません。無料の書籍を数冊もらっただけです。いずれにしても、書店が売っていたのは古典であり、宣伝文書ではありません。Reboulさん、あなたはこの件で死刑を要求していますが、まともなのでしょうか。」
「起訴状の中で残っている行為は、ブラジヤックが2回ドイツに旅行していることです。しかし、ワイマールには別の6人も旅行していますが、彼らはその罪を問われてはいません。なぜ、ブラジヤックだけが犯罪者とされているのでしょうか。しかし、この6名の名前をあげるように、私に求めないでください。被告を弁護するにあたって、そのことは重要ではないでしょうし、それが密告のように受け取られてしまうことを恐れています。さらに、被告は、ボリシェヴィズムに対抗する義勇兵連盟のために、de Brionと一緒に東部戦線を視察していますし、カチンの森の大量埋葬地にも訪れていますが、それは、記者としての被告の権利であり職務なのです。」
Isorniは、数分ごとに向きを変えながら話を進めた。最初は、Reboulの方を、ついで陪審員の方を、また、Reboulの方を、そしてふたたび、陪審員の方をというように。
「皆さん、3つの事実を検証してきました。これらは死刑に値する行為なのでしょうか。ですから、この裁判は言論を裁く裁判であるといわざるをえないのです。」
Isorniの主張は正しい。これらの行為は、文脈から取り出してみれば、とりわけ、数多くのその他の政治的対独協力派の悪行と比べれば、瑣末な行為であったからである。しかし、彼は、Je Suit Partoutでの「言論」を瑣末な「行為」としているが、そのとき、Isorniは、ブラジヤックが自分の新聞で殺人を呼びかけたこと、そしてその結果がどのようになったことを無視しているのである。この点こそが、作家ブラジヤックに対するReboulの告発の核心であった。Isorniは、「たんなる言論」という仮説を設定しておかなくてはならなかった。Isorniは、ブラジヤックが殺人を呼びかけたことが実際の殺人を呼び起こさなかったとは、証明したくなかったし、また証明できなかったからである。
Isorniは、ブラジヤックがアクション・フランセーズの喧嘩好きな伝統の中にいた思想家、作家として、自分の見解を表明するにあたって、ひどく図式的であり、間違っていることもあったことを認めた。しかし、自分の依頼人の発言が反逆であるとは考えようとしなかった。Isorniは、反逆という告発がたんなる発言に対しては根拠のないものであることを示そうとして、「この時期、反省の機会を与えられれば、フランス人は、必ずしもいさかいをおこさないわけではないが、多かれ少なかれ、ドイツと一緒に眠りについていたことであろう。そして、その記憶はフランス人にとっては、甘いものであろう」というブラジヤックの言葉に焦点を向けた。それは、Reboulがブラジヤックを中傷するのに、もっとも効果を挙げた一節であった。
「ご覧ください、検事殿、あなたはこの文章を理解していません。あなたは、陪審員に印象づけようとして、この文章を安易にOradourの虐殺と並べて論じています。そのようなことがあってはいけません。ですから、しっかりと説明しておかなくてはなりません。」
Isorniにとって、「しっかりと説明する」というのは、隠喩の元になる資料を探しだすことであった。Reboulは、Geoffroy St. Hilaire通りでの夕食会のときに、その手がかりを手に入れているかもしれなかったし、検事側が、ブラジヤックの姿勢を象徴しており、かつ恥知らずなこの文章を、レトリック的な得点を稼ぐために利用しようとしているのは明らかだった。いずれにせよ、Isorniは隠喩の元になる資料を探しだすという宿題を果たした。ブラジヤックに尋ねてみると、「ドイツと一緒に眠りにつく」という表現の元資料はErnst Renanであった。BardècheはIsorniを、Renanの専門家である自分の論文主査Jean Pommierのもとに派遣した。Isorniのテーブルに置かれていたノートには、Renanからの4つの引用、「ドイツは私の愛人であった」という、よく引用される彼の一節を含む参考文献が記されていた。ブラジヤックの命は、反逆であるかないかの線上にあったのに、Isorniがやったことといえば脚注を集めることであった。雄弁でありたいという願いが彼の優先順位をゆがめてしまったのであろうか。それとも、文学的な資料を並べることで、依頼人の命を救うことができると本当に考えていたのであろうか。
Isorniは、幅広い知識で武装して、法廷席のVidalと陪審員に対峙した。
「ドイツのベッドへのほのめかしとは何のことでしょうか。おわかりのとおり、そしてそのように申し上げるのを釈明しなくてはならないのですが、私たちは、言論にもとづく裁判にいるのです。もっといえば、哲学的な裁判にいるのです。それは、『ドイツは私の愛人である』というRenanの有名な一節を、意図的に、皮肉なかたちで言い換えたものです。Renanの文章は、La Réforme intellectuelle et moraleの序文にあります。Renanによるデリケートな注釈なのです。…裁判の論点をRenanによる細かい注釈に戻してしまっていることをお許しいただきたいのですが、これこそが真実です。ここで扱っているのは、非常に文学に詳しい文学者であり、誰もが、彼のように詳しい知識を持っているわけではないということです。私もその一人です。もし、ブラジヤックが説明してくれなければ、理解すらできなかったでしょう。」
Isorniはしっかり説明したが、その問題点は、衒学的すぎることであった。彼の説明は、ブラジヤックの姿勢、彼の置かれている状況、彼の精神状態とはまったく関係がなかった。Isorniは自分の「発見」を締めくくるにあたって、陪審員と運命をともにして、自分も彼らと同じように無知であると述べた。陪審員は本も読まずに無学だとほのめかしてしまったミスを埋め合わせようとするかのようであった。自分のあと知恵が不誠実であることを示すのに、博士号は必要なかった。結局のところ、陪審員は、ブラジヤックがRenanその他の作家の引用を潤色したかどうかにはまったく関心がなかった。Isorniが陪審員に伝えたことといえば、彼がうぬぼれており、楽観的なことであった。また、彼は陪審員をいらいらさせたか、たんに退屈にさせた。
ここまでくると、自分の弁護人を尊敬していたブラジヤックでさえも、Isorniの反証の中間部分が長すぎるのではないか、さまざまな情報が詰まりすぎているのではないかと考え始めていた。のちに、ブラジヤックは義理の弟に「中間部分は、明晰ではないように思えます。Isorniはあらゆることに答えようとしているからです。ですから、統一性がないように思えます。しかし、これは彼の責任ではありません、テーマの責任です」と書き送っている。
Isorniは、依頼人のドイツに対する文字通りの愛着から、共和国に対する文字通りの憎悪に話を移した。
「イギリス人ファシストOswald
Mosleyはブラジヤックのように、イギリス民主主義を獰猛に攻撃しました。しかし、イギリス人は、戦時中に、自国のファシストMosleyを釈放しました。模範的な事例です。フランス人もイギリス人のように、リベラルたるべきではないのでしょうか。真の民主主義とは、自分に対してもっとも批判的な分子でさえも、自由にしておくものなのでしょう。」
しかし、イギリスは外国に占領されていたわけではなかった。類似はあてはまらない。Mosleyはブラジヤックではなかった。
Isorniは次のように論じた。
「たしかに、被告は、自国の敗北の責任者とみなしていた政府の役人に死刑を要求するにあたって、非常に厳しい姿勢をとりました。しかし、そのようなことをしたのは被告だけではありません。文学的なスタイルを別とすれば、その厳しさはとりたてて異常なことではありません。言い換えれば、被告が自分の敵に絞首刑を要求したとき、そこに被告の空想と結びついた官能的な特殊性があったとすれば、それは、たんに被告が優れた作家であるためです。」
優れた文筆能力がブラジヤックを困難に陥れたというのである。
ブラジヤックはさまざまなケースの殺人を呼びかけていたが、そのなかで、このさいIsorniが弁明しておかなくてはならないと考えていたのは、ブラジヤックが共産主義者の処刑を呼びかけていた件であった。Isorniは、陪審員たちがもっぱら共産主義者で構成されていると信じていた――それは誤りであったが――ので、この件を無視するわけにはいかなかった。
「被告は、共産主義者と同じように、いつも社会思想家であり、『社会的な大望』に関心を抱いていました。ですから、被告は、ドイツ人が、占領軍兵士に対する共産主義者の暴力行為に対抗して、人質の処刑を始めたとき、ぞっとしていました。ナチスはレジスタンスに対抗して人質をとりました。レジスタンスがドイツの暴力を招いたのです。被告はこの問題について釈明しています。少数のレジスタンス活動家を処罰すれば、『無垢の人質』の虐殺を防ぐことができると考えていたのです。レジスタンスの指導者たちも、人質を取ることに対してさらなる暴力で報復することが賢明な措置かどうかを熱心に討論していました。レジスタンスもブラジヤックと同じような立場を取っていたのです。レジスタンスの道徳的指導者も、この事実についてはブラジヤックと同じようなことを書いていたとすれば、ここには、敵と味方がとくに焦眉の問題で意見の一致を見てしまうような、意見の深い混乱があったのではないでしょうか。」
レジスタンスも人質を取ることに配慮していた、ブラジヤックもそうであった。だから、ブラジヤックとレジスタンスは同一である。結論:ブラジヤックは対独協力派ではなかった、むしろ、レジスタンス派と道徳的には同等であったというのである。Isorniは、ブラジヤックと彼が死を要求した敵との差を消そうとしていた。これはトリックであり、小手先の技であった。Isorniの陳述の4分の3がこの方法であった。彼の話は陪審員を怒らせただけだったけれども、少なくとも、陪審員たちを対象にするようになっていた。
Isorniの最後の戦術は、フランスの司法界の歴史のなかでもっとも屈辱的なエピソードの一つ、ドイツの圧力を受けて、きわめて過酷で、不正な処罰を共産主義者レジスタンスに科したヴィシー特別区法廷の活動の件を持ち出すことだった。Isorniはパリ特別区法廷の弁護士であったので、この問題では大きな道徳的権威を持っていた。ブラジヤックを、占領時代のIsorniの善行のマントのなかに隠してしまうチャンスであった。彼は、ドイツの支配する法廷を引き合いにだすことで、ReboulとVidalの道徳的立場を否定しようとしていた。二人は、特別区法廷に勤めてはいなかったが、もっと大きなヴィシーの司法制度――特別区法廷もその一部であった――の構成員であったからである。
「ついにその時がやってきました」とIsorniは始めた。彼は、これから始める自分の戦術が、この裁判での自分の最大の武器、最強の攻撃兵器であることを知っていた。彼は、自分の攻撃を、Reboulがブラジヤック事件の検事となったことに後悔の念を抱いていると述べることから始めた。というのは、「奇妙な一致が私たちの存在の行く末、ときには私たちの心臓の鼓動を結び付けてきた」からだというのであった。彼の隣にいたReboulは、高い席に穏やかに座っていた。前の腕に重心をかけて、身体を前に傾けていた。1時間半ほど立っていたのちに、自分の痛んでいるお尻から圧力を解放するやり方であった。Reboulにとって、Isorniの言葉は、華やかなレトリック以上のものであった。二人は、空襲警報がなったときに、心臓をどきどきいわせながら、自分たちのアパートの地下に肩を並べて座っていた仲であった。Isorniは、「私はあなたのことを友人と呼びましたが、それは、この法廷でしばしば矮小化されてしまった言葉をさらに矮小化するためではなく、まさに、あなたが真の友人であるためなのです」とつけ加えた。
6時15分であった。ついに、「もう一つの裁判」が始まった。Reboulは、それが自分に対する裁判となることを予期していた。時間が止まった。法廷ではいろいろな人が傍聴していたが、この二人以外には、だれもいないかのように、IsorniはReboulを見つめ、ReboulはIsorniを見つめた。そして、Isorniは痛烈な非難を始めた。
「あなたの組織――公共省――は、今日、レジスタンスのファンファーレを奏でています。とてもすばらしいことです。…しかし、この4年間、あなたはこの場所に立って、対独協力政策を代表してきました。この組織は、4年間、ユダヤ人を訴追・有罪宣告し、レジスタンス派を訴追・有罪宣告し、共産主義者を訴追・有罪宣告しました。あなたは、進んでであったにせよ、いやいやであったにせよ、この組織と歩調をあわせてきました。」
この告発は、IsorniがReboulは自分の友人であると述べたばかりであったので、非常に劇的な効果を持っていた。法廷の道徳的基盤を攻撃しているだけではなく、友人の偽善を告発していたからである。
裁判では、検事と弁護士が法廷で厳しく互いを非難したのちに、そのあと友人として一杯酌み交わすのは、とりたて異常なことではなかった。ゲームの構成要素であった。しかし、今回は、このゲームは深刻なものとなり、ReboulとIsorniの二人の友情が、この論争のあとで無傷のままで残ることができるかどうか、誰もがいぶかっていた。
Isorniは、郊外からやってきた陪審員の方を向いた。司法制度に対する彼の大胆な攻撃は、陪審員たちに衝撃を与えていた。
「私は、対独協力政策の犠牲者にむかって、次のように尋ねる資格を持っています。どちらがあなた方に苦難を与えたのか。ジャーナリストの作品なのでしょうか、それとも、あなた方の悲しみと血の中に消すことのできない刻印を残したものの、今日では、仮借のない告発者となっている人々の行為なのでしょうか。」
Isorniの発言は、陪審員たちの関心を充分にひきつけた。彼は、法廷席にいる人々に、「ブラジヤックのような人々か、それともReboulのような人々か、どちらの方が本当の罪悪を行なったのか」と尋ねていたのである。
Isorniは慈悲と謙遜が入り混じったような険しい表情を浮かべていた。それによって、法廷侮辱罪を免れていた。充分に関心を引きつけることができたと確信したので、今度は、陪審員たちから、法廷の反対側にいる自分の敵に顔を向けて立っていた。
「私は、あなたが4年間この席に立って対独協力政策を進めていたのを非難しようとは思いません。あなたも、救うことができることを救うために、対独協力をしたのですから。司法官としての職務を果たしただけなのです。あなたは、もし共産主義者を裁くのが自分でなければ、ドイツ人が裁判を担当し、もっと多くの死刑判決を下してしまうと考えていたのです。あなたは、司法界で救うことができるものを救うために対独協力者となっていたのです。ですから、私がこのような告発をあなたにぶつけない理由をご存知のはずです。もし、あなたというフランス人司法官が、6名か10名のフランス人を告発することを拒んだとすれば、ドイツ人は50名か60名を射殺したことでしょう。だからこそ、私はあなたを告発しようとはしていないのです。」
Isorniがここで言及していたのは、3つの恥ずべき死刑判決のことであった。パリの特別区法廷は、何名かに死刑判決を下さなければ、60名の人質を殺害するとのドイツ側の脅迫にこたえて、死刑判決を下したのである。彼は、「わたしはあなたを非難しようとは思いません」、「もしあなたが拒めば、」と論じたが、特別区法廷には勤務していなかったReboulを巧妙に「あなた」の中にひっくくったのである。
Isorniは、司法官たちを偽善者、弱虫と弾劾したのちに、彼らは二つの悪の中で、より程度が低い悪を選択したのだと、寛大なる精神を見せて、彼らを許した。彼はふたたび陪審員の方を向いて、こう結論した。
「これに対して、ブラジヤックは勇気の人でありました。その証拠に、彼は、金銭的な損失をかえりみず、Je Suis Partoutを1943年にやめています。Reboulのような人々は、その弱さゆえに司法界を離れませんでした。しかし、ブラジヤックはその強さゆえに自分の新聞を離れたのです。ブラジヤックは、解放軍が迫ってきても、フランスを離れようとはしませんでした。ですから、皆さん、ブラジヤックは、信念に忠実な人、自分を支持してくれた人々に忠実な人でした。自分の助言にしたがった若者に忠実な人、そして、何よりも、危機にあっても、自分の祖国に忠実な人でした。Reboulは、ブラジヤックは戦争の風向きが変わるとやけどをしないようにしたにすぎないと言いましたが、そうではなく、ブラジヤックがJe Suis Partoutを離れたのは愛国心にもとづいていたのです。ですから、反逆という告発はまったく不適切なのです。」
Isorniは、ブラジヤックの肖像を完成させるために、陪審員に自分の経歴を紹介し、陪審員のブラジヤックへの信頼を勝ち得るために、少々の親近感を表明した。
「私はブルジョアジーという社会階級に属しています。社会的大望に対して敵対的で、そこから閉ざされている階級です。しかし、私は、自分にとって未知の人物を詳しく観察してきました。3年間にわたって、あらゆる不正と戦っていた共産主義的な戦士です。私は、この戦士の中に、私がブラジヤックの中に見出していたもの、すなわち、誠実さ、公平無私さ、純粋さを見出しました。
そのことによって、私は悲劇的な事件を思い出さざるをえませんでした。
20歳の若者のことを覚えています。彼の名前はここでは関係ありません。彼は、Orgerus森出身の木こりでした。…共産主義者であったので、死刑判決を受けました。彼の子供のような美しい顔、高い身長を覚えています。…死刑判決を受けると、彼は私の方を見て、『信念のために、罪に問われている』という一言を口にしました。私は言葉を発することができませんでした。彼は、『信念のために、罪に問われている』と言いつづけていました。私は、彼の顔を見つづけていました。彼はキリスト教の殉教者のように死におもむこうとしていました。」
この話は、Isorniには慣れ親しんだたとえ話であった。ブラジヤックの人格、彼の理想主義は、共産主義者の木こりの人格、理想主義と同じだというのである。のちにIsorniは回想録の中で、Orgerusには森はなかったが、「Orgerusの森出身の木こり」の話は、ヴィシー時代の裁判で、依頼人の命を救ったと述べている。彼は、ブラジヤック裁判では、その寓話の中身をもっとふくらませた。すなわち、この若者は国家の手で死刑となったとし、この若者をキリスト教の殉教者の中に入れたのである。これが嘘であることは彼自身も知っていた。Isorniは、後年、裁判で作り話をしたことを弁明して、「ブラジヤックの命を救うために、私はこの戦士を新たなリアリティの中に置き換えたにすぎない。彼が死んでいくのを見たことはないが、彼以外の人々、彼と同じような人々が死んでいた」と述べている。
Jacques Isorniはこのようなやり方で、Reboulの訴追に対抗した。Reboulは多弁を弄して、ブラジヤックに「邪悪な人物」という烙印を押した。Isorniは、「いや、純粋な人であった」と対抗した。Isorniは、自分の弁護戦術をたくみに変化させた。弁護側反証の冒頭では、ブラジヤックは高潔な詩人、フランス文明の魂であった。終結部では、彼は田舎の純粋で素朴な人物となった。
次に登場したのは、レトリック的な太鼓のとどろき、すなわち、ド・ゴールの臨時政府の正統性に疑問を呈することであった。総選挙はまだ行なわれていなかったからである。
「国家検事殿、取り返しのつかない死刑判決を執行してしまってから、もし、明日、フランス国民の多数があなたを否認したとすれば、あなたには復権する力があるのでしょうか。…国家検事殿、臨時の名において、永遠のことを求めることはできません。臨時政府には、死刑というような永遠の事柄を要求する権利はないのです。」
Isorniはもう一度、法廷の前面を見て話し出した。その声の調子は、巧みに、上がったり低くなったりした。彼は陪審員がどのように感じているか想像しようとしていた。
「皆さんは、国家機構の力を、すなわち権力を持っています。一方、被告は打ち負かされ、たった一人ですが、兵士の自尊心を持ってここにいます。皆さんは、彼を処罰できます。なんらの危険を犯すことなく処罰できます。しかし、私の最後の訴えをお聞きください。死刑は彼には適切ではありません。正義には魂を処刑する権利はありません。もっとも偉大なる思想家たちが描くところの偉大なる精神を永遠に消し去ること、あなた方の手で永遠に消し去ることがあってはなりません。フランスが生き残るために、復讐の嵐の中でなされる皆さんの判決が、悲しみをたたえたフランスの空の中に、何よりも必要とされている公正で和解したフランスを予期させるような最初の兆候として、その姿を現すことを期待いたします。」
Isorniが「フランスが生き残るために」と最終弁論をしめくくろうとしたとき、法廷は沈黙していた。ブラジヤックは自分の弁護人の陳述が終わると、傍聴人を見回した。自分の妹Suzanne、捕虜収容所時代からの友人Jacques
Tounant、友人の漫画作家Jean
Effelの姿が見えた。右翼の学生たちが後ろの方に立っていた。傍聴人のあいだには、新聞が「第5列」と呼んだ彼の支持者がいた。対独協力政策に好意的で、裁判には敵意を抱いていた人々であった。ブラジヤックは、彼らの顔に涙が流れているのを見た。
陪審員は泣いていなかった。Isorniの弁護の大半は、文学的で、衒学的なために、彼らの心を揺り動かすことができなかった。彼は陪審員たちの政治経験を遅ればせながら理解しようとしたが、それは表面的であり、浅薄であった。森の木こりという寓話は実在しなかった。Isorniは、陪審員リストにある名前と町以外には、陪審員について何も知らなかった。彼らは、Isorniが想像していたほど、共産主義に傾倒していたわけではなかった。Isorniは過ちをおかしていた。彼は対独協力の件で司法制度を巧妙に攻撃し、その後で、ブラジヤックは彼らと同じことをしただけだと主張した。
別のやり方の弁護方針もありえたであろう。すなわち、ブラジヤックは自分の責任と力を実際よりもはるかに大きいものとして見せかけている、実際には、ブラジヤックよりもはるかに悪質な数百、数千の政治的対独協力派が存在した、ブラジヤックは作家にすぎないのだから、本裁判は言論に対する裁判である、という弁護方針である。この事件から50年たってみると、このような方針の方がブラジヤックの命を救ったかもしれない。
しかし、そのような弁論をすることは、Isorni自身の価値を、そしてブラジヤック自身の価値を低めてしまうことであった。自分自身の職業的、政治的本能、依頼人に対する見方、得失感に反することであった。Jacques Isorniの弁論はひどく感傷的な調子であった。自分の言葉がいつの日か出版されることを予期しながら、弁論を準備したかのようであった。彼は、自分の依頼人を高みに上げようと決意していた。たとえ、それが、殉教者の高みに上げることになろうとも。彼は、公判の後半で、陪審員の力にやっと気づき、自分の依頼人には力がなかったことを示唆するようになるが、遅すぎた。
後年、作家Roger Grenierは、「ブラジヤックの弁護士は美しい裁判を求めていたのだ」と一言でまとめている。
<質問、午後6時半>
裁判長Vidalは、ブラジヤックに起立を求め、何か付け加えることはありませんかと尋ねた。ブラジヤックは「いいえ、閣下」と答えた。Vidalは「お座りください。審議は終わりました」と述べ、対独協力派の処罰に適用される反逆と国家の安全に対する脅威についての刑法の、入念で大げさな諸条項から引用しながら、陪審員に質問状を読み上げた。
1.
今ここで告発されているロベール・ブラジヤックは、フランス領内で、1941年、1942年、1943年、1944年のあいだ、1940年6月16日から解放の日までの戦時中に、フランス人でありながら、フランスに対する、あるいは、枢軸国と戦争中の連合国のいずれかの国に対する、ドイツの企てを支持して、ドイツやその代理人との通牒を企てた罪状で、有罪であるのか。
2.
質問1に特定されている行為が、フランスに対する、あるいは、枢軸国と戦争中の連合国のいずれかの国に対する、ドイツの企てを支持して行なわれたものであるか。
Van der Beken、Riou、Desvillettes、Grisonnetは「司法官と陪審員」との印のある出口から、Vidalの部屋に向かった。ブラジヤックも楽屋裏に連れていかれた。Isorniは急いで、彼を追った。そして、「何が起ころうとも、毅然としていて、希望を抱いていなくてはなりません」とブラジヤックに話しかけた。看守がドアを監視していた。
<審議:午後6時35分>
技師André Van der Beken、印刷工Lucient Grisonnet、電気工のEmile RiouとRené DesvillettesはVidalとともに審議室に座っていた。ここには陪審員と彼しかいなかったので、裁判長Vidalは輝かしい被告の存在に脅かされることなく、自分の縄張りに戻った。彼は、陪審員がブラジヤックに有利な「情状酌量」の余地があると裁定しなければ、反逆事件での有罪判決は死刑となる、ブラジヤックを釈放するか、それとも死刑判決を下すかのどちらかであり、中間は存在しない、といかめしい調子で陪審員に説明した。
André Van der Bekenは死刑判決に反対したのであろうか。尋問の最後で、ブラジヤックは、自分の母が人質として逮捕され、「3週間も不潔な監獄に拘留されました。横3メートル縦4メートルの房に、30名が押し込められ、30名に対して4つの藁のマットがあっただけです」と説明し、囚人として出頭したという手紙が届くと自分の母はすぐに釈放されたと述べたとき、このSaint Maurからの技師は、ひどく混乱していた。彼の娘によると、彼はその晩帰宅すると、ブラジヤックの母親に対する政府の処置に道徳的、倫理的に憤慨していたという。
陪審員の審議の結果は、法律によって秘密とされている。50年たってみると、Saint
Maurからの技師André Van der Bekenが4人の中で、情状酌量の存在を支持した人物であったと推測できるだけである。彼は、死刑に反対するヒューマニストであった。彼はプロテスタントであり、少数派であった。彼は、陪審員の中で唯一Grande Ecoleを卒業しており、ブルジョアであった。社会学的には、彼は、同僚の陪審員よりも、ブラジヤックと多くの共通点を持っていた。同僚の陪審員との共通点はレジスタンスの経験であった。レジスタンスの経験は、最近のことであり、命を危険にさらすほど緊張感のあるものであり、社会学的な矯正機であった。レジスタンスでは、Van der Bekenは「混乱業務」の責任者であった。彼はスムースな作業システムをどのように妨害するかを知っていたので、ナチスの搬出スケジュールを妨害した。彼がブラジヤック裁判でどのような投票をしたのか、有罪判決に抗議したのかどうか、もし抗議したとすれば、ほかの3人はどのような反応を示したのか、これを知ることはできないであろう。いずれにしても、フランスの裁判では、判決は「全員一致」である必要はない。「決定を下しえない陪審」のようなものはない。ブラジヤックの運命についての議論は、激論であったにせよ、そうではなかったにせよ、20分で終了した。法廷のベルが鳴り、審理が再開された。
<幕引き:判決、午後7時>
ブラジヤックは被告席で起立していた。Vidalが、法廷の質問に対する回答を読み上げていた。
「二つの質問について、多数決で『はい』です。」
情状酌量の余地はなかった。そして、Vidalは次のようにはっきりと宣告した。
「法廷は、ロベール・ブラジヤックが敵との通牒の罪状で有罪であるとの多数決の裁定を受けて、国家検事、被告の弁護団、被告自身の陳述を聞いたうえで、
刑法75条の37、38、39項と1944年11月29日の法令63条3項、77条と照らし合わせて、
これらの諸条項にしたがって、法廷は、多数決によって、ブラジヤック、ロベールに死刑を言い渡す。
すなわち、銃殺刑に処す。
そして、刑法37、38、39条にしたがって、国家の利益のために、有罪となった者のすべての財産の没収を声明する。
本判決は、刑法36条にしたがって、その抜粋が印刷、公表、掲示される。
ブラジヤックに国家負担金の支払いを命ずる。」
Vidalは行政ノートから顔を上げて、もう一度、被告席のブラジヤックと、その下の弁護人席のIsorniを見て、「ブラジヤック、この判決に意義を申したてることができる期間は24時間です。それをすぎると、異議申し立ては受理されません」と述べた。
ブラジヤックはたじろがなかった。傍聴人はブーイングをあげた。Vidalは閉廷を宣した。怒りの叫び声があがり、大混乱となった。人々がブラジヤックの方に殺到した。看守かジャーナリストかわからないが、誰かが、出口を閉鎖し、身分証明書をチェックするように叫んだ。しかし、裁判長は、判事の儀礼帽をすでにつかんで、急いで自分の部屋に退出しようとしていた。ブラジヤックの妹Suzanneが群衆をかきわけて自分の兄にキスしようとした。被告ブラジヤックは微笑んでいた。来世の微笑であった。Dijon出身の若者Jacques
Poillotが、「人殺し、人殺し、恥だ!」と叫んだ。看守が彼を捕まえて、法廷侮辱罪で逮捕した。ブラジヤックはこれに対して、明晰で落ち着いた声で、「名誉だ!」と答えた。混沌としていたけれども、全員が彼の声を耳にした。彼はすばやく向きを変えて、妹とIsorniに手を振った。そして、看守が彼に手錠をかけて、法廷から連れ出していった。完璧な幕引きであった。ブラジヤックは、小さな螺旋階段を下り、「ネズミ捕り」を通って、刑務所の車に戻っていった。
裁判が始まったとき、ブラジヤックは、明晰で早熟な高等師範学校生であった。彼もそう考えており、法廷にいた人々の多くもそう考えていた。彼は、高等師範学校生らしく、試験を受けるのと同じように注意深く、尋問に対して準備していた。裁判の中では、彼は落ち着いて、抑制された姿勢を見せ、法廷にいた人々は、彼の言葉や振舞いについて、何時間も耳にした。その裁判が終わってみると、彼には何らかの変化が生じたようであった。彼の鋭利なユーモアは失われ、なみはずれた真面目さがそれにとって代わった。彼は、自分の賞賛するコルネイユ的な伝統の中の悲劇の人物となった。彼は、自分の原則の名において、自分の命を捧げようとしていた。
大半の重要対独協力派の裁判には数日が費やされた。ブラジヤックの公判にはわずか6時間が費やされただけであった。6時間で、文学的対独協力派の「綺羅星」に死刑判決を下したのである。