第19日―1945年10月8日月曜日
法務官は、被告に対して次のように助言した。すなわち、もし希望すれば、宣誓のうえで、法廷で証言することができる、そして、他の証人と同様に扱われるであろう。宣誓証言をしたくなければ、法廷に陳述書を提出することもできるが、常識的に言えば、これらの証言は反対尋問を受けてはいないので、比重が軽くなるであろう。もし、宣誓証言をしたくなくても、それは義務ではなく、いずれにせよ、自分に有利な証人を召喚することが許可される。
通訳が、各被告に宣誓証言を希望するかどうかを尋ねた。全員が希望すると回答した。
弁護団は、自分の依頼人のために召喚する証人について、意見を述べた。法務官は、法廷の許可を得て、弁護団には、個々のケースについて自分たちの見解を手短に述べることが許可されると宣言した。
被告クラマーのための冒頭陳述
<弁護人ウィンウッド少佐>:ソ連の新聞『イズヴェスチア』の記事の引用からはじめたいと思います。「ヒトラー一味の犯罪者に対する裁判は、地方的な重要性を持つ刑事事件となっている。国際的な悪党は、ベルゼンの村から、普通の犯罪者のように見えはじめている。2週間のあいだ、法廷では、『ヒトラー体制』とか『ヒトラーの共犯者』というような言葉は一度も聞かれなかった」とあります。私はこの欠点を修正しようと思います。クラマーがナチス党員であったことが彼の事件の根幹であり、告発されている犯罪が犯されたのは、ナチス体制が権力の座についていたときのことだからです。
クラマーはナチス党員でしたし、裁判の数日前には、SS隊員でした。また、武装SS隊員でしたし、それによって、ドイツ軍の構成員でした。さらに、クラマーはドイツ人でした。このことをしっかり把握しておいていただきたいと思います。
ナチズムは、党の教義として始まり、「指導者」原理に基本的にもとづいています。すなわち、トップの人が命令を出し、下の人は、それが命令であるとの理由ではなく、トップから出されたものであるとの理由で、命令に従うのです。ナチズムは二つのことを要求しています。命令を実行する人々の絶対的服従と忠誠です。戦争の初期に、ヒトラーのスポークスマンであったルドルフ・ヘスは、「われわれは、批判の対象とはならないドイツ人は一人だけであると誇りを持っていおう。それは総統である。私たち全員は、総統がいつも正しいことを感じ取っており、それを知っている。彼の命令に無条件で従うことはいつも正しい。総統の命令に無条件で従うことは、ナチズムの最後の頼りなのである」と述べています。1934年のニュルンベルクでのナチス党大会では、ナチズムの「司祭」アルフレード・ローゼンベルクは、「服従、忠誠、同志愛、確固とした勇気は、この体制の4つの要素であるが、そのうち、もっとも偉大なのは服従である」と述べています。ドイツ労働戦線の指導者であったロベルト・ライは、「真に偉大なるものすべてを作り上げてきたのは服従である。人間の組織を世代から世代へと前進させてきたのは服従である」と述べています。総統自身が、戦前の最後の党大会で、大多数のナチス党員にではなく、多くのSS隊員を含む選抜された少数集団に対して、「私は、ヴェルサイユの口述によって強姦されたドイツを、全力で、しかるべき地位に戻していくであろう。それを成し遂げるために、諸君たち男女全員、兵士、SS隊員に、私の命令への絶対的服従を求めなくてはならない」と述べています。
これから法廷に読み上げる文章は、ヒトラーがドイツ帝国の宰相兼大統領となった日に、すべてのSS隊員、被告ヨーゼフ・クラマーが行なった宣誓です。「私は、ドイツ帝国宰相兼大統領のアドルフ・ヒトラーに、不動の忠誠をささげることを宣誓する。あなたとあなたが命令を委託した人物に、死にいたるまでの揺るぎのない服従をささげることを宣誓する。神よ助けたまえ。」
ナチス党は綱領を提出しました。この綱領は、ナチズムとドイツ国家が統合されることによって、ドイツの法律の一部となり、公式のドイツ法典の冒頭に記載されています。その第4項は、人種の一員であるものが市民たりうる、ドイツ人の血を持っているものが人種の一員たりうる、ユダヤ人は人種の一員たりえない、と述べています。国家の市民ではない人々は、異国の中の外国人です。国家は、まず第一に、国家の市民のために、生存権を保障しようとするものである。国家の住民すべての世話をすることができないときには、外国籍、外国の血を持つ人々はドイツ帝国から排除されるべきであるというのです。
1933年、ナチス党はドイツ政府になりました。このとき以降に公布されたドイツ法をいくつか引用したいと思います。ドイツ人が生活の規範を定めなくてはならなかったのはこの法にもとづいてであったからです。イギリス人がイギリス国内法に拘束されているように、ドイツ人はドイツ国内法に拘束されていますが、ここでは、国際法の問題に立ち入るつもりはまったくありません。のちに、この問題については、私とは別の人物が、詳細に立ち入るからです。1933年3月24日の法律には、「帝国政府が定める法律は、それが、帝国国会の存在と帝国大統領の権利を侵害しないかぎりにおいて、憲法にもとづくことができる」という一節があります。1933年12月1日、ナチス体制全体がこの日から依拠する法律、すなわち、党と国家の結束と統合に関する法が通過しました。その基本的な部分は、「ナチス革命の勝利以降、ナチス党はドイツ的な国家理念の牽引車となり、国家はナチス党と不可分に統合される」というものです。「党官房長」。党と公的な権力との協力を保証するために、総統代理は帝国政府の一員となる。もっとも重要な条項「党とSAの法的管轄権」には、「ナチス党とSA組織のメンバーは、総統、民族、国家に対するますます高まる職務を引き受けることであろう。総統は、これらの条件を、党組織のメンバーに適用することができる」とあります。この条項は、ナチス党員をドイツ法の上に置くものです。
1934年8月1日、「帝国大統領府は帝国宰相府と結び付けられる。その結果、帝国大統領の職務は、総統兼宰相のアドルフ・ヒトラーにゆだねられる。彼は自分の代理を任命する。この法律は、ヒンデンブルク大統領が死去するときから有効となる」という法律が通過しました。この結果、頂点のアドルフ・ヒトラーをいただくナチス政府と党員はドイツ法の上に立つことになったのです。さらに、1934年には、総統自身が法律となりました。二人のSS隊員がブレスラウで一人の人物を殺し、通常の国内法で起訴されました。ヒトラー自身が、その行為を祝する電報を送り、起訴は撤回されました。有名な6月30日の事件を思い出してください。そのとき、多くのナチス党員が粛清されました。そして、ヒトラー自身が、ラジオ放送で、「私が法律である」と宣言し、自分の行動を合法的なものとする権利を手に入れたのです。
ナチス党成立当初から、反ユダヤ主義は党綱領の重要条項でした。ナチズムの概念には、ユダヤ人が存在する余地はなく、ドイツでは、ユダヤ人の清算が次第に進んでいきました。最初は、通常のドイツ法によって、ユダヤ人を法律の外に置く過程が進んでいきましたが、1935年9月15日に、ニュルンベルクで、法律が通過し、ユダヤ人を通常の生活の外に置く多くの条例が出されました。ユダヤ人は仕事を得ることも、金を貸すこともできなくなりました。ドイツの社会生活・市民生活の中では存在の余地がなくなってしまったのです。さらに、ドイツ人の血とドイツ人の名誉を守る法律が出されました。ドイツ人は、ユダヤ人と、広い意味でも、狭い意味でも性的な関係を持つことはできなくなったのです。不妊化についての二つの法律が通過しました。1933年7月14日の「遺伝的な病気を持つものから、来たるべき世代を保護する法」は、「政府は、本人の許可なく、このようの人々に不妊を処置する権限を持つ」と述べています。1933年11月24日の法律は、同じことを犯罪常習者に適用するというものです。これらの法律は、のちの大ドイツ国家にも適用されました。
ドイツは、ヒトラーが権力を掌握すると、領土の拡張に着手し、1938年3月13日の法律によって、オーストリアがドイツ国家の一部となり、総統は、それ以前にはドイツだけに適用されていた法律すべてをオーストリアに適用する権限を持つようになりました。その後、次々と、ズデーテン地方、モラヴィア、メーメル、ポーランドの一部がドイツ領となりました。ポーランドの一部は占領地域でした。ドイツ国家に統合された大半の地域は、上部シレジア地方でしたが、そこに、当時はまだ知られていない小さな町アウシュヴィッツ村がありました。このときから、ユダヤ人に関するニュルンベルク法は、これらの国々にも適用されました。党員は、ユダヤ人の完全な清算を叫ぶ不愉快な新聞を買わなくてはならず、シュトライヒャーは、ユダヤ人について勝手な発言をすることを許され、政府がそれを押しとどめることはなくなりました。
アウシュヴィッツについては多くのことを聞かされてきましたが、ニュルンベルク法からアウシュヴィッツの煙突まではさしたる距離ではありませんでした。
ドイツ市民とその権利と義務に影響を与えるような、あらゆる種類のことを扱うドイツ法が制定されました。一つの条項は国家機密を扱っています、国家機密とは、文書、図版、事実、ニュースのことであり、それは、外国政府には利用できないものとなり、この結果、ナチス国家は、外国政府の目から隠されるようになりました。国家機密の漏洩は死罪でした。ドイツでの重罪は、反乱という罪状でした。普通の市民的反乱は、10年間の懲役でしたが、この反乱が党当局や党組織に向けられている場合には、それは死刑でした。
強制収容所はドイツの専売特許ではありません。近代の最初の強制収容所を設立したのは、南アフリカ戦争のときのイギリス政府でした。戦争の終結まで、望ましからざる人物を拘束しようとしたのです。ドイツの強制収容所の目的は、望ましからざる人物を隔離することであり、ドイツの観点からすると、もっとも望ましからざる人物とは、ユダヤ人でした。ドイツの強制収容所には、非常に多くの人々が収容されており、まったく過密でした。看守は少数で、管理スタッフの割合は、収容者に比べて少なすぎました。この結果、収容所の通常の「内部運営」は囚人にゆだねられることになり、この原則は捕虜収容所、収容者収容所にも適用されました。強制収容所に移送された囚人の資質は低く、自分たちがどのように行動すべきかを知りませんでした。ですから、囚人の統制はかなり困難でした。
SS全国指導者ヒムラーはすべての強制収容所の長であり、強制収容所局をSS上級集団長ポールにゆだねていました。ポールは監督総監であり、大ドイツ国家のすべての強制収容所に責任を負っていました。ポールのもとに管理将校であるSS集団長グリュックスがいました。彼は、すべてのスタッフ、移送者を収容所に運ぶ輸送などに責任を負っていました。彼の局は5つの課に分かれ、そのうち、スタッフを扱うD1課の責任者は当初は、ヘスであり、医療部局のD5課の責任者はローリング博士でした。
SSは、ヒトラーのエリート護衛隊として出発しましたが、次第に、すべての制度のなかで、もっともナチス的な先進的構成要素に成長していきました。ドイツでは、すべての団体の中でもっとも非ナチス的な組織は、国防軍であり、国防軍がナチス化されたのは開戦直後でした。クラマーもSSと陸軍とのあいだに反目が存在したことを証言することでしょう。イギリス軍とアメリカ軍は、ドイツ国防軍のことは兵士、すなわち、敵側で戦っている普通の人々とみなしてきました。しかし、イギリス軍がSSについてはどのように考えていたのかはよく知られていますし、ドイツ国防軍も、イギリス軍がSSをどのように考えていたのかをよく知っていました。過去、SSがドイツ国防軍と協力してやっていくのは困難でした。ドイツの敗北が明らかになった最後の日々にも、非常に困難でした。強制収容所で精力的な活動をしていたもう一つの部局は政治部すなわちゲシュタポでした。その仕事は、囚人をチェックし、その手紙をチェックし、囚人の身元確認をし、どこに送るべきかを決定することでした。政治部の第二の仕事は、SSを監視し、その仕事振りを監督することでした。政治部は、手紙に関しては収容所長に責任を負い、通常のルートを通らずに、最高部局のヒムラーの部局に直接責任を負っていました。政治部は、通常の収容所スタッフではありませんでした。
アウシュヴィッツは、大ドイツ国家全体で、最大の強制収容所でした。それは、アウシュヴィッツTがコントロールする収容所群であり、その所長は地区守備隊司令官でもありました。補給将校の観点から見ると、食料、衣服、保管、移送、作業班への指示などすべてがアウシュヴィッツTから出されていました。また、それ以外でも、アウシュヴィッツTから指示が出されていた問題があります。ガス室に関する指示です。ベルリンからの公式の電報があり、それは、ガス室に関する特別な職務を遂行するために、ヘスをアウシュヴィッツTの所長に任命するものでした。クラマーも、アウシュヴィッツに赴任したとき、ガス室はクラマー本人にはまったく関係がないとヘスから言われたと証言することでしょう。たしかに、ガス室は、クラマーが所長をつとめるビルケナウ、すなわちアウシュヴィッツUにありましたが、彼の職務は刑務所のある地域の連隊司令官のようなもので、命令は師団司令部からやってくるのです。師団司令官が、処刑命令つけて、特定の数の人々を刑務所に送ったとすれば、その処刑の責任者は誰なのでしょうか。連隊司令官はその命令を実行することでしょうが、処刑の責任は彼にあるといえるでしょうか。
ガス室は存在しました。そのことには疑いはありません。ドイツの生活にはまったく参与していない住民をドイツから取り除くという目的については疑問の余地はありません。その実行方法は、移送者が駅に到着したときの選別であり、のちには、収容所内部で行われた選別でした。選別の命令を出したのは、ヘスとその後任であり、いつも医師が立ち会っていました。医師長とその他の医師は、アウシュヴィッツTで暮らしており、これらの地区にある病院すべて、医師すべて、病院関係者すべてがアウシュヴィッツTの直接の統制下にありました。特定のSS隊員も選別に立ち会いました。大量の移送者が到着し、そのうちの大勢が、アウシュヴィッツに送られた理由を知ったとすれば、彼らが到着するときには、コントロールするための要員が大勢必要でしょう。移送者はガス室のあるビルケナウ、すなわちアウシュヴィッツUに到着しました。そして、不運なことに、クラマーはそこの所長でした。クラマーは、ヘスから命令を受けたこと、到着した移送者の秩序、選別にあたっての秩序の維持に責任を負っていたと証言するでしょう。
クラマーや他の収容所関係者は、これらの選別に積極的に関与し、ガス室送りの犠牲者を選んだという罪状で告発されています。クラマーは、自分はガス室送りの犠牲者を選別したことは一度もない、医師が行なった選別は、ドイツ帝国のために労働能力があるかどうかを検査するためであったと証言するでしょう。
クラマーは、個人的な虐待行為を行なったという罪状で告発されていますが、これらのついての彼の意見を表明するでしょう。もっとも重要な事件は、1944年10月7日の反乱です。焼却棟Tが放火され、収容所で反乱が起こったというのです。ベンデル博士は、SS隊員がガス室で働いていた大量の囚人を処刑し、その場にクラマーもいたと証言しています。クラマーは、そこにいたのは別の人物、当時のアウシュヴィッツTの所長ベーアであり、ベーアは、クラマーが処刑現場にやってきたときにすでそこにいたと証言するでしょう。また、自分がやってきたとき、ベーアが話してくれたことを証言するでしょう。クラマーは二つの供述を行なっており、最初の供述では、ガス室については何も知らないし、ガス室についてのすべての話は、最初から最後まで虚偽であると述べています。二番目の供述では、ガス室、ヘスの組織の話をしており、それを行なうのに躊躇していません。ドイツ人、ナチス党員には、イギリス人尋問官に告白することができない理由があったことを証言するでしょう。
クラマーは、点呼については、自分は関与していなかったと証言するでしょうが、点呼はどの収容所であっても、収容所を運営するにあたっての不可欠な方法であったと証言するでしょう。虐待や殴打事件については、収容所の各所を巡察したが、SS隊員やカポーが囚人を殴打したり、虐待したりしたのを目撃したことがないと証言するでしょう。SS隊員や女性隊員が棒、ゴムの警棒、その他の拷問用具を持ち歩いていたとの証言が多く出ていますが、クラマーは、そのようなものを持ち歩いているSS隊員を見たことがないと証言するでしょう。SS隊員や女性隊員は、自分たちに比して大量の囚人がいたために、身分を明らかにし、自己防衛するために、拳銃の携帯をアウシュヴィッツでは許されていた、とクラマーは証言するでしょう。アウシュヴィッツでは実験が行なわれ、ビルケナウではまったく行なわれなかったという証言がありますが、クラマーは、それについては耳にしていたが、何が行なわれているのか知らなかった、自分の管轄区外のことであり、まったく関係がないと証言するでしょう。
アウシュヴィッツは、不運にもそこに収容された囚人が嫌悪したにちがいない収容所でした。強制収容所に関係したSS隊員も嫌悪していました。ヨーロッパの極寒地域にある敵国の孤絶した村でした。故郷から遠く離れていました。アウシュヴィッツには高い煙突を持った建物があることは、ドイツではよく知られていました。クラマーは、そこに赴任することを最初に聞いたとき、何とか免れようとしたと証言するでしょう。彼は、前線や、どこか別の場所に派遣されることを志願しましたが、高官が、ドイツの命令は命令であると個人的に彼に語ったのです。その後、彼はアウシュヴィッツを去って、ベルゼンと呼ばれるドイツ北西の小さな村にやってきました。
今年4月の後半、「ベルゼン」という単語は世界中を駆け巡り、多くの民族がその単語を口にするようになりました。「地上の最悪の地獄」と呼ばれるようになり、ヒューズ准将がクラマーと接触したとき、クラマーには恥じ入る様子がなかったという話でした。クラマーは、自分が恥じ入らなかったのは、ドイツ人として命令を実行してきたためであり、当時の状況下でできることはすべて行なったと証言するでしょう。イギリス人の軍医その他の将校が4月15日に撮影した写真、ベルゼンの最後の数週間についてのドルイレネク氏の証言、2月から4月までの様子についてのレオ博士の証言があります。
クラマーがこの状況下でできるかぎりのことをやったかどうかを判断するには、法廷はクラマーがやってきたときの状況、そのときから解放までの一連の事件を知っておかなくてはなりません。状況は次第に悪化していき、徐々にスピードを増していって、ついには、手におえないものとなっていったのです。
クラマーは、11月30日にオラニエンブルクの強制収容所管理本部を訪れ、ベルゼンに急行するようにとの命令を受けたと供述しており、そのことを証言するでしょう。彼は、そこには、かなりの数のユダヤ人がおり、在外ドイツ人との交換要員であるユダヤ人も含まれていると伝えられた。彼は、ユダヤ人がそこにいて、どこかに向かうことになっているということ以外には、この制度のことについて今でも知りません。また、ベルゼンはドイツ北西部の強制収容所から病人が集まってくる病人収容所となるということも伝えられた。彼は、ロシア軍の進撃とともに、ドイツ東部から数千の囚人が殺到することを伝えられていなかった。12月1日、彼はベルゼンに到着し、その翌日に、ベルゼンの実情をしるした書簡をアウシュヴィッツの前の上司に送っている。その書簡をのちに提出します。
収容所には、さまざまなタイプのユダヤ人が暮らす無数の小さな区画がありました。すべてが離れ離れでした。クラマーは、ゲットーのようであったと証言するでしょう。いくつかの区画は、オラニエンブルクの直接の管轄下にありました。ある部分はゲシュタポの管轄下にありました。ある部分はドイツ外務省、ある部分はドイツ内務省の管轄下にありました。国籍では区分されていませんでした。3つのタイプの配給割り当てがありました。通常の強制収容所割り当て、病人や子供のための特別割り当て、ユダヤ人の一部が手に入れていた通常の民間割り当てです。働く能力のあるユダヤ人はおらず、働いていたものは誰もいませんでした。5つのローリーがありましたが、運転手はいませんでした。引き渡されたときの囚人の数は151257名でしたが、その中には、強制収容所からの病人も多数いました。
12月1日にクラマーが到着し、同月末、2000名ほどのユダヤ人が交換されて、どこかに行きました。1月、クラマーは、ロシア軍捕虜がいた隣の収容所も引き受け、それを女性区画に変えました。1月に、最初の移送者が到着し、同月中旬、ローリング博士が、グリュックスの指示で、ベルゼンにやってきて、クラマーが命令を実行しているかどうかを調査し、事態を報告しました。彼は、収容所の隅から隅までを見て回り、オラニエンブルクに帰って報告しました。2月、チフスが発生したので、クラマーは収容所を閉鎖して、ベルリンに報告しました。クラマーは2月末の状態を大いに憂慮し、その件をベルリンに詳しく報告しました。3月、移送者の数はどんどん増え続け、同月末に、ポール自身がベルゼンにやってきました。ポールがクラマーの書簡に応えてやってきたのか、収容所を見て回ったのかどうかは定かではありませんが、ベルゼンの実情を把握し、ベルゼンの最悪の実情を把握していたことは、レオ博士の証言からも明らかです。そして、ポールはオラニエンブルクに戻りました。私たちが知っていることはこれだけです。
4月15日、ベルゼンは解放されました。クラマーは所長として収容所全体の管理に責任を負っており、その重荷を誰かに移そうとはまったく考えていませんでした。囚人を世話するにあたってもっとも重要なことは、食料の配給でした。クラマーは、15000名の囚人のための冬の食料が搬送されていると伝えられていましたが、実際にやってきた食料はごくわずかだったと証言するでしょう。また、自分がベルゼンにいたときの食糧倉庫の実情を証言するでしょう。食料の搬送の指示を出していたのは、ハンブルク管理局の地元の食料担当役人でした。そして、ツェレには支局がありました。当初、食料は鉄道か自動車で、彼のもとに運ばれてきましたが、空襲のために、自動車輸送には支障が生じたので、クラマーは食料を集めるために部隊を派遣しなくてはなりませんでした。彼は供述書の中で、ベルゲン・ベルゼンの国防軍の兵営の補給倉庫から食料を手に入れたと述べています。イギリス軍が占領したとき、倉庫には、砂糖、缶入りのミルク、缶詰肉、小麦粉などが大量に存在したという証言がありますが、クラマーは、その倉庫から手に入れる時間がなかったと証言するでしょう。兵営から手に入れたのは、パン倉庫のパンであるが、クラマーがそこで食料を手に入れたと証言するときに、その食料とはパンのことでした。彼は、ハノーバーの大規模なパン工場からもパンを手に入れましたが、イギリス軍の進撃とイギリス空軍の正確な空襲のために、この工場は稼動不能となり、ここからのパンの供給は終わりました。彼は、ベルゼン近郊のソルタウのパン工場からもパンを手に入れました。3月1日の書簡では、8日分のジャガイモと6日分のかぶを持っていたと記しています。
クラマーは水の供給にまったく配慮しなかったという告発があります。電力がとおっているかぎり、水も配給されていました。クラマーはこのことを知っていたので、電力供給が停止する前に、コンクリートの貯水槽を清掃させました。当時この中には何が入っていたのか、彼は証言するでしょう。彼は貯水槽を清掃させ、その周りに土を盛り上げ、鉄条網をめぐらせました。囚人がその中に何かを投げ込んだり、飲料水用であった貯水槽に、許可された以外の目的で近づかないようにするためでした。電力供給が停止したとき、これらのコンクリートの貯水槽だけが残ったのです。洗濯用の水はまったくなく、これについては、クラマーが何か配慮する余地はありませんでした。
クラマーが最初にやってきたとき、衛生設備は十分で、各建物に便所がありました。しかし、当時、クラマーは壕を掘れと命じました。砂の多い土壌でしたので、壕を掘るのは非常に簡単であったという証言がありました。壕が掘られました。解放まで掘られ続けられるべきではないという理由はまったくありません。クラマーはこれらの囚人について証言するでしょう。囚人のあいだには、自分たちの自然の要求を果たすことができるものもいましたが、それに加えて、大半のものは、病気であり、自分たちの自然の要求を果たす場所に行くことができませんでした。
宿泊設備は、常識的な水準から考えると、ひどく過密となっていました。クラマーには二つの選択肢がありました。移送者が到着したとき、収容所に押し込むか、外に放置するかです。彼は収容所に受け入れるようにとの指示を受けていました。彼には、移送者がいつやってくるのか、どれほどの数なのか、どのような状態でやってくるのか、まったく知らされませんでした。そして、移送者がやってきて、彼は収容所に入れ、彼らは建物の中に入ったのです。だから、宿泊施設がひどく過密となったのです。クラマーが収容所にやってきたとき、約半分の囚人にはベッドがありました。すなわち、2000の三段ベッドがありました。彼が、以前には捕虜収容所であった大きな区画を引き受けたときには、ベッドが捕虜で占められていたので、ベッドをまったく受け取りませんでした。彼は報告書でベッドのことに触れています。3月後半、かれは500の三段ベッドを受け取りましたが、それは、レオ博士の言葉を借りれば、ホットプレートの上の一滴の水滴のようなものでした。収容所を移動した囚人はすべて、2枚の毛布を持っていたという話です。クラマーには毛布の在庫はまったくありませんでした。囚人たちが毛布を持たずにやってくれば、新しい収容所では、毛布を持たないままでした。厨房では、食事を提供するために3回の調理が行われたという証言があります。明らかに、ベルゼンには、大量の人々に食事を提供するのに必要な設備が欠けていたのです。クラマーは、3回の調理を避けるために、もっと大きなボイラーを何回も要求しました。
死体の処理についても多くの証言がありました。収容所には小さな焼却棟がありましたが、大量の死体を処理するには絶望的なほど能力不足でした。レオ博士は、死体を焼くために大きな木の山が作られたが、木材委員会は、木を手に入れたり、周辺地域から木を伐採してくることをクラマーに許可しなかったと証言しています。クラマーが収容所を清掃し始めたのは、イギリス軍がすぐそこに迫っていることを知ったときであったという証言があります。クラマーは、大量埋葬地が作られたのはイギリス軍が収容所に接近するかなり前のことであったと証言するでしょう。ケイト・メイヤーというイギリス国民についての証言がありましたが、クラマーは、ベルリンから囚人の処刑命令を受けたのはわずか一件であったと証言するでしょう。クラマーはアウシュヴィッツの悪党をベルゼンに連れてきて、同じことをさせたという証言があります。しかし、アウシュヴィッツはロシア軍の進撃のために1945年初頭に破壊され、囚人はその他の収容所、大半がベルゼンに送られたと証言するでしょう。アウシュヴィッツのスタッフも他の収容所に配置され、だからこそ、アウシュヴィッツのスタッフの多くがベルゼンにやってきたのです。
クラマーは、ベルゼンにいたときには、SS隊員による殴打や虐待についてはまったく知らなかったと証言するでしょう。2月と4月の収容所での医療状態についての証言がありました。クラマー自身は、収容所長として責任を負っていましたが、医療管理面は自分の医師に任せていました。最初はシュナーベル、ついでホルシュトマン、最後はクライン博士でした。オラニエンブルクの当局はベルゼンが病人のための収容所となることを知っており、ベルゼンの実情を知っていたに違いないことは明らかです。ローリング博士自身がベルゼンに視察にやってきて、病院や医療施設の図面を持って見て回り、何が必要であるのか知っていたに違いありません。ベルゼンではガス室が建設中であったという証言がありましたが、クラマーは、それはまったくの嘘であると証言するでしょう。
クラマーには、ドイツ北西部の収容所から病人がやってくると伝えられていました。たしかに、これらの人々はベルゼンにやってきましたが、病人であったというのは過小評価でした。大半が瀕死の状態であったのです。多くが到着すると死にました。そのうえ、ロシア軍を逃れるために、ドイツ人が東部ドイツから送り込んできた囚人がいました。彼らすべてがベルゼンにやってきました。まったく気づかれずにやってきたのです。少数でやってきたこともあれば、大勢でやってきたこともあり、列車でやってきたこともあれば、トラックや徒歩でやってきたこともありました。日中やってきたこともあれば、夜中にやってきたこともあります。毛布を持っていたものもいれば、持っていないものもいました。結局、このような移送者を送り出した人々は、何が起こっているのかまったく知らなかったのです。クラマーは、4月初頭に大量の移送者が移送途中であることを知らされましたが、同じ日に、イギリス軍とアメリカ軍の先遣部隊がブルンシュヴィックとハノーバーに入ったことを耳にしたと証言するでしょう。
クラマーがこれから証言することの多くが立証されえないことは不可避です。ポール、グリュックス、ローリング博士のような人物を召喚できないからです。クラマーの自己弁護の多くは水泡に帰してしまうので、彼が本当に自己弁護しようとしているのかどうか疑う人もいることでしょう。彼の考えを立証する証拠として、私は、彼の希望を共有し、ある程度彼の計画を共有し、また、本裁判の被告の運命を共有している人を証人として召喚するでしょう。彼女は、これらの困難な時期に、クラマーが何を考えていたのか、彼女の知っているかぎり、証言してくれることでしょう。
最後に、クラマーは、これらの事件の波が彼の周囲で波打っているときに、上司にも見捨てられ、まったく孤独で立ち尽くしていました。イギリス軍による解放以来、収容所長ヨーゼフ・クラマーは、世界中で、「ベルゼンの野獣」という烙印を押されてきました。このステージで最終ラウンドの鐘が鳴らされるとき、ヨーゼフ・クラマーは「ベルゼンの野獣」ではなく、「ベルゼンの身代わり」となることでしょう。彼は、ここからそう遠くないリュネブルク・ヒースで骨を朽ち果てているハインリヒ・ヒムラーなる人物の身代わり、ナチス体制すべての身代わりなのです。
被告人ヨーゼフ・クラマーの反証
(弁護人ウィンウッド少佐による被告ヨーゼフ・クラマーへの尋問)
A:私は、1906年11月10日にミュンヘンで生まれ、1931年12月1日にナチス党に、1932年1月にSSに加入しました。1934年秋に、強制収容所局で働き始め、1945年4月まで、ずっとその部局に留まりました。1944年5月、アルサスのナチヴァイラー強制収容所にいましたが、SS上級集団長ポールは、アウシュヴィッツ第二収容所に移されると話してくれました。私は、ナチヴァイラーを去りたくない、アウシュヴィッツにはまったく行きたくないとポールに言いました。アウシュヴィッツが建設されたとき、5ヶ月間そこにいましたが、好きにはなれなかったからです。2、3日後、転勤を公式に伝える電報を受け取り、5月15日ごろにアウシュヴィッツに向かいました。
(ウィンウッド少佐は、任命を伝える国家電報、展示証拠119を読み上げる。)
Q:アウシュヴィッツに着任したとき、全収容所の所長は誰でしたか。
A:SS上級突撃隊長ヘスです。アウシュヴィッツは非常に大きな収容所で、T、U、Vに分かれていました。私は第二収容所、すなわちビルケナウの所長となりました。
Q:最初の供述では、ガス室、大量処刑、鞭打ち、虐待についての告発が虚偽であると申し立てているのに、二番目の供述では、真実であると申し立てている理由を説明してください。
A:それには二つの理由があります。第一の理由は、最初の供述では、囚人たちがガス室は私の管轄下にあったと告発していると伝えられていたことです。第二の理由、これが主であるのですが、私に話してくれたポールが、ガス室の実在について沈黙を守ること、誰にも話さないことを私に誓約させたことです。最初の供述を行なったときには、まだこの誓約に拘束されていると感じていました。ツェレの刑務所で第二の供述を行なったときには、私が誓約していた人物、すなわち、アドルフ・ヒトラーとSS全国指導者ヒムラーはもはや生きていなかったので、誓約には拘束されないと考えたためです。
Q:所長ヘスはガス室についてあなたに何か言いましたか。
A:私は、ガス室と到着する移送にはまったく関係ないという文書命令をヘスから受け取りました。各収容所にあった政治部が、囚人のカード目録を持っており、個人記録と移送と到着する囚人に責任を負っていました。アウシュヴィッツでは、政治部が到着した移送者を選別してガス室送りとすることにすべてに責任を負っていました。焼却棟では、SS隊員と囚人、すなわち特別労務班は、アウシュヴィッツ所長ヘスの管轄下にありました。移送者が到着する地点は私の収容所の真ん中にあったので、到着に立ち会ったことがあります。監督と秩序の維持に責任を負っていた人々は、一部は、アウシュヴィッツTから、一部は、私のビルケナウ収容所からやってきていましたが、監督を行なう人物の選別を行なったのは、アウシュヴィッツT所長でした。囚人の選別を行なったのは、医師だけでした。ガス室送りに選別された人々はさまざまな焼却棟に向かい、労働適格者と判断された人々は、私の収容所のさまざまな区画に向かいました。数日以内に、彼らはドイツの各地に労働者として送られていくと考えられていたからです。
Q:あなた自身が選別に参加しましたか。
A:いいえ、私も、私の部下のSS隊員も参加したことはありません。誰が医師たちに命令していたのかは正確に知りませんが、多分、収容所医師長のヴィルツ博士だと思います。医師たちは、本部のあるアウシュヴィッツTで一緒に暮らしていました。
Q:ガス室の仕事全体については、個人的にはどのように考えていましたか。
A:「これらの人々は本当にガス室に送られるべきなのか、最初にこの命令に署名した人々は、この質問に回答できるのだろうか」と自問していました。ガス室の目的が何であるか知りませんでした。
Q:アウシュヴィッツ所長ヘスの後任は誰でしたか。
A:SS突撃隊長ベーアです。彼は、第一収容所長でもあったので、全収容所の所長でした。
Q:1944年10月7日には何が起こりましたか。
A:反乱のようなもので、人々が逃げようとして、焼却棟TとVに放火しました。そのとき、私は3キロメートルほど離れた自宅にいましたが、そんなことが起こったとは信じられませんでした。アウシュヴィッツTで利用可能な全部隊がトラックに乗せられ、ビルケナウに運ばれ、消防隊もそこに向かっていると伝えられました。焼却棟Vの近くにきてみると、すでに焼け落ちていました。ベーアとへスラーがそこにいました。私の知るかぎりでは、逃亡に成功した囚人は一人もいませんでしたが、私が到着したときには、反乱の首謀者はすでに射殺され、地面に横たわっていました。
Q:収容所ではその他の選別も行なわれましたか。
A:私の区画では行なわれませんでしたが、移送されてきたユダヤ人が収容されている区画では行なわれました。私の区画では、彼らはアウシュヴィッツTの管轄下にあり、巡察中にそのような選別に立ち会ったこともありますが、医師が選別を行なっており、私は積極的に参加したことはありません。病院でも選別は行なわれましたが、医師が責任者でしたので、病院には入りませんでした。
Q:あなたの収容所に関して言えば、アウシュヴィッツTは何に責任を負っていたのですか。
A:宿泊施設、補給、輸送、管理部門の仕事すべてがアウシュヴィッツTに依存していました。実際には、私の仕事は所長の仕事ではなく、ラーゲル・フューラーの仕事でした。何かが必要なときには、たとえば、私の収容所の政治部に命令を出すのではなく、アウシュヴィッツTに要請しなくてはなりませんでした。ドイツ各地に労働要員として労働適格者を送り出す仕事がありましたが、それについてもアウシュヴィッツTから命令を受けました。
Q:収容所にはどのくらいの囚人がいるとどのようにして知ったのですか。
A:点呼からです。それは、各ブロックの前で、ブロック・フューラーによって、女性区画では、女性監視員によって行なわれました。彼らはその数をいわゆるラッポルト・フューラーに報告し、数が比べられて、一致すれば、点呼は終了です。囚人は5列に並びました。ビルケナウには12000−15000名の囚人がいましたが、点呼が30分を超えることはありませんでした。労働囚人のいる区画では問題は生じなかったのですが、ユダヤ人移送者のいる区画Cでは問題が生じました。私は区画Cで丸1時間も数を数えたのですが、すでに数えられて人々が、前へ進み出て、何が起こっているのか見ようとしていたのです。このために、私はブロック長に命じて、数え終わるまで数え続け、終わるまでは食料は配給されないと囚人に伝えさせました。その後は、囚人たちは5列の隊列を崩さなくなり、20−25分で点呼が終わりました。点呼に2−3時間かかったということがあるとすれば、その責任は点呼を行なった人々ではなく、囚人の振る舞いにあるのです。私は、ブロック長に、君たちは囚人に対して礼儀正しく、穏やかな振る舞いをしなくてはならないのだから、君たちがかんしゃくを起こしたときには、非難すると伝えました。しかし、囚人たちは5回も10回も命令されても、いうことを聞かないことがありましたので、ブロック長がかんしゃくを起こすのにも理解を示していました。労働作業班は、夏には、6時から7時のあいだに仕事に出かけ、午後5時か6時に戻ってきました。秋には、農業労働作業班が5時から6時のあいだに出かけることもありましたが、それは、年に数日のことでした。アウシュヴィッツでは、仕事に出かける前に点呼がありましたが、ベルゼンではありませんでした。アウシュヴィッツでの点呼は5時ごろ始まり、秋には、もっと遅く始まりました。
Q:所長がSS隊員と女性隊員に武器の携帯を認めることがありましたか。
A:アウシュヴィッツではSS隊員は回転式拳銃か小銃を携帯しており、女性監視員は、おそらく、私の前任者かヘスの許可で、回転式拳銃を携帯することを許されていました。それ以外の武器の携帯は許されていませんでした。移送者が到着したとき、棒を持っているSS隊員がいるのを目撃しましたが、体罰のために使われることを恐れて、持っていてはならないと命じました。もしも、棒や認められていない武器を携帯しているSS隊員がいたとすれば、彼らは私の命令に反していたのです。
Q:アウシュヴィッツでは体罰は認められていましたか。
A:事例ごとに相談を受けたオラニエンブルクの当局から許可されていました。各所長がオラニエンブルクに許可を求めました。私も、35から40回の許可を得ました。囚人はテーブルに身を横たえ、ラーゲル・フューラーと医師の立会いのもとで、他の囚人が体罰を加えました。
Q:アウシュヴィッツに犬はいましたか。
A:はい、ビルケナウにいました。これらの犬を管理する特別な看守部隊があり、管理スタッフにはまったく関係ありませんでした。犬は、農業労働に出かけるさまざまな作業班に割り当てられていました。
Q:証人グリノヴィエスキは、あなたに25回殴られたと証言していますが。
A:オラニエンブルクの当局が許可を出して、25回も殴られたということでしょう。私は1943年秋にはビルケナウにはいませんでしたので、誰かほかの人物が殴ったのでしょう。私が彼を殴ったというのは虚偽ですし、機関銃を撃った、犬をけしかけたというのも虚偽です。機関銃を持っていたのは、アウシュヴィッツの守備隊だけです。
Q:アウシュヴィッツからベルゼンへの転勤命令をどのように受け取ったのですか。
A:オラニエンブルクからの電報によってです。途中でグリュックスに報告せよとの話でした。報告したところ、彼は、「クラマー、貴官はベルゲン・ベルゼンに赴任する。そこは病院のための収容所で、ドイツ北部からのすべての病人囚人が収容される。また、ドイツ北西部の労働収容所のすべての病人囚人が収容される。17000−18000名の囚人を監督することになるであろう」と話しました。すべての病人が私の収容所にやってきたらどういうことになるのでしょうと尋ねると、彼は、「今のところはそれに答えることはできないが、14日以上もCRSにいて、このために、収容所の通常の仕事を妨害している人々は、貴官の収容所に集められるべきであると考えている」といいました。ふたたび労働適格者となった囚人はどのように扱うのかと尋ねると、彼は、「出身収容所に送り返すか、新しい作業班を編成することができる。どこへ彼らを送るべきかについては、オラニエンブルクからの命令がある」といいました。彼はまた、いわゆる交換ユダヤ人が収容されている区画があり、彼らはどこかに移送されるであろうが、いつのことになるのかは知らないといいました。私がベルゼンについたのは1944年12月1日でした。
Q:そこで何を発見しましたか。
A:およそ15000名の囚人です。宿泊施設が限られていたので、過密状態でした。半分ほどが、交換ユダヤ人で、あとの半分が通常の強制収容所の囚人でした。収容所は多くの居住区画に分かれていたので、このような交換ユダヤ人が作った通路を遠い抜けることはできませんでした。囚人はたがいに会うことも話しかけることも禁止されており、男性、女性、子供が家族ごとに一緒に暮らしていました。その他の囚人について言えば、男性の約90%が病気であり、女性は過密でしたので、テントに収容されましたが、それも嵐で壊れてしまいました。
Q:これらの交換ユダヤ人にはその後何が起こったのですか。
A:私の赴任直後に、ベルリンから政府の役人がやってきて、1400名ほどのユダヤ人を選んで、スイスに送りました、さらに、1月には500名ほどが送られました。これらの人々は、国家保安局=ゲシュタポの直接の管轄下にありました。ハンガリーからの新しい移送者が残った交換ユダヤ人に加わりましたが、彼らも3月末に収容所を去りました。
Q:収容所の食糧事情はどうでしたか。
A:赴任した直後は、15000名ほどの囚人しかいませんでしたので、食糧事情は良好でした。その後、新しい移送者が到着すると、食糧事情は深刻になりました。食料は、ツェレとハノーバーから運ばれてきましたが、私も輸送隊を提供しなくてはならなかったこともあります。ハンブルクの会社はベルゼンにも支社を持っていましたが、その会社がパンの一部を供給しており、ベルゼンのトロッペンウブングスプラッツからもパンは運ばれてきました。しかし、囚人の数が多くなると、1週間に10000ローフのパンしか手に入れることはできないと、当局に言われました。冬には、ジャガイモや野菜を手に入れることはほとんど不可能であり、ツェレとハノーバーからパンを手に入れていたものの、空襲のために、一部のパン工場、道路、鉄道が破壊されました。パンが収容所に運ばれてこなくなり始めたのは、空襲が始まってからでした。私はサラウのパン工場と接触して、1週間に数千ローフのパンを手に入れました。囚人の数は30000から40000のあいだでしたので、昼も夜も5両の輸送隊をハノーバーに派遣しました。寒い天候であったので、食料の補給を得ることは非常に困難で、私の管理スタッフは、町や市にまず配給されると言われました。ついに、私はかんしゃくを起こしてしまい、スタッフを介して、ジャガイモや野菜を手に入れることができないとすれば、予想される破局の責任を君たちに負わせると告げました。1月20日、捕虜収容所が私の管轄下に入りましたが、それはのちに、女性区画となりました。そこにあった冬用の補給物資も引き継いだことが、この困難な時期を切り抜けることに少々役に立ちました。
Q:3月末と4月初頭の食糧事情はどうでしたか。
A:配給されていた割合は、健康な人には十分でありましたが、収容所にやってきたばかりの病人には、まったく不十分でした。ドイツ国防軍の補給物資と倉庫は国防軍のためのもので、私の補給制度はまったく民間の組織に依存していました。私には、国防軍に予備の物資の提供を要請する権限はありませんでしたし、それを強制する権限もありませんでした。ツェレで週2回食事をしていましたが、国防軍に要請しようとしませんでした。要請する権利のあったジャガイモとミルクを手に入れたのは、民間業者からです。4月初頭に国防軍の倉庫に出かけていって、食料の供与を要請したとしても、手に入れることはできなかったことでしょう。
Q:第二収容所と呼ばれている場所に収容された囚人の食糧事情はどうでしたか。
A:彼らが到着したのは、イギリス軍がやってくる前の最後の週でしたので、2両のジャガイモ、6両か8両のかぶ以外には、何も持っていませんでした。その後、野外演習場司令官が、彼らには国防軍の補給物資から配給されるとの命令を出しましたが、のちには、その割り当ては返還されると命じました。
Q:収容所の水の実情はどうでしたか。
A:野外演習場のポンプから水を供給されていましたが、3月、防火水槽であった大きな貯水槽を清掃して、非常用の飲料水で満たすようにとの命令を出しました。最後の週には、大きな貯水槽の水を調理にも使いましたが、洗濯用の水はありませんでした。
Q:大量の囚人が流入してきたとき、どのような衛生措置を取りましたか。
A:男性区画にはそれなりの数の便所があり、女性区画には少数の便所しかありませんでしたが、十分ではありませんでした。囚人たちはすでにやってきていたので、何らかの措置を急いでとらなくてはならなかったので、壕を二つのブロックに一つの割合で掘るようにと命じました。私の知るかぎり、この命令は実行されました。ここで指摘しておきたいのですが、男性収容所の囚人は全員が病気であって、働くことができず、壕を掘る仕事をさせるにあたっては、女性囚人に依存しなくてはなりませんでしたが、男性のようには速く仕事ができなかったことです。4月15日の時点で労働適格者であった囚人がベルゼンにやってきたのは、解放の10日前のことです。
Q:囚人たちが病気であったという事実は別として、彼らについてそのほかに話すことはありますか。
A:2月と3月の移送者の3分の1はすでに死んでおり、残りの人々のうち80%は駅からトラックに積み込まなくてはなりませんでした。私が持っていた5台のトラックは、毎日、食料、パン、建築資材を運び、その後で、午後と夜には、駅に行って、新しい移送者を集めなくてはなりませんでした。収容所の医師長ローリング博士は、1月に訪れたとき、ベルゼンが収容できるのは30000名の囚人だけであることを明らかにし、ラーフェンスブリュックの司令部に、ベルゼンは病人の収容所となるべきであると進言しました。ラーフェンスブリュックは、ベルゼンにはバラックだけがあり、ベッドも、バケツも、毛布も、それを入れておく家具もないことを知っていながら、他の収容所に、ベルゼンが病人収容所となると伝えました。チェコスロバキアから3000の三段ベッドを受け取るはずでしたが、鉄道が通っていなかったので、到着しませんでした。私はすべての囚人を受け入れましたが、裸の床の上に収用するしかありませんでした。そうしたくはなかったのですが。もし受け入れないといえば、彼らは収容所の外か貨車に放置されたことでしょう。しかし、ラーフェンスブリュックから送られてきたので、受け入れざるを得なかったのです。3月、雪が解け始めたとき、事態を少しでも改善しようとして、作業班を送って、床に敷くわらを集めさせました。
Q:移送者がどのような状態で、どれくらいの数移送されてくるか伝えられていましたか。
A:大きな強制収容所からは、二、三日前に、電報を受け取りましたが、大半に移送に関しては、私が気づいたのは、ベルゼン駅で誰かが私に電話をかけてきたときのことです。30分後に移送者が到着することを知ったのです。そして、移送者がどこからやってきたのか、どれくらいの数なのか、男性なのか女性なのかを知ったのは、私が駅に到着したときのことです。移送の指揮官が、何名か言えないこともありました。知っているはずだと指摘すると、「私たちは逃亡中であって、突然、駅に10台、12台、15台のトラックを発見した。できるだけ多くを詰め込んで、出発し、ここにたどり着いた。旅の途中では、まったく食べ物がなかった。そのことに配慮する時間もなかったし、出発地からも持ってこなかったからである」という答えが返ってきました。こうした事例をお話したのは、1月、2月、3月の状況がどのようなものであったのか法廷の皆さんに知ってもらいたいからです。徒歩でやってきた囚人もいれば、トラックに載せられてやってきた囚人もいました。
Q:囚人たちは何を持っていましたか。
A:大半の囚人は、到着したとき衣服だけを身に着けていました。アウシュヴィッツからやってきた人々は誰もが別のスーツ、2枚の毛布を持っていましたが、長い距離を行進しなくてはならなかったので、途中で落としてしまいました。102枚の毛布がありましたが、私が受け入れた数千の囚人には取るに足らない量でした。
Q:第一収容所全体では、いくつの厨房がありましたか。
A:男性区画に2つ、女性区画に2つ、女性収容所の前に1つありました。食事のたびに、二、三回調理しなくてはなりませんでした。
Q:2月には何か特別な事件がありましたか。
A:ナチヴァイラー労働収容所からの移送者が発疹チフスを持ち込み、ドイツ東部地方からの移送者がチフスを持ち込みました。ホルシュトマン博士から発疹チフスの報告を受けると、収容所の閉鎖を命じ、私の措置をベルリンに報告しました。しかし、収容所を再開して、こちらに向かっている移送者をすべて受け入れ、ラーフェンスブリュックからの2500名の女性も受け入れるべきであるとの回答でした。私はベルリンのSS集団長グリュックスに書簡を書いて、2月末の状況に対する不満を述べました。この書簡は私信として送られましたが、3月末に、SS上級集団長ポールが視察にやってきました(展示証拠121)。
Q:この書簡は、オラニエンブルクのSS管理局D課長SS集団長グリュックスあてのもので、冒頭に、「ベルゲン・ベルゼン、1945年3月1日」とあります。以下朗読します。
「集団長、かねてから、当地の状況についてお知らせするために、閣下と話し合いたいと思っておりました。仕事の都合で話し合うことができませんので、危機的な事態を文書で報告し、閣下のご支援を求めます。
閣下は1945年2月23日の電報で、私がラーフェンスブリュックからの最初の委託として、2500名の女囚を受け取ることになると伝えてくださいました。私はこの数のための宿泊施設を保証してきました。しかし、これ以上の委託は、スペースがないという宿泊施設の観点からだけではなく、とくに食糧問題からも、不可能です。SS収容所医師長ローリングが1月末に収容所を視察して、35000名以上を収容するのは過密すぎることになりました。しかし、この数はすでに7000名ほど超過しており、現在も、6200名がこちらに向かう途中です。このために、バラックは少なくとも30%ほど過密状態になっています。囚人たちは身を横たえて眠ることができず、床の上でひざを抱えて眠っています。最近も、BV課が三段ベッドを割り当ててくれましたが、いつも、輸送手段がない地域からです。十分な睡眠施設があれば、到着しているか到着予定の囚人の宿泊施設はもっと改善されるでしょう。さらに、発疹チフスとチフスが蔓延し始め、その症例は毎日増え続けています。死亡率は、2月末には、毎日60−70名でした。しかし今では、平均1日250−300にまで達し、現在の状況を考えると、これからも、もっと増え続けるでしょう。
補給。収容所を引き継いだとき、1500名の囚人のための冬の補給が約束されていました。一部は受け取りましたものの、大半は運ばれてきませんでした。この失敗は、輸送の困難さだけではなく、この地域で手に入れることができるものはなく、すべてを地域の外から運ばなくてはならないという事実のためでした。利用可能な補給物資は、計算してみると、2月20日まででした。非常に節約したおかげで、今でも、8日分のジャガイモと6日分のかぶがあります。地元の農民グループの代表者と、物資の提供についての交渉が始まりました。パンについても、同じような状況です。ベルゲン野外演習場からの補給は別にして、私たちは、ハノーバーのパン工場から毎日一台分のパンを受け取っています。最後の4日間には、交通が途絶えていたので、ハノーバーからの配送はまったくありませんでした。このような状態が週末まで続くならば、私は、貨物自動車を使ってハノーバーからパンを運ばせなくてはならないでしょう。地元の部隊に割り当てられている貨物自動車の数はこの仕事には不足しているので、少なくとも、3台か4台の貨物自動車、5台か6台のトレーラーを提供してくださることを要請せざるをえません。牽引手段を持っているので、トレーラーを周辺地区に送ることができます。ジャガイモの提供について、地元の農民グループの代表者との交渉がうまくいけば、これも貨物自動車で運ぶことを許可しなくてはならないでしょう。補給問題は、かならず、次の数日には解決するでしょう。集団長閣下、輸送手段の割り当てを要請します。食料の調達はこちらから処理するでしょう。そのうえ、ボイラーの補給を強く要請します。収容所のボイラーは昼夜兼行で使われています。ボイラーの一つが故障すれば、大きな問題が発生します。ここには、300リットルの容量の30のボイラーがありますが、それは、DAFによって、SSの管轄下に入っています。1944年12月29日に、これらのボイラーを使わせてほしいと要請しましたが、1945年1月31日に、認められないとの回答が、文書でなされました。SS突撃長ブルガーは、当地を訪れたとき、これに気づきました。討議の結果どのような決定が下されたのか知りません。状況が変化すれば、これらのボイラーの使用が可能となるのでしょう。不足を補うために、さらに20のボイラーをぜひとも必要としています。
健康状態。ここでは、収容者の数と比べても、疾病の数がはるかに高いです。1944年12月1日、オラニエンブルクで閣下とお話したとき、ベルゲン・ベルゼンはドイツ北部の強制収容所のための病人収容所となるということでした。東部地区からの移送者が最近到着し、彼らは屋根のないトラックで8−14日間も旅をしてきました。このために、病人の数は非常に増えていきました。彼らの回復、とくに、労働可能とするというようなことは、現時点では、問題外です。病人は次第に弱っていき、ついには、心臓が弱って死んでいくか、全体的な衰弱の結果、死んでいきます。すでに申し上げましたように、毎日の死亡者の平均は、250−300名です。1900名の移送者のうち500名以上が到着した時には死んでいたと申し上げましたが、そのことで、到着した囚人の健康状態については十分に推し量ることができると思います。発疹チフスを抑えることは、害虫駆除手段がないので、非常に困難です。温風害虫駆除機は、使い続けられているために、調子が悪く、数日間も使えないことがあります。SSの収容所医師長は、ここを訪れたとき、『短波害虫駆除機』の提供を約束してくれました。これを使うには、強力な変圧器が必要です。ベルリンのヴィシュメール通りのBauinspektion Nordからの情報によると、この変圧器は搬出可能です。このような機器がぜひとも必要なのですが、現時点では、それを調達するための輸送隊をベルリンに派遣することはできません。新しい焼却棟の資材や屋根葺き資材、セメントについても同じような事態です。建設局がこれらの緊急物資を貨物自動車ではないとしても、トラックに積むことはできると思います。そして、ザクセンハウゼンかラーフェンスブリュックの囚人とともに、当地に運ばせるのです。建設局が、この物資をここから搬出するといえば、それで問題は解決です。建設局は、輸送状態が過密であり、順番を待つべきであると考えているかもしれません。
建設局に関係するもう一つの物資は、下水設備です。1943年、既存の設備は収容者の数を考えると小さすぎると判断されました。1943年以降、何回も調査が行なわれ、計画が作られたのですが、何も行なわれませんでした。この結果、破局が生じており、誰もその責任を取ろうとはしていません。閣下ならば、措置を講じて、事態を収拾することができるでしょう。
集団長閣下、現在の危機を克服するために、あらゆる措置を講じなくてはなりません。この書簡でお示ししたかったことは、当地に存在する困難な諸問題です。この問題を解決しなくてはならないのは、私としては当然のことだと思います。閣下には権限がありますので、閣下のご支援を求めております。これまで申し上げました諸点に付け加えて、何よりまず、20000名の囚人のための宿泊設備、ベッド、毛布、食器を要請いたします。
私は、囚人を仕事につかせる問題について、労働効用当局と協議しました。近い将来には、女性労働を利用するチャンスがあります。男性労働を利用することは、ここではできません。強制収容所の囚人に加えて、7500名ほどの収容者(「交換ユダヤ人」)がいます。国家保安本部WA4bからモエスSS大尉が先週やってきて、これらのユダヤ人は近いうちに去っていくであろうと話してくれました。そうであるとすれば、できるだけ速くそのような措置を取ってくださいませんでしょうか。そうすれば、少なくとも10000名の囚人に、宿泊設備を提供できます。モエスSS大尉は、発疹チフスの危険のために、現時点で、これらのユダヤ人を連れて行きたくないようです。一部はテレジエンシュタット、一部はヴュルテンブルクの新しい収容所に向かうことになっています。いくつかの強制収容所では、ユダヤ人は囚人たちのあいだに近親者、すなわち、両親や兄弟姉妹を発見しております。だから、これらの囚人をここから連れ去ることは緊急に必要です。また、純粋に政治的な理由からですが、当収容所での高い死亡率との関連で申し上げますと、これらのユダヤ人を出来だけ速やかに連れ去ることがぜひ必要です。
ここで、現状報告を終わりたいと思います。集団長閣下、これとの関連で、私としては、この困難な状況を切り抜けるために、あらゆることをするつもりであります。閣下がこれを克服するためにさらに大きな困難に直面しており、この地域のすべての囚人を当収容所に送らなくてはならないとお考えになっていることも承知しております。ですから、この状況を克服するために、閣下のご支援を懇願するしだいであります。
ハイル・ヒトラー、敬具
J.K. SS大尉」
Q:3月19日にベルゼンにやってきたとき、ポールは何をしましたか。
A:私は彼に同行して、収容所を見て回り、最悪の箇所を見せました。ホルシュトマン博士、私の部下フォグラーが同行し、ローリングとヘスがポールと一緒でした。ヘスはこの当時、グリュックスの代理でした。彼は収容所全体を見て回り、ベルゼンで見たことは以前には見たこともないといいました。私は、もし、病人しか送ってこなければ、何も改善されないでしょうといいました。私たちは事務所に戻り、事態を改善する措置について協議しました。私は、新しい移送を中止して、いわゆる交換ユダヤ人をその家族とともに送り出すことを提案しました。ここにある資材を使って、建物を立てることも協議しました。各100名の囚人を収容する40ほどの建物を建てるという考えです。証人の一人は、この建物のことを、間違って、ガス室と証言しました。SS上級集団長はここで決定を下して、電報を送り、私が提案した二件について、私の要望にこたえようとしました。