20日―1945109日火曜日

 

(弁護人ウィンウッド少佐による被告クラマーへの尋問の続き)

 

Q4月の第1週以後に何が起こりましたか。

A:前線が迫ってきたらどうすべきなのか、収容所を撤収しなくてはならないのか、無線で本部に尋ねました。4回質問すると、グリュックスから、ヒムラーがさらに30000名の囚人をベルゼンに移送する命令を出しているので、私の質問は理解できないと伝えてきました。私は地区司令官ボイネブルク将軍と協議をすると、彼が、撤収計画はどのようなものであるかと尋ねてきたので、もっと囚人を受け入れるようにとの命令を受けているので、撤収はありえないと答えました。また、私の収容所はすでに過密となっているので、権限を持つ将軍として支援してくれないかと頼みました。彼は、私のいるところで、ハノーバーにある本部に電話をかけ、そこの将軍と話しましたが、その将軍もさらに30000名の囚人がやってくるといいました。追加の囚人についてのヒムラーの命令は知っており、もし私の収容所には彼らを収容する余地がないとすれば、ベルゼンの兵営に収容させるようにするべきであり、それでも不足するならば、20キロメートルほど離れたミュンスターの収容所を使うとよい、とハノーバーは彼に伝えました。ボイネブルク将軍は、兵営にはまだ兵士がおり、兵営を撤収せよとの命令を受けて、その準備を進めているとハノーバーに伝えました。ハノーバーとの話が終わると、ボイネブルク将軍は、移送者がいつ到着するのか知っているかと私に尋ねました。この話し合いは、42日か3日に行なわれ、最初の移送者が到着したのは4日でした。413日まで、昼も夜も移送者が到着しました。これらの30000名とは別に、各地からの作業班を受け入れなくてはならなかったので、総数は45000名ほどになるはずでした。413日までに、28000名が到着しました。最初の移送者が到着したとき、兵営地の兵営はまだ開け放たれていなかったので、司令官は、兵営を速やかに開け放つまで、最初の少数の移送者を引き受けてくれるように私に頼みました。私は、自分の収容所の囚人の数を減らすことができず、もっと多くの囚人を受け入れ、いっそう人口過密にせざるをえませんでした。これらの移送者はドラ強制収容所からやってきており、第二収容所の責任者となるはずのヘスラーも、最後の15000名とともにやってきました。

Q:第二収容所の人々に食料を配給するためにどのような措置をとりましたか。

A:私が持っていた予備物資は特定期間用の物資であり、私の収容所の囚人に必要であったので、何も提供できませんでした。前線が崩壊しており、そのうえ、輸送も困難であったので、食料を手に入れることは不可能でした。連合軍がやってくる前に、急降下爆撃機が私のトラックを粉々にしてしまいましたので、一台のトラックしか残っていませんでした。国防軍は、トラブルが生じるのを避けるために、兵営地区にあった補給物資をヘスラーに提供しようとしましたが、私の補給物資が到着したならば、それで弁済するという条件の下でした。

Q:ベルゼン所長として、第二収容所の責任も負っていたのですか。

A:はい。私の責任範囲ではなかったのですが、ほかに誰もいなかったので、私が引き受けました。ヘスラーには、15000名の囚人のほかには、管理スタッフも乗り物もありませんでした。

Q:ベルゼンに始めてやってきたとき、収容所の日常生活を変更しましたか。

A:最初にやったことは、小さな区画を解散して、大きな収容所を区分したものに編成したことです。そして、新しい厨房を計画しました。それは、3月に稼動し始めました。女性区画では、一つの建物全体をCRSに与えました。以前には、810メートルの長さの小さな建物を持っていただけだったからです。私は、女性区画でブロック長が職務を果たすのを禁止し、女性監視員が日常の仕事を遂行するようにしました。また、新しい下水設備を整備し始めました。ベルリンは1943年に計画を作成していたにもかかわらず、何もなされていなかったからです。

Q:ベルゼンに最初に行ったとき、点呼は行なわれていましたか。

A:朝の点呼を導入したのは私です。自分の収容所の人員に責任を負っていましたし、それ以外には人数を数えようがなかったためです。それとは別に、ベルゼンの囚人は作業班として仕事にあまり出かけませんでした。実際、囚人たちは収容所の維持のために、その中におり、そのために、朝の点呼だけが、日中の囚人の仕事でした。囚人たちは建物の中の悪い空気の中ですごしていたので、朝の点呼は健康によかったと思います。

Q:病人も点呼に出たのですか。

A:はい。そのような命令を出しました。囚人たちはひどく怠け者で、ちょっとの時間さえも、バラックから出たがらず、「私たちは病気です」と言っていたからです。病気と思うものは医師の検査を受け、医師がそれを認めたならば、点呼を免れるという命令を出しました。

Q:健康な囚人には何が起こりましたか。

A:労働適格者はすべて、作業班に入れました。3月末、オラニエンブルクから、2500名ほどの健康で強壮な囚人を提供するようにとの命令が来ましたが、そのような人数はいなかったので、命令を果たすことはできませんでした。この結果、ドラからの移送者が到着し始めたときには、男性区画には病人しかいませんでした。

Q:囚人の記録をつけていましたか。

A:ベルゼンにやってきたときには、記録はまったく保管されていませんでしたので、少なくとも、インデックスカードのようなものは保管しておくように命じました。インデックスカードの責任を負っていたのは、収容所の政治部でした。当時、イギリス国民が収容所にいたかどうかは知りません。

Q:ベルゼンで、囚人の処刑指令を受けたことがありますか。

A:はい、二人の人物の処刑命令を受け、名前が明らかにされました。私は、彼らがどのような人物であるかは知りませんでしたが、政治部とラーゲル・フューラーに、彼らが収容所にいるかどうか調査せよと命じました。ラーゲル・フューラーは、一人はチフスで病気であり、もう一人はすでに移送されたと報告してきました。翌朝、この病気の人物も死にました。これらの人物を処刑せよとの命令は出しませんでした。

Q:彼らはドイツ人の名前でしたか、それとも、イギリス人の名前でしたか。

A:ドイツ人の名前ではなく、外国人の名前でした。彼らがイギリス人であったかどうかはわかりません。

Q:収容所の記録はどうなったのですか。

A3月、すべての文書を破棄せよというヒムラーの命令が、無線でポールから伝えられましたので、収容所のすべての文書は焼却されました。

Q:一人のロシア人少女が収容所に連れ戻されたのを覚えていますか。

A:はい。この少女は作業班から逃亡しましたが、数時間後に、国防軍兵士に捕まり、収容所に連れ戻されました。彼女は最初、道に迷っていたと言っていましたが、そのあとでは、SS隊員に連れ去られたといい、さらには、戻ることを決心したといいました。彼女の話はすべて嘘でした。そのために、私は彼女の耳を殴り、収容所に連れ戻して、翌日には、収容所を離れない作業班に彼女を組み入れるようにと命じました。私がいるところでも、私の命令によっても、彼女には何も起こりませんでした。

Q:あなたが何人かのロシア人を足蹴にしたと証言した証人がいましたね。

A:その話は想像の産物です。

Q:ソムポリンスキは、あなたが彼に怪我をさせて、二人のハンガリー人を殺したと告発していますが。

A:それは虚偽です。彼がどうして怪我をしたのか知りません。強制収容所においても、軍隊生活でも、私は人を撃ったことはありません。

Q:ボイネブルク将軍から引き継いだハリス大佐は、連合軍へのベルゼン地区の引渡しに関して、どのような指示を出しましたか。

A:休戦条件とベルゼンの無血引渡しについて言われました。特定の地区では戦闘が起こらないようにして、兵営や強制収容所の管理はそのまま継続しなくてはならないというのです。誰が管理スタッフであるかわかるようにするために、スタッフはスタンプを押した腕章をつけなくてはなりませんでした。私が関心を持っていたのは、強制収容所の状況だけでした。ハリス大佐は、強制収容所の守備隊は413日の12時に退去しなくてはならないといいました。収容所に残ることを許されたのは、管理にあたるSS隊員だけでした。彼らは捕虜とはならず、イギリス軍の占領ののちには、前線を超えて帰国する自由を有するというのが休戦条件の一つでした。SSと国防軍は、前線を越えて戻るときには、武器と物資を持っていくことが許されていました。翌日、私は管理スタッフにこの条件を伝えて、誰も収容所を離れてはならないと命じました。413日の金曜日、国防軍が収容所を占領し、収容所の防衛と秩序の維持にあたりました。収容所に関していえば、私はハリス大佐の指揮下にありましたが、管理面では、私は自分のスタッフで運営していたので、彼の指揮下にはありませんでした。

Q:シングトン大尉が放送車でベルゼンにやってきたとき、彼に何を話したのですか。

A:この件についてのハリス大佐の留意点を伝えなくてはならないといいました。彼は、放送車を使って収容所の住民にメッセージを伝えなくてはならないといいましたので、私は、囚人たちは今は穏やかであるが、放送車に乗って収容所に入って、何かを伝えたとすれば、騒動が起こるかもしれないといいました。最初、彼は戻っていきましたが、すぐに戻ってきて、放送車でメッセージを伝えました。

Q:収容所では何が起こりましたか。

A:最初、囚人たちはすべてを破壊しました。残っていたベッドを壊し、放火し、略奪し始めました。いくつかの倉庫が略奪されました。戦車が食糧倉庫を警備しなくてはなりませんでした。翌日には、多くの部隊が火器を使わなくてはならず、翌朝には、何名かが殺されました。放送車が収容所を駆け巡った2時間後には、収容所は言語に絶する状態となりました。

Q:シングトン大尉が拡声器で何かを伝えたとき、収容所での今後のあなたの地位について何か話しましたか。

A:彼は、SSにはもはや権力がないこと、ナチス党は崩壊したことを伝えました。囚人たちは、イギリス軍が収容所を占領すること、SSはまったく決定権を持っていないことを理解するようになりました。

Q:イギリス軍がやってきたとき、あなたは武装SSに所属していましたか。

A:武装SSの一員として、私はドイツ国防軍の一員でもありました。

Q:帰国することやドイツの前線を通って戻ることを許されましたか。

A:いいえ、415日に逮捕されました。即座に、休戦条件違反であるとイギリス軍将校に伝えましたが、命令を受けているとの答えでした。

Q:逮捕されたとき、捕虜として扱われましたか。

A:そう思います。当初は通過収容所に送られましたが、その後、ベルギーの要塞に送られました。この収容所のベルギー人司令官に、いかなる種類の囚人であるのか尋ねましたが、答えようとはしませんでした。夜も昼も手錠をずっとされていましたが、それは、捕虜の待遇に違反していると思います。

Q:クライン博士は常設医師としてベルゼンにやってきたのですか。

A1月末に10日間やってきて、413日に収容所を引き継ぎました。クライン博士が引き継ぐ前の医師長はホルシュトマンSS大尉です。

Q:クライン博士がホルシュトマン博士のもとで働いていたとき、どのような仕事をしていたのですか。

A:彼をよく見かけたのは兵営地区でしたが、収容所にやってきたこともあります。自分の意志でやってきたのか、ホルシュトマン博士の命令でやってきたのかは知りません。国防軍の兵営には大きな病院があり、また別に、小さな病院があったと思います。

Q:それを囚人が利用できたのですか。

A:いいえ、前線からの負傷兵だけです。私の部下のSS隊員でさえも、病気になるとこの病院を離れ、私の収容所に戻らなくてはなりませんでした。

Q:赤十字の小包がベルゼンに到着したとき、どうなりましたか。

A:小包が到着すると、交換ユダヤ人のラーゲル・フューラーがやってきて、受け取りのサインをしなくてはなりませんでした。ですから、彼はいくつの小包が届いたのかを正確に知っていました。小包のあて先が一人の人物であれば、この人物だけで受け取りました。ユダヤ人ラーゲル・フューラーが私のいるところで小包を受け取りましたが、収容所の中でどのように分配されたのかは知りません。私は、これは彼らの仕事だと伝えていました。医薬品の入った小包が囚人あてに届くと、医師長、この当時はシュナーベル博士にそれを渡し、彼に適切に配分させました。

Q:アウシュヴィッツにいたとき、被告4号(ゲオルゲ・クラフト)もいましたか。

A:この人物は知りません。

 

(弁護人ムンノ少佐の反対尋問)

 

Q:ガス室送りの選別に立ち会うのはヘスラーの職務でしたか。

A:はい。さまざまな将校がいましたが、自分の番であれば、彼は立ち会わなくてはなりませんでした。彼の命令を見たことがありませんが、ヘスかベーアから出されていたはずです。

Q:囚人たちがビルケナウからほかの収容所に移されたことがありますか。

A:はい、作業班のためにです。

Q:アウシュヴィッツで処刑があったとすると、誰が命令を出したのですか。

A:ヘスかベーアです。

Q:ベルゼンの第二収容所については、あなたは完全にヘスラーに委ねていたのですね。

A:はい。

Q:ベルゼンの女性監視員たちは事態をまったく改善できなかったのでしょうか。

A:はい、利用できるものは何もありませんでしたので、彼女たちは収容所を改善することはまったくできませんでした。

QSS隊員や女性隊員が自分の意志で収容所を去ることはできましたか。

A:いいえ。

 

(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)

 

Q:アウシュヴィッツには、クラマーという名のもう1人のSS大尉がいましたか。彼が守備隊の責任者であったことはありますか。

A:はい、私がビルケナウに到着したとき。

Q:グレーゼはSS隊員ではないというのは本当ですか。

A:はい。彼女は女性監視員として雇われていたのです。

Q:グレーゼをアウシュヴィッツからベルゼンに送るように要請しましたか。

A:いいえ。しかし、彼女が移送者と一緒にやってくると、私のもとに残すようにオラニエンブルクに要請しました。

Q:警察犬は訓練した人物の命令だけに従うのですね。

A:はい。

Q:グレーゼはアウシュヴィッツやベルゼンで犬を持っていましたか。

A:勤務中でも勤務外でも、彼女が犬を連れていたのを見たことはありません。

Q:彼女の指揮官として、女性監視員としてのグレーゼの仕事ぶりを話してください。

A:所長としては、彼女の良いことだけしかいえません。職務に非常に誠実に取り組んでおり、職務を良好に遂行しました。

Q:彼女が拳銃で囚人を射殺したとか、虐待したというような告発がなされていますが、どうお考えですか。

A:虚偽です。

Q:女性監視員がアウシュヴィッツで鞭を作ったときのことを覚えていますか。材料は何でしたか。

A:セロファン紙かセルロースのようなものです。私は鞭の携帯を禁止しました。

Q:アウシュヴィッツで政治部が体罰を行なうとすれば、あなたに知らせなくても、実行できたのですか、それとも、あなたの許可が必要でしたか。

A:私に知らせなくても可能でした。政治部はアウシュヴィッツTにあり、私の許可を必要としていませんでしたから。

 

(弁護人ロバーツ大尉の反対尋問)

 

Q:ベルゼンの調理員は武器を携帯していたのですか。

A:仕事に行く途中や収容所から戻ってくるときに、武器を携帯していたのを見たことがありますが、厨房で携帯していたかどうかは知りません。

Q:イギリス軍の到着直前、秩序を維持するために、厨房の周囲に武装した看守を配置することは必要だと思いましたか。

A:はい。そのうえ、私は女性区画の前の部分を、病人が集中している部分から隔てました。厨房があったのがそこだったからです。

Q:被告17号(ラディスラフ・グラ)がベルゼンにやってきたのを覚えていますか。

A:はい。彼は、他の囚人とともに囚人としてやってきましたが、到着するとすぐに逮捕されました。5日間だけは別として、ベルゼンではずっと逮捕状態でした。

 

(弁護人フィールデン大尉の反対尋問)

 

QSS隊員が孤絶していた女性区画に入ることは禁止されていたのですか。

A:はい。ですから、別々に看守を配置したのです。

 

(弁護人コルバリー大尉の反対尋問)

 

Q:被告26号(ハインリヒ・シュライラー)はベルゼンのスタッフでしたか。

A:いいえ。

 

(弁護人イェジェヨヴィチ中尉の反対尋問)

 

Q:アウシュヴィッツに秘密組織が存在した場合、誰がそれを扱ったのですか。

A:政治部です。

Q:ブロック長やラーゲル長が政治部に協力して、捜査に関与しましたか。

A:何かを目撃したならば、報告書を出すだけでした。

 

(検事バックハウス大佐の反対尋問)

 

Q:神を信じていますか。

A:はい。

Q:証人席に入ったときに行なった宣誓を覚えていますね。宣誓ののちに嘘をつくのは意図的な偽証であることを知っていますね。

A:はい。

Q:最初の供述では、供述書に署名する前に同じ宣誓をしたのですか。

A:署名の前であったかあとであったか自信がありません。

Q:供述をする前に、当法廷で行なったのと同じ宣誓をしたのではありませんか。そして、嘘をつき、アウシュヴィッツにはガス室はなかったと述べた供述をしたときにも嘘をついていることを知っていましたね。

A:すでに申し上げましたように、そのときには、この話題での誓約義務に拘束されていると考えていたのです。

Q:ナチヴァイラーで撮影された写真を見せられるまでは、ガス室については嘘をつき続けており、写真を見せられたとき、はじめて、ガス室の存在を認めたというのですね。

A:そうではありません。第一の供述書と第二の供述書のあいだの期間には、まったく質問されなかったからです。

Q:ナチス党に加入したとき、強制収容所の看守ではなかったのですね。強制収容所での汚れ仕事のために、一貫して選ばれ、使われたのではなかったのですね。

A:はい、速記者として働いていました。

Q:ナチヴァイラー収容所の目的は何でしたか。

A:囚人を近くの石切鉱山で働かせることでした。

Q:囚人を事件のためにストラスブルクに規則的に提供しませんでしたか。

A:いいえ。

Q:あなたの赴任以前にはガス室はなかったのですね。

A:はい。

Q:それはあなたの指示のもとで作られたのですか。意図的に80名の囚人をガス室でガス処刑したのですか。

A:はい、SS全国指導者ヒムラーの命令にもとづいて。

Q:死体をヘス博士に提供する目的は、彼の実験のためでしたか。

A:彼は死体に何をしたのか知りません。命令は、ストラスブルク大学のヘス博士に死体を提供することでした。最上級の軍本部からの命令でした。戦時中にこの命令に従わなければ、私がどのように処分されたのか十分に想像できます。

Q:医師の人体実験のために囚人を殺すことを認める法律がドイツには存在したというのですか。

A:そのような法律については知りません。

Q:自分のしていることが犯罪であると熟知していたのですね。

A:いいえ。

Q:あなたは実際に自分自身でこれらの人々をガス室に押し込んだのですね。

A:はい。

Q:自分自身でガスを投入して、あなたが作ったのぞき穴から犠牲者が死んでいくのを見守っていたのですね。

A:いいえ。

Q:ジェンナー司令官に対しては、見守っていたという供述をしましたね。

A:いいえ。

Q:女性は30分ほど息をし続けていたと供述しませんでしたか。

A:聞くことができます。見ている必要はありませんでした。

Q:この種のことを進んでできることを証明したので、ビルケナウの所長に選ばれたのではありませんか。

A:いいえ、そうは思いません。私には焼却棟にも移送にも関係がないという特別命令を受けていたからです。

Q:ポール司令官がガス室のことは話してはならないという誓約を要求したとき、話すことが法的に適切であり、公平であれば、なぜ、話すことができなかったのですか。

A:わかりません。外の世界では、強制収容所について、何も話すことができませんでした。

Q:あなたがたすべてが、強制収容所が非道であると知っていたためではないのですか。

A:いいえ。私たちは、外の世界の人と強制収容所の話はしませんでしたし、大尉である私には、この件について将軍に質問する権利はありませんでした。

Q:ガス室の目的は、ユダヤ人種とポーランドの知識人を絶滅しようというナチス党の決定ではなかったのですか。

A:わかりません。

Q:ビルケナウの所長であったとき、何名がガス室で殺されたと思いますか。

A:移送者の数を知りませんでしたので、わかりません。

Q1944年夏、移送者が昼も夜も到着して、焼却棟は死体の焼却をすることができずに、壕が掘られたという話です。このようなことは、あなたが所長である収容所で起こったのではないですか。

A:そうですが、私の管轄下にはない部分、アウシュヴィッツTの所長の管轄下にあった部分は除きます。

Q:ご自分の収容所がそのような目的に使われるのに抗議したことがありますか。

A:抗議したとすれば、逮捕されて、鉄条網の向こう側にいることになったでしょう。

Q:逮捕されることよりも、大量殺戮に関与することを選んだのですね。

A:この大量殺戮には関与しませんでした。

Q:無実の人々を大量殺戮する命令を出し、実行できたのは誰ですか。

A:この命令を出した人物でしょう。私自身はこの命令を見たこともありませんし、関係もありません。

Q:選別に立ち会っただけではなく、きわめて積極的に関与したのではありませんか。

A:本当のことではありません。虚偽です。

Q:収容所Cが清算されるとき、囚人を乗り込ませて、ガス室に送り込むのを助けたのではありませんか。

A:いいえ。

Q:証人たちが、あなたが選別に立ち会って、積極的に参加していたと次々に証言したのを覚えていますか。

A:はい。

Q:証人たちが、アウシュヴィッツでの殴打事件について次々と証言し、また、数十の供述書も同じことを述べています。そのようなことは起こらなかったとおっしゃるのですか。

A:はい。

Q:あなたの収容所には、一日何時間いたのですか。

A:朝7時から夜7時までです。

Q:とすると、殴打事件が起こったとすれば、目撃したはずですね。

A:所長を務めていた収容所でなら、そのとおりです。

Q:グレーゼは、鞭を持っていて、いつも使っていたと供述していますが。

A:誇張です。そんなふうではありませんでした。

Q:囚人たちは、あなたの収容所で、くる日もくる日も、朝から夜まで殴られていたのではないですか。

A:そんなことはありません。

Q:あまりにも多くの囚人を殴ったので、特定の人物を思い出せないのではないですか。

A:囚人を殴ったことはないとだけ言うことができます。

Q:アウシュヴィッツでの被告ヴァインガルトナーの地位はなんでしたか。

A:ゲート近くの女性区画のブロック・フューラーでした。

Q:彼は、川の近くで働いていた女性作業班の責任者でしたか。

A:私がビルケナウにいた6ヶ月間、彼はずっとブロック・フューラーでした。

Q:フォルケンラートには妹がいましたか。

A:はい、ヴァインニガーという名でした。

Q:被告席にいるのはフォルケンラートですか。

A:はい。

Q:ビルケナウでは、労働不能の囚人はガス室に向かったと証言しましたね。ベルゼンに赴任したとき、まったく同じように、労働不能の囚人を絶滅するというようには考えなかったのですか。

A:考えませんでした。

Q:どうして心変わりしたのですか。

A:わかりません。ベルゼンは病気の囚人のための収容所となるという命令を受けていました。

Q:ベルゼンで労働不能の病気の囚人はアウシュヴィッツと同じように死ぬべきであると考えられており、あなたは、ビルケナウで成功したので、ベルゼンの所長に選ばれたのではないでしょうか。

A:ベルゼン行きの命令が私に出された理由はわかりません。

Q:ベルゼンを病人の収容所とする病院施設は提供されましたか。40000名に二人の医師とは別に、医師が派遣されましたか。

A:いいえ。ローリングがやってきたとき、私は、もし収容所が病人の収容所となるのならば、医師と医薬品が必要であると強調しました。衣料品は3月に、一部のベッドが月末に到着しました。

Q:オラニエンブルクへのあなたの書簡は発送されなかったのではないですか。

A:伝令を介して送りました。

Q:なぜその写しは、その他の文書資料とともに破棄されなかったのですか。

A:この書簡はグリュックスへの私的な書簡・報告書であって、報告書の写しは自宅の私文書の中にあり、他の公式文書のある事務所にはなかったからです。

Q31日には、収容所には26723名しかいなかったのに、この書簡では42000名と記しています。この書簡は、かなりあとで作られた偽造文書なのではないですか。

A:冒頭に記されているのと同じ日付に書かれたものです。

Q:(証人に証拠を手渡しながら)、あなたが署名している展示証拠122は、26723名という31日の数字を記していないではないですか。

A31日の数字は、女性区画だけの数字です。男性区画の数字が入っていません。

Q:収容所の男性囚人の最大数はどのくらいでしたか。

A:そのときには、1400015000名でした。

Q:証人が次々と証人席にたって、ベルゼンでの殴打事件について証言していますが、すべて虚偽だというのですか。

A:私がいたときには、殴打事件はありませんでした。私が収容所を去ってから何が起こったのかは知りません。

Q:シングトン大尉は、放送車に乗ってやってきたとき、カポーが誰かを殴っていたと証言しましたね。

A:はい、イギリス軍が収容所に入ってからのことです。

Q:エーレルトは、ベルゼンで囚人が殴られるのをたびたび目撃した、状況は恥ずべきもの不名誉なものであったと供述しています。

A:そうですが、なぜこの件を私に報告しなかったのか驚いています。

Q:彼女は、あなたがこの状況の責任におっており、あなたに死亡率の増加について不平を述べると、「死なせて置け、なぜそんなことを心配するのだ」とあなたが言ったと供述していますが。

A:第一に、収容所の状況について部下に説明しなくてはならない理由がありませんし、第二に、彼女の言う私の答えは虚偽です。女性監視員として、私に報告するのは彼女の義務でした。

Q:女性にスポーツさせる習慣を覚えていますか。それはあなたの命令ですか。

A:規律を維持するためのこのような措置は私の発案ではありません。強制収容所と女性区画の状況に応じていました。ベルゼンでそのようなことをせよという命令を女性監視員に出したことはありません。

Q:食料についていえば、ベルゼンでは囚人は自分の権利を持っていたのですか、それともいなかったのですか。

A:持っていました、パンを除いて。

Q:生きていくうえで十分であると本当におっしゃっているのですか。

A:健康な人々にとっては、数週間ほどは十分でした。しかし、病人には、不十分でした。

Q:病人はどんな特別割り当てがあったのですか。

A:食事療法以外には、まったくありませんでした。医師の管轄であったので、何名が特別な食事療法食を受け取っていたのか知りません。SS隊員であった場合には、私の管轄ですが、それ以外の場合には、医師に命令を出すことはできませんでした。

Q:食料を配給したのは、あなたですか、医師ですか。

A:私の管理スタッフです。

Q:特別な食事療法食を受けた人々の数は、本当はゼロであったのではないですか。

A:病院には、一定量の特別食事療法食がありましたが、どれだけであったのかはわかりません。

Q:病院に出かけて、そこの状況を見ましたか。建物の中の状況を見ましたか。

A:はい。

Q:人々が次第に飢えて、死んでいくのを見ましたか。

A:はい。直接には見なかったのですが、毎日の報告から、毎日どのくらいの人々が死んでいったのかを知りました。

Q:囚人たちが飢えと渇きで次第に死んでいったのを知っていましたね。

A:はい、この事実をグリュックスあての書簡で指摘しています。

Q:囚人たちが飢えて死んでいくという事実にもかかわらず、点呼に出ることを命じたのですね。

A:病人は違います。

Q:二人の医師だけで収容所の病人を診察できると本当に考えていたのですか。

A:二人に医師以外に、囚人出身の医師がかなりいました。それ以上のSSの医師を派遣してもらえなかったのは、私の責任ではありません。

Q:囚人たちが点呼のあいだ何時間も立ったままであり、気を失って倒れても、雪の中に放置されたというのは本当ですか。

A:本当ではありません。多くの移送者がやってきたので、点呼の実施は不可能でした。せいぜい1週間に2回でした。

Q:収容所から川までの距離はどのくらいでしたか。

A400500メートルです。

Q:なぜ川から水をくみ上げなかったのですか。

A:機材がありませんでした。

Q:イギリス軍が収容所にあった機材を使ってくみ上げたのを知っていますか。

A:おそらく、ドイツ国防軍の兵営にあったのでしょう。私の収容所ではありません。

Q:囚人たちを川に行かせて、水を飲ませようとはしなかったのですか。

A:はい、そこの水は飲料には適していないという話でした。

Q:そこの水は収容所で使われたことがあるのを知っていますか。

A:いいえ。

Q:収容所のコンクリートの貯水槽からの水を使っていたのですね。この貯水槽には汚物があったことを知っていましたか。

A:いいえ、貯水槽がはじめてくみ上げられたとき、汚物があるのを知りました。

Q:将軍のもとに行って、何が起こっているのか正確に伝えようとしなかったのは、自分の収容所で何が起こっているのかをまっとうな人物に伝えることを恐れたためではありませんか。

A:いいえ。

Q:国防軍の兵営には、160000ローフのパンを製造できるパン工場がありました。将軍やまっとうな人物に、囚人たちがどのように死んでいっているのかを話し、収容所の生きている骸骨を見せれば、食料面で助けてくれると考えなかったのですか。

A:将軍は私に食料を提供することはできなかったでしょう。その食料は倉庫の中にあり、特別な許可がなければ、手に入れることはできなかったからです。民間業者からしか手に入れることはできません。私に何かを提供することは認められていませんでした。

Q:将軍に要請したことがありますか。

A:ありません。倉庫の食料は国防軍専用で、私がそこから手に入れた食料は、毎週10000ローフのパンだけです。

Q:国防軍の倉庫から野菜を手に入れましたか。

A:いいえ、しかし、第二収容所は少々手に入れたと思います。

Q:結局、あなたは囚人をまったく助けようとしなかったのではありませんか。

A:そうではありません。食料を手に入れるために、いくつかの会社に手紙を書きました。

Q:ベルゼンに移送者が流入したのは、ビルケナウに流入したのと同じ理由ですね。

A:いいえ。

Q:休戦協定が調印されたことを知るまで、難なく、収容所から死体を処理することができたのですね。

A:そうであれば、何リットルものディーゼルオイルを節約できたことでしょう。死体をトラックや馬車で焼却棟に運んだのは、イギリス軍が到着するわずか5日前です。

Q:イギリス軍が到着したとき、まだ何千もの死体が収容所の中で埋葬されないまま放置されていることを知っていたのですね。

A:いいえ。イギリス軍の到着する2日前、男性区画には死体は放置されていないという報告を、ラーゲル・フューラーから受けていました。

Q:イギリス軍が収容所の中で埋葬されないまま放置されている13000名の死体を発見したことを知っていますか。

A:信じることはできません。

Q:病人や飢えた囚人が、イギリス軍が来る前に、死体を引きずって、収容所を清掃する仕事に朝から夜まで従事したというのは本当ですか。

A:病人や瀕死の囚人はそうではありません。当時、健康な囚人が移送されてきていましたから。もしも病人や瀕死の囚人であったとすれば、証人ドルイレネクが、食事も与えられずに、5日間もこの仕事を行なったという話は信じられないでしょう。

Q:ご自身でその隊列を目撃したのですね。それでも、収容所では殴打事件を目撃したことはないとおっしゃるのですか。

A:隊列を目撃しましたが、私の知るところでは、死体を引きずっていた囚人が殴られたことはありません。

Q:この期間に、誰かが射殺されたのを目撃しましたか。

A:はい、国防軍かハンガリー人によるものでした。

Q:あなたの指揮下には誰もいなかったのですか。

A:ハンガリー人が収容所を引きついでからは、国防軍がそれを指揮していました。私が責任を負っていたのは管理局だけです。発砲の現場にいたことはありません

Q:厨房の近くで発砲事件を目撃しましたか。

A:目撃はしていませんが、聞こえはしました。

Q:ベルゼンの所長であったとき、厨房の近くで誰かが発砲したのを見たことがありますか。

A:守備隊員であった3名のSS隊員が発砲した事件と、3名のハンガリー人が発砲した事件です。

Q:あなたの部下の調理員は厨房の窓からいつも発砲しており、あなたもそれに参加していたのではありませんか。厨房のそばを通る囚人たちを待って、発砲するのはSS隊員のいつものスポーツではなかったのですか。

A:それは虚偽です。証人の空想だと思います。厨房のそばにいれば射殺されるということを知っていたにもかかわらず、そこへ行くような人物がいるとは想像できません。

Q:証人ソムポリンスキの腕には銃弾が入っています、あなたが撃ったのではありませんか。

A:収容所での全勤務期間を通じて、誰かに発砲したことはありません。

Q:誰も殴ったことはないと証言しましたね。建物を立てていたロシア人のことを覚えていますか

A:はい。

Q:このロシア人を足蹴にしたのではないですか。

A:いいえ。

Q:逃亡をはかったロシア人少女の耳をたたいたと証言しましたが、エーレルトは、あなたがロシア人少女を足蹴にし、その身体をゆすり、棒で頭、顔、身体を容赦なく殴っていたのを目撃したと証言していますが。

A:彼女の顔をひっぱたいたとすでに証言しました。棒を手にしていたことはありません。

Q:エーレルトは、この少女が自分の逃亡を助けてくれた二人の少女の名を明かし、そして、二人の少女は、あなたの命令で、自白するまで裸の背中を5回殴られたと証言していますが。

A:そんなことはありません。ビルケナウでもベルゼンでもそのような命令を出したことはありません。

Q:あなたは少女を殴ったのです。そして、自分がしたことを知っています。ですから、今日の午後の証言の中で、あなたの答えは一番信用できません。

A:真実以外を証言していません。