第7日―1945年9月24日月曜日
(検事バックハウス大佐による証人ソフィア・リトヴィンスカへの尋問)
A:私は29歳で、ポーランドのルブリン出身です。ユダヤ人女性であったために、1940年5月19日に逮捕されました。正式な裁判をまったく受けることなく、最初は1年間ルブリンで拘束され、ついでアウシュヴィッツに送られました。その到着したのは、1941年の秋でした。私の夫はユダヤ人ではなく、ポーランド軍中尉でしたが、やはり逮捕されました。収容所につくと、個人所有物はすべて奪われました。服を脱がなくてはならず、シャワー浴室に連れて行かれました。髪が短く切られてしまったので、凍えないために、頭に巻く布を求めたところ、シャワー浴室の責任者であったカポーが私たちをひどく殴り始めました。私たちに与えられた衣服は、長いコートと袖なしのシルクのブラウスでした。すでに、腕には刺青の番号が入れられていました。丸1日間、シャワー浴室のようなところでまる裸ですごしてから、ブロック25に連れて行かれました。このブロックの3箇所にかごのようなものがあり、そのひとつのかごの中で、私が7名か8名で眠りました。8名に1枚の毛布が支給されました。マットレスやわら布団のようなものはまったくありませんでした。起床は朝3時半が普通でした。
Q:起床したときには何が起こりましたか。
A:全員がブロックを出て、点呼を受けなくてはならず、点呼は8時か9時まで続きました。5列を作って立っていなくてはならず、動いたりすると、顔を殴られるか、重い石を抱えてひざまずかされました。最初の6週間は、検疫を受けていたので、まったく働きませんでした。ある日、食料を運んでいたとき、倒れて、足に怪我をしてしまったので、収容所の受け入れセンターに連れて行かれ、1941年のクリスマスには病院にいました。
Q:クリスマスの前日には何が起こりましたか。
A:ブロック4、病院ブロックでは大きな選別がありました。へスラーがこの選別の責任者でしたが、3000名以上のユダヤ人が整列しなくてはなりませんでした。私たちはすばやくベッドを離れ、ほとんど裸で、へスラー、医師たち、エンナ、ケーニヒの視察を受けるために、立っていなくてはなりませんでした。ベッドを離れることができなかった者は番号を奪われましたが、それは死を意味するものでした。体つきの良くない者、やせすぎている者、なんらかの理由で紳士方が嫌っている者も番号を奪われましたが、やはり、それは死を意味していました。私の番号も奪われました。私たちは夜のあいだブロック4にとどめおかれ、翌日、ブロック18に連れて行かれました。夕方の5時半ごろ、トラックがやってきて、私たちは、動物のように裸のままで、積み込まれ、焼却棟に連れて行かれました。
Q:焼却棟についたときには何が起こりましたか。
トラック全体が、ジャガイモや石炭と積んでいるときのように、ぐらぐらと揺れました。私たちは、シャワー浴室のような部屋に連れて行かれました。タオルやシャワー口があり、鏡さえもありました。ひどくおびえていたので、部屋の中に何人いたのかもお話しすることができませんし、ドアが閉じられていたのかどうかもわかりません。人々は涙を浮かべていました。互いに叫びあい、ぶちあっていました。健康な人々、強壮な人々、衰弱した人々、病人がいました。そして、突然、天辺の小さな窓から煙が出てくるのが見えました。ひどく咳き込んで、目からは涙があふれてきました。窒息してしまうのではないかという喉の感覚がしました。誰もが自分のことだけに集中していたので、私はほかの人々を様子を見ることができませんでした。
Q:その次には何が起こりましたか。覚えていますか。
A:このとき、自分の名前が呼ばれました。答える力がなかったので、腕を上げました。そのとき、誰かが私をつかまえて、この部屋から投げ出しました。へスラーが私に毛布をかけ、オートバイに私を乗せて、病院に運んでくれました。そして、そこで6週間すごしました。ガスのために、まだ依然として、頻繁に、頭痛や動悸がしましたが、新鮮な空気のもとに出たときには、目は涙でいっぱいになりました。その後、政治部に連れて行かれ、ガス室から引き出されました。ルブリンの刑務所からの囚人であったことが、取り扱いの相違をもたらし、これとは別に、夫がポーランド軍将校であったことが関係していたのでしょう。
Q:退院した後に、どのように雇われましたか。
A:最初は、ブロック長の部屋の清掃に、洗濯室での洗濯に雇われました。そのあと、便所掃除に雇われました。自分の手を使って、便所にあるすべてのものを清掃しなくてはなりませんでした。ほうきやブラシその他の清掃用具はまったく支給されませんでした。ストーブのそばを身を暖めたり、シャツを洗うこともできたので、良い仕事でした。食事といえば、朝食はコーヒー、昼食は半リットルの野菜スープ、4分の1リットルのこともありましたが、夕食はパンでした。コーヒーがついたこともありました。数日間厨房で働きましたが、その仕事はとてもハードであったので、「カンダ」と呼ばれる作業班に移りました。焼却棟に行ってしまった人々の所有物を整理する仕事でした。この仕事をもらったのは、以前に一緒に働いたことのあるブロック長の働きかけのおかげでした。
Q:その後、ベルゼンに移されたのですね。
A:はい。1944年秋にアウシュヴィッツを去って、いくつかの収容所を経てから、イギリス軍による解放の3ヶ月ほど前に、ベルゼンにやってきました。ベルゼンでの最初の2日間は、病院で働きました。その後、ラーゲル長のスタニスラヴァ・スタロツカ(被告48号)が、男性収容所の第二厨房に連れて行って、そこで数日間働かせました。そのあとで、第一厨房に移りました。そこには、二人のSS隊員、一人の監視員、ヒルデというクリスチャン・ネームを持つユダヤ人カポーがいました。
Q:イギリス軍の到着の直前、厨房が閉鎖されたときのことを覚えていますか。
A:厨房の責任者が、1、2時間、内密の話をすると私たちに言いました。SS隊員全員が会議を開いており、私たちは厨房の前で待機していました。厨房の近くには野菜の残りかすがあり、一人か二人の囚人が1個か2個のジャガイモを取ろうとしていました。このとき、SS隊員が戻ってきて、発砲し始め、多くの囚人が殺されました。
(証人は被告席の何人かを指し示した。)
Q:誰かが殴っているのを目撃したことがありますか。
A:第一厨房の責任者であった被告33号(イルゼ・フォルシュター)です。一人の少女がジャガイモを取りました。33号はこれを見つけて、厨房の中に連れて行きました。そこで、彼女はこの少女をひどく殴り始めました。哀れな少女はひどい状態になりました。私は堪えきれずに、厨房から走り出ました。33号は、少女を厨房から引きずり出して、死ぬまで殴り続けました。ベルゼンでは毎日発砲を目撃しました。
(弁護人ムンロ少佐の反対尋問)
Q:証人は1941年に12月ごろにアウシュヴィッツにやってきて、1941年12月24日の点呼でガス室送りに選別されたのですね。
A:正確な日付は覚えていません。クリスマスの数日前であったに違いありません。私たちはひどく殴られてたので、正確な日付を思い出すことができないだけです。足に怪我をしていた以外には、この当時はまったく健康でした。
Q:焼却棟に向かう自動車から誰かがおろされたのを見たことがありますか。
A:いいえ。
Q:ガス室にはどのくらいいたのですか。
A:ごく短時間です、1、2分でしょう。
Q:引き出されたとき、ガスのために、ひどい状態だったのですね。
A:ひどい頭痛がして、目の前が真っ暗となり、胸に重しをのせられたようでした。
Q:外に出たとき、証人を連れ出してくれた人物はガスマスクをつけていましたか。
A:わかりません。自分に何が起こったのかさえもわからない状態でした。
Q:ヘスという名のアウシュヴィッツ所長を覚えていますか。
A:名前を耳にしたことはありますが、見たことはありません。
Q:より小さな収容所のうち、どれにいたのですか。
A:ビルケナウにいました。その所長はクラマーでした。ビルケナウは、より小さなラーゲル、A、B、C、B2とジプシー収容所に分かれていました。私が知っている所長はクラマーだけです。その他の人物は知りません。
(弁護人クランフィールド大尉の反対尋問)
Q:ベルゼンで解放されたとき、飢餓による極度の衰弱状態にありましたか。
A:身元確認ができるような状態ではありませんでした。私たちはまだ若かったにもかかわらず、60か70の老婦のようで、顔にはしわがありました。
Q:もっともひどく殴られたときのことを思い出してください。誰が殴ったのですか。
A:第一厨房の責任者であった被告33号(イルゼ・フォルシュター)です。彼女はゴムの警棒で殴りました。殴られたために、頭ははれ上がり、腕と背中は青緑になりました。
Q:そのようにひどく殴られ、その人物を知っていたとすれば、そのことをなぜ、イギリスの尋問官に供述しなかったのですか。
A:そのときには名前を知りませんでしたが、写真を見せられて、彼女のことがわかったのです。
Q:今日の証言は誇張されており、真実ではないと思いますが。
Q:それを経験し、その苦難を経験した者だけがそれについて話す権利を持っているのであり、それについて何も知らない者には、権利がありません。
Q:(被告12号ヨーゼフ・クリッペルを指しながら)、この人物を見たことがありますか。
A:ベルゲン・ベルゼンの厨房で見たことがありますが、どのような職務についていたのかは知りません。そこにいなかったかもしれません。
Q:同じようなことが残りの証言にも言えるのではないでしょうか。まったく信頼できない目撃者ではないでしょうか。
A:私が目撃したこと、私が証言したのとまったく同じことを、数千の人々が証言しています。
(弁護人フィールデン大尉の反対尋問)
Q:第一厨房が閉鎖されたのちに発生したと証言している事件について、SS隊員が戻ってくる前に、周囲では発砲事件が起こっていましたか。
A:正確には申し上げられません。銃声はいつも聞こえていました。SS隊員がやってきてからは、私たちの周囲で銃声がしました。
Q:発砲が始まったとき、SS隊員は厨房からどのくらい離れていましたか。
A:厨房のごく近くにいました。彼らはまったく無差別に発砲し、厨房の関係者が殺されるとか、囚人が殺されるとかをまったく気にかけていませんでした。
Q:第一厨房にいた二人のSS隊員には身体的な欠陥がありましたか。
A:わかりません。
Q:衣服倉庫がベルゼンのどこにあったか知っていますか。
A:食糧倉庫の近く、男性区画の厨房からそんなに離れていないところです。
(弁護人ニーヴェ大尉の反対尋問)
Q:イギリス人尋問官の前で証言したとき、写真を見て、被告33号(イルゼ・フォルシュター)がわかりましたか。
A:はい。
Q:供述ではなぜ彼女のことを何も話さなかったのですか。
A:もしも、アウシュヴィッツやその他の強制収容所で経験してきたこと、そこでの苦難をすべてお話すれば、数ヶ月かかることでしょう。
Q:あなたが被告33号によって殺されたと証言している少女の国籍は何ですか。
A:ユダヤ人女性でしたが、ハンガリー人であるのか、ポーランド人であるのか、ドイツ人であるのかは知りません。
Q:この少女が死んだのを目撃したのですね。
A:はい。
Q:この少女は翌日も第一厨房で働いていたのではないでしょうか。
A:この少女が厨房で働いていたことはありません。
Q:彼女が死ぬまでにどのくらいかかりましたか。
A:被告33号は死ぬまで少女を殴り、死んでからも足蹴にしていました。そして、厨房に戻ってきて、ヒステリックに笑いました。そのあと、私たちが外に出ると、二人の男が彼女を引きずっていました。焼却棟へか、埋葬地へかは知りません。
(弁護人イェジェヨヴィツ中尉の反対尋問)
Q:アウシュヴィッツ収容所周囲の鉄条網に行くには、溝を越えなくてはならないのですね。
A:はい。
Q:囚人は簡単に溝を越えられますか。
A:簡単ではありません。収容所では、溝が鉄条網の内側にあるところもあり、外側にあるところもありました。私のいたビルケナウの区画Aでは内側にありました。
Q:アウシュヴィッツの厨房から配給地点まで食料の大鍋を運ぶとき、あなた方は、配給前に食料を手に入れようとする囚人に取り囲まれたり、群がられたりしましたか。
A:はい、囚人たちがやってきて食料をせがむことはよくありましたが、与えることは禁止されていました。彼らを引き離すのは非常に困難でした。とくに、ロシア人の少女が、小さなコップを持って、数滴のスープを盗んでいきました。
Q:女性の囚人は髪をクリップでとめていたのですか。
A:しばらくのあいだ、アーリア人女性は髪を長くしたままでしたが、その後、それを変更したので、全員がクリップでとめていました。1944年末には、アーリア人女性は髪を長くしたままでいることができるようになり、クリップでとめてはいませんでした。
Q:アウシュヴィッツやベルゼンで、ほかの囚人から食料やその他の物品を盗んだ囚人を見たことがありますか。
A:はい。
Q:配給のときに仲間の囚人が、食料を盗んで、そのことで、あなたの割り当てを奪ったとすると、あなたはブロック長にうったえて、この囚人を殴らせるようにしますか。
A:ブロック長がこの囚人をひどく殴るならば、食料なしでいることを選択します。
(法務官の反対尋問)
<法務官>:ユダヤ人には、自分のカレンダーに、特別の日があるのですか。
A:はい、ユダヤの新年です。
<法務官>:アウシュヴィッツでは何回ユダヤの新年を迎えましたか。
A:今日がいつであるのかは知りませんでした。今日が新年であるかどうか知りませんでした。私たちは、人間としてではなく、動物のように暮らしていたのです。
<法務官>:アウシュヴィッツに送られる以前、どのくらい投獄されていたのですか。
A:逮捕されたのは1940年5月19日でした。ルブリンの刑務所に1年以上いたと思います。
<法務官>:足に怪我をしたのは、アウシュヴィッツにやってきてからどのくらい立ってからですか。
A:5、6週間後のことだったと思います。
<法務官>:あなたは、イルゼ・フォルシュターが若い少女を殺害したと証言していますか、この事件は、イギリス軍がベルゼンにやってくるどのくらい前のことでしたか。
A:1ヶ月か、5、6週間前のことでしたでしょう。
<法務官>:女性がジャガイモや野菜を盗もうとして殺されてしまうような事件を、このほかに記憶していますか。
A:いいえ。
(セシリア・フロマーとアンニ・ヨナスが、宣誓した上で、選別や殴打についての証言を行ない、さまざまな被告を確認した。)
(検事バックハウス大佐の証人ドーラ・シャフランへの尋問)
A:私は22歳で、自宅はワルシャワです。ユダヤ人女性との理由で、1943年5月9日に逮捕され、マイダネクに送られました。そこで6週間すごした後、1943年6月25日にアウシュヴィッツにやってきました。そこには、6000名ほどがいました。刺青を入れられました。カポーの一人に殴られ、腕にまだその跡が残っています。ユダヤ人だとの理由で殴ったのです。ユダヤ人であるとの理由で、人々はガス室に送られ、私自身も選別を数回経験しました。クラマー、へスラー、タウバー、ドレクスラー、クライン博士、メンゲレ博士が時々参加しており、女性たちが補佐していました。
Q:被告席の中に見覚えがある人物がいますか。
A:被告1号クラマー、被告2号クライン博士、被告5号へスラー、被告6号ボルマン、被告9号グレーゼ、被告16号、被告29号、被告48号スタニスラヴァ、被告46号コッペルです。
Q:被告6号(ボルマン)を見たことがありますか。
A:1943年、アウシュヴィッツのブロック15にいたとき、作業から戻ってくるときに、作業班の一人が足をはらしてしまい、私たちについてくることができませんでした。ボルマンが犬を彼女にけしかけました。犬はアルサス犬でした。最初、ボルマンが犬をけしかけ、その犬は女囚の服にかみつきました。ボルマンはそれだけでは満足できず、犬を女囚の喉にむかわせました。私は引き返さなくてはなりませんでした。ボルマンは、自分の仕事をSS軍曹に誇らしげに自慢していました。担架が運ばれてくるのを見ましたので、まだ、彼女は生きていたと思います。ボルマンも選別に参加していました。
Q:選別はどのように行なわれましたか。
A:怪我人、衰弱した者、病人が選別されるかたちでした。実際には、選別は清算の一種でした。私はブロック25にいましたので、人々が焼却棟に連れられていくのを何回も目撃しました。夜も昼も連れられていきました。叫び声、泣き声がしました。
Q:焼却棟に連れて行かれた人々が生きて戻ってくるのを目撃したことがありますか。
A:特別作業班として焼却棟で働いていた人々には、運命を免れる特権がありました。また、父親や母親がキリスト教徒であった人々もそうでした。
Q:アウシュヴィッツにいたとき、そばで誰かが殴られるのを目撃しましたか。
A:作業班103で働いており、土や石炭を運んでいたときには、しばしば目撃しました。クラマーが人を殴っているのをしばしば目撃しましたが、何回であったのか証言できません。グレーゼがアウシュヴィッツで人を殴っているのを目撃しました。また、イギリス軍がベルゼンを解放する2週間ほど前に、収容所で少女を殴っているのを目撃しました。グレーゼは拳銃を持っていましたが、乗馬鞭を使っていました。その殴打はひどいものでした。収容所では、死にいたりさえしなければ、ひどい殴打とはみなされませんでした。
Q:その後、ベルゼンに送られたのですね。
A:1月28日、ベルゼンに到着して、ブロック28に入れられました。状況は筆舌に尽くしがたいほど悪いものでした。バラックには600−700名が収容されていました。私たちはしらみや、想像できる限りのありとあらゆる害虫で覆われて、床に横たわっていました。食料配給は、ブロック長の努力にかかっていました。ブロック長が精力的であれば、正午に4分の1カップほどのスープを手にしましたが、そうでなければ、3時ごろ手にしました。イギリス軍がやってくるまでの4週間、パンはまったく支給されませんでした。私がベルゼンにいた全期間を通じて、囚人たちが入浴したことはなく、服が交換されたこともありません。朝になると、ブロックやブロックの周辺に、数百の死体がありました。ラーゲル長が視察にやってくるときには、死体がブロックの前から片付けられましたが、ブロックの内部には死体がいっぱいでした。
Q:ベルゼンではどのような仕事をしていましたか。
A:朝3時から夜10時まで厨房で働いていましたが、それは、ベッドと少々のスープを手に入れるためでした。
Q:あなたはすでに、あなたの働いていた厨房の責任者が被告16号(カール・フランツィオー)であったと指摘しています。イギリス軍の到着の前日に何が起こったのか覚えていますか。
A:その日、SS隊員が走り去り、そして、戻ってきたとき、私がしてきた人物が、厨房の窓から発砲し、何名かの女性を射殺しました。
Q:発砲したのは彼だけですか。
A:厨房の別の側からもう一人が発砲していました。全部で約50名が殺されました。