第6日―1945年9月22日土曜日
(弁護人クランフィールド少佐の反対尋問)
Q:アウシュヴィッツの食糧事情は、ベルゼンのそれよりも良かったことに同意しますか。
A:アウシュヴィッツの食糧事情は、ベルゼンの最後の数ヶ月のそれよりもましでした。
Q:ベルゼンの最後の数ヶ月には、食糧事情は非常に悪かったのですね。
A:はい、ほとんど食料はありませんでした。
Q:アウシュヴィッツの衛生環境はベルゼンよりも良かったですか。ベルゼンの衛生環境も最後の数ヶ月に悪化したのですか。
A:はい。
Q:アウシュヴィッツには15ヶ月、ベルゼンには5ヶ月いたのですね。
A:はい。
Q:ベルゼンで解放されたとき、飢餓で極度の衰弱状態にありましたか。
A:私個人はそうではありませんでした。アウシュヴィッツTからやってきたときには、かなり良い状態でしたから。私は直接にやってきましたが、他の囚人の多くは3週間から6週間かかって移送されてきたのです。そのような状態であったので、ベルゼンで彼らに配給された食料は、私に対してよりも、はるかに悪い影響をもたらしました。さらに、私たちは医師としてはるかに良い条件の下に置かれていました。たとえば、私たちにはベッドがありましたし、洗浄設備も、数万の囚人に提供されているよりも、はるかに良いものでした。
Q:(被告12号ヨーゼフ・クリッペルを指しながら)前にいるこの人物を知っていますか。
A:いいえ。
Q:最初、どのようにして囚人病院で働くようになったのですか。
A:アウシュヴィッツで10日間過ごした後、医師は申し出るようにとの命令がありました。ブロック長が私を選んで、10日後に、病院で働くようになり、その後全期間を通じて、医師として働きました。
Q:選別を行なった医師が、選別の基準について話してくれたことがありますか。
A:いいえ。
Q:これらの選別の基準についての証言は、あなたの意見にすぎないですね。
A:はい。
Q:アウシュヴィッツでは何回殴られましたか。
A:私個人は3回です。手で顔を殴られました。メンゲレ博士に2回殴られ、クハという監督官に1回殴られました。
Q:監視員とカポーは囚人を整列させるとき、何のためであるかを話しましたか。
A:いいえ、理由について何も話しませんでした。
Q:囚人の整列はすべて、同じように、すなわち、軍隊式に隊列を作る形で行なわれたのですか。
A:はい。
Q:女囚たちに整列を命じ、隊列を組ませたのは監視員とカポーでしたか。
A:いいえ、命令は監視員、すなわち、看守長が出しており、ブロック長は点呼に責任をおっていて、彼らが隊列を組ませました。
Q:ユダヤ人だけがガス室に送られたのですか。
A:私が女性収容所にいたときには、ユダヤ人だけがガス室に送られました。ジプシー用の収容所もあり、彼らもガス室に送られたという話でした。
(弁護人ブラウン大尉の反対尋問)
Q:実際に選別を行なったのは、いつでも医師たちであったというのは本当ですか。
A:選別を行なったのは、収容所スタッフの在席のもとで、医師たちでした。
Q:整列の時にいたSS隊員がそこにいたのは、統制と監督のためだけでしたか。
A:いいえ、もし医師が見逃してしまったり、見過ごしてしまったときには、SS隊員はこの人物を医師に指し示し、この人物をひどく殴ったこともあります。
Q:SSの医師たちは、患者がどのくらいの期間、病気や衰弱に耐えることができるかどうかを示す患者のリストを作っていたことを知っていますか。
A:それについては知りません。
Q:入院患者からの選別だけは、このようなリストにもとづいて行なわれていたのではありませんか。
A:そのようなリストについては知りませんが、私は選別の場によくいました。次の日に退院予定の健康な囚人でさえも、ガス室送りの囚人と一緒に列に並ばされていました。非常に寒い朝、私の友人が毛布の切れ端を切断して、肩にかけていたところ、懲罰としてガス室に送られました。
Q:1944年5月から11月の間には、ビルケナウの病院では選別はまったく行なわれなかったのですか。
A:1944年5月、ハンガリー人が大量に移送されてきて、紅熱病が蔓延していました。7月27日、私の覚えているところでは、病気の疑いがあるにすぎず、まだ入院していない囚人全員がガス室に送られました。その日、リッツマンシュタットという強制収容所から大量の移送があり、ごく少数のチフス患者がいました。彼らは私の病院に連れてこられました。二日か三日ごとに、選別が行なわれ、彼らは連れ去られていきました。二日か三日ごとに、ガス室に向かう人々を乗せたトラックを目撃しました。1944年10月初頭、私が働いていた病院は閉鎖されました。業務を終了して、解散したのです。点呼の準備をしなくてはならなかったので、その数を正確に記憶しているのですが、359名の患者全員がトラックに乗せられ、ガス室に送られました。私は収容所Cに送られ、ここも、1週間後には廃止されました。すなわち、健康で強壮な人々の一部が、労働目的で収容所の別の区画に送られたのです。そのとき、ドレクスラーがやってきました。クラマーとグレーゼのいるところで、病人全員と一部の健康な囚人がトラックに乗せられました。トラックがブロックの前に止まったとき、囚人全員がトラックに乗せられたならば、何が起こるか理解しました。逃げ出そうとする囚人もいました。クラマー自身が彼らを捕まえて、殴り、追い立てました。囚人たちはトラックに乗り込もうとはしなかったからです。
Q:クライン博士がアウシュヴィッツにやってきたのは1943年12月15日のことですから、1943年12月1日の選別には関与することはできませんでしたね、
A:4000名がガス室に送られたとき、クライン博士とティロト博士は選別に関与していました。
Q:1944年5月から12月までのアウシュヴィッツ所長が誰であったか知っていますか。
A:ヘスであったと思いますが、私はそのときにはアウシュヴィッツにいませんでした。アウシュヴィッツの別の区画であるビルケナウにいたのです。
Q:ビルケナウの焼却棟と病院はアウシュヴィッツから直接監督されていたのですか。
A:わかりません。
Q:医師への命令は、アウシュヴィッツの医師長であるヴィッツ博士から直接出されていたのですか。
A:医師たちが、命令の出所のような秘密を私に話したことはありません。
Q:売春施設に送られた収容所の女性は自発的な志願者でしたか。
A:わかりません。これらの女性には大きな保証が与えられていたことだけを知っています。彼女たちは厚遇されており、保護され、注意深く監視されていました。
Q:点呼はドイツの強制収容所の特徴でしたか。
A:はい。
Q:クラマーがベルゼンにやってきたとき、女性収容所ではSS隊員を雇用すべきではないという厳命を出したことを知っていますか。
A:そのような命令については知りません。
Q:証人は、クライン博士が収容所の医師の代理となるためにベルゼンにやってきて、3週間滞在し、その後戻っていったと証言しましたね。この時期を除いて、クライン博士はSSの医師であったけれども、イギリス軍の到着前の2、3日間を別として、収容所の医師ではなかったのですか。
A:彼は、二番目の、収容所医師でした。最後の数日間は、医師長でした。たった一人の医師長でした。
Q:赤十字からの贈り物は囚人に配布されましたか。
A:はい。イギリス軍は収容所に入る1日前、倉庫が開けられました。そこには、ジュネーブから送られた数百の赤十字の贈り物の包みがありました。
(弁護人フィールデン大尉の反対尋問)
Q:(被告23号ワルター・オットーを示しながら)あなたは昨日、この被告を知っていると証言しましたね。
A:彼は電気技師の監督者でした。電気技師としての仕事以外に、収容所の囚人に対して権力を持ってはいなかったと思います。彼は、ベルゼンの女性収容所のブロック・フューラーではありませんでした。どこか別のところでブロック・フューラーであったかどうかは知りません。私が知っているのは、電気技師としての彼だけです。SSの序列の中でどのようなポストであったのかも証言できません。
Q:ブロック213はベルゼンのどの区画にあったのですか。
A:第一収容所の病院の近くにある女性収容所のなかです。
Q:管理スタッフが特別通行証を持たずに、ブロック213のある女性収容所に入ることは不可能であったのではないでしょうか。そうではありませんか。
A:彼らが特別通行証を持っていたかどうか知りません。
(弁護人ニーヴェ大尉の反対尋問)
Q:あなたはいくつかの選別に立ち会ったと証言しましたね。そのとき、何をしていたのですか。
A:病院で医師として働いており、その職務の点で、目撃者でした。
Q:約20ヶ月、アウシュヴィッツとベルゼンで医師として働いていたのですね。ご自分を両収容所のスタッフの一員とみなすようになりましたか。
A:はい、囚人としてです。
(弁護人フィリップス大尉の反対尋問)
Q:囚人がベルゼンに到着する様子を目撃する立場にありましたか。
A:はい。移送者が到着したときには、いつも呼ばれて、病人を病院に連れて行きました。
Q:一般的に、囚人が到着したときの健康状態はどうでしたか。
A:疲労している者も、病気の者もいました。どの収容所から送られてきたのか、どのくらいの距離を移動しなくてはならなかったのかによります。
Q:最後の月には、到着したときにはほぼ全員が病気だったのですね。
A:最後の月はそうではありませんでした。やって来た移送者は近くの収容所からであったからです。病気の者もいましたが、おおむね健康でした。1月、2月初頭に、解体されたアウシュヴィッツからの移送者が到着しました。非常に疲労していましたが、病気であるというわけではありませんでした。1月末に、ハンガリーから移送者が到着しましたが、病気の者もいました。
Q:(被告16号カール・フランツィオーを指しながら)この人物を知っていますね。名前を知っていますか。
A:名前は知りませんが、私が暮らし働いていたベルゼンの第一女性収容所の厨房の責任者でした。
Q:この人物が厨房から飛び出して、女性に発砲したと証言しましたね。どのような武器で射殺しましたか。
A:回転式拳銃でした。ほんの数ヤード離れたところから2回発砲しました。
Q:その理由はありましたか。
A:唯一の理由は、この女性が身をかがめてジャガイモの皮とその他の野菜を盗もうとしているのを目撃したことでしょう。
Q:怪我をしたあとに、この女性を診察しましたか。
A:はい、しました。死を宣告しなくてはなりませんでした。
Q:解放後に、供述を行なって、それは文書に書きとめられましたね。書きとめられた後に、あなたに対して読み上げられたのですね。
A:はい。
Q:何語で尋問されたのですか。
A:ドイツ語です。
Q:全部で何回供述しましたか。
A:3回です。
Q:この事件についてそのときなんと言ったか覚えていますか。
A:今証言したことをそのときも供述しました。
Q:最初の供述には、「イギリス軍がベルゼンにやってくる1日前、私は、調理人のカール・フランツィオーが野菜を盗もうとした件で男性の囚人に発砲したのを目撃しました。彼は死にました」とあります。この人物の名前をどのようにして知ったのですか。
A:そのときには、名前を知りませんでした。
Q:「私はこの発砲を目撃しました。医師でしたので、彼のために何ができるかすぐに見に行ったからです」とありますが。
A:この人物は女性でした。
Q:「お腹を撃たれており、死んでいることがわかりました」とあります。最初の供述を行なったとき、この男の名前をどのようにして知ったのですか。
A:この男の名前は知りませんでした。知っていたのは、彼が厨房の責任者であったということだけです。いくつかの写真を見せられて、その中からこの人物を選びました。私に写真を見せてくれた人々がこの写真の男の名前を知っており、そこに入れたのでしょう。
Q:3回供述していますが、最初の供述は5月9日ですね。最初に供述したときに、写真を見せられたのですか。もっとあとのことですか。
A:そのときではありません。この供述をしたときには、彼のことを知らなかったので、名前を口にはしませんでした。最初の供述をしたときには、すぐには署名しませんでした。もっとあとのことです。写真を見せられたとき、署名したのですが、そのときでさえも、個人的には名前を知りませんでした。
Q:供述書では男に対して発砲した人物について述べているのに、ここでは、女性に対して発砲した人物のことに触れているということを、どのように説明しますか。
A:いつも女性であったと述べてきました。男性であったというはずがありません。
Q:すべての事件は創作ではないのでしょうか。どう思われますか。
A:私の目で目撃しているのに、それが嘘であるというのでしょうか。
(弁護人ボイド大尉の反対尋問)
Q:ベルゼンの第一女性区画の病院で働いていたのですね。第二区画の病院には独自のスタッフがいたのに、第一区画の病院の監督下にあったのですか。
A:はい。
Q:(被告41号ゲルトルート・ザウラーを指しながら)、この女性は第二区画の監視員の一人でしたか。
A:はい。
Q:この女性がやってきて、第二区画の病院の医師と看護婦が8時にはまだ寝ていて、患者はまったく面倒を見てもらっていないといったのですか。
A:覚えていません。
(弁護人ムンロ少佐の反対尋問)
Q:1945年1月からイギリス軍による解放までのあいだ、囚人用の浴室はありましたか。
A:私たちが収容所の別の区画から第一区画にやってきたのは1945年1月1日でした。浴室はありましたが、非常に小さく、多くの女囚がいましたので、全員がシャワーを使うことなど問題外でした。浴室に行く幸運に恵まれたのはほんの一握りの人だけでした。ベルゼンの女性区画で、入浴のために女性が整列しているのを見たことがありません。私たちがこの新しい区画にやってきた1月15日だけが例外でした。解放軍が私たちを発見したのはこの新しい区画ででした。私が適切な整列を目撃したのはこのときのことだけでした。それ以降は、到着した移送者が浴室に向かったこともありました。ブロック長がこの整列に責任を負っていました。
(弁護人イェジェヨヴィツ中尉の反対尋問)
Q:(被告48号スタニスラワを指しながら)、この女性はスターニアというニックネームの人物ですか。
A:はい。
Q:アウシュヴィッツ収容所での彼女のポストは何でしたか。
A:ラーゲル長だった彼女のことを知っています。
Q:彼は焼却棟送りの犠牲者を選別する立場にありましたか。
A:そうは思いません。彼女は命令を受け取って、それにもとづいて行動していたと思いますが、彼女には人々を選別する権限はなかったと思います。彼女が選別に立ち会っていたのを目撃したことはありません。
Q:ドイツ人が囚人からブロック長やラーゲル長をどのように任命したのかを見たことがありますか、あるいは耳にしたことがありますか。
A:知りません。
Q:そのような任命を拒んだり、放棄したりすることが囚人たちにはできましたか。
A:彼らが強制されていたのかどうかは知りませんが、自発的な志願者ではなかったはずです。
Q:囚人たちが、ドイツ人に別の人物を任命するように強制することはできましたか。
A:いいえ。そんなことはできません。囚人たちが不満を表明する方法など、まったくなかったからです。
Q:アウシュヴィッツ収容所では秘密の救援組織が活動していたことを耳にしたことがありますか。
A:ありません。
Q:ドイツ人が拷問などを使ってこの組織を発見しようとすれば、囚人の大半は知るようになったでしょうか。
A:そうともいえません。そのような尋問を受けた囚人がブロックに戻ってきて、その話をすれば、私たちも知るようになったことでしょう。
Q:電気の通った鉄条網が、アウシュヴィッツ収容所の周囲にめぐらされていましたか。
A:はい。
Q:スタロストカがベルゼンにいたとき、ドイツ人が彼女をラーゲル長に任命したのかと尋ねた囚人はいましたか。
A:わかりませんが、スタロストカがやってきたとき、囚人の多くが、前の人物に変わって、ラーゲル長になるようにとの意志を表明しました。
Q:それは、アウシュヴィッツで彼女が自分のために作成した良い報告書を考慮してのことですか。
A:彼女をラーゲル長に任命したのは所長であり、囚人からの悪評や好評によるものではありません。
Q:収容所の視野の枠内であれば、アウシュヴィッツでは、囚人たちはエスコートなしで移動することができましたか。
A:はい。
Q:ベルゼン収容所のブロック26の囚人に出会ったことがありますか。
A:はい。
Q:どのような囚人がそこには収容されていましたか。
A:壊疽を患っている病人が占めていたこともあり、ユダヤ人だけが占めていたこともありました。しばらく、ブロック26で医師として働いていました。私がアウシュヴィッツにいた全期間を通じて、スタロストカがブロック長であったことはありません。
(検事バックハウス大佐の再尋問)
Q:これらのさまざまな整列に関して、毎日の点呼のための定期的な整列があったのですね。
A:毎日、2回です。
Q:点呼のための整列や作業班の選別のための整列は、ガス室のための選別と関連していましたか。
A:いいえ。
Q:ガス室送りの選別でクラマーとクライン両名を目撃したと証言していますが、これらの選別がガス室のための選別であり、その他の目的のための選別ではなかったとはっきりと記憶しているのですね。
A:はい。
Q:1944年5月から11月のあいだ、どれほどの選別が行なわれましたか。
A:正確な数字を申し上げることはできませんが、B3とCでは非常に多く、2日か3日に1回でした。B3とCはともにビルケナウと呼ばれ、クラマーの管轄下にありました。
Q:へスラーの管轄下にもあったのではないですか。
A:申し上げることはできません。その時期には、そうではなかったと思います。
Q:へスラーが立ち会っていた選別を目撃したことがありますか。
A:はい、ビルケナウの第一女性区画の病院でです。この選別は明らかに、ガス室のための選別でした。
Q:供述書に関して、証人は、供述書のかたちにまとめられる前に、証言をしたのですね。
A:最初の供述は私が暮らしている部屋で行なわれ、そのあとで、供述書が読み上げられました。2回目も、ブロックの私の部屋で同じ供述を行ない、3回目には、出かけていって署名しました。供述はドイツ語でした。
Q:最初の供述をした後に、写真を見せられたのですか。
A:厨房の責任者であった人物に関係する3回目のときだけでした。特別な供述でした。写真からこの人物を指摘しました。名前はまったく知りませんでした。
Q:彼の名前がどうであれ、あなたがこの人物による囚人の殺害を目撃した人物は、今日、あなたが見覚えがあると証言した人物であるのに間違いありませんね。
A:彼であることに疑問の余地はありません。
Q:供述書の翻訳がどうであれ、射殺された人物が女性であったといつの証言していたのですね。
A:それに違いありません。