第10日―1945年9月27日木曜日
<弁護人クランフィールド少佐>:H.A.スミス大佐が弁護人として追加されるようにとの申し立てを提出します。私たちは、弁護団を補佐する国際法の専門家の必要性をうったえてきましたが、ロンドン大学国際法教授のスミス大佐がこれに応えてくれました。今でも、彼は、弁護団と協議し、文書を精読しております。もし、私たちの申し立てが認められれば、彼も、すべての被告のための立証に加わることでしょう。
<検事バックハウス大佐>:私が明らかにしておきたいことは、スミス大佐が弁護団に加わるとしても、それは弁護人としてであって、国際法教授のスミス教授としてではないということだけです。彼が、前もって定められた特定の権威を持つべきではありません。多くの弁護人が被告を弁護することには反対しませんが、検事団に関する限り、彼が、国際法の権威として、国際法とは何であるのか法廷に教授するということがあってはならないと思います。それは法務官の職務です。弁護人が何らかの法律観を披瀝することについては、まったく反対しませんが、私にはそれに回答する権限があり、そのあとで、問題を裁定するのは法務官であるということです。
<弁護人クランフィールド少佐>:私たちの申し立てが認められれば、スミス大佐は弁護団に加わり、しかるべきときに、私たちが当法廷の初日に確保しており、認められている、罪状に異議を申し立てる権利を行使することでしょう。彼は、以下の点で、すべての被告を弁護することでしょう。私は、これらの点について、法廷と検事団の注意を促しますが、私たちは、それについては、後に詳細に議論いたします。第一点は、戦争犯罪に対する原告・被告の国籍がどれほど重要であるかということです。第二点は、国内法と国際法の衝突ということです。第三点は戦争犯罪を軍人に限定することについてです。
(この提案の検討のために休廷)
<裁判長>:クランフィールド少佐、当法廷はこの問題を協議し、弁護人はこの要請について、まず召喚官の承認を得るという条件で、スミス大佐を、すべての被告の代理となる弁護人とすることを認めます。
(検事バックハウス大佐による証人アブラハム・グリノヴィエスキへの尋問)
A:被告11号(ヒルデ・ロバウアー)は、アウシュヴィッツのラーゲル・カポーで、人々を焼却棟に運ぶのを手伝っていました。彼女は、逃亡や逃げ隠れを防いでいました。グレーゼは収容所Cの収容所指導者でした。彼女のことを毎日目撃しましたが、ハンガリーからの移送者が到着したとき、グレーゼは、病人、健康な者も含めて数千名をガス室に送っていました。彼女はブロックの点検にやってきて、気ままに、自分の気に入らない囚人を棒で殴っていました。拳銃も持っていました。被告48号スタニア(スタロストカ)は、ビルケナウのラーゲル長でした。とくに気がついたことはありませんでしたが、彼女も囚人の膝を殴っていました。
Q:エーリヒと呼ばれていた人物のことを詳しく話していただけませんか。
A:彼は、ベルゼンのラーゲル長で、囚人に対して、非常に悪い振る舞いをしていました。友人がスープを待って列に並んでいると、大勢であったので、スープがこぼれました。被告はこの友人に近づいて、手で殴り始めました。そのあと、棒で殴り、犠牲者が倒れると、足のあいだを3回、足蹴にしました。私はもう一人の人物と一緒に、彼を病院に運びました。彼は2、3週間入院していましたが、解放の1、2日後に死にました。
(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)
Q:1943年10月か11月に、アウシュヴィッツでクラマーから25回殴られたのですね。クラマーがアウシュヴィッツにやってきたのは、この日付から5ヵ月後のことではないでしょうか。
A:いいえ、そんなことはありません。
Q:ベルゼンでのイギリス尋問官への供述では、この苦痛に満ちた事件には触れていないのですか。
A:SS隊員の写真だけを見せられて、このうちの誰かを告発できるがどうか尋ねられただけだったからです。
Q:証人の弟が禁制品を持っていることを発見されたのは2回ですか。
A:はい。
Q:ヴァインガルトナーがあなたの弟を殴るのを実際に目撃したのですか。
A:いいえ、しかし、彼が殴ったことを知っていました。彼が、部屋に入って、私の弟のところに行くのを目撃したからです。彼以外には、部屋にいたのは、ブロック長の女性だけでしたが、ヴァインガルトナーは、部屋から立ち去るように彼女に命じました。女性区画から、弟のブロックまでは500メートルほどでした。彼は歩くことはできませんでした。
(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)
Q:選別整列に立ち会っていましたか。
A:いつも、立ち会っていました。
Q:これらの整列はいつも同じように行なわれたのですか。
A:はい。囚人は5列に並ばされました。
Q:SS隊員、カポー、ブロック長、ブロック指導者全員が、囚人の整列を補佐したのですか。
A:SS隊員とラーゲル・カポーだけが立ち会っていました。
Q:整列を命じられたとき、それが、点呼のためであるのか、作業班のためであるのか、ガス室選別のためであるのか、何のためであるのか、明らかにされましたか。
A:何も明らかにされませんでした。整列で選別された人々がガス室に送られたことは明白でした。夜、トラックがやってきて、女性たちは裸のまま載せられ、叫び声、泣き声をあげていましたから。
Q:そのことは整列のあとではまったく明らかであったのに、その前には知らなかったのですね。
A:はい、私たち全員は整列の目的を知っていました。収容所医師がやってきました。そのことが如実の証拠でした。
(弁護人コルバリー大尉の反対尋問)
Q:エーリヒに関する事件がおきたとき、あなたは、友人からどのくらい離れていたのですか。
A:スープを手に入れるための列の近くです。誰もがかなり空腹であったので、できるだけ早くスープを手に入れようとしました。エーリヒは、友人を列から連れ出しました。誰もが速くスープを手に入れようとしていたので、列が前に進みました。
Q:エーリヒが友人を殴るのを目撃することができたのですか。
A:友人から5メートルほど離れたところにいました。エーリヒが拳骨で彼を殴り始めました。そのあと、エーリヒは自分の部屋に向かっていき、中にいた人物に、棒を持ってこさせるように命じました。長さ1メートル以上、腕のような太さの棒でした。
Q:イギリス軍尋問官へのこの事件の供述の中で、「私は、収容所での食料の配布の際に、ツォッデルが私の友人テッスレを殴っているのを目撃しました。テッスレは、食料を配っているカポーから速く自分の食料を手に入れようとして、待っている人々のグループを押しのけようとしました。ツォッデルは、テッスレの頭と胸を拳骨で殴り、長靴で足蹴にしました」と供述しています。この供述書では、ツォッデルもしくはエーリヒが棒を使ったと述べているのですか。
A:供述書が読み上げられたとき、棒という単語が入っていたかどうか知りませんでした。
Q:あなたの友人テッスレは、この事件のあと、14日以内に病院で死んだのですね。
A:はい。殴打事件がいつ起こったのかは覚えていませんが、収容所の解放の1ヶ月以内のことでした。
Q:供述書では、この事件が起こったのは4月10日であったと述べていますが。供述書が朗読されたとき、書き留められた日付は、イェディッシュ語で繰り返されたのですか。
A:覚えていません。チフスにかかっていました。
Q:チフスのために、供述書に書いたことを覚えていないというのですか。
A:すべて覚えていますが、詳細にではありません。
Q:エーリヒはあなたの友人を殴らなかったのではないですか。
A:ありえないことです。彼のことを非常によく知っています。彼が殴ったのです。自分の目で目撃しました。彼だけではなく、数百の囚人を殴りました。
Q:供述書はどのように作成されたのですか。
A:イェディッシュ語の通訳を介して作られた古い供述書です。最初に、写真が見せられました。供述書を作成する機会が与えられることを前もって知っていました。
(弁護人イェジェヨヴィツ中尉の反対尋問)
Q:あなたの弟は、女囚のために、どのような食料を手に入れていたのですか。
A:パン、タバコ、マーガリン、ソーセージです。弟は、女性収容所にやってきた収容所外の民間人からパン、マーガリン、ソーセージを手に入れました。SS隊員が厨房の責任者でしたので、弟は収容所の中では、これらの物資を手に入れることはできませんでした。
(検事バックハウス大佐の再尋問)
Q:クラマーがあなたを殴ったとき、彼は収容所にはいなかったという話がありますが、あなたを殴ったのはクラマーであることに間違いありませんか。
A:それについてよく知っています。私の弟が殴られたときも、彼は所長でした。
<法務官>:この男エーリヒがあなたの友人を、収容所解放前1ヶ月以内に殴ったとき、エーリヒの職務は何でしたか。
A:彼はベルゼン収容所のラーゲル長であり、朝、囚人たちを作業班の仕事に送り出していました。
<法務官>:エーリヒはSS隊員でしたか。
A:私の知る限り、彼はSS隊員ではありませんでした。彼は殺人者でした。
(ハンカ・ローゼンヴァイクは宣誓の上、ローテが自分のことをイルマ・グレーゼに密告し、グレーゼは犬を彼女にけしかけたと証言した。
弁護人クランフィールド少佐が彼女の供述の信憑性について反対尋問を行ない、ビアレクとリトヴィンスカの供述とまったく矛盾していると指摘した。証人ローゼンヴァイクは、ハシュケが女性を持ち上げて、貯水槽に投げ込み、この女性がおぼれたのを目撃したと証言した。
弁護人フィリップス大尉は、この告発は供述書にはないと述べた。)