12日―1945929日土曜日

 

 エステラ・グーテルマンは宣誓のうえ、コッパーによる虐待を証言した。コッパーは、グーテルマンが40歳にもかかわらず、整列していたときに、ずっとひざまずかせた。

 

 パウラ・ジンガーとルチェラ・コッペルもコッパーを告発する証言をした。

 

(検事バックハウス大佐による証人ヘレン・クラインへの尋問)

 

A:私はポーランドのタルノフ出身のユダヤ人女性で、194212月、18歳のときに逮捕されました。最初、労働収容所に送られ、その後、194311月にアウシュヴィッツに送られました。鉄道の駅で、選別が行なわれ、1200名の女性のうち、残されたのは407名だけで、残りはガス室に送られました。アウシュヴィッツのビルケナウでは、刺青を入れられた後に、検疫のためにブロック1に収容され、それから、チフスにかかっていたので、病院に送られました。多くの選別に立ち会いましたが、そのあと、人々はガス室に送られました。またアウシュヴィッツでは、多くの人々が殴られるのを目撃しました。5時前に起床しましたが、食事はスープと、4分の1ローフのパンで、1週間に2度、マーガリンとソーセージがつきました。私はジャガイモ倉庫で働いていました。その後、ベルゼンに移送され、ブロック199で生活していました。そこでは、夜の看守ヨハネ・シュミットが自分の手に持っているものであれば、どのようなものであっても、それを使って人々を殴りました。

Q:被告席の中で、知っている人物がいますか。

A:被告1号クラマー、被告2号クライン、被告3号ヴァインガルトナー、被告5号ヘスラー、被告8号エーレルト、被告9号グレーゼ、被告41号ザウアー、被告43号ローテ、被告44号ヘムペル、被告46号コッパーです。

Q:二つの収容所でのクラマーの振る舞いを直接目撃したことがありますか。

A:いいえ、しかし、彼がどのような類の所長であったのか、彼の振る舞いがどのようにおそらしいものであったのかを知っています。

Q:ヴァインガルトナーを知っていますね。彼について何か知っていますか。

A:彼は、私たちがゲートを通るとき、よくそこに立っていて、殴っていました。厨房の作業班に多くの人々がいたとき、彼は、カポーのリディア・スンシャインを殴ったのを目撃しました。彼女はひどく殴られたので、病気になりました。彼は同じときに、あらゆる人々を殴りました。ベルゼンでのことでした。

Q:知っている人物について話してください。

A:クラインは、ヘスラーたちと共同して、選別を行なっていました。私は、19441月に行なわれた選別に立会い、ガス室送りに選別されましたが、ヘスラーが私の番号を書きとめる前に、うまく隠れることに成功しました。私は彼に近づいて、仕事を続けさせてくれるように頼みましたが、彼は、「おまえは十分に生きた、わが子よ、来なさい、来なさい」といいました。3日後、選別のあいだに番号を書きとめられた人々が呼び出され、全員がガス室に送られました。1月のことで、凍りつくような雨の日でしたが、彼らは裸にならなくてはなりませんでした。チフスにかかって病気のために、引きずられていった人もいました。被告8号(エーレルト)は、ゲートのところに立って、人々を殴っていました。彼女はベルゼン収容所では最悪の人物で、女性監視員長でした。イルマ・グレーゼが殴っているのを目撃したことがありますが、それとは別に、彼女はベルゼンでは私たちとスポーツのようなものを行なっていました。何時間も、「座れ」、「立て」を続け、さまざまな拷問が行なわれました。このスポーツには特別な場所が選ばれました。ブロック長が行なったことも、被告が行なったこともあります。誰かが止まると、彼女はいつも携帯している乗馬鞭で殴りつけました。被告41号(ザウアー)は、ベルゼンの第二厨房の監視員で、囚人たちが腐ったかぶを手に入れようとして近づいてきたときに、殴っていました。

Q:被告43号(ロート)は悪名高い夜の看守であったと証言しましたね。

A:はい。私は彼女のことをヨハネ・シュミットと呼んでいました。彼女は、ほうきや棒など、使えるものなら何でも使って殴っていました。囚人たちは、仕事に出かけるために3時におきなくてはならないとか、夜の便所に行く病人がいるとか、床の上に身を横たえて、すすり泣いたり、叫んでいる人々がいるとの理由でした。フリードマンという名の病気の女囚が、この夜の看守に殴られ、翌日死にました。

Q:被告44号(ヘムペル)を知っていますね。

A:私の考えでは、彼女はベルゼン全体で、最悪の監視員でした。彼女は第二厨房にいました。厨房でおそらしいやり方で囚人を虐待していました。自分の部屋に、囚人を殴るための乗馬鞭を持っていました。誰かが少しでもサボったりすれば、たとえば、どこかを見ていたり、口に食べ物を入れていたりすれば、彼女はその口から食べ物を取り出して、犠牲者を殴り始めました。被告46号(コッパー)は、囚人を告発する女性密告者で、ブロック長でした。

 

(弁護人ムンロ少佐の反対尋問)

 

Q:アウシュヴィッツからベルゼンに送られたときの健康状態はどうでしたか。

A:普通でした。健康でした。

Q:選別整列のときに、あなたの番号は書きとめられたのですか。

A:いいえ。

Q:逃亡したとおっしゃいましたね。ヘスラーは、そのあとあなたを見て、あなたのことがわからなかったのですか。

A:はい、彼の目を避けようとしました。

Q:ヘスラーとあなたとの会話なるものはまったくの作り話ではないでしょうか。

A:証言し、宣誓したことに責任を負っています。

 

(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)

 

Q:検事側の証人たちがクラマーの悪行について話している内容を耳にしたことがありますか。

A:いいえ。

Q:彼らはイルマ・グレーゼのことを話しましたか。

A:私自身が経験したのですから、誰かに話してもらう必要はありません。

Q:このスポーツとはどのようなものでしたか。

A:座って、たって、はってということで、速度がどんどん速くなっていきました。私たちは行進させられて、同じことを5回やらされ、グレーゼは先頭に立って、命令を出していました。

Q:グレーゼはさまざまな拷問をあなたに加えたと証言しましたね。その話は、意図的な誇張ではないですか。

A:私の証言は、私自身が目撃・経験したことにだけもとづいています。彼女はいつも私たちを殴っていました。

Q:グレーゼは乗馬鞭を持っていたと証言しましたね。アウシュヴィッツでのことですか、ベルゼンでのことですか。

A:おもにベルゼンで、彼女は鞭で殴っていましたが、アウシュヴィッツでもそうでした。

Q:彼女はベルゼンでは拳銃を携帯していましたか。

A:正確には覚えていません。アウシュヴィッツで携帯していたのか、ベルゼンで携帯していたのかいえませんが、拳銃を携帯していたことがあったのを覚えています。

Q:アウシュヴィッツでは拳銃を持ち、棒か鞭を持っていましたが、ベルゼンではどちらも持っていなかったのではないでしょうか。

A:私たちが作業班から戻るときは、彼女が自分のスポーツをやらせるために選んだときでしたが、そのとき、彼女はいつも乗馬鞭を持って、待ち構えていました。これはベルゼンのことでした。

Q:グレーゼは解放前、ベルゼンにどのくらいいましたか。

A:解放前1ヶ月だと思いますが、もっと前からいたのかもしれません。私自身が彼女に殴られたのは1回だけでした。それはスポーツの最中でした。

 

(弁護人ボイド大尉の反対尋問)

 

Q:被告41号(ザウアー)が囚人を虐待したのを目撃したと証言しましたね。彼女は手で殴ったのですか。

A:いいえ。乗馬鞭でです。被告44号(ヘムペル)が使っていたのと同じ乗馬鞭です。

Q:第二厨房で毎日働いていたのですか。被告41号はどのくらいそこで働いていたのですか。

A:ほかの監視員を監督しているときには、最後まで働いていました。

Q:彼女が鞭を使っていたと、これ以前には証言していないのはなぜですか。重要ではないと考えていたのですか。

A:記憶しているかぎりでは、何人かの囚人がかぶを手に入れようとして厨房に近づいてきたときに、鞭を使っていました。

 

(弁護人ムンロ大尉の反対尋問)

 

Q:ブロック199にはどれほどの囚人がいたのですか。800-1000名ほどですか。

A:いいえ、もっと少なかったと思いますが、それでも人口過密で、不潔でした。このために、私はそこで寝ることができないようになりました。

Q:ブロックには何名のカポーがいましたか。

A:一人もいませんでした。カポーが暮らすには不潔すぎたからです。

Q:規律の維持のために、ブロック長かラーゲル長がいなかったのですか。

A:一人のブロック長、一人の看守室長、夜の看守がいました。

Q:ブロックの責任者は誰でしたか。

A:フリーダ・フランケルというブロック長です。彼女は規律の維持について、SSに責任を負っていました。

Q:ブロック199では、囚人への食糧配給の責任者は誰でしたか。

A:おもに、厨房長でしたが、夜の看守も関与していました。

Q:(被告43号ヨハネ・ロートを指しながら)、この女性があなたに配給したのですか。

A:はい、ときどき。看守としての夜の職務を果たすために、日中は眠っていました。

Q:夜、ブロックでは明かりがあったのですか。

A:ときには。彼女はもっとうまく殴ろうとして、明かりをつけたことがあったからです。

Q:ブロックではベッドがありましたか。

A:ありましたが、衣服倉庫で働いている友人と寝ていましたので、使ったことがありません。

Q:イダ・フリードマンはどのくらい離れたところで、寝ていたのですか。

A:彼女はブロック199で寝ていたので、別のブロックでした。朝の3時に作業班のために集まったとき、すでに申し上げました事件を目撃しました。彼女はブロックの中で殴られ、翌日、死んでいました。自分自身では、彼女の死を目撃したわけではありません。

Q:志願して、第二厨房で働くようになったのですか。

A:カポーの影響力で、私は仕事を手に入れることができました。重労働でしたが、不幸なことに、誰もがこの仕事を手に入れようとしました。取り立てて多くの食料があったわけではありませんでしたが、収容所よりはましだったからです。