第13日―1945年10月1日月曜日
(検事バックハウス大佐による証人チャールズ・ジグスムント・ベンデルへの尋問)
A:私はパリ在住のルーマニア人医師で、1943年11月4日に逮捕されましたが、パリには10年間暮らしていました。ユダヤの星であるダビデの星をつけるように強制されていましたが、それをつけなかったことが逮捕理由でした。パリ近郊のドランシー収容所に送られ、1943年12月10日にアウシュヴィッツに送られました。私は、その中のブナ収容所で石工として働きました。1944年1月1日、私は中央収容所に移り、1944年2月27日に、ビルケナウのジプシー収容所に移って、医師として働きました。医師長はメンゲレ博士です。彼は収容所の医療全体の責任者であり、とくに、感染症に責任を負っており、プラハ出身のエプシュタイン博士と私が補佐していました。メンゲレ博士は焼却棟で注射投与の研究に従事していました。即死をもたらすような注射の投与であり、ジプシー収容所では、双子に対する実験を行なっていました。双子に対してあらゆる種類の実験を行なっていましたが、十分ではありませんでした。彼は、双子たちが死んでいく様子、彼らの状態を観察しようとしていました。私が始めて収容所にやってきたときには、11000名の囚人がいましたが、1944年7月末には、4300名が焼却棟に向かいました。それ以前には、1500名が作業班に選別され、その他の人々は、自然死するか、収容所でのその他の原因で死亡しました。焼却棟に向かった人々は生きてはいませんでした。ガス処刑されたのです。
Q:1944年6月に、仕事が変わったのですね。
A:はい、変わりました。メンゲレ博士が焼却棟で補佐するという名誉を与えてくれました。そこで働く人々は特別労務班とよばれ、900名ほどでした。彼らもすべて移送されてきた人々でした。囚人たちのあいだの特別労務班が存在したように、SS隊員にあいだにも特別労務班がありました。彼らは、たとえば、アルコールの供与というような特権を持っており、他のSS隊員からは隔てられていました。この特別労務班には約15名がおり、各焼却棟に3名ずつでした。特別労務班に所属する囚人は、封鎖されているブロックで生活し、そこを離れることは禁止されていました。SSの特別労務班には夜の勤務もあり、ローテーションを作っていました。いつも交替制でした。当初、私は他の囚人とともに収容所で暮らしていましたが、のちに、焼却棟で暮らすようになりました。仕事を始めたのは、1944年8月でした。そのときには、まだガス処刑された人々はいませんでしたが、150名のロシア人やポーランド人の政治犯が一人一人埋葬地に連行されて、射殺されました。二日後、私はその日の班に加わって、作動中のガス室を目撃しました。このときには、ウッジのゲットーからの80000名がガス処刑されました。
Q:その日に何が起こったのか詳しく話していただけませんか。
A:私は他の人々と一緒に朝7時にやってくると、壕から煙が立ち昇っているのを目撃しました。移送者全員が夜のあいだに清算されたのです。焼却棟Wでの焼却だけでは不十分でした。仕事ははかどりませんでした。焼却棟の後ろのところに、長さ12メートル、幅6メートルの3つの壕が掘られました。すこしたつと、この3つの壕でも不十分であったので、3つの大きな壕の真ん中に、二つの溝を作り、そこを人間の脂肪やグリースが流れていって、仕事がはかどるようにされました。これらの壕の容量はまったく空想的なほどでした。焼却棟Wが一日で焼却できるのは1000名ほどですが、壕を使うシステムでは同じ数を1時間で処理することができたのです。
Q:一日の仕事を詳しく話していただけませんか。
A:朝11時に、政治部長がオートバイに乗って、いつものように、新しい移送者が到着したと話します。すでにお話した壕が用意されていなくてはなりませんでした。壕は空ではなくてはなりませんでした。木がくべられ、すぐに焼却できるように、石油がまかれました。12時ごろ、800−1000名ほどの移送者が到着します。彼らは、焼却棟の庭で服を脱がねばならず、そのあとで、入浴と熱いコーヒーが約束されました。自分のものを一方の側に、貴重品をもう一方の側に置くように命令されました。それから、彼らは大きなホールに入り、ガスが来るまで、待機するようにと命じられました。5分が10分後にガスが到着します。それが赤十字の救急車によって運ばれてくるのは、医師や、赤十字の理想に対するひどい侮辱でした。それからドアが開けられ、人々はガス室の中に押し込められました。ガス室は、非常に背が低く、天井が頭の上に落ちてきそうでした。棒で殴られながら、囚人たちは中に押し込められ、そこで待機させられました。このときには、囚人たちは、死へ向かっているのに気が付き、外へ出ようとします。最後に、ドアが閉じられました。叫び声や泣き声が聞こえ、囚人たちはもがきはじめ、壁をたたきました。これが2分ほど続くと、まったくの静寂が訪れます。5分後にドアが開けられましたが、中に入ることはできず、さらに、20分ほど待ちます。それから、特別労務班が仕事をはじめました。ドアが開くと、死体が倒れ落ちます。圧迫されて押し込められていたからです。ぎゅっと押し詰められていたので、引き離すことはほとんど不可能でした。彼らは一生懸命死と闘った様子でした。ガス室には死体が1メートル半の高さにまで詰まっていましたが、それを一度でも目撃すれば、けっして忘れないでしょう。このときに、特別労務班の仕事が始まります。彼らは、まだ暖かく、血にまみれた死体を引きずっていっていかなくてはなりません。しかし、壕に投げ込む前に、床屋と歯医者の手を経なくてはなりませんでした。床屋は髪の毛を切り、歯医者はすべての歯を抜かなくてはならなかったからです。まさに、地獄の光景でした。特別労務班はできるだけ速やかに仕事をしなくてはなりませんでした。彼らは、恐るべきほどの速さで、死体の手をつかんで引きずっていきました。労務班のメンバーはその前までは、人間の顔をしていたのですか、もはや、そのように見えません。悪魔のようでした。サロニカ出身の法務官、ブダペスト出身の電気技師たちはもはや人間ではありませんでした。仕事をしているときにも、棒やゴムの警棒が彼らに降りそそがれたからです。このようなことが進行しているとき、あまりに多すぎてガス室に入れなかった囚人が、壕の前で射殺されました。1時間半ほどたつと、仕事が完了しました。新しい移送者集団は、焼却棟Wのなかで処理されたのです。
Q:この当時ビルケナウの所長は誰でしたか。
A:クラマーでした。焼却棟の近くで何回か見かけました。
Q:SS隊員がいましたか。
A:赤十字の救急車がガスを運んできたとき、クライン博士がいました。彼は助手席から出てきました。これ以外にも、彼のことを目撃しました。
Q:1944年10月7日のことを覚えていますか。
A:はい、特別労務班の500名が、どこかに仕事に行くといわれていたので、その場を離れなくてはならない日でした。しかし、私たちには、彼らが死を迎えに行くことは明白でした。この日に、焼却棟Tの特別労務班から100名が、焼却棟Vからの400名が殺されました。焼却棟Vでは、首のところを撃たれて、次々と殺されました。別の100名は、5列に並ばされて、一人のSS隊員が次々と、首のところを撃ちました。当時、クラマーはこの収容所長で、この殺戮に立ち会っていました。
Q:4人の少女が絞首刑となった事件を覚えていますか。
A:はい、1944年12月、アウシュヴィッツの女性区画でのことです。彼女たちは、焼却棟を爆破する目的で私たちにダイナマイトを手渡した罪状で告発されていました。彼女たちは、「ユニオン」と呼ばれる弾薬工場で働いていました。アウシュヴィッツのラーゲル・フューラーであったヘスラーが、公開絞首刑を命じました。ヘスラーを目撃したわけではありませんが、被告1号(クラマー)を目撃しました。それ以外には、誰も知りません。
(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)
Q:このような実験が行なわれたときのアウシュヴィッツの医師長は誰でしたか。
A:ビルケナウの医師長はメンゲレ博士ですが、収容所全体の医師長はヴィルツ博士でした。彼の階級は、軍医長でした。
Q:メンゲレ博士は、ヴィルツ博士から命令を受けていたのですか。
A:知りません。
Q:あなたもこの実験に参加したのですか。
A:囚人医師はこの実験には参加しませんでした。
Q:特別労務班は誰の指揮下にあったのですか。
A:SS曹長モルです。それ以上の階級の人物はクラマーだけでした。
Q:特別労務班はアウシュヴィッツ政治部の指揮下にあったのですか。
A:はい。
Q:政治部はゲシュタポでしたか。
A:わかりません。特別労務班への命令は、政治部から来ました。
Q:命令は、ビルケナウの所長から来たのではないのですね。
A:私の知っていることは、ビルケナウの政治部から命令が来たことだけです。
Q:1944年10月7日、焼却棟が放火されたというのは嘘ではないのですか。
A:私たちは焼却棟Vに放火しました。500名がこの反乱に参加しました。焼却棟Tでは銃を持っていましたが、錯覚のために、使うことができませんでした。焼却棟Tの人々が焼却棟Vから火が立ち上っているのを見たのが遅すぎたからです。
Q:1944年10月7日の時点で、アウシュヴィッツ全体の所長は誰でしたか。
A:わかりません。
Q:多くの特別労務班員が射殺されたと証言していますが、現場にはSS高級将校がいたのですか。
A:この殺戮現場には、多くのSS隊員がいました。とくに、アウシュヴィッツからは全SS隊員がやってきていました。高級将校の階級のことは知りませんが、主な殺人者は、SS伍長のバロフスキでした。
Q:アウシュヴィッツ所長のSS大尉ベーアは、SS隊員と一緒にいましたか。
A:わかりません。
(弁護人ムンロ少佐の反対尋問)
Q:特別労務班に爆発物を運んだ罪状で絞首刑となった4名の少女もいましたか。
A:はい。
Q:この爆発物は実際に提供されたのですか。
A:わかりません。私が焼却棟についたときには、この女性たちと関係していた人々はすでに殺されていたからです。
Q:この逃亡を企てたとき、爆発物は使われましたか。
A:いいえ。
Q:ドイツ人がこの4名の少女を裁判にかけたかどうかを知っていますか。
A:まったく知りません。
(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)
Q:焼却棟のことは秘密だったのですか。
A:焼却棟自体は秘密ではありませんが、その中で起こっていることについては秘密にしようとされていました。
Q:ガス室送りの一団が到着したとき、一人の医師によって引率されていたのですか。
A:いいえ。前に一人のSS隊員が、後ろに一人のSS隊員がいました。それだけでした。
Q:この集団は普通、トラックで運ばれてきたのですか。
A:色々でした。歩いてきた集団もありますし、病人はトラックで運ばれてきました。トラックはダンプトラックのような構造であったので、運転手は囚人を放り出して楽しんでいました。
Q:鉄道駅からやってきた囚人と違って、アウシュヴィッツ収容所からやってきた囚人は、普通、トラックに乗っていたのですか。
A:はい。
(弁護人コルバリー大尉の反対尋問)
Q:ガス室と焼却棟が稼動し始め、ガス処刑の新しい移送者が到着すると、政治部長が特別労務班のところにやってきて、命令を出したのですか。
A:彼は命令を出しませんでした。移送者の到着を報告しただけです。
(弁護人イェジェヨヴィチ中尉の反対尋問)
Q:アウシュヴィッツ強制収容所では、ガス室から誰かが釈放されたというようなことを聞いたことがありますか。
A:いいえ、そんなことはありえません。
<法務官>:いくつの焼却棟があったのですか。
A:4つです。もう一つ「ブンカー」と呼ばれるものがあり、後に、ガス室となりました。それらすべてはビルケナウにありました。
<法務官>:焼却棟にはいくつのガス室があったのですか。
A:各焼却棟には、二つのガス室がありました。
<法務官>:特別部隊に入ったとき、医師としてどのような職務を果たすべきだと考えましたか。
A:特別労務班員が負傷するときがありました。あるとき、ある男性が働いていたときに、人間の脂肪の中で足にやけどをしました。その脂肪は高熱であったからです。彼に膏薬を与えるのが職務でした。
(検事バックハウス大佐による証人ローマン・ロムポリンスキへの尋問)
A:私は、ポーランドのウッジ出身のユダヤ人で、1939年に逮捕されました。多くの収容所で働き、その後、1943年秋にアウシュヴィッツに移されました。ロシア軍が迫ってきたときに、ベルゼンに移されました。
Q:被告席を見て、知っている人物がいたらあげてください。
A:被告1号クラマー、被告5号ヘスラー、被告30号シュロモイヴィチ、被告32号アントニ(アウルジーグ)、私の親友の被告47号アントン・ポランスキ、被告17号グラ、被告4号クラフト。クラマーはアウシュヴィッツとベルゼンの所長でした。ベルゼン収容所解放の三日前に、友人にスープをあげるために、厨房に行きました。地面に腐ったジャガイモが落ちていました。私たちがそれを拾い上げようとすると、クラマーが拳銃で発砲し始めました。彼は私たちのうち二人を殺し、私も腕に負傷しました。
Q:被告4号(クラフト)について何か知っていますか。
A:数千の死体がベルゼンの地面に横たわっているとき、被告は死体を埋葬地に運ぶ作業班のリーダーでした。彼は殺人者で、ライフルで殴りつけ、発砲しました。彼はブロック9の倉庫の責任者でしたが、この建物の中に隠れ、囚人たちを見張っていました。囚人たちが飢えのために、鉄条網を越えて、かぶを拾おうとすると、これに気づいた彼は、発砲しました。近い距離にいたために、弾は当たりました。
Q:被告5号にはどのように対処しなくてはなりませんでしたか。
A:彼はアウシュヴィッツの焼却棟Tの所長でした。1943年秋、私たちは鉄道駅に到着しました。私と二人の兄弟です。ヘスラーが近づいてきました。私たちは離れないようにくっつきましたが、ヘスラーに、私の兄弟であることを話すと、ヘスラーは私の兄弟を焼却棟に送りました。私の仕事は、ガス室を清掃し、死体を引き出して、ローリーに載せることでした。被告17号グラは、イギリス軍がベルゼンに入る前に、死体を埋葬地に運ぶ作業班の責任者でした。彼が1時間に20名の割合で、ライフルの銃床で囚人を殺すのを目撃しました。病人であり、働くことができないとの理由でした。
Q:被告30号シュロモイヴィチをベルゼンで見かけましたか。
A:彼は、イギリス軍の到着の8日ほど前にベルゼンにやってきました。収容所の解放3日前に、ブロック長が死ぬと、彼が職務を引き継ぎました。彼は囚人でしたので、他の囚人に好意的に接していました。被告32号(アウルツィーグ)はブロック12で私と暮らしていました。当時は、飢えがひどく、人々は衰弱していたので、厨房に出かけて、食料を受け取ることができませんでした。被告と私には少々体力が残っていたので、私たちは厨房に行って、このブロックの囚人のために、食料を運んできました。私たちは、鍋から食料を盗もうとする囚人たちのあいだを懸命にくぐりぬけなくてはなりませんでした。被告47号ポランスキは、解放の7日前に、ハノーヴァーからベルゼンにやってきました。彼は収容所ではいかなるポストも持っていませんでした。彼がやっていたのは、食料の配給を指導することでした。空腹のために、食料を奪おうとする人々が多くいたので、監視していたのです。彼は公平に配給されるように努めていました。
(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)
Q:クラマーが二人の友人を射殺したと証言していますが、いつの話ですか。
A:私自身も怪我をしたときのことです。
Q:証言の5分前にこの話を考え付いたのではありませんか。
A:そんなことはありません。
Q:被告4号(ゲオルグ・クラフト)はベルゼンにいたのですね。
A:はい。第二収容所近くの倉庫です。
Q:彼のことを収容所で始めて見たのはいつのことですか。
A:イギリス軍の到着の数日前です。彼がいつベルゼンにやってきたのか知りませんが、死体を埋葬地に運ぶ作業班を指揮していたのを目撃しました。
(弁護人ムンロ少佐)
Q:二人の兄弟から離れたときに、彼らに何が起こったのかを目撃したのですか。
A:いいえ、ローリーが到着したとき、ヘスラーが選んだ人々は、広場の反対側に向かい、ローリーに載せられて、どこかに去っていきました。
Q:いつ焼却棟で働くようになったのですか。
A:1943年の秋で、はじめてアウシュヴィッツにやってきたときのことです。そこで2ヶ月間働きました。
Q:イギリス人尋問官への供述では、「私の作業班のSS責任者は、SS曹長モルであった」と供述していませんか。
A:以前の作業班から特別労務班に移される前には、モルが責任者でした。
Q:「1945年5月24日に、私の供述がなされましたが、SS曹長モルについて訂正したいと思います。彼が私の作業班の責任者であるといいましたが、それは間違いです。私がアウシュヴィッツで聞いた話では、彼は、私がガス室と焼却棟で働くようになる前に、責任者でした。私がガス室と焼却棟で働いていたときの責任者は、ヘスラーでした。彼は、写真9に移っている1号です。これがこの男だと思います。疑いありません。」この供述をしたのですか。
A:はい。
Q:もし、ヘスラーの身元について疑いがないのならば、なぜモルを所長としたのですか。
A:はじめは、私の所長はヘスラーであったといいましたが、彼の前任者を尋ねられたので、モルであったと話しました。
Q:供述書に署名するとき、読み上げられたのですか。
A:供述を行ない、それが読み上げられ、そして署名しました。
Q:「SS曹長モルとSS中尉シュヴァルツ以外には、アウシュヴィッツのドイツ人スタッフの名前を知りません」と供述していますね。
A:はい。
Q:アウシュヴィッツの焼却棟の所長とかガス室の所長というようなものはないのではありませんか。
A:焼却棟Tの所長はヘスラーでした。
Q:モルは、特別労務班を指揮するSS集団の責任者ではなかったのではないですか。
A:私がやってくる以前には。
Q:ヘスラーは焼却棟やガス室の責任者ではなかったのではないでしょうか。
A:彼は、ガス室に到着したとき、すべての囚人を引き連れ、高官に引き渡した人物でした。
(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)
Q:ガス室送りの集団が到着したとき、それを引き連れていたのは、タウバー博士のようなSSの医師でしたか。
A:はい。
Q:ベルゼンで食料が配給されるときには、囚人たちが争っていたので、公平な分け前を手に入れさせるためには、力ずくで囚人たちを押さえなくてはならなかったのですね。
A:そうであったこともあります。
Q:各ブロックには、囚人を監督するための、監視員、長などごく少数の人々がいたのですね。
Q:彼らが囚人を監督するために、棒を使うのには理由があったのですね。
A:いいえ。
(弁護人ブラウン少佐の反対尋問)
Q:被告席の離れた二人について、「彼は、死体を埋葬地に運ぶ作業班の指揮をしていました」と証言していますが、何を意味しているのですか。
A:この仕事をできるだけ早くすますように、囚人を監督していたということです。
Q:あなたの知っている人物の一人、被告17号(グラ)が、そのような仕事をしていたということですね。
A:はい。
Q:この職務を果たしていたとき、彼はどこにいたのですか。
A:第二区画のブロックから埋葬地を行ったりきたりしていました。私は自分のブロックから彼を見ました。
Q:あなたのブロックは、死体が引きだされる場所の近くだったのですか。
A:はい。
Q:埋葬地を見ることができましたか。
A:始めてみたのは、イギリス軍が収容所にやってきた日のことです。私は被告が作業班を指揮しているのを目撃しました。
Q:この人物は、証言にある3日間にはベルゼンにいなかったのではないですか。ですから、身元確認を間違ったのではないですか。
A:彼を目撃したのですから、そんなことはありえません。
(弁護人ニーヴェ大尉の反対尋問)
Q:被告30号(シュロモイヴィツ)を知っていますね。アウシュヴィッツで彼のことを見かけていたのは、どのくらいの期間でしたか。
A:1年です。
Q:彼がブロック長に任命されたとき、ブロック12の囚人全員を整列させて、演説しましたか。
A:いいえ。
(弁護人フィリップス大尉の反対尋問)
Q:イギリス人尋問官に供述したとき、写真を見せられましたか。
A:はい、10枚。1枚の写真には5−6名が写っていました。アウシュヴィッツかベルゼンにいた人物を知らないかと尋ねられました。
Q:何かを話したのですか、これらの人物に有利な話をするように求められたのですか。
A:はい。
(弁護人イェジェヨヴィチ中尉の反対尋問)
Q:被告47号(ポランスキ)をアウシュヴィッツで知っていましたか。
A:いいえ。
Q:ベルゼンでは、彼はブロック12でスープを運搬・配給していたのですね。
A:はい、彼は数千の命を救いました。
Q:彼が、棒やゴムの警棒を手にしていたのを目撃したことがありますか。
A:いいえ、一度もありません。
Q:死体の搬出が始まったのは、点呼の前ですか、後ですか。
A:このときには、朝の点呼は行なわれませんでした。7時の作業を始め、全員がこの仕事に取り掛かりました。
Q:アウシュヴィッツの外側の区画を取り囲む鉄条網には、夜も昼も電気が流されていたのですか。それとも夜だけでしたか。
A:日中には、囚人は収容所にはいなかったので、電気は流されていませんでした。囚人が仕事から戻ってきている夜には、鉄条網に電気が流されました。
(検事バックハウス大佐の再尋問)
Q:なぜ、ヘスラーがあなたのいた焼却棟の所長であったと考えているのですか。
A:彼は、死刑を宣告されている移送者を焼却棟に連れてきていたからです。焼却棟Tは、ジプシー収容所からも、収容所Cからも見えるような場所にありました。
<法務官>:アウシュヴィッツでチフスにかかりましたか。
A:焼却棟で働くようになってから2ヵ月後に。
<法務官>:ベルゼンには4ヶ月ほどいたのですね。そのとき、あなたはあなたのいた建物では、一番強壮な人間でしたか。
A:ほかの囚人と同じような状態でした。
<法務官>:スープを取りに行って、格闘しながら戻ってきたと証言しましたね。
A:格闘したとは証言していません。厨房からブロックに戻る途中では、数千の囚人がなべを持った人物に襲いかかるという事件がたびたび生じていたと証言しただけです。自分の友人のために、食料を運びたかったのです。
<法務官>:ですから、一番強壮だったのですね。
A:いいえ、事態を監視して、他のブロックの囚人から私たちの鍋が奪われないようにしただけです。
アニタ・ラスカー、ゲリア・ツィルベルドゥカテンが宣誓のうえ、囚人たちの身元を確認し、告発を行なった。