9日―1945926日水曜日

 

<弁護人クランフィールド少佐>:申し立てを提出したいと思います。ここで、弁護側反証を中断して、検事側の役人を尋問します。その証人とは、法務官総局のスモールウッド少佐であり、数多くの供述書を報告書にまとめた人物です。

 

弁護側反証

 

(弁護人ウィンウッド少佐によるジョフリー・アーサー・ジョン・スモールウッド少佐への尋問)

 

A:今年の4月、私は法務官総局のスタッフとなり、ベルゼンでの虐殺行為とされる事件の調査チームの責任者となりました。私たちが到着したとき、決まった計画はありませんでした。すでに軍政府が調査を行なっており、供述が行なわれていましたが、宣誓供述書はまったくありませんでした。何人かの通訳を雇いましたが、そのなかでは、二人の囚人、すなわち、トラウテ・ノイマンとシャルロッテ・ドゥシェネスという名のユダヤ系チェコ人女性が優秀でした。一人は4年間、もう一人は5年間、アウシュヴィッツとベルゼンを含むさまざまな収容所に収容されていましたが、ベルゼンにやってきたのは解放の10日前であり、おそらしい恐怖を免れていたので、健康状態は良好でした。数千の人々がおり、何から始めてよいかわかりませんでした。私たちは、証言してくれるような資格のある彼女たちの友人のもとに行きました。軍政府の助けを借りて、さまざまな国籍の人々と接触しました。やり方は、まず、証人を連れてきて、私たちが望んでいることは、特定の人物が、特定の日付に行なった特定の行為についての証拠であると説明しました。私たちが求めていたのは、特定の虐殺の特定の事例でした。さまざまな証人から多くの供述を手に入れました。私について言えば、そのときには大雑把なメモを取っていました。証人が席をはずしてから、そのメモを普通の供述書の書式にまとめました。そして、証人が戻ってくると、供述書が読み上げられ、翻訳されました。修正が行なわれたこともあります。そのあとで、証人が宣誓して、署名しました。3週間ベルゼンにいました。

 

(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)

 

Q:ほかの人々がとって、証人に渡された供述から作成された供述書は数多かったのですか。

A:そのとおりです。囚人からの訴えに答えるために、S.I.Sの軍曹を数名派遣したからです。

Q:証人は、ほかの人々がとってきた供述から供述書を作成するのにもっぱら従事していたのですか。

A:おおむねそのとおりです。

Q:これらの巡査部長は法的な資格を持っていましたか。

A:技術的には、いいえです。しかし、S.I.Sのスタッフは平時には警察官であり、その多くは刑事でした。

Q:ポーランド語、ドイツ語からの翻訳について、あなたの証言に登場した通訳を完全に利用していたのですね。

A:はい、ポーランド人とチェコ人です。私も数少ないですが、ドイツ語の単語を学ぶようになりました。

Q:被告の弁護のために証言しようとしている人物を探そうとしましたか。

A:いいえ。しかし、証人が写真を見せられたとき、被告に対して好意的な態度を見せた事例が二件ありました。

Q:当時、被告は拘束されており、被告の罪状を証明する証拠を発見することが、あなたの任務でしたね。

A:はい。

Q:見込みのある供述書すべては、あなたが求めていたのが、はっきりと特定できる人物に対する特定の告発であったことを明白に述べていたのですね。

A:はい。

Q:あなたは、裁判所での仕事にあたって、供述書をとるような役人の経験をまったく持っていなかったのではないですか。

A:そのようには申し上げられません。私は20年近く、裁判所で仕事をしてきました。

Q:あなたの後任はゲン大佐ですね。はい、彼はチャンピオン少佐を連れていました。

 

(弁護人ロバーツ大尉の反対尋問)

 

Q:供述書が書かれたのはその場ではなく、尋問では大雑把なメモを取っていて、そこから供述書を作成したのですね。

A:おおむねそのとおりです。ごく初期の段階では、例外があったかもしれません。

 

(弁護人フィールデン大尉の反対尋問)

 

Q:供述書の中に、供述を裏づけるような人物が登場していた場合、そのような裏づけをとろうとしましたか。

A:はい、できる限り。名前が挙がっている人物を発見するために、証人本人や通訳を派遣していました。

 

(弁護人ニーヴェ大尉の反対尋問)

 

Q:被告が自分を告発する供述を耳にするか、もっとあとで、供述書を目にした場合、この被告には弁明の機会が与えられましたか。

A:供述がなされたときに、その場にいた被告は一人もいません。

Q:被告が供述した場合、この供述は、同じようなやり方で、供述書として保存されましたか。

A:そう思います。そのような供述書が法廷に提出されていないとすれば、その所在については知りません。

 

(弁護人フィリップス大尉の反対尋問)

 

Q:写真に関してですが、供述者は最初に写真を見せられたのですか、それとも、最初に供述をして、それから写真を見せられたのですか。

A:最初の5日間には、写真はありませんでした。そのあとで、私は大量の写真を手に入れて、それを供述者に見せ、通訳を介して、「この写真を見て、そのなかに、特定の行為を行なった人物、あるいは、ひとつ以上の特定の行為を行なった人物がいたら、指摘してください」と言いました。私たちは、ツェレ刑務所に収容されていた人々の写真を持っていました。彼らは全員がSS隊員でした。

Q:その中には、無罪と思われる人物、おそらく無罪とみなされる人物が含まれていませんか。

A:いいえ。ベルゼンが解放されたとき、すべてのSS隊員はツェレ刑務所に収容されました。そして、公式の写真家が彼らの写真をとりました。

Q:ということは、あなたが選んだ人物はすべてベルゼンにいたということになるのですね。

A:そう思います。

 

(検事バックハウス大佐の反対尋問)

 

Q:あなたは、裁判所でのご自分の経験、その他の人物の経験を尋ねられましたね。

A:はい。ベル少佐は私よりも長いでしょうし、ゲン大佐はSHAEF調査法廷で仕事をしていますし、第一戦争犯罪調査チームの責任者でした。

QS.I.Sのメンバーは全員が下士官ですか。

A:はい、巡査部長以上でした。

Q:法務官総局にはどのくらい勤めていましたか。

A4年半ほどです。

Q:証人は、C.M.P特別調査局と規則的にかかわっていましたか。

A:調査局は供述を取ることに習熟しており、私は頼っていました。

Q:さまざまな国籍の人々が証言を行なったのですね。

A:大半は、ポーランド人かチェコ人でしたが、あらゆる国籍の人々、すなわち、ギリシア人、ベルギー人、ポーランド人、チェコ人、ドイツ人から供述をとりました。多くの人々がやってきたので、整理が大変だったこともあります。

Q:供述を取るにあたっては、重要だと思われる箇所を残し、重要ではないと思われる箇所を捨てなくてはならなかったのですね。

A:はい、話されたことすべてを採用していたならば、非常に長い時間がかかったことでしょう。S.I.Sは、少なすぎるというよりも、多すぎると考えられる量を採用しようとしていました。

Q:多くの証人が収容所での事件について非常に多くのことを証言しましたが、そこには、供述書には入っていないことも多かったのですね。

A:はい。

Q:証人に日付などを思い出させるのは、かなり困難でしたか。

A:はい。たとえば、クリスマスのようなことが記憶の中にないと、日付を思い出せませんでした。何年のことであったのか思い出させるのも困難でした。

Q:チェコ人の通訳ノイマンはポーランド語を流暢に話しましたか。

A:私の知りかぎりでは、そうです。彼女はポーランド人と同じようにポーランド語を話しているようでした。

Q:供述の中には、必ずしも正確ではない細部が含まれていることがありますか。

A:そうかもしれません。

Q:しかし、実際に起こったこと、身元確認については、供述書を提出する前に、信憑性を確認したとおっしゃるのですね。

A:身元確認については、証人と同時に写真を見て、証人に人物を特定させました。通訳を介してすべての仕事をしなくてはなりませんでしたが、私の知っているかぎり、通訳は優秀でした。フランス語については、私も少々知っていたので、供述をチェックすることができました。通訳はきわめて誠実に仕事をしていたと思います。

Q:言い換えれば、当法廷の通訳のようにですね。

A:はい。法務官としての私が望んでいるのは、ベルゼンの通訳の半分くらいの能力を持った通訳です。

Q:証人が写真中のある人物を指摘したときには、この人物の名前をいつも知っていましたか。

A:いいえ。証人は写真を見せられただけです。もちろん、私たちはこの人物が誰であるのか知っていました。ですから、あとで、名前と番号を確認するようにしていました。洗礼名さえもわかっていたことがあります。

Q:供述をとる仕事には、何名がたずさわっていましたか。

A:はじめは、4人でしたが、後に、8名か9名に増えました。ベルゼンに何名いたかわかりませんが、20000名以上でしたでしょう。

Q:あなたすることができたのは、連れてこられた人物から供述をとることでしたね。

A:はい。通訳はこれらの人物をつれてきました。もちろん、私たちがベルゼンにやってきたときには、供述することもできなかった人々が大量にいました。

 

(弁護人ウィンウッド少佐の再尋問)

 

Q:これらの供述をとったときには、まもなく裁判が行なわれることをご存知でしたね。裁判のために証人を確保するのに、どのような措置をとりましたか。

A:私の知っているかぎり、何もとられませんでした。ベルゼンの状況はきわめて流動的でしたからです。健康な者は分類されて、できるかぎり速やかに、母国に送還されました。

Q:実際には、どのくらいの供述書が作成されましたか。

A:よくわかりませんが、大雑把にいえば、私個人は30ほど作成しました。

Q:供述をとって、供述書にまとめあげるときに、証人に、宣誓の重要性について念を押しましたか。

A:私は証人に、私たちが望んでいるのは真実であると説明し、証人は法廷で証言する準備をしなくてはならないと話しておきました。

 

<法務官>:囚人から供述をとって、英語以外の言語から翻訳されたものを英語で書き留めたことがあったと聞いていますが、そのときには、この供述は宣誓のもとで行なわれたのですか。

A:いいえ。

<法務官>:そのときに、供述書は供述人に対して読み上げられたのですか。

A:そうだったと思いますが、正確には知りません。

<法務官>:それはタイプされた供述書ですか、それとも、大雑把なメモのようなものですか。

A:いつも、警察がノートに供述をとるときのような草稿でした。

<法務官>:この文書はあなたの手元に渡ってきたのですね。

A:はい、私はそれを読んで、重要だと思われる部分を取り出して、司法的な書式にのっとって、供述書のかたちにまとめ上げ、タイプしました。そのあとで、供述人を呼び出すか、自分が会いに行きました。供述書が供述人の前で、読み上げられ、翻訳されました。供述人が内容に同意すれば、署名しました。

<法務官>:どのような種類の宣誓を行なわせましたか。

A:本件にふさわしいかたちに少々修正されてはいますが、通常の証人宣誓です。

 

検察側立証(続き)

 

(検事バックハウス大佐による証人イロナ・シュタインへの尋問)

 

A:私は、ハンガリーのジョンジョス出身のユダヤ人女性で、21歳です。194468日、私はビルケナウ、アウシュヴィッツに送られ、194511日にベルゲン・ベルゼンに移送されるまでそこにいました。

(証人は、何名かの被告が関与した虐待と射殺の詳細を証言した)

 

(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)

 

Q:アウシュヴィッツの厨房で働いていたとき、選別を何回目撃しましたか。

A8月末と9月には非常に多くの選別がありましたので、覚えていません。1日に23回あったこともあります。

Q:(被告3号ヴァインガルトナーを指しながら)、この人物をベルゼンの厨房で目撃したと宣誓できますか。

A:間違えたかもしれません。彼を目撃したのは、アウシュヴィッツのヴィーゼルと呼ばれる作業班においてでした。この人物は、ベルゼンの第二厨房で働いていた被告16号(フランツィオー)と非常に似ています。ベルゼンの被告3号は、点呼を補助していたので、よく知っています。もし、彼が厨房で目撃した人物ではないとすれば、私の告発は彼にはまったく関係ありません。

 

 

(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)

 

Q:あなたは、アウシュヴィッツでの選別整列のときに、女性が逃亡しようとして射殺されたと証言していますが、彼女はハンガリー人でしたか。

A:はい。

Q:グレーゼが自転車でやってきて、別の女性を殴ったと証言していますね。ベルトで殴ったのですか。

A:グレーゼが手に何を持っていたのかわかりませんが、何かを持っていました。しかし、グレーゼがベルトをはずして、それで殴ったことは覚えています。

Q:死体は人の手による担架で運ばれたのですか、それとも、何かの乗り物で運ばれたのですか。

A:人が死ぬことはよくあったのですが、ふつうは毛布に載せられて、引きずられていきました。

Q:証人自身がグレーゼに殴られたことはありますか。

A:仕事場の厨房ではありません。しかし、作業班で働いていたとき、グレーゼは、私が鉄条網越しに誰かに話しかけているのを見て、すぐに私を殴り始めました。

Q:グレーゼが、両収容所で、多くの人々を何回も殴ったのを目撃したのですね。

A:ベルゼンでよりもアウシュヴィッツの方が多かったです。

Q:証人がグレーゼから一回しか殴られたことがないのは、証人の振る舞いがよかったためですか。

A:私は厨房で働いており、グレーゼとは離れていましたので、彼女とあまり接触したことがありません。

Q:軽く鼻を殴られただけで、出血したのですか。

A:そうではありません。軽く殴られるだけで終わるのはまれでした。私には、傷跡はありません。

 

(弁護人ロバーツ大尉の反対尋問)

 

Q:ベルゼンの厨房で働いていたのですか。

A:いいえ、ベルゼンにはいましたが、厨房にはいませんでした。

Q:ベルゼンの厨房の中に入ったことがありますか。

A:厨房に近づいただけで、責任者か監督に殴られることでしょう。運搬作業班であったときには、厨房に行ったことがあります。また、数滴のスープを手に入れようとしたことがあります。

Q:あなたは被告16号(フランツィオー)に対する告発をしていますね。彼はあなたに発砲し始めたのですか。

A:彼は、厨房の周りにいた人々に向かって発砲しました。私は16メートルほど離れていました。友人も同じような距離のところにいました。

Q:その友人は向きを変えて逃げていったのですね。

A:私が考えていたのは、できるだけ速く、この場を立ち去ることだけでした。彼女が逃げたのかどうか見回す余裕はありませんでした。

Q:ということは、何が起こったのか、実際には目撃していないということですね。

A:発砲が始まった瞬間に何が起こったのかについては目撃していませんが、数分後に、友人はブロックに運ばれてきました。発砲が始まったとき、彼女は私と一緒にいたので、誰が彼女を殺したのか、まったく明らかでした。

Q:これらの厨房で働いているSSの調理人は多くはなかったのですね。

A:厨房の責任者は一人だけで、私が知っているのはこの人物です。厨房から出てきて、発砲し始めたのが彼だったことは疑いありません。

Q:この日には、このような事件はほかには起こらなかったと証言していますが、ほかに、二人の少女が撃たれたと証言していますね。これらの少女が撃たれたところを目撃したのですか。

A:自分の目で目撃しました。そんなに離れたところではなく、1012メートルのところにいたからです。厨房にいたのではなく、その近くにいました。

Q:あなたがすでに供述し、宣誓した内容についてお聞きください。最初の発砲について、「私自身が発砲と少女の死を目撃しました」とあります。

A:これについては、私の友人が空の鍋を持って厨房のほうにやってきたときの事件のことをいっているのです。

Q:別の件では、「同じ日、厨房にいたとき、二人の少女が厨房を横切ろうとしたときに、彼が自分の回転式拳銃で彼女たちを撃ったのを目撃しました」とあります。今日の証言と供述書の話が、なぜこんなに食い違っているのですか。

A:今日の証言以外の内容を話すはずがありませんが、ハンガリー人の通訳がいませんでした。非常に控えめにドイツ語で話しました。誤解は翻訳のために違いありません。

 

(弁護人ニーヴェ大尉の反対尋問)

 

Q:ベルゼンではどのような仕事をしていたのですか。

A:一日中テーブルを運ぶというような小さな作業班にだけいました。

Q:被告34号(イダ・フォルシュター)を知っていると証言しましたね。彼女の外見が変わってしまったと証言しましたね。本当に彼女のことを知っているのですか。

A:はい。彼女はベルゼンの第二厨房と第三厨房にいました。私が最後に彼女を目撃したときとくらべると、彼女の外見はかなり変わってしまいました。何回彼女のことを目撃したかわかりませんが、数回であったことは確実です。彼女は、私たちが食料の配給を受ける厨房の監視員でした。

Q:この女性が厨房の前で囚人を殴っているのを目撃したとき、どこに立っていたのですか。

A:厨房の前です。日付を思い出すことはできません。このときの犠牲者が誰であったのかも思い出せません。

Q:厨房の前で何をしていたのですか。

A:ほかの人々と同じように、厨房から食事を運ぶ仕事にありつきたいと思っていました。数滴のスープを手に入れる機会があったからです。これらの女性たちが殴られたのにはまったく理由がありませんでした。彼女たちは何も盗んでいませんでしたし、ただ立っていただけでした。盗んで殴られる理由はありませんでした。厨房に近くにいて、待っているだけで十分でした。

Q:厨房の外にいて、何回も殴られたということになりますね。

A:数滴のスープにありつく仕事を手に入れようとして厨房の前に何回も立っていましたし、厨房の近くで何回も殴られたのです。

Q:この女性はゴムのチューブを持っていたと証言しましたね。いつもこれを使って殴っていたのですか。

A:この事件のときには、ゴムのチューブを使っていましたが、その例外のときに、彼女がゴムのチューブを使って殴っていたかどうかわかりません。もちろん、何かを持っていました。手だけで殴ったことはありません。

 

(弁護人フィリップス大尉の反対尋問)

 

Q:被告39号(イレーネ・ハシュケ)について証言しましたね。確かに、別人と取り違えていないのですね。

A:確かです。最初に見たのがいつであるかは正確に覚えていませんが、イギリス軍が415日にやってくる以前、少なくとも12ヶ月はそこにいました。

Q:彼女はどこで働いていたのですか。

A:ベルゼンの第二厨房と第三厨房です。二つの厨房があり、たがいに面していました。彼女がそのうちの一つで、被告34号(イダ・フォルシュター)がもう一つで働いていました。彼女は監視員で、その仕事は殴ることでした。

Q:被告39号も殴打事件に関与したと証言しましたね。どの殴打事件のことですか。

A:お話している事件は、彼女がもう一人の人物と同じように、厨房から出てきて、ゴムのチューブで殴り始め、誰かが倒れたとき、足蹴を続けたときのことです。私が覚えている最後の事件は、イギリス軍が収容所に入ってきた日のことです。私はジャガイモの皮を手に入れようとして厨房の近くにいました。彼女はいつものように、ゴムのチューブを持って私のほうに向かってきましたが、イギリス軍を見て、立ち止まりました。彼女は何回も私を殴りましたが、私がすばやく逃げたこともあります。ジャガイモの皮やかぶを手に入れようとしたとの理由で、私を殴ったこともありますが、私は近くにいただけで、殴られたのです。

Q:食べ物を手に入れようとして長い時間厨房のまわりにいたのですか。

A:はい。

Q:大量に囚人が一日中同じようなことをしていたのですか。

A:私たちはいつも群れをなしていました。わずかの者だけでそこに行く勇気がなかったからです。

Q:国籍はどちらですか。

A:ハンガリー人です。

 

(弁護人ボイド大尉の反対尋問)

 

Q:ベルゼンではどのブロックで寝ていたのですか。

A119でしたが、ひどく汚れていたので、別のブロック222に寝る場所を見つけようとしました。冷たい廊下で寝る特権を確保するために、その場所を清掃しなくてはなりませんでした。

 

(弁護人イェジェヨヴィツ中尉の反対尋問)

 

Q:アウシュヴィッツのどの女性ラーゲルで被告48号(スタニスラヴァ・スタロストカ)と一緒だったのですか。

A:私は、12月中旬から下旬まで、女性強制収容所と呼ばれた収容所にいました。ここでは、厨房ではなく作業班で働いていました。彼女はラーゲル長であったので、知っていました。

Q:グレーゼと被告48号は、誰かがいなくなったとの理由で、囚人たちを何時間も点呼のあいだ立たせていたと証言しましたね。二人の人物の権限には違いがなかったということですか。

A:いいえ、大きな違いがありました。しかし、被告48号は、自分も囚人であることを忘れていたのです。このときには、被告48号が私たちを裏切って、監視員に密告したので、この日に受けた処罰は彼女の責任であると考えています。

Q:高熱の囚人も点呼に出なくてはならなかったと証言しましたね。囚人が高熱であるどのようにして知ったのですか。

A:自分の経験をお話しています。私と同じブロックにいた少女は、高熱であったので、顔が真っ赤でした。彼女に触れ、脈を取ってみると、40度以上の体温と確信しましたが、それでも、彼女は点呼に出なくてはなりませんでした。この点呼では、非常に多くの囚人が気を失いましたが、水をかけられて、気がつき、また立ち続けなくてはなりませんでした。

Q:被告48号が囚人を強制的に働かせていたと証言しましたね。

A:はい。

Q:囚人には、働きに出るか、病院を経由してガス室に行くかの二つの選択肢しかなかったと証言しましたね。

A:働きに出れば、順調でしたでしょうが、収容所にとどまって、病気と報告されたり、病院へ行った場合には、ガス室という選択肢となったのです。

Q:証人がラーゲル長であったとしますと、病気の囚人を病院に送ることを選択しますか、それとも、労働に送ることを選択しますか。

A:囚人のうち、一定の割合だけが病人であることを許されていたことを知っていましたので、選別にあたっては、病気の囚人にあれこれの仕事を割り振ったことでしょう。私は、公式に割り当てられている仕事を見つけようとしていましたので、それによって、多くの人々のガス室送りを防いだと思います。

Q:囚人たちが、自分たちの食料を24時間確保するための組織を作ることに成功したことがあると証言しましたね。何のことですか。

A:私が知っているのは、ジャガイモやかぶの取引の組織を作り上げる可能性についてだけです。食料が確保されている理由、点呼のときに何時間も立っていなくてはならない理由については、まったく知らされていませんでしたが、収容所にはそのようなうわさが流れていました。

Q:被告48号(スタロストカ)が食料を確保していたということを、やはり噂から知っていたのですか。

A:私が知っているのは、彼女がいつも監視員と一緒にいたこと、一人の少女がかぶを取ろうとしたとき、彼女が「待ちなさい、償わせてやる」と叫んだことだけです。だから、彼女がこの件に責任を負っているに違いないと思っているのです。

 

(検事バックハウス大佐による証人アブラハム・グリノヴィエスキへの尋問)

 

A:私は、ポーランドのプロンスク出身で、1942年に逮捕されて、アウシュヴィッツに送られ、19441112日までそこにとどまり、その後、一、二ヶ所に滞在してから、収容所の解放2ヶ月半ほど前に、ベルゼンにやってきました。

Q:被告席を見て、知っている人物がいれば、あげてください。

A:被告1号クラマー、被告9号グレーゼ、被告11号ヒルデ(ロバウアー)、被告3号ヴァインガルトナー、被告48号スタニスラヴァ(スタロストカ)を知っています。アウシュヴィッツで、194311月ごろ、私が一切れのパンと少量のマーガリンを持っていたとき、クラマーが私をつかまえたことがあります。また、長靴を集めましたが、その件で、25回殴られました。

Q:ヴァインガルトナーについては何か知っていますか。

A:私は、女性強制収容所で2年間、弟と一緒に、庭師として働きました。食料がひどくほしがられていたので、私の弟は、食料と交換して12ルーブルと指輪を受け取り、それを使って、240本のタバコを手に入れました。彼は、このタバコを持っている女性に近づきました。女性ブロックに入ることは許されていなかったのですが、彼がそこに入ったとき、ヴァインガルトナーがブロック・フューラーと一緒にやってきました。ヴァインガルトナーは私の弟を探し出して、タバコ、ルーブル、指輪を発見しました。そして、ブロック・フューラーが部屋を立ち去ると、私の弟を75回殴りました。そして、足蹴にして部屋から追い出したので、私の弟はほとんど立つことができませんでした。私は、少しはなれたところで見守っていました。友人の助けを借りて、弟を彼のブロックに連れ戻し、壁に向かって立たせようとしました。弟は立っていることができず、座らなくてはなりませんでした。弟の話では、弟は椅子にくくりつけられて、ひざが首にくっつくように、頭を下げさせられ、殴られたとのことです。彼は、点呼のときにも立っていることができず、私たちは彼を病院に連れて行きました。あとで、私は病院に出かけて、医者に、弟が回復すれば、報酬を提供することを約束しました。自分の弟の世話をすることは許されませんでした。その後、彼は死にました。

 

(ここで証言は中断する)