8日―1945925日火曜日

 

(弁護人ウィンウッド少佐の証人シャフランへの反対尋問)

 

Q:実際には、何回の選別に立ち会いましたか。

A:非常に多かったので、10回であったか、15回であったか、20回であったか覚えていません。

Q:そのうち、クラマーは何回立ち会っていましたか。

A:ごく少数です。

Q:彼がいたときには、医師も常にいたのですか。

A:はい。

Q:殴打に関与した重要人物が被告席にいますか。

A:はい。クラマーは殴打に関与していましたが、彼は、人々をガス処刑に送るというようなもっと重要な任務についていました。

 

(弁護人ムンロ少佐の反対尋問)

 

Q:ラーゲルのブロック25のことを知っていますか。

A:はい、ガス室送りの人々が待機する場所でした。水なしに数週間も拘束されていました。その後、疥癬にかかった人々のために使われていました。

Q:被告ボルマンの犬が女性にかみついたと証言しましたね。もっと詳しく話してください。

A19434月、ビルケナウのBラーゲルブロック15で起こりました。

Q:(ユアナ・ボルマンを指しながら)、この女性でしたか。

A:はい。彼女は何回も持ち場を変えましたが、この女性でした。その犬は被告と同じくらいの大きさで、黒でした。

Q:犬が女性にかみついたとき、あなたは隊列の中にいたのですか、外にいたのですか。

A:整列していたのは私の作業班ではありませんでしたので、目撃しただけです。

Q:犬は看守の手を離れてしまったのではないですか。

A:自分の目で見たのです。ボルマンはそのことをあとで自慢していました。

Q:犬の飼い主の女性は、かみつくのを止めようとしたのではないですか。

A:犬が服にかみついたとき、この女性は怒って、喉にかみつくようにせかしました。

Q:犬の飼い主の女性がこの件をSS隊員に自慢したと証言しましたね。あなたが耳にしたこの話は、事件の報告ではなかったのですか。

A:死体が横たわっており、彼女は、「私の仕事だ」といって、死体を指し示しました。

Q:女囚が死んだかどうかは、証人の個人的な知識ですか。

A:はい。確かです。死体を運ぶ特別作業班によって担架に載せられていましたから。まだ息があったかもしれませんが、いずれにしても、死者も生者も運ばれていったのです。

 

(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)

 

Q:腕に怪我をしたとき、カポーは何を使って殴ったのですか。

A:細い棒です。殴られて、倒れてしまい、そのあとで、何が起こったのかわかりませんでした。

Q:傷を手当てするために囚人病院に行ったのですか。

A:いいえ。私たちの髪はクリップでとめてあり、服を支給されて、ブロックを見せられたときには夜の11時でした。最初に日に、誰も他人のことなど気にかけていないことを知りました。私は自分のためには何もできませんでした。

Q:病院で医療に従事している囚人は多くはなかったのですか。もしも、証人がそこへなかなかいけなかったとすれば、自分で傷の手当てをしたのですね。

A:最初にアウシュヴィッツに到着したとき、病院の場所を知りませんでしたし、この収容所ではあらゆることがおそらしいことでした。

Q:あなたは、イギリス軍の到着の2週間ほど前に、被告9号グレーゼがベルゼンで少女を殴っているのを目撃したと証言したのを覚えていますか。

A:今でも覚えています。厨房の中でした。グレーゼは厨房所長ではなく、視察のために、ラーゲル長と一緒に来ていました。彼女は、皮製の乗馬鞭でその少女を殴りました。

Q:グレーゼはアウシュヴィッツでは棒や鞭を持っていたことがありますが、ベルゼンではどちらも持っていませんでした。この事件について混同しているのではないですか。

A:彼女はアウシュヴィッツでは拳銃を、ベルゼンでは、乗馬鞭を持って移動していました。彼女は、武器の携帯を許されていた数少ないSS隊員の一人でした。この事件のときに、拳銃を携帯していたかどうかは分かりません。このときまでには、武器の携帯を許されていなかったのかもしれません。

Q:解放後、ドイツ人看守への苦情を受け付ける囚人委員会が設立されたのを覚えていますか。

A:それが委員会であったかどうかは知りませんが、イギリス人の警察から、囚人たちの調査官がやってきていることを知りました。

Q:イギリス軍の下士官や将校のインタビューを受けましたか。彼らが望んでいたのは、全体的な告発というよりも、証人の知っている特定の人物に対する詳しい告発でしたか。

A:何も話されませんでした。彼らが語ったことは、収容所での経験を話さなくてはならないということだけでしたので、よく覚えている人物についてだけ話しました。

Q:最後に、供述書が作成され、それに署名しましたね。どうして、この殴打事件を供述書に記していないのですか。

A:今でも、多くのことを供述書に付け加えることができますし、そのときに話したことすべてが、書き留められているわけではありません。

Q:あなたとして待機しているときに、裁判所の外では、ビムコ博士、リトヴィンスカ、フロムマー、ヨナスその他の検事側証人と一緒にいましたか。

A:私たちはいつも一緒でした。一緒に眠り、一緒に食事を取りました。

 

(弁護人ロバーツ大尉の反対尋問)

 

Q:ベルゼンの厨房で働いていたのはどのくらいの期間ですか。

A126日からイギリス軍の到着までです。

Q:厨房での労働は、みんなが非常に希望していた仕事ではなかったのですか。

A:はい、しかし、朝3時から夜10時まで働かなくてはならなかったので、囚人誰もができる仕事ではありませんでした。当時、収容所ではチフスが蔓延しており、私は新しくやってきた移送者でした。新しい移送者のうちから、何名かの少女がこの仕事に選ばれました。

Q:厨房は二つの区画に分かれていましたか。

A:はい、区画を分けている広場のようなものがあり、30ヤードほど離れていました。私が働いていたのは、ゲートの近くの方でした。

Q:そちらのほうの厨房の責任者のSS隊員はイェンナーと呼ばれていましたか。

A:厨房には女性の監督官がいましたが、名前は知りません。

Q:被告16号(フランツィオー)が、イギリス軍の到着した日に起こった発砲事件に関与していたと証言しましたね。通常は、彼は、メイン・ゲートからもっとも離れていた厨房では働いていなかったのではないですか。

A:私の働いていた区画では、被告16号が監督官で、もうひとつの区画の監督官は別の人物でした。

Q:シュマイザー銃を知っていますか。

A:知りません。ライフル銃や拳銃は知っていますが、そのような銃のことは知りません。彼は、拳銃を携帯していました。

Q:証言にある別の人物も、同じように拳銃で発砲していたのですか。

A:彼は回転式拳銃を使っていました。彼は、森の方向に、人々を追いかけていきました。

Q:被告16号が発砲していたとき、どのくらいの近さにいたのですか。

A:厨房の中でしたので、かなり近くにいました。勇気を出して、何をしているのですかといいましたが、彼は、でかい顔をするなと答えました。当時、私たちはまったく水を飲んでいなかったので、仕事は過酷でした。その瞬間、私は窓から眺めていました。

Q:誰かに発砲しているSS隊員に、何をしているのですかと尋ねることは普通のことですか。

A:いいえ、しかし、その日は引渡しの日でしたので、勇気を出して彼に尋ねたのです。イギリス軍のトラックが到着して、クラマーが姿を現したあとのことでした。

Q:この事件では、50名ほどが殺されたと証言されましたが、どのようにして数えたのですか。

A:仕事を終えて、外に出てみると、厨房の両側の地面の上にあった死体を数えました。イギリス軍は収容所を去って、別の収容所にいき、ハンガリー人部隊が鉄条網をめぐらしました。

Q:あなたが証言・署名した供述書には、「クラマー、ニコラス・イェンナー、カール・フランツィオーがシュマイザー銃で囚人グループに発砲したのを目撃しました。彼らは理由もなく、厨房の窓から発砲し、22名ほどを殺しました」とあります。この事件はあなたの想像の産物にすぎず、全体が嘘のかたまりではないでしょうか。

A:供述書の作成が不正確なのでしょう。誓って申し上げますが、この事件は実際に起こりましたし、クラマーについての誤りは、書き取り方が不正確であったためにすぎません。

 

(弁護人イェジェヨヴィツ中尉の反対尋問)

 

Q:アウシュヴィッツにいたとき、被告46号(ヘレナ・コッパー)が同じ作業班にいたと証言しましたね。それは懲罰作業班でしたか。

A:いいえ。しかし、私たちはアスファルトから軍需物資を作らなくてはならなかったので、最悪の作業班のひとつでした。

Q:被告46号は、あなたがアウシュヴィッツにいた全期間、あなたと一緒だったのですか。

A:いいえ。彼女はいろいろな作業班で働いていました。ドイツ人当局に囚人の振る舞いを密告するためでした。彼女が私たちの作業班を離れたとき、何名かが懲罰作業班送りになりました。

QSS隊員は、ベルゼンの厨房スタッフが寝ている場所の視察をたびたび実施したのですか。

A:はい。スタニアも参加していたことがあります。何を捜索していたのか知りませんが、非合法活動が行なわれていないかどうか知りたかったのでしょう。

Q:あなたは、被告48号(スタニスラヴァ・スタロストカ)が独自で、アウシュヴィッツで選別を行なっていたと証言しており、イギリス人尋問官が書きとめた供述書では、あなたが名前を挙げたアウシュヴィッツ収容所のSS隊員が選別に責任を負っていたと述べています。ということは、選別の面で、被告48号が所長と同じ権限を持っていたというのでしょうか。

A:ガス室に送る権限は、腕章をつけた収容所スタッフ全員が持っていました。囚人はこのような腕章を持っていませんが、ドイツ当局に仕えている囚人だけは持っていました。普通、この権限は、ブロック長、ラーゲル長、カポーに与えられていました。

Q:たとえば疥癬をわずらっている囚人を病院に送るための選別を目撃したことがありますか。

A:それは選別ではありません。整列です。特別な選別は収容所Aのブロック25に送るためのものであり、そこからガス室に送られたのです。

 

(検事バックハウス大佐の再尋問)

 

Q:ボルマンが彼女の犬を女性にけしかけ、この女性が倒れたとき、ボルマンは「これが私の仕事です」とSS隊員に言ったと証言していますね。そのようにいったときの彼女の態度はどうでしたか。

A:自分が行なったことに非常に満足していました。

Q:ベルゼンで供述・署名した供述書では、あなたが強制収容所にいたときに目撃した殴打、発砲、虐待の詳細を記しましたか。

A:収容所にいたときに起こった虐待事件は非常に多かったので、尋問官は、私が供述した内容すべてを書き留めることができませんでした。そうするには、何週間もかかったことでしょう。

Q:グレーゼの振る舞いについて、もっと多くの事例を証言できるとおっしゃいましたね。

A:収容所Aのブロック9では、ブロック長リア、へスラー、刑務所医師エンナ博士がガス室送りの選別を行なっていました。二人の少女が窓から飛び出して、地面に横たわっていたとき、グレーゼが近づいてきて、2回発砲しました。彼女は収容所の門のところでの点検にはいつも積極的で、囚人が他人の靴下や靴その類を履いていたときには、彼女を殴りつけたものです。私は立ち続けていなくてはならなかったので、何を使って殴っていたのか、思い出せません。

Q:日付について多く質問されましたね。アウシュヴィッツやベルゼンではカレンダーを持っていたのですか。

A:いいえ。しかし、非常におそらしい出来事であったので、よく覚えています。

 

(検事バックハウス大佐による証人ヘレン・ハンマーマシュへの尋問)

 

A:私はポーランド生まれのユダヤ人女性で、25歳です。戦前は医学生でしたが、ドイツがポーランドに侵攻したとき、ハンガリーに逃亡しました。1941年、ポーランドに移送され、ゲシュタポに引き渡されました。1942年、ハンガリーに逃亡しましたが、再び逮捕され、1944年にアウシュヴィッツに送られました。列車から降りるとすぐに選別が行なわれ、何名かは乗り物に載せられて、焼却棟に向かいました。私は収容所に送られた少数の者のひとりでした。この最初の選別では、クライン博士、メンゲレ博士、クラマー所長が立ち会っていました。

Q:被告席を見てください。顔を知っている人物がいますか。

(証人は被告席の何人かを指摘する。)

Q:ほかの選別でクラマーかクラインを目撃しましたか。

A:クラマーを見かけたことはありませんが、クラインは見たことがあります。最初の選別では、クラマーが選別して、彼らを乗り物に載せていました。泣き叫ぶと、殴っていました。選別には基準がなく、まったく、気ままで、勝手でした。クラインも選別しました。

Q:アウシュヴィッツでは労働に従事しましたか。

A4週間検疫所のようなところで過ごしたのち、皮革工場で働きました。待遇はひどいものでした。プフォールとオットー・グラーフという監視員がいました。グラーフは私たちを毎日殴り、マリア・ドンブロスカという少女はひどく殴られたので、死んでしまいました。彼はこの少女を足蹴にし、ゴムの警棒で殴りました。彼は何の理由もなく、私たちに服を脱ぐように命じ、ゴムの警棒で殴りました。彼は自分が半日を過ごしている焼却棟について話し、女性の死体は男性の死体よりもよく燃えると話しました。もう一人の監視員プフォールも同じように振舞い、あるときには、フランス人の少女をひどく殴りつけたので、その少女は死んでしまいました。彼女はまる1日倒れており、夕方ごろに死にました。

Q:へスラーはどうでしたか。

A:私たちがベルゼンに移る前、彼はアウシュヴィッツで6名の少女を絞首刑にするように命じました。仕事から戻ってくるときに絞首刑が始まっており、そのうちの4名の処刑を目撃しましたが、2名の処刑は見ていません。仕事から戻ってくると、すぐに点呼が始まり、5列に整列しました。そして処刑が行なわれたのです。へスラーが罪状を読み上げました。よく聞き取れませんでしたが、「ユニオン」工場から物を盗んだということだけがわかりました。

Q:アウシュヴィッツにいたときには病院で働いていたのですか。

A:いいえ、でも、そこに友人がいました。彼らの話では、患者はブドー糖注射を受ける代わりに、ガソリンやクレゾール液を注射されたということです。このような注射をされた人々は数分で死んだという話です。

Q:イギリス軍がベルゼンに到着した後、イギリス人の医師を助けましたか。

A:はい、私たちはひとつのブロックで働き、多くの病人をできるだけ治療しました。私たちは医師たちと一緒にすべての病院をくまなく捜索しました。ある病院で、医薬品の詰まったケースを発見し、それを持ってブロックに戻りました。さまざまな薬剤とビンがありました。「ブドー糖」というラベルのあるビンは封印されていましたが、イギリス人医師の立会いのもとで、開けてみると、ガソリンが詰まっていました。イギリス人医師の命令で、私はこのビンを使って注射しようとしましたが、少量をテーブルの上にたらして、臭いをかぎ、よく見てみると、ガソリンでした。これはアウシュヴィッツでは普通のやり方でしたので、それを使う前には、ガソリンではないことを確かめたものです。アウシュヴィッツではいろいろな実験が行なわれました。病院の看護婦をしていた友人の話では、ブロック10では、人工授精の実験を受けた女性がいたとのことです。犠牲者は、血液循環をよくするために、足を持ち上げられて注射されました。そのあとで、注射をされて、精液を注入されました。しばらくすると、犠牲者はひどく苦しみだし、まもなく死んでしまいました。

Q:いつベルゼンに移されたのですか。

A1月初頭、私たちはアウシュヴィッツからベルゼンに疎開しましたが、その途中で多くの人が死に、ついてこられない人は射殺されました。食べ物もなく、夜も昼も歩き続けました。そして、一歩ごとに、SS隊員に殴られました。8日後、屋根のないトラックに載せられましたが、厳寒であったので、多くの女性が死にました。ベルゼンに着くと、寝巻きだけを持たされて、凍りついた中を追い立てられ、シャワー浴室のために整列しなくてはなりませんでした。軽装のままで、長時間待機していなくてはならず、そのあとで、スープを受け取りました。それから、空いている建物に送られました。毎日、4分の3リットルのスープが配給されるはずでしたが、実際には半リットルだけでした。普通は夕方に配給され、パン屑つきでした。当初はこのパンを毎日受け取りましたが、その後はまったくなくなりました。

Q:ベルゼンでは囚人が殴られたのを目撃しましたか。

A:ある晩、若い女性が殴られているのを目撃しました。クラマー、フォルケンラート、そしてもう一人女性がいました。この若い女性は足蹴にされ、木の棒で殴られました。浴室では、女性看守がゴムの警棒で裸の女性の身体を殴ったのを目撃しました。また、フォルケンラートと二人の女性、そのうちの一人は被告8号(ヘルタ・エーレルト)ですが、彼女たちが、二人のブロック・フューラーの寝ていた小さな建物の中で、少女の服を脱がせて、ひどく殴ったのを目撃しました。

Q:ベルゼンのクラマーについて証言したいことがありますか。

A:ベルゼンに始めてやってきたとき、子供用の建物が建設中であることに気がつきました。この仕事には、ユダヤ人、アーリア系ポーランド人、ロシア人が従事していましたが、クラマーがこれらの人々を殴ったのを目撃しました。このとき、彼は一人のロシア人をブーツでひどく足蹴にしたので、このロシア人は地面に倒れ、二度と起き上がれず、雪の中に横たわったままでした。私は、その後、この場所に50分いましたが、このロシア人が立ち上がることはありませんでした。ですから、彼は死んでしまったと推測しています。

 

(弁護人ウィンウッド少佐の反対尋問)

 

Q:アウシュヴィッツにいたのはどれくらいですか。

A1944年初頭から19451月までです。

Q:選別は、労働適格者と不適格者を分けるために行なわれたのではありませんか。

A:私が知っていることは、選別が行なわれたとすれば、それは人々をガス室送りにするためだったということだけです。

Q:医師が選ばなければ、ガス室送りになった者はいないのではないですか。

A:医師と所長が選びました。実際には選ぶというよりも、できるだけ多くの人々を探し出すというものでした。

Q:そうだとすると、なぜ全員がガス室に送られなかったのですか。

A:何名かが労働に必要であったからです。

Q:証人が始めて到着したとき、選別された人日をトラックに乗せることは難しくありませんでしたか。

A:選別された人々は、自分たちを待ち受けている運命を知っており、逃亡しようとしました。トラックから飛び降りようとしました。ですから、彼らをトラックに乗せるのは難しかったです。

Q:ベルゼンにいたとき、食料や宿泊設備の状況は徐々に悪くなっていったのですか、それとも、突然悪くなったのですか。

A:徐々に悪くなっていきました。3月初頭には、危機的な状況になっていました。

Q:多くの人々が重病で、到着していたときには、多くの人々がすでに死んでいたというのは本当ですか。

A:いいえ、ベルゼンに到着していたときにはまだ生きていました。そのすぐあとに、多くの人々が死にました。

Q:クラマーの目の前で少女が殴られたという事件について、この少女は逃げようとしていたので、収容所に連れ戻されたのではないでしょうか。このことを知らなかったのですか。

A:彼女は、自分は有罪ではない、自分を救うために、逃げたかったと話してくれたことだけを知っています。

Q:彼女が逃亡を試みて、捕まったのだとすれば、処罰するのは所長の権限であるとは思いませんか。

A:彼にそのような権限があるかどうかは知りませんが、何回も殴っていたことを知っています。

Q:「ブドー糖」とかかれたビンを発見して、その中身はガソリンであったと証言しましたが、同じようなビンがどのくらいあったのですか。

A:自分の部屋に持って帰ったビンの中には、一つでした。すべてが封印されていました。私が取り上げたビンは封印されておらず、糸で結ばれていました。

 

(弁護人ムンロ少佐の反対尋問)

 

Q:証言の中にある女性は絞首刑となったのですね。

A:彼女たちを良く見かけていましたが、知り合いではありませんでした。ポーランド出身のユダヤ人女性でした。

Q:彼女たちは盗みの罪で告発されていたと証言しましたね。この犯罪が犯されたことを知っていましたか。

A:まったく知りません。

Q:絞首刑はいつ行なわれたのですか。

A:冬の3月ごろでした。

Q:ベルゼンでは、二つの殴打事件について証言しています。クラマーが立ち会ったケースと、もう一つのケースです。(被告7号エリザベス・フォルケンラートを指しながら)、この女性は誰ですか。

A:彼女は、ベルゼンの監視員長で、ブロック・フューラーの部屋のそばで起こった殴打事件に立ち会っていました。別の殴打事件にも立ち会っていました。ベルゼンでもアウシュヴィッツでもよく見かけました。

Q:彼女には姉妹がいることを知っていますか。

A:知りません。

Q:(被告8号ヘルタ・エーレルトを指しながら)、この女性は事件のときに立ち会っていましたか。

A:私がそこにいるかぎりには、彼女もそこにいました。

Q:証言の中にある別の事件でも、この二人の女性が立ち会っていたとおっしゃるのですね。

A:はい、若い少女が殴られたときには。最初の事件の二日後で、キャンプ長、サービス長が暮らしているブロックで起こりました。ブロック・フューラーの部屋からそんなに遠くないところです。室内で起こりましたが、窓越しに目撃しました。数分間そこにいました。二人が次々と少女を殴ったのを目撃しました。もう一人の人物がいましたが、顔は分かりませんでした。

 

(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)

 

Q:ドイツ語の能力はどれほどですか。

A:普通ですが、流暢というわけではありません。

QSS隊員のグラーフとプフォールがアウシュヴィッツにいたと証言なさっていますが、彼らはドイツ語で話していたのですね。

A:はい、彼らはドイツ語で私に話しかけました。

Q:あなたのドイツ語能力は限られているのに、彼らがドイツ語で行なった会話について、供述書の中で、宣誓証言することができるのですか。

A:ドイツ語を完璧に理解しているわけではありませんが、いつもドイツ語で表現することができます。

Q:プフォールがユダヤ系フランス人女性を殴ったと証言している事件についてですが、この女性は、殴られた当日に死んだと証言しましたね。しかし、宣誓供述書では、この女性は傷のために2週間後に死んだと述べています。二つの宣誓供述・証言の相違をどのように説明しますか。

A:最初の供述書を書いたときには、同じ日にこの女性が死んだと述べました。証言を書き留めた尋問官が誤解したのでしょう。

 

(検事バックハウス大佐の再尋問)

 

Q:証人の供述書を取りまとめたイギリスの尋問官はポーランド語を話しましたか。

A:いいえ。

Q:誰が通訳しましたか。

A:個人的には知りませんが、収容所出身の証人でした。彼女の国籍は知りません。二つの供述を行いました。そのうちの一つに、宣誓して署名しました。二人の別の通訳がいました。