第21日―1945年10月10日水曜日
(弁護人ウィンウッド少佐の再尋問)
Q:神を信じているかどうか質問されましたね。ドイツを信じていますか。
A:はい。
Q:ユダヤ人種の絶滅があなたの党の教義の一部であるかどうか質問されましたね。
A:一部でした。
Q:あなたの党はドイツの政府でしたか。それは1933年に権力の座につき、ヨーロッパ戦争の終結までその座にありましたか。
A:はい。
Q:その政府は、世界の文明国すべてに承認されていましたか。
A:そう思います。
Q:アドルフ・ヒトラーがその政府の長でしたか。ハインリヒ・ヒムラーは、ドイツ国内の治安の維持を任されていましたか。
A:はい。
Q:ドイツでのあなたの低い地位では、ヒムラーからの命令にどのような意見を持っていましたか。
A:ヒムラーは私にとって最上級の上司であり、当然ながら、彼の命令を実行しなくてはなりません。その他の意見はありえません。軍事命令を実行しないことは問題外です。
Q:1944年の2週間、昼も夜もやってきた移送者は、どこからやってきたのですか。
A:ハンガリーです。
Q:逮捕されることよりも大量殺戮に関与することを選んだのですね。
A:はい。
Q:人数の報告はどの部局に送られたのですか。
A:男性のものと女性のものが別々に、二つの報告がオラニエンブルクに送られました。
Q:食料を手に入れるために、規則違反をしたことがありますか。
A:食料と手に入れるために、いくつかの民間会社と接触しました。
Q:SS大尉のあなたが1945年に国防軍の将軍のもとにいったとすれば、どうなったでしょう。
A:面会するのはさして難しくなかったでしょうが、食糧補給を要請しても、否定的な答えであったでしょう。国防軍倉庫の食料は、国防軍のメンバーだけのものであったからです。
(法務官の尋問)
Q:あなたは10年間も強制収容所に関係してきました。その経験からすると、戦時であったとしても、病気や衰弱したポーランド系ユダヤ人はドイツ帝国の政策によって死すべき運命であったと思いますか。
A:いいえ。
Q:病気や衰弱したポーランド系ユダヤ人は、ドイツ帝国にとってどのような利用価値があったのでしょうか。
A:わかりません。これらの人々が私の収容所に送り込まれた理由にはまったく関与していません。そこにいて受け入れたのです。政治的な敵であるかどうか、ユダヤ人であるかどうか、犯罪常習者であるかどうか、そのことは私にはまったく関係ありません。身体を受け入れた。それだけのことです。
Q:ベルゼンが病気のユダヤ人のための収容所となることを聞かされたとき、適切な措置をとらなければ、やってくる囚人は死んでしまうと思いましたか。
A:病気のユダヤ人だけの問題ではありませんでした。病気の囚人の問題でした。ローリングが1月に私の収容所を視察したとき、病気の囚人の収容所となるのでしたら、もっと多くの医師、医薬品、ベッド、毛布などが必要であると話しました。
Q:アウシュヴィッツでユダヤ人がガス処刑され、焼却されたとき、その人物の死についての記録文書が作成されましたか。
A:そうは思いません。アウシュヴィッツTの政治部がすべてを行なっていました。
Q:ベルゼンのポーランド系ユダヤ人の死亡記録は作成されたのですか。
A:はい、すべての公文書は破棄すべしという命令を実行する日までは。
Q:ベルゼンでは、誰かが死亡した場合、死因の調査はなされましたか。
A:私が調査したのではなく、医師が死因を調査して、それを検証しなくてはなりませんでした。
Q:仕事についていたとき、ドイツ帝国への貢献によって、報奨金を得たり、昇進したことがありますか。
A:戦前はSS中尉でしたが、1942年にSS大尉に昇進しました。二つの勲章をもらいました。1942年と1945年に、第一級と第二級の戦争功労十字章です。
<裁判官>:3月と4月に生じた緊急事態は別として、強制収容所での普通の配給制度はどのようなものでしたか。
A:正確な配給制度は知りませんが、普通の市民の3分の2ほどでした。
<裁判官>:収容所当局は、何かを要求する場合には、注文書を書いたのですか。
A:はい、ツェレの経済局あてです。そこから配給カードを手に入れました。
<裁判官>:収容所当局は、食料の供給契約に責任を負っていたのですか。
A:私たちが交渉しなくてはならなかった会社は、すでに、経済局を介して食料を提供していました。以前から収容所に供給していた会社もありました。
(弁護人ウィンウッド少佐による証人ロジナ・クラマー夫人への尋問)
A:私はヨーゼフ・クラマーの妻で、1937年10月16日に結婚しました。もちろん、夫は勤務中には収容所にいましたが、短い中断はありますが、いつも夫と一緒でした。勤務外の日曜日に、強制収容所の中に行きました。アウシュヴィッツにやってきたのは1944年で、夫の2週間後でした。夫が引き継ぐ前のビルケナウ所長は、ハルトイェンシュタインSS大尉でした。夫が引き継ぐ3日前に、私はハルトイェンシュタインに、夫がアウシュヴィッツに選ばれた理由を尋ねました。夫の階級と指揮系統の全体的変更のためであるとの答えでした。2年ごとに指揮官が交替するのがベルリンの政策であるというのです。ベーアとヘスがアウシュヴィッツTの所長でした。
Q:ヘスがアウシュヴィッツに送られた理由を知っていますか。
A:移送者の受け入れだと思います。ある晩、夫は、「生命が危機に瀕している人々に責任を持つ人物は、穏やかに眠れない」といっていました。私は12月30日にベルゼンに行きました。
Q:ベルゼン収容所に行ったことがありますか。
A:日曜日の午後です。織物を織っている場所に入りましたが、夫は、曲を演奏する美しいオーケストラのことをとても自慢していました。それを私に見せたがっていました。楽団はありましたが、楽器がなかったので、夫は、アウシュヴィッツからベルゼンに楽器を送るように要請しました。その結果、これらの少女たちは、何とか演奏できるようになったのです。
Q:あなたのご主人がベルゼンの食糧事情について、何か話したことがありますか。
A:夫が、食料の責任者であるフォグラーと話しているところに居合わせたことがあります。夫は、「囚人たちが手に入れている量は、生きていくには少なすぎ、死んでしまうには多すぎる」といっていたのを覚えています。
Q:彼は、病院、医薬品、膏薬について、何か話したことがありますか。
A:はい。ある晩、空襲警報が解除されると、夫は歩き回りながら、「3ヶ月も、トラックと鉄道を待っていたのに、ハノーバーで爆撃によってこなごなになってしまったという話だ。私には、包帯も膏薬もない」と言っていました。
Q:彼は、兵営の国防軍とは交流を持っていましたか。
A:いいえ、昼も夜も勤務中でしたから。夫のスタッフの中で私たち一家と交流していたのはフォグラーとホルシュトマン博士だけでした。家にきたことがあります。
Q:ベルゼンにいたとき、あなたの夫が囚人を虐待したということを耳にしたことがありますか。
A:いいえ。
Q:収容者への職務についてのご主人の意見を聞いたことがありますか。
A:はい、彼らの世話をするということです。これこそが、昼も夜もずっとしていたことでした。
(検事バックハウス大佐の反対尋問)
Q:ヘスがアウシュヴィッツに送られたのは、移送者の受け入れのためであったと証言しましたね。どのような移送者だったのですか。
A:ガス室送りとなる移送者であったと思います。
Q:この当時、ガス室のことを知っていたのですね。
A:アウシュヴィッツの誰もが知っていました。
Q:それでは、ご主人がアウシュヴィッツに派遣されたのはなぜですか。
A:夫の階級がSS大尉であったからにすぎません。夫は、収容所にガス室があるとは前もって知りませんでした。
Q:ご主人は、生命が危機に瀕している人々に責任を持つ人物は、穏やかに眠れないとあなたに言ったのですね。彼はそれが非常に悪いことであると知っていたのですね。
A:はい、当然です。
被告フリッツ・クラインの反証
(弁護人ウィンウッド少佐による被告フリッツ・クラインへの尋問)
A:私は、ルーマニアのクロンシュタット近くのゼイデンで1888年11月24日に生まれました。ドイツ系ルーマニア人です。ブダペストで医師の資格をとり、クロンシュタット近くの3箇所で診療しました。
Q:ルーマニア軍に勤務したことがありますか。
A:はい、3年間。しかし、1943年の夏、ドイツとルーマニア政府との協定で、ドイツ系少数民族に属するものは、ドイツ軍で勤務を継続することになりました。私はSSに加入しました。ドイツ国籍を持っていなければ、ドイツ国防軍には加入できなかったからです。
Q:1943年12月にはどこに行きましたか。
A:当時ヘスが所長であったアウシュヴィッツに行きました。ヴィルツ博士が収容所医師長で、仕事場を指示してくれました。最初の職務は、アウシュヴィッツの女性区画で、その後ジプシー収容所に移り、それから、ユダヤ人家族収容所に移り、最後はアウシュヴィッツTでした。
Q:選別の時には何が起こりましたか。
A:ヴィルツ博士は最初の移送者が到着したとき、それを二つのグループに分けるように命じました。労働適格者と労働不適格者です。後者には、老齢、衰弱、病気のために働くことができない囚人と、15歳以下の子供が入っていました。
Q:労働可能者として選別された人々はどうなりましたか。
A:医師は判定を下したにすぎません。その後に何が起こったかについては関係ありません。
Q:労働不適格者として選別された人々はどうなりましたか。
A:医師は選別を行なわなくてはなりませんでしたが、その後のことには影響力はありませんでした。私は耳にしたことがあるのですが、そして、知っているのですが、その一部はガス室と焼却棟に送られました。
Q:移送者が到着したとき以外の選別に参加したことがありますか。
A:病院での選別について多くの話を聞いてきましたが、病院で選別はまったくありませんでした。医師は、二、三週間以内に回復する患者、回復の見込みのない患者のリストを作成するように命じられていただけでした。疥癬が流行したことがあり、そのときには、選別を行なって、疥癬にかかっている患者を隔離しました。
Q:労働適格者と不適格者を分けることで、あなたの仕事は終わったのですね。
A:はい。
Q:ガス室に行ったことがありますか。
A:はい、稼動していないときに一度だけ。そこでの仕事には関係ありませんでした。
Q:医学実験がアウシュヴィッツで行なわれたことを知っていますか。
A:はい、しかし、私個人は関係ありません。ほかの医師たちが行なっていたのです。
Q:選別命令はどこから来たのですか。
A:知りません。電話で通告を受けて、赤十字の車で駅に向かったのです。
Q:ベルゼンに最初に行ったのはいつのことですか。
A:1945年1月末です。私が行ったときには、シュナーベル博士が医師でしたが、数日後に、ここを離れました。彼は、何もかもが順調であり、赤十字の職員は自分たちの仕事をよく知っているので、私の職務は軽いものにすぎないと話してくれました。毎日収容所に行き、特別な事態があれば、何らかの処置をしなくてはなりませんでしたが、そんなに多くのことを期待されていませんでした。
Q:収容所には病院があったのですか。
A:はい。しかし、原始的なものでした。
Q:囚人たちのあいだから選ばれた医師が、これらの病院の面倒を見ていました。最初の10日間は、医薬品が大量にあったわけではありませんが、とくに不足していたともいえないと思います。10日後、シュナーベル博士が戻ってきて、私はノイエンガムメに行き、3月中旬にベルゼンに戻ってきました。ホルシュトマン博士がシュナーベル博士と交替しており、彼は収容所を案内してくれて、すべてを見せてくれました。無駄な職務であるとの印象を得ました。報いのない仕事でした。ホルシュトマン博士は、私は二、三週間滞在するだけなので、SS部隊の面倒を見てくれといいました。彼は私をたびたび収容所に連れて行ってくれましたが、そのたびに、私は、「もっと注意したほうがよいでしょう。状況は日々悪化しているのですから、できるだけ多くの報告書を書いたほうがよいでしょう」といいました。また、もし私がこの収容所の責任者であれば、毎日ベルリンに報告して、あとで、当局に警告しなかったというような告発がなされないようにします、と話しました。
Q:3月に、ベルリンから誰かが視察にやってきましたか。
A:はい、ポールがヘスとローリング博士を連れてやってきました。自分の目でこの最悪の状況を見ることができると思いましたので、私がとくに多くの指摘をする必要はありませんでした。
Q:この当時の医薬品の状況はどうでしたか。
A:当時、私はこの職務についてはいませんでしたが、イギリス軍が収容所に入る3日ほど前、職務を引き継いだとき、比較的多くの医薬品があることを知って驚きました。ホルシュトマン博士が多くの人々とともに収容所を離れたときに、引き継いだのです。私はクラマーに、恐るべき印象を伝え、まず、散らばっている死体を片付けるべきである、次に、囚人たちは飢えよりも渇きで苦しんでいると思われるので、水の問題を解決すべきであると話しました。
Q:医師長としてまた唯一のSS医師として、最初にしたことは何でしたか。
A:囚人医師たちの会議を招集しました。80−100名の大勢でした。私は、できることは何でも試みるべきであると話しましたが、実際にはさしたることはできませんでした。また、イギリス軍がまもなくやってくるので、医薬品を長く確保しておく必要がないために、必要な資材のリストを作れば、提供されると伝えました。同日、大量のミルク缶、肉の缶詰、ケーキとビスケットを倉庫から引き継いだので、これらを必要とする子供たち、女性、病気の囚人に分け与えなさい、と医師たちに伝えました。また、医師と看護婦に、あなた方も栄養が必要なのだから、二人に一つの割合で、これらの缶一個をとりなさいと話しました。しかし、このような配給はさしたる効果をあげず、事態を改善できませんでした。収容所全体に対する、水、栄養、食料が問題だったのです。囚人たちは、どこで身を横たえるべきか、どのように身を横たえるべきかを知りませんでした。ベッドも、毛布も、手桶もなかったのです。
Q:ホルシュトマン博士が責任者であったとき、あなたはどれだけ収容所を訪れましたか。
A:5、6回です。それとは別に、自分自身の仕事で、2、3回訪れました。命令を受けたわけではなかったのですが、国籍混交のいわゆるベラドナ収容所を引き受けていたからです。
Q:ホルシュトマン博士が離任したとき、リストや報告書などを渡していきましたか。
A:まったく渡していきませんでした。収容所だけを渡していきました。どのような疫病にかかって、どのくらいの患者がいるのか、大雑把にしか知りませんでした。ホルシュトマン博士と私は、病人の数、その病名については囚人医師たちに頼らなくてはなりませんでした。
Q:イギリス軍がやってきてから、医師としての職務を果たしましたか。
A:最初の日には、見て回りましたが、それは医師としての職務と呼べるものではありませんでした。
(検事バックハウス大佐の反対尋問)
Q:クライン博士、あなたは教育ある人物ですが、ドイツではない大学で教育を受けましたね。アウシュヴィッツに行って、移送者がガス室に連れて行かれ、殺されているのを知ったとき、これは殺人であるとは思わなかったのですか。
A:いいえ。
Q:労働不適格者がそのまま殺されたのは本当ですか。
A:いいえ。
Q:労働適格者が殴られながら、仕事を強制され、ガス室送りへの自分の順番がやってくるまで、飢え、過密状態に置かれたのは、本当ですか。
A:そのようになったことを目撃したことはありませんが、そうだったとしても、よいことではありません。
Q:収容所にいたとき、SS隊員が多くの囚人を殴ったのを目撃したことがありますか。
A:いいえ、目撃したことはありません。SS隊員が殴ったという囚人を病院に受け入れてきましたが、多くは、カポーやその他の囚人に殴られたのです。殴った人物の名前をラーゲル・フューラーに報告しました。毎回報告したわけではありません。
Q:駅に移送者を出迎えに行ったとき、囚人の責任者は誰でしたか。
A:SSの看守です。
Q:アウシュヴィッツから囚人を引き連れてきた責任者は誰ですか。
A:正確には知りませんが、SSのフューラーだと思います。
Q:SS女性隊員はこれらの整列にいましたか。
A:はい。
Q:あなたは医師として、死に行くものと健康なものを分けて、SS隊員が彼らを追い立てていったのですね。
A:はい。
Q:逃げようとした囚人はいなかったのですか。
A:ときには。
Q:ガス室を見に行ったが、勤務中ではなかったと証言しましたね。殺人の最初の段階に関与したのち、殺人がどのように実行されるのかを見たかったのではありませんか。
A:そのような理由で、ガス室を見たわけではありません。
Q:アウシュヴィッツでは医学実験が行なわれていたと証言しましたね。ウェーバー博士、シューマン博士、グラウバー博士、ガーベル博士を覚えていますか。
A:最後の三人を覚えています。ガーベル、グラウバーはいつも一緒にいました。
Q:彼らは女性の電気的不妊化実験を行なっていましたか。
A:彼らが医学実験を行なっていたことだけを知っています。どのような実験かは知りません。ヴィルツ博士が実験を行なっていたかどうかも知りません。
Q:医師たちが全員一緒に暮らしていたのですか。
A:グラウバー、ヴィルツ、フィッシャー、ガーベルを除けば、そうです。
Q:回復した患者とそうでない患者のリストを作成したと証言しましたね。回復の見込みのない患者はどうなったのですか。
A:何回もリストの作成を要請されました。何も起こらなかったこともありました。たとえば、結核患者のケースでは、彼らは突然連れ去られていきました。どこへ送られたのかは知りません。
Q:ハンガリー人移送者がやってきたとき、ガス室は昼も夜も稼動していたのですか。
A:そうだろうと思います。
Q:彼らはガス室には送られなかったのですか。
A:正確にはわかりませんが、そう思います。
Q:水が必要であることと死体の除去が必要であることをクラマーに伝えたとき、彼は何と言いましたか。
A:「私に命令するな」といいました。死体は収容所全体に放置されていました。
Q:囚人医師の会議を招集するまで、そのような組織はなかったのですか。
A:はい。各ブロックに医師がいて、輪番制でした。
Q:大量の医薬品をどこで発見したのですか。
A:収容所の化学物品倉庫です。私が医薬品を配給するまで、病院では医薬品が不足していました。
Q:ベルゼンとアウシュヴィッツでは、囚人の状態は同じでしたか。
A:アウシュヴィッツでのほうが、肉体的状況はましでした。囚人の内訳は同じでした。政治囚、犯罪常習者、ユダヤ人、アーリア人です。他の収容所と同じだったと思います。
Q:アウシュヴィッツでは、労働不適格者であれば、ガス室に送られたのですか、そうではなかったのですか。
A:はい、おそらく。
Q:SSはベルゼンを病人収容所として使おうとしていたのでしょうか。
A:当初、ある種の交換囚人収容所となるという話でしたが、その後は、そのような印象を抱くことはありませんでした。病人収容所ではなく、死の収容所、拷問収容所でした。
<法務官>:イギリス軍の到着直前に存在した医薬品の量を教えていただけませんか。
Q:一番少なかったのは膏薬です。その他の医薬品は、もし注意深く配分すれば、5日から1週間もったことでしょう。
<法務官>:収容所では、治療が必要な囚人はどれほどでしたか。
A:3000から4000です。治療が必要な者の数だけです。
<法務官>:ミルク、肉、ビスケットの量はどれくらいでしたか。
A:これらの缶は、長さ4メートル、幅5メートル、高さ約3メートルの部屋に一杯でした。
<法務官>:それらは赤十字の小包からのものであったかどうか、知っていますか。
A:自分で確認したことはありませんが、赤十字からのものであるという話でした。
被告ペテル・ヴァインガルトナーの反証
(弁護人ウィンウッド少佐による被告ペテル・ヴァインガルトナーへの尋問)
A:私はユーゴスラビア人で、1913年6月4日に、ユーゴスラビアのプティンチで生まれました。大工として3年間ほど働いたのちに、1935年に9ヶ月ユーゴスラビア軍に勤務し、その後、大工として働きました。ドイツがユーゴスラビアに侵攻したとき、1941年3月12日から4月末まで、対ドイツ戦に参加しました。ドイツ軍の捕虜となり、釈放されました。自宅に戻り、1942年10月19日まで自宅におりましたが、その日に、SSに加入するためにドイツに向かいました。自発的に行ったわけではありません。アウシュヴィッツに行って、3ヶ月軍事訓練を受け、その後、強制収容所の看守としての命令を受けました。1943年11月22日まで看守の勤務につき、いつも収容所地区内にいました。
Q:作業班と一緒に収容所の外にいったのですか。
A:はい、ときどき。
Q:ウェーバー労働作業班にかかわっていましたか。
A:はい、1944年12月初頭からクリスマスまでこの作業班と一緒でした。1000名の女性からなるこの作業班は、河川規制のために溝を掘っていました。私はこれらの女性の責任者で、憲兵隊の将校の下に30名ほどの看守がいました。女性を監督し、働かせるようにするのが仕事でした。現場では、女性を護衛しているのは私だけでした。
Q:彼女たちの仕事振りに満足していましたか。
A:はい。
Q:女性を殴ったことがありますか。
A:いいえ。
Q:あなたの指揮下に犬がいましたか。
A:はい、ヴォルフハウンド犬です。
Q:これらの女性たちは、余分の配給を受ける資格を持っていましたか。
A:はい。ある種の仕事を終えることができなかった者を除いて、余分な配給を受けとるかどうか、何を受け取るかどうかを監視することに責任を負っていました。彼女たちのために、余分な配給を確保しておく権限を与えられていました。
Q:アウシュヴィッツではそのほかの職務を持っていましたか。
A:女性区画のブロック長でしたが、電話の業務にもついていました。これが、ウェーバー作業班にかかわる前の1年間に、私がしていたことのすべてです。
Q:アウシュヴィッツにはどのくらいいましたか。
A:1945年1月19日頃までです。その後、2月初頭に、ベルゲン・ベルゼンに着きました。
Q:ベルゼンではどのような職務に着きましたか。
A:イギリス軍がやってくる直前まで、女性区画のブロック長でした。全収容所の人員に責任を負っており、全員がいるのかどうか、誰かが姿を消しているのではないかどうかを知っておかなくてはなりませんでした。ベルゼンでは、個人的には、労働作業班とかかわりませんでしたが、ゲートのところに立って、出て行く囚人、入ってくる囚人を数え、数があっているか確かめなくてはなりませんでした。また、ゲートの近くで電話業務を行なわなくてはなりませんでした。
Q:厨房のメンバーが代わったときのことを覚えていますか。
A:はい。多くの囚人が厨房の作業班に所属したがっていました。厨房ではもっと食べることができ、仕事のあとで、何かしらの食べ物を手に入れることができたからです。真夜中でした。100名か150名の需要に対して、600名か700名が集まっていました。整然と並んではおらず、たがいに押し合っていました。最初は、言葉で鎮めようとしましたが、効果がなかったので、ゴムホースで、作業班の整然とした行動に責任を負っていたカポーを5、6回殴りました。
Q:厨房のまわりに集まっていた囚人をコントロールするのは困難でしたか。
A:厨房のまわりではなく、ゲートの近くでした。
Q:ライフル銃や拳銃をつかって、囚人をコントロールしなくてはなりませんでしたか。
A:ライフル銃ではなく拳銃でした。自分を守るために、空にむけて発砲しました。それは、3月末のことで、すでに申し上げた事件とはまったく別の事件です。
Q:カポーを殴ったこの事件とは別に、囚人を何かで殴ったことがありますか。
A:手で口をたたいた1、2回は別として、ありません。それは、怪我をさせるようなものではありませんでした。
(検事バックハウス大佐の反対尋問)
Q:アウシュヴィッツでこの作業班の責任者であったとき、作業現場は収容所からどのくらい離れていましたか。
A:4キロか5キロです。
Q:どのような道路でしたか。
A:悪路で、野原を横切っていました。
Q:急な丘を登らなくてはならなかったのですね。
A:はい。
Q:12月のことでしたね。女性たちは朝何時にそこにいかなくてはならなかったのですか。
A:収容所からは、9時半です。
Q:出発の前に、何かを食べましたか。
A:はい、パンとコーヒーです。それとは別に、1週間に2キロの食べ物が付け加えられました。
Q:仕事場には何時間いたのですか。
A:午後3時までです。片づけをして、帰りました。
Q:女性たちは、朝7時30分から夕方収容所に戻ってくるまで、何かを食べましたか。
A:囚人たちは、背嚢にいれた夕方の配給食糧を持っていました。昼食のときにそれを食べ、戻ってきてから、暖かい夕食をとりました。1週間に一度、4ローフ以上のパンを受け取りました。それをためておいて、利用できたのです。囚人が働いていた会社は、お茶も供しました。
Q:証人スンシャインはこの班のリーダーでしたね。彼女をこのポストから離しましたか。
A:覚えていません。
Q:それは、彼女が囚人を殴るのを拒んだからではありませんか。
A:収容所長から、だれも殴ってはならないという厳命を受けていました。
Q:もしあなたが誰かを殴ったとすれば、それは、上司の命令に服従しなかったこと、そのような類の行為となるのですね。
A:誰かを殴ったことなどありませんが、もし殴ったとすれば、上司の命令に服従しなかったことになります。
Q:この仕事に出かけていくとき、何名かが遅れてしまいましたか。
A:いいえ、ゆっくりと進んでいましたから。
Q:丘を登るのが難しかった囚人がいませんでしたか。
A:何名かの囚人にとっては難しかったかもしれませんが、全員が到着するまで待ちました。
Q:あなたの指揮下に何匹の犬がいましたか。
A:犬とその世話係は私にはまったく関係ありませんが、3匹か4匹の犬がいました。
Q:丘を登っているとき、女性たちに犬をけしかけたのではありませんか。
A:犬は私にはまったく関係ありません。私の指揮下にあったのではなく、犬とその世話係も私にはまったく関係ありません。私が責任を負っていたのは女囚たちだけです。
Q:犬を使った目的は何でしたか。
A:保安のためです。200メートルの間隔で、作業現場の周囲に配置されていました。囚人が夜戻るときまで、そこに座っていました。
Q:膝のところまで水に浸しながら、仕事をしていた女囚がいませんでしたか。
A:いいえ。
Q:彼女たちは何をしていたのですか。
A:灌漑のために壕を掘っていました。
Q:壕には水が入ってきませんでしたか。
A:彼女たちは水のある場所を避けて、乾燥した土の上に立っていることができました。
Q:ロシアの金貨をもって、指輪を身につけている男、グリノヴィエスキを発見して、彼を殴り、翌日には、彼は死んだのではありませんか。
A:その件については何も知りません。
Q:女性ラーゲルのいたとき、ガス室送りの選別を何回目撃しましたか。
A:一度も目撃していません。
Q:この年、終日どこで過ごしていたのですか。
A:バラックの電話のところで。部屋に入って寝ていたこともあります。
Q:ガス室送りに選別された人々は、あなたが働いている女性収容所の脇にある道を通って、焼却棟にいったのではありませんか。
A:そうです。そのような人々を目撃しましたが、浴室に行ったのか焼却棟に行ったのかは知りません。
Q:ベルゼンでの職務の一つは、ゲートのところに立って、作業班の入出をチェックすることでしたね。証人ヘレン・クラインは、あなたがそこに立っていて、出入りする人々を殴っていたと証言していますが。
A:真実ではありません。
Q:あなたがベルゼンでゴムホースを使って殴ったカポーは、スンシャインと呼ばれていましたか。
A:はい。
Q:ゴムホースの切れ端をどこで見つけたのですか。
A:ゲートの近くにありました。50センチよりも少々長いものでした。
Q:あなたは1回だけ誰かを殴ったことがあると証言しましたが、その日に、まさにほしがっている場所で手ごろな長さのゴムホースを発見したのは、まさに、幸運でしたね。
A:はい。
Q:被告ヒルデ・ローバウアーは、自分の目で殴打と虐待をしているところを目撃したのは、SS隊員のうちで、あなただけであり、処罰されるべきであると供述書で述べていますが。
A:スンシャインを殴ったことは認めます。囚人が私のまわりに集まってきて、どうすることもできなくなったときに、殴ったこともあります。1000名の女囚に対して、私だけではどうすることもできなかったのです。
被告ゲオルグ・クラフトの反証
(弁護人ウィンウッド少佐による被告ゲオルグ・クラフトへの尋問)
A:私はルーマニア人で、1918年12月16日にロードで生まれ、1939年11月15日に徴兵されるまで、粉引き職人でした。1943年4月30日までルーマニア軍に勤務していましたが、除隊して、故郷に3ヶ月滞在しました。その後、ルーマニアのドイツ人すべてがSSに加入しなくてはならなくなり、そうしたくはなかったのですが、私も加入しました。最初に、ウィーンに行き、8日後に、ブッヘンヴァルトに行きました。8月5日から8日の間です。そこで3週間の訓練を受けて、ドラに向かい、1945年1月5日までそこにいました。ドラから、クライン・ボドゥンゲンの辺境作業班に配置されました。のちに、そこも疎開しました。4月11日に、ベルゲン・ベルゼンの軍事教練場に着きました。
Q:ベルゲン・ベルゼンに着いたとき、どのような職務に配置されましたか。
A:最初の数日間には、まったく職務はありませんでした。たんに報告をしていただけでした。翌日、職務を告げられました。4月12日と13日、守備隊がベルゼンから退去し、私も同行したかったのですが、へスラーが、残るように命じました。管理スタッフがいないとの理由でした。
Q:ベルゼンの主要収容所にはじめて入ったのはいつでしたか。
A:イギリスの看守のもとで、4月22日でした。
Q:アウシュヴィッツにいたことがありますか。
A:見たこともありません。
Q:囚人を虐待したり、射殺したことがありますか。
A:いいえ。
(弁護人フィールデン大尉の反対尋問)
Q:被告22号(アンスガル・ピッヘン)はドラの浴室にいましたか。
A:ドラには13ヶ月いましたが、彼のことを見たことがありません。
Q:クライン・ボドゥンゲンを離れるとき、4月5日の特別な移送集団にいたのですか。
A:いいえ。食料その他を輸送するトラック隊に同行していました。ヘルツベルクに向かい、そこで列車に乗れとの命令を受けていましたが、空襲のために、駅には何もなく、鉄道に沿って進むことになりました。610名の囚人がいました。
Q:ベルゲン・ベルゼンに到着する前に、移送集団が夜滞在した町や村の名前をあげることができますか。
A:はい、オステローデ、ツェエセン、ザルツギッター、ルディンゲン、ホフ、グロース・ヘーレンです。
Q:今名前をあげた場所で、異常な事件が起こりましたか。
A:グロース・ヘーレンで、SSの前線部隊がやってきて、私たちを追い払いました。前線に近すぎたのです。彼らは一人の将校に指揮されており、空に向かって発砲し、囚人たちが食料を手に入れている場所から彼らを追い出して、整列させ、行進させました。彼らが囚人を護衛していました。
Q:このSS部隊がやってきたことで、囚人が殺されましたか。
A:食糧トラックの後ろにいたので、わかりません。移送集団の30分後にベルゼンに着き、彼らが、軍事教練場のブロックに入っていったことを知りました。誰が先導したのかは知りません。移送集団を護衛していたSSもブロックに入りましたが、囚人たちとは離れていました。
Q:被告25号(シュトフェル)が、ベルゼンへの行進の途中で、囚人に発砲したのを目撃しましたか。
A:発砲はまったくありませんでした。
(弁護人コルバリー大尉の反対尋問)
Q:足がなえて歩けない囚人をトラックに載せましたか。
A:やはり歩くことができないSS隊員と一緒に、一台のトラックに何名かの囚人が乗りました。
Q:グロース・ヘーレンでの事件とは別に、SSが囚人に発砲したことがありましたか。
A:この旅の間、移送集団と一緒にいたわけではありません。一緒にいたのは、夜、囚人が逗留していたときだけです。
Q:グロース・ヘーレンは別として、この旅の途中で、囚人が殺されたのを知っていますか。
A:いいえ。