第11日―1945年9月28日金曜日
(検事バックハウス大佐による証人サヴィル・ジョフリー・チャンピオン中佐への尋問)
A:私は21年間最高法院のソリシターをつとめ、ケント州テンターデンのリトル・ホムカムベで暮らしています。また、14年間、Clerk of the Peaceもつとめ、私のQuarter Sessionの起訴状を準備しました。ウールウィッチ守備隊の軍事法廷常任裁判長でもあります。私がベルゼンにやってきたとき、第一戦争犯罪調査ティームがスモールウッド大尉の手から離れ、私たちはその供述書と写真を受け継ぎました。一人の警察将校と5人の警察下士官がメンバーでした。警察隊には、収容所の各地点で写真を撮り、誰か知っている人物はいないか、この人物について知っていることはないのか調査せよとの指示が出されました。多くの人々が署に召喚され、写真を見せられて、私や警察将校が、誰か知っている人物はいないか、この人物について知っていることはないのかと尋問しました。私たちは広く証拠を集め、私は、有利な証拠、不利な証拠をともに調査するように、警察将校に命じました。
Q:人々に見せた写真には、被告の写真も入っていたのですね。
A:仕事を引き継いだばかりのときには、ベルゼンにいたことのあるSS隊員の写真だけでしたが、そのあとで、もっと多くの写真を手に入れました。ベルゼンにいた囚人の写真や、ベルゼンにいたと思われるが、さまざまな刑務所にいた人々の写真です。実際には、その多くの身元がわかりませんでした。さらに、宿舎の寝室でも写真を発見しました。証人を最初に受け入れた警察署では、すべての写真が壁にピン止めされており、モントゴメリー元帥の写真もありました。証人は、この中に知っている人物はいないかと尋問されました。元帥の写真を見て、この人物を知っていると回答したのは、一人だけでした。
Q:供述書を作成する前に、どの証人が信頼できるか、その人物について証言しているのか、はっきりとさせたのですね。
A:はい、できるかぎりのことをしました。警察下士官がメモを取ってきたものについては、それは、警察将校に渡され、警察将校は、証拠としての価値を見極めて、供述書のかたちにまとめました。警察下士官は警察将校の指示を守りました。警察将校が作成した供述書は、まだ宣誓されていないままのかたちで、私のもとに送られ、私は、証人を尋問して、可能な限り、その信憑性を検証しました。一つの難点は、直接証拠と伝聞証拠との相違を証人に理解させることでした。証人たちがこれを理解した場合には、聞いたこととを見たことを区別して供述しました。私自身が。すでに警察将校によって見せられている写真を証人に見せ、供述書の中で告発している人物を確認させました。また、別の証人が供述している事件について、交差尋問することで、その信憑性を検証しました。名前を確認するのは難しいことでした。証人たちは、さまざまな機会で尋問されたとき、さまざまなかたちで、名前をつづったからです。通訳も、さまざまなかたちで名前をつづりました。日付の確認も難しいことでした。大半の証人は、事件がいつ起こったのかについてはあいまいであったからです。証人たちがわかっていたのは、それは夏であったのか、冬であったのかだけだったことも多く、何年であるのかも知りませんでした。ですから、日付については、「それはクリスマスの前だったのか」、「ドイツが特定の国に侵攻する前であったのか、あとであったのか」という尋問がなされました。特定の日付が出されている場合には、それは、証人が何も示唆されずに、出した日付です。
Q:(証人に供述書を手渡しながら)、ジェームズ・ディル-スミス少佐の前で、この供述書を作成したのですね。
A:はい、そうです。この供述書の中で、調査のために使われた写真について触れています。
Q:その供述書につけられた展示証拠13と14に写真番号をつけましたね。
A:はい、正確な番号です。
(展示証拠6というしるしのある写真)
Q:供述書の中の番号つきの写真を検証し、これが正確であるといえますね。
A:これらは、番号のついた写真です。写真35にはある女性が写っていますが、その裏には、鉛筆で修正されています。この方が正しくて、裏にタイプで打たれているのは、正確ではありません。「マルタ・リンケ」という名と「ヘルタ・ボーテ」という名は逆です。ここで今提示されている番号の方が正しいものです。マルタ・リンケは、写真の中の、小さいほうの女性で、4号ですし、ヘルタ・ボーテは、リンケの後ろに立っている背の高い女性です。
Q:写真の中の人物を知っていても、名前がわからなかったときには、供述書では、どのような扱いとなりましたか。
A:証人が名前を知らないときには、私が教えてやり、「写真7の4号の人物を見たことがありますが、今では、それがマルタ・リンケであると教えられました」というような文体となります。多くの供述書では、「写真7の5号の人物を見たことがありますが、今では、それがマルタ・リンケであると教えられました」と述べていますが、そのときの番号が違っていたので、マルタ・リンケという名前をヘルタ・ボーテとすべきです。
Q:アブラハム・グリノヴィエスキの供述書では、この証人は、写真を見て、誰かのことを知っていると供述していますね。
A:はい、ペテル・ヴァインガルトナーです。また、写真Z/4/3の8号をカポーであったと供述しており、「私は彼がエーリヒという名であると知っていましたが、今では、彼のフルネームがエーリヒ・ツォッデルであると教えられました」とあります。
Q:エーリヒ・ツォッデル、起立してください。
(被告エーリヒ・ツォッデルは起立し、法廷は、被告と写真を比較する)
この質問に答えたとき、供述書に触れることもできます。グリノヴィエスキはエーリヒ・ツォッデルについて、あなたにどのようなことを供述したのですか。
A:「写真Z/4/3の8号は、ベルゼン第一収容所のカポー長、ラーゲル長でした。エーリヒという名でした。今では、彼のフルネームがエーリヒ・ツォッデルであると教えられました。1945年4月10日頃、私は、収容所での食料の配布の際に、ツォッデルが私の友人テッスレを殴っているのを目撃しました。テッスレは、食料を配っているカポーから速く自分の食料を手に入れようとして、待っている人々のグループを押しのけようとしました。ツォッデルは、テッスレの頭と胸を拳骨で殴り、長靴で足蹴にしました。テッスレは倒れ、30分ほど倒れていました。非常に苦痛そうでした。私は彼を病院に連れて行き、彼は入院しました。毎日見舞いに行きましたが、1945年4月14日か15日頃、見舞いに行ってみると、看守が彼は死んだといいました。信じられなかったので、テッスレのベッドに行ってみると、死んでいるのを目撃しました」とあります。ベルゼンでの職務も終わりに近づいてきたころ、警察将校が辞職し、私たちのもとには二人の大尉がいました。一人はバリスターで、警察将校と同じ職務を果たしていました。いくつかの供述書については、見たことがありませんが、バリスターであるフォーブ大尉が見ております。写真を写された人々の中には、この書類に含まれていない多くの人々がいます。
Q:有利な証拠も不利な証拠も集めたと証言していますが、弁護側に有利な証拠を受け取ったときには、どうしましたか。
A:被告がカポーのときには、免訴として、釈放しました。SS隊員に関しては、そうではありませんでした。
Q:拘束されている被告はすべてのSS隊員を代表していているのですか。
A:いいえ、多くのSS隊員はここにはいません。
Q:SS隊員がほかの人物からの供述を要求したときには、どうなりますか。
A:SS隊員がほかの人物からの供述を要求したことはありませんが、カポーは多くの人物からの供述を要求したので、捜査しました。要求した人物を見つけたときには、「被告の弁護のための」という表題をつけて供述をとりました。
(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)
Q:供述書にある日付は、その当時としては、手に入れることができる中で、もっとも正確なものだったのですか。
A:はい。証人が信頼でき、いくぶんか疑わしい日付は別として、証人の回想がかなり公平で真実であると判断したときにだけ、供述をとりました。
Q:当時、拘束されていた被告からも供述をとりましたか。
A:ベルゼンで拘束されていたカポー全員から、当時獄中にいたSS隊員から供述をとりました。私の警察将校やその他の将校が、その他の供述をとりました。
Q:クライン博士から供述をとりましたか。
A:記憶しているかぎりでは、とってはいません。私がとった供述には、私の署名があります。
(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)
Q:人物番号をチェックしましたか。
A:SS隊員については、私は、していません。警察将校の一人がチェックしました。私が書いた報告書の中にあやまちがあったので、チェックしなくてはならないと思いました。ベルゼンで拘束されていたカポーについては、私がチェックしましたが、ツェレ刑務所の人物については、私の命令で、警察将校がチェックしました。私は部下の一人から報告書を書きましたが、SS隊員から供述をとるときには、この人物に、写真に写っているのは君なのかどうか尋問しました。
Q:エヴァ・グリカ(書類38頁)の供述書の3頁には、「1943年7月、アウシュヴィッツで、私は死者を埋葬する壕や墓を掘る仕事に従事していました。私の作業班の責任者のカポーは、ローテでした。このとき、ロチラ・グルンヴァルトという名の女性と働いていました・・・」とあり、ロチラ・グルンヴァルトに関する事件について、このパラグラフの5行目に「シャベルを落とした」とあります。ハンカ・ローゼンヴァイクの供述書(書類の126頁)のパラグラフ3には、「1943年7月、私は収容所の外で壕を掘る仕事をしていました。そのとき、シャベルを落としました」とあり、カポーのローテの要請で、彼女に対して犬がけしかけられた事件について述べています。この二つの供述書を読むと、「私は壕を掘る仕事をしていた」、「私はシャベルを落とした」というような文が、おなじカポーについての、異なった人物による二つの供述書に登場しているのを奇妙だと思いませんか。しかも、まったく別の事件についてなのですが。
A:少しも奇妙ではありません。
Q:ソニア・ヴァティニクの供述書(書類169頁)のパラグラフ2には、「1943年夏、アウシュヴィッツにいたとき、私は壕を掘る仕事をしていました」とあり、シャドロフスキと呼ばれる男について、第三の事件、別の事件が書かれています。エヴァ、ハンカ、ソニアという3名の女性が、あなたのもとに同じ日にやってきて、全員がカポーのローテに対する告発を行ない、全員がそろって、3つの異なった事件について、「私が掘っていたとき」と供述し、しかも、そのうちの二つは、事件が起こる直前に、「わたしはシャベルを落としました」と述べているのは奇妙ではないでしょうか。
A:これらの供述書の英文を書いたのはイギリス人であったので、自分ではそれを見ていません。通訳が、証人は壕を掘る仕事をしていたと警察将校に伝えたのでしょうが、証人が文字どおり、「掘る」とか「壕」とか「シャベル」という単語を使ったのかどうかは、わかりません。鋤を持っていたのかもしれませんが、警察将校は、通訳が言ったことを書きとめたのでしょう。また、3名の証人が、一人の人物を告発する証拠を、同じ日に提出したこともまったく奇妙ではありません。それは自然なことなのです。警察将校は写真を示して、「この中の誰かを知っているものはいませんか」と尋ねているので、一人の人物について同じときに、2、3名の証人が登場することがあるのです。この人物は悪名高かったのです。ですから、奇妙なことは何もありません。個々のSS隊員や女性隊員が、誰にも阻まれずに、サディスティックな行ないにふけることのできる作業班では、きわめて多くの残虐な行為が行なわれたという事実にも合致しているのです。この3人の女性が署に直接出頭したのかどうかは知りません。
Q:そのうちの一人ハンカ・ローゼンヴァイクは、自分と二人の友人が供述をどのように作成したのか、昨日証言しています。彼女によると、彼女たちが戸外にいるとき、アウシュヴィッツ出身の人物を見かけ、彼女に向かって何かを叫びました。この女性は彼女たちのことをアウシュヴィッツで虐待しました。そして、彼女たちは、この女性の頬の特徴を覚えていました。その後、彼女たちを尋問したイギリス人は、何が起こったのかを尋ね、アウシュヴィッツについて知っていることを供述するように求めました。ハンカ・ローゼンヴァイクによると、このカポーのローテが犯した虐待行為や犯罪を知っているかどうか尋ねられたという話です。このようなことを考えると、話が似かよっていることに、疑問を感じませんか。
A:いいえ、感じません。特定の人物に対する憤りが、ひとりでに噴出し、同じことを訴える人々が署に殺到していたからです。
Q:これらの囚人とこのカポーは4月15日から6月28日のあいだベルゼンにいました。にもかかわらず、ローテに対する告発はなされていません。奇妙ではないですか。
A:奇妙とは考えません。いくつかのケースでは、時間がかなりたってからでしか、告発できませんでした。病院にいた不運な囚人たちは、死んでいなければ、ゆっくりと退院してきました。退院したとき、彼らは非常に大きなバラックで生活しており、特定の人物が自分の居場所で、腰を低くして横たわっていれば、この人物と出くわすこともなく、数週間過ごすこともありえたのです。
Q:ハンカ・ローゼンヴァイクの供述書の最後のセンテンスには、「この同じ少女が約6ヵ月後にガス室に送られたことを知りました。彼女が病気で働けなかったからです」とあります。この文章を挿入したのは、この少女ヴィデルレツの死がカポーのローテの責任であると示唆することが目的であったのではないでしょうか。
A:証拠の解釈は法廷の権限です。口出しするのは干渉になってしまいます。
Q:6ヵ月後に少女がガス室送りとなったことを殴打のせいであると示唆するのは適切でしょうか。
A:証人が自分の意見を表明するように求められるのは適切ではありません。それは法廷が裁定する問題ですが、私の意見を求めているのでしたら、適切ではないと思います。
Q:通訳のトラウテ・ノイマンとシャルロッテ・ドゥシェネスは、正確で、平均以上だと思いますか。
A:ベルゼン収容所という特別な環境では、平均以上です。ノイマンはロンドンの最高法院の通訳の平均に達しておりますし、ドゥシェネスは優秀です。ノイマンは8ヶ国語を話しますし、もちろん、はるかに、優秀でした。ドゥシェネスも3ヶ国語か4ヶ国語を話し、優秀でした。
Q:供述書に対する宣誓は、翻訳がなされた後に行なわれるように、適切な措置をとってきましたか。
A:はい、与えられた環境の中でできるかぎりのことをしました。別の証人がすでに証言している特定の事件について、偶然触れていないとすれば、意図的な偽証しようとした証人はいなかったと思います。
(弁護人ロバーツ大尉の反対尋問)
Q:通訳のノイマンはハンガリー人でしたか。
A:わかりません。ただし、ハンガリー人に対しては別の通訳を使いましたので、ノイマンはハンガリー人通訳ではなかったのでしょう。
Q:証人がハンガリー人であって、ドイツ語をあまりよく話せないときには、ハンガリー人通訳を使ったのですか。
A:はい。証人が、通訳の知っている言語をまったく理解できないときには。ハンガリー人の多くはドイツ語とポーランド語を話し、多くがひとこともハンガリー語を話せませんでした。
(弁護人コルバリー大尉の反対尋問)
Q:多くの証人が日付についてはあいまいで、さらには年代についてもあいまいであったと証言しましたね。証人が、あなたのもとにやってきて、収容所の解放前1週間以内に起こった虐殺事件について話したときなら、かなり正確な日付を確定することができたのではないでしょうか。
A:彼らは、最後まで時間についても非常にあいまいでしたので、そうではありません。
Q:証人たちに、ある事件が起こった正確な日付を話させる前に、その正確な日付を確定する措置を取ったのですか。
A:はい。証人が何らかの理由で正確な日付を確定していると私たちが判断するのは、証人が、たとえば、1944年5月10日というように、完璧な日付をあげた場合だけです。しかし、それは難しいことでした。彼らは、時間の感覚を失っていたからです。
(弁護人フィリップス大尉の反対尋問)
Q:ベルゼンで仕事を始めたのは何日のことですか。
A:今では、忘れてしまいました。何日であるにせよ、Whit Sundayでした。そして、6月28日まで滞在しました。そのあとでは、デンマークとノルウェー、ベルゼンと交互にすごしました。完全にベルゼンを離れたのは7月28日でした。
Q:信憑性を確かめるために、証人に交差尋問をしましたか。
A:はい、できるかぎり。納得できない証言は、受け入れるのを絶対に拒否しました。真実で公平であろうと思われる供述だけを受け入れました。その当時、法廷が必要とする証拠はそのような性質を持つ供述だけであろうと理解していました。証人を召喚できるということを知っていたとすれば、受け入れることのできない証拠も多く取り上げることができたでしょう。検証するのは法廷なのですから。
Q:供述書を作成することよりも、一般的な審理手順に関心を向けていたのですね。
A:そのとおりですが、それ以上のことに関心を向けていました。部下には指示を出しました。供述書を受け取ると、写真により身元確認を行なって、供述書をチェックし、交差尋問を行なって、被告を告発する供述が公平なものであるかどうか、正確であると信じる理由が十分にあるかどうかをチェックしました。
Q:しかし、宣誓供述がなされたのはあなたの前でであるという事実は、あなたが供述書を用意したということを意味しているのではないですね。
A:はい、多くの場合、警察将校か、司法将校によって作成されました。私自身が作成したのは、3、4です。
Q:法廷に提出された写真は、身元確認のために使われた写真すべてですか。
A:いいえ、今朝提出されたのは、何人かの被告を含んでいる写真だけです。ツェレ刑務所にいた人々の写真もあります。これらの人々の素性を誰も知らないようですので、ベルゼンの関係者であろうと思われる人々を写真に撮らせました。ドイツ国防軍将校の写真に加えて、全体の写真集も提示されましたが、これらの写真もここにはありません。
Q:警察将校が写真を持って収容所を回ったとき、これらの写真集を持っていたのですか、それとも、4人の写っている1枚の写真を持っていたのですか。あるいは、別のものを持っていたのですか。
A:当初は、まちまちでした。平均20名ほどが写っている半ダースの写真を持っているのが普通でした。死亡してしまったとの理由で、これらの人物を告発する証拠収集をやめたとき、あるいは、すでに大量の証拠が集まっているとの理由で、証拠収集をやめた最後のころには、1枚か2枚の写真を持っていました。1枚しか持っていなかったこともありますが、少なくとも4人か、それ以上が写っていました。一人だけを写している写真もあったのですが、その場合には、4名の男性か4名の女性の写真をまとめて持っていき、証拠を手に入れるようにしていました。
Q:写真の中には、事件に関係のない人物の写真も入れるようにしましたか。
A:いくつかの写真がそうでした。ベルゼンからやってきたと信じる理由のまったくない人々の写真であったからです。彼らの身元を確認できる人がいなかったので、ベルゼンからやってきたのではないと考えることができました。いくつかの写真には、制服を着たSS隊員が写っていましたが、それによって、身元確認が容易になったと思います。
Q:関係のない人物の写真を利用するという一般的な規則はなかったのですね。
A:はい。身元確認用の写真には、別の人物が入っているようにしましたし、一人だけが写っている場合には、4名かそれ上の写真をまとめて提示しました。
Q:ドゥシェネスとノイマンという二人の通訳の経歴を知っていますか。
A:はい、二人ともチェコ人でした。ノイマンはユダヤ人女性でした。二人ともかなりの期間収容所に入っており、もちろん、最後にはベルゼンにいました。
Q:供述をとった人々の経歴をたどりましたか。
A:はい。しかし、とても困難でした。いくつかの組織が運営していた収容所の登録簿があり、それを使って、チェックしようとしましたが、うまくいきませんでした。証人によって、名前のつづりはさまざまでした。番号をつけたのですが、それもうまくいきませんでした。毎日、何百名という単位で、収容所から姿を消し、母国に帰っていったからです。
<法務官>:供述書の日付や年代が、法廷証言のそれとは異なっていることが、とくに、ユダヤ人証人の場合に多いことに気づきました。ユダヤ人は、異なったカレンダーの類を使っているのですか。
A:私の知るかぎりでは、使っていないと思います。もし、使っていたとすれば、事態は恐るべきことになりますが、そうではなかったと思います。異なったカレンダーを使っているというようには、考えたことはありません。彼らが1ヶ月とか1年と言った場合、私たちと同じ日付のことを言っていると思っています。ユダヤ人は異なったカレンダーを使っているとは思いません。
<裁判長>:証人の一人は、自分が収容所にいたとき、イェディッシュ語で情報を提供したと証言しています。異なった日付を使っていたのでしょうか。翻訳に際しては、変えられたのでしょうか。
A:日付は非常に当てにならないと感じています。最善を尽くしたのですか、この点ではうまくいきませんでした。
(検事バックハウス大佐による証人リディア・スンシャインへの尋問)
A:私は、ウージ出身のポーランド系ユダヤ人女性で、23歳です。1943年5月にアウシュヴィッツに送られ、1945年1月にベルゼンに移送されました。(証人はそのあと、何人かの被告の身元確認を行なう。)クラマーは、パンを盗もうとしてつかまった何人かのロシア人少女を処罰しました。彼女たちを一日中膝まづかせ、24時間食料を与えませんでした。ヴァインガルトナーは、1944年12月には、ヴィスワ川の作業班のリーダーでした。河川修理のために1000名の少女が働いており、川から砂を運んで、ローリーに積んでいました。私はこの作業班の監視員として、仕事を監督していましたが、囚人たちを寛容に扱ったので、処罰され、最初は、ローリーに積む仕事に、その後、膝まで水に使って、川の近くで働く仕事に従事させられました。ヴァインガルトナーは、囚人を虐待するように、彼らをできるだけ速く働かせるようにと、私に命じました。彼自身も囚人を殴りました。囚人の仕事に満足しないときには、囚人が受け取ることになっている1週間に2回の、半ローフの特別配給を停止しました。仕事場は、収容所から7−8キロも離れており、そこへの道を歩くのは、泥で覆われており、小さな川で隔てられていたので、難儀なことでした。仕事場に着く直前のところに、登るのに難儀な丘があり、特別な看守の犬が、私たちを走り登らせるように、追い立てました。ヴァインガルトナーはこの看守の責任者でした。私たちがこの丘を越えなくてはならなかったとき、ヴァインガルトナーが、病弱な老婆を、棒で追い立てて、丘を下らせたことがありました。大抵、女性は気を失いました。彼が赴任する前には、この作業班は快適な作業班とみなされていましたが、彼が責任者となると、収容所で最悪の作業班となり、毎日、数十の人々が入院しました。ベルゼンでは、彼はブロック・フューラーでした。
Q:ベルゼンではどのような仕事をしていましたか。
A:厨房のカポーでした。イギリス軍がやってくる2週間ほど前、厨房のスタッフが変わり、仕事にありつきたい1000名の志願者が集まりました。ヴァインガルトナーともう一人の人物がカザニツキーを呼んで、群集を整列させ、体罰を与えました。彼らは棒を使って整列させようとし、その場にいた多くの女性を殴りました。うまくいかないと、ヴァインガルトナーが空に向けて発砲しました。そのとき私はドイツ語で言いました。「私は多くの苦難を耐え忍びました。そのあとで、ここでは死にたくないので、作業班にいたくありません。」ヴァンガルトナーは私の声を聞いて、ゴムの警棒で私の頭を15回殴りつけたので、私は気を失いました。私が気がついたとき、彼は、もし私が作業班で働かないならば、労働拒否とみなして、投獄するといいました。私は一日中働きましたが、夜になると、40度の熱が出て、何もできませんでした。自分の部屋に運ばれて、10日間すごしましたが、そのとき、ビムコ博士がやってきて、神経症にかかっていると診断しました。私は別のカポーと交替しました。ヴァインガルトナーは、囚人の待遇にあたっては、きわめて残酷でした。
Q:次に触れているのはヘスラーですね。
A:アウシュヴィッツで彼が選別に参加して、ガス室送りの囚人を選別したことを覚えています。ブロックの外でパジャマを発見したとの理由で、彼の発意で、選別が行なわれたこともあります。彼を見かけると、収容所全体が震え上がりました。ヘスラーは作業班「ユニオン」の責任者でした。そこには、焼却棟を破壊する仕事に従事する6名の少女がおり、爆薬と、ワイアー切断の道具を持っていました。
Q:少女たちは爆薬と切断機を持っていたので捕まったのですか。
A:このようなものを持っていたので捕まったのではありません。企てがどのように露見したのか知りませんが、その後、6名の少女のうち4名が絞首刑となりました。私自身はベルゼンにいたので、それを目撃していません。もし、アウシュヴィッツにいたのであれば、私も絞首刑となったことでしょう。私の友人が、ドイツ人がほかの二人の少女を捜索していたと話してくれました。5番目の少女を見つけることもできませんでしたが、私が6番目であったのです。
Q:あなたの知っているほかの人々について話してくれませんか。
A:ボルマンはアウシュヴィッツにいました。いつも犬を連れており、彼女がやってくると、囚人たちは震え上がりました。フォルケンラートはアウシュヴィッツの小包部にいました。私は、パンを手に入れようと彼女の倉庫によく行っていましたが、何かを盗んだとの理由で、囚人を殴っているのを目撃しました。エーレルトは、作業班が仕事に出かけるときには、ベルゼンのゲートのところにいました。彼女は、スカーフのつけ方が悪いとか、靴ひもの結び方が悪いとかの理由で、囚人を殴りました。多くの場合、手で殴っていました。アウシュヴィッツでのグレーゼについてはほとんど話すことがありませんが、彼女が女性労働監視員であったベルゼンでは、彼女の振る舞いは非常に悪いものでした。私たちの作業班が仕事から戻ってきたとき、一人の少女がポケットからぼろきれを落としました。被告グレーゼは、処罰として、作業班全員を、半時間も、立ったり座らせたりして、走らせました。ベルゼンでのローテについては何も知りませんし、ロバウアーについても、アウシュヴィッツにいたこと以外に知りません。フランツィオーは、私が仕事を習いに働いていたときに、同じ厨房にやってきました。短期間しかいませんでしたが、おそらしくスタッフを殴りました。被告41号(ゲルトルド・ザウアー)は厨房の監視員で、おそらしい人物でした。彼女はよく厨房の少女を殴り、髪の毛をひっぱったりしていました。イギリス軍の到着の1、2日前、一人の少女が一切れの砂糖大根を手に持っていると、ひどく殴りました。被告44号(アンナ・ヘムペル)は、被告41号よりも悪い人物でした。彼女も第二厨房にいて、ゴムの警棒を使っていました。何人かの少女がかぶを手にして、厨房の前で捕まったとき、彼女は自分の部屋に連れて行って、血が出るまで殴りました。ジャンという名のフランス人の事件があります。被告はこの男性に関心を示しましたが、この男性がためらっていたので、さまざまな機会をつかまえて殴りつけ、顔を殴りました。被告46号(コッパー)について知っていることは、収容所の密告者だったということだけです。
(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)
Q:クラマーが立ち会ったすべての選別には、医師もいたというのは本当ですか。
A:はい。私は多くの選別に立ち会いましたが、クラマーは数万の死の責任者です。彼と彼の一味です。
Q:ヴァインガルトナーが作業班「ヴィスワ」の責任者となると、仕事はずっときつくなりましたか。仕事をずっと早くしなくてはなりませんでしたか。
A:はい。ヴァインガルトナーは多くの人を殺したので、殺人者です。私は作業班に数週間いました。
Q:要求された仕事を果たした人々には余分の配給がなされたのですか。
A:誰もが余分な配給を手に入れる資格を持っていましたが、被告は、自分が納得のいかない仕事をしたとみなす女性の数を書きとめたのです。
Q:作業班には何匹の犬が同行していたのですか。
A:7、8匹ぐらいです。
Q:ヴァインガルトナーだけが組織に責任を負っていたのですね。
A:彼は自分の納得のいかない仕事をした人々を処罰していました。それは組織には関係ありません。彼の仕事は作業班を監視することでした。
Q:クラマーが何名かの少女を一日中ひざまづかせたと証言しましたね。それは、まったくの誇張ではないですか。
A:自分の目で目撃したのです。彼女たちは、鉄条網がめぐらされた特別ブロックの中で、ひざまづいていました。
Q:仕事を求めて厨房のまわりに集まった1000名もの群集をコントロールするのは難しかったに違いありませんね。
A:はい。
Q:ヴァインガルトナーはゴムの警棒であなたの頭を殴ったそうですが、ひどい殴り方でしたか。
A:ひどかったので、私は気を失ってしまい、その後、精神的なショックを受けてしまいました。
(弁護人ムンロ少佐の反対尋問)
Q:ガス室送りとなった人々が服を着るのは、異常なことでしたか。
A:いいえ、たびたびあったことです。点呼の整列のときに、何回も、選別が行なわれました。私がアウシュヴィッツにいたときには、さまざまな整列がありました。
Q:(被告7号フォルケンラートを指しながら)、この女性の名前を何とおっしゃいましたか。
A:ヴァインガルトナーといいましたが、非常によく似ている姉妹がいたのを知っています。一人がヴァインガルトナーで、もう一人がフォルケンラートです。
Q:被告8号(エーレルト)が収容所のゲートのところに立っていたのを目撃しましたね。彼女があなたを殴ったことがありますか。
A:はい。整列している数を小さな声で報告すると、何回も手で殴りました。
(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)
Q:アウシュヴィッツの犬は、訓練された警察犬でしたか。
A:そう思います。女性にかみついて、肉を食いちぎっていましたから。
Q:ボルマン以外の女性SS隊員が警察犬を連れているのを目撃したことがありますか。
A:1945年には、多くの女性が犬を連れているのを目撃しましたが、ボルマンがいたときには、1名か2名だけです。
Q:グレーゼがアウシュヴィッツで犬を連れているのを目撃したことがありますか。
A:いいえ。
Q:カポーであったのは、アウシュヴィッツでしたかベルゼンでしたか。
A:ベルゼンだけです。厨房の調理員の一人が私を見つけて、この仕事を私に与えるべきであるといってくれたのです。そうなりたくはなかったのですが、仕方がなかったのです。
(弁護人ブラウン少佐の反対尋問)
Q:この人物、被告18号(フリッツ・マテス)はベルゼンの第二厨房の責任者でしたか。
A:この人物のことは知りません。
(弁護人ボイド大尉の反対尋問)
Q:子供や病人のための特別食は、第二厨房から出されていたのですか。
A:はい。ミルク・スープがありましたが、野菜が特別に提供されたことはありません。
Q:被告41号(ザウアー)は、たまにしか、第二厨房にいなかったのですか。
A:最初は、たまにしかいませんでしたが、後には、恒常的にいるようになりました。
Q:彼女が 少女たちを殴ったと証言していますが、手で殴ったのですか。
A:はい。彼女たちは、かぶやその他の食べ物の残りを手に入れようとしていたからです。
(弁護人ムンロ大尉の反対尋問)
Q:第二厨房では毎日殴打事件があったのですか。
A:はい。
Q:厨房では、通常は300名の志願者が、特別な場合には、1000名の志願者が働いていたのですか。
A:はい。囚人たちは、殴られる危険をおかすよりも、厨房で働くことを選んだのです。そこでならば、収容所よりもひもじくならずにすんだからです。
Q:第二厨房では、殴ったことのない人物は、カポーであるあなただけでしたか。
A:囚人たちは誰も殴りませんでした。
Q:厨房での仕事は、ベルゼンでは非常に安全な仕事でしたか。
A:食料の面では最良の仕事でしたが、それを別にすれば、1日18時間働かなくてはなりませんでした。作業班の仕事よりも安全であったことは確かです。
Q:被告44号(アンナ・ヘムペル)の仕事は何ですか。
A:彼女は、厨房でもっとも重要な監視員でした。彼女は責任者の代理をしていましたが、料理人ではありませんでした。厨房や戸外で人を殴っていましたが、自分の部屋で殴ったのが一番多かったです。二つの窓を持つ小さな部屋でしたが、窓からすべてを見ることができました。さらに、私たちは、少女たちがひどい叫び声をあげているのをよく聞きました。
(検事ムートン-ニール少佐の再尋問)
Q:ベルゼンの男性区画に第二厨房があったかどうか知っていますか。
A:今お話している建物です。女性区画にはいくつかの厨房がありました。
<法務官>:被告席の女性がヴァインガルトナーかフォルケンラートであるのか確信がもてないのですね。そうなんですか。
A:確信がもてません。
<法務官>:アウシュヴィッツのパン倉庫の責任者、ベルゼンのラッポルト・フューレリンが女性であったと証言していますね。それは、ヴァインガルトナーですか、フォルケンラートですか。
A:今被告席にいる女性と同一人物だと思いますが、名前を正確には知りません。彼女たちはよく似ていました。姉妹でした。
(検事バックハウス大佐による証人フリッツ・レオへの尋問)
A:私はドレスデン出身のドイツ人で、医学博士です。最初に逮捕されたのは、1935年5月3日でした。その後、中断することなく、ベルゼン収容所が解放されるまで、拘束されていました。ベルゼンに送られたのは1945年2月7日ですが、チフスにかかっていた3週間を除いて、収容所が解放されるまで、医師として働きました。シュナベル博士は、2月末に、ホルシュトマン博士とクライン博士がやってきたときに、ベルゼンを離れましたが、そのときまでSS医師でした。私は第二男性区画の医師でしたが、私が移送されてきたときの総員は、私たちの移送も含めて、6000名に達していました。
Q:その区画にはどのような医療施設がありましたか。
A:最初の8日間には、何もありませんでした。その後1週間たって、3つの建物を手にいれましたが、それは筆舌に尽くしがたい状態でした。屋根は破れており、あらゆるごみが1メートルほど積もっていました。
Q:SS医師は施設を点検しましたか。
A:2月20日、シュナベル博士が点検しました。彼は恐れおののいてしまい、「私はこれではやっていけない」といいました。私たちが力を尽くしたおかげで、3つの建物はかなりきれいになり、ホルシュトマン博士は、細部の清潔さまで、ひどく心配していました。
Q:クライン博士の態度はどうでしたか。
A:彼は、私たちの仕事にはあまり関心がなかったようです。
Q:どのような医薬品と設備を持っていましたか。
A:最初は、何もありませんでした。2週間後に、少しの医薬品と包帯を手に入れました。小さな木製のベンチの上ですべての手術をしなくてはならず、設備がなかったので、小さな手術しかできませんでした。水を蒸留するための小さなコンロがありました。優秀な外科医は大勢いたのですが、設備がなかったので、たとえば、盲腸炎にかかっても、死ぬしかありませんでした。
Q:銃で負傷した人を病院で見かけましたか。
A:銃で負傷した多くの患者がいました。毎週、少なくとも、3名か4名いました。小さな傷だけが処理できました。絶望のあまり鉄条網をくぐってしまい、撃たれた人々、ジャガイモやかぶを手に入れようとして、厨房に近づいた人々がいました。看守に撃たれて、死んでしまった人々、怪我をした人々を数多く目撃しました。
Q:結核を治療できましたか。
A:結核の治療はできませんでした。病室もなく、患者の隔離もできなかったからです。エックス線装置もなく、必要な食事も提供できませんでした。当初、患者の数は多くなかったのですが、移送集団が到着するたびに、増えていきました。重い結核をわずらっている患者は、少なくとも100名はいたでしょう。
Q:赤痢は治療できましたか。
A:少量の食事だけが配給できただけで、それも、夜、かなり遅く配給されることがしばしばでした。早い時刻に配給できなかったので、翌日まで保存しなくてはなりませんでしたが、そのときには、使いものになりませんでした。赤痢や胃腸病にかかっていた患者は非常に多く、設備も不足していたので、患者たちはその場所で寝ていなくてはならず、その場で苦しみ続けなくてはなりませんでした。
Q:チフスについてはどうでしたか。
A:チフスは、1月初頭には第一男性区画で、2月初頭には第二男性区画で蔓延しました。シラミを介して急速に広がっていきましたが、シラミを駆除するようなもの、すなわち、水も、清潔な衣服も、害虫駆除パウダーもまったくありませんでした。ですから、2月末から、チフスは火のように収容所全体に広がり、その結果、収容所の誰もが感染してしまいました。
Q:収容所での水の供給はどうでしたか。
A:1日に2、3時間、タンクから手に入れることができることもありましたが、何日間も手に入れることができないこともありました。第二区画には、入浴施設はまったくありませんでした。医師や看護婦は、3、4回、入浴することができました。私たちの区画には、倉庫に物資があったにもかかわらず、新しい衣服や下着はまったくありませんでした。
Q:収容所の便所についてはどうでしたか。
A:破滅的でした。いくつかの便所がありましたが、すぐに詰まってしまい、努力したにもかかわらず、それを清掃することはできませんでした。人々は弱っていたので、新しい便所を建てることはできませんでした。衰弱した瀕死の人々は、立っている場所で、身を横たえている場所で排泄していました。彼らは衰弱していたので動くことができず、やがて、収容所全体が便所と化してしまいました。
Q:収容所で死んだ人々はどうなりましたか。
A:最初の週、彼らは数日間そのままで、その後、焼却棟にまで引きずられていって、焼却されました。しかし、まもなく、焼却棟が数多くの死体を処理できなくなってしまうと、野焼きされ始めました。死体は山積みされて、そこで焼かれました。その後、木材が乏しくなってきたので、死体の山を処理することができなくなりました。木材管理局が、焼却目的で木材を使うのを禁止したために、死体はその場所に放置されるようになったとのことです。毎日の死者は1000名を越えたので、毎日、数千の死体が、収容所に放置されたままとなりました。それはおそらしい状況で、死体は気温で緑色となり、膨張し、悪臭を放っていました。その後、死体は石造のブロックに置かれるようになり、イギリス軍による解放直前には、SS隊員は、大きな埋葬地を掘り始めました。
Q:収容所の食料はどうでしたか。
A:最初は、1日に一人あたり半リットルほどのかぶのスープでした。約300グラムのパンも配給されました。しかし、その後、量が少なくなっていき、最後の数週間には、パンはまったく配給されませんでした。このような割り当てでは、生命を維持することはできません。健康な状態でやってきた人々でさえも、数週間たつと、衰えはじめ、衰弱した状態でやってきた人々は数日か数週間で死にました。
Q:ブロック10を覚えていますか。
A:よく覚えています。10年間の収容所生活の中では、最悪のブロックでした。ある日、2000名が南ドイツから移送されてきましたが、輸送中に400名が死亡し、残りの人々も衰弱していたので、歩くのを助けてもらわなくてはなりませんでした。これら1600名は、ブロック10という小さな区画に収容されました。このブロックは、チフスの危険のために、隔離しておかなくてはなりませんでした。小さな石造の部屋で、石の床に身を横たえました。人々は衰弱していたので便所に行くこともできず、石造の部屋のその場で排泄していましたので、この部屋は糞尿や汚物で一杯となり、恐るべき悪臭を放っていましたので、私自身も2分ほどしかそこにいることができませんでした。これらの人々のあいだには、高熱の病人、負傷している者、手や足が凍傷にかかっている者、手術の必要がある者が数多くいました。彼らに対する食料は、収容所の人々に対するものよりも劣悪でしたので、手のうちようのない飢餓状態となりました。人肉食いが始まったのはこのブロックでした。私はこのブロックに呼ばれましたが、肝臓の近くが切断されて、肝臓全体が取り出されてしまっている死体を見せられました。さらに、そのようなケースが5件ほどあったという話です。その後、全体的な飢餓状態が続いたので、人肉食いが第二男性区画全体で蔓延しました。囚人たちは絶望的になっていたので、食料の大鍋の回りに群がり、たがいに争い、押しのけていました。
Q:あなた自身は、何例の人肉食いを目撃しましたか。
A:個人的には、200、300例の人肉食いを目撃しました。囚人たちは、切り取った肉片を、その場で生で食べるか、そのあとで、調理して食べました。ポケットに人肉の切れ端を持っている人々、あとで調理するために、台所の調理道具に入れたままにしてある人々を目撃しました。SS隊員がこのことを知ると、このような囚人を絞首刑にするか、殴り殺してしまうことを命令しました。
Q:囚人に対するSS隊員の態度はどうでしたか。
A:SSの指導者は、収容所の状況をよく知っていたにもかかわらず、数千の囚人を次々と送り込みました。SS上級集団長ポールは、数名の高級将校を率いて、3月に、巡視にやってきました。そこには、クラマーも立ち会いました。彼らは、第二男性区画も含む収容所全体を見て回り、いくつかのブロックにも立ち寄りました。窓から、そのブロックがどのような状態であるのか知ることができたはずです。私の区画では、建物の中には入りませんでしたが、窓から、内部の状況を知ることができたはずです。私の病院の中には入りませんでした。
Q:クラマーがあなたの病院にやってきたことはありますか。
A:いいえ。彼は、私がいた全期間を通じて、収容所長でした。
Q:囚人はどのような場合に整列しなくてはなりませんでしたか。
A:毎朝6時に点呼があり、通常、4−5時間続きました。同じような点呼が午後に行なわれたこともあり、それは、1−2時間続きました。囚人たちはその間立っていなくてはならず、全体的な規則はそんなに厳しくなかったのですが、身体を動かすと殴られました。囚人の大半は衰弱していたので、長時間立っていることができずに、座り込むか、横にならなくてはなりませんでした。点呼のたびごとに、50名か100名が死ぬか、瀕死の状態になりました。長時間の点呼整列のために、囚人たちはどんどん衰弱して行きました。
Q:殴られた後、あなたの病院に行くのが許されたのですか。
A:私の病院にやってきた多くの人々が、血を流しており、頭に大きな負傷をしているか、脳震盪を起こしていました。そのために死んだ人もいました。
Q:ケイト・メイヤーというイギリス人のことを覚えていますか。
A:ベルゼンにやってくる前、ザクセンハウゼンで、彼のことはよく知っています。彼がベルゼンにやってきたのは2月初頭で、3月にチフスにかかり、ブロック18の病院に運ばれてきました。ある日、ホルシュトマン博士が私たちの病院にやってきて、ケイト・メイヤーのベッドはどこかと尋ねました。案内されると、彼は患者をうわべだけ診察しました。そんなことは、以前にはしなかったことです。同じ日の夕方、ケイト・メイヤーはブロック・フューラーのシュトバーの部屋に連れて行かれ、射殺されました。
Q:ベルゼンにはガス室がありましたか。
A:ガス室は準備中でした。ベレネクというチェコ人は、非常に信頼できる善良なカポーでしたが、3月中旬に、SSの建築請負人から、土で覆われ、気密が保たれた地下室を建てるようにとの命令を受けたと話してくれました。ベレネクがこのSS建築請負人に、「この地下室を建てる目的が何であるのかよく知っている」と話すと、SS隊員は彼を見て、「おまえは正しい」といったそうです。ガス室の計画が準備されていたのは、私たち全員に明白なことでした。
(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)
Q:収容所でのクライン博士のポストは何でしたか。
A:収容所医師長か副長でした。ホルシュトマン博士が去ってからは、ただ一人の収容所医師となりました。
Q:クライン博士はSS部隊のための医師であって、囚人の治療にあたったのは、イギリス軍がやってくる前の2、3日間だけであったのではないですか。
A:いいえ、クライン博士はホルシュタイン博士から職務を引き継ぎ、囚人に関与していたことは明らかです。
Q:クライン博士がホルシュタイン博士から職務を引き継いだとき、最初にしたことは何でしたか。
A:倉庫にあった赤十字からの小包を医師と医療スタッフに渡しましたが、患者のためには、何もしませんでした。彼は、看護婦と病院スタッフに対して、医薬品がまったくないので、患者のベッドの近くに座って、家族についての素敵な物語を話してやるようにしなさいと命じました。
Q:クライン博士が医療将校として職務を引き継いだとき、囚人の医師の会合を開きましたか。
A:はい。彼は数日のあいだに自分の職務を果たすように要請されていたに違いありません。彼が、医療面での単独責任を負った最初の日のことでしたが、私はその会合に出席していました。彼は、医師や医療関係者が受け取る配給割り当てを知らせ、収容所では戦闘はないであろうと話しました。患者用の医薬品については何も話しませんでした。
Q:必要なものを要請して、手に入れることができるということについては話さなかったのですか。
A:それについてはわかりきっていました。たびたび要請しましたが、多くのものは手に入れられず、倉庫にあった物資は提供されませんでした。アヘンや下痢止めを要請しましたが、手に入りませんでした。
Q:状況、食糧事情、医療事情は次第に悪化していったのですか、それとも突然そうなったのですか。
A:次第にです。
Q:食糧事情はどうでしたか。
A:まったく不十分でした。生命を維持するには不足していました。当時、1日300グラムのパンが配給されていました。
Q:食糧事情は危機的だったのですね。
A:それを判断できる立場にはありません。知っていることは、同じときに、ハノーヴァー近くの収容所では、かなりの量のパンが配給されていたということだけです。
Q:実際には、パンはハノーヴァーから収容所に配送されていたのではなかったですか。
A:パンはトラックで運ばれてきていましたが、どこからやってきたのかは知りません。
Q:収容所のベッドの状態はどうでしたか。
A:第二男性区画の10分の9の囚人にはベッドはありませんでした。
Q:収容所には害虫駆除設備がありましたか。
A:小さな設備がありましたが、人々がそこに送られることはありませんでした。
Q:SS上級集団長ポールのポストは何でしたか。
A:私の知るかぎりでは、彼は強制収容所監督官でしたが、彼が直接誰に責任を負っているのか、なぜ彼がベルゼンにやってきたのか知りません。彼は、自分の目で見たことから、収容所の状況についてしっかりと把握したに違いありません。
Q:あなたが来る前に、ベルリンのローリング博士がベルゼンを訪問したことを知っていますか。
A:衛生研究所による点検が一度あったことを知っていますが、事態は何も変わりませんでした。
(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)
Q:発砲についてですが、収容所を監視する人々が行なったのですか、組織に責任を持つ内部スタッフが行なったのですか。
A:鉄条網の回りの看守とラーゲル通りのパトロールです。
Q:3月中旬から解放までのあいだ、ベルゼン収容所はかなり人口過密でしたか。
A:はい。
Q:大人数の移送集団には、瀕死の人々が大量にいることが多かったですか。
A:多くの移送集団が毎週到着しました。一般的には、その3分の1が、死んでいるか瀕死の状態でした。
Q:この時期、ベルゼンは病人収容所だったのですか。
A:一般的には、ベルゼンはその他の収容所の中で、病人収容所であると公式にいわれていましたが、病人を治療する初歩的な設備さえもありませんでした。
Q:チフスが蔓延していたと証言されましたね。一般的に、状況は混沌としていて、対処できないものでしたか。
A:全面的に混沌としていました。
Q:人肉食いについて証言されましたね。囚人たちは動物のように振る舞ったのですか。
A:飢えのために、囚人は動物となりました。
Q:最後の一月のベルゼンの状況は、過去十年間の強制収容所生活の中で、最悪であったのですね。
A:ブッヘンヴァルト収容所でも混沌とした状況を経験しましたが、ベルゼンが最悪でした。
Q:点呼が午前3時に行なわれるような収容所にいたことがありますか。
A:ブッヘンヴァルトでは、囚人の起床が午前3時で、点呼は普通6時に始まりました。
Q:ベルゼンで殴られたことがありますか。
A:いいえ、ベルゼンではありませんが、ブッヘンヴァルトではあります。
(弁護人フィリップス大尉の反対尋問)
Q:収容所が解放の時点での様な状況になるのは、どのくらいの期間がかかったと思いますか。
A:男性収容所に関していえば、私の知る限り、最悪の状況となったのは2月でした。女性収容所は、少々異なり、それ以前から、最悪の状況となっていたという話です。
Q:SS女性監視員が2月末にやってきたときの状況は、解放の時点の状況と同じではなかったですか。
A:いいえ、状況は日々悪化していきました。食糧事情も悪化していきました。
(検事バックハウス大佐の再尋問)
Q:SS隊員が状況を改善しようとしたのを目撃したことがありますか。
A:はい、たしかになされたことがありますが、まったく不十分でしたので、ホットプレート上の一滴の水のようなものでした。私たちが提案すると、収容所の医師やラーゲル・フューラーが改善しようとしました。SSの指導者たちは私たちの提案の多くを受け入れませんでした。ホルシュタイン博士も何らかの努力をしましたし、クライン博士も、イギリス軍がやってくる8日ぐらい前、白い腕章をつけていたときに、少しばかり努力しました。
Q:最後の数日間には、収容所の清掃が行なわれましたか。
A:ホルシュタイン博士は精力的に行動しました。彼はイギリス軍がやってくる前に、すべての死体を片付けようとして、時計を手にして、時間を気にしながら、死体をできるだけ速く片付けるように、せかしていました。
<法務官>:ケイト・メイヤーがどのようにしてドイツ軍の手に落ちたのか知っていますか。
A:はい。イギリス人の話では、彼らはノルウェーの沿岸を攻撃した後に、捕虜となったということです。しかし、捕虜収容所ではなく、ザクセンハウゼンの強制収容所に送られました。彼が兵士であったのか、水兵であったのか、民間人であったのか、知りません。
<法務官>:毎日、大量の人々が収容所で死んでいったと証言しましたね。チフスが発生していなかったとすれば、死者のうちどのくらいの割合が生き残ったと思いますか。
A:10分の9の人々はチフスで死んだのではなく、飢えと赤痢その他の胃腸病で死にました。チフスは自体をいっそう悪くしましたが、ほかの要素のほうが重要でした。
<法務官>:チフスの蔓延を予防する適切な措置がとられたならば、実際のチフスの死亡者はどのくらいであったことでしょう。
A:700名です。